名探偵コナン Side Story

キス

〜100のお題 No.50〜

written by Moonstone

「キス、ねぇ・・・。」

 ある日曜日の午後、閑静な住宅街の一角に聳(そび)える、古い洋館の佇まいの工藤邸。
柔らかな日差しが差し込むリビングで、新一は小さな溜息を吐いて読んでいた文庫本をテーブルに放り出す。
その本は新一が好んで読む推理小説ではなく、何と恋愛小説。園子が「今後の参考になるわよ」とニヤつきながら半ば押し付けるように貸した一品だ。

「ったく園子の奴、何考えてやがんだ。」

 ご丁寧にも栞(しおり)が挟んであった部分を思い返して園子の企みを察した新一は、園子に毒づく。
その部分は、主人公の男性が、想いを寄せていた女性と大樹の下で口付けを交わすというものだ。
女性と向き合いその肩をそっと掴み、暫し見詰め合った後男性の意を察した女性が目を閉じる。男性は目を閉じながら女性の唇に自分の唇を重ねる。
実際にそういう場面を見ながら執筆したのでは、と勘ぐりたくなるほど緻密且つ現実感のある描写は、新一の脳裏にしっかり焼きついている。
そしてその描写に登場する人物が、男性は新一自身、女性は蘭に意識せずとも置き換えられてしまっている。

「意識しちまうじゃねぇかよ・・・。」

 ぼやく新一は近くに置いてあった読みかけの推理小説を取って広げるが、どうしても自分と蘭のキスシーンが頭から離れない。
程なく新一は推理小説を放り出し、深い溜息を吐く。
園子の罠にまんまと嵌っちまった、と後悔してももう遅い。新一は園子が貸した小説のキスシーンの虜になってしまっている。
 今日の夕方、蘭が訪ねてくることになっている。夕食を作るためだ。
「そろそろ料理の1つや2つは覚えなさいよね」と言いつつも、楽しげに料理を作るその姿は、もう見慣れている筈だ。
だが、小説にあったキスシーンが自分と蘭に置き換えられた形で鮮明に脳裏に焼きついている今、蘭にそうしないとは100%言い切れない。
元の姿に戻って早半月。戻った時には蘭に泣かれたものの、自分の帰りを喜んでくれたことには違いない。
その日から蘭が夕食を作りに来てくれるようになった。「ちゃんと食べるものも食べなきゃ推理も出来ないわよ」と言って。
もう見慣れた筈の、幼馴染にして最も愛しき人が自宅で見せる立ち居振る舞いの1つ。だが、その過程かどこかで、自分が読んだ小説のような行動に出そうな
気がしてならない。新一の頭の中では、自分が蘭の両肩を掴んで蘭が目を閉じ、目を閉じながら徐々に蘭の顔が迫って来る様子が何度も繰り返される。
 新一は蘭とまだキスをしていない。園子からは「散々待たせたんだからお詫びのキスくらいしてあげなさいよ」と頻繁に煽られている。
その度に「キスの何がお詫びなんだよ」と返してはいるが、今日園子から借りた小説を読んで、俄かに蘭とキスしたい、という気持ちが膨らんできている。

詫びではなく、愛情表現として。

勿論、蘭が夕食を作ってくれる度に礼は言っている。だが、それは言うまでもなく愛情表現ではない。
自分が蘭に特別な感情を抱いていることを、江戸川コナンだった時代に痛切に悟った。蘭も同じ気持ちだということも。

 そろそろキスくらいしても良いだろう。此処は俺の家だし父さんも母さんも居ないし、キスには絶好のシチュエーションだ。
 ちょっと待て。キスで満足出来るのか?俺と蘭は2人きりだ。キスをきっかけに更に先へ進んじまうんじゃねぇか?

