雨上がりの午後

Chapter 314 夫婦として迎える年の瀬と年明け

written by Moonstone

 今年も残るところあと3日となった。店は長期休暇中だし大学も休み。実質卒研は卒論執筆を残すのみとなった俺は、自宅で文章部分をしたためている。図面は研究室にあるし、あまり卒論用にキャプチャしてない。設計用のソフトは殆どライセンス契約ものだから持ち出しても動作しないし、研究室のサーバに入っているファイルもあるから万一の破損を考えると、ワープロソフトで文章を書くことに留めておくのが無難だ。

「祐司さん。お茶が入りましたよ。」
「ああ、ありがとう。」

 晶子が紅茶と茶菓子をトレイで運んでくる。晶子は本を読んでいる。2LDKの俺と晶子の家は、1部屋が寝室でもう1部屋は書棚やタンスが固まっている。だから卒論の執筆場所はリビングしかない。晶子は「自分に構え」と言わないし、時折こうして茶菓子を出してくれたりするから、別室に籠ったり大学や図書館に出向く必要はない。
 キーボードを叩く手を止めて、淹れ立ての紅茶を口に運ぶ。結婚披露パーティーを終えてから、時間の進行が一気に緩やかになった。パーティーの企画、会場の手配とテーブルなどの配置や移動の段取り、メニューの考案と買い出しに仕込み、当日の料理と運搬、そして接客と最初から最後まで目まぐるしかっただけに、それらがなくなったことで、時間の流れを感じる余裕が出来たと言える。

「祐司さんの卒論って、どのくらいのページ数を書くとか目安はあるんですか?」
「特にない。文章だけだらだら書かないようにって言われてるくらいかな。あと、論文は感想文でも小説でもない、とか。」

 10月の中間発表で実質卒研の完了と卒論執筆のGOサインが出たことで、野志先生から卒論執筆の際の注意事項として言われたことが、「文章だけのページを作らない」「論文は感想文でも小説でもない」の2点。どちらも学会発表の準備を通じてそれなりに理解はしているつもりだ。
 「文章だけのページを作らない」は、文章だけでは読み難くなるからだ。原理の説明にしても、兎角専門用語を多用するから分野外には理解し辛い。同じ分野でも文章だけだと理解に時間がかかることは珍しくない。それに、文章だけだと長くなり過ぎる。短文だとあまりに断片的だから詳細に説明しようとすると長過ぎて読み辛くなる。悪循環と言える。
 回路1つ取っても、回路図もそうだし−俺の場合はFPGAに大半の機能が詰まっているから回路図は割と閑散としている−、回路図が出せない場合はブロック図があるだけでかなり違う。文章だけでだらだら書かれるより、ブロック図を出して信号の流れを順に書いてある方がずっと分かりやすい。
 「論文は感想文でも小説でもない」は、読んで字のごとく。あるテーマについて目標を立て、実験をしてデータを解析し、その結果から以降の方針を決めることの繰り返しだが、そこに様々な思い出や苦労話、或いは自慢話があるとしても、それは論文に書くことじゃない。
 あくまで論文だから、それについてのみデータと図表を加えつつ淡々と書くこと。それだけで良い。感謝とかは末尾の謝辞に入れれば良い。論文に書き手の感想や苦労話と言った面白みや裏話的な内容を求めないし、それを論文に求めるのは馬鹿げている。
 もっとも野志先生は「念のため」というスタンスだった。学会発表の時点で報告書を書いたから、それでおおよその感覚は分かっただろうから、というのがその理由。俺が学会発表で一番苦労したのは報告書だったし、何度も添削してもらってようやくだった。学会発表を経験したから卒論は楽だろう、とも言っていた。
 実際、序文から原理の説明あたりは報告書をほぼ流用している。この辺りはテーマや基礎理論に関わることだから、大幅な変更は基本的にない。図表も相応に作ったからそれらを適時挿入していけば良い。学会発表の報告書とフォーマットが違うからレイアウトまでそっくりそのままとはいかないが、確かに楽ではある。

