雨上がりの午後

Chapter 334 夫婦の闘いの終焉

written by Moonstone

 準備した書類が届いたと高島さんから連絡があった週の金曜日。帰宅した俺は集合ポストに1通の封書があるのを見つけた。住所は正確。氏名は晶子宛。差出人の記載がなかった。やけに厚めの封書に違和感を覚えて、この日は仕事が休みだった晶子に見せた。筆跡に見覚えはないが、嫌な予感を感じたのは同じだった。
 高島さんに連絡すると、まず間違いなく晶子の親族からの「嘆願書」であり、特に晶子は中身を読むのは好ましくないと指摘を受けた。宛先を高島さんに変更して送り、内容を確認してもらうことにした。終幕直前にしてやはり動きが出て来た格好だ。
 翌週の月曜日に高島さんから封書の受領と内容の連絡があった。やはり晶子の両親と本家当主、つまり晶子の伯父夫妻からの「嘆願書」だった。内容は特に晶子に動揺を与えるとして詳細は言われなかったが、親と親族を虐めるな、賠償金要求を取り下げろ、心あるなら直ちに実家に戻れ、というものだったそうだ。
 嘆願書と言うより命令・恫喝に近い文体だったという内容に、晶子は落胆した様子で首を横に振り、文書の要求を受け入れる気は微塵もないことを宣言した。高島さんはこの封書も俺と晶子の夫婦関係への重大な干渉の証拠として使用すると言った。文書という形は証拠として非常に有力だそうだ。
 その週の土曜日。高島さんから公正証書作成完了の連絡が入った。公証役場は晶子宛の「嘆願書」を正式な夫婦関係に対する重大な干渉の証拠として重視し、俺と晶子が確認した内容での公正証書作成に繋がったという。晶子の両親と親族は、晶子宛の「嘆願書」が夫婦関係への干渉という認識が全くなかったそうで、高島さんは心底呆れていた。
 作成された公正証書は、原本は公証役場に、その写しを高島さんが2部貰い、そのうちの1部を俺と晶子宛に送付してくれる。それを実印などとは別の場所に保管しておくように言われた。原本が公証役場にあるし写しを1部高島さんが保管しているから万一盗難や破棄されても影響はないが、公文書の扱いと保管を理解して欲しいとのこと。
 公正証書が作成されたから、賠償金は高島さんの口座を介して−確認のためもあって弁護士の口座を経由するのが原則という−来週にでも俺と晶子の共通の口座に振り込まれる見込みだ。もし来週振り込まれなかったら、公正証書を基に差し押さえの手続きを行うと高島さんは明言した。公正証書の文面には1週間以内に賠償金を振り込むこととあるので、それを破ったら法的に実力行使するわけだ。
 言いかえれば、公正証書やそれに準じる契約−不動産売買は最たるものだが、その際には十分実物と文書の内容を確認してから押印する必要がある。不動産売買では嫌になるほど実印を押すことになるが、それだけ重要な取引であり、安易に実印を出すものではない。もし不明なことが出たら遠慮なく問い合わせて欲しい、と高島さんから言われた。
 賠償金は300万。一口に言うが大金だ。しかも今後少しでも俺と晶子に接触すれば、その時点で倍の600万を即日支払う義務を課せられる。高島さんは晶子の親族が所有する不動産を査定させ、600万の賠償金を複数回払うには土地建物を処分しないといけなくなる可能性がある、と釘を刺しておいたそうだ。
 全国的に言えることだが、S県の不動産は都心部と田舎で大きな差があるそうだ。晶子の出身地あたりは不動産価値が低く、売っても買い手がつくかどうかは分からない。しかも、土地信仰が非常に強い土地柄だけに、先祖代々の土地を処分することには頑強に抵抗するし、そんなことになるのは絶対に避けようとするそうだ。
 高島さんはその点を突き、先祖代々の土地を賠償金のために処分することにならないよう行動に注意すること、一族に注意喚起をするのは本家の務めではないのか、と本家当主と晶子の父に釘を刺したそうだ。本家当主と晶子の父は納得いかないまでも俺と晶子からは手を引くと表明したとのこと。
 賠償金300万の振り込み確認を以て本件はひとまず完了となるが、公正証書の内容を忘れないように、間違っても晶子を拉致などすればその時点で刑事犯罪になるし、賠償金支払いを含めて一族全体が今の土地に住めなくなるだろう、と留めを刺しておいたそうだ。冗談じゃない、と捨て台詞を吐いた様子は相当悔しそうだったとのこと。
 300万の振り込み確認は、時間帯の関係で晶子にしてもらう。良い形で入る金じゃないが、今後の生活の足しにするには結構な額だ。事態が晶子の口から告げられてから約3カ月。長かったし、無駄なことに神経を削られたという嫌な思いが強い。だが、300万の振り込みでひとまず完全決着するんだから良いと思っておこう。
 翌週の水曜日。会社での昼休み中に晶子から電話が入った。丁度晶子手製の弁当を食べ終わったばかりだった俺は、弁当箱を手早く片づけて電話に出る。

