カードキャプターさくら Side Story
譬え背丈は違えども
Page 4 雨の夜と家出と紅茶の缶
written by Moonstone
利佳の植えたマーガレットは無事生長し、艶やかな花を開かせた。
その他の生徒が植えた花も次々と花開き、友枝小学校は俄かに花園と化した。
フリージアと曼珠沙華、即ち彼岸花が並んで咲いているという、面白おかしい光景もあったが。
寺田はホームルームで生徒達に花を咲かせたことを誉めると同時に、花に限らず植物にも命があること、だから食事を食べる時には食材の命を
戴くという意味で「いただきます」と言うのだ、ということを言った。
寺田の言葉は生徒達に深い感銘を与えた。
とりわけ利佳は、強い雨に打たれていた芽を吹いて間もないマーガレットを寺田が自分が濡れるにも関わらず傘で守ったことを思い出し、
寺田がそこまでしてマーガレットを守った理由が分かり、嬉しさひとしおだった。
利佳が嬉しそうに微笑んで寺田を見ると、偶々寺田と目が合った。
すると寺田は少し困ったような表情で視線を逸らした。
利佳は目を逸らされたことを悲しく思うより先に、寺田が浮かべた困惑とも戸惑いとも取れる表情の理由が知りたいという気持ちが大きくなった。
マーガレットが花開いたことを報告した時、自分と一緒に植えた場所に駆けつけ、見事な花を咲かせたマーガレットを見て我がことのように喜んだ寺田。
あの時は自分と楽しげに話をしてくれたのに、どうして普段は目を合わせるだけで困ったような顔をするのだろう。
利佳は寺田の心が分からず、ただ何とも言えない胸の疼きを感じるだけだった。
それから月日は流れ、日本のほぼ全土が入梅したと発表された。
晴れ間がたまにしか見れず、殆ど毎日曇りか雨というぐずついた天候が続く毎日が訪れた。
そんなある日の夜、帰宅して食事を済ませ、一人寛いでいた寺田の元に一本の電話が入った。
電話は利佳の母親からのものだった。電話口の母親の声はかなり切羽詰っているといった印象だ。
「先生。夜分遅くすみません。」
「いえいえ。それよりどうかなさったのですか?」
「利佳が・・・利佳が家を飛び出してしまったんです。」
寺田は驚きのあまり声が出ない。
普段控えめで他の女子生徒より数段大人びた感のある利佳がこんな時間に−午後9時を過ぎている−、しかも家を飛び出すという突拍子も無い行動に
出るとは想像もしなかったからだ。
寺田は直ぐに冷静さを取り戻し、利佳の母親に尋ねる。
「心当たりは当たりましたか?」
「はい。同じクラスの子のご家庭には全て・・・。でも、何処にも利佳は来ていない、と・・・。」
電話越しに母親の嗚咽が聞こえて来る。
時間も時間、しかも当人は幾ら大人びているとは言え小学4年生。対応の遅れは重大な結果を招く恐れもある。
寺田は兎も角ことの経緯を聞き、そこから利佳が行きそうな場所を検討付ける方法が一番適切だ、と判断する。
「お母さん。これからご自宅にお邪魔してよろしいでしょうか?」
「は、はい。」
「とりあえずお話を聞かせてください。それで利佳さんが行きそうな場所の見当をつけましょう。」
「よ、宜しくお願いします。」
「いえ・・・。では、これから直ちにそちらに向かいます。」
寺田は電話を切ると急いでスーツに着替え、車の鍵と傘を持ってアパートを飛び出す。
そして駐車場に停めてある自分の車のドアを開けて乗り込み、エンジンをかけてワイパーを動かす。
外は朝からずっと雨だ。それも夕方から雨脚が強まっている。
寺田はこんな雨の中家を飛び出した利佳の身を案じつつ、車を駐車場から出し、利佳の自宅へ車を走らせる。
5分ほどで寺田は利佳の自宅に到着した。
寺田は車を停めるとエンジンを切って傘を持ち、玄関へ走る。
利佳の家は先月家庭訪問で訪れて知っているがかなり大きな家で、周辺の住宅と比較すると良く目立つ。
