カードキャプターさくら Side Story
譬え背丈は違えども
Page 7 夏空の下の二人の秘め事
written by Moonstone
約1ヵ月半にも及ぶ夏休み。
本来なら学生は宿題という厄介な代物を除いては、海へ山へ繰り出したり、燦々と降り注ぐ陽射しの下で真っ黒に日焼けするまで遊んだり、
家で冷えた食べ物や飲み物を食して涼を味わったりする楽しく短い、そして貴重な時間でもある。
しかし、利佳はこの時間がとてつもなく長く、そして苦しいものに感じる。
夏休みも終盤に入った今、利佳は既に宿題を全て終わらせている。両親に連れられて海に行った。夏祭りにも行った。
勿論それらが楽しかったことは間違いない。しかし、利佳の心にぽっかりと空いた空白を埋めることは出来なかった。
夏休み前、寺田との初めての本格的な二人きりの時間を過ごした際に、寺田の口から告げられた理不尽な実情。
教師と生徒、しかも相手が小学生というだけのことで色眼鏡で見られてしまうどころか、寺田の教師という職自体が危うくなってしまいかねないという不条理。
毎日寺田と顔を合わせたい。しかし、毎日はもとより、度々出かけるのは親に怪しまれる。
それに寺田と会って町を歩くことによって、周囲の目が変化するであろうということは予想がつく。
だからと言って、前回会った時のように何処か遠くへ連れて行ってくれ、と言うのは我が侭だと思う。
電話をかけて声を聞こうにも、母親が専業主婦なので不用意に電話を掛けられない。会話を聞かれてしまったら、設問される可能性がある。
会いたくても会えない。声が聞きたくても聞けない。
夏休みがこれほど長く苦しい時間に感じたことは、未だかつてないことだ。
利佳にとって辛く切ない日々が、ゆらりゆらりと過ぎていった・・・。
残暑厳しい8月も終わりに近づいたある日の午前。
自室の机に覆い被さるように突っ伏していた利佳が不意に身体を起こす。
その瞳と表情は真剣そのもので、何処か思い詰めたような節さえ感じさせる。
利佳は部屋を出て階段を下り、1階の廊下にある電話へ向かう。
父親は仕事、母親は買い物。佐々木家の一人娘である利佳は今この家に一人きりだ。
利佳は電話の傍にあるアドレス帳を見ることもなく、電話番号をダイアルする。
右耳に当てた受話器から、トゥルルルルル、トゥルルルルル、というコール音が聞こえる。
利佳にとって非常に長く感じられた時間は、3回目のコール音の途中で終わりを告げる。
「はい、寺田です。」
久しぶりに聞く寺田の声に、利佳は思わず涙ぐむ。
「もしもし?」
寺田の問いかけに、利佳は慌てて気を取り直して応答する。
「もしもし。私です。佐々木利佳です。」
「あ、利佳か。久しぶりだな。」
寺田の明るい声を聞いた利佳の瞳から、一筋の涙が頬を伝う。
利佳は涙を手で拭ってから言う。
「良かった・・・。良幸さんの声が聞けて・・・。」
「俺も・・・利佳の声が聞きたかった。」
私と同じだったんだ。
そう思うと、利佳は目頭が熱く感じると同時に、心に空いた空白が急速に埋められていくように思う。
「で、どうしたんだ?今日は。」
「・・・良幸さんと会いたいんです。」
利佳は自分の率直な思いを口にする。
「夏休み前に二人で遊びに行って以来、一度も会えなかった。声も聞けなかった。もう直ぐ夏休みは終わりますけど、それまでもう我慢出来ないんです。
良幸さんと会いたい。声を聞きたい。一緒に居たい。・・・我が侭だとは思いますけど、この気持ちはもう抑えきれないんです。」
利佳の切々とした訴えは、寺田の心に重く響く。
教師と生徒、しかも相手は小学生という、周囲から色眼鏡で見られることが間違いないばかりか、ことが知られれば自分の職が危うくなる危険性もある、
利佳との秘められた、否、秘めた関係。
しかし、利佳に交際を申し込んだのは他ならぬ自分だ。教師生命を賭けて交際を申し込み、利佳はそれを快く受け入れてくれた。
なのに夏休みという、教師と生徒という枠から出られる機会をこのまま横流しにしていては、利佳の気持ちを引き裂いてしまう。
否、もう十分過ぎるほど引き裂いてしまっているかもしれない。この1ヶ月あまりの間、会うことはおろか、声すら聞いてこないで来たのだ。
そこへ飛び込んできた、利佳の切実な訴え。これに応えなくてどうする?