「至言ですね。」
「ある程度は夏の発表の報告書を流用出来るけど、そればかりじゃな…。あれ以降実験結果とかも追加や修正があったし。」
「この年末年始で仕上げなければならないわけじゃないんですよね?」
「ああ。」
「今は、文書のフォーマットがあればそれに準じて要点を列挙していくくらいで良いと思いますよ。データや図面がないとあやふやな文章になってしまいますし、それよりは卒論全体の骨組みを作るような感覚で良いんじゃないか、と。」
「確かにそうだな。どうも記憶頼りだと曖昧になっちまう。」

 あやふやな文章を書いても結局添削の段階で訂正の憂き目に遭う。卒論の締め切りというか最終発表は年明け3月だから十分余裕はある。序文や原理といった、夏の発表の報告書を流用出来るものをフォーマットにあてはめて体裁を整えておくだけでも、相当なアドバンテージになる。
 PCの画面から、まだ半分以上向いていた意識が離れていく。改めて紅茶を啜る。夏は学会発表、それが終わったら卒論の中間発表と両方の両親への結婚の報告、続いて新居探しと契約、婚姻届の提出、引っ越し。そして結婚報告パーティーの開催。怒涛のような時間から一転してゆったり流れる時間を味わう。
 結婚生活は2カ月を超えた。2人には十分な広さと閑静で日当たりも良好な住環境を拠点に、大学に通いつつバイトを続けて収入を得ている。今回もボーナスをもらった。結婚報告パーティーで店を無償提供してもらっただけでも十分なのに、2人揃って20万も貰った。おかげで財政状況はかなり潤沢だ。
 この年末年始に出かける予定はない。せいぜい近場の神社にでも初詣に行くかどうかといったところ。どちらの両親からも連絡はないし、帰省するつもりもない。電話番号は変わったし、携帯は教えてないし新居の住所も伝えてないから連絡の取りようもない。どのみち帰省したところで見世物まがいか−特に晶子は−親族同士の見栄や牽制や説教の場になるだけだから、行かないで済む方が有難い。

「年末年始、何処か行きたいところとかあるか?」

 茶をゆっくり時間をかけて半分ほど飲んだところで、晶子に尋ねる。

「特にないです。今年だけでも奥濃戸に行きましたし、京都にも行きましたし、小宮栄の高級ホテルにも泊まれましたし…。外出の思い出には事欠かないですから。」
「そうか…。奥濃戸もこの前の年末年始を跨いだ話なんだよな。」
「祐司さんもそう思うように、何かと色々あって…。私が発端になっている感は否めないと言われれば否定出来ませんけど、それらを過ぎて堂々と一緒に暮らせるようになった初めての年末年始を、一緒に暮らせるこの家で一緒に過ごしたいな、と思って…。」

 イベントというかハプニングというかアクシデントというか、そういうものには事欠かなかった。晶子が言うように、直接間接や程度の差はあっても晶子が発端やきっかけになったことは多い。特に京都旅行をはじめとする結婚絡みのことは、晶子が一時渡辺夫妻の家に立て籠ったことから連鎖的に発生した。
 発端やきっかけになったとはいえ、晶子との結婚には何ら後悔していない。今までやや後ろめたさのようなものもあった一緒の生活も−賃貸契約からすると問題になることもあるらしい−、結婚したことで1つの姓を掲げた家で大っぴらに出来る。生活自体も多忙だが快適だし、卒研は順調そのものだ。
 何処かに出かけるのも楽しみ方の1つだが、家で2人きりの生活を満喫するのも楽しみ方の1つ。年末年始は何処もかしこも混み合うもんだし、その混雑にわざわざ身を投じるより、十分な広さのこの新居で贅沢な空間の使い方をするのも良い。

