雨上がりの午後

Chapter 308 夢と歩みの1つの結実

written by Moonstone

 俺と晶子は新京市市役所を出る。予想していた達成感や満足感は今のところ殆ど湧いてこない。代わりに安堵感が包んでいる。昼下がりの空は青くて高い。
 10月10日。この日俺と晶子は予定どおり新京市市役所に婚姻届を提出した。前日まで行動は極力2人同時にして、婚姻届は念のためマスターと潤子さんに預かってもらっていた。双方の両親への結婚報告が完全に物別れに終わったことで、世間体を気にする両親が俺や課晶子を強制送還しようとする可能性があったし、そこで婚姻届の存在を知られたら、無事で済むとは思えない。
 幸いにも今日に至るまで何もなく、昼休みに大学で待ち合わせて市役所へ赴き、婚姻届を提出した。提出して記載内容に誤りがないことなどを確認されて、無事受領された。住所はこの間無事契約に至った新居にしておいた。ついでに住民票の変更もした。何かと書類を書くのが面倒だった。
 これで俺と晶子は晴れて正式に夫婦となった。だが、まだ実感は湧かない。今までも実質夫婦という扱いだったし、ここ半年ほどは一緒に住んでいた。晶子は4月から大学で安藤姓を使っているし、今日婚姻届を提出したことで明らかに変わったことは俺にはない。
 対する晶子の横顔は弾んでいる。今までは通称という扱いだった安藤姓を堂々と使えるようになった。俺と一緒に住むにしても、正式に夫婦となったことで「何がおかしい」と反撃出来る。将来的な結婚の予約−文字どおりの婚約−の証だった指輪は紛れもない結婚指輪になった。晶子にとっては間違いなく今日10月10日は大きな転機となったようだ。

「終わりましたね。」
「ああ。」
「祐司さんと出逢って3年。祐司さんに指輪を貰って2年半。大きな節目を迎えられて本当に嬉しいです。」
「今日までの経緯で、晶子が結婚にひたむきになっていたもう1つの理由が分かったような気がする。…井上姓と決別したかったんだな。」
「はい。」

 晶子が改姓を望んでいたのは、単に結婚したことを意識の根幹に植え付けるためだと思っていた。それだけじゃなかったことは晶子の実家を訪ねて分かった。あの実家に居ること、あの家族の一員であること、あの地域の住人であること全てと決別するためだったんだと。
 閉鎖的で役割が生まれた時から固定化されている社会。女性が単身地域を離れて地元以外の大学に通うことが非常識のように思われ、親兄弟や親戚の監視の網が張り巡らされている。前の恋愛を引き裂かれたことを逆手にとって単身新京市に移り住んだことを契機に、晶子の中で地元との決別の念が生まれたんだろう。
 結婚すれば決別はよりしやすくなる。夫の仕事、と言えば地元への帰還はより避けやすい。遠くに住めば休みが取れないとか費用がかかり過ぎるとかの理由で帰還要請をより却下しやすい。そのためには、移り住んだ先で結婚相手を見つけてその相手について行くことがより条件を整えやすい。
 もっとも、晶子がそこまで深く考えていたとは思えない。元々単身で移り住んだ際に結婚相手を見つけてから戻る、と両親に言ったそうだが、その目標を早々に実現することと、自分の夢である子どもを産み育てることの両立へと動いていたと思う。
 安心して子どもを産み育てるには、金遣いが荒いことや浮気性は除外することが必須。俺と出逢った時は前の彼氏である従兄と似ていたことで、寂しさを紛らわせることが先行したが、割と、否、相当な短期間で新たな恋愛感情が芽生え、急速に成長させた。その結果が指輪であり、今日提出した婚姻届となって結実した。

「祐司さんは、大学に戻ってから普段どおり卒研をするんですよね?」
「ああ。中間発表が近いからもう少し進めておきたいし。」
「私はコアタイムが過ぎたら先に帰りますね。引っ越しの準備をしたいですし。」

 俺と同様卒研以外の必要単位を全て抑えている晶子は、卒研をかなりの余裕を持って進めている。一応就職活動が終息したことでゼミの卒研がようやく本格化する中、晶子はかなり先を進んでいるらしい。その分出来た余裕を引っ越しの準備に振り向けている。相変わらずギスギスした雰囲気のゼミより引っ越しの準備の方が、晶子にとって楽しいのは想像に難くない。

「マスターと潤子さんへの連絡は、祐司さんからお願い出来ますか?」
「分かった。バイトに行く時に改めて2人揃って挨拶しよう。」
「はい。マスターと潤子さんがどんな反応をするか、今から楽しみです。」

