雨上がりの午後

Chapter 332 招かざる客の来襲、「義母」の援軍

written by Moonstone

 めぐみちゃんが訪ねて来た週の翌週。昼休みに晶子から入ったメールに俺は一瞬目を疑った。「店に兄が来ました。追い返しましたが、今度は家に行く、と言い残していきました。」この短文に店での一部始終が凝縮されている気がした。居ても経っても居られず、俺は午後から休みを取って店に急いだ。
 丁度休憩に入ったところだったが、マスターと潤子さん、それに同じシフトだった増崎君と青木さんが「よく来た」といった様子で出迎える。晶子も居るが表情は硬い。俺は呼吸と共に気持ちを鎮めて、事の次第を聞く。

 昼前、ランチの時間帯の始まりに、晶子の実兄が1人で来店した。この時間帯の男性1人の来店は珍しいな、と最初に応対した増崎君が思った。接客に出ようとしたら、晶子の実兄は増崎君を無視してキッチンに向かい、「晶子!」と呼びかけた。
 まさか店に直接来るとは思わなかった晶子は驚いて固まってしまった。同じくキッチンに居た潤子さんが「どちらさまでしょうか?」と尋ねるも、「俺は晶子の兄だ」とだけ答えて以降は「晶子。連れ戻しに来てやったぞ。さっさと来い。」と言うばかり。流石にキッチンに無断で立ち入るのはまずいと思ったんだろうが−刃物や鈍器が多数あるし−、晶子の実兄は居座る。
 増崎君と青木さんは話には聞いていたが、晶子と実兄はあまりにも雰囲気が違う。晶子の実兄は金髪にだらしないスウェット姿、更に咥えタバコという、深夜のコンビニあたりに屯しているヤンキーかチンピラくらいにしか見えない。店を荒らされても困るから、増崎君と青木さんはどうしようもない。
 そこに、少し早い昼飯を奥で食べていたマスターが出て来た。晶子の実兄がチンピラとすれば、マスターは幹部クラス。まさかこんな人物が控えているとは思わなかったのか、晶子の実兄の勢いは一気に凋んでしまう。晶子の実兄を見据えながら「お話があるなら、奥で聞きましょう。」とマスターが一言言うと晶子の実兄は竦み上がった。以降、こんなやり取りがなされた。

「え、えっと、晶子の実兄なんですが、一族に無断で駆け落ちした晶子を連れ戻しに…。」
「晶子さんは真面目で誠実な男性と昨年婚姻届を提出して、実体のある住所に住んで独立した生活を営んでいます。未成年ならまだしも、20歳を超えた男女の婚姻に言いがかりをつけるのは止めていただきたい。」
「そ、その真面目な男性とやらと結婚したのが問題であって…。」
「晶子さんの旦那は、正社員としてきちんと働いています。平日の昼間にそんなだらしない恰好で押し掛けるような不遜な態度に出る貴方よりは比較になりません。」
「…え、えっと、兎に角晶子を連れ戻したいんですが…。」
「20歳を超えて役所に正式な書類を届け出て、平穏に独立した生計を営んでいる夫婦に対して、連れ戻すという感覚そのものがおかしい。そう言っているんですよ。」
「い、いや、俺としてはですね…。」
「これ以上居座るなら営業妨害として然るべき役所に一報することになりますが、よろしいですね?既にその役所には、晶子さんへのストーカーの件で相談実績があります。通報すれば直ぐ来るでしょう。」
「チッ!おい晶子!今度は家に行くから、帰る準備をしておけよ!」

 晶子の実兄は脱兎のごとく店から出て行った。入れ替わりで入ってきた女性客2人が「さっきの男性、何ですか?」と聞いたら、マスターが「酔っぱらって居酒屋と間違えたらしいです。」と答えた。それから程なくランチの時間が本格化したことで一旦棚上げし、晶子は短文のメールをしたためて仕事に戻った。

 こういう形で来るとは何となく予想はしていた。興信所頼みが実質不可能になり、それまで得られた情報はひと月半以上を経過しても変化がない。信じられないし興信所は使えないとなって、こうなったら直接行って連れ戻して来る、と親族の誰かが意気込んで出て来る、というパターンだ。
 もっとも、晶子の実兄が出て来たのは予想外だ。しかも次は家に行くと言っていた。あの手の輩の捨て台詞は往々にして予告になる。晶子の両親を伴って押し掛けて来る危険性が高い。いよいよ直接対決か。全然わくわく感や高揚感はない。嫌なものがついに来たといううんざり感しかない。