「こうして2人だけで暮らせることが…本当に幸せなんです。その幸せを存分に味わいたくて…。人ごみの中では出来ないことも…。」
「…こういうことも、か?」

 俺は軽く膝立ちをして身を乗り出し、晶子にキスをする。気持ち10数えてから距離を離す。晶子は唇に手をやった状態で固まっている。俺から唐突にキスをするのは殆どないから、相当驚いたようだ。唇を短時間くっつけるキスでこんなに驚くんだから、舌を入れたら卒倒するかもしれないな。

「…私も。」

 硬直が緩やかに氷解していった晶子が、四つん這いになって俺との距離を詰めて、まず左の頬にキス。続いて唇にキス。唇へのキスは俺と同じように気持ち10数えるくらいの時間。俺の時と違うのは、キスを終えても距離を元に戻さないこと。四つん這いになったところから下半身だけ前方に移動させて、俺の左隣に密着する。

「外出すると、こういうことが出来ないですよね。」
「ああ。俺に外でする勇気はない。」

 外でこういうことをすること自体俺は強い抵抗感を感じるし、仮に何かの間違いで決行したらやっかみを買いそうな気がする。それに就職が決まったとはいえまだ内定の段階だから、無用なトラブルは避けるべきところ。夫婦が自宅でキスするのは何ら咎められることじゃないし、それを流布する時点で犯罪と称して良い。
 キス自体、昼間にすることはあまりない。平日は揃って大学だし、家で2人揃うのはバイトが終わってからのこと。土日祝日あたりは昼間に家に居る時間が出来るが、今年は晶子が連日就職活動に出ていたし、その後直ぐに引っ越しすることになって、引っ越しが終わったら今度は結婚報告パーティーの企画や準備とかで、キスする機会を逸していた。
 夜にするキスは愛撫の一種のような感がある。他には満足感や征服感を味わうための簡単な儀式みたいなものか。何れにせよ、こうして昼間にするものとは性質が違う。外出すれば昼間は移動なり何処かの屋内屋外なりで少なからず人目に触れる場所に出ることになる。夜と違うキスを堪能する機会をみすみす捨てるのは勿体ない。
 暖房で窓を閉め切っているせいで、外の音は全く聞こえない静かな部屋。その暖房も、昼下がりにバルコニーに面したサッシから差し込む日光の暖かさを利用して緩めている。窓越しに覗きこまれる危険性もない空間は、2人きりの時間を満喫するには最適の場所だ。

「あ…。」

 俺が晶子の首筋に唇を付けると、晶子から甘い吐息が漏れる。まだ始める気はないが、こんなことが出来るのもこの家だけだ。

「ご賞味は…出来ればベッドで…。」
「それは夜のお楽しみ。今は…こういうことがしたい。」

 首筋から唇へとターゲットを移動させる。唇を覆って直ぐ晶子の舌が割って入ってくる。こんなことは普段の生活じゃあり得ない。一般公開したらやっかみどころか憤激を買いかねない。俺は晶子の舌に自分の舌を絡め、晶子の口の中に差し込む。口と口の隙間から混じり合った唾液が零れそうな激しいキスが続く…。
 夜。暗闇の中で2つの荒い吐息が浮かんでは消える。夜の営みの残滓は吐息の他に、暖房は入れてあるとは言え冬の夜だというのに身体に滲む汗、火照る身体、そして晶子の下半身に滴る、様々な分泌物が混合した液体。動ける気配がない晶子に代わって、俺はめくっていた掛け布団と毛布を引っ張って俺と晶子に被せる。年末年始に揃って寝込んだら笑い話にもならない。
 続いて、ぐったりしたままの晶子に、掛け布団の中で乱雑になっている毛布をかけて抱きよせる。こう表現するだけだとスムーズだが、俺自身体力が殆ど残ってないから少しずつしか出来ない。それも、まずは晶子の頭、続いて上半身、といった具合に順々にずらすように動かすしかない。