新一の頭の中でそんな葛藤が始まる。
 頭の中で激しい葛藤が続けられるうち、新一の視界がぼやけてくる。
穏やかな日差しと夜遅い傾向が強い生活リズムが重なり、眠気が前面に出てきたのだ。
かと言って、今日は起きていなければならないということはない。警視庁からの呼び出しもないし、捜索しなければならない資料もない。
宿題も済ませてあるし−新一の成績は元々優秀な部類に入る−、あとは極端な話、蘭が来るのを待つだけだ。
その蘭は家の合鍵を持っている。自分がドアを開けないといけないということはない。
 そんな幾重もの安心感が、新一の意識の中で眠気が占める割合を指数関数的に増していく。
蘭にキスで起こしてもらうのも良いな、などと思いながら、新一は膨らむ眠気に併せて目を閉じていく・・・。

 ・・・んいち。新一。・・・ん?
 ちょっと。新一ってば。蘭・・・?

 開けていく新一の視界に、蘭の顔が次第に鮮明に浮かんでくる。
ピンクのブラウスに茶色のベストとフレアスカートといういでたちの蘭は、新一が目を覚ましたのを見て、少し呆れた様子で溜息を吐く。

「おう、蘭か。」
「蘭か、じゃないわよ。幾ら暖房が効いてるからって、寝る時には何かかけないと風邪ひくわよ。」

 蘭はまずインターホンを鳴らしたのだが、何度鳴らしても応答がなかったので自分で門を開けて敷地内に入り、合鍵を使って中に入った。
まずリビングを覗いたところ新一がソファで寝入っているのを見つけて、呼び起こしたのだ。
蘭の隣には食材が詰まった袋がある。今日作る分の食材をこうして袋に詰めて持ってくるのが、蘭が新一の家を訪れる時のお決まりのスタイルだ。
 新一は身体の彼方此方を軽く動かした後、寝起きを締めるように小さく欠伸をしてから窓を見る。
眠りの世界に落ちる前には自分の足元を照らしていた窓の形の日差しは、赤みを帯びて大きく二辺を傾け、向かい側のソファを照らしている。
その日差しももう夕闇に消されようとしている。そろそろ夕食に取り掛かっても良い頃合だ。

「あー、結構寝てたんだな。」
「毎日夜遅くまで起きてるからよ。」

 蘭は、新一が元の姿にも取ってからも時間を忘れて推理に没頭したり、そのためなら膨大な資料を読みふけることも知っている。
内心では推理より私のことを考えてよね、と蘭は思っているのだが、口には出さない。
 実は蘭も、園子に新一とのキスを煽られていたりする。
同性同士だから尚更話がしやすいのもあるだろうが、園子は具体的なシチュエーションの1つとして、2人きりの新一の家を挙げている。
「新一君も蘭にキスする機会を窺ってる筈だから」と言って、食事に関することでも作っている最中、途中、済んでから、など事細かに挙げている。
「待ってばかりじゃ駄目よ。蘭からも攻めないと」と更に園子が煽ると、蘭は強引にその話を打ち切るが、その心模様がどうなのかは頬の赤みで分かる。
そうして園子に何度もキスを吹き込まれているうちに、蘭は日常の中で新一とのキスを無意識に思い浮かべるようになった。まさに刷り込まれたのだ。
現に今、蘭は新一を前に、キスの場面を思い浮かべている。

 新一が私の頭に手を回して・・・、ゆっくり引き寄せて・・・。
 私は新一に引き寄せられると同時に、自分からも新一に顔を近づけて・・・。

 夕暮れ時の工藤邸のリビングの時間は止まったままだ。

「・・・どうしたんだよ、蘭。」

 止まった時計の針を再び動かしたのは新一だった。
頭の中が新一とのキスシーンでいっぱいだった蘭は、はっと我に帰って新一との距離を開ける。

「あ、な、何でもないわ。今から晩御飯作るから。」
「おう。今日のメニューは何だ?」
「さあね。推理してみたら?探偵さん。」
「断片も何もないのに推理のしようもねぇだろ。」

 ある意味普段のやり取りに戻ったところで、蘭は袋を抱えてキッチンに走る。
視線を正反対の方向に向けた新一と蘭はそれぞれ、「チャンス逃したかな」「あのままの雰囲気だったら」と思う。
経緯は違えど園子に相手とのキスを刷り込まれた影響は、相当大きいようだ。流石は園子。策士と言うに相応しい。