「祐司さん。お昼休み中ですけど良いですか?」
「ああ。全く問題ない。」
「さっき、銀行に行って口座を確認したら、賠償金が高島さんから振り込まれているのを確認しました。」

 ついに、というかようやく、というか微妙だが、今回の賠償金として公正証書に明記された300万全額が振り込まれたのか。これでひとまず今回の件は完了だな。

「そうか…。これでひと安心だな。」
「はい。次に同じことをすれば倍額を即決ですし、そんなリスクを冒してまで私を連れ戻そうとする気は起こらない…と思いたいです。」
「正直、信用しない方が良いな。…兎も角、確認ありがとう。」
「いえ。それより、高島さんには祐司さんから連絡してもらえますか?窓口の一本化の一環ということで。」
「分かった。気をつけて。」

 高島さんに電話をしておかないと。今回、相手方と一切顔を合わさずに、しかも普段の行動に注意するだけで他は大したこともせずに賠償金の支払いという決着まで漕ぎ付けられたのは、間違いなく高島さんの尽力によるものだ。少し時間を割いて礼の電話をしても罰は当たらない。
 その日の仕事を終えて、遅番の晶子が居る店に向かう。晶子が遅番で俺が平日の場合、店に寄って晶子の手料理を食べてから帰宅するのが日課になっている。

「ただいま。」
「おう、祐司君。おかえり。」
「晶子ちゃんは祐司君の夕ご飯用の食材を取りに奥に行ってるから、座って待ってて。」
「はい。」

 カウンターの定位置に座って待っていると、晶子が奥からタッパーを持って出て来る。今日の夕飯は何だろう?

「おかえりなさい。今から作りますね。」
「ああ。頼むよ。」

 決着がついたことを受けてか、コンロに向かう晶子の斜め後ろから見る横顔は久しぶりに緊張が完全に解けたように見える。この一件で一番神経をすり減らしたのは晶子だ。俺は会社に行けば組合もあるしその顧問弁護士も居るし、会社も守ってくれた。組織として守られる体制があった俺と違って、晶子の「防衛組織」は限られたものだった。
 無論、晶子の実兄が押し掛けて来た時に毅然と押し返したマスターをはじめとする店のスタッフには尽力してもらった。だが、組織力として比較するとやはり晶子の方が脆弱だったのは否めない。晶子の場合、家があるマンションの時のように大勢で押し掛けられたら、店に迷惑がかかるし、他の無関係な客に危害が及ぶ恐れもあった。
 晶子はそんな状況が連続したことで、神経をカンナで無造作に削られるような気分だっただろう。晶子は本当に良く持ちこたえたと思う。その原動力が俺と正式に結婚したことであれば、俺は尚嬉しい。敢えて聞くまでもないが、聞いてみたいと言う気持ちはある。