何でも利佳の父親は若くして大企業の取締役に抜擢されたやり手のビジネスマンということだ。
寺田は軽く息を切らしながらインターホンを押す。
程なくインターホンから声が溢れ出してくる。
「どちら様ですか?」
「利佳さんの担任の寺田です。」
「先生ですか。お待ちしておりました。只今ドアを開けますので。」
声が途切れて直ぐ、ドアからガチャッという鍵が外れる音がする。
利佳の家の出入り口は遠隔操作で開閉出来るようになっていて、家庭訪問で初めて訪れた時は、何時まで経ってもドアが開かないので
利佳の母親が玄関に来るまで突っ立っていた記憶がある。
流石に二度目なので、寺田は鍵が外れたことをドアノブを捻り、ドアを開けて中に入る。
寺田がドアを閉めるのとほぼ同時に、明るい青色の服を着た女性が今にも泣き出しそうな顔で駆け寄って来る。
このショートカットの見た目かなり若い女性が利佳の母親である。
「こんばんは。寺田です。」
「すみません、先生。こんな夜遅くにお電話致しまして・・・。」
「それはお気になさらずに。それより・・・。」
「あ、失礼しました。どうぞお上がりください。」
「では、お邪魔します。」
寺田は靴を脱いで揃えて利佳の家に上がりこむ。
利佳の母親は寺田を居間に案内する。家庭訪問の時にも案内された場所だ。
居間のソファには、沈痛な表情の比較的若い男性が座っている。彼が利佳の父親だ。
寺田が居間に姿を現すと、利佳の父親はすくっと立ち上がって深々と頭を下げる。寺田も丁寧に頭を下げる。
「利佳の担任の先生ですね?はじめまして。私が利佳の父です。」
「はじめまして。寺田良幸と申します。」
「さ、先生。どうぞお掛けください。直ぐお茶をお出ししますので。」
「どうぞお構いなく。」
寺田は利佳の父親の向かい側のソファに腰を下ろす。
程なくして、利佳の母親が銀色に輝くトレイにティーカップとティーポットを乗せて居間に入ってくる。
利佳の母親は寺田と利佳の父親の前と、利佳の父親の隣にティーカップを置き、緋色の液体を注いで利佳の父親の隣に腰を下ろす。
利佳の両親の表情は沈痛そのもので、利佳が家を出たショックの大きさを物語るには十分だ。
「早速お話を伺いたいんですが、どうして利佳さんは家を飛び出してしまったのですか?」
「私が・・・私がいけないんです・・・。」
寺田の問いかけに、利佳の母親がみるみる目に涙を溜めてうめくように言う。
「お母さん。一先ずお話を聞かせてくださいませんか?」
「す、すみません。取り乱してしまって・・・。」
「取り乱すのは無理もありません。ですが、今は利佳さんのことを最優先させなければなりません。」
「きっかけは些細なことだったんです・・・。利佳のピアノのレッスンの進捗状況がスケジュールどおりに進んでいないことを私が叱ったんです・・・。」
寺田は家庭訪問の際に、利佳が幼い頃からピアノを習っていることを聞いている。
子どもの習い事に関して、当事者の子どもとそれを子どもの為と思う親との衝突はよく聞く話だ。
「半月後には発表会があるんです。なのに利佳のレッスンは思うように進まず、このままでは発表会に間に合わない、と私が言ったんです。
それで利佳が『この曲は難しいからなかなか上手く弾けない』と言ったものですから、私はカッとなって利佳の練習不足だと一方的に叱りつけて、
その勢いで話が利佳の学校の成績や部屋のものにまで飛び火してしまって・・・。そうしたら利佳が『どうしてそんなことまで言われなきゃいけないの』と
言ったもので、私は・・・利佳の頬を叩いたんです。親に口答えするとは何事だ、と・・・。」
「・・・。」
「そうしたら利佳は財布だけ持って家を飛び出してしまったんです・・・。私が・・・勢いに任せて利佳を叱りつけたばかりに・・・。」
「そうでしたか・・・。」
「先生。利佳は、あの子は大切な一人娘です。あの子にもしものことがあっては・・・私達は・・・。」