 キッチンで料理に勤(いそ)しむ蘭。包丁を扱う手つきは第三者が見ても惚れ惚れする。
1cm角に切り揃えられたシメジと鶏肉、先に軽く湯通ししてやはり1cm程度に切り揃えたほうれん草を鍋で炒める。
バターの香ばしい匂いに誘われるかのように、新一がキッチンに入って来る。気配を感じたのか、蘭は炒めはそのままに顔だけ新一の方を向く。

「どうしたの?」
「ん、何か良い匂いがするな、と思ってよ。バター炒めか。」
「今は、ね。」
「この先に何かあるな。」
「冴え渡る推理の見せ所じゃなくって?」
「匂いだけじゃ分からねぇよ。」

 楽しみにしてるからな、と言ってキッチンを後にした新一は、流石に火を使ってる時はまずいよな、と思う。
一方の蘭は、新一がどうやって自分に近づいてくるかと想像して胸を高鳴らせていて、その名残がいまだ鮮明に残っている。
こういう時だと火を止めないと焦げちゃうわよね、と新一とよく似た、同時にある意味心の準備を整えてのことを考えていたりする。

料理中は、双方の事情により失敗。


 リビングに運ばれてきた料理を、新一と蘭は向かい合って食べている。何処からどう見ても仲睦まじい恋人同士だ。
新一は出来立てのグラタンに息を吹きかけながら食べる。出来立てだけあって美味いが、料理の性質上熱いので火傷しないように食べないといけない。
 こういう温かい料理が似合うようになると、冬が近いことを感じさせる。
それに、想いを寄せる相手と食事を共にするのは幸福を感じる時の1つ。江戸川コナンの時代では姉と弟という雰囲気だったため、感じられなかった幸福。
新一と蘭は、今の自分と相手が居ることの大切さと幸せと共に料理を噛み締める。

「バター炒めはグラタンの下準備だったってわけか。」
「そうよ。先に具に火を通しておかないといけないのよ。オーブンで焼く段階だと具の中にまで熱は通らないから。」
「よくこんなこと幾つも覚えられるよな。」
「回数を重ねれば出来るようになるわよ。味の方もね。新一も覚えてみたら?」
「あー、そういうの何か面倒だからパス。」
「んもう。あれだけ推理に関しては色々知ってるのに料理に関しては何も知らないんだから。覚えなきゃ、あれだけ揃ってる料理器具が無駄じゃない。」
「蘭に使ってもらってるから、良いんじゃねぇの?」
「私が病気で寝込むようなことになったらどうするのよ。」

 今度は蘭の方から、話の流れとは言え、かなり突っ込んだ形で焦点が浮上した。
私が寝込んだら新一が看病して、と頼んでいるとも取れるし、私が教えるから覚えてみない、と誘っているとも取れる。
互いを見詰め合ったまま、リビングの時間の流れが止まる。

「・・・ま、まあ、その時はその時で考えれば良いわよね。」
「そ、そうだよな。出前を取るのも1つの手だし。」

 ぎこちなく、しかも強引な形で話の流れを打ち切り、新一と蘭はやはりぎこちない笑いと共に食事を再開する。
このような場合に2人揃って思い切って深く踏み込めないのが、園子をはじめとする周囲をやきもきさせる原因の1つである。

食事中は、双方手を出しあぐんで空振り。


 後片付けが済み、蘭は空になった袋を折り畳んで脇に抱えて玄関に向かう。その後ろを新一がついて来る。
外は既に夜の帳が下りて久しい。街灯はあるが、昼間より夜間のほうが危険なことには変わりない。
それに空手を体得している蘭に襲い掛かるなど自殺行為に等しいのだが、家に送っていくくらいはしないと、と新一は思っている。

「ほら、コート。」

 先にコートを羽織っている新一は、玄関に着いたところで蘭にコートを差し出す。
蘭も勿論コートを着て来たのだが、後片付けを終えてから帰宅することが先行していて失念していたのだ。
 蘭は父小五郎と同居している。その小五郎は門限を21時に決めている。「朝帰りなんざ5年早い」というのは小五郎の言葉。
それは年頃の娘に特定の交際相手が居ること、それにその相手の家に通っているが故に生じる男親ならではのある種の嫉妬心だ。
一瞬きょとんとした蘭は、うっかりしていたことに気づいて小さく笑う。