「祐司君。例の件、決着したそうだね。」

 マスターが少し小声で言う。中高生の比率が相変わらず高い店内は適度に賑わっていて、そこから離れたカウンターの会話が聞かれることはない。

「はい。晶子から昼に聞きました。」
「無事に決着して良かったよ。ステレオタイプの田舎の人間は本当にしつこいし、自分達が生活する半径数kmの世界が全てだと思ってるから、一般的な常識も法律も何とやら、と信じて疑わないレベルだったりするからね。」
「それは間接的ですけど、何度か実感しました。」
「晶子さんは終始緊張した様子だったから、今日は緊張の糸が切れるんじゃないかな。明日は休みにしておいたから、ゆっくり休ませてやってくれ。」
「はい。」

 相手が相手だけに100%と言いきれない部分はあるが、公正証書にもなった俺と晶子に圧倒的に有利な内容での決着で、更に数百万単位の賠償金を払う羽目になることを覚悟してまで晶子に接触したくはないだろう。しかも、俺と晶子の背後には弁護団が控えていると今回嫌というほど体感させられたわけだし。
 そういう決着を通帳の記載という形で確認した晶子は、ほっと一息だろう。出勤も不規則だったし、往復は俺が可能な限り一緒に行っても完全に安心は出来ないし−興信所に付き纏われた時期も含めれば相当だ−、帰宅してもやっぱり100%安心しきれなかったから、緊張からくるストレスの蓄積は相当なものの筈。
 生憎料理を代わるのは難しいが、1日くらい弁当を休んでも全然構わないし、掃除洗濯を俺が全部するのも良い。晶子が安心して寝られる、安心して暮らせる、晴れの日にベランダに出て布団や洗濯ものを干せる環境に戻れることを実感出来れば、心の疲れは癒せるだろう。それは俺が考えて晶子と話し合ってすることだ。

「店には向こうから接触とかありましたか?」
「否、あの一件以来音沙汰はないよ。あれも典型的なステレオタイプの田舎の人間らしいね。自分より強いと思った相手にはへりくだり、自分より弱いと思った相手には徹底的に強気に出る。俺が応対に出て、此処は危険だと感じたんだろうから、多分此処には二度と来ないよ。」
「それはありがたいですけど、何だか釈然としないですね。自分達の行動が悪いと悟って止めるんじゃなくて、訴えられたり賠償金を払わされるのが嫌だから止める、って感じで。」
「地縁血縁が絶対的で、地域で生まれ育った地元の人間と他から転入してきた余所者との違いが死ぬまで続くところは、えてしてそういう考えだよ。その地域では地域のローカルルールが唯一の法律で、それ以外はないも同然というのは、日本の何処にでもある。これはステレオタイプの田舎に限ったことじゃない。」
「どうしてそういう考えになるでしょうね…。」
「土地信仰があるからだよ。土地を持っている者は偉くて、その土地の歴史が長いほど良い。そういう考えは日本では割と普遍的だよ。その呪縛から脱した人が多くなってきたからおかしいんじゃないか、と言われるようになってきただけだ。」

 マスターの言う土地信仰からすると、晶子の出身地に何ら歴史がない俺は、完全に地域では最下層だろう。そんな最下層の輩と地域の大事な嫁候補である晶子が結婚するなんてとんでもないことだし、外に出したことでそうなってしまった晶子の両親に対して本家が激しく叱責したんだろう。一応話の筋は通る。
 今回は300万の賠償金支払いと、以降の接触で600万即金という条件で決着がついた。だが、その地域で最下層の俺が晶子と結婚した、地域の人間にとって許し難い事実は変わらない。またほとぼりが冷めた頃に仕掛けて来るんじゃないかという疑念が拭いきれない。次はそれこそ警察沙汰にすることも視野に入れないと駄目か?

