雨上がりの午後 Another Story Vol.1

Chapter5 熱い夜、労わりの触れ合い

written by Moonstone


 私は走る。街灯で照らされる緩やかで長い上り坂をひたすら走る。
胸が痛い。肺が潰されるような感覚が襲ってくる。でも走らずにはいられない。だって安藤さんが・・・一人高熱を出して魘(うな)されているんだから。
こんなことなら自転車で駅まで行くべきだった。でももう遅い。
そもそも私が伊東さんとのデートを承諾して、安藤さんにそれを止めるように示唆するようなことをしなければ、こんなことにはならなかったんだから。
スカートが足に纏わり付いて走りにくい。でも走らないと・・・。一刻も早く安藤さんの家へ行かないと・・・。安藤さんがどうなってるか分からない。
 暫く走ると本屋さんの建物が見えてきた。道路を挟んで直ぐ近くにコンビニの建物がある。
安藤さんと初めて、そして2回目に出会った、懐かしい場所。
あの時はあの人にあまりにもそっくりなその姿に驚くばかりで、安藤さんに訝られ、最後には怒られたっけ・・・。
今度でも安藤さんは怒った。その時はどうして私の気持ちを分かってくれないの、としか思えなくて悲しくて仕方なかった。
でも、今日の伊東さんとのデートの最中でようやく分かった。私が如何に自分勝手だったか、そして本当の気持ちが何かということが。
安藤さんの元に駆けつけても怒鳴られるだけかもしれない。男をとっかえひっかえする最低女だって罵られるかもしれない。
でも、そうなったって良い。どんなに安藤さんに拒まれても、私は安藤さんの元に居たい。その気持ちに正直に動くだけ。

 本屋さんとコンビニのある地点を過ぎて、私は更に走る。
もう息は絶え絶えで、胸が押し潰されるように苦しいのに、私は走るのを止めない。足が気力だけで前後運動を繰り返している。
時々右手の方向に視線を移して、安藤さんの家があるっていう「デイライト胡桃が丘」という建物を探す。
まだ見つからない。一体何処にあるんだろう?
こうしている間にも安藤さんは苦しんでいるに違いない。兎に角一刻も早く見つけないと・・・。
 更にどのくらい走ったか分からない。
息がぜいぜいという音を立て、自分が走っているのかどうかは近くの風景が歩いている時より速く後ろに流れていくことでしか分からない。
もしかしたら歩いているのと変わらないかもしれないけど、そんなことに構ってられない。
右手のやや奥まったところに見える、ちょっと年期の入った若草色の3階建ての建物。その上の方に「デイライト胡桃が丘」って書いてある建物。
私はその建物を探してひたすら走り続ける。
 街灯に照らされて、周囲の民家より頭一つ高い建物が見えてくる。
色は・・・長い間風雨に晒されたことを示すくすんだ若草色。建物は・・・近くの民家が2階建てでそれより1階分くらい高い。
上の方には・・・白い明朝体で「デイライト胡桃が丘」と書かれてある。あそこだ!あそこの101号室に安藤さんが居る!
私は残り僅かな体力を振り絞り、スピードを上げて大通りから右に折れて、その建物に近づけていく。
どんどんその建物が大きくなってくる。やがて建物に隣接した駐車場が見える。此処に間違いない!

 私は駐車場に駆け込み、南に面したドアの番号を順番に確かめていく。
103・・・102・・・101・・・!此処だ!
私はドアの前で立ち止まる。肺が激しく酸素を欲しがって全身を振動させて空気を取り込み、吐き出させる。
両手を膝につけて屈みこんでいた私は、荒い呼吸をそのままに家の様子を見る。
窓から明かりは見えない。留守じゃない筈なのに。
ドアの近くに自転車が立てかけてある。ドアにある郵便受けにはチラシらしいものが入ったままになっている。
同じ1階のドアを見ると、チラシは見えない。既に取り込まれた後だということだ。
つまり、安藤さんはチラシが郵便受けに入ったのを気付かないか、或いは気付いても取りにいけない状態だってこと・・・?!
ドアのノブを捻って引っ張ったり押したりしてみるけど、ドアは開かない。当然鍵がかけられているわよね・・・。
私のことは構っていられない。安藤さんの意識があることを信じて、悪いことだけどドアを開けてもらうしかない。
私はドアに「♪」が描かれたインターホンを押す。