寺田は多少の躊躇は感じつつもそれを払い除け、利佳の切ない訴えに応える。
「俺は教師と生徒という柵に囚われ、周囲の目を恐れていた。自分の担任する生徒、しかも小学生と交際することに、心の何処かに躊躇いがあった。」
「・・・。」
「だが、俺は真剣に利佳、お前と付き合っていきたいと思っている。利佳のさっきの訴えをたかが小学生の我が侭だ、と切り捨てる気は毛頭ない。
俺は教師である以前に一人の男として、自分の担任する生徒である以前に一人の女である利佳、お前と会いたい。一緒に居たい。」
「良幸さん・・・。」
「もう直ぐ夏休みが終わる。新学期が始まったら、また教師と生徒という関係が先行してしまう。そうなる前に・・・利佳と会いたい。」
寺田が自分と同じ思いを抱いていたことを知った利佳は、心がじわじわと熱くなるのを感じる。そして同時に心の空白がほぼ完全に埋まったのを感じる。
そして同時に残りの空白を埋めるには、やはり寺田と会うことが必要だと悟る。
寺田と気持ちのベクトルが一致していることが分かった利佳は、表情をぱあっと明るくして受話器越しに寺田に話し掛ける。
「それじゃあ、今度の日曜日なんかどうですか?」
「今度の日曜日か・・・。夏休みもあと1日っていう日だな。利佳は良いのか?」
「もう宿題は終わらせていますし、ピアノのレッスンもありませんから。良幸さんの方は大丈夫なんですか?」
「俺の方は大丈夫だ。じゃあ、今度の日曜日ということで決まりだな。待ち合わせ場所と時間はどうする?」
「前と同じで良いです。」
「前と同じというと、朝8時に俺のアパートの前だな。朝早いが大丈夫か?」
「はい。お弁当作っていきますね。」
「作るの大変だろう。おにぎりやサンドイッチくらいならこっちで作るが。」
「いえ、全部私が作って持っていきます。」
「それじゃ、頼もうかな。でも、あんまりいっぱい作ってこなくて良いぞ。」
「大丈夫です。その辺は前の経験を踏まえますから。」
前回二人で桑折緑地公園に出かけた時に利佳が作って持っていた弁当は量が多過ぎて利佳一人では到底手に負えず、寺田に片付けて貰ったのだ。
食べ物を無駄にしてはいけない、と利佳は両親から厳しく躾られている。
その躾と前回の「教訓」を踏まえて、今度は自分で台所から持ち運び出来る程度で、尚且つ二人分の腹を満たせる量にしようと決めていた。
「じゃあ、弁当は利佳に任せることにして・・・今度は何処へ行きたい?」
「前に連れて行ってもらった、桑折緑地公園が良いです。」
「別に良いが・・・あそこは遊ぶ場所がないぞ。」
「前のようにバドミントンをしたり、公園を散策したりすれば良いじゃないですか。それに私は良幸さんと一緒に居られれば・・・幸せですから。」
利佳は自分が言った言葉に、ぼっと音を立てるように一瞬で赤面する。
以前TVで見たドラマで耳にした言葉を何時か言ってみたい、と思っていて、丁度それを口に出来る機会に思い切って口にしたものの、やはり照れくさいのだ。
自分に似合わないことを言ってしまったか、と利佳は後悔する。
一方、利佳の言葉を聞いた寺田も頬を赤くしていた。
まさか利佳からそんなストレートな愛情表現が飛び出すとは思っていなかったからだ。
他の生徒に比べて大人びたところがあるとは言え、利佳はまだ小学4年生。
