謎町紀行 第79章

天狗の山での暴露劇(後編)

written by Moonstone

『主計官が登頂しました。そろそろ移動しましょう。』
『近くで見るんじゃなくて?』
『少し離れた場所でゆっくり見物しましょう。傲慢不遜な支配者気取りの欲情猿が破滅するところを。』

 シャルの毒吐きがかなり過激だ。ケーブルカーでゆったり山登りをして、名物らしい山菜天ぷら蕎麦を食べて、山頂から雄大な景色を眺めた程度で収まる怒りではないか。山頂にはかなりの人が居るし、入れ代わり立ち代りしている。その中を方やボロボロの服装で、方や痛覚や疲労麻痺でやって来る、否、誘導されてくる。
 シャルの案内で山頂から少し離れた場所にある別の展望エリアに移動する。此処はさっきまでの山頂より人が少ないけど、眺望は良好。山頂より少し低いところにあるから、山頂に人が集中するようだ。破滅の様子は此処からだと直接見えないけど、シャルの航空部隊とスマートフォンで観察の環境は万全だ。
 僕とシャルはベンチの1つに並んで座り、スマートフォンを取り出す。電源を入れると、縦長の画面が2分割されて上側にボロボロのスーツを着た必死の形相の男性、下側に同じくボロボロの服で不気味なほど無表情な女性が映し出される。初めて見る上側の画面の男性が主計官か。
 主計官は、僕とシャルが降りたケーブルカーの乗降場に差し掛かる。日はかなり西に傾いているけど、人の乗り降りの勢いはまだ衰えていない。カジュアルな服装と運動靴が基本の服装の中、ボロボロのスーツと泥だらけの革靴はかなりの場違い感がある。人々は奇異なものを見る目で主計官を見る。
 代表に追われる主計官は、人々の好奇と不審の視線に晒されながら、必死の形相で歩を進める。ハイキングには全く相応しくない服装と、昨日の深夜からまともに休憩を取れずに逃走し続けたことで、主計官の足取りはおぼつかない。意識も朦朧としているようだ。

『かなりフラフラだね。』
『支配層に上り詰めるための残業と猿との不倫には熱心でも、基礎的な体力はおざなりなようです。おかげでシミュレーションどおりに猿が接近してきています。』
『代表はどの辺にいる?』
『なかなかの勢いで登山道を駆け上がっています。痛覚や疲労を麻痺させて酷使するブラック企業の手段は、この点では間違っていませんね。』

 丸1日の追跡劇と揃っての破滅へのカウントダウンは着実に迫っている。スマートフォンの下側には、ボロボロの服で能面のような無表情という異様な出で立ちの代表が疾走している様子が映し出されている。登山道を歩いていた他の登山客は、異様な出で立ちと雰囲気に思わず道を開ける。
 スマートフォン中央のマップで、青色と赤色のマーカーがどんどん接近してくる。主計官は頻繁に後ろを振り向き、恐怖に引き攣った表情で懸命に歩を進める。一方の代表は相変わらず能面のような無表情で、しかし早い足取りで主計官に接近していく。2人はついに山頂に到着した。

「ど、どうして!私を追いかけて来るんだ?!」
「追いかけられないとでも思ったか!お前と私は心身一体の関係!逃げられると思うな!」

 山頂の一角で始まった破滅の舞台は、傍から見れば痴話喧嘩に見えなくもない。

「私のカノキタ市での母親サークルを、お前は新時代の民間活力などと持て囃し、お前の財務省の先輩のカノキタ市市長に働きかけて、カノキタ市の1組織にした!おかげで私はあらゆる市の施策を子育て世帯優先に出来た!私の目標の1つが達成された!」
「な、なにを言い出すんだ?!」
「その後も、私とお前は心身一体の関係になり、カノキタ市と東京を秘密裏に行き来して心と体を重ねた!」
「!や、止めろ!こ、こんな場所で!」
「その場でお前は何度も言った!私とお前は公私ともに共同する関係だと!共同して支配下に置いたカノキタ市を拠点として、主計官であるお前は国政に進出し、カノキタ市の1組織の長となった私はカノキタ市の市長にしようと!省の中の省、財務省の人脈を使えば容易に実現できる!そして日本を私とお前が描く理想郷にしようと!」
『理想郷?』
『直ぐに分かりますよ。』
「子育て世帯と高級官僚と資本家を頂点とし、以降、子どもを産む可能性がある独身女性と一定額以上の年金を受け取れる老人、18歳未満の若年層と据えて、最下層に18歳以上の男性と子どもを産めない女性、一定年齢以上の女性を置く社会階層による新しい日本!これこそが真の理想郷だと!」