「店では今後も警戒はするけど、店を出てからのことには目が及ばないのは事実だ。そこからは祐司君が晶子さんをしっかり守ってやってくれ。」
「はい。」

 相手の出方や方針は考えれば考えるほど出て来る。だが、それに対して俺の行動は至ってシンプルで良い。晶子を外敵から守り、俺と晶子の生活を護ること。それだけだ。そのために働いているんだし、可能な限り晶子の送り迎えをしてるんだ。今までの生活を続けていれば良い。
 緊張や長期的な消耗戦の際、相手のペースに乗せられるのが危険だと聞いたことがある。今回の件はひとまず決着したとはいえ、全体としてはまだまだ続く超長期戦と見た方が良い。その時相手の出方や方針をあれこれ考えていると、慎重になっていて実は冷静になるべき心理を乱す相手の思惑にはまってしまうというものだ。
 晶子の親族は、公正証書の作成時などでも理解出来なかったようだから、地域のローカルルールが絶対だという考えは変わっていない。だが、そのローカルルールは本来通用しないものだったりする。「自分がそうだったから」という考えが日本の悪習が改善しない最大の理由であるように、ローカルルールは余程のことがないと変わらない。
 絶対ルールであるローカルルールを基準に行動するんだから、その影響を受けない俺に理解できる筈がないし、理解しようと思わない。ただ、俺と晶子の生活に干渉して破壊しようと企てる外敵が居て、その外敵は当面引き下がったが次の攻撃では手段を選ばず撃退する。それに徹すれば良い。
 帰宅。先に風呂を済ませてから晶子に通帳を見せてもらう。確かに300万きっかり振り込まれている。振込人の名義は高島さん。俺と晶子が振込を確認したことは、俺から高島さんに連絡してある。何かあったら遠慮なく直ぐに連絡して欲しいと言われている。

「これでひとまず完了、だな。」
「はい。」

 晶子は小さい溜息を吐く。表情が和らぐ。安堵したような、感慨を噛み締めているような、そんな顔だ。

「私は…祐司さんとこのまま一緒に暮らしていけるんですね。夫婦として。」
「…ああ。」

 幸せを再び壊されるんじゃないか。あの時と同じように親族の手で。晶子の危機感は想像以上に切実だっただろう。だが、今度はあの時使えなかった、知らなかった手段と多くの人達の強い助けを得て危機を跳ね返した。危機が去って安心したし、危機を跳ね返して幸せを続けられることの実感が湧いて来たんだろう。
 特に1府3県にまたがる強大な弁護団を組織した高島さんの力は絶大だった。俺と晶子だけで警察を頼っても、恐らく相談を受けて終わり、だっただろう。警察は実害がないと動かないし、親族絡みだと尚更動きが鈍くなる。高島さんが動いたことで、ほぼ一方的に相手方を攻め立て、圧倒的に優位な条件での決着がなされた。
 これは元を辿れば、晶子があの時めぐみちゃんを助けたからだ。両親に京都御苑に置き去りにされためぐみちゃんに救いの手を差し伸べ、本当の子どものように可愛がった。新婚旅行と銘打ったあの旅行、しかも移動を除いた実質初日の朝に、見ず知らずの幼児の面倒を見ようとはそうそう思わないだろう。
 子どもが欲しいからこそ、慎重に現状を見極め、行動する。あれだけ俺との夜に積極的でもきちんと妊娠を避けられるのは、晶子の厳重な自己管理があるからだ。そんな状況で持つことが夢の子どもを粗雑に邪険に扱うめぐみちゃんの両親に憤激し、めぐみちゃんを本当に可愛がった。
 この闘いの最中に、高島さんに連れられてめぐみちゃんが来た。たっぷり遊んで甘えて、たっぷり出来た思い出を胸に帰って行った。たった1泊2日だったが、あの時と同じように、晶子にもめぐみちゃんにも大きな軌跡を残した。間違いなく今回の闘いの勝因は晶子とめぐみちゃんだ。