「多分店にはもう来ないと思う。ああいうタイプは自分より弱いと見た相手にはとことん高圧的になるが、逆だと徹底的にへりくだる。俺がああ言ったからね。」
「その分、店以外では徹底的に攻めて来るでしょうね。一族とやらの数と力に任せて。」
「一族だか何だか知らないですけど、あんな人でも生活出来るんですから、よっぽど裕福なんですね。勿論、皮肉の意味で。」
「晶子ちゃんの実家は此処から結構遠いって聞いてるけど、この時間に1人で来たってことは、何処かに宿を取っているかもしれないわね。そこから一族とやらに電話をすれば出てこられる人は出て来る、と。」

 マスター、増崎君、青木さん、潤子さんの順で見解が出る。どれも大筋では今後十分予想できる範囲内だ。こうなったらこちらも臨戦態勢を取るしかない。相手が数と力で攻めて来るなら、こちらは権威と法律で応戦するしかない。その下準備は既に出来ている。

「相手は直ぐに行動に出て来るでしょう。今日は午後休を取ってきましたし、晶子は早番ですから一緒に帰宅します。あと、弁護士に連絡を取って来てもらうように手配します。」
「弁護士って、そんなに直ぐ手配できるものなんですか?」
「その辺は大丈夫。きちんと契約してある。」

 青木さんの疑問に答える。善は急げ、だ。俺は席を外して高島さんに電話をかける。コール音は3回目で終わる。

「高島です。御主人、どうしました?」
「安藤です。…晶子の、妻の親族が妻の勤務先に押し掛けて来ました。今回は手を引きましたが、次は家に行くと言い残していったそうです。」
「分かりました。では私が直ちに向かいます。極力自宅から出ないようにしてください。面会は私が同席するまで絶対にしないでください。」
「はい。よろしくお願いします。」

 高島さんが援軍で来てくれる。だが、どうしてもタイムラグが生じる。晶子の親族の側もタイムラグがあるだろうが、こういう場合は楽観的な観測は禁物だ。晶子と一緒に帰る、帰ったら家から極力出ない、面会は高島さんが同席のもので行う、これらを遵守して持ちこたえるしかない。

「電話しておきました。直ぐに来てくれるそうです。」
「弁護士の手配も出来ているなら、あとは来てくれるまで自宅に籠城するしかないね。」
「明日も会社には休みを届けておきました。距離を考えると多分相手は土日に来るでしょうから、それまで家に籠っています。」

 こういう時、有給を取るのが楽な会社だと都合が良い。今日にしたって急用が出来たことと明日もその関連で休む、と上司の和佐田さんに報告して事務に届けを配送するようにメールで手配しただけ。有給届は早々に配送されて来るから、それに今日の日付を書いて認印を押して事務に提出すれば良い。

「手際が良いね。」
「晶子だけの問題じゃないですからね。」

 そう、これは晶子だけの問題じゃない。晶子を誘拐−そうとしか言えない−されたら、実生活の面でも俺の損害は計り知れない。俺の生活は晶子が居てこそ成り立つようなもんだ。それに、何と言ってもきちんと婚姻届を提出して、会社にも届を出したかけがえのない俺の妻だ。誘拐されそうになって黙っていられる筈がない。

「警察にもう1回行っておこうか。前回相談したストーカーが実は親族で、連れ戻すとか言って押し掛けて来た、と。」
「親族であることは出さない方が良いと思います。親族とのトラブルは民事不介入を理由に警察が介入したがらないそうですから。」

 青木さんが提言する。そんな話は聞いたことがある。だが、見ず知らずの他人より親族の方がトラブルの要因になりやすいし、深刻な状況に陥りやすいのもまた事実。親族は足枷にしかならない場合も多々あることを、この一件を通じて嫌というほど思い知った。

「それは言えてるね。親族というのは伏せて相談という形にしておけば良いか。」
「打てる手は打っておきましょう。店は休憩時間ですし。」
「そうだね。じゃあ、準備するから少し待っていてくれ。」
「よろしくお願いします。」

 向こうが押し掛けて来るのはほぼ間違いない。興信所を付けた段階で住所は割れている。オートロックも完全に防げるとは限らない。となれば、打てる手を打っておいて後は自宅に籠城するしかない。援軍が来れば数と力に任せたローカルルールの世界で生きる輩をそれほど恐れる必要はない。