 馬鹿げている。代表が暴露した理想郷や新しい日本というものは、働ける男性を最下層として子育て世帯と高級官僚と資本家の奴隷として、そこに子どもを産めない女性や一定年齢以上の女性をを男性と見なして加えるという、現代日本の社会階層を多少弄って固定化しただけのものだ。
 その理想郷とやらを省の中の省と言われる財務省の主計官が掲げていたことも重大だ。自分が属する高級官僚を頂点として保身を図っているのは勿論、働く世代を完全に最下層、奴隷と見なして徹底的に搾取する構図を事務次官の有力候補が描いていたことは、少なくとも支配層を自称する、ヒヒイロカネを継承し、時に奪い合っている確率が高い高級官僚などがそういう日本を目指しているということだ。

そして、その目論見通りの社会階層が着実に構築されている。

 子育て世帯や子どもを産む可能性がある独身女性を上位階層に加えたのは、代表を抱き込んでカノキタ市を拠点とした国政進出のためだろう。現代日本の社会階層に独自色を出すことで、劣勢の政権与党に食い込みやすくするためだろう。色を付けたところで自分のためでしかないことは変わりない。
 奇妙な身なりの男女の痴話喧嘩かと思って遠巻きに聞いていた観光客から、ざわめきと共に怒りの声が上がる。最下層と名指しされた男性が中心だ。女性は当惑しているのか内心それも良いかもと思っているのか、あまり目立った反応がない。子どもを産めない女性以外は上位階層とされたから、自分がもてなされて当然と考える今時の日本の女性なら悪い気はしないんだろう。
 主計官と代表の暴露劇が、複数のスマートフォンで撮影されている。生中継のようにリアルタイムでアップすることも出来るから、視聴も始まっているだろう。そこから拡散されていく。マスコミは拡散された映像の使用許可を得ようとコンタクトを取ろうとするだろう。タカオ市などと同じ後追いの構図だ。

『早速リアルタイムのアップロードとと拡散が始まっています。拡散スピードは初動段階ではなかなかのものです。』
『財務省主計官って最初に暴露されたのもあるかな。』
『財務省主計官がカノキタ市の市民団体代表と長年にわたって不倫関係にあったと既に報道されていますから、話の内容からして件の人物だとすぐ分かったでしょう。破滅の舞台は大勢の人に知られ、抹殺も隠蔽も出来ない状況にするのが最適です。』

 ある種の公開処刑し私刑の1つだけど、法の運用がまともじゃない現状では致し方ないと思う部分が増えている。法で裁かれない悪というのは連綿と存在している。SNSなど個人が強力な発信源になれる道具と環境を得られたことで、法の運用や裁判なんてものの本質が実は中世から大して変わっていないことが明らかになった。
 マスコミや法曹界の忖度があっても、情報機関や公安部署による秘密裏の抹殺があっても、それより前にSNSを介して全世界に拡散・暴露されたら、隠蔽や暗殺が隠蔽や暗殺でなくなる。学校のいじめ事件では隠蔽が通用しにくくなっているのもその一例だ。SNSは危険な面もあるけど、マスコミがすべての報道を担うよりは絶対に良い。

