名探偵コナン Side Story
真夜中に…
〜100のお題 No.35〜
written by Moonstone
古今餅をつく兎に例えられる模様も見える満月が闇夜を照らす。米花町の住宅街は静まり返っている。
家々の明かりも殆どが消えた午前2時。阿笠邸の地下にある灰原哀の研究室。
ドアに「Sherry's Laboratory」とイタリック文字で刻印されたプレートが掲げられているその部屋で、その部屋の主である灰原がCRTに向かっていた。
視線は分子構造を3次元立体表示するウィンドウに向けられ、両手はキーボードとマウスをせわしなく操作している。
かつて自分も属していた黒の組織が壊滅したのに伴い、自分が創り出した毒薬「APTX4869」の構成データを入手した。
その構成データを解析して解毒剤を作るため、灰原は学校以外は1日の大半をこの部屋で過ごしている。
複雑な化学合成の結果生み出されたAPTX4869の解毒剤を作るには、その構成データを入念に解析する必要がある。
そうしないと解毒剤を作ったつもりが何の効果も持たなかったり、逆に現在の薬効成分と衝突して最悪の場合生命の危機に陥る可能性もある。
自分だけなら別に構わない。本来なら組織に歯向かった者として粛清される運命にあったのだから。
だが、自分が創り出した薬で組織に抹殺されかけ、動物実験の段階で稀に生じた幼児化を体現した新一に、そのようなことが起きることだけは何としても
避けなければならない。彼には彼が最も会いたい、最も彼の帰りを待っている女性(ひと)が居るのだから。
ウィンドウの一角にある入力項目が全て埋められ、マウスカーソルが「Analysis」のボタンに重なる。
マウスを覆う灰原の右手の人差し指がマウスの左ボタンをダブルクリックすると、ウィンドウに表示されていた立体の分子構造が複雑に動き始める。
灰原が実行したのはサンプルとして入力したデータに基づく、APTX4869の分子構造の変化の解析。この結果に基づいて解毒薬のプロトタイプを作り、動物実験を
何度か重ねた上で効果を確認し、効果が確認出来た時点でいよいよ本物を作成して臨床試験を行う。
通常の薬品なら何度かの臨床試験の結果を役所に提出して、審査を経た上で製造や販売の認可が下りるのだが、今回は臨床試験が即実用となる。
その臨床試験は自分にする、と灰原は決めている。言い換えれば自分が実験台になるということだ。
それで万が一害があって命を落としたとしても、予め阿笠に製薬会社へ開発の継続を依頼しておけば良い。
そうすれば、彼−新一の元には何れ効果が確実な解毒薬が手渡されるだろう。
本来なら死ぬ筈だった自分が生き長らえた。本来なら抹殺される筈だった彼は不本意な形で生き延び、結果彼の最愛の女性に辛く悲しい時間を齎してしまった。
これでその償いになるのかどうかは分からないが、彼が元の暮らしに戻れるのならそれで良い。灰原はそう思う。
ウィンドウのコンソール部分には「Now analysing...」と表示されている。その隣には終了までの時間があり、5時間40分後となっている。
時計は2時半を過ぎている。それから考えると、解析終了は8時以降となる。
元々夜行性を自認する灰原は、そろそろ寝ようか、と思う。
解析途中でエラーが出てもあくまでPC内部でのこと。コンソールにエラーが羅列され、それをクリックすればその時点での解析状況が分かる。
それを元に新たなサンプルデータを作成して入力し、解析を行う。この繰り返しだ。
単調で膨大な時間を要する作業だが、灰原にとってはごく当たり前のことだ。
灰原は小さな溜息を吐いてPCの前から離れ、部屋の電気を消してドアを開けて外に出る。
研究室は地下にあるが自室は2階にある。通路を歩きながら、長時間座っていたが故の肩の凝りや背筋の硬直を払い除ける。
一定の間隔で灯る電灯に照らされる通路を歩き、灰原はほぼ半日ぶりとなる地上での生活に向かう・・・。