 婚姻届にはマスターと潤子さん、この場合は渡辺夫妻が深く関与している。証人として2人が署名と押捺してくれたし、双方の両親への結婚報告から今日までは保管してもらっていた。昨日のバイトが終わってから返却してもらったが、報告を楽しみにしていると言ってくれた。
 渡辺夫妻には、契約が成立した新居の保証人にもなってもらっている。自分で言うのも何だが、所詮バイトの身分である俺と晶子に此処までしてくれるのは、相当の信頼があってのことだと思う。その信頼を反故にするようなことはしちゃいけない。保証人の制度そのものは疑問だが、そういう信頼関係の後ろ盾があるという証明を求めているのかもしれない。
 晶子は今すぐにでも婚姻届を提出したことを渡辺夫妻に報告したくてうずうずしてるだろう。それをせずに敢えて俺から連絡するよう依頼するのは、俺と晶子で始まる安藤という1組の家族の代表者が俺だから俺から連絡するのが筋と思ってのことだろう。いちいち確認するようなことはしないが、京都旅行の頃から意識するようにしている俺と晶子の役割分担に基づいているのは分かる。
 俺と晶子は新京市駅に向かう。少々慌ただしい昼休みだったが、目的は十分達成出来た。これくらいで忙しいとか言ってちゃいけない。少なくとも引っ越しが全て終わって新居で落ち着いた生活が出来るようになるまでは、することはたくさんある。報告も渡辺夫妻だけじゃない。

「ほうほう。それはそれはおめでとうございます。」
「ありがとうございます。」

 渡辺夫妻への電話での報告を終えた後、俺が向かったのは久野尾先生の居室。呆気ないほどあっさりと就職活動が終わり、晶子との結婚に振り向けられたのは、就職先を紹介してくれた久野尾先生の力が大きい。久野尾先生にも報告しておくのが筋ってもんだろう。

「次の中間発表まであと1週間ほどですが、すこぶる快調な様子。プライベートも充実していて良い相乗効果を生みだしていますね。」
「どちらにも恥ずかしいことは出来ないと思っています。学生の分際で結婚してるから卒研がおざなりになっているとか言われたくない、と。」
「気負い過ぎるのはよくありませんが、責任感が良い方向に働いているのは分かります。これほど卒研のテーマが快調なのは久しぶりのことですし、今の安藤君を見たら婚姻届の提出に至ったことを悪く言う理由は嫉妬以外は見当たらないですよ。」

 卒研はどんどん進行している。勿論実験後の検証や打ち合わせで調整や修正・変更は頻繁にあるが、システム自体は完成にかなり近づいてきている。夏休み中の進捗が予想を大幅に超えるものだったことが大きい、と大川さんが言っていた。事実、9月にあった大川さんの修論発表は非常に好評だったそうだ。
 今は俺の卒研と大川さんの3月末の学会発表により良い結果を出せるように、更にシステムを煮詰めてより良いものがないか模索しているところだ。システムをある目的に特化させるか−例えば駅構内や電車のアナウンスと音楽演奏で分けるかなど−、色々な場面で使える汎用的なものを目指すか、それによっても詰める方向性が変わってくる。
 俺で言えば1年の卒研で全てが終わるわけじゃない。大川さんとの打ち合わせで、音楽演奏に特化する方向で進めて、それ以外の方向性については来年度以降の担当者に委ねることが決まっている。信号処理を全てFPGAで完結させるシステムを固めておけば、どんな処理をするかは後で自由に変更できる。
 最後の年度の後期に入ったとはいえ、研究室の学部4年の卒研はようやく本腰が入り始めた感じがある。理由はやはり単位の取り零し。前期分で全て取ったとはいかず、選択も含めて最後の最後まで引っ張る羽目になっている人の方が多い。流石に追試やレポートの提出で卒業はさせるだろうが−内定していて留年は大学の教育体制も問われるらしい−、その分卒研の進捗が低下するのは否めない。
 俺はもう教員免許関係と国家試験関係の選択講義以外しか取っていないし、単位数は必須も選択も十分満たしているから行かないという選択肢も取れる。合わせて週2回2コマだから割く時間はたかが知れているし、語弊があるかもしれないが気分転換にもなる。それ以外は卒研に専念出来る。

「家はどうするんですか?」
「近々引っ越します。新居の契約は済んだので準備中です。」
「その辺も進行中ですか。余計な心配でしたね。」

 久野尾先生はひと呼吸置く。

「安藤君が卒業に必要な単位は卒研だけですし、その卒研も研究室では5年ぶりの学部生の学会発表に持ち込んだことも含めて、現状でも十分単位を出せるレベルです。大川君と相談の上で卒研そのものを書き始めても構いません。早めに完成させれば、その分新居での生活に慣れられるでしょうし。」
「ありがとうございます。」
「これからは結婚記念日が1年のうち最も重要なイベントになりますよ。かく言う私はつい遅くなってしまって、家内に叱られることが多いんですが。」

 そう…だな。晶子の要望もあってこの日10月10日を婚姻届の提出日に選んだが、今日からこの日は結婚記念日になる。忘れることはない。3年前。宮城と破局したショックで酔い潰れ、最悪の気分で目を覚まして出向いたコンビニで晶子と出逢った日。ささやかで良い。必ずこの日は家で晶子と祝えるようにしよう。今日から…。
 夜。何時ものとおりバイトをして「仕事の後の一杯」。まだ胸の高鳴りが収まらない。バイトそのものは何時もどおり慌ただしく動いているうちにあっという間に過ぎ去った。事件はリクエストタイムが終わる頃に起こった。最後の曲を終えてステージを降りようとした俺と、1つ前にステージを降りていた晶子が、ステージに上がったマスターに呼ばれたところでもしや、とは思ったが…。