「お、お前もその目標に沿ってカノキタ市を実効支配できた!何の文句もない筈だ!」
「お前が私との熱愛報道で、カノキタ市入りするところがI県から霞が関へとんぼ返りしなければな!」
『そのものズバリですね。』
『分かりやすいと言えばそうだけど、本人の口から聞くと見苦しさが増したように思う。』
『下衆の口から下衆な真相が出て来たからですね。』
「あ、あれはマスコミ報道が出て、本省から事情説明の命令が来たから、急いで戻る必要があったからだ!」
「ならば、何故その本省とやらに出向かずに、ホテルに逃げ込んだ?!追ってきた私を避けて逃げるためか?!否、違う!ほとぼりが冷めるまで逃げおおせるためだ!」
「ち、違う!」
「何が違う!お前は本省の部下を使って、私の情報を探らせた!お前を追って東京に乗り込んだ私の情報を掴むや、本省の部下に命じてホテルを転々とした!」
『部下を使って逃亡と潜伏を続けていたのか。何て奴だ。』
『その部下とやらは、私が捜査した情報でホテルを手配していたんですけどね。』
『それで主計官と代表は東京で追跡劇を続ける羽目に。』
『支配者気取りの能無し官僚と、欲に溺れた雌猿は、私の掌の上の猿ですよ。』

 潜伏と逃亡の段階でも、主計官と代表はシャルの情報操作に翻弄されていた。結果、主計官は夜通しホテルを転々としながら逃げ続け、ついには代表と共にこのタカオ山の山頂に誘導された。まさしく掌の上の猿だ。

『SNSの拡散が指数関数的に加速しています。現役主計官と市民運動代表の不倫に加えて、カノキタ市を足掛かりにした新・日本改造計画という体の支配欲が露呈しました。加えて主計官はカノキタ市の選挙区で政権与党公認で立候補予定でしたから、現政権にはさらなる大打撃です。』
『ここまで暴露された後で隠蔽すると、かえって不自然だね。』
『そこまで考えが及ぶとは思えませんが、警視庁公安部やマスコミはSNSの後追いにしかならないのは確実です。』

 SNSは日本限定じゃない。シャルが見せてくれたSNSの画面には、既に特定のタグや送信先がついていて、送信先の中には海外の通信社もある。海外の通信社を対象に、主に英語で今回の暴露劇の概要を説明している投稿やリプライも複数ある。その投稿やリプライも拡散されている。
 SNS時代を象徴する、事件やその当事者にスマートフォンを向ける光景。一見不気味ではあるけど、これまでマスコミしか出来なかった生中継と、マスコミが恣意的に出来た編集や隠蔽がない、生の情報が即座に拡散される環境ではある。SNSではマスコミが頻りに映像の使用許可を求めているけど、全て「現場に来い」「横着するな」と一蹴されている。

『暴露は完了しました。猿は用済みです。』

 シャルが言うと、無表情で主計官との情事や直近の選挙の計画を暴露していた代表の動きと喋りがピタリと止まる。僅かな間を挟んでその場に膝をついて前のめりに倒れ伏す。聴衆のざわめきが悲鳴に替わる。倒れ伏した代表から鮮血が溢れだした。シャルがヒヒイロカネを取り外したことで、負傷の保護がなくなったんだろう。
 主計官は疲労に加えて腰が抜けたようで、必死に後ずさりしようとするけど立ち上がることすらできない。広がる血の海に浮かぶ代表は、指先すら動かない。まさか、極度の疲労と重い負傷でこと切れたんじゃ?

『勿論、死なない程度に処置はしてあります。救急車も既に手配して、車道で現場に急行しています。救急は警察の身柄拘束より優先しますから、ますます警視庁公安部による早期の事態隠蔽は困難になります。』
『シャルが代表を手に欠けなくて良かった。シャルに手を汚して欲しくなかったから。』
『下衆猿1匹殺すのは何の手間ではありませんが、ヒロキさんの見る目が変わるのは嫌なので。』

 シャルにとって、人1人殺すなんて蟻を潰すようなもの。その気になればこのタカオ山に居る人全員どころか、オウハチ市全域をものの数分で死屍累々の廃墟にすることくらい造作もない。しかも代表はシャルの逆鱗に触れた。本来なら用済みになった時点でバラバラに切り刻まれるか、全方位からの機銃掃射で木端微塵にされているところだろう。
 子どもを産めない女性を労働者人口の男性と同じく最下層と言い切った代表は、シャルとしては絶対許せないところ。それをある意味見逃すのは釈然としないだろう。だけど、代表は悪事と情事を全世界に公開され、今後逮捕起訴されるだろう。すべてが明らかになってから抹殺するのはもう遅い。

