名探偵コナン Side Story
高校2年生
〜100のお題 No.5〜
written by Moonstone
厳しい日差しが燦々と照りつける季節を騒々しく演出する蝉の声が、ツクツクボウシの鳴き声に代わってきた。
暦の上では残暑と言われる時期になったとは言え、まだまだ暑さは続く。屋内、特に都会ではもはや空調が欠かせないと言えるだろう。
この時期、社会人も一時期だが夏休みを取って行楽地に赴いたり故郷に帰省したりする。TVなどでのUターンラッシュの光景もこの時期恒例のものだ。
学生は一月以上に及ぶ夏休みがある。しかし、現実には夏期講習やら塾やらで、完全に休みとはいかない。学校と言う名のものに入ると以降、社会人としての
役割を終えるまで完全に休みとはなかなかいかないものだ。忙しない現代社会。心を落ち着ける時間が必要だと頓(とみ)に思う。
昼も3時を過ぎて、窓からカーテン越しに差し込む日差しがかなり西に傾いている。
空調の効いたリビングのソファで、赤みがかった茶色の髪をショートのボブに整えた女性が、愛読のファッション雑誌を広げている。
彼女との暮らしも早いものでもう10年が経つ。雨の中、私の家の前で倒れていたところを助けた時の彼女は、小学1年生の身体だった。
10年前なら身体の成長があって当然だ、というのがごく普通の認識だろう。しかし、彼女の場合は身体だけが幼児化したものだった。
自分の姉を殺害した組織に反抗し、粛清されるために投獄された際に死ぬつもりで服薬した、皮肉にも彼女自身が開発したAPTX4869なる薬品によるものだ。
組織を抜け出した彼女は名前と身分を偽り、小学1年生として過ごす一方、同じく自分が開発したAPTX4869で抹殺される筈だった、これまた幼児化した
私の隣に住む青年と共に決死の覚悟で組織に挑み、組織の壊滅と追い求めていたAPTX4869の構成データを勝ち取った。
その構成データを基に解毒薬を開発し、自らを最初の実験台として解毒に成功し、彼女は元の姿を取り戻した。
元の姿は18歳の女性。本当の名前は宮野志保。小学1年生の灰原哀という偽りの名前を身分を捨てることに、彼女は1つの問題で躊躇した。
悩みや苦しみといったものを自分独りで抱え込むことを常とする彼女らしく、彼女は独り悩み、最初は誰にも告げずにこの家から立ち去る決意を固めた。
しかし、彼女が悩む問題を形成する要因となった人物−勿論当人に何の責任もないが、その人物に本当の姿と名前を明かし、全てが偽りだったことを告げた
彼女を前にして力強くこう言ったことで、彼女の決意は根底から崩れ去った。
僕は立派な男性になって、何時か志保さんを迎えに行きます!
だから志保さんは、その時まで待っていてください!
以後、彼女−志保君は私の家に留まって、隣に住む青年が呼称したことから定着した「志保ラボ」なる自身の研究室で薬学研究を続けることを決意した。
闇の勢力に関与していたとは言え、物心ついたときからアメリカに留学させられて学士号を得ていた志保君には、大学や研究所からの勧誘が今も舞い込んでいる。
だが、志保君は「組織の枠に嵌められるのは御免だから」という理由1つで全て断っている。
大学や研究所が準備している待遇は申し分ない。大学なら教授、研究所なら研究室長が志保君の力量を以ってすれば確実に手に届くだろう。
しかし、志保君は一貫して断り続けて、「志保ラボ」での独自の研究を続けている。そして幾つもの論文発表や成果を挙げている。
志保君が元の姿を取り戻して少ししてから、私は初恋の相手と結婚した。私と妻は志保君に何度か結婚話を持ちかけた。
しかし、志保君はこれまた悉く拒絶してきた。妙齢の上に容姿は申し分ない。幾分人当たりが強いところはあるが、根は素直だ。
志保君は恋愛や結婚には興味がない、という理由で却下し続けてきた。日々薬学研究に没頭していたところから、研究一筋で生きるつもりなのかと思っていた。
しかし、その認識は年月を重ねる毎に間違いであることが明らかになった。だから、私と妻は志保君に結婚話を持ちかけるのを止めた。
ドアチャイムが鳴る。キッチンでお茶の準備をしていた妻が出ようとすると、志保君が読んでいた雑誌を伏せてテーブルに置き、小走りで玄関へ向かう。
ほぼ毎日、このくらいの時間にドアチャイムを鳴らす来訪者が誰なのかは私と妻も知っているし、志保君は最も良く知っているし、待ち焦がれている。
普段感情や表情を殆ど表に出さない志保君が、明らかに弾んだ表情を見せるのは決まってこの時だ。
否、特定の来訪者を迎える時と言った方が的確か。
何れにせよ、普段だと大抵の来訪者の場合は最低限の挨拶をしてそそくさと席を外す志保君が、率先して応対に出るのはこの時間に訪れる来訪者を迎える時だ。
感情を抑え込み、ともすれば冷たい印象を与えかねない−志保君自身は気にも留めないようだが−志保君にとって、この時間の来訪者の存在は大きいものだ。
