謎町紀行 第70章

非子育て世帯のディストピア(前編)

written by Moonstone

 朝、目覚めてからシャルと朝風呂と朝食を堪能して、シャルとの思い出を幾つも生んだオクセンダ町を後にした。次に示された候補地である、オクセンダ町から北東に200kmほど走った先、カノキタ市を目指して、北沿海(きたえんかい)自動車道を走行中。ちょっと眠気が残っていたけど、SAやPAでの休憩を長めに取ることで対処している。

「カノキタ市、か。初めて聞く名前が続くよ。」
「ヒロキさんも初めてですか?」
「うん。このあたりは…社員レクリエーションの旅行で1回行ったくらい。」
「この地方も温泉が豊富らしいですよ。合間に行きましょうね。」
「うん。そうしよう。」

 一瞬嫌な思い出が蘇ったけど、向かいに座るシャルの笑顔で「あんなこともあったな」と思い直せる。そのシャルの左手薬指には、昨日交換したばかりの指輪が光っている。指輪はサイズの割にかなり良く目立つと実感する。エメラルドの有無はあまり関係ない気がする。
 シャルの場合、意識的に左手を見えるようにしている感がある。今いるセンガミネSAのレストランに入るまで、シャルに視線が集中した。ここまでは今までどおりだけど、かなりの割合で残念そうな顔あるいはほっとした顔で-前者は男性で後者は女性-シャルから視線を外すようになった。
 その理由がシャルの左手薬指に填まる指輪だろうと推測するには、さほど時間はかからなかった。今朝旅館で朝食が運ばれてきたり、フロントでチェックアウトする時、仲居やフロント係がシャルに指輪の存在を指摘した。その時、シャルは左手を机やカウンターに置いていた。
 「指輪をされてますね」「結婚指輪ですか」と聞かれた時、シャルは即答で肯定した。その時の心底嬉しそうな顔と言ったら…。フロント係や仲居数名に見送られて旅館を出てからも、シャルは時々左手に視線を向けている。シャルは指輪を見せることで視線を弾くと同時に、自分の幸せをアピールしているようだ。

『指輪は予想以上に視線を弾く効果がありますね。』
『既婚者に敢えて声をかけたりちょっかいを出す人は、少ないと思うよ。』
『見るのは勝手ですけど、見るだけじゃ気が済まない欲望剥き出しの視線は不快ですから、それも殆ど弾けるのは良いです。』
『指輪って、サイズの割に意外と目立つみたいだね。僕の方は大して効果はないけど、シャルは格段に視線除けの効果が出てるって分かる。』
『見る目のない女性が多いですね。ヒロキさんと逆のタイプを選んで浮気だのDVだの嘆いたところで、そういう男性が好きなんでしょうに、で終わる話です。』
『何とも辛辣な…。』

 少し遅い昼食を選んで注文する。この辺りは海に近いのもあってか、魚料理が多い。O県とH県は山奥での行動が中心だったから、魚より肉が多かった。長距離移動が多いこの旅は、行く先々の気候や立地によっていろいろな食べ物と出会う。不条理や理不尽に直面することが多いこの旅の貴重な癒しの時だ。
 次の目的地であり候補地のカノキタ市は、「ママの町」と言われているそうだ。僕はこの辺の地理に疎いし-この辺に限ったことじゃないけど-、カノキタ市自体初めて聞く名前だから、どういう町なのか見当がつかない。通称からして子育て施策が充実した自治体なのか、と思う程度の漠然としたイメージが精いっぱいだ。

「子育て支援策が充実しているのは事実です。」
「そうなの?僕の適当なイメージなんだけど。」
「カノキタ市があるI県では断トツ、全国でもトップクラスですね。」

 シャルがテーブルにスマートフォンを出して、カノキタ市の子育て施策を表示する。妊娠が判明した時点で、まず100万円。これだけでも驚きだけど、検診はすべて無料。出産で100万円。2人目以降は150万円、200万円…と50万ずつアップしていく。1人子どもが出来るとそれだけで200万円貰えるわけだ。
 子どもの医療は入院・通院共に満18歳の年度末まですべて無料。更に市営住宅の優先入居や抽選漏れでも家賃補助がある。市営住宅の場合、家賃は通常の1/5。家賃補助も3/4支給で最高額が10万円。持ち家を買う場合、関連手続きの代金がすべて還付される。至れり尽くせりだ。