『警察が間もなく到着します。破滅の舞台の観客になった登山客などが通報した結果です。』
『公安?』
『いえ、110番通報で地元のオウハチ市警察署から派遣されてきた刑事警察です。警視庁公安部より確実に早く到着します。』

 救急車の到着から少しして、地元警察署の警官が数名現場に到着した。主計官は逃げようとするけど、体力が限界に達しているから、周囲を取り巻く登山客の視線と罵声を浴びるしかない。代表は担架に乗せられて救急車に、主計官は警察に周囲を囲まれてパトカーに連れていかれる。
 ここでも登山客から主計官を逮捕しないことへの批判が勃発して、一気に広がる。主計官の悪事は明らかだし、シャルの掌の上で踊らされたとはいえ潜伏と逃亡を続けていた。所謂「逮捕の要件」に引っ掛かるから普通なら手錠をかけて何時何分何秒身柄拘束とするところを、数人の警官で囲んでパトカーに乗せるだけなのは扱いが違うと言われても仕方ない。

『処罰が決まるまで、公務員の身分はそのままです。一介の地方公務員の警官から見て財務省主計官は天上人のようなもの。手錠をかけるのは憚られるんでしょう。』
『無意識に態度を変えているんだね。』
『警察は上意下達の縦社会、階級社会です。階級が上の人間には絶対に逆らわないことが警察という組織で生き残る絶対条件です。組織の論理と社会通念にずれがあることに気づかないのは、警察に限ったことではないですが。』

 主計官への批判より主計官を逮捕しない警察への批判の方が強いという、一見不思議な状況の中、主計官はパトカーに乗せられる。この一部始終もスマートフォンで撮影されている。警察批判もまた強まるだろう。相手が国会議員や大企業経営層、高級官僚など所謂上級国民だと扱いが違うことは、今までのヒヒイロカネ関連の顛末でも明らかに出ている。
 主計官が「支配者の証」として代表に渡したヒヒイロカネは回収できた。だけど、今までの顛末より釈然としない感覚が強い。回収できたヒヒイロカネの量じゃなくて、ヒヒイロカネに纏わりつく日本の支配層の歪んだ感覚や思考、そして大枠でそのとおりに社会階層が形成されている事実の巨大さが、ヒヒイロカネより格段に大きいことが理由だろう。
 その上、支配層に深く食い込んで暗躍している人物の存在が明らかになった。まだ顔も姿も分からないその人物は、シャルと同じ世界の人間である確率が高い。今まで手配犯のうち2人が身柄拘束に至った。1名は過去の偉人である確率が高い。問題の人物はあと何名かのうちの1人かもしれない。

『手配犯は全部で12人います。』

 警察への罵声一色になる中、主計官を乗せたパトカーと代表を収容した救急車が現場を去り、動画を終了したシャルがダイレクト通話で話してくる。

『ヒロキさんの言うとおり、新道宗の教祖桜蘭が手配犯の1人である確率は非常に高いです。桜蘭を除くと、2名は身柄を拘束しましたから、残るは9名です。』
『多少の年代の違いはあっても、現代に数名が逃げ込んだ確率は十分あるね。』
『はい。時空転送装置は複数台設置されていたので、ある程度場所を合わせることは可能だったと考えられます。』
『流石に時代までは絞り込めなかったのか。』
『…時空転送装置は、場所の設定より時代の設定が複雑です。それに、追跡を困難にするためでしょう、手配犯は最後の1名が自分の転送直後に時空転送装置を爆破するように仕掛けました。逃亡を急いでいた手配犯は、場所をある程度合わせ込めても、時代までは合わせる時間的余裕がなかったと考えられます。』