「晶子はよく頑張った。晶子がめぐみちゃんを助けたことで、今度はめぐみちゃんに助けられて、最後まで頑張って自分の幸せを護ったんだ。」
「…はい。」

 晶子は鼻をすする。涙ぐんでいるのが分かる。絶え間ない緊張がようやく解れて来たんだろう。

「一晩ゆっくり寝て、明日1日ゆっくりしていれば良い。」
「…この幸せを…、守り切った幸せを…身体全体で感じたい…。」

 溢れてきた涙を指で拭って首を横に振った晶子が言う。言いたいことは分かるつもりだ。晶子にとってそれが幸せを身体全体で感じられることなのは、これまでの経験で分かる。俺が出来ることは…それに応えることだな。

…。

 ようやく荒い呼吸が収まってきた。こういう時の晶子は兎に角乱れる。俺から魂も吸い取らんばかりに。最後のあたりは晶子に魂を吸い取られるのが先か、俺が晶子を失神させるのが先かのデッドヒートの様相を呈した。
 結果引き分け。俺は魂を吸い取られる寸前で持ちこたえ、晶子は辛うじて失神を免れた。ただ、俺は体力をほぼ根こそぎ持って行かれた。その証が晶子の中にも外にも、あらゆる場所に解き放たれた。晶子は俺の隣でぐったり横たわっている。
 晶子は普段の何分の一のスローな動きで身体を起こし、俺の胸に手を置いて俺を見つめる。慣れたとはいえ暗闇の中だが、晶子の顔や胸に、汗とは違う粘性のある大小の飛沫が飛び散っているのが見える。

「凄く…良かったです…。」
「何よりだ…。」

 晶子は上半身を俺の上に乗せて来る。間近に迫った顔に飛び散っている大小の飛沫は、無作為そのもの。勢いで外に放った感情と欲望の証が晶子の全身に降り注いだ結果だ。俺は移動してないのによく飛び散るもんだと、他人事のように感心してしまう。

「祐司さんは…私が頑張ったって褒めてくれましたけど…、私は祐司さんが居たから…頑張れたんです。」

 晶子の前髪の一部が顔にかかる。俺の上で激しく動いた時は自分の汗だったが、今は俺の飛沫と絡み合って晶子の顔に貼りつく。

「祐司さんとようやく一緒になれて…、夢だった夫婦になれて…、堂々と一緒の家で寝起きして、ご飯を食べて、買い物に行って…。そんな生活を離したくない、壊されたくない…。だから…、親族でも、両親でも、脅しや泣き落としに屈したくなかった…。」
「…。」
「祐司さんが頑張って動いてくれてるのに…、私がぐらぐらしてちゃいけない…。私が勝手にぐらぐらして…今まで祐司さんに迷惑をかけたから…、もう同じ失敗はしない…。そう思って…頑張りました…。」
「本当に…よく頑張ったな、晶子。」

 俺は晶子の頭を軽く抱き寄せる。晶子にとって、結婚−婚姻届を出して成立する結婚は、晶子の精神的な立脚点として必要不可欠だった。子どもを作ることもさることながら、絶対的に自分が自分で居られる環境と人間関係が結婚によって得られると確信していた。だから、早々に自ら俺の妻を名乗るようになった。
 婚姻届を出すまでは、もしかしたらという不安が何処かにあったんだろう。幾ら美味い料理を作っても、幾ら夜が充実しても、浮気をする奴はする。婚姻届を出していないと、所詮彼氏彼女の付き合いであり、同棲と見なされるのも事実だ。だから、晶子は勇み足と言われるのを承知で婚姻届の提出へと俺を動かした。
 婚姻届を出したことで、今回の闘いが有利に働いたことも事実だ。同棲状態だったら「ふしだらなことをしている」とか理由をつけて連れ戻すことは可能だ。俺も正当な理由で止めるのは難しかっただろう。だが、婚姻届を出していたことで、結婚した夫婦に正当な理由なく干渉するのはおかしい、と高島さんも堂々と動く理由付けが出来た。
 これが婚姻届を出すことの威力であり、重みなんだろう。その意味では、晶子は自分で今回の闘いに勝てるだけの基盤を作っていたと言える。俺に照準を絞ってひたすら攻めて押して作り上げて到達したものだけに、崩されてたまるかという意地のようなものも出来たんだろう。晶子にとってやっぱり結婚は必要だったわけだ。