 自分が決めた時に気軽に外に出られないというのは、想像以上に窮屈だ。主に土日の来襲が予想されるということで毎週恒例の買い物を前倒しで金曜にすることにしたが、そこでも何時どうやって来るか分からない不安が消えなかった。俺と晶子は徒歩か自転車だから、車で来られたらかなり不利だ。
 そんなわけで止むなくタクシーを呼んだ。エントランス前に着けてくれたのはありがたいが、エントランス付近で待ち伏せしている恐れもあるから、気軽には出られない。どうしてもこそこそした動きになってしまい、タクシーの運転手に「何かあったんですか?」と聞かれる羽目になった。「ストーカーに付き纏われているのでどうしても回りに神経質になってしまう」と嘘ではない答えをしたら「それは大変ですね」と同情してくれたのは少し意外ではあった。
 普段の買い物はそれぞれの職場で働いていたり、土日に休みが重なることが限られている俺と晶子の貴重な一緒の時間でもある。1週間のメニューを離したり考えたりしながら食材を選んで、一緒に持って帰るだけで楽しい。それも思うように出来ない息苦しさはたまったもんじゃない。

「…御免なさい。祐司さん。」

 土曜の昼。昼飯を食べていると晶子が沈痛な面持ちで言う。

「親族の干渉に巻き込んでしまって…。」
「悪いのは晶子じゃなくて親族だから、晶子が謝る必要はない。」
「…。」
「今は晶子1人じゃないし、俺と晶子はれっきとした夫婦なんだ。何も悪いことはない。来るなら来れば、くらいの気持ちで堂々としていよう。」
「…はい。」

 俺に対して申し訳ない気持ちを持つのは分かるが、その必要はない。こういう時一緒に問題解決に取り組めるから夫婦だと言える。最初から晶子1人に任せきりにするくらいなら、さっさと離婚した方が手っ取り早い。
 高島さんからは、昨日の夜に新京市入りしたという連絡があった。昼頃打ち合わせがてら訪問する、と併せて伝えられた。先に晶子の親族−恐らく晶子の実兄が来たとしても、自分の到着までは絶対に中に入れないように、と指示されているし、それは遵守する。この家が最終防衛ラインだ。

ピンポーン。

 食べ終えた直後インターホンが鳴る。1回だけ…つまり、エントランスの外からだ。昨日からこの音が鳴るとどうしても敏感になってしまう。俺は食事の手を止めて応対に出る。勿論、モニターの録画とICレコーダーの録音は忘れずに…。受話器を上げると映像が出る。…あ。

「はい。」
「こんにちは。高島です。今よろしいですか?」
「勿論です。エントランスに迎えに行きます。」
「よろしくお願いします。」

 俺は通話を終えると、鍵を持って家を出てエントランスに向かう。エントランスと外界を隔てるオートロックのドアの向こうには、高島さんが居るのが確認できる。

「わざわざありがとうございます。」
「いえ。それより私が先に来られたようで良かったです。」

 高島さんを家に案内する。場合が場合だから、玄関前でインターホンを押して、中から鍵を開けてもらうのを待つ。晶子は直ぐに来る。

「こんにちは。」
「こんにちは。お世話になります。」

 さっきまで昼飯終了間もなかったリビングは、早々に片づけられている。この機敏さは晶子ならではだ。

「特に御主人にとっては折角のお休みなのにお邪魔したことを、予めご了承ください。相手が来るのであれば、今日明日の確率が高いと踏んでいます。」
「来ていただいたのはむしろ感謝しています。それより、今日明日の確率が高いと考える理由は何でしょう?」
「相手は御主人が在宅である今日明日に来て、名目だけでも御主人を説得して奥様を連れ戻す合意を得た、という体裁を整える算段だと推測できます。体裁や世間体を重視する思考ですから、無理矢理連れ出して御主人が警察に捜索願を出したり、会社の顧問弁護士に相談したりといった大事になることを極力避けます。」

 高島さんの推論は一昨日のマスターの話に重なる部分がある。マスターがあの厳つい外見で終始強気で押したから、晶子の実兄は尻込みしてついには退散した。逆にこの家には俺と晶子しか居ないと見て、援軍を呼んで数と力で「合意」を迫る腹積もりだと考えることは十分可能だ。