リビングなどがある1階は、全ての照明が消えている。だが、ライトなしでもそれなりに見える程度の明るさはある。
その原因は窓から差し込む満月の光。月明かりで本を読んだという人物も居ると言うが、満月の光は思いの他明るいものだ。
勿論それは蛍光灯やネオンには遠く及ばない。だが、それらが消えたところではその意外な明るさがよく分かる。
灰原は寝る前に風呂に入ろうと思い、リビングの方へ向かう。浴室はリビングの奥にあるからだ。
満月の明かりが照らす静かなリビングを歩いていくと、灰原は窓の形の光に人影があることに気付く。
過去の忌まわしい記憶故に、灰原は表情を硬くして反射的にその影の方を向く。窓の傍には間違いなく人の姿がある。
逆光で顔は見えないが、その背丈や影の形を見て、灰原は警戒心を解く。その顔には呆れが篭ったか微かな笑みが浮かぶ。
「人の家に無断で上がりこむのも仕事のうちなの?探偵さん。」
「前もって博士に言ってあるに決まってんだろ。」
影の主が灰原の問いに答える。
「今日が休み前だからって、夕食の時以外ずっとモグラになってたオメーが知らなかっただけだよ。」
「あらそう。で、何の用なの?子どもは寝る時間よ。」
「ちょっとオメーと話がしたくてよ。どうせ夜行性のオメーなら多少遅くなっても大して影響ねぇだろ?」
「そうね。折角だから貴方の暇潰しに付き合ってあげるわ。降りてきなさいよ。」
皮肉交じりに灰原が促すと、影の主は不敵な笑みを浮かべて飛び降りる。
吹き抜けになっている2階壁伝いの通路の柵から飛び降りるのは、かなりの勇気と身軽さを要求されるが、影の主は難なく降り立ち、背筋を伸ばす。
身長と不釣合いな大きさの黒ぶちの眼鏡。その奥にある瞳。闇に浮かぶその姿は灰原もよく知る、否、知らない筈がない人物のもの。
「お茶を入れるから、此処で待ってて。」
「ああ。」
背中合わせになる形で影の主はリビングのソファに、灰原は隣接するダイニングに向かう。
程なくリビングにやや光量を落とした明かりが灯る。ソファに座した影の主の全容が露になる。
「話って何?」
自身が入れた紅茶を一口啜ってカップを置いた灰原が、向かいに座る人物に尋ねる。
唐突な感は否めないが、それが灰原特有のものだと知っている人物は、顔色を変えずに口を開く。
「解毒薬の作り具合を聞きたくてよ。」
人物−江戸川コナンの答えはこれまた率直だ。
「前に話したとおり。サンプルデータを入力して解析。その結果を元にサンプルデータを作り直す。この繰り返しよ。」
「随分時間がかかってるな。」
「新薬の開発に時間がかかることくらい、貴方なら百も承知でしょ?」
「まあな。サンプルデータを入力して解析を開始して寝るところだった、ってわけか。」
「ええ。終了予定時刻は今日の8時。その間寝ておいても悪くはないと思ってね。貴方みたいに夜中に血生臭いミステリーを読み漁る趣味はないから。」
「血生臭いっつーのは余計だ。」
コナンは灰原の皮肉に少し顔を顰めるが、当の灰原は何食わぬ顔で紅茶を口にする。
幼児化している今でも探偵を自認するコナンも口では負けない自信はあるのだが、灰原はそれを凌駕する。
呆気なくかわされたと思ったら、逆に痛烈な一撃を見舞って来たりもする。
本当に掴みどころのない奴だ、と思いつつ、コナンは紅茶を啜る。砂糖もなければミルクもない、入れた人物を象徴するかのような味気なさとも言える味だ。
「・・・オメー、どうするんだ?この先。」
暫しの沈黙の後、今度はコナンが切り出す。
「俺は工藤新一に戻るけどさ。オメーはこのまま博士と一緒に暮らすのか?」
「さあ。どうかしらね。」
重要事項でありながら他人事のようにしれっと言ってのける灰原に、コナンは肩透かしを食らう。
コナンを他所に悠然と紅茶を飲み、灰原はカップを置く。姿は小学生だが、雰囲気は間違いなく心理的な余裕が十分にある大人のそれだ。
