雨上がりの午後

Chapter 324 社会人生活の始まり

written by Moonstone

「祐司さん。どうですか?」
「んー…。もうちょっと。」

 俺は洗面所の鏡の前で格闘中。2日間の休みなんてあっという間。4月1日。今日から俺は社会人、高須科学の社員としての第一歩を踏み出す。その前に今の格闘−ネクタイを締めることは避けては通れない。だが、どうもしっくりこなくて結んでは解くを繰り返している。
 今日は入社式とオリエンテーションで終わる。開始は普段より30分遅いが、今日限定だから乗り換えを含めた通勤時間から逆算した朝6時半に起きた。ネクタイは多分今日限定だろうが、出張とかで必要な場面は出て来るだろうから、いい加減慣れておかないといけないんだが…。

「こんなもんかな。」
「見せてください。…うーん。結び目が傾いてますね。」

 晶子の評価は厳しい。だが、俺自身完璧とは到底言えない。「何とか結びました」というレベルでしかない。

「私が結びますね。」
「頼む。」

 晶子はさっと解くと、長さを調節して素早く結ぶ。俺が格闘した時間と比べてあっという間だが、鏡を見るとキッチリ絞まった結び目は身体の中心で綺麗な対称を成している。実際にネクタイを締めない晶子の方が未だに綺麗に素早く締められるなんて、どうしたもんだか…。

「俺の結び方は何が悪いんだろうな…。」
「ネクタイの見栄えは結び方が殆どですから、結び方を最初から見直してみるのが良いですね。それより、そろそろ時間ですよ。」

 ネクタイの練習は後でも出来る。入社式早々遅刻は酷い。今日に限っては荷物らしい荷物はない。定期はまだないから財布は必須。それとハンカチとポケットティッシュと真新しい手帳とペン。多分オリエンテーションで色々資料などを貰うだろうから、行きは出来るだけシンプルな方が良い。中身が空の手提げ鞄を持てば、それなりに様になる。
 玄関に行き、靴を履く。こちらも今日限定で革靴。これで出発準備は整った。後は真っ直ぐ小宮栄の会議場に行くだけ。午前中は会議場で入社式。その後勤務地である研究所に移動して昼休みをはさんでオリエンテーションという流れだ。東京の本社から小宮栄他支社とライブ中継で結んでの入社式は、意外に珍しいと思う。
 新年度の新採用社員が全員揃うのは1週間の合宿形式での研修時。それは4月末からの連休前の1週間で、それまでは各支社や部署でのOJT研修が中心だという。そこまで来るとかなり珍しいだろう。内定式の段階から最寄りの支社−俺の場合は小宮栄だったし、セレモニーをいちいち重視することはしないようだ。

「それじゃ、行って来る。」
「いってらっしゃい。」

 晶子が俺にキスをする。晶子の出勤が遅い分、こうした余裕がある。もっともこれから洗濯だの掃除だのをするんだろうが、出勤準備で慌てたり殺気だっていたりするよりはずっと良い。晶子の就職活動自体は不本意な結果で終わったが、それが今の精神的な安定に繋がったのなら結果オーライと言うべきだ。
 俺は外に出てドアの鍵を閉める。さて…、いよいよ出勤か。大学とは逆方向、混雑が顕著な小宮栄方面への電車が日常の一部になる。東京よりはずっとましという話だし、1時間程度の我慢はぐっと専門化する仕事をこなして晶子との生活を守っていくための必要事項だろう。
 外は穏やかに晴れている。今年は随分穏やかで、桜の開花も例年より早い。確か研究所の敷地に桜があったな…。桜が咲く時期に今日を振り返るようになるんだろうか。1日1日の積み重ねが1つの歴史を作るのは、社会でも個人でも変わらないな。
 ふーっ、入社式終了。ただでさえスーツを着て身体を拘束されているような感じで、ただじっと座って話を聞いているだけだから退屈で仕方なかった。それでも11時で終わったのはまだ短い方だろうか。
 小宮栄会場に来ていた新入社員は20名ほど。こんな人数だから会議場と言っても席が後方に行くにつれて徐々にせり上がっていくような場所じゃなく、大型スクリーンがある少し大きめの会議室。それでも、椅子や机が上等なもので、退屈さもあってうっかりしていると居眠りしそうだった。
 入社式では、全体を対象とした社長、事務系を主な対象とした総務局長、研究開発系を対象とした研究開発局長の順番で話があった。精神論的な話やグローバル時代や国際化云々といった話はさほどなく、厳しいと言われる就職活動を経て入社したのだから、まずは仕事を覚えることに集中してほしい、というものだった。
 写真は男と女がだいたい2:1くらい。小宮栄の支社の方は高層ビルの1フロアにあって、こちらは事務系が集約されている。研究所や機器開発部は地下鉄で乗り換えなしで行き来出来るが、それは全ての新幹線が停車する小宮栄でそれぞれが仕事をしやすいようにと考えられた末の配置らしい。
 実際、小宮栄の支社がある高層ビルは、小宮栄駅から地下通路を介して雨に濡れずに行ける。そのまま地下鉄に乗れば、乗り換えなしで研究所や機器開発部があるエリアに到着。駅からは流石に外を歩く必要があるが、それでも最悪傘がなくても電車に乗れれば来られる。
 入社式会場の受付で会社の資料と共に渡されたネームプレート。これが各所に出入りする際のIDカードも兼ねている。これから地下鉄で機器開発2課があるエリアに移動するが、そこに入るにもこのIDカードが必要だそうだ。これは大学でもあったから、スーツの上着に安全ピンを通して落ちないようにしている。
 さて…。便利な立地だけあって、移動は30分もかからない。昼前に到着だから午後1時開始のオリエンテーションには十分間に合う。敷地の散策でもするかな。昼飯は晶子が作ってくれた弁当があるから心配いらないし。