「ありがとう。すっかり忘れてた。」
「ったく、風邪でもひいたらどうすんだよ。」
「それって、私を心配して言ってるの?」
「当たり前だろ。」

 新一がそう答えたところで、新一と蘭は見詰め合う。玄関に向かうまでに寄り添うようにしていたから、向かい合った今は互いの顔が視界の殆どを占める。
相手に吐息をかけまいと意識する分、余計に相手を意識してしまう。その分頬の赤みが増す。それを見て、相手を意識することに拍車がかかる。
好循環とも悪循環とも言い難い心理状態の展開で、新一と蘭は見詰め合ったままその場で立ち尽くしてしまう。

「・・・良いか?」

 ようやく新一が、止まっていた時間の歯車を回す。だが、その言葉は蘭の心の内角に鋭く食い込むストレートだ。

「良いって・・・。そんなこと・・・。」
「・・・。」
「聞かなくたって・・・良いじゃない。」

 途切れ途切れに言う蘭の頬は極限まで紅潮し、これ以上意識するのを避けるため、無意識に視線を僅かながら新一の瞳から逸らしている。
このまま新一の瞳を見つめていると、何もかも許してしまいそうな、そんな気がするからだ。
 新一の両手がゆっくり動き、やや俯き加減だった蘭の肩を掴む。それで蘭は再び新一を見つめ、自分の両手を新一の腕にかける。
その拍子に受け取ったコートが床に落ちてしまうが、もはや今の新一と蘭の気に留まるものではない。
新一が息を呑んで意を決し、蘭を少しずつ近づける。蘭はその動きに逆らわずに身を寄せて背伸びをし、目を閉じる。
自分の胸の鼓動を感じながら、同じく目を閉じた新一は蘭を引き寄せ、蘭は新一の腕にかけた手に力を込め、距離を縮めていく。

2つの唇が、そっと触れ合う。

「工藤く・・・。」

 割り込んできた声で、蘭の肩をしっかり抱き寄せていた新一の手の力が抜け、新一に完全に身を委ねていた蘭の意識が鮮明になる。
玄関先で棒立ちになっているのは、コートを着た志保。その手からバラバラと書類が零れ落ちる。

「・・・頼まれた資料を持って来たんだけど・・・、お呼びじゃなかったようね・・・。」

 暫しの沈黙の後、志保は表情をそのままに、ゆっくりドアを閉める。
志保は今も阿笠の家に住んでいる。工藤邸の隣だから行き来も容易だ。しかし、鍵を開けないと入れないのは言うまでもない。
 今日この日に限って、蘭は玄関の鍵をかけ忘れていた。
新一に別件の資料の精査を依頼されて工藤邸を訪ねた志保が、ドアの鍵が開いているのを怪訝に思いながら開けたのだ。
パタン、と音を立てて閉まった玄関のドアを、新一と蘭は呆然と見つめる。

「・・・ちょ、ちょっと待て!宮野!」

 ようやく思考回路が正常に戻った新一は、何時になく慌てふためいて玄関から飛び出していく。
よりによってキスの現場を目の当たりにしたのは志保だ。志保が自分と蘭との情報を探っているという話を、以前新一は聞いたことがある。
だとすれば、先ほどの場面は尾ひれに手足をつけてばら撒くにはうってつけの場面。志保がほくそ笑む様子は新一には容易に想像出来る。
 新一が駆け出していって1人残された蘭は、唇に手をやって先程まで浸っていた時間と感触を思い返す。
キスの場面を見られたのは予想外だが、それに伴う恥ずかしさや照れくささを幸福感が上回る。
蘭の口元に微かな笑みが浮かぶ。幸福が生み出す柔らかい笑みが。

事態の隠蔽を依頼する新一と情報公開をちらつかせる志保の間で示談が行われたというが、定かではない・・・。


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