「奥様がお勤めの店に来たのが一昨日で、奥様のご両親や親族が住む地域との距離がかなりあることからも、御主人が御在宅の今日明日に他の親族を連れて乗り込んで来るでしょう。恐らく比較的年配の男性を複数伴う形で。」
「…数と力に任せて強引にでも離婚と連れ戻す合意を取り付けるつもりだ、と。」
「興信所が使えなくなった以上、自ら動くしかありません。それでも見ず知らずの土地に繰り返し赴くストレスは相当なものですから、そのような形で向こうが望む内容での早期解決を図るのは自然なことです。」
「…。」
「ですが、当初からお伝えしているとおり、お二人は婚姻届を提出して独立した健全な生活を営む夫婦です。現代において狭小な地域のローカルルールが法律を凌駕することは出来ないこと、そしてお二人の顧問弁護士である私が同席して全ての対策を取ること。この2点を含めて堂々と構えていてください。」
「分かりました。」

 そう、婚姻届を提出してれっきとした夫婦になっている。期間は半年と短いが、この間生計も、大学に重なる時は学費も自分達で工面してきた。何らやましいところがないんだから、相手が何を言ってこようが退ければ良い。援護は高島さんがしてくれる。

ピンポーン。

 インターホンが鳴る。1回だけ、つまり外から。立ち上がろうとすると再び1回鳴る。これは…間違いないな。俺は携帯のICレコーダーをONにして応対に出る。

「はい。」
「おい!とっとと開けないか!それに居留守を使うとは何事だ!」
「部外者の侵入を避けるため、オートロックを開け放つことは出来ません。管理会社からも通達が出てますので。ところで、どちら様ですか?」
「やっぱり生意気な奴だな!晶子の兄だ!」

 言われなくても分かる。インターホンのモニターでその手入れがいい加減な金髪も、大量のピアスも、俺より服のバリエーションが少ないんじゃないかと思わせる上下のスウェットも、しっかり確認できる。オートロックを知らないってことはないよな?流石に。
 それに、今開けるわけにはいかない。モニターの背後には複数人の足が見える。高島さんの予想どおり徒党を組んで押し掛けて来たようだ。こういう嫌な予想ほど良く当たるという嫌らしい法則めいたものは、こういう場面ほど適用されやすい。

「オラ!とっとと開けて晶子を出せ!」
「…そのような要求には応じられません。」
「何だと?!」

 果たしてこの押し問答をどう解決に導くか?この手の輩は延々と居座ることも厭わないだろうし、その間他の住人に迷惑がかかる。

「私に任せてください。」

 高島さんが俺の肩を軽く叩く。此処はやはりプロに任せるのが賢明だ。俺は高島さんに代わる。

「失礼します。此処からは代理人の私が応対いたします。」
「はぁ?!代理人だと?!」
「詳細はこれから私が出向いてお話します。そこでお待ちください。」

 高島さんの声に、これまでにない迫力が籠ったのを感じる。晶子の実兄も言葉が出ない様子だ。高島さんはインターホンの受話器を置いて、こちらに向き直る。

「これから私が出向いて話をしてきます。お二人は戸締りを厳重にして、私であることが確認できるまで決してドアを開けないでください。」
「分かりました。高島さん一人で大丈夫ですか?」
「お任せください。一人ではありませんし。」

 高島さんは颯爽と出て行く。俺は高島さんを見送った後玄関の鍵をかけてドアチェーンをかける。此処は高島さんに任せるしかない。いざとなったら…警察に通報だ。これを躊躇う理由はない。現に平穏な生活を脅かされてるんだから。
 晶子は座ったまま俯いて、両手を膝の上でぎゅっと握っている。俺はその隣に座り、右手を覆うように自分の手を被せる。その瞬間、晶子は俺の胸に飛び込んで来る。一番怖くて不安なのは…晶子だよな。かつて自分の幸せを密告で破壊した前科がある実兄が再びやってきたんだから。

「俺と晶子は…れっきとした夫婦だ。もう誰も干渉する余地はない。徹底的に戦おう。一緒に、な。」
「祐司さん…。」

 俺は晶子をしっかり抱き締める。高島さんの交渉−というのかどうかは分からないが、その腕を信じるしかない。万が一の場合は迷わず警察を呼ぶ。このまま数と力で晶子を連れだされるわけにはいかない。晶子は…俺の大事な妻で、俺の大事な女なんだから。