「結婚してから、晶子はぐっと精神が安定するようになったな。」
「結婚は確固たる幸せの基盤だと思うんです…。少なくとも私にとっては…。」

 晶子は再び顔を上げる。

「欲しかったものを手に入れられて…この家に居て祐司さんと一緒に居ると…、凄く安心出来るんです…。」
「…。」
「一緒に住んで生活して…、必ず帰って来る場所が同じ家で…。それが夫婦であって家族であって…、そういう関係や環境が欲しかったんです…。」

 オーソドックスというか定番というか、晶子の語る家庭の姿はまさにそういうものだ。だが、それを手に入れるまでには色々あった。子どもを安心して産み育てるために、一時とはいえそれを我慢するかどうか苦渋の決断を下さざるを得ないこともあった。
 就職活動が混迷を極めた晶子は、最後の綱として公務員試験に臨んだ。国家だとどうしても全国的な転勤がつきものになる。ある程度資金が溜まるまで別居することになっても認めて欲しい、と晶子は俺に頭を下げた。それは自ら出産・育児の資金を稼ぐことを当然とする晶子には、俺との生活と比較して苦渋の決断だったと推察するに余りある。
 公務員試験も何故か全滅だったことで、別居になることは潰えて逆に婚姻届の提出から今の家への引っ越し、本当の夫婦としての生活が始まった。結果論だが、晶子の就職活動が失敗したことで晶子は欲しかった幸せと環境を手に入れて、精神の安定も手に入れたわけだ。人生どう転ぶか分からないもんだ。

「それを手に入れられたから…、私がしっかりしなくちゃいけない。高島さんに言われたように、情に絆されたりしちゃいけない。…そう思って乗り切りました…。」
「妻になった女の貫録、ってところか。」
「お母さんになるなら…、私がどうとか言うより前に…、子どもをきちんと面倒見ないといけませんから…。」

