雨上がりの午後

Chapter 330 付き纏う影

written by Moonstone

「…何時からだ?」
「気が付いたのは3日前です。思い違いかもしれないと思ってよく観察したら、間違いない、と…。」

 やけに始まりが早かった梅雨が、これまたやけに早く南から終わりに近づいてきた6月下旬の金曜日。迎えに行った晶子と帰宅してから、少し言いにくそうに晶子が話を切り出した。何かと思ったら…、不気味な影の存在を感じ取ったというものだ。
 無論モンスターでも何でもなく人間には違いないが、店に行く時と店で仕事をしている時にふと誰かの気配を感じる時があるという。帰りは俺が居るからか−治安が良い地域とはいえやっぱり心配だ−感じないそうだが、誰かが付き纏っているのはほぼ間違いないようだ。
 手出しをしてこないからまだ実害はないが−実害があってからでは遅い−、不気味なのは間違いない。話を聞いただけの俺ですらそう思うんだから、当事者の晶子の不安は相当なものだろう。この先何をして来るか分からないという不安を常時抱えながらでは、神経が参っても不思議じゃない。

「マスターと潤子さんは知ってるのか?」
「間違いないと分かった時点、つまり今日の仕事中に伝えました。帰りは当面祐司さんに迎えに来てもらうように言われたのと、青木さんと石川さんには注意喚起をしておくそうです。」
「それが現状で出来る最善策だよな…。」

 基本的に警察は何かの形で表面化しないと動かない。判断の仕方やする人間によって冤罪が大量発生するから、曲がりなりにも民主警察を標榜する現在では予兆がある段階での逮捕拘束は出来ない。せいぜい警告くらいだ。
 マスターと潤子さんも店内では不法侵入なりで対処出来るが、店を出れば対処しきれない。以前は女性スタッフは晶子だけだったからまだ何とかなったかもしれないが、今は青木さんと石川さんも居るから、晶子1人のガードを強めるのは不公平でもある。それに、青木さんや石川さんに矛先が向かう恐れもないとは言えない。
 俺だったら当面様子見でも良いが、晶子だとそうはいかない。ストーカーだとすると家に押し掛ける恐れもある。往路や店で気配を感じる−店には入ってこないのが何とも不気味だ−というから、この家も把握されていると考えた方が良い。オートロックの物件にして良かったと改めて思うが、オートロックだけでは防ぎきれない。

「暫くの間、俺が居る間は俺と一緒に行動するようにしてくれ。不自由な場合もあるかもしれないが、安全には変えられない。」
「それで諦めてくれるならずっとそうしたいです。」
「警察にも相談くらいはしておくか。あと、出来る対策と言うと…。」

 1つあるにはあるが、こんな用件で相談を持ちかけるのは失礼じゃないかと思う。だが、正式な相談や依頼とする必要があるなら金を払う用意はあるし、晶子の安全を確保するには少々大袈裟になっても構わない。出来ることをしておくに越したことはないのは、こういう時こそ特に意味をなす。

「−という状況です。」
「なるほど。状況は分かりました。」

 翌朝。朝飯を済ませてから買い物に出る前の時間に相談のために電話をした先は、めぐみちゃんの祖母の高島さん。犯罪としての対策は警察だが、法的な対策はやはり弁護士。とは言え、高島さんは事務員や弁護士、司法書士を雇用する大型の法律事務所を経営する弁護士。いくらめぐみちゃんを介して繋がりがあるとはいえ、いきなり相談を持ちかけるのは気が引けた。
 そこで、まず挨拶に続いて今晶子の周辺で不穏な動向があるが、それについて相談して良いかを尋ねた。高島さんは快諾どころか「水臭いことを言わないでください」と窘められた。若干拍子抜けしたが、これ幸いとばかりに当事者の晶子からこれまでの状況、そして確信した状況や理由を話してもらった。携帯を初めて使うハンズフリーモードにして高島さんと相談を続ける。

「警察には最寄りの警察署−そちらですと…新京警察署ですね。少々遠いですが、そこへ相談に行ってみてください。その際、ご主人は平服よりスーツを着用されることをお勧めします。」
「応対が異なるんですか?」
「警察は性質上、階級主義・権威主義的な面があります。特に安藤さんご夫妻はお若いので、警官によっては冷やかしや些細なことを大袈裟にしているといったマイナスの見方をして来る場合もあります。相談とはいえ正式なものである、というアピールをすることで応対の態度が変わることはあります。」
「相談をするのは私の方が良いでしょうか?」
「そうですね。御主人からされた方が勘違いや自意識過剰によるものではない、とアピールしやすいでしょう。相談の内容を箇条書きにでもして筋道だてて話せば、より良いですね。」
「分かりました。警察に相談したら当面は様子見でしょうか?」
「残念ですが、相手が奥様に交際を迫ったりご自宅に押し掛けるといった直接的な行為がなく、付き纏いというレベルですので。その分、少しでも直接的な行為が露呈したら、即座に警察に連絡してください。相談した実績があれば警察も緊急性が高いとして動きやすくなります。」

 相談で即警察が動くわけじゃないが、相談しておくことで「以前から犯罪に結びつく動きがあった」となれば、いざ通報した時に動きやすいわけか。やや面倒な気もするが、予兆があるとして逮捕拘束するのは冤罪の温床になるし、戦前の特高警察そのものだから、民主警察を標榜する現在では禁じ手だ。
 通り魔や交通事故のように突発的に生じる犯罪はどうしようもないが、今回は予兆の可能性が明確に存在する。それを相談という形で伝えておくのは、警察を動かしやすくするため、つまりは俺と晶子のため。こういう、時に面倒な手順を踏むことも必要なこともある。