 勤務地となる研究所と機器開発部があるエリア−正式にはR&Dエリアに到着。最寄りの港区役所駅から徒歩5分。しかもかなりの部分を地下鉄駅の構内を歩く時間が占めているから、外に出ればものの2,3分で到着出来る。ドアtoドアだったか?そんな考えの元に立地されているのが良く分かる。
 正門直ぐ脇に守衛所がある。此処もネームプレートを付けていれば、警備員の人が敬礼で迎えてくれる。俺は会釈して入る。真っすぐ進むと正面入り口だが、今回は食堂に向かう。食堂は福利厚生施設の1つで、売店もあればジムや診療所まである。流石に手術は出来ないが、ひととおりの検査と採血や治療が出来る。
 福利厚生施設は敷地の南側にある。今日は違うが、建物と連絡通路で結ばれているから本来は外を歩いていく必要はない。大学を彷彿とさせる広大な敷地の真ん中を歩くと目立つだろうから、建物に沿う形で移動して3階建ての福利厚生施設に入る。食堂は見晴らしの良さも考えてか2階にある。2階も連絡通路があるから便利だ。
 昼飯の時間には30分くらい速いが、社員の人が使うだろうから先んじて済ませる。念のため食堂の人に弁当を食べて良いか尋ねる。チラッとネームプレートを確認され、全く問題ないことと、お茶や水はセルフサービスだと教わる。礼を言って窓際の隅の方の席に座り、弁当を広げる。
 弁当を食べながら晶子のことを考える。この時間だと店を開けてランチの準備だろうか。住宅街の中にあるからランチの需要はどうかと思ったが、住宅街の主婦を中心に需要は十分あるそうだ。駅前には遠いし居酒屋が多い分ランチはやっていない。そこにランチもあればコーヒー紅茶にクッキーもあれば、主婦層の需要を十分満足する。
 この食堂にもランチメニューがあるようだ。日替わりがAとBで…200円?!安いな…。福利厚生の一環と言えばそれまでだが、この値段だとあえて外に出て食事をする理由は少なくなる。今は晶子が弁当を作ってくれるが、これから先妊娠出産や育児で作れなくなることもあるだろうから、こういう施設があるのはありがたい。
 弁当を食べ終えてお茶を飲む。時刻は…まだ12時になってない。大学だと空きコマを使ったり、卒研あたりだと早めに出たりして昼飯を混雑する前に済ませたりするんだが、この辺は企業とかだと厳密だろう。俺の場合、遅い方が圧倒的に多かったから、今日の方がイレギュラーなんだが。
 邪魔になるといけないから、弁当を片づけて3階に移動する。3階は売店やジムがある。売店はコンビニと中規模の本屋が合体したような感じで、かなり広い。大学の生協の売店と似ているが、そこよりずっと綺麗だ。パンやおにぎりといった食品もあるから、食堂以外の選択肢もあるってことか。
 書籍は雑誌、文庫本の他、専門書もある。専門書は大学を離れると入手が難しい。雑誌とかと比べて高額だし売れる数が少ないから、書店で置くのは大規模店じゃないとまずない。電気電子の他、機械、物理化学、バイオ関係と工学理学の分野が取り揃えられているようだ。
 ぐるっと売店の中を回って出る。1階や2階の食堂もそうだったが、店舗などの外はロビーというかラウンジみたいな感じになっていて、長椅子が等間隔で置かれている。長椅子も寂れた電車の路線やバス停とかの硬いプラスチック製のものじゃなくて、会議室とかであるクッションタイプの椅子だ。
 大学の講義室のような細いテーブルもあるから、ノートPCなどを広げられる。その1つに座って一息。晶子は…ランチの時間帯で忙しいだろうな…。暫くして上着が作業着の社員らしい人達がパラパラで出入りするようになってきた。こっちをチラッと見ることもあるがあれこれ言われることもない。スーツを着てこの場に居るってことは新入社員だろうと察しがつくんだろう。今年限りのことじゃないだろうし。
 午後からのオリエンテーションは、本館2階の会議室。俺が企業訪問で最初に案内された場所だ。小宮栄の支社に集合したのは20人ほどだったが、このR&Dエリアにはどれくらい来ているんだろう?理学系だと修士以上でないと門前払いされると言う研究所も含めて10人は居ると見てるんだが…。
 オリエンテーション開始まで5分を切った。集合場所の会議室に集まっているスーツ姿の人は…俺を含めて10人か。全員男性。男女平等だの女性の社会進出だの言っても、研究所や機器開発といった分野に出て来る女性は絶対数が少ない。それを無理に数合わせしようとしても歪が出るだけだ。
 上着が作業着の社員の人も数名来ている。俺の企業訪問とかで何度も対応してくれた和佐田さんも居る。それにしても、10人でこの会議室は持て余す広さだな。少数精鋭の採用の結果か、それとも人の集まりが悪かったか。どちらにせよ、この10人が所謂同期なわけだ。