 晶子は再び顔を俺の胸に沈める。…微かに寝息を感じる。限界に達したか。もっとも俺自身さほど力は残ってない。何とか…晶子を脇に退けて掛け布団を引き寄せるくらいしか出来ない。顔の向きを90度左に向けて晶子を見る。…やっぱり眠ってる。
 この闘いを経たもう1つの変化は、晶子が子どもを作ることに前向きになったことだ。以前から子どもが欲しいために浮気や浪費のリスクが低いと踏んだ俺に徹底的にアプローチして既成事実を積み重ねて来たし、財政基盤の確立のために苦渋の選択として別居婚も視野に入れた。
 だが、夫婦になって以降も学費や生活費を完全に自分達で工面した学生時代を含めて、財政基盤は強固になる一方。賠償金が振り込まれた口座でもある、生活費の収支を集約する2人名義の口座には、年齢からすれば驚異的な額らしい−他人には勿論言っていなくてネットで調べた年代別の平均貯蓄額を基にした判断−貯蓄額を突破している。
 それもこれも、元々2人揃って浪費とは無縁な生活パターンな上に、生活費の多くを共有していることが大きいんだが、それだけの貯蓄額を見ても晶子は子どもを作ることに踏ん切りがつかなかった。「まだ足りないんじゃないか」という石橋を叩くだけじゃ満足できず、鉄筋コンクリートで補強して強度検査をするレベルに達していたからだ。
 俺の失職や大病など、完全にリスクがなくなるわけじゃない。だが、大病に関しては高額療養費制度と組合の休業補償とかを使えば、保険外診療や差額ベッドといったことを使わない限り殆ど出費がないくらいになることが分かっている。失業についても投資家に振り回されないし、堅実健全な経営はこの時期でも崩れない福利厚生に反映されている。
 それでも、晶子は踏み切れなかった。子どもは親や環境を選べないという事例を、皮肉にもめぐみちゃんの一件に関わったことで目の当たりにしてしまったからだ。自分の子どもにはめぐみちゃんのような惨めな思いはさせたくない、という強い決意が、度が過ぎるほどの慎重さを生みだしていた。
 この闘いで、晶子の親族は子どもが出来ないうちに晶子を連れ戻す意向だったことが分かった。晶子はそれを知って、子どもが居ないことが連れ戻そうと執拗に突き纏われる原因になっていると悟った。条件が揃っているなら、子どもを作ることに踏み切って良いと考えを変え始めた。
 やっぱり闘いの最中だったからか、今日まで子作りとはなっていない。子どもを意識した夜はめぐみちゃんが泊まりに来た時だけだ。その1日で必ず出来るとは思ってないし、晶子もその様子はない。これは自然に委ねた方が良いかもしれない。ストレスで妊娠し辛くなるとも聞いたことがあるし。

Fade out...

 …ん…何だ…?どうも息苦しい…?!
 呼吸を欲するように急速浮上してきた意識で一気に開けた視界いっぱいに、晶子の顔が映る。目を閉じていてこの距離といえば…。

「…ん?お目覚めですか?」
「な、何て起こし方するんだ…。」
「偶には良いじゃないですか。朝ご飯出来ましたから、着替えて来てくださいね。」

 俺が目を覚ましたのに気づいた晶子は、さっさと寝室を出ていく。どれだけ夜が激しくて淫靡の限りを尽くしても、夜が明けたら何事もなかったかのように振る舞うのは、切り替えが凄いと言うか…。兎も角、俺は今日も仕事だから支度しないと…。
 服を着替えて顔を洗ってからリビングに入る。テーブルにはご飯と味噌汁、半熟の卵焼きと付け合わせの野菜をメインにした朝飯が並んでいる。晶子と向かい合って食べる。何時もの朝の風景なんだが、何となく久しぶりに落ち着いた朝のような気がする。
 今日は晶子は仕事が臨時の休み。これで今週は2日おきに休みになる形になる。ゆっくり昼寝でもすれば良いと思うが、晶子は掃除なり洗濯なりするだろう。こうした地道な晶子の仕事によって、この家とこの家での生活は清潔で快適に保たれている。
 晶子が掃除や洗濯をこまめにするのは、単に綺麗好きというだけじゃなく、自分の幸せな環境を維持するためという意識が根底にあるからだと今回の一件を経て思うようになった。誰にも干渉されないことは、自分でしないと何も進まないことでもある。それが分かっているから掃除や洗濯をこまめにする、と。
 晶子が俺の家に住み着いて、学生のうちに結婚へと向かわせたのは、大学を終えれば引き戻される、忌まわしいとすら思う出身地から脱却するために、俺の家、ひいては俺との生活に自分の生きる場所を見出し、引き戻される前に早々に整備したかったからだろう。そう考えると先走りとも言える行動の数々の筋が通る。

「それじゃ、行って来る。」
「行ってらっしゃい。」

 玄関先で晶子と軽くキスをして、見送りを受けて家を出る。ようやく本来の、でも実は貴重かもしれない平穏な日々が戻ってきた。今日も仕事を頑張ろう。その後にこの家に帰れば晶子が待っている。経緯は晶子に引っ張られるようなものだったとは言え、俺ももう手放せない幸せがあるこの家に…。
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