「もし可能でしたら、第3者の方、出来ればある程度年配の男性に同行してもらうとより良いですね。」
「年配の男性…。」

 高島さんに言われて直ぐ思いつくのは、やっぱりマスター。店を卒業した俺から依頼するのは少々場違いな気がするが、今も働いている晶子の夫として同行を頼めば良いか。承諾の是非は兎も角、単なる冷やかしとか受け取られない−警察もそれほど暇じゃない−対策をしておくに越したことはない。

「当面の対策はこのくらいとして…、奥様が付き纏われる理由に考えられることはありますか?」
「私は思い当たることはありません。基本的に自宅と働いているお店ー飲食店ですけど、そことの往復ですし、それ以外は夫と行動していますし…。」
「既婚者でも妄想から付き纏われる場合もありますが、あまりない事例です。奥様が他の男性に、表現は悪いですが色目を使うようなことをなさらないと思いますから、それ以外の線を考えるべきですね。それによって今後の展開に備えて取るべき対策も変わってきます。」
「端的に言えば横恋慕の他に、妻が付き纏われる理由としては何が考えられますか?」
「最も考えられるのは興信所です。奥様が気づかれてから3日目に確証が持てたこと。恐らく付き纏いの期間は3日よりは長いと思われるのに、奥様に直接接触を図る様子がないこと。これらのことから、尾行に手慣れた者、つまり興信所の確率が最も高いと考えられます。」

 興信所って確か、色々な調査を行う企業や個人事務所。人によっては結婚前に相手や家族の素性を探るため−犯罪歴の有無はまだしも、家族や親族の職業や収入、病歴なども調べる場合があるらしい−興信所を使うと聞くが、晶子が独身なら兎も角、今の晶子に興信所を使う理由って何がある?

「興信所って…。私にそんな会社を使って調査する必要が…?」
「奥様には必要なくても、相手が必要だと判断すれば出費は承知で調査を委託する先が興信所です。失礼ですが、奥さまやご主人の身内に思い当たる節などありますか?」
「…あると言えばあります。」

 言いにくそうに晶子が答える。

「…私の両親か、若しくは親族です。両親とは夫と結婚する際事実上絶縁したんですが…。」
「なるほど。その確率は濃厚ですね。興信所を使う対象は意外と家族や親族が多いんです。浮気調査が筆頭ですが、所在不明の親族を探したり、生臭い話ですが資産の所持具合や遺産の総額を探ったりといったことで。」
「でも、私は結婚する際、両親や親族には一切今の住所を教えていません。仮に両親や親族だとしたら、どうやって…。」
「親族、特に両親や兄弟であれば、対象となる人物の住民票や戸籍を取り寄せて追跡し、特定することは比較的容易です。現住所を突きとめた後、そこから先の生活状況の調査などは興信所に委託していると考えられますね。」

 何を考えてるんだ?晶子の両親や親族は…。将来何処かの家に嫁に出す算段で育てて来た娘を連れ戻そうとでもしてるのか?体面や世間体が最重要な世界で連綿と生き続けるような人間だと、そこから脱出することが罪悪みたいな考えになるのか?

「ですが、相手がどのような行動に出たとしても、今の安藤さんご夫妻には圧倒的に優位な状況があります。婚姻届を提出して法的に裏付けられた夫婦であり、独立した家庭を営んでおられるということです。」

 色々な考えが交錯し始めた時、高島さんが言う。

「お二人が同棲の関係であれば、両親や親族、特に娘さんの場合は色々な理由を付けて連れ戻したりすることも出来ます。ですが、お二人は正式に届け出た御夫婦で、独立した家庭をお持ちです。奥様を同意なく連れ戻そうとすれば誘拐というれっきとした犯罪です。しかも誘拐は殺人や放火、強盗と並んで重い刑罰に処される犯罪です。」
「…興信所もですか?」
「興信所は尚更奥様を強引に連れ出したりすることはしませんし出来ません。そうしたら間違いなく逮捕監禁や誘拐の犯罪になりますし、規模を問わず企業や事務所として経営する興信所は営業できなくなります。未遂になったとしても経営には致命傷になります。興信所だからこそそのような行為に手を出す危険性は低いとも言えます。」

 興信所も民間企業や個人事業主と考えれば、犯罪に手を出せば経営どころの話じゃなくなる。興信所の規模が大きく有名になればなるほど、犯罪行為が経営への致命傷になるのは分かる。企業の規模が大きくなるほど、何かをした時の波及効果は大きい。良いことも悪いことも一気に全国レベル、否、世界レベルに広がってしまう。
 小規模や個人でも、対象者を誘拐したとなればそんなところに依頼する人はまず居なくなる。そんな個人や事務所に依頼したとなれば犯罪に加担したとの疑いも持たれる。そうなれば倒産は時間の問題となるから、誘拐してでも連れ出すといったことはまず出来ないだろう。