「寝た…か?」
「まだ…何とか…。」

 声は出るものの、自分で身体を動かすだけの余力も残ってないようだ。そこまでしたのは他ならぬ俺だから文句は言えない。

「今日も…凄かったです…。」
「終日休みだから…体力が普段より多めに残ってるせいかもな…。」

 講義三昧だった時期と同じように朝から夕方まで研究室に行って卒研をして−最近は他のテーマの相談や助言・指導の方が多い−、帰宅して程なくバイト先に直行して4時間立ち作業をする生活だと、それなりに体力を消耗する。立ち作業は十分慣れたから気が付いたら閉店時間といった感じだが、やっぱり体力を消耗することには変わりない。
 卒研も体力勝負の面がある。実験中はまだしも測定器を据え置いたり配線をしたりといったことは、立ってするのが原則。測定器の数には限りがあるから使い終わったものは元に戻す必要があるし、測定器自体そこそこ重さがある。
 実験データの解析や討論も体力を使う。重いものを運んだりといった直接的な、分かりやすい形じゃないが、同じ姿勢で長時間ああでもないこうでもないと考えたり、現状での結論や方針を出すために討論するのは、結構体力を使う。
 クリスマスを境に大学もバイトも休暇に入った。大学の方は、卒研が遅れている学部4年はお構いなしに詰めざるを得ないが、卒論の執筆に着手している俺は、圧倒的な進捗具合と夏の学会発表もこなした成果から、休んで良いどころかむしろ休めと後押しされている。
 休暇を後押ししたのは先生と院生であって、俺を当てにしている学部4年は来てもらわないと困ると口々に言ったが、卒研を碌に進められないのは単位取得具合の駄目っぷりと自覚に欠ける怠惰な卒研生活のツケであって、安藤君の休暇に口出しする資格はない、と野志先生が一喝した。
 加えて、学部4年が休んでいた夏季休暇の期間、俺が土日も含めて連日研究室に来て卒研を進めたこと、その成果が公式の学会のデータベースにも登録されるファーストオーサー(註:学術論文における筆頭著者のこと。論文の問い合わせや引用回数は主にファーストオーサーの責任や実績となる)の論文にもなったこと、その分の休暇として年末年始を休むのはむしろ足りないくらいであること、年明けの第3回中間発表で俺の成果に迫ろうとせずに学生実験と同様に依存のみというのは卒研に取り組む学生として論外だ、と説き伏せた。
 ぐうの音も出なくなった学部4年には、年明け最初の月曜から通常どおり出て来ること、それまでに現状の課題や問題点をまとめておけば可能な限り対応する、とフォローしておいた。希望を見出したのか項垂れていた学部4年の顔が明るくなったのは良かったのか悪かったのか。
 年明け最初の月曜日は2日だが、それはまだ年末年始の最中だから、来年最初の研究室出勤は9日が正確。今日が29日だから10日以上ある。これだけ長い休み、大学もバイトも休みなのはこの前の年末年始以来か。否、春の京都旅行以来か。
 卒研生活の始まり、就職活動、結婚に引っ越しと色々なイベントやアクシデントを駆け抜けてきたから、振り返ってみると長い時間を駆け抜けてきたことが分かる。大詰めを迎える卒研生活、ひいては学生生活の最後を前に少しばかり充電期間を設けても罰は当たるまい。