そんな利佳が電話越しとは言え、大人でもなかなか口に出来ないことを言ってのけたのだから、驚きもするし、胸を高鳴らせもする。
「あの・・・良幸さん。びっくり・・・しましたか?」
少しの沈黙の後、利佳は恐る恐る尋ねる。
今になって年齢不相応なことだと思うことを、会話の流れに乗って口にしたことが、寺田に悪い印象を植え付けてしまったのではないか、と思っているのだ。
「はは・・・。ちょっとな。でも、俺と一緒に居られることが幸せだ、と言ってくれて嬉しいよ。」
だが、寺田の答えは利佳の不安を払拭するには十分なものだった。
利佳は安堵の溜息を吐き、不安で強張っていた表情を緩める。
もっと話をしたい、と思って話題を探っていると、外から車が近付いてくる音が聞こえてきた。
その音は利佳の家の前で一旦止まり、再び近付いてきて止まる。
母親が買い物から帰ってきたのだ。
母親に誰に電話していたのかと設問されるのを恐れる利佳は、焦った様子で言う。
「良幸さん、すみません。母が帰って来たので今日はこれで失礼させてください。」
「ああ。それじゃ、今度の日曜日に。」
利佳は寺田が受話器を置く音が聞こえた次の瞬間、受話器を置く。そして急いで階段を上っていく。
玄関のドアの鍵が開いて、利佳の母親が買い物袋をぶら下げて入ってくる。
「ただいまー。利佳ー。荷物を運ぶのを手伝って頂戴。」
「はーい。」
利佳は何事もなかったかのように2階から返事をして、階段を駆け下りて玄関に居る母親を出迎える。
「お帰りなさい。」
「お母さんが居ない間、電話とかはなかった?」
「え?うん。なかったわ。」
利佳の答えを聞いて、利佳の母親は納得した様子で買い物袋の一つを差し出す。
利佳はそれを受け取って、冷蔵庫のある台所へ向かう。利佳の母親が靴を脱いでそれに続く。
先に台所に入り、母親が買って来た食材を冷蔵庫に収納している利佳を見て、利佳の母親は随分手際が良いわね、と感心する。
買い物の度に利佳に収納を手伝わせてきたのだが、利佳がそれを手際良く行えるようになったことに、利佳の成長を感じずにはいられない。
利佳の母親も冷蔵庫と冷凍庫に食材を収納していく。その手際は流石に利佳よりも上を行っている。
利佳は母親の持ってきた買い物袋からも、自分の手が届く範囲の冷蔵庫のスペースに食材を収納していく。
まだ背の低い利佳は主に最下段の野菜収納スペースを担当し、母親は卵や牛乳など比較的高い位置にある収納スペースと冷凍庫を担当する。
二人がかりでの収納は順調に進み、5分ほどで全ての収納が終わる。
「ありがとう、利佳。助かったわ。」
「私もそれなりに出来るようになったでしょ?」
「そうね。利佳が大きくなって冷凍庫まで手が届くようになったら、もっとお母さんが楽出来そうね。」
利佳の母親はそう言って笑みを浮かべる。
利佳の口調が何時になく弾んでいる−普段暗いというわけではない−のを不思議に思った母親は、利佳に尋ねる。
「利佳。何か良いことでもあったの?」
約一月半ぶりの寺田との逢引の約束について問い質された、と思った利佳は、首を細かく小さく何度も横に振って言う。
「な、何でもないわ。ただ、今度の日曜日、友達皆で遊びに行くことが決まったから。」
「あらそう。また前みたいにお弁当作って行くの?」