ピンポーン・・・

音が消えたのを見計らってもう一度押す。

ピンポーン・・・

 ・・・中で人が動いた気配はない。眠っているか、起きられないのか分からないのがもどかしくてならない。
私はインターホンを押し続ける。

ピンポーン・・・ピンポーン・・・

 ・・・まだ応答はない。人が動いた気配もない。

ピンポーン・・・ピンポーン・・・

 ・・・まだ駄目。安藤さん、もしかしたら意識不明の状態なんじゃ・・・。
次で応答がなかったら、隣の家の人に頼んで救急車を呼んで貰おう。

ピンポーン・・・ピンポーン・・・

 私は応答があるのを待つ。・・・微かに何かが中で動いた気配がした。
本当にゆっくりでそれによろめいているけど、暗い窓の向こうで人影が動いているのが見える。
良かった!どうやら何とか動けるみたい。最悪の状況じゃなかっただけでも嬉しい。
私は催促するようにインターホンを押し続ける。

ピンポーン・・・ピンポーン・・・

ピンポーン・・・ピンポーン・・・

ピンポーン・・・ピンポーン・・・

 ガチャッという音がする。鍵が外れた音だ。私はインターホンから手を離してドアが開くのを待つ。
ドアがゆっくりと開いて、暗闇の中からパジャマ姿の安藤さんが姿を現す。
安藤さんは驚いたように目を見開いて言う。

「!!な、何で・・・。」

 驚くのも無理はない。私は今日、伊東さんとデートしている筈だと思っていただろうから。
急に安藤さんが身体を崩して前のめりに倒れこんでくる。私は慌てて安藤さんを抱きとめる。
丁度安藤さんが私の胸に顔を埋める形で、どうにか安藤さんが地面に倒れこむのを防ぐことが出来た。本当に弱っているのがよく分かる。

「だ、大丈夫ですか?!」
「・・・デ、デート・・・は?」
「そんなことしてる場合じゃないです!」

 私は安藤さんの腕を自分の肩に回して態勢を立て直す。力が入っていない安藤さんの身体はかなり重い。
でも、事態はそれどころじゃない。安藤さんを早く寝かさないと・・・。
私は片手でドアを閉めて念のためにドアチェーンをかけて、靴を脱いで上がりこんでゆっくりと中に進む。
この暗さじゃ電灯をつけないと何かに躓いてしまうかもしれない。私が倒れたら安藤さんを巻き添えにしてしまう。電灯のスイッチは何処かしら・・・?
私が手探りで外の明かりで微かに輪郭が見える部屋を進み、電灯のスイッチを探す。

「電灯は・・・正面進んで・・・壁沿い・・・。」

 安藤さんが途切れ途切れに、呟くように言う。私は言われたとおりにゆっくり前に進み、壁の形に従って手を動かして電灯のスイッチを探す。
壁のちょっと凹凸のある感触とは違う、何かが私の手に触れる。これが電灯のスイッチかしら?そこを手探りで確かめると、スイッチらしいことが分かる。
そのスイッチの傾きを逆にすると、パチッという音に続いて部屋全体が白色光に照らされる。
お世辞にも綺麗とは言えない部屋だ。床には雑誌が散乱している。何か踏みつけているような感覚がしたのはそのせいだったのね・・・。
 それは兎も角、私は壁際に見えるベッドの方へ安藤さんを連れて行く。
安藤さんは呼吸をしているかどうかはっきり分からない程、身体の周期的な動きは浅くて早く、相当苦しそうなのが分かる。
私はベッドの傍に辿り着くと、掛け布団が捲れたままのベッドに安藤さんを寝かせて掛け布団をかける。
私は着ていたコートを脱いでベッドの直ぐ傍にあった椅子に掛ける。その椅子をベッドの傍に運んで座り、安藤さんの顔を見る。
安藤さんはまだ信じられないといった顔をしている。それはそうよね。伊東さんとデートしている筈の私が自分を訪ねて来たんだから。