「ぎゅっ、ってしてください…。」
「ん?…こうか?」
「はい…。温かくて…優しい…。」

 横向きで抱き締めると、晶子は身体を擦り寄せて来る。抱き締められて安心したことで一気に疲れが出たのか、そのまま寝息を立て始める。本当に晶子はスキンシップを好むよな…。もっとも俺はこうして晶子の身体の感触を堪能出来るから全く不満はない。
 流石に俺も眠くなってきた。20代前半、しかも大学生なのに多くを家で過ごして安寧を感じるなんて若者らしくないかもしれないが、こういう時間も必要だと思う。そう思う時点で年寄りじみてるのかもしれないが、それも家庭を持ったが故のことなんだろうか…。
 時は緩やかに、でもあっという間に31日。今年も残り1日。正確に言えば残り12時間を切っている。家の大掃除と今年最後の買い物は昨日までに済ませてあるから、急ぐ理由は何もない。
 リビングに出来た穏やかな日だまりの中、俺は晶子に膝枕をされている。その晶子は本を読んでいる。俺の頭の近くには晶子が読んでいるものと同じシリーズが2冊あるから、日差しがなくなる夕方頃まで続ける気満々と見て良い。
 俺はと言えば、寝たり起きたりを繰り返している。元々それほど朝が強い方じゃない。普段は大学に遅刻出来ない−コアタイムはないし卒研は十二分に進んでいるから重役出勤でも構わないんだが−、バイトを休めないと気が張っているせいか相応に起きられるが、その張りがなくなったことで眠気を引き摺っている。
 寝心地は申し分ない。硬すぎず柔らかすぎずで俺の頭の動きに柔軟に対応するし、高さも丁度良い。こういう時しか穿かないスカートの生地がさながら枕カバーと言ったところだ。この寝心地に文句をつけるほど感覚は狂ってない。
 この生地1枚を隔てたところに晶子の生足があるという思考が時々、否、頻繁に生じる。主に後頭部に伝わる感触もこの足のものだと思うと、その思考は膨張の度合いを強める。何せ付け根に近いところが枕になるから、そっち方面の思考が生じやすい。
 ふと上を見ると、セーターに覆われた胸がある。晶子が下を向かない限り晶子の顔のほぼ全てを隠すほど隆起しているそれは、この体勢が夜に晶子が上になった時に近いのもあって、足と同等以上にそっち方面の思考を加速させる。
 だが、その先へ進めないのはそれなりに晶子への思いやりがあるからだ。膝枕は晶子の厚意によるもの。思考を現実化するのは、その厚意を踏み躙るようなもんだと思う。だから、思うだけに留める。この手の思考を継続させるのは簡単だから、その分夜が激しくなる。でも、今日は大晦日だから流石に…。どうしたもんだか。
 それにしても気持ち良いな…。陽だまりは暖かくて暖房も要らないくらい。膝枕は良い感触だし。今まで溜まっていた疲労が眠気となって絞り出しているような気がする。年明けは卒研の追い込みと他のテーマの面倒が一気に始まるから、今のうちに疲労を根こそぎ取っておくのは良いな…。

 夜。リビングのテーブルに重箱が置かれる。中には鳥の唐揚げや酢の物、肉じゃがなど色々な料理が詰まっている。これは晶子が作ったオリジナルおせち。どうもおせちと言うとあまり食べる気が起こらないものを連想するが−食べ物自体が希少だった時代には豪勢だったんだろうが−、これは弁当の拡大版といった感じで馴染み深い、食べやすいメニューで構成されている。
 それに加えて、テーブルには年越し蕎麦も置かれている。店で食べたら2000円くらいはしそうな蕎麦定食みたいだ。蕎麦はカツオ出汁をベースに醤油と塩−醤油と塩の辛さは違うらしい−で作った汁に、生姜の擦りおろしと刻みネギが乗っている。これらは晶子が冷蔵庫に常備している薬味で、冷凍庫に保存されている。
 風変りな、でも食べやすくて美味いおせちと年越し蕎麦の組み合わせは、晶子が年末年始の料理の手間を減らすため。晶子は申し訳なさそうに提案したが、元々おせちは年末年始にかまどの神に感謝するためと年末年始くらい料理を−かまどに火を起こす時代は重労働だった−休むために生まれたものだから、全面賛成した。
 それに、まだ1週間も経ってない結婚報告パーティーを豪華に彩った料理を構想から手掛けたのは晶子。あのメニューの数と量を実現するために、前日から尋常じゃない量の仕込みをして、当日はドレスを着る時間が実質写真を撮る時くらいになるほど料理に勤しんだ。それを労うために年末年始の料理を休むくらい安いもんだ。