「それでは時間になりましたので、R&Dエリア新採用社員オリエンテーションを始めたいと思います。」

 和佐田さんが開会を宣言する。どうも和佐田さんはこういった場面で司会進行を任されるような職階らしい。面接でも面接官をしていたくらいだから、そう考えるのが自然か。
 プロジェクターがスケジュールを写す。各部署の紹介、R&Dエリアの見学、質疑応答、と大項目は3つとシンプル。だが、研究所はまだ見ていないし、受付付近にあった見取り図からしてR&Dエリアはかなり広大だから、全体を見学するだけでもかなりの時間を要するだろう。

「ご覧のスケジュールに沿ってオリエンテーションを進めます。司会進行は私、機器開発部機器開発2課1班班長の和佐田が務めます。よろしくお願いします。」

 班長ってことは、実働部隊の長か。道理で面接官をしていたわけだ。そう言えば俺の配属は機器開発2課とはなっているが、班までは聞いてない。もしかすると和佐田さんの班に所属することになるかもしれない。配属の説明もあるだろうし、まずはオリエンテーションに専念しよう。
 研究所と機器開発部は密接にリンクしている。理論や研究開発面から取り組むのが研究所で、技術開発の面から取り組むのが機器開発部という位置づけという。出身学部は以前渉が言っていたとおり研究所は理学の修士博士と工学の博士がおおよそ3:1。機器開発部は工学の学部と修士、理学の修士、高専の専攻科がおよそ3:1:1:1の構成だ。
 機器開発部はかなり出身のバリエーションが豊かだ。多数は俺も含まれる工学の学部だが、理学の修士や高専の専攻科も居るのが興味深い。高専と言えば進学校と同等以上の偏差値で、5年間実践に即したことを学ぶ。高専卒だと年齢的にか短大卒という扱いになるそうだが、2年の専攻科を加えると学部卒と同等になると聞いたことがある。
 より実践的、即戦力も想定して高専の専攻科出身も加えているんだろう。大学だと工学部出身でも回路を設計して製作できるかというとかなり怪しい面がある。どうしても理論が中心で回路を設計・製作するのは卒研になってからということも珍しくない。その点高専は最初から実践を重視しているから、実際に手を動かす面では強い。
 こういうのを見ると、何処の大学を出たというのが最大の強みになるのはせいぜい採用試験までだと感じる。高専より大学の方が格上とか、修士博士だから学部より格上とか思っていると、あっという間に追い抜かれたりする。あくまで入社時点でスタートラインに立ったに過ぎないと肝に銘じるべきだな。
 密接な関係を象徴するように、研究所と機器開発部は建屋の移動が非常に簡単だ。どの階からでも相互に行き来出来るようになっている。正面受付は機器開発部側にあるが、これは高須科学の歴史と関係している。最初は機器開発部が存在して、理論面や研究開発の強化として研究所が出来たという流れだ。