突然ですが、此処でお客様にご報告したいことがあります。
本日、安藤君と井上さんは婚姻届を提出して、晴れて正式な夫婦となりました。

 店内は阿鼻叫喚。全体として男性は衝撃、女性は驚愕という感じだった。一言ずつ求められたが、マスターの紹介に少し飾りをつけるくらいが精いっぱいだった。マスターの音頭で客席から大きな拍手が起こったが、俺を見る男子中高生の視線に最大限の殺意が篭っていたように見えたのは、気のせいだとは思えない。

「大きな節目を迎えられて良かったわね。」
「はい。明らかに分かる変化がないのがほんの少しだけ残念です。」
「これから徐々に出て来るわよ。自分達は夫婦なんだ、って実感がわくことがね。」
「公的な場に出たり、その手の書類を出す時が大きいかな。夫婦だと分かると対応が変わることもあるよ。」

 夫婦関係の先輩でもあるマスターと潤子さんの話は、恐らく実体験に基づくものだろう。4月から働く際にも色々手続きがあるらしいが、そこでも所帯持ちだと書類が増えたりするだろう。実際色々手当もある。
 夫婦になったからと言って全てが完了したわけじゃない。一緒に暮らして1つの家庭を営んでいって夫婦として確立していくんだと思う。それが分からずに結婚がゴールと考えると、その後の生活が価値観の衝突や擦れ違いばかりになって、挙句離婚と相成る。付いた離れたが簡単に出来るから、離婚もそんな感覚なんだろうが。
 生活に関しても、今のところ結婚前後で変化はない。晶子は俺の家で寝起きしてるし、洗濯ものは2人のものが混在してるし、食事も食べられる機会には2人で食べている。家の表札は防犯の観点から「安藤」のままだから、これからと同じ。引っ越しても大きな変化がある見込みはない。
 晶子が既成事実を着実に重ねてきたことで、俺と晶子が夫婦関係という事実は定着している。だが、それはこの店の客と大学関係、それと一部の友人のみ。これから俺が就職して働くようになって、新居で夫婦として生活をしていくことで、限定的な範囲で通じる事実婚から広範囲で通じる公的な夫婦関係へと知られる範囲が変わることが大きいんだろう。

「晶子ちゃんは変化の実感が大きいことが出て来るでしょうね。色々な場に出ていくと、誰誰さんの奥さんって呼ばれるようになるから。」
「そうですよね。それが楽しみなんです。」
「晶子ちゃんの様子だと、安藤さんって呼ばれても即答出来そうね。私は半年くらい呼ばれても自分のことだって分かるのに時間がかかって…。」
「それもこれから堂々と返事できますから、楽しみなんです。」

 晶子と潤子さんが俄かに盛り上がる。呼ばれ方の変化は大きな共通事項だ。前々から地道に周知徹底させてきたことで安藤姓で呼ばれることには慣れていると思ったが、よく考えてみれば大抵井上姓で呼ばれていた。4月からは所属ゼミで安藤姓を使っていたが、あくまでも通称の範囲を出なかった。
 今日から名実共に安藤晶子になったから、これから呼ばれる時は「安藤さん」とか「安藤さんの奥さん」となる。それが晶子にはたまらなく待ち遠しいようだ。実家や地域と決別するために井上姓を早々に捨てたかった、そのために安藤姓を以前から使おうとして来たんだから、早く安藤姓で呼ばれたいと思うくらいなんだろう。

「そういえば、携帯のプランで戸籍謄本の写しとかを提出しに行かないといけないな。」
「ああ、まだ結婚してなくても将来結婚すればそのまま継続出来るプランを契約してるんだったね。早めに行くと良い。」
「あと、警察へ免許証の変更もね。色々役所関係に提出したりすることがあるから、それで結婚したって実感がわいてくるわよ。」

 本当に色々とすることが出てくる。引っ越しでさえ契約までに何度か店舗に行ったり提出物を準備したりしたから、個人の姓が変わる結婚となると尚更なのは当然と言えば当然だが。おざなりには出来ない。変更することが多い晶子に依存することなく、協力と分担で進めていかないと…。
 結構盛り上がった「仕事の後の一杯」の後帰宅。電灯を点けて1日の締めとして風呂と寝る準備、そして「お疲れ様」の準備をする。俺が風呂と寝る準備、晶子が「お疲れ様」−晶子手製のクッキーあたりを摘みつつホットミルクを飲む−の準備を主に担当する。俺の準備は風呂だと軽く洗ってから湯船に栓をして給湯器のボタンを押すだけだし、寝る準備はベッドを整えるくらいだからすぐ終わる。
 俺が準備を終える頃、晶子はキッチンからトレイを運んでくる。テーブルに並べられたのはホットミルクが入ったカップと…生クリームの白と苺の赤のコントラストが映えるシンプルなショートケーキ。ケーキを作っているところは見てないから、今日買って来たんだろう。