「何時までも博士のお荷物になるわけにも行かないから、何処かへ行くかもね。アメリカに行くのも良いし。」
「18歳だったら高校に編入するって手もあるんじゃねぇか?」
「あら。私が何時18歳って言った?」
「前にオメー自身が言ったじゃねぇかよ。」
「言ったかもしれないけど断定はしていないつもりよ。それとも私が18歳だっていう証拠はあるの?」
「・・・否、ねぇけど。」
「だったら、根拠のないことを基礎にした仮定を提示しないことね。」
とどめを刺してコナンの仮定話を封じ、灰原は窓を見る。
何処か遠くを見るような愁いを帯びたその横顔は、冷徹というより神秘的でさえある。
灰原の心を察したコナンは、準備を兼ねて紅茶で口を軽く潤す。
「誰にも知られねぇうちに何処か遠くへ行く腹積もりなら、止めとけよ。」
コナンの言葉に、灰原は顔の向きはそのままに視線だけコナンの方に向ける。
「俺が江戸川コナンになってオメーが灰原哀になった間に知り合った奴らに、何も残さずにある日いきなり消えるなんて、勝手なことするなよ。」
「・・・それって・・・、小嶋君と吉田さんと円谷君のこと?」
「ああ。」
灰原が視線だけでなく、顔も自分の方を向けたのを見て、コナンは静かに言葉を紡ぐ。
「あいつらとは色々な時間を過ごして来たんだ。元太も歩美ちゃんも光彦は俺達を受け入れてくれて、小学1年生の生活を一緒に楽しんでくれたんだ。
そりゃあ時には危険な目に遭ったりもしたけど、あいつらの心に俺と灰原の面影と足跡は確かに刻まれてるんだ。なのにある日いきなり消えちまったら、
あいつらは、あの時間や俺と灰原は何だったんだ、って疑問だけ抱いて生きていかなきゃならない。それはあいつらへの最も手酷い裏切りだ。」
「・・・。」
「あいつらに俺達が小さくなった理由とかを全部話すとなりゃあ、1日じゃすまないだろう。風邪薬や頭痛薬ならまだしも、人を幼児化させる薬なんて
想像もつかないだろうし、好奇心旺盛のあいつらのことだ。APTX4869がどんなものか、色々聞いてくるだろう。分かるように説明するには尚更時間が
かかるだろうけど、俺達があいつらと一緒の時間を過ごすきっかけになったあの薬の説明抜きに、あいつらへの説明は語れない。だけど、どれだけ時間が
かかっても、あいつらが納得するまで話す責任が、俺と灰原にはある。」
「・・・話しても、江戸川コナンと灰原哀が居なくなる事実は変わらないでしょう?」
灰原は1つの疑問を口にする。今までの余裕溢れる表情とは違い、切実なものを感じさせる。
「完成した解毒薬を服用すれば、貴方は工藤新一に戻る。私は宮野志保に戻る。その事実は変えられない。つまり、江戸川コナンと灰原哀という存在が
この世から消えることには違いないでしょう?理由を全て話して、私達のことは思い出として心の何処かに仕舞っておいて、とでも言えば、それであの子達が、
はいそうですか、って納得するとでも思ってるの?転校するわけじゃない。海外に移住するわけじゃない。江戸川コナンと灰原哀という存在そのものが、
あの子達の手が絶対に届かないところへ消えてしまうのよ?それがあの子達に耐えられると思ってるの?」
「・・・。」
「別れが辛いからこそ・・・、ある日いきなり消えた方が良いものなのよ。」
一気に心中を吐き出した灰原は、締めくくりの後小さな溜息を吐く。安堵では決してない、悲しみが篭った溜息を。
灰原がある日いきなり消える心積もりなのは、言ったとおり少年探偵団の面々−元太と歩美と光彦との別れが辛いからだ。
灰原が特に気に病んでいるのは歩美と光彦だ。灰原にとって2人はそれぞれ特段の事情や思いがある。
歩美は同じ年頃の女子の中で自分に友達として接してくれる希少な存在だ。頑なに閉ざされていた灰原の心の扉を開いたのは歩美の力が大きい。
今でも歩美とは気軽に話が出来る。歩美が好奇心旺盛なため時に時間をかけた解説が必要な時もあるが、それを苦痛に感じたことはない。