「ですので、興信所が調査している場合、その間奥様、ひいては御主人に危害が及ぶことはないと考えても良いでしょう。その間に安藤さんご夫妻は新京市に離婚届不受理申出書を提出しておいてください。」
「離婚届不受理申立書…?初めて聞きます。」
「これは、離婚届を勝手に出されてお二人が知らぬ間に離婚していた、ということがないようにするためのものです。婚姻届の時を思い出していただくと分かりやすいと思いますが、婚姻届や離婚届そのものは書類さえ整っていれば受理されます。印鑑証明−実印の存在を証明する公的な書類は不要ですし、印鑑もその辺で購入した三文判でも良いのです。」
「そういえば、婚姻届は2人の署名押捺と証人の署名押捺があれば問題なく受理されました。」
「そうです。それは離婚届も同様です。先ほど興信所は手出しできない旨お伝えしましたが、両親や親族が違法を承知若しくは違法とは思わずに奥様を連れ戻そうとする危険性は存在します。興信所が対象者の婚姻状況を調査するのは初歩的なことですから、興信所の調査結果を受けて、奥様を離婚させて連れ戻そうとすることが考えられます。それを法的に防ぐのが離婚届不受理申立書という届け出です。」
「それを提出しておけば、勝手に夫と離婚させられることはないんですか?」
「有効期間が6カ月という制約がありますが、離婚届不受理申立書を提出すれば離婚届は受理されません。相手がまだ不明で今後どのような手を使って来るか分かりませんから、まずお2人の夫婦という法的根拠を先回りして防衛しておきましょう。書類は役所にありますし、印鑑を持って行けば提出できます。」
「分かりました。早速週明けに私が出向いて提出しておきます。」
「そうしてください。相手が誰かすら分からない現状では心境穏やかにはなれないとは思いますが、打てる手を早めに打っておくことで、相手の出方を封じることは出来ます。そうなれば、興信所の背後に居ると思われる奥様のご両親若しくは親族が痺れを切らして顔を出す可能性があります。そうなれば警察や私の出番です。」
「高島さんの出番って…。」
「お金のことは一切心配御無用です。大恩ある安藤さんご夫妻のためなら最後まで全力で支援させていただくことをお約束します。」
「…ありがとうございます。」

 何て親切なんだろう。めぐみちゃんを助けることになったのは結果であって、それを目的に行動していたわけじゃない。めぐみちゃんが安心できる環境で健やかに育ってほしいというのが、めぐみちゃんを助けるために尽力した晶子と俺の願いだ。それが縁になってこうして強力な支援が得られるなんて…。

「離婚届不受理申立書を奥様が提出されたら、当面は様子見で構いません。調査だけで終わることもままありますし、直接行動に乗り出せば即刻警察に届け出るのに併せて、直ちに私にもご一報ください。私の携帯番号は御主人もホットラインとして御記録願います。」
「分かりました。色々ありがとうございます。」
「私や警察の出番がないに越したことはありませんが、メンツや世間体といったものは時に容易に人を違法行為に走らせます。ローカルルールが唯一の法律という認識すら未だに現存しているのが実情です。ですから、相手が直接乗り出して来れば、刑事民事両面で対抗しましょう。メンツや世間体で動く人間は、公的機関や関連職種に対して異様に低姿勢で従順であるのも事実ですから。」

 高島さんの言うことは誇張とは思えない。実際、それに近い感覚を晶子の両親と会った時に感じた。晶子の過去を思えば、メンツや世間体を最優先して他人に干渉することを厭わない、、むしろ当然とさえ思う節はある。田舎に限ったことじゃないが田舎でよく見られることには違いない。
 考えられる流れとしては、仕送りを停止して泣きついて来るかと思ったら音沙汰がなく、不思議に思って晶子の旧自宅を調べたらもぬけの殻だった。本当に結婚したと−学生同士の戯言と思っていた感もあった−確信したことで、興信所に調査を依頼した。−恐らくこんな流れだろう。
 そうなると、晶子の結婚の事実と今の住所、ついでに今の職業を知って「元気で暮らしている」と満足するとは思えない。強引にでも連れ戻しにかかると考えた方が良い。それをしたら高島さんの言うとおり逮捕監禁や誘拐になるんだが、これも高島さんの言うとおりローカルルールが唯一の法律と思っている場合、躊躇なく実行する恐れすらある。
 だが、相手の素性も目的も今のところは推測の域を出ない。気分が悪いのは当然だが、当面は取れる対策を全て取って静観するしかない。少なくとも晶子の仕事帰りは迎えに行くのと、戸締りを念入りに確認することが俺に出来ることか。当面嫌な状況が続くがこればかりは我慢するしかない。
 悶々としていても仕方ない。出来ることからこなしていく。そしてそれは早いに越したことはない。役所は丁度月曜が休日の晶子に任せるとして、警察への相談はマスターに相談して頼もう。多分日程の調整は必要だろうが、断固拒否ということはないだろう。
 昼前。運転免許の手続き以来となる新京警察署を出る。未だに着慣れないスーツを着た俺、晶子、そしてスーツ姿がどうにもヤクザの幹部にしか見えないマスターというメンツだ。

「ありがとうございました。」
「いやいや。晶子さんの事情は昨日聞いたし、祐司君の依頼ももっともな話だから、協力できることはしないとね。」

 高島さんのアドバイスは正しかった。特にマスターは威圧感抜群で、入った瞬間、窓口周辺の雰囲気が一瞬で凍った。事前の打ち合わせどおり、マスターが「私の友人夫妻がストーカーと思われる状況を相談したいそうだ」と口火を切り、俺が「妻が少なくとも3日前から何者かに付き纏われている」と概要を説明し、晶子がこの3日間の経緯やストーカーの存在を確信した理由など詳細をメモを見ながら順番に説明した。
 取っ掛かりのインパクトが強かったせいか、対応に出た警官は親身に聞いてくれた。結果はやはり実害が出ていないために現状では警察は動けないが、接触を図ってきたら即通報して欲しい、と言われた。相談したことで事前に「このような犯罪の予兆があった」と認識され、通報によって即応しやすくなるそうで、この辺も高島さんの言うとおりだった。
 また、ストーカーは素人ではなく尾行を専門とするプロ、つまり興信所などの確率が高いという見解も出された。やはり尾行しているだけで何らの接触もないというのは、一般的なストーカー、つまり素人とは違うらしい。良いのか悪いのか分からないが。
 その他、警察が自宅周辺のパトロールを強化することも約束された。興信所などはその職業柄警察と喧嘩するわけにはいかないらしい。対象者の調査をするため張り込みや尾行をする際に警察に通報されることもあるが、その際は興信所としての調査だと説明して事なきを得るそうだ。
 ある意味癒着と言えなくもない関係だが、そんな関係にある警察と敵対すると通報されたら、ある意味通常どおり犯罪者として扱われる。そうなると商売あがったりになるから、警察を刺激するようなことはしないらしい。警察の動向にも敏感になるから、パトロールが増えれば動き難くなると見ているそうだ。
 警察に通報する準備は出来た。高島さんが言ったように警察の出番がないに越したことはないが、いざという時に最初から説明する余裕はないだろう。警察も限られた人数で色々なことをしているから全てに細かく対処出来ない。事前に相談という段階を踏んでおくことで通報からの警察の行動をスムーズにするのは、警察にとっても好ましいらしい。