「−以上が各部署の紹介です。これから皆さんにはご紹介したR6Dエリアの部署を機器開発部から順次見学していただきます。」

 研究所は機械工学あたりを彷彿とさせる風洞とかもある。全体を回るだけで相当歩くことになるだろう。つまりは、日頃の業務で必要になればそれだけ歩いて移動する場合もあるってことだ。何でも最後は体力勝負、とはよく言ったもんだ。

「見学は2グループに分かれます。氏名を呼ばれた方は、前に出た先導者のところに集合してください。」

 2人の社員の人が前に出て、和佐田さんが紹介する。正面向かって左側が研究所の鶴見さん。右側が機器開発部の野村さん。多分、研究所から先に見学するか機器開発部から先に見学するかの違いだろう。5人ずつくらいの少人数なら、多少五月蠅い場所に出ても十分聞き取れる。
 まず鶴見さんのグループ。俺はこちらの所属。続いて野村さんのグループ。やっぱり5人ずつ。こう見ると本当に少人数だな。確か俺が配属される予定の機器開発2課では4班全てで採用する方針だと聞いた覚えがあるが、この分だと欠員が出てるかもしれない。実際、内定辞退者も出たそうだし。
 兎も角、見学だ。鶴見さんの先導で俺を含む5人から先に会議室を出る。俺が企業訪問で見学させてもらった時よりずっと広い世界があるだろう。どんなものがあるのか、何をしているのか、社員になったからこそ見られるものがある筈。
 帰還。かなり歩いたな…。各部署の紹介で見たR&Dエリアの敷地全体と各部署の建屋の見取り図から相当広いことは予想できたが、その予想を上回るものだった。最初に見学した研究所は、大学と似た雰囲気だった。ひしめき合う実験装置や試作中らしい大型機器は、まさに大学の工学部や理学部の雰囲気だった。様々な分野の研究が行われていて−萌芽研究と言うらしい−、その中から製品になりそうなものを抽出していく面もあるそうだ。
 大学と違うのは、大学では方法論やアプローチを探ることが主体なのに対して、高須科学の研究所ではある目標を実現するために様々な手法を試してより良い解を探ることが主体なこと。製品として利益を出すことが根幹にあるから当然と言えばそうだが、萌芽研究は製品になりそうなアイデアや技術を探す研究もするための制度だと言う。
 研究所というと「頭の良い人たちの集合」とか「頭脳集団」というポジティブな見方もあるが、「怪しいことをしていそう」「ネクラ・オタクの集団」とかネガティブなイメージもある。後者は映画だの漫画だの小説だので作られたイメージが大きいが、建屋は至って綺麗で室内も広くて明るかった。
 これは後で見学した機器開発部もそうだったが、大学より各自のデスク周りはずっと広いし、部屋全体も採光が十分考えられている。勿論空調は完備。簡単に行ける福利厚生施設も含めると、環境は大学より良い。研究開発に相当力を入れていることが分かる。
 俺が配属される機器開発部は、やはり技術面からの製品や特許を探る部署という位置づけだけあって、雰囲気は研究所と変わらない。違うのは上着が作業着か時々白衣かと、実験や製作をする研究室・開発ルームの中身が、研究所は様々な分野の集合なのに対して機器開発部は割と電気電子と機械に特化されていることくらい。研究所の白衣は化学系の研究室もあるからで、基本は作業着が上着でネームプレート着用だと言う。もっともスーツを着てするタイプの仕事じゃないが。
 俺が入っていたグループより少し遅れて、もう1つのグループが会議室に戻ってくる。全員揃ったところで30分の休憩が宣言される。意外と長いな…。社員の人達も案内や説明をしたから休憩したいところだろう。かなりの距離を歩いたし、休憩がある方があり難いのは勿論だ。
 会議室から出て少し歩いたところに、自販機やサーバーが集中している場所がある。見学の際に「リフレッシュエリア」と紹介された場所は、福利厚生施設に行くほどじゃないが、ちょっと飲み物が欲しいとかで直ぐ使える休憩場所で、各建屋のエレベーター付近、2階に設置されている。
 俺はリフレッシュエリアに出向いて茶を買う。大挙して会議室に居た面々が押し寄せた格好だが、少し混雑する程度。廊下自体が広いから押し合いへし合いになることはない。ちなみに購入は普通の自販機と同じく現金か、地下鉄でも使えるICカード。仕事には関係ないがちょっとこの辺驚き。大学にはなかったよな。

「へー。MADOCAで買えるんですねー。」
「MADOCAのシステムは我が社が手掛けてるんだ。実地試験の流れで今も自販機やサーバーは全部MADOCAが使えるよ。」

