雨上がりの午後

Chapter 307 けじめと決別(後編)

written by Moonstone

 翌朝。ネクタイに悪戦苦闘することに強いデジャブを覚える。俺の両親に報告しに行ったのは1週間前の今日だから、当然と言えば当然か。1週間でネクタイを締めるのが勝手に上手くなる筈はなく、だが卒研とバイトの毎日でネクタイを締める練習はどうもおざなりになり、殆ど変わらないまま今日に至る。

「ネクタイは苦手みたいですね。」
「長さの調節がな…。結ぶのもさほど上手くないけど。」
「こっち向いてください。」

 今回も結局晶子頼みになる。一旦解いて両手を動かして長さを調整。その後短い方を固定して長い方を動かしていくと、あっという間に理想的なネクタイの結び目が出来る。後は襟元まで締めてネクタイピンで留めるだけ。見ると簡単そうなんだが、これがなかなか難しい。

「ありがとう。見え方が逆なのに速いし上手いな。」
「練習しましたから。祐司さんも練習すれば出来ますよ。」

 既に服を着終えていた晶子と共に、再び結婚の報告のために家を出る。研究室に休むと連絡を入れてあるのも先週と同じ。ネクタイで手こずって晶子にしてもらったのも先週と同じ。不満や文句を言われるのも先週と同じ…となるんだろうか。そうなると考えておくのが無難というのが何とも…。
 俺と晶子は家を出る。1週間前と違うのは、まだ外気が若干ひんやりするところ。晶子の実家は俺より遠い。婚姻届を完成させるためにお互い取り寄せた戸籍謄本で初めて知った事実で、新幹線を使わないと日帰りは厳しい距離にある。河野(こうの:作品中の架空の市)市。「ひかり」が時々停車する駅がある東京方面の沿線の1つ。晶子の実家はそこから在来線に乗って行ける郊外にある。
 市の郊外にあるのは俺の実家も同じ。だが、晶子の話では、住宅が立ち並ぶ俺の実家がある場所と違い、田畑が多い典型的な田舎だそうだ。これもステレオタイプかもしれないが、田畑に囲まれた形の田舎=近所付き合いが良く言えば濃密、悪く言えば閉鎖的で相互監視型の社会。そんな連想をしている。
 どのみち小宮栄まで出る必要があるのは1週間前と同じ。バスターミナルじゃなくて新幹線のホームに移動するところから、デジャブから晶子の実家に行くんだという感へシフトする。小宮栄は全ての新幹線が停車する駅で、複数の在来線が集約される駅でもあるから、ホームが兎に角多い。普段使っている電車の終着駅からだとかなり距離がある。
 窓口で2人分の切符を購入。予定どおり「ひかり」の指定席。混み合ってはいたが、自動販売機だとそこそこスムーズに買える。改札を通って東京方面のホームの1つに出る。

「こっち方面の新幹線に乗るのは…、新京大学に入ってからは初めてです。」

 到着した新幹線に乗り込み、2つ並んだ座席に座ったところで晶子が言う。

「ずっと帰省しませんでしたから、当然なんですけど…。」
「・・・実家からは何か連絡はあったか?」
「電話を受けた母から『分かった』とだけ。祐司さんの時より、両親はむしろ大人しいかもしれません。私と下手に事を荒立てて周囲に喧伝されたり、噂されるより黙認した方がましだと考えるでしょうから。」
「問題は晶子の兄さんと見た方が良いってことか。」
「はい。」

 晶子の家族構成は俺とほぼ同じで、両親と兄弟−晶子の場合は兄妹−という組み合わせだということは分かっている。だが、それだけしか分かっていない。どちらもまだ顔を合わせたこともなければ話をしたこともない。分かっているのは、両親が非常に世間体を優先するタイプで、兄とは対立しているらしいということだけだ。
 だが、相手のことが碌に分からない中に単身乗り込んだのは晶子も同じ。晶子は先週の結婚報告の前に俺の紹介で対面して、会食に出席して1泊もした。その時点では少なくとも好評一色だった。それだけしっかり立ち回れたんだから、俺は尚のことしっかりしないといけない。
 新幹線が動き始める。次第に後ろに流れていく景色が速さを増す。晶子が肘かけに乗せた俺の手に自分の手を重ねて来る。晶子の手を握り、新幹線の移動に合わせて迫ってくる対面と報告に向けて決意を固める。迷うことはない。晶子と名実共に結婚するために…。