「ケーキ、買ってきてたのか。」
「はい。大学から帰ってから、ゴルト・クルミで買って来たんです。」
「ゴルト・クルミ…。ああ、あの洋菓子店か。」

 互いの誕生日やクリスマスといった2人に共通するイベントでケーキを買う際に利用する店がゴルト・クルミだ。胡桃町の大型ショッピングセンターに通じる大通りに隣接している。胡桃町の俺の家がある地域は比較的新しい新興住宅地だが、ゴルト・クルミは以前から開けていた地域にある。
 以前から開けていたところにあるだけあって、歴史は長い。以前に店のWebページを見たが、開業80年にもなる有数の老舗だったりする。当時からケーキを中心とする洋菓子店だったわけじゃなく、「らしい」というか和菓子店からスタートしたとあった。それでも80年も続けば十分老舗の域に入るのは間違いない。
 老舗となるほど続くには相応の理由がある。何と言っても美味いことだ。新京市は町村合併の産物だが、それ以前の旧町村はそれぞれ長い歴史がある。現在の新京市の中心を形成している胡桃町に開業当時からの立地で営んでいるから、旧町村時代からの住民なら誰でも知っている。
 旧町村時代からの地元密着の知名度に高い評価の味が加われば、多少遠かったり不便だったりしても人は訪れる。目の前にある苺ショートなど数種類の定番を基礎に、頻繁に変わる品揃え。季節のフルーツや地元産の卵などを使った品。話題性にも事欠かず、色々なグルメ雑誌などで紹介される。
 とはいえ、店の方は雑誌に売り込んではいない。「取材は嘘を書かなければ好きにして良い」というかなりの放任主義だ。旧町村時代からの住民をはじめとする固定客の層は分厚いし、下手に宣伝することで俄かの客が押し寄せ、固定客が押し出されて結果離れることを防ぐためだと言う。
 この方針は俺と晶子がバイトしている店も同じだ。元々塾通いの中高生や新京市中心部のオフィス街に通う近隣のOLあたりが固定客としてあった。中高生は進級や進学で1年単位でごっそり入れ換わるが、その都度学校やクラブ、或いは塾で話を聞いて新たな固定客となっている。
 その固定客が新たな客を招き、一部が新たな固定客としてまた別の客を誘ってくる、という口コミ中心のネットワークで店は着実に固定客を増やした。比較的裕福な家庭が多いせいか主婦層が来るようになり−潤子さんの話では塾通いしている子どもから聞いたらしい−、それに対応する茶菓子や紅茶のメニューを加えて更に固定客を増やした。
 そういった固定客が厚い層を形成しているから、敢えて宣伝して客を招く必要はない。クーポンで一時的に客を集めても、その手の客はクーポンを使って少しでも割安に食べ歩くことが目的。だが客としてスペースを占めればその分固定客が押し出される。行き場がなくなった客は別の店に行くことも視野に入れる。それを避けるために口コミのみにしている。

「俺も何か買ってくれば良かったな。」
「私が早く帰宅したから買いに行ったんです。もう嬉しくて…。」

 嬉しさが溢れるのに買って来たのはショートケーキ2個というあたり、2人の収入だけで生活していくことへの本気の度合いが窺える。デコレーションケーキだワインだフランス料理だと言い出したら、それがブランドのバックや海外旅行だと際限なく膨れ上がる元になる。金の力で豪華に祝うことが目的になるとイベントじゃなくなる。
 実際、俺の仕送りは今月からなくなった。毎月1日に10万口座に振り込まれるものがなくて、1週間経っても音沙汰なしだから、うっかり忘れたというレベルじゃない。実質的な制裁措置だ。最後の半期分の学費は払い終えているし、生活費や引っ越し費用は今までの貯金で十分出せるから問題ないが、当面バイト代だけが俺の収入になる。
 4月から収入が一気に増えるとは思ってない。1年目は残業が少なかったり勤務日数が少なかったりで、給料もボーナスも少ないのが普通。今のバイトの収入は破格の時給のおかげでひと月17万を超える。これくらいあれば上等と思っておいた方が良いし、その金額を基準に生活を確立していくのが無難だ。日々の生活から結婚記念日が独立しているわけじゃない以上、結婚記念日の祝い方も身の丈に合わせる必要がある。

「乾杯しましょうよ。」
「分かった。」

 待ちきれないといった様子の晶子に促されて、俺は晶子と向かい合って座る。ほんのり湯気が立ち上るカップを手に取る。

「最初の結婚記念日に…乾杯。」
「乾杯。」

 テーブルの中央でカップが軽くぶつかり、軽く短い音がする。8月のホテル宿泊ではワインだったが、今日は何時ものホットミルク。だが、こっちの方がほっと一息吐ける。貧乏性ならそれで良い。金のある生活にどっぷり浸かるとそこから低い方向に変えるのは凄く難しいと言うし。
 ケーキとホットミルクは少し変わった組み合わせだが、刺激物が少ない分まろやかに感じる。ケーキは有名人気店の定番メニューだけあってやはり美味い。何時もの「お疲れさま」と結婚記念日の祝いが融合した時間は、ゆったり穏やかに過ぎていく。
 ケーキを食べ終える。ショートケーキ1個だから味わって食べたつもりでもそれほど時間はかからない。少し冷めたホットミルクを飲んで晶子を見る。晶子もケーキを食べ終え、ホットミルクを飲んでいる。…やってみるか。