 あのICカードシステム、高須科学が手掛けてたのか。午前の入社式や午後のR&Dエリアの部署紹介でもあったが、「まさか」と思うところに製品が使われていたり、実はOEM製品だったりというのがあるんだな。MADOCAは確かもう直ぐ全国のICカードとの共通化も始まる筈。そういった統一事業にも関与してるんだろう。
 R&Dエリアだから見学で見せてもらえたものは試作や研究開発中のものだけだったが、近々別の企業にOEM提供されるという機構の一部もあった。本当によくある民生品の根幹部分だったりする。本当に何でもあり、色々な分野を技術面と研究面で吸収して、そこから芽が出そうなものを模索して作り出すという風土が根付いている。
 その分覚えること、体得することは多そうだ。卒研では稀に見る優秀さと言われてきたが、それは大学を卒業した時点で経歴でしかない。そこで培った知識や技術−後者は技術と言えるほどじゃないだろうが−を元に吸収して自分のものにしていく必要があるな。
 休憩が終わり、会議室に戻って質疑応答。採用面接では聞けなかったのか、待遇面に関する質問が多く出る。俺は企業訪問の時点でかなり突っ込んだことまで聞いたから、確認の意味合いで耳を傾ける。やはり待遇面に関しては指折りの良さだ。福利厚生施設は社員だけでなく、社員が同行すれば家族も使えるという。
 全国から来ているのもあって、寮や社宅についての質問も出る。独身向けの寮と家族向けの社宅がR&Dエリア近辺にもあって、現在若干の空きがあるそうだ。申し込みの数によっては抽選になるが、漏れた場合も近隣にアパートやマンションがあるし、福利厚生施設の2階売店で斡旋しているという。
 福利厚生施設は実は人事部の管轄で、人事異動における交通整理的な役割の他、給与や休暇の手続きや管理、福利厚生の維持管理をしているという。だから、大学の生協のように住居の斡旋もするわけだ。ちなみに福利厚生施設の店員はパートが多いが、店長などは人事部の社員だそうだ。
 俺はこれまでの過程でふと思ったことを尋ねる。実際の配属、つまり俺なら機器開発部の機器開発2課だが、どの班に配属されるかは決まっているのか、未定ならどのように決まるのかだ。これにも明確な回答が出される。採用決定の時点で配属は決まっていて、それは今日配布する辞令に記載されているという。
 研究所だと、修士博士と進むごとに専門性が高まるから、配属先が全く異なる分野だと大変だろう。俺は学部卒だからそこまではいかないかもしれないが、それでも畑違いの化学や物理、果ては生物や医学となると完全な素人になる。そういったことは少なくともないようだ。
 質問が出尽くしたことで、俺の質問への回答で出た辞令の交付へと移る。名前を呼ばれて前に出て、1人1人手渡しだ。俺が最初なのはあいうえお順だと思う。「あ」から始まる性質上、小学校からずっと出席番号は最初の方だったし。
 辞令を機器開発部長の山神さんから受け取り、席に戻って辞令を見る。配属先は「機器開発部機器開発2課1班」、職名は「技師」とある。…ん?機器開発2課1班って、和佐田さんが班長の班だよな?だから和佐田さんは俺に会社の財務資料の提供をしたり、内定辞退をしないように連絡してきたんだろうか。

「週明けから研修が始まりますが、内容やスケジュールは部署によって異なります。資料をご覧ください。」

 辞令を仕舞って資料を広げる。機器開発部の研修スケジュールは3ヶ月間ある。4月は基本的に基礎技術研修で連休前に合宿形式の一般研修、5月は前半が基礎技術研修で後半からOJT形式の研修が始まって6月いっぱいまで続く。研究所はどうか分からないが、配属先で必要な基礎を構築することに重点が置かれているようだ。

「本日は皆さんスーツを着ておられますが、週明けからは平服で結構です。むしろ、平服でないとし辛い業種だと思います。作業着は本日の見学で紹介したロッカールームに入っていますので、各自のお名前を確認して上着を着用してください。場合によっては白衣などでも問題ありませんが、ネームプレートは必ず着用してください。」

 ロッカールームは1階の正面受付直ぐのところにある。そこにはタイムカードもあって、ネームプレートを当てればそれが出勤時間とされ、退勤時も同様にすれば退勤時間として記録される。MADOCAのシステムを手掛けたことが生かされている時間管理システムだ。
 ロッカールームは広くて、ロッカーはやはりネームプレートが鍵になる。つまりは、ネームプレートがないと敷地に入れないし、仮に入れたとしても何も使えないわけだ。毎日の出勤時に必ず持っていることを確認する癖をつけないといけないな。