「うん。今度は自分で運べないようなことにはしないから。」
「どれだけ作るのか知らないけど、利佳の力じゃまだ物の詰まった重箱を運ぶのは無理よ。お母さんが手伝ってあげるわ。」
「ありがとう、お母さん。」
「さ、もう収納は終わったから部屋に戻って良いわよ。もう少ししたらお昼ご飯にしましょう。」
「うん。」
利佳は微笑みを浮かべて頷き、とたとたと走って台所から出て行く。
その後姿を見て、友達と遊びに行くことが楽しいなんて利佳も幸せな子ね、と利佳の母親は目を細める。
利佳は寺田と一緒に居られる時間が作れたことを喜ぶと同時に、母親にさえ自分の幸せを話せないことに少し後ろめたさを感じる・・・。
約束の日曜日の早朝。
利佳は前回と同様朝5時に起きると早速台所へ向かい、料理を作り始める。
昨日の天気予報で今日も残暑が厳しいと言っていたことを考慮して、生ものは酢漬けにし、フライや煮物といったラインナップを中心にする。
煮物は本来一から作りたいところなのだが、煮物という料理の性質と時間を考えると市販のものに頼らざるを得ないのが残念なところだ。
昨晩から下味をつけておいた唐揚げや魚のフライを揚げてよく油を切り、おかずを入れる重箱に料理を詰め込み終えると、次はおにぎり作りに移る。
前回は炊き立てのご飯で作ったため熱さに耐え切れず形が崩れてしまった教訓を生かして、昨晩の食事が終わってから新たに焚き、冷ましておいたご飯を使う。
具には梅干やおかか、しぐれなどやはり腐りにくいものを選択し、母親の助言どおり、ラップにご飯を乗せ、その中心に具を乗せておにぎりを作る。
今回はサンドイッチは作らない。どうしても中身が腐りやすいものが多くなりがちなためだ。
ご飯を握ったおにぎりは腹持ちの良さや腐りにくさの点では優れているが、数が増えると重くなってしまうのが欠点だ。
冷ましておいたご飯を全ておにぎりに変えて重箱に詰め込んだ頃、母親が台所に入ってくる。
母親は利佳と挨拶を交わすと、テーブルの上に置かれている重箱の中身を観察する。
「うん、良い感じじゃない。欲張らず多過ぎずで。」
「前は兎に角いっぱい持っていこうとして詰め込み過ぎたから・・・。」
「おかずは腐りにくいものを作ったわね。上出来よ。」
母親からの賞賛の言葉に、利佳は嬉しそうな微笑を浮かべる。
「重箱はお母さんが利佳の自転車に運んであげるから、まずは台所を片付けて頂戴。朝ご飯作るから。」
「うん、分かった。」
利佳は早速後片付けに取り掛かる。もっとも作る時に彼方此方にものをばら撒かないように整理整頓を心がけていたため、片付けはスムーズに進む。
重箱を風呂敷に包んだ母親は、利佳が片付ける様子を眺める。
前回よりも更に手際が良くなった利佳を見て、幼い頃から料理を手伝わせてきた甲斐があったと思う。
母親は、利佳が幼稚園の頃から包丁の使い方をはじめとする料理の基本を教え、少しずつ料理を手伝わせることで作り方を体験させてきたのだ。
コンビニで簡単に弁当が買える今の時代にはそぐわないかもしれないが、家庭生活の基本の一つとしてあえて指導してきた。
その指導が立派に実を結んでいるのを目の当たりにして、母親は嬉しく思うと同時に、利佳が将来誰と結婚するにしても幸せになって欲しいと願う。
この子は将来どんな男性を私達親の前につれて来るのだろう?