 …こういう時は時間の経過が遅く感じる。高島さんは大丈夫だろうか?
 …ん?外が少々騒がしいような…。エアコンを使ってる関係で窓を閉めていると分かり辛い。相当揉めてるんだろうな…。
 …静かになった…か?様子を見に行きたいという気も起こって来るが、高島さんの言いつけを破るわけにはいかない。

ピンポーン。

 インターホンが1回鳴る。外からだ。今度は急かすような連打はない。携帯のICレコーダーをONにして録画準備をしてから応対に出る。

「…はい。」
「高島です。話は終わりました。」
「は、はい。今行きます。」

 モニターに映ったのはまぎれもなく高島さん。見た限り異常はなかった。周囲も騒がしくなかったし、晶子の実兄達は引き返したんだろうか?兎も角、高島さんを迎えに行く。晶子に戸締りを厳重にして、俺と高島さんだと確認できるまで絶対に開けないように言って玄関を飛び出す。
 エレベーターを待っているのがじれったい。階段で降りる。階段はエレベーターに隣接しているから、エントランスに出られる。オートロックの向こうには高島さんと…数人のスーツ姿の男性?誰だろう?俺を見て会釈したから、少なくとも敵対人物ではなさそうだ。

「お待たせしました。」
「いえ。少々時間はかかりましたが、お呼びでない来訪者にはお引き取りいただきましたよ。」
「失礼を承知で言いますが、高島さん一人で大丈夫でしたか?」
「申し上げたと思いますが、一人ではありません。こちらの皆さんと共同した結果です。」
「こちらの方々は?」
「私の地元である京都、或いは新京市を含むM県を拠点とする弁護士で、私の司法修習の同期や大学の後輩です。」

 高島さんの後輩の弁護士?総勢…10人はくだらない。高島さんの一声でこんなに集まったのか?これじゃまるで弁護団じゃないか。

「やはりと言いますか、あのような人達は権威に加えて、自分達より強いと見た相手にはとことん弱腰になるものです。」

 高島さんは一呼吸置く。

「私が安藤さんご夫妻の顧問弁護士であること、加えて私が招集した弁護士で構成する弁護団が、長期間の付きまとい行為や今回の脅迫をはじめとする数々の違法行為を刑事民事の両面から告訴する体制であることをお伝えしたら、5人ほどいた集団はほうほうの体で逃げ出しました。どうにか全員分の名刺だけはお渡ししました。」
「高島さんから合図があったらこのマンションの前に駆けつけるよう、事前に打ち合わせをしてありました。もっとも、高島さんが名刺を出して身分を明らかにしたところで相手は完全に腰が引けていたようですが。」
「皆さん、遠いところからわざわざ…。」
「京都弁護士会の今年度副会長直々の召集とあらば、親の葬式でもない限り来ない理由はありませんよ。」

 複数の人を雇って自分の事務所を運営するくらいだから相当有名な人かもしれないとは思ってたが、京都弁護士会の副会長だとは…。そんな素振りは微塵も見せなかったが、晶子の実兄の応対を変わった時に一瞬見せたあの気迫は、難関の試験と司法修習を突破した弁護士組織の中核ならではか。
 高島さんの呼びかけに応えて弁護士がこれだけ集まるのは、高島さんの人柄や人望か、縦横の繋がりが濃いという弁護士だからか。どちらにせよ、高島さんの陣頭指揮でこれだけ強力な支援組織が出来たんだから、俺は晶子と共にとことん闘うことを考えれば良い。

「これまでの情報と今回の応対から、相手の素性を把握出来ました。後は私達にお任せください。不要不急の外出や夜間の行動は出来るだけ控えていただくのはお忘れなきようお願いします。」
「はい。こちらこそよろしくお願いします。」
「情報は適時私からお伝えします。…では、私達はこれで失礼します。良い休日を。」

 高島さんが一礼し、他の弁護士も一礼して散開する。俺は弁護士連合を見送ってから、一応周囲に注意してエントランスから自宅に戻る。インターホンを鳴らすと、晶子が硬い表情で出迎える。俺が何ともないことで少し和らぐが、恐怖から来る表情の硬さは消えていない。ひとまず俺だけであることを確認して入れてもらう。