利佳の両親は重く沈んだ表情で唇を噛み締める。泣いてしまいそうなところを懸命に耐えているのだろう。
寺田は話を聞いて両親、特に母親の気持ちを察する。
子どもが自分の窮状を訴えたのを甘えだと叱りつけ、更にそれとは無関係なことまで根掘り葉掘り叱り、挙句の果てに頬を打ってしまったことに
酷く後悔しているのだろう。何もあそこまで言ったり、ましてや頬を打ったりしなくても良かったのに、と。
「経緯は分かりました。失礼ですがお母さん、もう少し利佳さんの立場を考えてあげるべきでしたね。」
「はい・・・。」
「しかし、今は一刻を争う事態です。お母さん。利佳さんが家を飛び出したのは何時頃ですか?」
「た、確か8時半頃だったと・・・。」
「服装は?」
「白の半袖のブラウスとブルーのフレアスカートです。」
「では自転車は?」
「見てみたら、自転車は残っていました。」
そこまで聞いた寺田は、利佳がそう遠くない場所に居るだろうと推測する。
自転車を使わず、幾らあるか分からない財布だけ持って家を飛び出したのだ。勢いで飛び出したのだから行く宛など定まっていないと考えるのが自然だ。
それに駅まではここから歩いて30分はかかる。小学生の利佳ならもっと時間はかかるだろう。仮に駅に向かったとしても今からならまだ追いつける筈だ。
寺田は真剣な表情で利佳の両親に言う。
「では、私は車でまず駅まで行ってみますから、お二方はここで待機していてください。見つかり次第、お電話します。」
「せ、先生。警察に捜索願を出さなくて良いでしょうか?」
「警察が探し回っていると分かれば、利佳さんが怯えてしまって余計に知らない場所に追い込んでしまうことにもなりかねません。ここは私に任せてください。
念のため、私の携帯の番号をお教えします。仮に私が居ない間に利佳さんが戻ってきたら、そちらにご一報をお願いします。」
寺田はスーツの胸ポケットから手帳を取り出し、その後部のメモ用紙に自分の携帯電話の電話番号を書き、そのページを破って差し出す。
利佳の父親はメモ用紙を受け取って頭を下げる。
「分かりました。先生、宜しくお願いします。」
「先生。娘を・・・お願いします。」
「はい。それでは。」
寺田は席を立ち、早速玄関へ向かう。
急いで後を追ってきた利佳の両親の見送りを受けて、寺田は車を夜の町に走らせ始めた・・・。
10分後、寺田は駅前のロータリーに車を停めて、駅員に尋ねる。
「すみません。午後8時半頃から今までの間に、ウェーブのかかったショートカットで、白の半袖のブラウスにブルーのフレアスカートという服装の
女の子が来ませんでしたか?」
「さあ・・・。そのような女の子は記憶にありませんねぇ・・・。」
駅員はそう答えて首を捻り、近くの改札の駅員に尋ねる。
「なあ。8時半頃から今までの間にウェーブがかかったショートカットの女の子って改札を通ったか?」
「いや、そんな子は通ってないと思うぞ。今の時間帯は利用者が疎(まば)らだし、そんな子が通っていたら多分覚えてるから。」
「そうか。・・・ということだそうです。その女の子がどうかしましたか?」
「あ、私はその女の子の叔父なんですが、その子が親に行き先を告げずに外出してしまったんです。で、もしかしたらここに来たのではないか、と
思いまして・・・。」
寺田は自分が教師であること、利佳が家出したということは伏せておく。
家出少女を探している、と言おうものなら、警察沙汰になるのは目に見えている。
そうなったらたちまち大騒ぎになってしまい、騒ぎを耳にした利佳が余計に引っ込んでしまうことになりかねない。
「もし、そんな女の子が駅を利用するようなことがありましたら・・・引き止めてこちらにご連絡ください。」
寺田はそう言いつつ手帳のメモ用紙に自分の携帯電話の番号を走り書きして、そこを破いて駅員に手渡す。
「分かりました。注意しておきます。」
「宜しくお願いします。」