気の早いことだとは思いつつも、母親は成長した利佳とその隣に居る顔のわからない男性像を想像する。
「お母さん。片付け終わったわよ。」
最後に俎板を洗い終えた利佳が振り向いて言う。
母親は我に帰って、台所の整理具合を点検する。
調理器具は全て洗い桶に入れられ、流し周辺も綺麗に拭き掃除されている。十分合格点をつけられる状況だ。
「OKね。それじゃ今から朝ご飯作るから、ちょっと待ってて。」
「うん。」
母親はエプロンを着けて、洗い終えられたばかりの俎板と包丁を取り出し、俎板の表面と包丁の刃の分を布巾で拭いて料理の準備を整える。
利佳は居間に入り、TVを点ける。今日の天気を確認するためだ。
画像と音声は横流しにし、画面左上に映る天気予報を注視する。
暫く見詰めていると周期的に地域と予報が切り替わり、利佳の住む友枝町が含まれる地域は「晴れ」という予報が出る。
それを見た利佳はひと安心して、今日の寺田とのデートに思いを馳せる。
約一月半ぶりに会う寺田。髪は伸ばしているんだろうか。どんな服装なんだろうか。自分への第一声は何だろうか。
台所から母親の呼び声がかかるまで、利佳は物思いにふける・・・。
朝食を食べ終えた利佳は、歯を磨いた後、母親に重箱を自転車に運んで貰って家を出る。
寺田との待ち合わせ場所までの道のりが長く感じる利佳のペダルを漕ぐ足に、自然と力と速さが篭る。
夏休みの早朝ということもあって、通りに人影は殆どない。せいぜい犬を散歩させている人が居るくらいだ。
車の行き交いも少ない。自転車に乗っていて一番怖いのは後ろから迫り来る車なのだが、それも殆どなく、利佳は安心して待ち合わせ場所へと急ぐ。
時間的には十分間に合う時間に家を出たのだが、一刻も早く寺田に会いたいという気持ちが利佳を急かせるのだ。
何度ものアップダウンを乗り越えると、待ち合わせ場所である寺田の住むアパートが徐々に見えてくる。
利佳の目に、道で自分に向かって手を振っている長身の男性が映る。それまでアップダウンと荷物の重さに苦しんでいた利佳の表情が一気に明るくなる。
利佳は力を振り絞り、懸命にペダルを漕ぐ。
少しでも早く寺田の顔を間近で見るために。少しでも早く寺田の声を聞くために。
寺田の傍で自転車を止めた時には、利佳は既に汗だくになっていた。
自転車の運転による疲労に寺田と会えたという安心感が重なり、利佳は大きな溜め息を吐いて俯き、肩で息をする。
「大丈夫か?利佳。」
「へ、平気です・・・。」
利佳は寺田を心配させまいと、顔を上げて笑顔を見せる。寺田は久しぶりに見る利佳の笑顔を見て、胸をぎゅっと締め付けられたような気分を覚える。
寺田は利佳の自転車の籠から風呂敷に包まれた重箱を取り出し、利佳をアパートの敷地内にある自転車置き場へと案内する。
そして利佳と共に、駐車場に止めてある自分の車へ向かう。車は既にエンジンがかかっている。暑さを考慮してのことだろう。
寺田と利佳はそれぞれ運転席と助手席に乗り込み、シートベルトをする。
寺田は周囲に注意しながら車を駐車場から通りへと出し、90度向きを変えてゆっくりアクセルを踏む。
エアコンの効いた車内は涼しく、後部座席に乗せた弁当が熱さにやられることはないだろう。
「今日は暑くなりそうだな。」
「ええ。天気予報では予想最高気温が33度とか言ってました。」
「水筒を準備してきたのは正解だったな。熱中症を起こしたら洒落にならん。」
後部座席には利佳が作って運んできた重箱と共に、大型の水筒が乗っている。
利佳と同じく天気予報を見て今日が残暑厳しい日になると知った寺田が用意したもので、中には氷と麦茶が入っている。
「この暑さだと運動は控えた方が良いかもしれないな。」
「でも、暑い中いっぱい汗をかくのは気持ち良いと思いますよ。」
「今日は立ってるだけでも汗をかくぞ。」
「折角良幸さんと一緒に出かけられる時間が出来たんです。運動したり散策したりお弁当を食べたり・・・色々したいんです。」