 時空転送装置の形状や操作方法は推測の域を出ないけど、色々なボタンやダイアルを操作しないといけないんだろう。IDカードをタッチしたら音声案内で好きな時代や場所に行ける簡単な操作だと、手配犯の逃亡のような非常時に悪い方向に働く。セキュリティが必要な装置には敢えて複雑な操作を組み込むことがセキュリティにもなる。
 それは兎も角、逃亡・潜伏中の手配犯があと9人いて、そのうちの1人が日本の支配層に食い込んでいる確率が高いという現状。この顛末でその人物が何かしらアクションを起こすかと思っていたけど、逆だったかもしれない。地元警察に連行され、破滅の舞台の動画も拡散された主計官を助けることはしないとは思っていたけど、抹殺の動きも今のところない。
 考えてみれば、ヒヒイロカネが支配者の証とされている支配層の環境では、悪事-もっとも彼らにはそんな認識はないだろうけど-が白日の下に晒されて脱落すれば、ヒヒイロカネのパイに余裕が出来る。支配者の証の争奪戦のライバルは少ない方が良い。主計官の脱落は他の支配層の面々にはむしろ好都合か。

『これから主計官と代表はどうなるかな。』
『市や県の財政を横領していたとか、業者から賄賂を受け取っていたとかなら、業務上横領や収賄の罪に問われます。ですが、主計官と猿は、ご都合主義と形式主義の塊とは言え、市議会を通過した市の条例に基づいた施策を実施しただけで、日本の刑法に抵触する犯罪行為は行っていません。』
『ということは、無罪放免?』
『刑法的にはそうなります。警察も国民の批判を恐れて書類送検はするでしょうけど、起訴相当の犯罪行為をしていないので、検察は不起訴処分にせざるを得ないでしょう。』
『不倫もそれ自体は罪じゃないんだよね。』
『はい。双方の配偶者や周囲から道義的責任や慰謝料請求を起こされるでしょうけど、不倫そのものを罰する法律の条文は、刑法にも民法にもありません。』

 釈然としない感の理由は、恐らくこれ-主計官と代表がその行動の結果を公開の場で問われ、罰されないことだろう。カノキタ市の市民に深刻な分断を齎し、市と県の財政を食い潰し、子育て施策以外の行政サービスを大幅に停滞・後退させた。これらは容易に戻るものじゃない。
 条例が廃止されれば、優遇され過ぎた子育て施策は是正あるいは廃止されるだろう。だけど、人の感情は条例の改廃で直ちに変わらない。頂点とされて好き放題した子育て世帯は、この騒動を契機に一気に冷遇される立場になるだろう。カノキタ市での調査や代表の暴露の一部始終を聞いた聴衆の反応からして、何事もないとはとても思えない。
 勿論、条例と施策を悪用して我がまま横暴の限りを尽くした子育て世帯は、厳しく批判されるべきだし、言動を真摯に反省する必要がある。だけど、カノキタ市の社会階層の上下が入れ替わったところで何も変わらないどころか、「あの時代をもう一度」となりかねない。カノキタ市市民の判断と行動が求められる。

『カノキタ市で、市長と市議会のリコール運動が始まりました。』

 シャルがスマートフォンの画面を切り替える。市役所前でのSNS映像だとシャルから補足説明がある。カノキタ市の市長と市議会にリコールを呼びかけられ、次々と署名に応じている。

『市長は実績欲しさに猿の言うがままに条例を提案し、市議会は子育てというお題目で盲目的に全会一致で承認しましたから、責任追及は避けられません。』
『責任と言えば、代表が率いていた市民団体はカノキタ市の市役所の一組織になったんだよね。そちらはどう?』
『市役所内部で追放の動きが出て来ました。一応市役所の一組織ですからそう簡単には解雇できませんが、リーダーと後ろ盾がなくなった野合の集団は、何れ市役所で冷や飯を食わされるか自ら出ていくかを迫られるでしょう。』

 前例がないことを実行すること自体は否定しない。むしろ、「前例がないと箸も持たないが、前例が出来れば人殺しも定型処理する」と揶揄される前例主義は、社会を硬直化させ、個人の挑戦を阻害する有害な考え方だ。問題なのはその行動の理由と結果。育児サークルという体でカノキタ市全体を私物化したことだ。
 シャルが言うとおり、代表は破滅したし、公私ともに共同体制を敷いていた主計官は失脚が確実。市長と市議会も抵抗はするだろうけどリコール成立で失職・解散の可能性が濃厚。育児サークルが食い込んだ市役所の課は解体か他の部署に統合されて、居場所を奪われた他のメンバーは辞職を迫られるだろう。
 子育てや育児環境の充実という体をなしてはいたけど、主計官や代表がしたことは結局のところ、他の顛末でも見られた行政の私物化。財政負担を増やし、市民に分断を齎した。直接の死傷者が出ていないことがせめてもの救いだろうか。大した救いじゃないかもしれないけど。