寺田は駅員に頭を下げると、踵を返して車に戻り、ロータリー沿いに車を走らせて来た道を引き返していく。
焦りが強まってきた心を懸命に鎮めつつ、寺田は夜の雨の町に車を走らせる。
寺田は改めて4年1組の生徒の家を全て訪ね、利佳が来ていないかどうか聞いて回る。
だが、普段良く行動を共にしているさくらや知世、千春や奈緒子の家にも来ていないという。他の生徒の家でも同様の答えが返って来るのみだ。
寺田は続いて公園に車を向かわせる。小学生が行きそうな場所として真っ先に思いついたからだ。
車から降りると、寺田は傘を差して広い公園中を走って利佳を呼ぶ。
「佐々木ー!居たら返事をしろー!」
だが、公園中を隈なく走り回って声の限りに呼んでも、利佳の気配はまったく感じられない。
探されていることを悟って利佳が出にくくなっているのかもしれない、と推測した寺田は、文字どおり公園の隅から隅まで見て回る。
しかし、何処にも利佳の姿は無い。
雨脚が弱まる気配はない。傘を持たずに飛び出したとなれば、どこか物陰に居ないとずぶ濡れになっているだろう。
そうでなくても夜、人気の無い場所で−裏をかいて人の居る場所に身を隠すことは、普通の小学生では思いつかないだろう−一人居るのは
大変な不安を感じている筈だ。
寺田は一旦車を停め、利佳が行きそうな場所に思いを巡らせる。
4年1組の面々の家には居ない。駅にも来ていないという。
それに利佳の両親と駅員に電話番号を伝えた携帯は未だ音一つ立てない。
駅から公園に来て公園中を走り回ったから相当時間は経った筈。
車のデジタル時計を見ると既に10時を過ぎている。雨脚は一向に衰える気配がない。
一体何処へ行ったんだ、佐々木・・・。
寺田は目を閉じて眉間に皺を寄せ、額に手を当てて考え込む。
日に日に育っていくマーガレットを優しい眼差しで見守っていた利佳。
蕾(つぼみ)が出来た時、何時咲くのだろう、と目を輝かせた利佳。
見事に花開かせた時、目を潤ませて我がことのように喜んだ利佳。
寺田は利佳の居所を考えるより、マーガレットを育てる過程で見たりかの様々な表情が浮かんできて、頭を振って居所を考え直す。
しかし、寺田の意向に反して、寺田の頭に浮かぶのは学校で見た利佳の様々な表情ばかりだ。
先生。先生・・・。先生!
何処に居るんだ、佐々木・・・。
学校じゃ、あんなに明るい顔を見せてくれたじゃないか・・・。
・・・!
寺田は何かを思いついたような顔をして目を開け、ハザードランプを消してハンドルを切りつつアクセルを踏む。
そして「ある場所」へ向かって雨の中車を走らせる。
佐々木はあそこに居る。居る筈だ。居るに違いない。
寺田は自分の推測を確信に変えるように何度も念じながら、「あの場所」へ向かって車を走らせる。
利佳は真っ暗な場所で膝を抱えて蹲っていた。
ただ雨の音だけが響く。それが利佳の不安と孤独感を増幅させる。
行く宛なんか端からなかった。
ただ日頃から厳しい母親の無理解に耐えかね、家を飛び出しただけだった。
しかし、行く宛がないままの、しかもこの雨の中傘も差さない彷徨いが長続きする筈がない。
結局此処しか行く場所は無かった。此処だって内緒で侵入したものだ。
見つかったらまた怒られる。でも今更帰るなんて出来ない。
利佳は雨に濡れたことで寒さを感じ、更に身を縮こまらせる。
その時、足音が聞こえてきた。
用務員のおじさんか、と利佳は思うが、その足音はかなり早く接近してくる。
お父さんだ。そう思った利佳は目をぎゅっと閉じ、寒さと迫り来る恐怖に身を震わせる。
足音はドア一枚隔てたところで止まり、そのドアがガラガラと音を立てて開く。
ライトが利佳を照らし出す。利佳は眩しさと恐怖で顔を膝に埋める。
「佐々木。佐々木だな?」
「・・・先生?」
予想していた声の主とは違うことで、利佳は顔を上げて声の方を見る。
ゆっくり近付いてきたのは父親ではなく、担任の寺田だった。