疑問が解けたことで歩美が浮かべる晴れやかな表情を見るうちに、目的だけに邁進すれば良いと思っていた灰原の信念が様変わりしたのも事実だ。
そして、光彦。彼が自分に向ける視線や心が特別なものであることは、灰原は前々から気付いていた。
一方で歩美にもそれらを向けているから、どちらかにして、と言いたくなるが、それは光彦に恋愛の成否は別としてそれだけの思い入れがあるということだ。
灰原哀という存在が記憶でしか残らないものになってしまう。そんなことに歩美や光彦が耐えられるとは思えない。
後ろ髪を引かれる思いでさよならを言うくらいなら、さよならを言う間もなく消えてしまった方が後腐れがなくて良い。それが灰原の考えなのだ。
「・・・終わりは始まりでもある、って言わねぇか?」
微かに潤んでいる灰原の瞳を見ながら、コナンはやはり静かな口調で言う。
「確かに解毒剤を飲んだら、俺と灰原はこの世から消える。だけど、それであいつらとの絆が何もかも消えるわけじゃない。江戸川コナンと灰原哀って
いう存在でのあいつらとの絆の終わりは、工藤新一と宮野志保っていう存在での絆の始まりでもある。全て話してから元に戻れば、そういう形でまた新たな
絆と時間が始まる。いきなり消えちまったら、一方的に絆も時間も断ち切った上にあいつらはその後どうにもしようがない。疑問だけしか残らない。」
「・・・。」
「俺だって、江戸川コナンとしてのあいつらとの付き合いが終わっちまうのは辛いさ。だけどよ。それを超えないである日いきなり俺とオメーが消えちまって、
俺とオメーは工藤新一と宮野志保として何事もなかったかのように別の暮らしを始める・・・。その方がよっぽどあいつらにとって無責任で残酷だと思うぜ?」
「・・・。」
「説明責任って言葉があんだろ?科学者のオメーなら知ってる筈だ。それは人間関係でも変わらねぇ。俺はそう思ってる。」
コナンは湯気が消えて久しい残りの紅茶を飲み干す。灰原は飲み干さないまでも、今までより大きくカップを傾ける。
「蘭さんに秘密にして日々悲しませてる貴方の口から、説明責任なんてたいそうな言葉が出てくるとは思わなかったわ。」
「オメーなぁ・・・。」
「だけど、貴方の言うとおりかもね。いきなり消えてしまったら永遠に消えない疑問しか残さない。・・・皆にはそんな思いをさせたくない。」
灰原の脳裏に、「大丈夫だから」を最後に自殺という報道でその後の消息を知った姉明美の面影が浮かんでいる。
あの時姉は、自分を組織から切り離すために動いていた。しかし、組織はその思いを姉の命と共に奪った。
少年探偵団の仲間達にはあんな辛い思いを味わわせたくない。そんな気持ちが灰原の心に募ってくる。
「解毒薬が完成するまでにはまだ時間がかかるわ。それまでに考えておくのも悪くはないわね。」
「そうしな。」
「貴方も蘭さんへの説明責任を果たすことを忘れないことね。ま、それで血を見る事態になったら、治療薬くらいは用意してあげるわ。骨折や臓器損傷までは
面倒見切れないけど。」
「オメーって奴は・・・。」
「あら。何か違うところでもある?」
不敵な笑みを浮かべての灰原の問いに、コナンは何も言い返せない。
コナンが工藤新一だったと分かれば、以前一緒に風呂に入ったこともある蘭から血の洗礼を受けることも予想される。
コナンが最も恐れているのはそれなのだが、灰原に面と向かって言われたことで、悩みや恐怖といったものがより現実味を帯びる。
照れと怒りで顔を真っ赤にした蘭が攻撃の構えを見せる様子を思い浮かべるコナンを見て灰原はくすっと笑い、カップを空にしてから外を見る。
満月の光はまだ窓から差し込んでいるが、壁に出来た窓の陰の傾きがかなり変わっている。夜の時間の流れを感じさせる。
何時か来る灰原哀と江戸川コナンとの別れの日を思い浮かべながら、灰原は窓に浮かぶ満月に見入る・・・。
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