「晶子。…おいで。」
「あ、…はい。」

 一瞬驚いた様子だったが、晶子は直ぐに俺の意図を理解して、カップを持ってそそくさと場所を変える。晶子が俺の前にすっぽり収まる。「お疲れ様」でもしている晶子のお気に入りの体勢だが、結婚記念日となった今日は更に特別な意味を持ったように思う。

「嬉しいです…。今日は特に…。」
「結婚記念日だからこそ、こういうことは大事かなと思ってな。」
「そういう気遣いが凄く嬉しい…。私、本当に幸せです…。」

 晶子は後頭部を俺の胸に擦り寄せる。安心しきった晶子は、ウエストに回った俺の左手を左腕で抱え込んでいる。

「今日で完全に祐司さんと夫婦になれて…、こうして一緒に祝えて一緒に過ごせて…、私が欲しかった幸せが全部此処にある…。」
「俺は、婚姻届を提出出来てほっと一安心してる。部屋に梱包済みの段ボールが増えていくのを見て、俺と晶子の生活が本格的に始まるんだな、って感じる。」
「もう直ぐですよ…。新居の生活が始まるのも…。」
「色々苦労をかけるけど…、これからもよろしくな。」
「苦労なんて…。今は何をするにしても幸せばかりです…。こんなたくさんの幸せをくれて…ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします。」

 俺はカップを置いた右手も使って晶子を抱く。晶子は深い安堵の溜息を吐いて俺に更に身を委ねる。俺は晶子に今夜のことを耳打ちする。晶子は二つ返事で快諾する。ずっと…こうしていたい。もっと…感じたい。
 目を閉じた晶子の呼吸音が規則的なものに落ち着いた。眠ったようだ。風呂に入って夜を営んだ。幸福の最中で何時も以上に乱れに乱れる晶子に触発され、俺は全力で動いた。結果、晶子は俺の飛沫に塗れて失神するように寝た。
 首を傾けて暗い室内を見る。「お疲れ様」を兼ねた結婚記念日の祝いの席は、皿もカップも片付けられてその名残もない。丁度3年前、俺が目覚めた時もこんな闇の中だったな…。あの時の室内は乱雑極まりなかった。俺が破壊し尽くした宮城との思い出の品が散乱していた。
 バイトもとっくに始まった時間だったし、遅刻してでも行く気にはなれなかった。とりあえず腹の足しになるようなものを探しに家を出て、出向いたコンビニのレジに並んだところで…晶子と出逢ったんだよな…。
 あの時、顔を合わせて驚かれたことで「何だこの女」くらいにしか思わなかった。もう女と付き合うのは御免だと思っていたくらいだし、同じ大学で、当時一般教養だったことで顔を合わせる機会が割とあったことも何らチャンスとは思わなかった。それが今では…正式に夫婦として一緒に生活してる…。
 指輪に始まる既成事実の積み重ねの結果とは言え、今日までに3年かかった。出来婚狙いならもっと早く出来ただろうが、晶子はそこまで先走らなかった。子どもを結婚の手段にするんじゃなくて、安心して子どもを産み育てる条件の1つと位置付けていた。
 それにしても指輪を左手薬指に填め続け、周囲に結婚を公言するまでして結婚したかった理由は分からなかった。そもそもどうして最初の頃にあれほど邪険にしていた俺と結婚したかったのか分からなかった。それらは全て、安心して子どもを産み育てるための環境作りの一環だったと気づいたのは、割と最近のことだ。
 目論見どおり結婚出来たのを良いことに、遊び三昧贅沢三昧するようになる女も居るが、晶子にはそんな気配は微塵もない。就職活動が全滅で終わったことで、それを機会に収入を俺に全面依存することも出来た筈だが、夏休み期間は昼から最終まで店で働いたほどだ。そうなるとは思えない。
 全てが理想的に進んだわけじゃない。結婚前の双方の両親への報告にしても、実質全て決裂だった。結果俺の仕送りは今月から止まったようだし、晶子の方も予断を許さない。だが、仕送りがなくても当面の生活は大学も含めて十分可能だし、4月からは仕送りを収入に含めることそのものが出来なくなるから、前倒しになったと思えば良い。
 晶子は結婚だけを夢見て先走り、その後は性格の不一致とか適当な理由をつけて別れれば良い、という安直なことは考えていない。子どもを安心して産み育てるために自分も経済面でも出来る限り関与しようとしている。今日の初の結婚記念日にしても今の範囲で出来ることを分かっているし、贅沢に豪華にすることが祝うことじゃないと分かっている。そういった堅実な経済感覚を持った女は意外と少ない。
 正式に夫婦になったことで全てが完了したわけじゃない。この先新居に移って俺は高須科学で、晶子は引き続き店で働き、それで得た収入を基にした生活基盤を築いていく。そして子どもを産み育てる。そうしていく過程で夫婦として確立されていく。俺と晶子はそのスタートラインについたところだ。
 晶子、よく寝てるな…。来年この日を祝う時に、「1年間色々あったけどお疲れ様。今年1年よろしく」と言い合えるように…。意外とその時、子どもも居たりして…。流石にそれはないか…。きちんと資金面の目途も立ててからにしたい、って晶子は常々言ってるし…。

Fade out...