光の源である懐中電灯の余波でうっすら見えるその顔は、間違いなく寺田その人だ。
「此処に居たのか、佐々木。探したぞ。」
「先生・・・。」
「学校を見落としていたのは迂闊だった。済まなかったな。」
「・・・。」
「横、良いか?」
「・・・はい。」
利佳は自分でも聞こえたかどうか分からない小さな声で返答する。
寺田はそれが聞こえたのか、利佳の横に静かに腰を下ろす。
利佳は何を行って良いのか分からない。
父親ではなく先生が探しに来てくれたのは正直嬉しい。だが、先生に迷惑をかけたのは間違いない。
とっくに放課後は終わり、暫しの眠りについていた学校に潜り込んで身を潜めていたこと、そして散々探し回らせたことに立腹しているに違いない。
新たな恐怖に苛まれている利佳の頬に、そっと温かいものが触れる。
利佳が見ると、寺田がアルミ缶を差し出している。それは紅茶だ。
寺田は学校へ来る途中でコンビニに立ち寄り、温かい紅茶を買ったのだ。
雨に打たれた寒さで震えているであろう利佳の身体と心を暖めようと。
「ほら、これでも飲んで身体を温めろ。遠慮は要らんぞ。」
「先生・・・。」
「何だ?」
「・・・怒らないんですか?」
恐る恐るといった感じの利佳の問いに、寺田は笑みを浮かべて言う。
「家を飛び出した自分の担任する生徒が無事見つかったんだ。怒る理由なんて何処にも無いだろ?」
「先生・・・。」
「雨に濡れたんだろ。これでも羽織れ。随分違う筈だぞ。」
利佳が紅茶の缶を受け取ったところで、寺田はスーツの上着を脱いで利佳の身体にかける。
ズッシリとした重みと身体を包み込むような温もりが利佳に伝わってくる。
横でプシュッという音がする。寺田が買った紅茶のプルトップを開けたのだ。
身体を包むスーツから伝わる寺田の温もりで、寒さと恐怖と孤独感で縮こまっていた利佳の心が急速に緩んでくる。
利佳の大きな瞳からポロポロと涙が零れ落ち始める。
利佳は泣いているのを気付かれまいと、プルトップを開けて紅茶を飲み始める。
温かい紅茶が利佳の心を解きほぐし、冷え切っていた身体を内側から温める。
外と内からの寺田の気遣いに、利佳は少しずつ紅茶を飲みながら嗚咽を漏らし始める。
利佳は口を押さえて嗚咽を抑えようとするが、それより先に寺田の優しい声がかかる。
「泣きたい時は泣いて良いんだぞ、佐々木。」
「ううっ・・・。先生・・・。」
利佳は膝に顔を埋めて泣き始める。せめて声を出さないようにとするのが利佳らしいと言えようか。
小さな身体を震わせて泣く利佳の肩を、寺田がそっと抱く。利佳は紅茶の缶を置いて寺田に泣き縋(すが)る。
あまりにアンバランスな構図だが、それは恋人同士のそれと変わらない。
寺田は穏やかな笑みを崩さずに、身体を震わせて泣く利佳の背を優しく叩き、心の嵐が過ぎ去るのを待つ。
利佳の嗚咽が4年1組の教室に浮かんでは消える・・・。
どうにか泣き止んだ利佳は、寺田の胸から顔を上げる。
寺田はこれまでの経緯を話し始める。
自宅に母親から切羽詰った様子で、利佳が家を飛び出したと電話がかかってきたこと。
利佳の自宅で、沈痛な表情の母親から利佳が家を飛び出した理由を聞かされたこと。
家を飛び出した時の服装や時間から、まず駅へ向かい、もし利佳が姿を現したら自分の携帯に電話するように依頼したこと。
4年1組の全ての生徒の家を訪問し、利佳が来ていないかどうか聞いて回ったこと。
もしかしたら公園に居るのではないか、と推測して公園を探し回ったこと。
色々考えていたら、学校を探していないことに気がついたこと。
用務員に事情を話して校舎に入り、利佳が居るであろうここ4年1組の教室に向かったこと。
寺田が話し終えると、今度は利佳はポツリポツリと自分の事情を話し始める。
発表会に向けてのピアノのレッスンが、課題曲が難しいために思うように進まなくて悩んでいたこと。
レッスンの進捗状況が芳しくないことが母親に伝わり、厳しく注意されたこと。