「・・・不思議ですか?」
「・・・ああ。」
「電話したんですよ。お店に。そしたら潤子さんから、安藤さんが熱出して寝込んでるって聞いて、びっくりして直ぐこっちに・・・。」
「電話って・・・昨日、バイト休むって・・・。」
「ええ、言いましたよ。でも・・・どうしても安藤さんが気になって・・・。ううん、気にしてたけど意地張っちゃってて・・・。」

 そこまで言うと、私の胸の奥底から申し訳ないという気持ちが湧き上がってくる。
私が暢気にデートなんてしてなかったら、もっと早く安藤さんの元に駆けつけられたかもしれないのに・・・。
今まで見たことがない安藤さんの苦しそうな顔。それを見ているだけで、私は激しく責め立てられているような気分になる。
でも、それは仕方ないこと、ううん、当然のこと。
私が妙に唆したり意地を張ったりしなければ、こんな形で安藤さんと向き合うことにはならなかったかもしれない。
本当に・・・私は・・・何て嫌な女なんだろう・・・。
自分が馬鹿らしくて腹立たしくて、そして悔しくて仕方がない。

「安藤さんの・・・言ったとおりだったんですよ、結局・・・。デートしてて気付いたんです。私は安藤さんに止めて欲しかったんです。行くなって・・・。」
「・・・。」
「でも、止めてもらえなかったから妙に意地張って、腹いせみたいにデートしてやるって・・・。
勝手ですよね。一人で思い込んで一人で怒って、一人で意地張って一人で気にして・・・。」

 目頭が熱くなってくる。安藤さんの顔が滲んで見える。涙・・・?私が泣く資格なんてないのに・・・。
私は慌てて目を拭う。でも涙は留まるところを知らないまま、目から溢れ出す。
泣くな、晶子!私が泣いてどうするの?!私が泣く資格なんてあるの?!安藤さんと伊東さんを振り回して傷つけた嫌な女が泣く資格なんてないのよ!

「馬鹿ですよね、私・・・。しつこいと思われるくらいのことしておきながら、肝心な時に変な意地張って、待ちに入るなんて・・・。」
「・・・良い。」
「私・・・安藤さんに迷惑掛けてばかりですね・・・。本当に馬鹿ですね、私って・・・。ご、御免なさい・・・。」
「・・・良い。・・・良いから・・・もう・・・。」

 せめてもの謝罪の言葉を継げた私の手に何かが乗った感覚を感じる。見ると、ベッドの中から安藤さんの左手が私の膝の上にある手に乗っている。
安藤さんは苦しそうに早くて浅い呼吸を何度も繰り返してから、力を振り絞るように口を動かす。

「何も言わなくて良いから・・・。今は・・・ただ・・・傍に居て欲しいんだ・・・。」

 傍に居て欲しい・・・?この私に・・・?こんな嫌な女に・・・?
私は安藤さんの手を優しく包み込む。明らかに体温以上に高い熱が伝わってくる。それが私には愛しくてならない。

「・・・はい・・・。」

 私はそう言って微笑むのが精一杯。
安藤さんが私を許してくれた。一時的かも知れないけど私に傍に居て欲しいといってくれた。それが嬉しくてどうしようもない。
決めた。私は安藤さんが治るまでずっと傍に居よう。それが安藤さんに対するせめてもの謝罪になるなら・・・何も迷うことはない。