 新幹線が晶子の実家の最寄り駅に到着。約30分の長距離と言うには微妙な長さ。2つあるホームは小宮栄と比べるとかなり質素に映る。だが、エスカレータで駅構内に出ると、白と薄い水色のタイルで彩られた天井の高い、吹き抜けもある明るい空間が現れる。入り組んだ連絡通路でごちゃごちゃしていない分、小宮栄より洗練されて映る。

「初めてこの駅に降りたけど、随分綺麗に整備されてるな。」
「此処は元々陶器−焼き物の町なんです。今はセラミックも手掛けてますけど、それを前面に押し出した街づくりをしてるそうです。」
「地場産業の育成ってことか。」
「ええ。あと、精密産業と楽器産業も組み合わせてますよ。」

 晶子の案内で在来線に繋がるホームへ向かう。吹き抜けが繋がる構内には喧騒に埋もれてうっすら音楽が流れている。よく見ると、張り巡らされたタイルは遠目で見ると楽器の形になっている。更に進むと、地元企業の製品紹介ブースらしいところもある。土産物などの販売所や切符売り場などは1か所に集中している。
 タイルが比較的新しいことからして、割と最近に改装したんだろう。この手の改装はどういうわけか使い勝手が改悪されたり、画一的で味気ないものになりやすい。デザイン最優先だったり市長や市の幹部と癒着した大手建設会社の意向があったりするんだが、この駅はデザインと使いやすさを両立させているように思う。
 在来線のホームは構内を歩いてエスカレータで上ったところにある。晶子の案内で最寄り駅までの切符を買う。路線図を見ると結構距離があるように思う。改札を通ると、小宮栄ほどじゃないが複数のホームが線路を伴っている。此処も市の中心部で、市内外を結ぶ鉄道路線が集中しているんだろう。慣れない場所だとうっかり間違えて見当違いのところに行ってしまいそうな気がするのは、こういう場所のお約束みたいなもんか。

「所要時間は大体30分です。急行でも停車駅が多いですから、普通電車でもそれほど変わらないんです。」
「先発は急行か。のんびり行こう。」

 電車に乗れば駅までは寝ていても運んでくれる。どのみち晶子の実家から良い反応が得られるとは期待していないし、晶子の実兄からは何か良からぬことを言われる可能性もある。それを受け流す心構えの猶予期間と思っておこう。晶子も俺の実家に行く途中、こんな気分だったんだろうか?

 最寄駅に到着する。改札は人手によるものだ。1車線の線路から見えた風景が予想以上に開けたものから住宅街、そして田園地帯へとシフトしていくのを見たが、降り立った駅は典型的な田舎に幾分住宅街をブレンドしたような街並みの中にある。駅前らしくロータリーもあるが、周辺にビルは1つもない。それどころか飲み屋もない。この辺は俺の実家の最寄り駅と大差ない。

「此処からは徒歩で移動か?」
「はい。バス路線から離れていますし、バスも1時間に1本か2本ですから、歩いた方が早いです。」
「俺の実家の最寄り駅と似てるな。」
「そうですね。これでも私が新京市に移り住むよりかなり開けたんですよ。」