「他に質問などがないようですので、本日のオリエンテーションは終了とします。このままお帰りいただいて構いません。お疲れさまでした。」

 オリエンテーションは終了か。配属も当面のスケジュールも決まったし、週明けから本番と見るべきだな。何はともあれ、社会人生活の初日は無事に済んだ。長かったような、短かったような…。
 大学時代から引き続き最寄り駅となる胡桃町駅に到着。帰宅ラッシュらしい混雑はあったが、往路より楽に感じた。スーツには身体全体が締めつけられているような気がして、どうも慣れない。週明けからは平服で良いから今日くらいは我慢、我慢。
 改札を通って東口から出て、そのまま緩やかな坂道を上がる。これからは自転車を使うが、今日は歩いた。行先は自宅じゃなくて、つい2日前までスタッフとして働いていた店、喫茶店Dandelion Hill。住宅街の中にある、丁度タンポポが咲き乱れる低い丘に佇む洋風の白い建物の窓には明かりが灯っている。

カラン、カラン。

 ドアを開けるとカウベルが鳴る。なんだか懐かしい気分。つい2日前まではこの音が新たな来客を告げるものだったんだよな…。

「いらっしゃいませ…、って、祐司君じゃない。」
「こんにちは。」
「社会人生活初日を終えたのね。丁度良かった。奥様がお待ちよ。」

 カウンターに座って直ぐ、奥から仕込みをした食材が乗ったトレイを持った晶子が出て来る。客席は今日もにぎわってるから、仕込んだ食材を保管しておく奥の冷蔵庫に取りに行ってたんだな。

「お帰りなさい。」
「ただいま。」
「晩御飯が出来てますから、これを済ませてから出しますね。」
「ああ、待ってる。」

 晶子はトレイをキッチンの平らな部分に置き、続いてその隣で別のトレイに皿を載せたり刻み野菜を載せたりする。そしてそのトレイを持ってカウンター越しに差し出す。ご飯に味噌汁、野菜サラダに漬物、そして鶏のから揚げとフルーツ盛り合わせ。俺の好物を主体にした夕飯だ。

「ありがとう。」
「メール貰いましたから、余裕を持って準備できましたよ。」

 会社の正門を出たところで、晶子に「終わったから帰る」メールを出しておいた。晶子からは短い「お疲れさまでした」メールが届いたが、それは夕飯を用意しておくという合図でもある。今日は晶子が早めに終わるシフトだから、俺が夕飯を食べて少ししたら帰る時間になる。
 通勤時間は乗り換えの余裕を見ておおむね1時間。そのうち自宅と胡桃町駅の時間を除いて、胡桃町駅からこの店までの所要時間を加えると5分ほど縮まるが誤差の範囲。仕込みをしていれば1時間あれば大抵の料理は作れると言うし、それを見越してメールするくらい手間のうちに入らない。
 夕飯を食べつつ、客席の様子を見る。半ば癖みたいなものだ。客席は普段通りの賑わいで、客席の多くは中高生が占めている。その中を2人のスタッフ−マスターと増崎君がゆっくり回っている。キッチンには晶子と潤子さん、そして青木さんが居る。3人に増えたキッチンは以前より余裕が出来たと感じられる。
 勤務のシフトが組まれ、晶子も週休2日が確定した。店の定休日である月曜の他、直近では今度の日曜、来週の木曜が休日になる。で、今日は早番で明日は遅番。遅番は17時からだから、家のことなどを済ませてからでも十分間に合う。早番と遅番の時間帯は1時間ほど重なるようにされているのは、入れ替わりで滞ったりするのを避けるためだという。
 ゆっくり夕飯を食べていると、晶子が奥に引っ込む。どうやら今日の勤務の終わりらしい。エプロンを外して纏めている髪をおろして準備完了で出て来る。俺は空になった食器をトレイごとカウンター越しに潤子さんに渡す。

「御馳走様でした。」
「作ったのは晶子ちゃんだからね。帰ってからたっぷり褒めてあげて。」
「そうします。」

 勤務を終えてキッチンに居る潤子さんと青木さんに挨拶をした晶子と一緒に店を出る。今日から4月だが18時を過ぎる頃にはかなり日が落ちて、家の窓から漏れる明かりが目立つ。薄手のコートで十分外を歩けるような気候なのは春らしい。
 駅前から延びる通りに出て、坂を登りきったところで右折して真っ直ぐ南下すれば、やがて俺と晶子の家に到着。オートロックのエントランスを通って玄関の鍵を開けて入ると、ようやく帰宅した実感がわく。
 俺はスーツを脱いで着替える。服は寝室のクローゼットに集約しているから、彼方此方移動する必要はない。着替えてリビングに出ると、晶子がクッキーとホットミルクを用意していた。着替える必要がないとはいえ、こうも働き者だと気が休まる時があるのかと不安に思うこともある。