「僕は子育て施策には疎いから他との比較は出来ないけど、凄い金額の補助だね。」
「カノキタ市はI県の中では中堅クラスの規模ですが、子育て施策の財政規模はI県の数倍です。」
「そんな子育て施策の町とヒヒイロカネは、あまり結びつくイメージがないんだけど。」
「確定ではないので、存在しないこともあります。アヤマ市にはヒヒイロカネが存在しなかったのと同じです。」
「行った先の現象とかが糸口になることはあり得るね。」

 確かに、直近のヒヒイロカネ捜索はO県とH県をまたにかける大規模なものだったけど、最初に候補地として出されたアヤマ市にはヒヒイロカネはなかった。だけど、そこで発生していた不可思議な現象の手掛かりを探るうちにヒヒイロカネの存在が浮上した。先入観を捨てる必要があるな。

「今日はどこに泊まる?」
「カノキタ市の南、タザワ市で宿を確保しました。カノキタ市は宿泊には向きません。」
「タザワ市は知ってるよ。そういう位置関係だったのか。」

 タザワ市はI県の県庁所在地で、有名なタザワ城跡とそれを取り巻く庭園である巻藤園(かんとうえん)がある。地理に疎い僕でも名前や城跡、庭園くらいは知っている。ヒヒイロカネはタザワ市にありそうなイメージだけど、あからさまではある。やっぱりイメージで決めつけるのは判断を誤ることに繋がる。
 宿については心配無用。シャルはリーズナブルなものでも立地や駐車場、目的地へのアクセスや周辺環境を分析して良好な宿を選んでくれる。それに、タザワ市は名前こそ知っているけど訪れたことはない。タザワ城跡や巻籐園を見に行く時間があるか分からないけど、遠目に見るくらいは出来るかもしれない。
 昼食を済ませて北沿海自動車道を北上。この時海沿いを走るところが多くて、天気が良好で水平線が一望できたのもあって、シャルは歓声を上げていた。前のヒヒイロカネ回収の中心地だったハネ村やイズミ町は山奥の自治体で、海から遠く離れていた。海は何だか遠い世界を感じさせるから、僕も結構好きだ。
 予定どおりの時刻にタザワ市に入った。シャルが確保した宿は、なんと巻籐園が道路を挟んで向かいにある立地。道路の混雑がかなり激しくて、車線の一部が右折レーンや左折レーンに変貌する初心者殺しの箇所が多かったけど、シャルのHUDでのサポートに従ったことで無事に駐車場に入れた。

「見てください。ライトアップされてますよ。」

 チェックインして部屋に入ると、シャルが早速窓辺に向かって言う。部屋が最上階でかなり広い。建物や大きな通りがライトアップされていて、巻籐園全体が朧気ながらも一望できる。普通に泊まると値段にしり込みするだろうけど、この旅ではただ立地や眺望を堪能できる。

「観光名所を間近で一望できるホテルに泊まるなんて思わなかったよ。」
「今日の経路で想像できると思いますけど、このホテルはインターから近くてカノキタ市へのアクセスも良好なんです。ホテルの設備も充実していますし、拠点とするには丁度良いと思って。」
「凄く良いホテルだよ。シャルが選んでくれて良かった。」
「折角の2人旅ですからね。拠点では快適に過ごしたいんです。」