利佳の切々とした言葉を聞いて、寺田は電話での利佳の訴えを思い出す。
自分と会いたい。自分の声を聞きたい。自分と一緒に居たい。
愛しい女性(ひと)のそんな切ない訴えを思う存分叶えてやりたい、と寺田は思う。
「そうだな。折角二人で一緒に居られる時間を持てたんだ。出来ることをしないで後悔したくないよな。」
「それじゃあ・・・!」
「ああ。夏の陽射しの下、思いっきり楽しもうじゃないか。」
寺田の言葉で、利佳の表情が鮮やかに晴れ上がる。
そう、まるで雲一つなく太陽が燦々と輝く今日の青空のように・・・。
出発から約1時間後、寺田と利佳を乗せた車が、桑折緑地公園の駐車場に入る。
夏休み最後の日曜日ということもあってか、駐車場にはかなりの数の車が止まっている。
子どもに今年最後の夏休みを満喫させてやろうという親がそれだけ居るということだろう。
寺田は車から降りると後部座席から重箱と水筒を取り出し、次にトランクを開けてバドミントンの道具一式とタオル2枚を取り出す。
「良幸さん、準備が良いですね。」
「気休めにしかならないだろうが、ないよりはましだろう。」
利佳からの感心の言葉に、寺田は少し照れくさそうにしながら言う。
まだ午前中だというのに陽射しは厳しく、更に空気は多分に湿気を含んでいる。
熱気と湿気が入り乱れた空気は、寺田と利佳の身体から汗を噴き立たせるには十分過ぎる。
「とりあえず日陰を探そうか。水筒はともかく、弁当が危ない。」
「そうですね。」
「利佳。これを使ってくれ。」
寺田は持っていたタオルの1枚を利佳に差し出し、自分はもう1枚のタオルを首にかける。
寺田の心遣いに、タオルを受け取った利佳は心が温かいもので満たされていくのを感じ、柔和な微笑を浮かべる。
「ありがとう、良幸さん。」
「いや、なに・・・。」
利佳の微笑と感謝の言葉に、寺田は頬を少し赤らめる。
この表情といい、自分のことを自然に良幸さんと呼ぶことといい、寺田はどうしても利佳が小学4年生とは思えない。
この純粋で大人びた少女が、やがて文字どおり一人の女性として美しく成長した姿を想像する。
そして自分が結婚を申し込むその時まで、利佳は自分のことを想ってくれるだろうか。寺田の脳裏にそんな一抹の不安が過ぎる。
「良幸さん?」
自分を見詰めたまま動かない寺田を不思議に思って、利佳が声をかける。
寺田ははっと我に帰り、笑顔を取り繕って言う。
「あ、いや、何でもない。さあ、良い場所を探しに行こう。」
「はい。」
利佳は寺田を問い詰めることなく、明るい笑顔を寺田に返す。
寺田と利佳は目の前に広がる広大な緑の大地に足を踏み入れる・・・。
公園を訪れている人々は大半が木陰で陽射しを凌いでおり、寺田と利佳が弁当と水筒を置く場所を確保するのはなかなか難しかった。
その代わりといおうか、直射日光をまともに浴びる広大な芝生には殆ど人が居らず、寺田と利佳は周囲にさほど気を配ることなく、暫しバドミントンに興じた。
ものの1時間程度で汗だくになった二人は、水分補給のために弁当と水筒を置いてある木陰に移動する。
二人は噴き出る汗を拭いながら、寺田が用意してきた麦茶で涼を取る。
よく冷えた麦茶は、熱く火照った身体の内側から全身に染み渡るように感じる。
「やっぱり暑いが、こういう時の運動も気分が良いもんだな。」
「良幸さん、『運動でかいた汗は気持ち良いもんだぞ』ってよく言ってるじゃないですか。」
「よく覚えてるな。こりゃ利佳の前で迂闊なことは言えんな。」
「それって、どういう意味ですか?」
利佳は寺田にずいっとむくれた顔を近づける。寺田は間近に迫った利佳の顔を見て何も言えない。
むくれていた利佳の顔が、一転して微笑みに変わる。
「ふふっ、冗談ですよ。」
「冗談にしては真に迫るものがあったぞ・・・。」
苦笑いする寺田と微笑む利佳の表情が、はっとしたものに変わる。