 どうにか私の涙が止まる。安藤さんは相変わらず速くて浅い呼吸を繰り返している。
その顔が何かを尋ねたがっているように思う。・・・多分、伊東さんとのデートのことだろう。
私は今日お休みを貰って伊東さんとのデートに出かけた。本当なら今頃洒落たレストランでディナー、という頃だろう。
なのに何故私が自分の元に駆けつけたのか、安藤さんはやっぱり気になるんだろう。安藤さんと伊東さんとは親しい仲だそうだから。
私は今日のことで安藤さんと伊東さんの間に、どうしても埋められない溝を刻み込んでしまったかもしれない。
何重にも私の罪は積み重なっている。でも、全ては私自身が招いたこと。二人には出来る限りの謝罪をするしかない。

「・・・なあ、井上。」

 安藤さんが口を開く。本当なら私から言わなきゃならないことなのに・・・。

「はい?」
「その・・・デートのことだけど・・・智一は・・・?」
「・・・お断りしました。『気持ちは嬉しいですけど、私には好きな人が居ます。だからお付き合いすることは出来ません』って。」

 そう。私は伊東さんの気持ちを受け入れなかった。散々振り回しておきながら、途中で強引に打ち切って安藤さんの元に駆けつけたんだ。

「デートに誘われた時にちゃんと言えば良かったんですよね・・・。そうすれば・・・安藤さんも伊東さんもこんなに苦しめたりしなくて済んだのに・・・。」
「・・・。」
「私、ちょっと調子に乗り過ぎてたみたいです。安藤さんが音楽のこと色々教えてくれて、伊東さんに毎日のように声を掛けられて、
何時の間にか天秤にかけるようなことをしてた・・・。嫌な女ですね、私・・・。」

 私がそう言うと、安藤さんは小さく首を横に何度か振る。・・・違うの?私が嫌な女じゃないって思ってるの?
労わりの言葉なんて貰う資格は私にはない。むしろ、どうして済まなさそうな顔をして俺のところに来たんだ、とか言って欲しい。

「・・・嫌な女だったら・・・デート止めて・・・此処に来たりしない・・・。智一も俺もキープしておこうって・・・考えるさ・・・。」
「・・・。」
「俺は・・・井上に甘えてたんだ・・・。井上がいつも俺を気遣ってくれて・・・、俺に好意を示してくれることに・・・。
だけど、その逆は・・・しなかったよな。ただ、待っていただけ・・・。」
「・・・安藤さん。」
「それなのにあの時・・・俺のこと好きって言っときながら・・・どうして他の男とデートなんてするんだって・・・頭に血が上って・・・。
それならそうって・・・言えば良かったんだよな・・・。意地張ってたのは・・・俺も同じだ・・・。」

 安藤さんは率直に自己批判が出来ている。私はデートの途中でようやく、自分が妙な意地を張っていることに気付いたっていうのに・・・。
こんな男性(ひと)を弄ぶようなことをしていたの?私は尚更自分が情けなくて恥ずかしくて、そして腹立たしく思う。
そして・・・安藤さんが凄く愛しく思う。こんな素敵な人を放ったらかしにしてたなんて・・・。
私は自分の頬に安藤さんの手を持っていく。
熱い。相当熱が出ているんだろう。こんな苦しみを一人、暗闇の中で耐えていたなんて・・・。

「・・・冷えてるな。」
「今は・・・凄く温かい・・・。」
「・・・俺も・・・。」

 安藤さんの手が、私の頬を撫でるように動く。私の存在を確認するかのように。
安藤さんに対する愛しさがさらに膨らんだ私は、より安藤さんの手を自分の頬に密着させる。私は確かに今、貴方の傍に居るんですよ・・・。
安藤さんが愛しくて仕方がない。私は目を閉じて安藤さんの手を抱き寄せる。
熱い手が確かに自分の手の中にある・・・。そう感じるだけでも凄く愛しく思う。
安藤さんの傍に居ることを許されたこと。そして安藤さんと触れ合っていること。何もかもが全て嬉しい。
時折車が走り去る音が聞こえるだけの空間で、私は安藤さんと触れ合って互いの存在を確認しあう。
 気のせいか、安藤さんの苦しそうだった顔が少し和らいだように思う。
もしそれが、私とこうして触れ合っていることが原因だったら・・・。思い上がりかもしれないけど、そうだったら尚更嬉しい・・・。