「蕎麦もいっそ休んでも良かったのに。」
「汁は出汁を取れば簡単に作れますし、薬味は作り置きがありますから。それに、大きな区切りの食べ物ですからね。」
「区切り、か。確かにそうだな。」

 結婚して引っ越して初めての年末年始。旅行へ行くでもなく、初詣に行くでもなく、ましてや双方の両親の家−実家という表現はどうも違和感を覚えるようになった−に赴くわけでもない。2人きりで迎えるゆったりした年の瀬。夫婦として過ごす最初の年の瀬を迎えるに際して、年越し蕎麦は彩りを添えてくれる。
 では今年最後の夕飯。重箱から料理を小皿に取り、蕎麦と並行して食べる。出汁が効いた蕎麦は美味いし、おせちは冷めても美味い。弁当の発展版のようなものと捉えれば、今まで弁当を作ってくれている晶子なら、買いこんだ食材をふんだんに利用すればさほど苦じゃないだろう。
 リビングは静まり返っている。外から音らしい音は聞こえて来ないし、BGMも流していない。特に静粛にしようと決めたわけじゃないが、何分慌ただしい時間を過ごして来たから、2人きりで居ることを感じたいという気持ちが、音を排除する方向に働いているんだろうか。
 おせちは昨日の段階で重箱を隙間なく埋めるほどの量がある。晶子の見積もりでは、3日まで持つそうだ。特段身体を動かしたり、おせち以外は何も食べないわけじゃない−クッキーなどは普段どおり作り置きがあるし、紅茶などは常備している−から、その見積もりで十分だろう。
 食べ終わって、取り皿と丼をキッチンに運ぶ。数が少ないから、と晶子が片付けを全てする。俺はその間、紅茶とクッキーを準備する。引っ越しから2カ月。どうにか俺も新しい収納場所に馴染んできた。それでも時々「何処にあったっけ」とキョロキョロすることもある。
 暖房は入れているが、それでも身体の芯から生じるような冷え込みは完全には消せない。気候の違いが生み出す体感温度の相違と人工的に作る気温との乖離は、この時期暖かい飲み物で一時的に解消出来る。寝る前にカフェインは禁物だが、少なくとも今日は気ままに起きていて良い日だ。
 眠気覚ましも考えて、ミントを淹れる。鼻通りの良い芳香が沸かしている段階からキッチン内に広がる。紅茶を淹れる間にカップとクッキー用の皿を出しておく。洗い物を済ませた晶子が交代を申し出るが、紅茶は沸かしている最中だし、クッキーの場所は分かっているから辞退して、リビングに行ってもらう。
 程なく紅茶が出来る。コーヒーメーカーのポット部分と取り出し、クッキーを入れた皿とカップを載せたトレイと一緒に運ぶ。このくらいの重さのものは、バイトで運び慣れているから楽だ。リビングで待っていた晶子は、俺が膝を降ろした自分の席の隣に移動する。
 配膳を済ませて紅茶を注ぐ。湯気と共にミントの芳香が立ち上る。準備が整ったところで、晶子とカップを合わせる。ホットミルクとの組み合わせが続いていただけに、夜にこうして紅茶を飲むのは何だか新鮮に感じる。
 まだ完全に把握しきっていないが、鷹田入には寺社仏閣の類はないようだ。鷹田入は合併前から新京市ではあるが、ずっと山林で住宅地になったのは20年ほど前らしい。それが一気に開けて市内有数の高級住宅街になったんだから、土地の所有者はびっくりしただろう。
 そんな住宅だらけの場所だから、除夜の鐘は聞こえない。一応運んできたTVはリビングの片隅で黒1色の長方形を晒しているだけ。何時の間にやら俺の肩に凭れて、紅茶を飲むのはそこそこに俺の左腕に手を回して安らぎに浸っている晶子を横目に、少しずつ紅茶の味と香りを楽しむ。今までの生活を考えるととことん贅沢な過ごし方だ。
 紅茶を飲み終わる頃にはすっかり冷めていた。鼻詰まりも貫くような独特の芳香もやや弱まっていた。晶子の紅茶も殆どなくなっているが、俺が見る時には必ず俺に凭れて左腕に半ば抱きつくような姿勢になっている。紅茶がなくなっているから寝てはいないようだが、顔が伏し気味だから確認は難しい。