 宿では睡眠だけでも7,8時間だから1日の1/3くらい、その他に朝食、時々夕食と入浴を加えると、1日の半分近くを過ごすこともある。特に睡眠は重要だ。宿を出てから戻るまでシャル本体と徒歩での移動が多い。この疲れをしっかり取り除くには睡眠が不可欠だけど、主に騒音で十分睡眠が取れないと翌日の行動に差し支える。
 ホテルの質は値段相応の部分が多い。部屋の広さは言うに及ばず。防音やベッドの質、設備、立地、料理などなどは、コストとして料金に反映されると見て良い。この旅で金銭の心配が不要なのは、睡眠をはじめとする休養や気分転換の重要性をマスターことあの老人が認識しているからだろう。

「食事に行こうか。」
「はい。ホテルの日本食レストランで海鮮フルコースがあるそうです。そこへ行きましょう。」

 名前からして豪勢なイメージがある海鮮フルコースは、海に近いタザワ市の特徴だろう。候補地のカノキタ市の調査は明日からとして、I県での初日を満喫しよう…。
 翌日。よく寝たけどちょっと眠い中、ホテルの1階にあるイタリアンレストランで朝食。イタリアンだけかと思いきや、和風洋風織り交ぜたビュッフェ形式。パスタやピザがあるのは店らしいメニューだ。適当に取り分けて席に着いて「いただきます」。穏やかな時間が心地良い。

『カノキタ市について調べたところ、高評価と不評が極端に分離しています。』
『SNSとかだと、殆どはそうなるんじゃない?』
『今回は世帯構成で明確に分離されます。』

 カノキタ市のSNSなどでの評価は、子どもがいる家庭、特に子だくさんの家庭ほど評価が高い。「この世の楽園」「住むならカノキタ市一択」など称賛が並ぶ。一方、独身者からは「税金地獄」「独身者は二級市民どころか奴隷」といった辛辣な評価が目白押し。子どもが独立した世帯も似たような傾向だ。
 シャルが調べたところ、独身世帯など子どもがいない世帯には、カノキタ市独自の条例によって住民税が大幅に加算されるそうだ。カノキタ市の突出した子育て施策は、国やI県からの補助金に加えて、子どもがいない世帯からの収奪で成立している。だから世帯構成によって評価が極端に分かれるわけだ。
 企業は東京からのアクセスが比較的良好で有名なタザワ市に拠点の営業所を持つことが多いけど、広大な面積を必要とする工場は地価で不利-東京とかよりは安いけど-。そこで、巻籐園もあるタザワ市中心部北沿海自動車道でインター2つ分の距離にあるカノキタ市に立地されることが多い。
 カノキタ市はそういう企業立地を見込んでか、土地がかなり安い。インターもあるし、道路も整備されている。企業の工場が幾つか建設されて、ついでに都心部での立地がまず不可能な火力発電所も、海に隣接している立地を生かして誘致した。工場は電力も大量に消費するから、火力発電所が近くにあるのはメリットだ。
 一方で、工場は正社員や期間工と雇用形態は違っても、男性の独身者が多い。企業は土地の安さに目をつけて独身寮を建設するけど、条例に基づいて住民税を搾り取られる。新卒だと独身寮で何とか生活できるくらいだというから、住民税は相当高額なんだろう。だけど、タザワ市は賃貸住宅が割高だし、冬場の降雪という難敵もあって転居がままならない。
 結婚して子どもを儲ければ良いという輩もいるだろうが、昔みたいに斡旋されるわけでもなし、兎角恋愛は男性が選ばれる立場、言い換えれば不利な立場になりやすい。それに高額な住民税で遊んだり遠出したり金銭的余裕がなくて、休日も独身寮に籠る男性が多い。結果、高額の住民税を搾取され続けるか、止めて逃げ出すか、転勤転職の機会を待つしかない。

『独身者や子どもがいない世帯を犠牲にした施策か…。議会で反対は…出ないんだろうね。』
『通常だと市民の増税に反対する政党が、この施策には賛成して全会一致でした。子育て施策に反対する方が悪というイメージもあるでしょうけど。』
『政治は全体を見て考えるものじゃないのかな。子育てや子どもを理由にすれば何でも許されるって考えは危険だよ。』
『そのとおりです。残念ながら、そこまで考えが及ばない人の方が多いのも事実です。子どもを持てば分かる、と子どもを免罪符にする向きもありますし、子育て施策に反対するイメージの悪さを逆手にとって、自分達が潤うことしか考えない。子育て利権と言うべきでしょうか。』