二人の顔は鼻先が触れそうなところまで接近している。もう少し距離を詰めれば・・・唇が触れ合う。
木々が微風を受けてざわめく。人々の声が遠くに聞こえる。
二人は急に互いの存在を意識して、顔を前方に逸らして利佳は寺田の隣に座り直す。
何とも言えない沈黙が二人の間に立ち込める。
二人の頬は赤い。それは日焼けや運動後の血流の良さだけで説明出来るものではない。
寺田は沈黙を破ろうと残りの麦茶を飲み干し、隣の利佳に言う。
「ちょっと早いが・・・弁当を食べようか。」
「あ、はい。」
利佳はいそいそと重箱を包んでいた風呂敷を広げ、重箱をその上に置く。
前回より多少量が少なくなったとはいえ彩りのバランスも良いおかずと、前回よりぐっと形の整ったおにぎりが寺田の目を引く。
「今回も頑張って作ってきてくれたんだな。」
「お弁当の料理は得意なつもりですから。」
寺田は利佳からウェットティッシュを受け取り、手を拭いてからおにぎりに手を伸ばす。
程よい大きさに整えられたおにぎりは塩加減も良く、具が良いアクセントとなって味覚を存分に刺激する。
「美味い。今回は形も綺麗だし、言うことないな。」
「前は炊き立てのご飯から作ろうとして熱さに負けたので、昨日の夜に炊いて冷ましておいたものを使ったんです。」
「利佳は失敗を次にきちんと生かすな。たいしたもんだ。」
「美味しいものを食べて貰いたいですから・・・。」
利佳は少し照れくさそうに言うと、自分もおにぎりを一つ掴んで口に運ぶ。
少し早い時間の二人の昼食は静かに、しかし和やかに進む・・・。
昼食を終えた二人は麦茶を飲みながら暫くのんびり休んだ後、寺田が荷物を持って公園の散策に向かう。
陽射しはよりいっそう厳しさを増し、微風が熱波となって吹き抜けていく。
それでも緑地公園というだけあって木陰が多いので、そこに入れば暑さは幾分か和らぐ。
湖を思わせる広大な池では群がる鯉に餌を与え、並木道では人に慣れたが故に道を譲ろうとしない鳩の群れに苦笑いした。
二人は小学校の何倍もあると感じる公園を歩き回って疲れたので、並木道から外れた木陰に並んで腰を降ろす。
その近くには利佳の背丈程の木々が点々と植えられているので、人目につきにくい。
寺田は両手を頭の後ろで組んで木に凭れかかり、利佳はふぅ、と溜め息を吐く寺田を穏やかな微笑を浮かべて見詰める。
寺田の薄いグリーンの半袖シャツは汗で大部分が変色している。利佳は白いポロシャツを着ているため、殆ど色の変化が分からない。
「良幸さん、汗びっしょりですよ。」
「暑い時は汗をかいた方が良いんだ。汗をかかないと身体に熱が篭って熱中症になるからな。」
「詳しいですね。」
「こう見えても一応体育教師だからな。」
そう言って微笑む寺田を見て、利佳の心臓が、どくん、と大きく脈動する。
同年代の男子からは感じられない大人の男性の雰囲気。
それを目の当たりにした利佳の頭の中にある衝動が生まれ、急速に抑え切れないほどに膨らんでいく。否、利佳はそれを端から抑え込むつもりはない。
利佳はタオルで寺田の顔の汗をそっと拭う。
「ああ、ありがとう。」
「いえ・・・。」
利佳は呟くように応えると、目を閉じながら寺田の顔に自分の顔を近づけていく。
寺田の顔が、利佳のウェーブがかかった髪で隠される。
木々がざわめく中、二人の動きが暫しの間止まる。
寺田の顔が再び見えるようになった時、二人の頬はすっかり紅潮していた。
寺田は右手でそっと自分の唇に触れる。まだ柔らかく、温かい感触が残っている。利佳は正面に向き直って少し俯く。
二人の間に言葉はない。しかし、言葉以上のものが二人の心を満たす。
秘められた関係の二人の秘められた行動は、想像以上の余韻を二人の心に残していった・・・。
to be continued...
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