「…どうなったんですか?」
「高島さんをはじめとする弁護士連合が蹴散らしてくれた。高島さんが本領発揮といった感じだ。」

 俺はドアの鍵とドアチェーンをチェックしてから、リビングでいきさつを話す。高島さんの合図で待機していた弁護士連合が集合したこと。高島さんが俺と晶子の顧問弁護士であり、晶子への付き纏いや今回の脅迫に対して刑事民事両面で告訴する体制だ、と告げると、晶子の実兄らは一目散に逃げ出したこと。
 高島さんは京都弁護士会の今年度副会長であり、高島さんが司法修習の同期や大学の後輩を招集したこと。今後は高島さんら弁護士連合が攻勢に出ること。これからも不要不急の外出や夜間の行動は極力控えるようにと伝えられたこと。包み隠さず話す。

「高島さんがそんなに…。」
「晶子があの時めぐみちゃんを助けたことが、巡り巡って今度は俺と晶子を助けてくれたんだ。」
「めぐみちゃんの力ですね…。」
「ああ。めぐみちゃんの気持ちを無駄にしないためにも、決着がつくまで団結して闘っていこう。」
「はい。」

 かつての晶子の優しさと子ども好きが今も続く疑似親子の関係になり、その子どもが強力無比な弁護士連合を召喚してくれた。後には引けない。引く気もない。俺と晶子の生活と幸せを護るのは、弁護士連合は力にはなってくれるが、あくまで主役は俺と晶子だ。最後まで戦い抜こう。
 1週間後。朝飯を済ませた俺の携帯に、高島さんから電話が入った。俺は携帯をスピーカーモードにして応対する。

「おはようございます。今日お電話したのは、相手方への攻勢の方針について伺うためです。」
「今、どのような状況なんですか?」
「勿論、これから説明します。これらを前提に奥様と御相談ください。」

 高島さんの説明を聞く。…え?まさかそんな状況になってるとは…。予想外の状況だ。
 高島さんをはじめとする弁護団が晶子の出身地域と両親+兄の自宅を特定して、更にそこを含むS県の弁護士複数を招集して、一連の行為に対して刑事民事両面での告訴を行う体勢だと伝える内容証明郵便を送付した。
 内容証明の意味が分からないのか、「弁護士に何が出来る」とばかりに無反応だった。S県の弁護士連合を率いて高島さんが直接晶子の両親+兄の自宅に乗り込んだ。弁護士、しかも高島さんが女性、しかも見た目若いとあってかなり小馬鹿にした様子だった。
 揃って内容証明郵便やそれの理由である付き纏いや脅迫などを違法行為と説明しても、「実家の方針に背いた娘を連れ戻そうとして何が悪い」といった様子だった。晶子の父と兄はそもそも女風情が何を偉そうに、といった素振りだった。弁護士が連れ立ってきたところで何が出来ると思っていたんだろう。
 高島さんが、俺と晶子の顧問弁護士であると出した時点で様相が変わった。顧問弁護士を持てるのは大きな会社や実業家、資産家など富裕層なのが普通。まさか大学卒業後−仕送りを断ったことで中退したと思っていたそうだ−顧問弁護士を持てるようになったのかと思ったんだろう。
 晶子の出身地域で顧問弁護士を持っている家庭はないそうだ。そもそも法的に争うという概念があるかどうかも怪しいローカルルールがまかり通る地域だから、弁護士が出て来ること自体あり得ないことでもある。そこに顧問弁護士を筆頭とする弁護士連合が押し寄せて来たんだから、ただ事ではないと察したんだろう。
 そんな大袈裟な、という様子に変わった晶子の両親+兄に対して、付き纏いも脅迫もれっきとした違法行為であり、ましてや婚姻届を提出して独立した生計を営む家庭の構成員である晶子を正当な理由なく連れ出すことは、殺人や放火、強盗に並ぶ重罪である誘拐になること、クライアントがその危機に晒されて黙っている顧問弁護士はいない、と高島さんが畳みかけた。
 間違った行為をした娘を連れ戻すのは家庭に対する干渉、と切り返したのに対し、家庭に干渉したのはどちらかと一蹴し、興信所に依頼して晶子や俺に付き纏ったこと−これは高島さんが鎌をかけた−も、晶子を出すように勤務先の店にも自宅にも集団で押し掛けた証拠があること、これらを基に刑事民事両面で告訴する体勢が出来ている、と高島さんは更に畳みかけた。
 ローカルルールは法律の前には無意味、と釘をさしてから、誰が何のためにこんなことをしたのか、と尋問したところ、晶子が地域の男性ではなく余所者と結婚する方針だと親類縁者に知られて厳しい叱責を受けたこと、早急に連れ戻して本家が用意した地域の男性と結婚させろ、と詰め寄られ、本家の資金援助を受けて興信所を付けたことと明らかにした。
 本家は晶子がかつて結婚を夢見た従兄が継いでいる筈。高島さんが本家の状況や意向を問いただしたところ、結婚した晶子の従兄は実権を持っておらず、従兄の父、晶子から見れば伯父が実権を握っており、誰も逆らえないという。興信所を付けて晶子の所在や動向を把握し、ついでに余所者、すなわち俺の素性や動向も把握するよう命じた。
 その結果、晶子が既に俺と婚姻届を提出していることを知って、晶子の両親は愕然。晶子の叔父は激昂。弱みを握って離婚させようと考えたが、俺は優良企業にきちんと勤務していて、晶子は大学時代からの店できちんと働いていて、その店は通常の飲食店。握れる弱みが見つからない現状にいらだち、継続調査を命じた。
 しかし、興信所がある時期から依頼を断るようになり、他の興信所でもその依頼は受けられない、と門前払いされるようになり、情報が入らなくなった。傷物になったのは目を瞑る、まだ子どもが出来ていないうちにさっさと連れ戻せ、と晶子の兄が命じられ、友人を引き連れて出向いた。これが先の事件で表面化した部分だ。
 こういう場面では嫌な予想ほど当たるというジンクスめいたものは、今回も健在だ。晶子にとって浅からぬ因縁がある本家が黒幕で、晶子の兄は言わば走狗。晶子が心中穏やかでいられる方がおかしい。晶子は俯き加減で立ち尽くしている。言葉が出ないのか感情を押し殺しているのか。