「当面の間、晶子さんの帰りは迎えに来てあげてくれ。と言ってもこれまでもそうだったから、相手が動いて来るまで普段どおり過ごしていれば良い。」
「今日、こうして警察に行ったことで多少は警戒すると良いんですが…。」
「興信所なら勘付かれたと見て警戒はするだろうね。相手に尻尾を掴まれたら元も子もない。」
「日常的に尾行されてるなんて嫌ですね…。」
「それが普通の感覚だよ。だが、興信所の背後に誰が居ようと、晶子さんはれっきとした既婚者なんだから臆することはない。」

 俺と晶子はマスターの車に乗り込む。何処かで監視していると見た方が良いから、このまま自宅まで送ってもらうことになっている。

「遠くの親族より近くの他人、とは昔の人はよく言ったものだと思うよ。」

 車のエンジンをかけて動かし始めたマスターが言う。

「親族は距離が離れるほど金は出さずに口は出すようになりやすい。口を出すことを相手のためと信じて疑わないから干渉も躊躇わない。親族の多さは今の時代、何の役にも立たないと思っても良いくらいだよ。成人して独立したら特にね。」
「…私の両親は分家なんです。分家と言っても生計は独立している筈ですし、そもそも父が本家の現在の家長と兄弟ですから、支配や従属もなさそうなものなんですけど…。」
「本家と言っても遡れるのはせいぜい3代4代。明治時代程度までが大半だよ。そんな日本全国どこにでもある程度の歴史で継ぐ継がないやら本家分家やらが幅を利かせるのが異常なんだよ。当然、分家が本家に従う法的根拠なんか今の時代にはない。ましてやその子どもに、しかも独立した家庭を営んでいるのに干渉して良い理由は何もない。」

 背後関係は不明だが、やはり晶子の親族が親玉である確率は高い。挨拶で一度行ったきりだが、俺の両親の実家よりも明瞭な田舎ならではの因習の空気が濃いのは明らかだった。本家分家の関係が今尚健在なようだし、分家の娘が何を勝手なことを、という考えなんだろうが良い迷惑でしかない。
 晶子は特に、かつて結婚を考えていた従兄との関係を本家分家の立ち位置で引き裂かれた過去がある。だから尚更親玉が本家など親族の確率が高いことに理解し難いものを感じているだろう。マスターの言うとおり、遠く離れた親族なんて何の役にも立たないばかりか害悪にしかなってない。

「だが、警察も言っていたように君達はれっきとした夫婦で、独立した生計を持ってるんだ。相手が手を出してきたら即刻警察に届ければ良い。今日はその下準備だったんだからね。」
「はい。」
「調べたら結婚してたから一刻も早く連れ戻したいと思ってるんだろうが、晶子さん相手にそんなことをしたら犯罪だ。本家分家だのくだらない因習なんか通用しないことを、骨の髄まで思い知らせてやれば良い。俺と潤子も手伝えることは手伝うから気軽に言ってくれ。」
「はい。ありがとうございます。」

 警察への相談という下準備は無事済んだし、警察も当面の対策としてパトロールの強化を約束してくれた。このまま大人しく引き下がるとは思い難いが、動き難くなってフェードアウトにでもなれば良い。兎も角、俺と晶子に危害が及ばなければ良い。
 1カ月が過ぎた。やはり警察の動きには相当敏感らしく、晶子に付き纏う影は見えなくなったそうだ。しかし、警察も何らの犯罪がないのに何時までもパトロールを強化はしないらしく、半月ほどで終了。それを待っていたかのように再び影が復活したが、明らかに警戒しているらしく、余程タイミングが合わないと気付かないレベルになった。
 当事者の晶子でそんなレベルだから、俺は未だに影を見たことがない。やっぱり影の正体は興信所と見て間違いない。少なくとも1カ月以上晶子の行動を監視しているようだが、そんな長期間監視して特筆すべき行動があるとは思えない。
 長期間の監視で晶子のシフト勤務のパターンを掴もうとしているのかもしれない。そう考えた俺は、晶子にシフト勤務を多少ランダムにすることを提案した。他にスタッフが5人いるから晶子の都合だけ優先できないが、早番→遅番→休日というパターンなら一部を遅番→遅番→休日にしたりといったことも相談で可能だと思ったからだ。
 晶子は妙案だと賛成し、早速店に申し込んだ結果、結構な割合で希望が反映された。他のスタッフが大学1年でまだ時間の融通が利くことも大きかったが、かなりランダムなシフトになった。リズムが狂うかもという懸念はあったが、「夜勤じゃないから全然気にならないです」とは晶子の弁。
 平日だと早番はどうしても無理だが、それ以外は帰りに迎えに行っている。俺と一緒だと姿を見せた例がないのは、勘付かれる恐れが高くなると踏んでのことだろうか。もしかすると俺も会社への行き帰りを監視されているのかもしれないが、今まで姿を見たことはない。鈍いだけかもしれないが。