 妊娠前は妊婦や子連れを憎悪して、妊娠したら自分を優遇・配慮しないと周囲を憎悪し、子どもが出来たら子育てに優しくないと夫や夫の両親、社会や会社を憎悪する向きが、配慮や子育て支援の美名の下に正当化される向きが強まってる。カノキタ市は徹底的に子育て世帯に配慮した結果、それ以外の世帯にはディストピアになった自治体だ。
 恩恵を受ける世帯はカノキタ市に定住したいだろう。一方、高額な住民税を収奪されるそれ以外の世帯は、可能なら脱出したいだろう。だけど、それもままならないほど税金を搾り取られる。奴隷という表現はあながち間違いじゃない。
 シャルの言うとおり、政党や政治家なら、恩恵が特定の層だけで他が著しい不利益を被るなら、公共事業だろうが子育て支援だろうが反対したり問題点を指摘すべきなのに、子育て支援なら無条件に賛成するのは日和見主義との誹りを免れない。議会や政党のチェック機能が子育て支援に機能しないなら、それはチェック機能とは言わない。

『政治は全体を見て考えるものじゃないのかな。子育てや子どもを理由にすれば何でも許されるって考えは危険だよ。』
『そのとおりです。残念ながら、そこまで考えが及ばない人の方が多いのも事実です。子どもを持てば分かる、と子どもを免罪符にする向きもありますし、子育て施策に反対するイメージの悪さを逆手にとって、自分達が潤うことしか考えない。子育て利権と言うべきでしょうか。』

 妊娠前は妊婦や子連れを憎悪して、妊娠したら自分を優遇・配慮しないと周囲を憎悪し、子どもが出来たら子育てに優しくないと夫や夫の両親、社会や会社を憎悪する向きが、配慮や子育て支援の美名の下に正当化される向きが強まってる。カノキタ市は徹底的に子育て世帯に配慮した結果、それ以外の世帯にはディストピアになった自治体だ。
 恩恵を受ける世帯はカノキタ市に定住したいだろう。一方、高額な住民税を収奪されるそれ以外の世帯は、可能なら脱出したいだろう。だけど、それもままならないほど税金を搾り取られる。奴隷という表現はあながち間違いじゃない。
 シャルの言うとおり、政党や政治家なら、恩恵が特定の層だけで他が著しい不利益を被るなら、公共事業だろうが子育て支援だろうが反対したり問題点を指摘すべきなのに、子育て支援なら無条件に賛成するのは日和見主義との誹りを免れない。議会や政党のチェック機能が子育て支援に機能しないなら、それはチェック機能とは言わない。
 今のところ、カノキタ市の現状とヒヒイロカネの関係性は見えない。だけど、議会や自治体の無策無能につけ込んで搾取したり、黒幕となってヒヒイロカネの隠蔽や悪用の舞台にするのは、これまでにもあった。シャルの分析で候補地とされている以上、何かしらの手掛かりがある可能性がある。

『ひととおり現地で調査した方が良いね。何か表に出ていない事情があるかもしれない。』
『私もそう思います。幸いと言うか、住民でなければ住民税の増額は適用されません。このホテルを拠点にして調査しましょう。』