ピンポーン・・・

 安藤さんと私の触れ合いの時に、インターホンの音が割り込んでくる。
安藤さんの枕元にある目覚し時計を見ると、時刻は10時10分前というところだ。
こう言うのは悪いけど、安藤さんは友達付き合いが少ない方みたいだから、私の他に見舞いに来る人が居るとは考えにくい。
この時間に来る人となれば・・・新聞か宗教の勧誘くらいしか思いつかない。
兎も角放ったらかしにしておくと、私みたいにしつこく鳴らすだろうから−今は部屋の明かりも点いてるし−、とりあえず応対に出ないと・・・。

「私が出ます。」

 私はそう言って、名残惜しい気持ちを振り切って安藤さんの手を布団の中にそっと仕舞って立ち上がる。
次のインターホンがならないうちに、と小走りで玄関に向かおうとしたところで安藤さんが呼び止める声がする。

「・・・ちょっと・・・。」
「はい?」
「・・・ドアチェーン・・・掛けてな・・・。夜だし・・・。」

 そんなことなら心配ないですよ。私はその気持ちを微笑みで示して玄関へ向かう。
玄関のドアにはドアチェーンが掛かっている。私が掛けたんだから当たり前なんだけど。
確認のために一度ドアチェーンを外して再び掛ける。これで大丈夫。
私は突然包丁とかが突き出されても大丈夫なように、ゆっくり様子を見ながらドアを開ける。

「どちら様ですか・・・?」

 私が警戒を緩めずに尋ねると、ドアの隙間から見慣れた顔が二つ見える。マスターと潤子さんだ。

「あら、晶子ちゃん。先に来てたのね。」
「え?!あ、ど、どうして?!」
「どうしても何も・・・電話で言わなかった?祐司君、一人暮らしだから、もしものことがあったら大変だからお店を早く閉めて様子を見に行くつもりだって。」
「で、井上さんは何時来たんだ?あの電話の後かな?」
「え、ええ。電話で聞いて直ぐ・・・。」
「祐司君、今起きてる?」
「はい、起きてますよ。どうぞ。」

 私はドアチェーンを外してドアを開け放ち、マスターと潤子さんを中に入れる。
マスターは黒のロングコート、潤子さんは茶色のハーフコートにショールを羽織っている。
何だかヤクザの幹部と女優の組み合わせみたいで、アンバランスに見える。

「おーい祐司君、生きてるかぁ〜?」
「お見舞いの言葉じゃないわよ、あなた。」

 生きてなかったら、私はきっと狼狽してどうなってるか分からない。潤子さんの言うとおり、お見舞いの第一声には似つかわしくない。
マスターと潤子さんに続いて安藤さんの元に戻る。安藤さんは肘を使って上体を少し起こしている。寝たままじゃ失礼だと思ったんだろうかしら?
安藤さんは今、とても起きられる状況じゃないんだから−それを無理矢理起こした私が思うのも何だけど−無理に起き上がらなくても良いのに・・・。
安藤さんって、かなり律儀なのね。新たな一面を知ってちょっと嬉しい。

「マスター・・・。潤子さん・・・。」
「高熱出しているって聞いたから心配で、お店を早く閉めて来たのよ。祐司君一人だし、もしものことがあったら大変だからね。」
「でも、俺と潤子が来る必要はなかったみたいだな。」
「え・・・。」

 安藤さんは言葉に詰まる。私は急に照れくさく思う。今更照れる必要なんてないのに・・・。
マスターは持っていた紙袋を床に置く。ブティックの袋みたいだけど、何が入ってるのかしら?
見舞いにありがちな果物の詰め合わせじゃなさそうだし、まさか菓子折りとか・・・。そんな筈はないか。