 1週間後。ついに引っ越しの日がやってきた。荷物は昨夜使った歯ブラシと歯磨き、そしてベッドと布団を除いて全て梱包済み。家の前に横付けしたトラックに、引っ越し業者の手によって続々と段ボールとシンセ数台を含む大型家具が搬入されていく。俺と晶子は引っ越し業者に渡す現金など自分達で持つべき貴重品だけを持って家を出る。
 3年半住んだ2階建6部屋のアパート。此処で俺と晶子の黎明期からの思い出が創られた。次は夫婦として、そして家族としての思い出を創っていく。名残惜しいが思い出に浸るのはまだ早い。退去手続きに続いて新居への搬入の誘導、ライフラインの開通などするべきことはまだまだある。

「こちら、ご確認をお願いします。」
「はい。」

 部屋の奥から不動産屋に呼ばれる。俺はカーペットも取り除かれて床が剥き出しになった、昨日まで俺と晶子が住んでいたとは思えないほど殺風景になった室内の中央部で、不動産屋と向き合って座る。
 内容は退去時の確認と清算。何処を修繕する必要があるか、そのための費用はどれくらいかかるかの説明を受ける。正直、意外と費用はかからない。礼金は別としても敷金で十分賄えるくらいで、かけていた火災保険と合わせると幾分返還されるようだ。

「−このような結果です。」
「追加費用がかかると思っていたんですが、そうならなくて良かったです。」
「清掃が行き届いていたことと丁寧にお使いだったことも大きいですが、喫煙されなかったのが特に大きいです。」
「煙草を吸うと変わるんですか?」
「脂(やに)が全体に付着するので、壁紙から襖まで表面を全交換する必要が出て来ます。ガラスの清掃も含めますと大幅に変わってきますよ。」

 煙草の有無でそんなに変わってくるのか…。煙草を吸わなくて良かった。数万のことだが、何しろ今は数万はかなりの高額。戻ってくるか追加で払うかは全然違う。
 念のため気になる個所の説明を受けて、ぼったくりの様子はないので承諾の押捺をする。やっぱり自分の控えと不動産屋のために数枚押す必要があるのは、この手のお約束。不動産屋が確認して完了。荷物は既に外に運び出されているし、鍵は返却済み。これで完全に退去完了だ。
 搬入の様子を見に行き、再び部屋に戻る。押入れの中、申し訳程度にあるクローゼット、風呂やトイレ、キッチン下。何処にも何もない。完全に空になったのを確認。修繕費用を差し引いて解約する火災保険を合わせた金額は、家賃が引き落とされていた俺の口座に1週間後に振り込まれる。それは不動産屋と銀行がすることだから、もう俺がこの部屋ですることは何もない。
 不動産屋が玄関に鍵をかけ、ポストに封をする。何もかも運び出され、取り払われた部屋とはこれでお別れか…。さあ、寂寥感に浸るのはこのくらいにしておこう。新居での生活を始めるにはまだまだすることがある。俺は不動産屋に挨拶をして、引っ越し業者のトラックの方へ向かう。

「積み込み、完了しました。」
「ありがとうございます。直ちに新居へ向かいますので、そちらで搬入をお願いします。」
「分かりました。」

 トラックの後部ドアが閉じられる。外でチェックに立ち会っていた晶子と共にトラックを見送る。

「次はいよいよ新居ですね。」
「ああ。急ごう。」

 此処から鷹田入はほど近い。それはそうだ。普通電車の1駅分程度の距離だから。俺と晶子は唯一の所有交通機関、自転車に乗る。朝から引っ越し準備をしていてそのままのラフな格好で自転車で移動するなんて、本当に貧乏な新婚夫妻だ。だけど、用意された生活から自分達だけで営む生活は此処から始まるという実感が強い。
 地形的には、胡桃町から一度少し上って、そこから南方向に緩やかに下降したところ。新居は北側で道に接しているが、そういう地形だから日当たりや風通しは良好。駐車場が1階の大部分を含めて南側まで貫通していることで、南側にかなりスペースがあるのもあるが。
 だから、自転車で行くにもさほど苦労しない。このところ買い物はずっと徒歩。道のりはアップダウンがあるが、復路で荷物を持っても良い運動になると思うくらいだ。今は車輪がついている乗り物だから、少し両足を上げ下げすれば数メートルは走る。荷物も大してないから移動はずっと楽だ。
 新たな地元−旧住居とそれほど離れてないから大袈裟かもしれない−となる鷹田入。下り坂から見渡すと、やっぱり大きな家が多い。新京市有数の高級住宅街ならではの風景だ。このあたりで新築を買えるのはどんな家庭なんだろう。
 憶えたての道順で現地に到着。既にトラックが駐車していた。俺と晶子は自転車をひとまず建物東側の駐輪場の端に固めて置き、引っ越し業者を案内する。引っ越し業者には何処其処の建物の何階の○○号室という感じで伝えてはあるが、建物の構造まで把握しているわけじゃない。受け取って間もない正面玄関のオートロックを解除して、続いて自分の家の玄関を開けて1回目の搬入を誘導する必要がある。