 手掛かりは今のところ何もない。何もないから現地に赴いて人と会話して、図書館で調べて、店に入る。その中から断片でも何かが見えてくるかもしれない。地道な調査と検証の繰り返しでヒヒイロカネとそれに纏わる影が浮かんでくる。その繰り返しで今まで旅を続けてきたし、これからも続く。
 朝食を済ませて出発。シャルの提案でまずカノキタ市の中心部を回ってみることにする。中心部は市役所の他、図書館、企業の事務所が集中しているそうだ。異様なまでの子育て世帯優遇とそれ以外の世帯からの収奪を続けるカノキタ市の本丸にいきなり踏み込む形だけど、だからこそ異様さの原因が見えるかもしれない。
 カノキタ市へは、タザワインターから南へ2つ分。北沿海自動車道だと10分程度で行ける。カノキタ市は南北に長い土地だからか、インターが北と南に1つずつある。人口規模からするとインターが2つあるのは珍しい部類だ。工場が多いことで、製品をタザワ市や周辺の大都市に運搬するアクセスを見込んでのことだろうか。
 カノキタ市の中心分は、北側のインターであるキタカノキタインターから入る。何だか早口言葉みたいな名前だけど、「キタ」の位置を変えても早口言葉の印象がある。ちょっと面白い名前のインターを降りて、県道59号線を少し北上すると、カノキタ市の中心部に入る。
 予想に反して、見た感じでは明らかに怪しいところはない。県道から見える鉄筋コンクリート5階建ての市役所は、ごく平凡なもの。人通りより車の数が多いと感じる、何処にでもある車社会の地方都市そのものだ。シャルのHUDでのサポートに従って、近くの大型ショッピングセンターの駐車場にシャル本体を止めることにする。

「このショッピングセンターは、全国展開しているところだよね。」
「はい。色々な店が入っているので、不特定多数の人が出入りします。情報収集には良い環境です。愚痴や井戸端会議から思わぬ情報が漏れてくることもあり得ます。」
「なるほど…。だとすると、飲食店に行くのが良いかも。子育て世帯が入るような店。」
「それなら、1階にあります。行きましょう。」

 ショッピングセンターでの情報収集は盲点かもしれない。特にこの町で優遇される子育て世帯が入る店や、逆に子育て世代が寄り付かない店で、色々な情報の断片が漏れ聞こえてくる可能性がある。最初から正解に行きつくわけじゃない。情報のかけらを集めるのがこういう調査の目的だ。
 僕がシャル本体を止めた駐車場は、屋外の平面駐車場。シャルが良い位置を見つけて案内してくれたから、横断歩道を渡ってすぐ入れる。入ったところにインフォメーションボードがある。1階は飲食店が半分くらい占める。他は食料品店。地域の冷蔵庫という位置づけなんだろう。典型的な地方都市の一コマだ。

「このカフェに行きましょう。」

 シャルが選んだのは、此処から少し進んだところにある大型カフェ。カフェとは思えないくらい店舗面積が広い。廊下はかなり広くて、カフェに通じる大通りは吹き抜けになっていて、2階3階が見える。混雑はしていないけど、そこそこ人はいる。客層はベビーカーを押す母親と思しき客が半分。それ以外が半分といったところか。
 すれ違う人がほぼ必ずこちらを見る。正確にはシャルを見る。金髪美人は何処へ行っても人目を引く。だけど、これまでと違って、視線をシャルに固定することはかなり少ない。シャルが左手で髪や襟元を触ったり、敢えて彼方此方指さすことで、その薬指に輝く指輪を見せているからのようだ。

「指輪1つでこれだけ視線を弾けるなんて、予想以上の効果ですね。」
「落胆もあるだろうね。隙を見て声をかけようかと思ったら、左手薬指に指輪してるって。」
「それは残念でした。私はもうヒロキさんのものです。」