「必要かなと思ったものを家から適当に見繕って持ってきたぞ。熱冷ましと咳止め、頭痛薬、あと店の残り物。
多分薬とか食べ物とかが足りないと思ってな。食べ物は温めれば直ぐに食べられるから。」
「・・・ありがとうございます・・・。」
「良いのよ、気にしなくて。」
「しかし、まさか本当に熱出して寝込むとはなぁ。そりゃあ井上さんがデートするのがショックだったんだろうが。」
「!マ、マスター!」
「え?」
「井上さんが帰ってから物凄く暗かったからなぁ。相当堪えてたみたいだったよ。はっはっは。」

 安藤さんがそんなに落ち込んでいたなんて・・・。それが引き金になって熱を出す羽目になったのなら、私は更に安藤さんを苦しめたことになる。
その安藤さんは赤い顔をして壁の方を向く。マスターに事情を暴露されたのが恥ずかしいのかしら?

「それで・・・晶子ちゃんはどうするの?今晩。」

 突然潤子さんが私に話を振って来る。いきなりのことに私は戸惑ってしまう。気持ちはとっくに決まっているけど・・・。

「え・・・っと、その・・・。」
「居てあげた方が良いと思うけどな・・・。」

 私は言葉が出ない。今更迷うことも躊躇することもないのに・・・。こういう私のはっきりしない態度が安藤さんと伊東さんを苦しめたことが分かってないの?
潤子さんは優しい微笑みを浮かべると、小さく首を縦に振る。自分の気持ちに正直にしなさい、っていう合図だろう。
私は頷いて潤子さんに応える。それで安心したのか、潤子さんは晴れ晴れとした顔で言う。

「じゃあ、私達はこれで失礼するから・・・。」
「・・・あ、ど、どうも・・・。」
「ふふっ、顔が紅いわよ。熱が上がったんじゃない?」

 私やマスターと潤子さんの方に向き直った安藤さんが、潤子さんにそう言われて何やら困ったように視線を彼方此方に泳がす。
とその時、マスターが何時になく神妙な面持ちで口を開く。

「そうそう、祐司君。これだけは言っておく。」
「は、はい?」
「ちゃんとゴムを着けてだな・・・」
「?!」

 ちょ、ちょっと・・・。何言ってるんですか、マスター!今の安藤さんはそんなことが出来る身体じゃ・・・あ、そうじゃなくて・・・。
私が動揺していると、頬を少し赤くした潤子さんがマスターの頭をひっぱたく。
凄い音と共にマスターの首ががくんと前に折れる。相当強く殴ったみたい。潤子さん、流石に重いフライパンを軽々操るだけあって、意外に力あるんだな・・・。
マスターは首を元の位置に戻して殴られた頭を擦る。相当痛かったみたい。マスターが顔を顰(しか)めてる。

「・・・痛いなぁ、潤子・・・。」
「何馬鹿な事言ってるのっ。まったく・・・。さ、帰りましょ。」
「分かった分かった・・・。それじゃ。」
「祐司君、お大事にね。」

 そう言って身を翻した潤子さんに、頭を擦りながらもう片方の手をすっと上げてマスターが続く。以外にマスターって、潤子さんのお尻に敷かれてるのかも。
安藤さんが身体を起こそうとする。見送りに行くつもりなんだろう。
今の安藤さんに無理はさせられない。私は安藤さんの両肩に手を置いて軽くベッドの方に押す。このまま寝てて下さいね。私が代わりに見送りますから。
安藤さんがベッドに横になったのを確認して、私は玄関へ向かうマスターと潤子さんの後を追う。
靴を履いたマスターと潤子さんが私の方を向いて、悪戯っぽい笑みを浮かべながら囁く。

「折角二人きりになれたんだから、この機会に仲直りしなさいね。」
「祐司君は寂しい筈だから、此処でしっかりポイントを稼ぐんだね。」
「ポ、ポイントって・・・。」
「言いたいことは分かるでしょ?兎に角祐司君の傍に居てあげてね。」