「…寝るか?」
「嫌です…。もっとこうしていたいです…。」

 心地良さに浸りきる口調ながら、寝ることに対しては単純明快に拒否する。晶子が「嫌」と拒否を明確にすることはあまり多くない。俺との生活では記憶の抽斗を漁らないと出て来ない。ある意味切り札と言える「嫌」を持ち出してでも寝ることを拒否するだけの心地良さに、晶子は頭のてっぺんまで浸っている。
 リビングの南側の柱には、晶子の旧自宅から持ってきた小さな壁掛け時計がある。黒の文字盤に白の文字のコントラストが映える時計は、11時半を通り越して12時まであと5分を切っている。紅茶はどちらもなくなったが、晶子が俺の左腕に抱きつくような姿勢を続けているのは変わりない。このまま年越しになるのは確定と見て良いだろう。
 そこそこ残っているクッキーを摘まみながら、壁掛け時計の静かなカウントダウンを見詰める。時計ってもんは、見詰めている時は物凄くゆっくり進む。今まで時計を見詰める機会のない時間を過ごして来たから、これ見よがしに時間の推移を見せつけているんだろうか。
 時計の3本の針が全て真上を向いた位置で重なる一瞬を迎える。晶子と過ごす4回目の年越しは、夫婦として過ごす初めての年越し。そして、予想外に静かで落ち着いた年越し。今年、否、もう去年になった1年も本当に目まぐるしかったが、それを乗り切ってあり余るように感じる時間を晶子と2人で過ごせている。

「晶子。あけましておめでとう。」
「おめでとうございます。」

 寝入っているかと思って独り言の様に言ってみたが、晶子は殆どタイムラグなしに顔を上げる。普段ならまだ起きている時間だし、肉体労働の面が意外と強い料理を伴うバイトがないから体力的にはまだ余裕があるが、安心しきったことで寝入ったとしてもおかしくない。

「眠かったら寝て良いからな。」
「平気です。」
「分かった。ちょっとの間だけ離れてくれ。」

 晶子が今の体勢を継続する意志満々なのを知って、俺は一旦席を立つ。北隣の寝室へ入り、ベッドから1枚毛布を取り出してリビングに戻る。座る前に毛布を横長に構えて後ろから羽織り、座るに併せて晶子に頭から被るようにかける。

「これでどうだ?」
「温かい…。嬉しい…。」

 晶子は感激さえした様子で、これまでより身体を密着させる。今は冬真っ盛り。暖房を点けてはいるが、これから更に夜が更けると身体の芯からの冷えはどうしても生じて来る。折角の年末年始の休暇を2人揃って寝込んで過ごすなんて馬鹿馬鹿しい。こうすれば体温との相乗効果で温かいし、晶子とは密着出来るし、良いことづくめだ。
 カーテンを閉めているから外の様子は窺いしれない。新聞は取ってないし−何処からか嗅ぎ付けて来たがオートロックを利用して追い払った−、TVも見てないから天候の推移は見通しも分からない。だが、出かける予定もないし、明日の天候を見据えて行動する必要もない今、敢えて外を見る必要はない。
 緩やかに流れていく一方の時間を、俺は晶子と1枚の毛布を被って過ごす。貧乏くさいかもしれないが、穏やかで静かで温かくて…幸せな時間。俺の理想だった幸せの光景と、晶子の理想の幸せの光景が一致しているからこそ実現出来た、ささやかかもしれないが貴重な幸せの時間を噛み締める…。
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