志保君がこの家に留まっているのも、決して十分とは言えない研究設備の「志保ラボ」で1人研究を続けているのも、来訪者と離れたくないためだ。
志保君自身が口にしたことはないが、私も妻も、隣に住む青年とその奥さんとなった幼馴染も分かっている。
「こんにちは。」
「いらっしゃい。さ、上がって。」
「お邪魔します。」
何時もの短い、しかし親愛が篭ったやり取りの後、リビングに志保君と制服姿の青年が入ってくる。
女性としては背が高い方と言える志保君を頭1つ分追い越した背丈の青年は、手土産に米花堂のケーキを持っている。こうした気配りは彼ならではだ。
リビングのソファに、志保君と青年は並んで腰掛ける。最初の頃は向かい合っていたのだが、あれは彼の身長が志保君を追い越した頃だろうか。その頃から
並んで座るようになった。志保君から誘ってのことだ。
当初は緊張のあまりガチガチになっていることが傍目にもよく分かった彼だが、今ではごく自然に志保君の隣に座っている。
妻がリビングにお茶を運んでいく。妻がお茶の用意をしていたのは、彼が来るのを見越してのこと。それだけ彼の来訪は日常の一部となっているということでもある。
お茶を出したら私と妻はリビングに隣接する客間に移動する。2人の時間を邪魔するのは野暮というものだ。
それにしても、本当に彼は著しく成長したものだ。博識で好奇心旺盛な小学生時代が遠い昔のように思うのは、歳のせいだけではないだろう・・・。
「今日は、これを持って来ました。」
そう前置きして、彼は洒落たデザインの箱を開ける。中にはレアチーズケーキが2つ入っている。彼はそれを取り出し、博士の奥さんが紅茶と一緒に持ってきて
くれた皿に移す。私の好物の1つ、米花堂のレアチーズケーキ。洋菓子専門の米花堂はどれも人気が高い。ケーキの中ではレアチーズケーキが一二を争う。
彼は、今日のためにわざわざ買って来てくれたんだろう。1日の数量が限定されている人気商品だから、早めに並ばないと売切れてしまう。
「紅茶にもよく合いますよね、米花堂のケーキは。」
「ええ。ありがとう。光彦君。」
彼−円谷光彦君は、私の謝意にはにかんだ笑顔を浮かべる。それにつられるように、私の表情も緩むのが分かる。
10年前、組織を壊滅させてAPTX4869の構造データを入手し、開発した解毒薬を自分が実験台になることでその効果を立証した。
そして、そのまま博士の家から、この家から出て行くつもりだった。偽りの存在だった灰原哀という存在が消滅した以上、私が此処に留まる理由はないと思って。
だけど、私が立ち去ることを博士から聞いたという光彦君が博士の家に飛び込んできて、荒れる呼吸に構わずに私に面と向かって言った。
僕は立派な男性になって、何時か志保さんを迎えに行きます!
だから志保さんは、その時まで待っていてください!
偽りの存在として共に過ごした、全てにおいて嘘で固めていた私を一言も責めることなく、光彦君は私を、宮野志保に戻った私を受け入れてくれると言ってくれた。
その気持ちがただ嬉しかった。嘘に塗れたこの私を受け入れると言ってくれた、その純粋な気持ちが。
その時、私は18歳。光彦君は7歳。11歳の年齢差は光彦君の年齢が重なるに連れて重く圧し掛かると思っていた。
歩美ちゃんは勿論、他の同年齢もそれぞれ成長していく。それと共に同じ「子ども」から「男性」と「女性」へと明確に分かれていく時期が訪れる。
女性として魅力が増す一方の女の子に対し、私は年齢を重ねて徐々に衰えていく。肉体的にも、魅力の面でも。だから光彦君は私から離れていく、と。
だけど、それは私の勝手な思い込みだった。
子どもだった光彦君は、成長して男性になっていっても、私への気持ちを変えることはなかった。
小学生の頃は平均的な身長だった光彦君は、中学校でバスケットボールを始めたのを契機に、急速に身長を伸ばした。
「文武両道が僕のモットーですから」と笑って言った光彦君は、男性としての魅力を日増しに強めていった。
バスケットボールでレギュラーを獲得する一方で、勉強にも熱心に取り組んだ。組織に関わったことで殺人幇助(ほうじょ:「支援」の法律用語)に問われた私を無罪
放免に導いてくれた、私が開発したAPTX4869で抹殺される筈だった、今は工藤君の妻となっている蘭さんのお母さんのような立派な弁護士になるために、と。
司法試験合格は並大抵のものじゃない。だけど、光彦君は蘭さんのお母さんのアドバイスも受けて、着実に夢を実現させようとしている。
前に蘭さんのお母さん−英理さんと会った時に光彦君の話が出て、英理さんは「良い線行ってる」と言った。
その名を全国的なものにしている現役の弁護士である英理さんが称賛するのは相応の実力がある証拠、と工藤君が言っていた。
「今日も学校の夏期講習だったんでしょ?」
「はい。午前が英語で午後は政治経済でした。」
「夏休みでも部活はあるし、夏期講習もあるんじゃ、休んでられないわね。」