「このままフェードアウトすれば良いんだがな…。」

 金曜の夜。一戦を終えてぐったりした晶子を抱き寄せる。

「今更付け回したところでどうになるものでもないのに…。」
「…どうにかしようとしてるんだと思います…。」

 晶子が言う。

「祐司さんも感じたかもしれませんけど…、私の両親の家がある地域は…今も本家分家の意識や力関係が存在するんです…。」
「…あまり言いたくないし、晶子も聞きたくないだろうけど…、晶子の両親の本家に当たる家って…。」
「はい。…従兄が居る家です。」
「本家が今更晶子に執着する理由はないんじゃないか?」
「残念ながら…そうでもないんです…。」

 俺の親族は、俺が大学に入ってから1回しか会ってないのもあるし−それが成人式に出るために帰省した時でもある−、従兄弟の年齢が俺より上だからか、昔からあれこれ言われたことはない。一応田舎の部類ではあるが、地域性もあるんだろうか?何れにせよ迷惑な話ではある。

「女は20歳を超えたら地域やその住人の親族−大抵隣の町くらいには居るようですが、そこで見合いをして結婚というのが基本路線なんです。私は町を出て地域から見て余所者である祐司さんと結婚しましたから邪道であって、早期に連れ戻して嫁に出して嫁ぎ先で矯正しなければならない、と思ってるんだと…。」
「本家がそういう意向だから、分家である晶子の両親はその意向で動いてる、ってことか?」
「両親や親族−私から見て叔父や叔母などが本家の命令で動いているか、本家が直接動いているかは分かりませんが、多分…。」

 何時の時代だ、としか思えない思考だが、地域だけで固まって生きているとその地域の慣習が最高法規になる。それは高島さんも言っていたことだ。その手の因習は外部から変えようとしてもそう簡単に変わらない。それこそ軍隊でも動員して強制しないと無理だろう。だからそちらの思考の修正は放棄するとして、肝心要なことがある。

「親族か誰が差し向けたかは兎も角、晶子は連れ戻されたいか?」
「絶対嫌です。私は祐司さんと結婚出来て、それで得られた生活そのものが最高の幸せなんです。それを手放せなんて誰の命令であっても聞きません。」
「その気持ちがあるなら、相手がどう出て来ても断固拒否を貫くしかない。実力行使に出たらこちらも実力行使で対抗するしかない。これは…俺と晶子がこの家庭と幸せを維持するための戦いと思うべきだ。」

 決して大袈裟じゃない。既に相手は興信所を使って1カ月以上晶子をつけまわしている。このところ晶子の通勤パターンがランダムになって調査報告を纏め難くなったのか、晶子を拉致する機械を窺っているのか知らないが、1カ月も興信所を使えば相当な金額になる筈。それを承知か晶子を「奪還」すれば金は惜しくないと考えているのかも知らないが、相手は本気だ。
 警察には相談という実績を作ってある。実力行使に出たら即警察に届けるのは勿論だし、ホットラインとして俺の携帯にも記録してある高島さんの事務所に連絡する手筈は出来ている。相手が自分のローカルルールが何処でも通用すると思ってるなら、それをメンツごと根底から砕くしかない。

「戦い…。そうですね。この家と暮らしと幸せを守るための…戦いなんですよね。」
「ああ。当事者の晶子が一番神経に障るのは分かるつもりだ。だが、晶子がこれに屈したら一生あの田舎に閉じ込められることになる。徹底的に戦うしかない。」
「私、負けません。」

 精神的な戦いは長期化するほど消耗が激しい。仕掛けられた側は不利なのもあって悪質な兵糧攻めのような側面もある。だが、晶子にとっては時間と労力をつぎ込んでもぎ取った幸せだ。その幸せを守るのはやはり晶子が頑として干渉を受け付けない毅然とした姿勢を維持することだ。
 俺も晶子の幸せの恩恵を多分に受けている。客観的に見れば既成事実の積み重ねには違いないが、今の生活と幸せは晶子との結婚で得られているものだ。だから、晶子のバックアップをするのは勿論、晶子への実力行使では矢面に立つ。俺にとっても戦いだ。負けてなるか!
 更に半月が過ぎた。只中では時間の経過が遅く感じるが、カレンダーで振り返ると早い。気温と共に湿度も上昇の一途を辿っているから、精神的な消耗戦を続ける不快感は増大するばかり。相手の思う壺にならないよう、晶子とのコミュニケーションをより徹底している。
 晶子の話では、やはり偶に姿を見せる時があるが、警戒を続けているのか本当に一瞬らしい。その時も「気付かれた」と思ってか直ぐに引っ込むらしい。慎重なのか気が小さいのか分からないが、もう1ヵ月半以上も付き纏い続けている計算。そんなに調査をしても出て来るものはもうないと思うんだが。
 奇しくも時間の経過で俺は就職後初めての夏休みを迎えた。8月の暑い盛りの丸々1週間、前後の土日を含めて合計9日間の休みは、学生時代バイトか卒研に明け暮れて長期休暇らしいことが殆ど経験なかった俺には相当長く感じる。多分これも過ぎればあっという間だろうが。
 晶子もシフト勤務をしつつ3日間の連休がある。客層の多くを占める中高生も夏期講習が丁度俺の夏休みと重なる時期に休みになるし、企業も多くが夏休みになるから、店全体を3日間連休にしようとマスターと潤子さんが決めたそうだ。店のスタッフも夏休みに何処かに行ったりしたいだろうし、良い判断だと思う。
 今日の晶子は早番。朝飯と買い物を済ませてから出勤。休みに入った俺は買い物から帰って荷物を置いたその足で晶子を送ってきた。俺が一緒、そして昼間だから余計に姿を現さない。このまま興信所に依頼し続けて金を使い果たせば来なくなるかも、と考えている。
 一人の俺は帰宅してから掃除。普段からまさこがこまめに片づけているから、テーブルとかを拭き掃除してから掃除機をかければ終わる。先にシーツを交換した布団を干して、全ての部屋を回って吹き掃除をして、隈なく掃除機をかける。掃除が終わる頃には気候のせいもあって汗をかく。
 昼飯は晶子が作ってくれてあるから、それを冷蔵庫から出して場合によっては温めて食べれば良い。夏休みのこの時期、元々静かな家の近辺は更に人気がなくて静まり返る。結構時間をかけたつもりだったが、時計を見るとまだ昼飯時より少し時間がある。ぼうっとしてるか…。