「社会人生活初日はどうでした?」

 店の様子を聞こうと思ったら、先に尋ねられた。主導権云々じゃなく、引き続き店で働くことの感想とかを聞こうと思ったんだが、向かいでじっと俺を見つめる晶子からは、どうしても聞きたいという意志が溢れ出ている。

「午前は入社式で午後はオリエンテーション−職場の見学や説明とかだったんだが、セレモニーの要素が強かった。まだお客様というか。本番は研修が始まる週明けからだろうな。」
「職場の雰囲気とかはどうでした?」
「最寄駅の出口から出て直ぐだから、通勤はしやすい。雰囲気も良かった。割と大学に近いところもある…かな。分野は大学の理系学部を集約したような感じで、服装は週明けからは平服で良いし、むしろ平服でないとし辛いとかいうくらい。」
「企業訪問の時のお話でも良さそうな雰囲気を感じましたけど、それが改めて裏付けられた形ですね。」
「そうだな。研修は殆ど仕事のこと中心だし、意味不明な儀礼的なものはないから、大量に採用して使い捨てするタイプの企業じゃないのは良く分かった。」

 晶子は安心した様子だ。大学と違って少し歩いて相手のところに出向くことは不可能だ。それに、説明会などでは夢だの何だのと前向きなことを並べたてて、いざ採用したら何故か自衛隊に体験入隊させたり−まず自分達が体験入隊すべき。恐らく1週間持たない−、洗脳まがいの研修に明けくれたりする企業もある。そういうところで俺が壊れないか気がかりだったんだろう。心配してもらえるのはありがたい。

「晶子の方はどうだった?」

 今度は俺が聞く側に回る。出勤がゆったりした時間帯だから気分的にも余裕が大きいこと。スタッフが大幅に増えたことで全体的な余裕も増えたこと。キッチンに新しく加わった青木さんは仕込みを中心に頑張っていること。俺が丸々休日だった2日間を含めて、順調な滑り出しのようだ。
 晶子は特にキッチンに余裕が出来たことが嬉しいようだ。昼間はよく知らないが、大勢の客でにぎわう夜の客層は中高生。女子はやはり意識するのかそれほどでもないが、男子は兎に角よく食べる。それが複数だからキッチンの忙しさは半端じゃない。
 晶子がキッチン専門になったのは、客の注文が増えたことがほぼ1つの理由と言って良い。晶子は引き続き働き続けるし、近くに大手の塾、それこそ店の新スタッフが通っていた塾の中高生の数がいきなり大きく減ることはない。その晶子も将来出産育児となるとどうしても休業若しくは退職と相成る。
 今回、新スタッフの中で小野君と青木さんがキッチンに加わることになった。小野君は俺の短い春休みの間にキッチンだったが、かなり料理を手掛けていたそうで、もう店の料理の一部を担っている。青木さんはそこまでには達していないが十分見込みはあるとして、料理の基礎を教えることも兼ねて仕込みや盛り付けを担当しているそうだ。
 仕込みや盛り付けは地味だが時間を食う。それを専任体制で出来ると効率はぐっと上がる。仕込みは料理の味をかなり左右するし、盛り付けが下手だと折角の料理も評価が落ちることさえある。青木さんは仕込みや盛り付けの重要性を認識していて、きっちりこなしているそうだ。
 晶子の台所仕事を見ていて、料理の多くは仕込みが占めるらしいとは分かっている。単に下味をつけるだけじゃなく、適切な大きさに切り揃えたり、肉なら解したり筋を切って叩いて広げておいたり、魚なら骨を抜いたり鱗を取ったりして料理しやすく、食べやすくする重要な準備が仕込みだ。
 晶子自身、食材を買ってくると即座に台所に入って仕込みをする。小分けされた食材は普段の食事や弁当に使われて順調になくなっていく。仕込むことで冷蔵庫の状況を把握し、次に買うものを見定めたり、メニューを一部変更したり−消費期限が割と短い野菜を片づけるためにカレーやかき揚げや春巻きを作ったりといったこと−する。
 それらが出来れば料理なんて簡単と思いきや、それがきちんと出来ないから料理の出来る出来ないが激しい。バリエーション豊かな料理が効率良く出来るのは、こまごました仕込みを手を抜かずにこなすため。それは傍から見ていても単調で地味で、料理と何の関係があるのか分からないものもある。その地道な単純作業に耐えられるか?