 マスターと潤子さんは手を小さく振って出て行く。私は小さく頭を下げてドアが閉まるまで二人を見送る。
足音が聞こえなくなったのを確認してドアの鍵とドアチェーンを閉める。そして小走りで安藤さんの元に戻る。
再び二人きりになったこの空間を沈黙が支配する。床に置かれた紙袋が、ついさっきまで来客があったことを示している。

「さっき・・・何言ってた?」
「え・・・まあ、上手くやれよとか、そういうことですよ・・・。」

 私は何とも言えない複雑な笑みを浮かべて曖昧に答える。逆に妙な言い方になったかも・・・。

「・・・期待してるのかな・・・?」
「そうみたい・・・ですね。」

 私は静かに椅子に座る。そして安藤さんと見詰め合う。
気まずさは全くないけど、妙に落ち着かない。マスターがあんなこと言うから・・・。
安藤さんも意識してるのかしら?男の人だから余計にそういうことには敏感に反応しているかな?身体の具合がそれを隠しているだけかもしれない。

「・・・今、何時?」

 安藤さんが沈黙を破る。さっきが慌しかったから時間が気になったのかしら?
私は安藤さんの枕元にある時計を見て、その結果を伝える。

「えっと・・・10時をちょっと過ぎたところですね。」
「・・・帰らないのか・・・?」
「傍に居て欲しいって言ったの、誰でしたっけ?」

 私が笑みを浮かべると、安藤さんはくるっと私に背を向ける。ちょっと悪ふざけが過ぎたかな・・・。

「あ、怒りました?」

 私が尋ねると、安藤さんは背を向けたまま首を横に振る。
じゃあどうして欲しいんだろう?私は気になって思いついたことを言ってみる。

「そうだ。お腹減ってます?」
「・・・いや、要らない。」

 ・・・そうよね。熱が出てる時に食欲なんて湧かないか・・・。
何だか悲しくなってくる。こっちを向いてくれないと・・・私はまた泣いてしまいそうな気がする。泣く資格なんてないけど、安藤さんに嫌われたくない。

「・・・やっぱり・・・怒ってるんですか?」
「違う・・・。ね、熱っぽいだけ・・・。」

 良かった・・・。嫌われたわけじゃなかったんだ・・・。湧き上がってきた悲しさが急速に萎(しぼ)んでいく。安藤さんに嫌われたら私はどうしようもない。

「・・・井上・・・。」

安藤さんが背中を向けたまま、私の名を呼ぶ。私は思わず身を乗り出す。

「・・・はい?」
「んと・・・喉乾いた。」

 熱が出てて今までベッドから出られなかったとすれば、相当喉が乾いている筈だ。私って肝心なときに気が利かないのよね・・・。
私は席を立って流しの方へ向かう。流しの傍には食器棚があって、それなりに物は揃っているけど使われた形跡はあまり無い。
私は流しの隣に置いてある洗い桶を見る。数少ない洗い物の中にガラスのコップがうつ伏せに置かれているのが目に入る。
私はそのコップを取り出して、水道の蛇口を捻って水をコップに注ぐ。
水が溜まっていく過程で音程の変化が生じる。これは私が音楽に携わるようになって初めて気づいたこと。
何気ないところに色々な音があることを、音楽に携わることで知った。これも全て安藤さんのお陰よね・・・。
 水がコップの8割くらいに達したところで蛇口を捻って水を止める。そして水を零さないように注意しながら安藤さんのところへ戻る。
私の気配を察したのか、安藤さんが私の方を向く。その顔に険しさはない。やっぱり怒ってたんじゃなかったんだ・・・。
私は嬉しくて微笑みを浮かべる。安藤さんの傍に居られて、更にこうして世話が出来て本当に嬉しい。