ピンポーン

 インターホンがなる。音が1回だから…オートロックの外からか。出るより前にまずモニターを見る。多分新聞か宗教の勧誘だろう。…スーツを着た男性。その顔に見覚えはない。ひとまず出るか。

「はい。」
「お休み中のところ失礼します。御主人様ですね?」

 怪しい。何故顔も見えない−当然相手側にはモニターは付いてない−俺が出ただけでその家の主人と分かってる?エントランスにある集合ポストの表札には、「安藤」としか出していない。名前を列挙するのは家族構成を知られるから良くないという前の自宅からの方針だが、誰が住んでいるのか、誰が夫なのかはいきなり分かる筈がない。
 間違いない。こいつが晶子を執拗に付け回す興信所の職員だ。付け回している本人じゃなくて−顔がばれている恐れがあると踏んでいてもおかしくない−別の職員の可能性はあるが。ここはお引き取りいただくのみ。相手にする理由はない。

「いいえ、違います。」

 男性は一瞬驚いた顔をする。やっぱり興信所の職員か或いは…晶子の親族か。

「どちら様ですか?」

 こちらからもう一手。この男性が怪しいと直感した理由の1つは自分の素性を明かさずに話を持ちかけたところだ。まさかこんな形で就職後間もない時期の合同研修が役に立つとはな…。あの時は「電話の冒頭、自分の勤務先や氏名をまともに名乗らずに用件を話そうとしたり取り次ぎを求める相手は、ほぼ間違いなく業務と無関係の勧誘」と言われたが、それより今回は質が悪い。

「…えーと。貴方、安藤さんですよね?」
「どちら様ですか?」

 これも合同研修のシチュエーションそのままだ。招かざる電話の主、すなわち業務と無関係の勧誘は自分の勤務先と氏名をなかなか名乗らないか、聞き取れないような早口で言う。そのくせ相手の所在を確認するまではやけにフレンドリーだったりするという。
 表札に「安藤」としか掲げてないし、恐らく姿を見せてないだけで晶子が俺の送迎の元で出勤するのを掴んでいただろうから、家には俺しか居ないことを確認しようとしているんだろう。こちらの手札はそう簡単に見せちゃならない。最低限相手が何者かきっちり明らかにしてからだ。
 おっと、その前に携帯のICレコーダーを起動。相手から接触してきたらICレコーダーなどを使って録音しておくように、と高島さんから前にアドバイスを受けている。当事者の晶子には携帯のICレコーダーの他に、学生時代に俺がプレゼントしたペン型のICレコーダーを通勤時に稼働するように言ってある。
 携帯のICレコーダーは意外としっかり録音できる。周りがそこそこ五月蠅くてもきちんと通話できることからすると当然かもしれないが、どんなやり取りがあったかを証拠として残せれば良いそうだ。相手をしたくないがついに来た貴重な機会とも言える。
 モニター越しに見える相手は、当惑したような焦っているような、苛立っているような様子だ。何れにせよ、警戒心を抱かせまいとフレンドリーさを出したことに乗らなかったことが相手の調子を崩しかけている。このまま警戒を緩めずに撃退させたいところだ。

「あのねぇ。こっちの質問にきちんと答えてくれない?結構な大学出てるみたいだけど、そういうことは習わなかった?」
「自分が何処の誰なのかも言わずにいきなり自分の用件を話したり、こちらが聞いてもはぐらかしたりする相手は、相手にするだけ無駄、とは研修で説明を受けました。相手が応じないと途端に口調を変えて凄んだり脅したりしてくるとも。」

 相手が嫌そうな顔をする。しかし、これほど研修の内容に沿った展開ってのは…。こういう傾向は業者を問わず、自分にとって招かざる客に共通するもんなんだろうか?つまりは、それだけそういうことを仕掛けてくる輩が似たような思考を持っているってことか?

「ところで、どちら様ですか?」
「…。」
「名乗らないのであれば、失礼します。」

 相手にする必要はないが、これまで影に留まっていた、俺は未確認だった相手からの接触の確率は非常に高い。可能な限り情報を得ておくに限る。通話を打ち切ったふりをして録画と録音を続ける。録音は携帯のICレコーダー機能をそのままにしておけば良いし、録画はインターホンの受話器を置かなければ自動で継続される。

「…チッ。妙な知恵が回る奴だな…。」

 知らないとは言え、苦々しい表情で悪態をつくところまで残ってしまう。だが一切同情などはない。晶子の最初の報告から1ヵ月半ほど延々と続いている嫌らしい付き纏い。姿を見たことがなかった俺ですら、何時何処で監視されているか分からない不気味さを感じていた。何度か影を見た晶子はどれだけ不安だったか。
 俺の所在を確認するためか、痺れを切らしたか、理由は分からない。だが、晶子に付き纏い続ける相手かどうかは確認できないにしても、これまで晶子の目撃に留まっていた相手からようやく接触がなされた確率が高いことは事実。この機会をしっかり記録して完全な撃退に繋げるのは俺の役目だ。