『支配層に食い込んでいる人物-以降Xとしますが、Xはいずれヒロキさんと私の前に姿を現すでしょう。』
『そう…かな。このまま潜伏し続けて裏から操ることに徹するんじゃ?』
『ヒロキさんと私がヒヒイロカネの捜索を回収を続けていけば、Xの邪魔になってくるでしょう。これまでにも政権与党の重鎮や癒着している大企業の企てを阻害しましたし、今回、支配者の証として出回っていたヒヒイロカネの1つを回収したことは、Xの耳に入る筈。』

 確かに、今までの回収の過程で大なり小なり政権与党や関係者の利権を破壊した。特に、ナチウラ市とヒョウシ市での元財務相、ココヨ市やハネ村を中心とするA県全域でのホーデン社とA県県警は、政権与党に密接に関係する利権や野望だった。それらを破壊したことは、今でも少なからずシャル命名Xが知るところだろう。
 政権与党や大企業経営層、高級官僚など日本の支配層に食い込んで何かをしているXにとって、支配層の利権を破壊することは自分の足場を揺るがされることに繋がる。Xは自分の足場を破壊していく動きを調べて、それが僕とシャルによるものだと知ることは十分あり得る。
 今までもそういう展開がまったく予想できなかったわけじゃない。元財務相の核兵器発射施設建設は、核兵器を抑止力と見なす政権与党の考えの延長線上にある。関係者の犯罪や不祥事の揉み消し、公安警察主体の労働運動や市民運動の妨害は、政権与党とその走狗の側面を持つ警察の公然の秘密だ。
 その動きを結果的に妨害・頓挫・破壊した僕とシャルの行動は、政権与党をはじめとする支配層、そしてXには非常に目障りに違いない。僕とシャルの存在が利権の破壊、つまりは自分達の足元を脅かすものだと知ったら、Xは政権与党を動かして、僕とシャルを始末しようとするだろう。

『ヒロキさんと私を始末しようとするなら、こちらが奴等を始末すれば良いことです。』

 ダイレクト通話で僕の頭に届いたシャルの声には、一切の迷いはない。

『欲に溺れ、ヒヒイロカネを支配者の証と崇拝し、血で血を洗う争奪を繰り広げる輩は、この世界とそこで生きる人々にとって有害でしかありません。大人しくヒヒイロカネを渡せば、後の裁きはこの世界と法秩序に委ねますが、それを超えてでもヒヒイロカネに固執するなら、破滅してもらいます。』
『…殺すことも辞さない?』
『ヒロキさんも体験したように、残念ながらこの世界でも自分のためなら殺人も厭わない輩がいます。法が及ばない、法を踏み越える輩を相手にするには、法の順守では不可能です。非合法で挑戦してくるなら非合法で対処する。それだけです。』

 法の下の平等と日本国憲法は謳うけど、残念ながら実態は乖離している。所謂上級国民が、同じ犯罪容疑でも逮捕拘留されずに、長々と支離滅裂な逃げ口上を続けたり、そもそも一般人なら起訴実刑確実な容疑でも不起訴処分になる。SNSの発達で法の下の平等という建前のメッキが剥がされた。
 法が及ばない、言わば裏社会は、暴力団やマフィアといったアウトローな存在が鎬(しのぎ)を削る世界であり、普通に生きている分には無縁な世界だと思っていた。だけど、実際は紙一重で隣り合わせていてて、ふとしたきっかけで重なる。しかも構成者は政権与党や高級官僚や大企業の経営層といった連中だということ。
 人数の面では、僕とシャルは圧倒的に不利。しかもXは支配層に食い込んでいるから、国家体制の維持を大原則とする警察を動かすことも十分あり得る。日本全国、ひいては世界中で追われる立場になるかもしれない。そんな状況下で法的に正当な迎撃をしていては、まず間に合わない。残念だけど、それが事実だ。