 シャルがドキッとすることを言う。3日連続でするだけしておいておいて何を今更だけど、快活さや天真爛漫さが前面に出ている昼間のシャルは、髪を振り乱して喘ぐ夜のシャルと全然違って見える。急展開したから-これも「お前が言うな」かもしれないけど-認識がいまいち追い付いていないところがある。
 シャルが選んだカフェが見えてきた。特に待ち時間や順番はないようで、従業員に人数を告げて席に案内されるところは、他の店と変わらない。店内は半分以上埋まっている。殆どが子連れの母親。席にベビーカーが並んでいるのは母親で間違いないだろうし、幼児を連れているのも同様だ。
 僕とシャルのようなカップルは、見た限りではいないようだ。ちょっと意外な気もするけど、この店内の喧噪に近寄り難いか、それとも…。兎に角騒々しい。乳幼児は泣いたりぐずったり、或いは店内を走り回ったりしているし、母親の客はそれを放置してお喋りに耽っている。居酒屋の騒々しさと似たり寄ったりだ。
 通路をシャルが歩いていくと、隣接する席の喧騒が急に止まる。そしてコソコソとした声に替わる。こんなところに来るのは場違いだという声も聞こえてくる。シャルが通過したことで店内の喧騒が結構収まったのは、色々な意味で凄いと言うべきか。

「ひとまず注文を決めよう。何かお勧めとかある?」
「パンケーキの評判が良いようです。紅茶がセットで選べます。」

 シャルのお勧めに従って、パンケーキセットを注文する。選べるのはパンケーキのソースと飲み物の種類。僕はソースにブルーベリーで飲み物はストレートティー。シャルはソースにストロベリーで飲み物はストレートティー。注文を聞いた店員の顔が若干疲れているように見えたのは気のせいだろうか。

『結構収まったけど、これだけ騒々しいと聞き耳を立てるどころじゃないね。』
『この程度なら十分識別や分析は可能です。それよりも、子どもを放牧している親が異常に多いのが気になります。』
『店はこういうのを許容しているのかな?』
『子連れ客の受け入れ態勢の整備は、カノキタ市の条例で店側の義務とされています。放牧までは記載されていませんが、条例を盾に無条件の受け入れが常態化しているようです。』

 カノキタ市の条例は、単に、と言うと語弊があるけど住民税の大幅加算だけじゃなくて、店舗に子連れ客を受け入れるよう義務化することもあったのか。店側にとっては迷惑だろう。少なくとも今この店内で繰り広げられている惨状を見れば、そう思うしかない。従業員が疲れた様子だったのも理解できる。
 この店の客層が殆ど母親なのがようやく理解できた。この騒音と言っても差し支えない喧噪に、他の客は耐えられないからだ。席にコールボタンがあるのは納得。店内は端から端まで概ね一望できる構成だけど、こんな喧噪じゃ、店員が近くを通っても聞こえるかどうか怪しい。
 シャルが通った衝撃が消えてきたのか、店内の喧騒が復活してきた。子どもの喧騒は乳児の泣き声と幼児の金切り声のような歓声とも奇声とも取れない叫び声で、全体的に高音域に固まっていて耳に刺さる。これも大概だけど、まだ散発的。母親連中の会話が音量が最大の上に継続しているからどうしようもないくらい喧しい。

「不快なので対処します。」

 シャルが右手の親指と人差し指で何かを摘まむように合わせる。一瞬耳に異物感を感じた後、僕を取り囲むように存在していた喧騒が消える。シャルの超小型ノイズキャンセラーだ。見た目には何も変わらないけど、効果は抜群。あれだけ店内を跋扈していた喧騒が綺麗さっぱり収まった。

「こんな声量で話し続けて、よく喉がおかしくならないものだと思います。」
「麻痺しちゃっているか、大声で話すのに慣れてるか、かな。いずれにせよ、店にはいい迷惑だろうね。」
「客層の著しい偏りは、状況の変化で店の経営を即座に危うくするリスクです。店側も改善したいところでしょうけど、条例もさることながら、一度この手の客の選挙を許してしまったので、難しいですね。」