「…どうも。エスエーの酒井です。」

 相手が携帯をかけ始める。人通りが殆どないことで安心したか、興信所の職員としてはかなり迂闊な行動だと思う。だが、これもしっかり録音・録画…。

「旦那らしい男は居ますが、徹底的にしらばっくれました。何処であんな知恵を付けたのやら…。…はい。表札は出てます。部屋番号も。…はい。この辺の情報はこれまで把握しているもので間違いないです。」

 やっぱり俺と晶子の情報を嗅ぎまわっていた興信所の職員で間違いないようだ。電話の相手は興信所の上司か依頼元、すなわち晶子の親族。そこまでは確認出来ないだろうが、録画と録音で顔と声は嫌というほど記録できる。これを元に晶子に付き纏う相手や依頼元などを探ることも出来るだろう。

「ひとまず事務所に戻ります。そこで改めて。…はい。では失礼します。」

 相手は携帯を切って立ち去る。姿が見えなくなったのを確認して録画と録音を切る。これが事態解決の足掛かりになる可能性もある。まずは高島さんに相談だな。高島さんなら職業柄興信所についても詳しいかもしれない。晶子は夕方まで仕事だから、その間出来ることをしておくに限る。
 晶子を迎えに行って帰宅。まず俺が記録した音声と画像を晶子に見せた。この相手に見覚えや心当たりはないが、今まで目撃した影に重なる部分はあると言う。スーツ姿の男性という点だ。珍しくはないがその分怪しまれ難い。尾行するにはもってこいとも言える。
 続いて夕飯を食べながら今日得られた情報や事実を晶子に伝える。相手が口にした「エスエー」という名詞は、サービスエージェンシーという興信所だと判明した。高島さんに電話して問い合わせたら直ぐに調べて教えてくれた。やはり興信所が晶子の周辺を嗅ぎまわっていたわけだ。
 略称を使うのは万が一会話を聞かれても直ぐに知られないため。今回は俺が通話を切ったと思って「エスエー」を記録させてしまったが、そうでもないとこういった略称すら知る機会は滅多にないそうだ。幸運なのか不運なのかいまいち分からないが、影の正体が判明しただけ良いと思っておく。
 高島さんが言うのは、今日接触してきた男性は状況からして間違いなくサービスエージェンシーという興信所の職員。恐らく俺に接触して何らかの取引を持ちかけようとしたと考えられる。依頼元が不明だから断言は出来ないが、恐らく晶子の親族が依頼元で、晶子の身柄引き渡し、つまりは離婚するよう求めて来たと考えられる、とも。
 高島さんからは、この録画と録音をコピーして保管するのと併せて、自分宛にコピーを送付するよう言われた。コピーするのは万が一盗まれて証拠を隠滅されるのを防ぐため。そして高島さんにコピーを送付しておくことで、相手に釘を刺したり俺と晶子を弁護する際に非常に有利な証拠になるためだ。
 晶子の最初の報告から1ヵ月半ほど経ってついに接触が図られて来たことは、相手が本格的に動き始めると見て良いらしい。どちらか片方だけが居る時か、或いは両方揃っている時かは分からないが、近いうちに依頼元が姿を現す可能性は高い。いよいよ正念場であり、その際も録画録音は可能な限りしておくように言われた。
 俺は早速ショッピングセンターに向かい、メモリカードを数枚とICレコーダーを2個買った。今のICレコーダーは晶子にプレゼントした時より更に性能が進歩していて、音声のサンプリングレート(註:アナログ値である音声をディジタル情報として記録する際の周波数。波形の再現には最低記録対象の2倍の周波数、可聴領域の音声なら20kHzの2倍=40kHzが必要)を落とせば、40時間連続記録出来たり、PCとUSB接続で音声データの保存が出来たりする。
 マニュアルを見てインターホンの録画をメモリカードに転送し、携帯電話の録音と併せてPCに転送した。メモリカードは録画と録音を別にしてコピーして、1組を週明け早々に発送する用意をした。併せて、高島さんの指示で高島さんの事務所のメールアドレスに送信。郵便事故があっても確実に引き渡すためだ。
 相手の情報と接触の記録を残し、高島さん宛に二重に送付する準備が出来た。これから本格的に接触が始まるだろう。その際相手の出方によってはこちらも直ちに対策を取る。晶子は特に単独での外出は控えること。今回の手の内は絶対明かさないこと。相手との接触は不可抗力以外は絶対に単独では行わないこと。相手が接触してきたら直ちに連絡すること。これらを高島さんから指示された。

「正念場、ですね。」

 晶子は硬いながらも覚悟を決めた表情で噛み締めるように言う。

「興信所を使ってまで離婚させたいなんて理解できませんし、今の幸せを壊そうとするなら…、誰であろうと敵でしかありません。」
「決着をつけるのは、最終的には俺と晶子だ。団結して闘って退けよう。それ以外に今の生活を守る手段はない。」
「はい。」