「晶子は正面玄関を頼む。」
「はい。」

 荷物の確認とトラックや荷物の搬入の近くを通る人はそこそこ居る。その人達への注意喚起や挨拶は晶子の方が良いだろう。俺は搬入された大型家具の位置を指定したり、小型の段ボールを邪魔にならない位置に移動したり、料金の支払いをしたりする。こうした役割分担が出来るのも「1人より2人」になった大きな違いだろう。
 荷物そのものは続々運び込まれる。エレベータがあるから、大型家具や大型電化製品も2人がかりで次々運ばれてくる。俺は玄関先で出迎えて、段ボールは南側リビングに集結させて、大型家具や大型電化製品は事前に決めた場所へ誘導することを繰り返す。ものが少ないから、段ボールを集結させるよう依頼することの方が多い。
 エアコンはリビングに取り付けてもらう。東側のドアを開ければベッドやタンスの一部を置く予定の和室が繋がるから、冷暖房を出来るだけ広くカバー出来ると考えたからだ。無論電気代は相応にかかるだろうが、夏場や冬場で1万程度なら何とかなる。
 冷蔵庫はコンロの反対側に、洗濯機は洗面所脇の専用の場所に設置してもらう。これらは実質置く場所が決まっている。冷蔵庫は明らかに「此処に置け」と言わんばかりに高い位置にコンセントがある。よく考えてみれば、冷蔵庫で電源ケーブルが長く伸びているのを見たことがない。常時稼働するものだから電源が抜ける可能性は極限まで少ないに越したことはない。

「搬入、終わりました。」

 引っ越し業者のリーダー格らしい人が言う。段ボールの数は搬出した数と一致してるし−それほど数がないから数えて記憶するのは楽−間違いないだろう。念のため、晶子が上がって来てから完了とすることにする。

「祐司さん。全て運んでもらいました。」
「分かった。」

 程なく戻ってきた晶子の確認があったから間違いない。トラック傍に居たのは荷物を降ろし損ねてないか確認するためでもある。まずないとは思うが、引っ越しのどさくさに紛れて荷物を持ち出さないとは限らない。それに、通りがかりの盗人がふと眼を離した隙に持って行かないとも限らない。
 悲しいかな、今は「やった者勝ち」な部分が目立つ。何か悪さをしても逆に罪をなすりつけようとしたり、謝罪だ賠償だと叫び続けてごね得することも多い。それらを解決することは可能だが、無駄な時間と労力を割かれる。そうならないように自衛することで、言い換えれば悪さをする奴は直ぐ傍にいるという認識で居た方が良い部分がある。

「以上、ですね?」
「はい。これで完了です。ご利用ありがとうございました。」
「「「ありがとうございました。」」」

 携わった4人全員が、一斉に帽子を取って俺と晶子に一礼する。重量物でも最高2人で運搬するだけあって体格が良い男性が4人一斉に礼をするのは、結構威圧感がある。料金は荷物の少なさもあって割と安かったし、搬出から搬入まで一貫して丁寧で手早かった。俺と晶子は引っ越し業者を揃って玄関先まで見送る。

「此処まで来ましたね。」
「ああ。改めて全体を見ると…、本当に俺と晶子の荷物は少ないな。」

 実質定位置があるエアコン、冷蔵庫、洗濯機を除いて、荷物らしい荷物は俺と晶子のデスクとそれぞれのノートPC、食卓になる炬燵机、俺のギターとシンセサイザ関係、幾つかの棚くらい。他は衣服や書籍を詰め込んだ段ボールで、1部屋あれば余るくらい。1LDKが2LDKへと計算上1部屋増えただけだが、随分閑散としているように思う。
 だが、ものが溢れるほどあるより、こういう方が生活が始まるという実感がわいてくる。何もかも揃っていたら買い換えたり揃えたりする楽しみがなくなるし、お膳立てされた夫婦生活はどうも違和感がある。敢えて学生期間に婚姻届を提出した身で、何もかも揃っていると思う方がおかしい。
 手分けして梱包を解いて収納する。重要度が高いものが優先で、それは衣食住に関するもの。特に食関係はものが多くてかさばる上に、早々に冷蔵庫に仕舞わないと傷んでしまう。食器類は持ってきた食器棚に、料理器具類はキッチン下の収納部分に、食料は冷蔵庫に入れていく。
 今回の引っ越しで懸案だったのは、実は食料の運搬だった。引っ越しで当然冷蔵庫の電源は切れる。運搬時に養生はなされるとはいえ、まだ続いている残暑の中、短距離でも密閉されて空調がないトラックの中に置けば腐る可能性がある。かと言って自分達で運搬するのはちょっと想像出来ない。どうしたものかと渡辺夫妻に相談した。
 流石は先輩格。すぐさま解決策を提示された。それは「クーラーボックスを使うこと」。魚を1匹買って運搬するなどの際に重宝するそうだ。氷や保冷材をひたすら突っ込めば良いし、それで1日くらいは十分持つ。1つ適当な大きさのものを持っておくと良いと言われて、貸与を辞退して大型ショッピングセンター内にあるホームセンターに買いに走った。
 食材の収納は、利用頻度が圧倒的に高い晶子に任せているが、見た感じクーラーボックスで運搬した食材はきちんと保たれている。当面使うことはないだろうが、収納しておけば良い。それに、渡辺夫妻と同じく魚1匹買うこともあるから、特に夏場に急いで帰る必要もなくなるだろう。
 キッチン回りに続いて他の水回り、すなわち洗面所と風呂場、そしてトイレの整備をする。これらも今日から使えないととても困る。これらは整備と言っても必要なものを置いたり収納したりすることと、水がきちんと出ることを確認することくらい。水道は先に連絡してあるからスムーズに進む。