 今は賑わっているけど、この客が何かの原因で離れたら、次に別の客が定着する保証はない。飲食店に限らず、店舗経営には大なり小なりそういうリスクがあるけど、店の現状から寄り付かなくなった客が、今の客層が離れた時に代わりに入るかと言えば、むしろ逆の方が多い。
 店で嫌な思いをすると、その店には行きたくなくなる。混雑しているだけなら空いている時を見て再度行くとか、予約してから行くとか色々手を考える。だけど、注文を聞かないとか、自分そっちのけで常連と会話ばかりしているとかだと、最悪「二度と行くか」となる。こうなった客は、改めて行くとはならないと考えた方が良い。
 今の状況を見ると、この店に入って嫌な思いをした客は結構いるだろう。とても一息吐いたり友人や交際相手と談笑する場所じゃない。しかもシャルの言うとおり、この手の客は集団の勢いで無茶な要求もする傾向がある。一度無理が通ると際限なく要求される。こうなるとヤクザと大して変わらない。
 この店の客は少量のメニュー、下手をするとドリンク1杯で何時間も居着く人もいるだろう。店で雰囲気や飲食を楽しんだり、気分転換のためじゃない。連れ立ったママ友とやらとひたすら喋る、それで牽制したり見栄を張ったりするのが目的だから。ノリが女子中高生そのものだけど、当人たち以外何のメリットもない。
 少しして、パンケーキセットが運ばれてきた。やっぱり従業員は疲れた様子だ。僕とシャルへの応対は平静を装っているのを感じる。僕とシャルが何か言うんじゃないかとビクビクしている感すらある。従業員にとってもストレスの原因にしかならない客は、疫病神と言っても良い。

「カノキタ市に関する情報は出て来る?」
「下世話な世間話や婉曲的なマウンティングと見栄に明け暮れています。今のところ、有益な情報は欠片もありません。」

 従業員が去った後、シャルに状況を聞くがやっぱり芳しくない。従業員は僕とシャルがクレームではなく礼を言ったことに心底安堵した様子だったし、会話の内容はある意味予想どおり。いきなり重要な情報が断片的でも得られる確率は低いと分かってるけど、今回は徒労感が大きい。

「つまらないと思うけど、情報の抽出と分析は続けて。」
「勿論です。パンケーキはなかなか美味しいので、漏れ聞こえてくるこの店の評価は正しいようです。」

 確かにパンケーキは柔らかくて、それでいて切り取った時に形が崩れることもない、良い塩梅の焼き加減。僕はブルーベリーのソースだけど、程よい酸味と甘みがパンケーキの甘味と良い具合に融合している。紅茶も色がついただけの薄いものじゃなくて、きちんとしている。それだけにこの環境が勿体ない。

「ヒロキさん。ブルーベリーも食べてみたいので、少し交換しませんか?」
「良いよ。皿で渡すね。」

 食べ物のこういう交換が普通に出来る関係なんだな。今更だけど、何気なしにこういうことが出来る関係に憧れていた。…うん、ストロベリーソースも良い。こちらは甘みが優勢だけど、甘みがくどくない。やっぱり店の根幹はきちんとしている。このまま喧噪を撒き散らす集団に潰されないで欲しいと願うばかりだ。

「お店の質は良いので、カノキタ市の状況をお店の側から調査します。」
「どうやって?」
「お店に諜報部隊を滞在させて、財務状況や客層の推移、従業員の会話などを調査します。」

 客側と店側では求める方向性とかが異なることはよくあること。特に、子育て世帯優遇の一方でそれ以外の世帯を半ば奴隷として扱い、店にまで優遇策を義務化するカノキタ市の条例を快く思わない人は少なからず存在するだろう。否、不満は多々あれど何処にも行き場がないまま抱え込んでいるだろう。
 僕とシャルの目的はあくまでヒヒイロカネの捜索と回収だし、カノキタ市の条例をどうするかは有権者が決めることだ。議会が機能していないなら、議会そのものを失職させることが出来る。そういう手段を採用するか、奴隷に甘んじるかも、有権者が決めることだ。
 一方、店側の状況は客として来ていると見え難い。常連になればいくらか出て来るだろうけど、そこまで通い詰めるだけの時間はない。シャルの諜報部隊で情報収集して、店側の視点からカノキタ市の問題、ひいてはそこにヒヒイロカネが絡んでいるかを推理するのが良い。