「部活も勉強も、今出来ることを精一杯やっておきたいですから。そうすれば少なくとも後悔することはない筈です。」
「そうよね。光彦君のそういうひたむきさに、多くの女性が虜にされるんでしょうね。」
「そんなことないですよ。」
謙遜する光彦君。だけど、歩美ちゃんを通じても、光彦君の学校での様子は聞いている。
モットーとする文武両道の理想形を絵に描いたような光彦君は、当然のことながら学校では女子にモテモテ。バレンタインデーでは下校時にチョコを詰め込んだ
手提げ袋を両手にぶら下げるのが毎年の恒例。食いしん坊は相変わらずの小嶋君でなくても羨むのは当然。
私が編入して卒業した帝丹高校に進学してからもバスケットボールではレギュラーを獲得して、成績は常にトップクラス。まさに文武両道のお手本。
声変わりもして背丈はすっかり私を追い越したけど、私への気持ちは変えずにいてくれる。
30代が迫った私に工藤君は「ボヤボヤしてると光彦は他所の女に寝返っちまうぞ」と度々茶化すけど、光彦君はあの時の言葉を守ってくれると信じている。
信じる・・・。今まで私が最も忘れていた、大切なこと。
それを教えてくれたのは、あの時私が膝を曲げないと視線を平行に出来なかった、今は座ってようやく私と視線を平行に出来る光彦君。
夏休みでも部活に勉強にと忙しい中、光彦君は殆ど毎日、決まった時間にこの家を訪ねてきてくれる。それを楽しみにしている私が居る。
これも、信じるということを光彦君に教えてもらったからこそ感じられる幸せの1つ。
以前「光彦の奴、よくまあ10年もオメーみたいな性悪女を想い続けてられるよな〜」と茶化した工藤君には、蘭さんを介して痺れ薬を盛ってやったけどね。クス。
「・・・留学の話が来てるって聞いたんだけど。」
気になっていたけど言い出せなかったことを、ようやく言う。
成績優秀な光彦君に学校から留学の話が持ちかけられている、とこの前歩美ちゃんから聞いた。
候補として挙げられているのは、ハーバード大学とオックスフォード大学。何れも言わずと知れた名門大学。
光彦君にアドバイスしている英理さんも高校時代に成績が優秀だったから、ハーバード大学留学を勧められたと蘭さんから聞いたことがある。
大学在学中の司法試験合格も夢じゃない、とその英理さんが太鼓判を押すほどの光彦君になら、留学話を持ちかけたくもなるだろう。
でも、光彦君が留学したら当然、私との間には大きな物理的距離が出来てしまう。幾ら飛行機があると言っても、何時間もかかる長旅になることには違いない。
物理的距離が心理的距離を生む要因となりやすいのは事実。工藤君と蘭さんは特別というか例外というか、そういう類のものだと考えた方が自然。
だけど、私に光彦君の将来を決定する権利なんてない。光彦君の更なる飛躍のためには留学も選択肢に含めるべきかもしれない。
頭ではそう理解出来るつもりだけど、心の内では「行かないで」と言いたい自分が居るのも事実。
「はい。担任の先生から聞きました。先生は是非に、という姿勢でした。」
「光彦君は・・・どうするの?」
「僕は日本の大学に進学します。先生にもそう伝えました。」
恐る恐るでの私の質問に、光彦君は即答する。同じく恐る恐る見た−何時の間にか視線を伏していた−その顔には迷いや未練は全くない。
「大学のブランドより立派な弁護士になることが大切なんです。そのためには、司法試験を突破することが先決です。ですから留学は僕の眼中にありません。」
「光彦君・・・。」
「志保さんが待ちくたびれてしまわないうちに、弁護士になって修練を積みたいんです。約束は・・・守りますから。絶対に。」
力強く言い切った光彦君に、待ちくたびれたりしないわよ、とは言えない。言葉が胸に詰まって涙が溢れそうになるから。
10年で身長で私を追い越して、男性として魅力を増している一方で、愚直なまでに私への約束を忘れないで居てくれる。そんな彼が愛しくてたまらない。
私は光彦君の肩に身体を委ねる。光彦君とこうして肩を寄せ合える時間が心地良い。限られたこの時間に光彦君が私を迎えに来てくれる時を重ね合わせる・・・。
「お邪魔しました。」
「ええ。明日も・・・来てくれる?」
「はい。部活が終わったら直ぐ来ます。」
「待ってるわね。」
玄関先で短い、しかし名残惜しげなやり取りが交わされた後、志保君がリビングに戻ってくる。
日は大きく西に傾き、夕闇が迫りつつある。昼の時間が日に日に短くなっているのが最近つぶさに感じ取れる。
季節は巡り巡る。その中で人の成長や出会い、別れは分け隔てなく過去へと変えて追いやられる。
時は流れても変わらないものはある。そう信じたいものが1つ、この家に居る1人の女性が育んでいる。
その思いはきっと報われるぞ、志保君。志保君と光彦君が今の気持ちを忘れない限り。10年前の約束を守る意志を貫徹する限りきっと、な・・・。
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