課題曲が難しくて思うように練習が進まない、と訴えたら練習不足だ、と決め付けられて、挙句の果てに学校の成績や自分の持ち物にまで
話が飛び火して追い詰められ、その不満を反抗という形で表現したこと。
そうしたら母親に問答無用とばかりに頬を打たれたこと。
母親は自分を理解してくれていないんだ、と絶望感と悲しさでいっぱいになり、反射的に財布だけ持って家を飛び出したこと。
家を飛び出したは良いものの、友達に迷惑をかけたくないし、居場所を知られたくないという思いから行く宛もなく、雨の中を彷徨ったこと。
暫く彷徨っていたら何時の間にか学校の近くに来ていて、そこに身を潜めようと潜り込んだこと。
そして教室に入り、一人この場で蹲っていたこと。
寺田は黙って利佳の話を聞いた後、優しく利佳を諭す。
「佐々木がピアノのレッスンで悩んでいたことは良く分かった。お母さんも佐々木の事情を考慮しなかったのは問題がある。だが、勢いに任せて
家を飛び出したのは、佐々木らしくなく、ちょっと冷静さを欠いていたんじゃないか?」
「・・・。」
「お母さんも佐々木を叱り過ぎたことを後悔していた。先生もお母さんに佐々木のことをもう少し考えてやって欲しい、と言った。」
「・・・。」
「佐々木が家を飛び出したことをご両親は怒ってない。むしろ事故に巻き込まれていないかとか心配している。その心配を解消してやっても良いんじゃないか?」
「・・・私、皆に迷惑かけて・・・。こんなんじゃ帰れない・・・。」
「違うぞ、佐々木。今佐々木が帰らないことが一番、皆に心配をかけることになるんだ。」
「でも、クラスの皆や駅員さんが・・・。」
「それは先生からきちんと説明しておく。佐々木はただ、ご両親を安心させてあげることだけ考えれば良い。それ以外のことは先生に任せてくれ。」
「先生・・・。」
「帰る気になったか?」
寺田の問いかけに、利佳は少し間を置いてから無言で頷く。
それを見た寺田は小さな安堵の溜息を漏らす。
元々佐々木は素直な子だ。ただ些細なことがきっかけで親と軋轢が生じ、反発心に任せて家を飛び出してしまっただけのことだ。
そのフォローをするのは担任である自分の役割だ。寺田はそう思う。
「さあ、家に帰ろう。」
「・・・はい。」
寺田は利佳の身体を支えながらゆっくりと立ち上がる。
利佳は寺田のスーツを羽織り、冷めてしまった紅茶の缶を持って、空になった紅茶の缶を持った寺田と共に4年1組の教室を後にする。
雨の音と足音がよく響く真っ暗な廊下を寺田が懐中電灯で照らしながら、利佳の足取りに合わせて帰路に着く。
「先生のスーツって、大きいんですね・・・。」
「佐々木にはコート代わりになるかな?」
「はい。とっても温かいです・・・。」
利佳の言葉には言葉どおりの意味に加え、もう一つの意味が込められていた。
寺田はそれに気付くことなく利佳を校舎から出し、用務員に礼を言ってから利佳を車に乗せ、利佳の家に向かって車を走らせる。
家で連絡を待っていた利佳の両親は、利佳が無事帰ってきたことを泣いて喜び、母親は利佳に率直に詫びた。
それを見届けた寺田は、4年1組の面々や駅員に上手く説明して事なきを得た・・・。
それから半月後。
大きな拍手に迎えられて、初々しくも可憐なドレス姿の利佳がステージに姿を現す。
拍手をする観客の中には、利佳の両親に加え、彼らと利佳に招待された寺田の姿もある。
利佳は観客に向かって一礼した後ピアノに向かい、一転して静まり返ったコンサートホールに美しい旋律を響かせる。
難しい課題曲を着実に弾いていく利佳の姿を、寺田は満足げな表情で見守る。
利佳の思いが篭ったピアノの華麗な音が、ホールいっぱいにこだまする・・・。
to be continued...
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