「はい、持ってきましたよ。」
「・・・。」
「水を飲む時は起きないと駄目ですよ、甘えんぼさん。」

 いけないいけない。どうしても茶化すようなことを言ってしまう。
安藤さんは再び身体を捻って仰向けになる。飲ませてくれ、という意思表示かしら?
普段凛としている安藤さんがこんな甘えるような行動に出るなんて、ちょっと意外。でも、それが凄く嬉しい。
だってそれは、私を受け入れているっていう証拠だから。
 私は安藤さんと枕の間に手を差し入れて、安藤さんの頭を持ち上げる。そして安藤さんの下唇にコップの端が触れるような位置に持っていく。
安藤さんの口が少し開いたのを見て、私はコップをゆっくりと傾ける。
安藤さんの喉が何度も動く。やっぱり相当喉が乾いてたのね・・・。苦しかったでしょうね・・・。
途中で飲み終わると思ったら、安藤さんは尚も水を飲み続ける。私はコップを一定の速度で傾けていく。
 水はどんどん安藤さんの口の中に消えていき、やがてコップはすっかり空になる。
私は安藤さんの口からコップを離して、静かに安藤さんの頭を枕の上に戻す。
そうそう、マスターが持って来てくれた食べ物、冷蔵庫に入れておかないと・・・。

「食べ物とか冷蔵庫に入れときますね。」
「適当に・・・退けたりして良いから・・・。」

 私は頷いて、紙袋を持って冷蔵庫の方へ向かう。
自炊していないのか、冷蔵庫は一応2ドアだけど小さい。私の家の冷蔵庫の半分くらいの高さしかない。
私はまずコップを流しに置いて、袋の中から食料と薬を取り出して、薬の箱を脇に退ける。そして冷蔵庫を開けて食料の収納を始める。
やっぱり自炊していないらしい。冷蔵庫の中には缶ビールくらいしかない。
私は後で取り出しやすいように、種類を確認しながら冷蔵庫に食料を収納していく。
 程なく食料の収納は終わった。私は紙袋に薬の箱を戻して安藤さんのところへ戻る。
椅子に座って手を安藤さんの額に持っていく。手を触れると、じんじんと熱が伝わってくる。この分だと38、9度は出てるかな・・・。
安藤さんは気持ちが良いのか−さっきまで冷たいものを扱っていたから−目を閉じる。

「やっぱり、かなり熱ありますね・・・。」

 こんなに熱を出していることをもっと早く知っていたら・・・。本当に苦しかったでしょ?安藤さん・・・。
安藤さんが再び目を開ける。そしてゆっくりと口を動かして、やや掠れ気味な声を出す。

「・・・店に電話してベッドに戻る時・・・立てなかった・・・。」
「気をつけないと肺炎とかになったりしますよ。」
「今日起きたら・・・いきなりだったからな・・・。」

 私が気が進まない中でデートに向かっていた時から、安藤さんは苦しんでたんだ・・・。
伊東さんとのデートを断って安藤さんの家に電話していたら、もっと早く世話が出来たのに・・・。
本当に・・・御免なさい・・・。安藤さん・・・。
 私は安藤さんの額に置いていた手を安藤さんの頬へと移す。
すると安藤さんが凭れるように私の手に頭を委ねてくる。安心しているその表情を見て、私も気が少し楽になる。
私を一言も責めずに私を許してくれた、そして傍に居ることを許してくれた安藤さんの気持ちが嬉しい。
同時に本当にすまないという気持ちで心がいっぱいになる。

「辛かったでしょ・・・?」
「・・・身体より・・・誰も居ないのが辛かった・・・。だけど・・・今は・・・。」

 今は・・・何?その先を耳を澄まして聞こうとしたけど、安藤さんは唇を微かに動かすだけで声が聞こえてこない。
安藤さんの目がゆっくりと閉じていく。ちょ、ちょっと・・・!もしかして・・・!
私は慌ててもう片方の手を安藤さんの顔の直ぐ傍まで近づける。
すると微かで早くて浅いけど、呼吸が感じ取れる。良かった・・・。熱で気を失っただけみたい。
 私はじっと座って安藤さんの様子を伺う。
浅く速い呼吸を繰り返すだけで、とりあえず小康状態になったみたい。
このまま熱が引いていってくれれば良いんだけど・・・。
今の私には、一刻も早く安藤さんが苦しみから抜け出せるのを祈るしかない・・・。

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