「晶子の方も順調なようだな。」
「私は働く場所が変わらないですし、大学との両立がなくなったから、こう言うと語弊があるかもしれませんけど、気分的には楽です。」
「この家での生活の基幹部分は晶子が担ってるから、晶子が気分良く働けるのは良いな。」
「私は凄く幸せな生活です。温かい人達に囲まれて、素敵な夫が居てくれて…。」

 晶子は席を立って俺の背後に移動し、後ろから抱きつく。俺の首に両腕を回して右の肩口から顔を覗かせる。そういう体勢だから、背中に伝わる柔らかいものの感触は「分かる」という程度を凌駕している。

「私が祐司さんと合わせて欲しかったこの生活…。私と一緒に守ってください…。」
「晶子のそういうところ、俺は安心出来る。俺におんぶに抱っこにならずに自分も参加するってところ。晶子が楽をしたいがために俺を巻き込んだんじゃないってよく分かるから、俺も晶子と一緒に頑張ろうって思う。」
「私は…、将来安心して子どもを産み育てられる環境と、それを実現出来る祐司さんが欲しくて、大学生のうちに結婚してもらった…。ですから、祐司さん1人に全部お任せ、なんて虫の良いことを言う考えはありません…。私こそ頑張らないといけないって思ってます…。」
「2人なんだから気負い過ぎないようにとは思うが、そういう気持ちがあれば大丈夫だ。俺も晶子も、この生活も守っていける。」

 大学生のうちに結婚したのは、色々な背景がある。これまで順調に既成事実を積み重ねられたことを法的に裏付ける最終段階という意味合いもあったし、田中さんに圧されて混乱した晶子を安心させる意味合いもあった。加えて双方の両親と決別して2人の家庭を作るためでもあった。
 理由や背景は色々あるが、結婚から早半年経った今も結婚に後悔はない。年齢はどうあれ手続きを踏んで届け出て成立した夫婦関係だから、同じ家に住んでいても何ら不思議はない。隠さず臆せず「夫だ」「妻だ」と対外的に名乗ったり紹介したり出来る。たかが婚姻届、されど婚姻届。法的な裏付けはやはり強い。
 対外的なこと以外の生活面でも安定感は抜群だ。料理は文句ないし弁当も作ってもらえる。清潔かつ快適な環境がある−清潔と快適が必ずしもイコールじゃないことは最近知った−。そして何より「この家に帰れば晶子も帰ってくる」という安定感が大きい。夫婦が同じ家に帰ってくることに違和感を覚える方がおかしい。
 結婚してから晶子自身安定感がぐっと増した。何処か不安と背中合わせという面があって、そこを突かれたこともあった結婚前と比べて、俺が他の女に鞍替えすることはない、鞍替えするにはかなりの手間やリスクを伴う関係になったという安心がある。その安心が裏付けになって、晶子自身の安定感が大幅に増した。
 勿論、俺の社会人生活は今日始まったばかりだし、今後は色々あるだろう。だが、この生活と晶子との家庭がある安心感、その安心感を守る責任感があればやっていける。環境が大きく変わっても不安よりやる気が大きいのは、そんな気持ちがあるからだろう。
 初心に帰る、とよく言われる。節目の時、新たな環境に直面した時、何か決意したことや思ったことがあるだろう。行き詰ったり投げ出したいと思った時はそれを思い出せ、ということだ。これからの生活は山あり谷ありかもしれない。その時の生活や環境が嫌になった時、今の気持ちを思い出せばやる気や希望が復活するんだろう。
 1人だけなら何とでも出来るし、最悪投げ出して逃げ出すことも出来る。その分、晶子と2人、しかも法的な裏付けを得た夫婦関係はそういったことは非常に難しい。だからこそ、2人で協力する姿勢は忘れちゃいけない。ちょっとしたことだから後で言えば良いという慢心や独断が、少しずつひびを入れて行くだろう。
 2人だからこそ出来ることもある。だが、2人を維持するには1人とは異なる努力が必要だ。結婚する前までもそれは何度も思い知らされた。「初心に帰る」の他によく言われる言葉に「基本を大事に」がある。協力を重視する、おざなりにせずに相手に伝える、こういったことは夫婦生活の基礎だろう。これも忘れちゃいけないな…。
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