『警察にしろ軍隊にしろ、この世界のレベルでは私に傷1つ付けられません。無駄に死人が出るだけですよ。』
『文明の水準が桁違いだから、シャルは大丈夫そうだね。』
『忘れないでください。私はヒロキさんのサポートでありパートナーなこと。ヒロキさんへの攻撃は私への攻撃です。全力で防衛・反撃します。』
『その気持ちは嬉しいけど、1つだけ約束してほしいことがあるんだ。…出来るだけ人を殺さないで。』

 戦争-敢えてこう表現する-で死ぬのは命令で動員された末端の人間。本丸である上層部を叩かない限り、末端の人間は無謀な戦争に送り込まれ続ける。厄介なことに、精神論ですべて解決できると本気で思っている人間が、日本の支配層に多い。精神論が大好物の体育会系優遇が齎した悪弊の1つだ。
 シャルの能力やこれまでの結果を見れば、この世界の軍隊が束になったところで全員木端微塵にされるのがオチだろう。だけど、殺人はあらゆる犯罪行為の中で大きな一線を越えたものだと思う。僕は甘いのかもしれないけど、シャルの手が他人の血に塗れるところは見たくない。

『甘いとは思いません。生命の強制終了の場面を極力避けたいと思うのは人間の自然で普遍的な考えのようですし、私に殺人という犯罪行為をさせたくないというヒロキさんの気持ちも理解できます。』 『…。』
『ヒロキさんの要望どおり、死なないように極力手加減はします。ただし、相手の出方によってはこの限りではありません。』
『何が何でもとは思ってないよ。シャルの言うとおり、非合法で襲ってくるなら非合法で対応するしかないと思ってる。相手はその辺容赦ないだろうし。』

 この先、どういう形でXが攻勢を仕掛けて来るか分からない。少なくとも「待ってくれ」は通用しないことくらいは分かる。それに、Xは僕とシャルの抹殺も躊躇わないだろうということも。今までヒヒイロカネに魅入られ堕ちた輩は、殺人も何ら躊躇しないどころか、自分(達)の目的のためには必要な選択肢の1つとすら見なしていた。それと同じだ。
 ヒヒイロカネは捜索と回収だけじゃ済まない確率が高くなった。とは言え、今までとさほど変わりはない。むしろ、今回は追跡や戦闘がかなり少なかった方だ。戦闘では僕が出来ることは殆どないけど、追跡や知恵を出すことは出来る。これも変わらない。今までどおりという見方が出来る。

『主計官はヒヒイロカネを持ってなかったの?』
『昨夜の段階からスペクトル解析を続けましたが、所有していませんでした。自宅にもなかったので、あの猿に渡していたものが主計官の所有物もしくは獲得物だったようです。』
『やっぱり、いずれ自分が首相になって、代表がカノキタ市の市長になったところで、支配者の証として返還させるつもりだったのかな。』
『そのとおりです。猿の脳に直接尋問した際に判明しました。カノキタ市を足場とする日本の統率達成時に、主計官に支配者の証を返却するだった、と。ヒロキさんの以前の推測のとおりでした。』

 何のつもりで主計官が代表にヒヒイロカネを渡したのか分からないけど、それが僕とシャルにとっては奏功した。主計官の身柄を秘密裏に確保して尋問するのは、警備からして相当困難だっただろうし、Xに知られることになった危険性が高い。どちらにしても主計官の今後は破滅だろうけど、それこそ自己責任というやつだろう。