「−状況はこのようなところです。以上を踏まえたうえで、安藤さんご夫妻には、これからの攻勢の方針をご検討いただきたいのです。」
「攻勢に出ることは可能なんでしょうか?」
「相手方は本家の力を以てすればお二人を離婚させて奥様を連れ戻すことは可能だと考えていました。ところがそれらが違法行為であり、私をはじめとする弁護団が刑事民事両面で関係者を告訴する方針であることを、奥様のご両親の仲介で奥様の御実家の本家に直接通達しました。」
「…先方は何と?」
「口には出しませんが何とか穏便に済ませたいという意向を強く滲ませています。まさか奥様が御主人と共に顧問弁護士を持ち、その顧問弁護士をはじめとする弁護団が大挙して押し寄せて告訴の準備が出来ていると告げるとは予想もしなかったのでしょう。ローカルルールが強固な地域は、それを凌駕する権威と組織を以てすれば一転して内向きになります。」
「…。」
「ですので、此処から先は言葉は悪いかもしれませんが、どのようにも出来ます。裁判に持ち込んで刑事罰を与える−恐らく執行猶予はつくでしょうが、裁判となれば周囲に知られることになるのは避けられませんからダメージは絶大です。半ば言い値で損害賠償を払わせる。勿論、それらの対応や手続き、窓口業務は私が行いますので、ご安心ください。」

 高島さんの本領発揮か。猛烈な勢いで畳みかけて、相手を崖っぷちに追い込んだ格好だ。このまま崖から突き落とすか、突き落とす代わりに財産を根こそぎ分捕るか、生かさず殺さずにするか、好きなものを選んでくれ、と言われているようなものだ。
 俺としては裁判に持ち込んで刑事罰を与えて、二度と関わりを持ちたくないと思わせるのが良いと思う。だが、ダメージという点では停滞額の損害賠償を分捕る方が良いかもしれない。何より、当事者の晶子がどうしたいのか決断するのが筋だが、現状では直ぐに結論が出せるとは思えない。

「結論はこの場で出す必要がありますか?」
「いえ。私達の攻勢により、相手方は手も足も出ない状況です。弁護士を立てたところで、違法行為を指示・教唆(註:そそのかすことの法律用語)し、実行しようとしたことも含めて証拠はこちらに揃っていますし、せいぜい損害賠償の減額や、裁判を避けて示談に持ち込むくらいしか相手方には手がありません。」
「…なるほど。」
「あまり長期間放置しますとほとぼりが冷めたと見て再び行動に乗り出す恐れがあります。今度は奥様を強引に連れ去ることも厭わないとも考えられます。後がないということで。ですので、1週間ほど熟考の上、方針を出していただきたいと思います。」
「分かりました。その際は私から連絡します。」