 興信所を長期間つけてまで探りを入れるんだから、相手も相応の実入りを求めている筈。それは離婚させてでも晶子を「奪還」することと考える以外にない。強引な身柄拘束は興信所だからこそタブーだから出来ないだろうが、興信所でなければ実行に乗り出す恐れは十分ある。ローカルルールが最高法規と考える地域性なら尚更。
 ならばこちらも徹底抗戦する以外にない。今回はインターホンのみだったから使わなかったが警察も、そして高島さんも頼ってでも徹底的に戦って退ける、場合によっては法的な制裁も下す。黙っていてはやられる一方だ。こちらが法的に反撃しない理由はない。そうでもしないと今の生活も幸せも守れない。
 こういう時、オートロックのマンションを選んで良かったとつくづく思う。今日にしても玄関前に来られる前に大きなハードルになった。あの間に他の人が出入りしたらその隙に入られる恐れもあるが、管理会社からも便乗して他の人を入れないようにという通達が出ているからその恐れも低いのも良い。
 インターホンも、外側と内側、すなわちエントランス前と玄関前で鳴る音の回数が違うから、相手が何処に居るかが分かる。1回だと外からで2回だと内側。更に録画機能もあるモニターも付いている。引っ越して間もなくやってきた新聞とNHK−こいつらは何処で監視しているのやら−が来た時も役に立ったが、今回も効果覿面だ。
 こんなセキュリティがあるから、外で強引に接触を図って来る恐れはある。晶子に対してはその場で拉致といった違法行為を含む強硬手段を取って来る確率もある。興信所はそういった違法行為に手を出さないだろうが、全くゼロとは言い切れない。それ以外の接触は絶対単独では行わないことが高島さんから言われている。
 もし外で接触を図ってきたら、全力で逃げる。逃げ切れない場合は恥も外聞も捨てて兎に角助けを求めるアピールをする。興信所なら違法行為に手を出すことに多少なりとも引け目を持っているから、それで怯む。親族とかには期待できない場合があるが、注目されれば目撃情報となって警察が動く。
 先に警察には相談という形で現状を伝えてある。相談実績のある住民が事件に巻き込まれた、巻き込まれそうになったとなれば警察は動きやすくなる。興信所はそれで動きを封じる見込みが出来るし、親族とかなら逮捕の可能性も出る。世間体を第一に据える思考の人間は警察沙汰になることを非常に嫌がる。逮捕がきっかけで親族などの動きを完全に封じる可能性もある。
 楽観的な見方のみは禁物だが、高島さんのアドバイスに従って先手を打ったことが色々な形で俺と晶子に有利な条件を作りつつある。あとは相手の出方に注意しながら日常を送るのみだ。相手が手を出してこない限りこちらは警戒を緩めることが出来ないのはもどかしいが、こればかりは耐えるしかない。
 高島さんも弁護の体勢を整えてくれる。だからと言って依存は出来ない。何しろ新京市と京都は距離がある。新幹線を使っても乗り換えなどを含めて2時間ほどかかる。俺と晶子が連絡しても到着までにどうしてもタイムラグが出来る。相手との接触を徹底的に避けて守りに徹するしかない。

「想像出来る相手の出方としては、どちらかがアクシデントに巻き込まれたから急いで一緒に行こう、と誘い出してそのまま拉致、というパターンが多い、と高島さんが言っていた。例えば、俺が通勤中に事故に巻き込まれたから急いで病院へ、とか言って晶子を誘い出す、ってパターンだ。ありがちだが急に言われるとパニックになって引っかかりやすい。特に家族だと尚更。高島さんが言っていた。」

 高島さんのアドバイスには、身内のアクシデントを騙って誘い出すパターンに注意するように、というものもあった。本当にありがちで普段なら笑止の一言だが、突然言われると意外と引っかかりやすいそうだ。そうでなかったら人目の多いところでも発生する拉致監禁などの事件が起こる筈がない。
 その対策はこれまたオーソドックスだが、緊密に連絡を取り合うこと。そして本人以外の言うことはまず疑ってかかること。余程信用できる人でも、何時の間にか裏で買収されたり脅迫されたりしている場合もある。だから本人以外の言うことは「ちょっと待て」と思い、本人に確認すること。これで相当誘い出されることは防げるそうだ。
 幸いなことに、今は携帯がある。携帯なら電話以外にメールも出来る。俺か晶子のアクシデントを伝えられても、まずは本人に確認。つまりは連絡を緊密に取ること。単純だがそれで相手の思う壺に嵌まる危険が減るなら実行しない手はない。

「ドラマとかのワンシーンにありそうですね。でも、いきなり言われたら確かにびっくりして信じてしまいそうです。」
「ドラマや映画に出て来るようなありがちなパターンは、それだけ使える誘導方法でもある。高島さんはそう言ってた。」

 よくあるからドラマや映画で使われる、とも言える。薬品は管理がどんどん厳重になって来ているから、医療関係者でもそう簡単に持ち出せないらしい。車で強引に引き込んでの拉致は起こり得るが−何せ走り出すと人間じゃ追いつけない−、車にナンバーが付いているからリスクが大きい。盗んだら罪の上塗りになる。
 身内の事故を装って誘い出すのは、傍から見ても怪しまれ難い。誰が誰の親戚や友人かなんてそうそう把握しきれない。隣近所でさえ十分に把握していないのは、俺と晶子も挨拶回りくらいだから経験中だし、身内の状況を進んで出すこともしないから知りようもない。だからこそ誘い出すのはむしろやりやすい環境になっている。
 高島さんが警戒する理由として挙げたのはまさにそれだ。今の家に住むようになって1年足らず。近くに友人も知り合いも居ない。そんな環境で仮に誰かが身内の事故を騙って誘い出しても、「あら大変」とかは思っても怪しむ確率は低い。顔も名前も知らない親族や友人にまで推測を巡らせるのは余程の能力があるか暇があるかのどちらかだ。
 だからこそ、徹底的な自衛が必要になる。言いくるめられない、騙されない、パニックにならない、といったことは言うは易し行うは難し。「自分は騙されない」と信じる人が結構その手の詐欺に引っ掛かりやすい。「騙されない」自信が過信となって、詐欺の言葉を正しいと信じてしまうことや、他人の忠告を聞き入れないためだと。
 晶子が言ったように、これからが正念場と見た方が良い。言い換えれば精神的な消耗戦はこれから本格化するということ。それはしかし、俺と晶子が今の生活と幸せを守るためでもある。今こそ、1人では出来ない、難しいことでも2人なら楽になる、喜びも苦しみも分かち合える関係であることを示す時だ。
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