『この件は…これで完了かな。釈然としないけど。』
『そう判断して良いと思います。一旦タザワ市のホテルに戻りましょう。』

 歪な社会階層を基礎とした国と地方自治体の支配計画はひとまず頓挫した。だけど、大筋の支配計画は着実に進行していて、それを実行する証明書か何かとして、ヒヒイロカネが存在する疑惑が濃厚になった。それはつまり、ヒヒイロカネの捜索と回収は、日本の支配層との対峙に繋がると考えて良いということ。
 「かつてこの世界にあったが、今はこの世界にあってはならない」というヒヒイロカネの捜索と回収の理由は、さらに明瞭になった。この世界は、ヒヒイロカネを正しく使うことが出来ない。強欲を強め、傲慢にさせる。倫理や自制を小馬鹿にするこの世界では、さながらヒヒイロカネは破滅に導く悪魔との契約書だ。
 今回の捜索分で発覚したヒヒイロカネは回収した。ヒヒイロカネに魅入られて欲の権化と化した主計官と代表は破滅した。僕とシャルには、主計官と代表が裁きを受けたり、失脚したりする様子を見届ける義務も謂れもない。次のヒヒイロカネの捜索に向けて頭を切り替える必要がある。
 タカオ山を降りて麓の駅から1駅移動して、駐車場に止めておいたシャル本体に乗り込んでオウハチ市を後にする。此処からタザワ市まで3時間くらいかかったかな。帰路は少しのんびり行きたい。釈然としないのも勿論だけど、何となく、これでこの件は終わりといかないような気がする…。
 無事タザワ市の拠点のホテルに到着。雪は降っているけど穏やかというか控えめというか。丁度夕食時だったから、疲れを癒すため食事を選択。ホテルのレストランへ向かう。シャルが食べてみたいという中華のフルコースを注文する。一部は時間がかかるそうだけど、時間はたっぷりある。

「一件落着、ということで。乾杯。」
「乾杯。」

 食前酒として出された、グラス入りの日本酒で乾杯。口の中にふわりと広がる芳香が心地良い。

「遠距離の運転、お疲れ様でした。」
「帰りは事故とかなくて良かったよ。」

 往路は突然の事故で-何時何分に事故を起こしますって分かるのはテロくらいだ-足止めを食らったけど、復路は至って順調だった。食事はホテルですると決めていたから、休憩程度しかSAは出入りしなかったけど、2人で飲む自動販売機の温かい紅茶が不思議と美味しく感じた。
 終わり方は釈然としないけど、タザワ市をはじめとするI県全体には悪い印象はない。雪が氷であり、積もれば氷の塊と化す過酷な環境下で息づく暮らし。それを支える豊富な食材と食事。シャルもスムーズに受け入れられた、今も飲んでいる日本酒。この季節に雪深いI県を回れたのは良かった。

「食べ物のバリエーションが豊富で良いですね。」
「シャルは辛いものも大丈夫みたいだね。」
「辛いと一口に言っても、塩や香辛料の辛さとまた違うので、興味深いんです。」

 シャルの食への興味は、味の分析という側面もあるようだ。所謂人工知能で最も難しいのは、感情や観念的な事象だという。個人によって受け止め方や考え方が異なる観念的な事象は、自我や感情、好みというものがあって初めて成立する。人間らしさに不可欠な要素だけど、この世界ではまだそれを実現するには至っていない。
 今回回収できたヒヒイロカネは、人格などが入っていないプレーンだった。一方、今まで回収できた中にも、人格を持つヒヒイロカネがあった。殆どは動物程度のものだったけど-それでもこの世界の人工知能より格段に知能らしい-タカオ市のものはかなり高度なものだった。
 Xを介して支配層に深く広く認識されているんだから、もっと高度な人工知能を搭載したヒヒイロカネがあっても不思議じゃない。だけど、支配者の証とされたヒヒイロカネは、別に金の延べ棒でも大きなダイヤでも置き換えが出来そうなもの。単純というか捻りがないというか。
 次の行先になる候補地はシャルが分析して提示する。かなりの数が日本にありそうなのは良いのか悪いのか。日本だと極端に不味いとか口に合わない料理は殆どないから、滞在期間中に食事がストレスの要因になる危険が低いのは、良いと思うべきだろう。料理が美味いに越したことはないけど。

『次の候補地の前に、一旦マスターのところに行きたいです。』
『それは構わないけど、何かあったの?』
『今後のために、機能を強化しておきたいんです。』

 あの老人ことマスター。僕とシャルが出逢うきっかけになった人物であり、僕がこの旅に出るきっかけを作った人物。旅に出ることを決意したと告げに行った以来になる。そしてシャルが言った機能強化。シャルは確実に今後を見据えている。僕に出来ることは…あるだろうか?