 高島さんとの通話を終了する。かなり急展開だが、形勢は明らかにこちら側が有利だ。ただし、有利なまま固まっていると当然相手が反撃に出て来る。それまでに警察送りにするなり賠償金を分捕ったりといった詰めに出る必要がある。
 俺1人なら俺が決めれば良い。だが、今回は晶子が最終的に判断すべきだ。スピーカーモードにしたことで、今回の会話は全て聞いていた筈。黒幕が明らかになったが、その黒幕がかつて将来を思い描いていた従兄が居る本家。制裁を下すなら実権を持たない従兄にも相応のダメージが及ぶことも覚悟しないといけない。

「…晶子。今日明日くらいどうするか考えて判断を出してくれ。俺はそれを高島さんに伝える。」
「…損害賠償を求める方向で行きたいと思います。」

 少しの間を置いて晶子が速くも方針の大枠を提示する。従兄に対する未練めいたものが残っているかも、と少し思っていたが、明確に決着をつける方向をほぼ即断したことに安心する。それは取りも直さず、今の幸せに完全に切り替わっていることを示している。

「私は祐司さんと結婚して後ろめたいことも未練もありません。そもそも…、こうなる原因を作ったのは向こうです。きちんとけじめをつけないとほとぼりが冷めた頃に同じことをしてくると見て間違いないと思います。…残念ながら、悪い意味での田舎という地域と人間性が健在なところですから。」
「多少意地悪なことを聞くことを承知で聞くが、損害賠償を選びたい理由は?」
「法律のことはよく知りませんが、初犯で私達への目に見える被害が少ない−怪我をさせられたり金品を奪われたりといった目に見えて分かる被害がないので、二度と私達に手出し出来ないというレベルの罪にはならないと思うんです。それだと、恥をかかされたとかメンツを潰されたとかの逆恨みで、余計に今後の不安が増える恐れもあります。」
「…。」
「それなら、ある程度まとまった額の賠償金を取って金銭的なダメージを与えて、次に同じことをしたらもっと高額を請求することになる、としておいた方が、変な表現だと思いますが効果的なんじゃないかと…。私の素人考えかもしれませんが。」
「否、至極まっとうな考えだと思う。晶子がその方針でいきたいなら、俺は止める理由が思いつかない。」

 刑事罰の方が強い抑止力を期待できるが、それは実刑になった場合のこと。晶子の言うとおり今回は恐らく執行猶予がつくだろう。執行猶予と無罪を取り違えるかどうかもあるが、そうなると逆恨みでより強引に来襲したり、晶子を拉致する危険が高まる。
 警察も田舎の駐在所とかになると、間違いなく実刑や損害賠償のレベルでも「御近所だから」「身内だから」で済ませようとする傾向が強いと聞く。それだと結果的に被害を受けた方が悪者のような扱いを受けて生き辛くなるという理不尽なことも起こる。そこからやっぱり恥をかかされたとかメンツを潰されたと晶子や俺に恨みの矛先が向けられる恐れがある。
 警察が出向いてどうこうする刑事罰より、損害賠償の方が表に出にくい。交渉は高島さんに委任出来るし−何度か列席は必要かもしれないがそれくらいは出来る−、スーツなどを着て往来する様子は、農協や信金あたりの営業とか適当に誤魔化せるだろう。金銭の支払いも振込にすれば表には出ない。穏便に済ませたいという意向らしい相手方にも救いがある。

「基本的には高島さんに任せておけば良い。だが、こっちで出来ることは続けよう。不要不急の外出は控える。夜間の行動には極力注意する。…つまりはこれまでどおりだな。」
「はい。それは当然ですね。」
「あと、場合によっては高島さんに交渉とかの同席を求められるかもしれない。高島さんからの問い合わせ以外は一切受け付けないとして、窓口を一本化しよう。その上で情報を共有するようにした方が良いと思う。」
「そうですね。それは祐司さんにお願いして良いですか?」
「それは別に構わないが、良いのか?」
「一応親族という関係はありますから、どうしても甘い判断をする危険があると思うんです。私も20年近くあの地域で育って、今はローカルルールと思える考え方などを植え付けられてきてますから…。」
「分かった。方針も決まったことだし、さっそく高島さんに回答しておこう。」

 俺は高島さんに電話をかける。損害賠償を求めること、交渉や問い合わせは全て高島さんを窓口にして、それ以外のルートは一切受け付けないこと、高島さんとのホットラインは俺が担当すること、これらを高島さんに伝えて弁護活動を依頼する。俺と晶子は全てが終わるまで、今までどおりに暮らすだけだ。
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