「少し休憩しましょうか。」
「そうだな。最低限必要なことは済んだし。」

 炬燵机がポツンと置かれただけのやたら広く感じるリビングで、晶子が淹れてくれた紅茶を飲んで休憩。付けたばかりのカーテン越しに差し込む日差しは、午前なのもあってか柔らかく感じる。こうしてみると、明らかに旧自宅より日当たりは良い。東西方向に広いのが大きいかな。
 徐々に俺と晶子の新居に姿を変えつつある新居は、喧騒とはかけ離れている。車の音も子どもの声も聞こえない、静まり返った室内。まだ炬燵机以外何も置かれていない部屋で紅茶を飲んで休憩する今は、すごく優雅で贅沢な時間の使い方のように思う。

「部屋の使い方はどうしますか?」
「選択肢は基本このリビングに置くか、北側の部屋に置くかだよな。」
「はい。方針くらいは決めておいた方が良いかな、と。」

 和室は寝室に決まったから、他の荷物を置く場所は実質リビングか北側の部屋になる。俺のシンセサイザ関係の他に書棚やデスクがある。数は多くないが、図体がそれなりに大きいから事前に決めてから動かさないと労力が2倍3倍必要になる。まだキッチンと水回り以外ほぼカオス状態の今は、配置をきちんと決める絶好の機会だ。

「北側の部屋に俺のギターやシンセサイザ関係と書棚をまとめて、リビングには極力何も置かないっていう案と、リビングと北側の部屋に均等配置する案かな。」
「本は必要な時に取りに行けば良いですし、大抵リビングで読みますから、北側で十分ですよ。それより、祐司さんのシンセサイザ関係はリビングに置いた方が良いと思います。」
「リビングには合わなくないか?それに寛ぐための場所にしたいし。」
「祐司さんと私が寛ぐ場所だからこそ、リビングに置いた方が良いと思うんです。前の家でもそうだったじゃないですか。」
「あれは場所が他になかったから…。」
「祐司さんがギターを弾いたり、アレンジをしたりしているのを聞きながら本を読んだりレポートを書いたりするのが、私の憩いの時間だったんですよ。此処にこうして居られるのは、此処が私の居場所だから、って。」

 居場所、か。どうでもいいこととされがちで空気のような扱いすらされることもあるが、重要なことだ。他でどんな辛いことがあっても、此処に戻れば安心出来るし癒されるし寛げる。それが場所だったり人だったりするが、そういうものがないと蓄積したストレスから崩壊することすらある。
 晶子は俺を居場所にしている。恐らくそれは付き合い始めた頃から。親族が介入する大騒動の末、それを逆手にとって新京市に移り住んだは良いが、頼る者も友人も居ない場所での1人暮らしはやはり寂しかっただろう。俺は智一と週1で飲みに出かけていたし、宮城が会いに来たから寂しいという感覚とは無縁で済んだが。
 俺と付き合い始めたことで、俺を居場所に決めた。それは自分の夢である安心して子どもを産み育てる環境でもあった。晶子は「恋愛と結婚は別」として男をとっかえひっかえして、一番自分が楽出来て自慢出来る−後者は男性が思う以上に重要視している部分がある−男と結婚することはしないタイプだし、実際そうだ。仮にそうだったら家政婦兼売春婦として扱い、結婚話は適当にはぐらかしておしまい、とした。
 色々な経緯や状況の変化があって、晶子は居場所に俺の家を加えた。それは結果的に奏功したと思う。俺は4年進級がかかった重要な時期に勉強に専念出来たし、晶子は人格否定の末に門前払いされるばかりの就職活動で疲弊して挙句全滅に終わってもよりどころがあったから壊れることはなかった。これも1人よりも2人だから良かったことの1つだろう。

「紙に描いてみるか。頭の中だけだとイメージし難いところもあるし。」
「それなら併せて採寸もしましょうよ。いざ配置となって実際は入らなかった、ってことがなくなりますから。」

 採寸は良いアイデアだ。置けるつもりでも実際には入らなかったり、逆にスペースが広過ぎてスカスカになってしまう場合もある。入居前はオートロックもあってどうにも入れなかったから採寸も無理だったが、今なら出来るし2人ならそこそこ重量のあるものも移動出来る。
 休憩がてら相談することにする。移動で重要事項の記録用にと梱包せずに持ってきたメモ帳とペンで良い。音楽関係はリビングに、本などは北側の部屋に集中させることにする。シンセサイザ関係はどれも可搬式のラックやケースに入っている。書棚は本が全て梱包されている今は実質骨組みだけで割と軽そうだし、北側の部屋にあるから移動もそれほど手間じゃない。
 全ての梱包を解いて収納するには数日かかるだろう。だが、こうして新生活が確立されていくというワクワク感がある。旅行前にあそこに行って、そこにはこういう行程で行って、と計画を汲む時のような…。こういうことが積み重なって、晶子と本当に夫婦になって新生活を始めるって実感が強まっていくんだろう。
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