 駅自体通勤と通学で河野駅まで移動する専用の窓口という雰囲気だ。それにこういう良く言えば住民の交流が密接、悪く言えばムラ社会の地域で飲み屋があっても、気心知れた友人との談笑やストレス解消が尾ひれを伴った噂になって広まり、周囲との軋轢を生む可能性がある。逆に自分の悪い噂を流される可能性もある。飲み屋には向かない立地だろう。
 晶子に案内されて閑散とした通りを歩く。駅近郊だが町並みは古い。家の作りを見ても昔ながらのものばかりで、新築や洋風の家は見当たらない。住宅地になりつつあるのはもっと河野駅寄りの地域で、この辺にはまだ及んでいないらしい。通りを少し歩くと直ぐ田園風景が広がるところからしても、この地域が典型的な田舎であることを感じさせる。
 道は真っ直ぐ伸びた直線と、高い頻度でカーブするものの差が激しい。前者は田んぼの大きさが綺麗に整備された場所、後者は家が固まっている場所だ。元々あった道が近年開けた場所に通された道で結ばれている様子を感じる。空から見るともっとよく分かるかもしれない。
 偶に車と行き違う。道幅は何処でもそれなりにあるから、物陰に隠れる必要はない。ふと車を見ると、行き違う時に運転する人がこっちをまじまじと見ているように思う。驚きもあるだろうが、好奇心、それもあまり良くない方のものを感じる。

「さっきのは近所の人です。」
「分かるのか?」
「顔を見れば…。この辺は近所付き合いが密接ですから。」

 ステレオタイプの田舎そのものの予想はどうやら的中と見て良いらしい。こういうところだと従兄妹同士の恋愛もそうだが、女が単身遠方の大学に通ったり、帰省したと思ったら結婚相手を連れて来るなんて格好の噂話のネタになりそうだ。世間体を優先する人だとそうならないように生きることを最優先にしそうだ。
 晶子はこの地域を出ることになって良かったと思う。何せ人目を引く容姿の持ち主だ。見合い話もたびたび持ち込まれただろうし−女性の結婚が16歳から可能という規定に限って田舎では民法が有効と以前渉が皮肉っていた−、それこそ強制的に結婚させる動きもあったかもしれない。この地域しか知らずに結婚・出産を強いられていた可能性もある。

「もう…此処に来ることはなくなっても、後悔しないか?」
「しません。後悔するくらいだったら、こうして結婚相手を堂々と昼間に連れ歩きませんよ。」
「そう言えばそうだな。」
「此処を出る時にも言ってあるんです。結婚相手を見つけるまで帰らない、って。私が来たということは結婚相手を見つけたということでもあると、両親は覚悟している筈です。」

 少し硬かった晶子の表情が緩む。俺の実家へ行く時よりずっと晶子は緊張しているかもしれない。俺がしっかり立ち回って結婚を報告する。何かしてくるなら速攻で逃げる。俺と晶子の生活は、実家からの圧力を撥ね退けられないと続けられないだろうから。
 更に歩いて緩やかなカーブを描く道を進んでいくと、田んぼに隣接する純日本家屋の前に着く。晶子の足が止まる。…此処が晶子の実家か?相当大きな家だ。家の大きさもさることながら敷地の面積も相当ある。閉じるものがない門の奥に玄関らしいものが見える。

「此処が私の実家です。」
「大きいな。」
「田舎ですから、平均的なものだと思います。」

 晶子はあっさり答えて俺を中に招き入れる。庭は砂利が敷き詰められ、松や紅葉が少し植えられている。近付いてくる純日本風の家は、短冊切りした狭い土地に無理やり押し込んだような家と違って、敷地面積を利用してゆったりした作りだ。これを胡桃町で再現しようとなると億はかかるだろう。
 玄関の前に到着。緊張が高まってくる。晶子が引き戸の玄関を勝手に開けた?!「こんにちは」と言いながら中に入って行く。…一瞬焦ったが、考えてみれば俺の両親の実家と同じだ。鍵をかける習慣がない地域は今も存在する。これも良く言えば密接な地域社会、悪く言えば隣組もどきの相互監視社会の賜物だ。
 俺も続いて中に入る。外側と同じく、中も純日本風だ。木材の木目が複雑に絡み合う壁や天井は、プラモデルのように組み立てられる家とは一線を画している。俺の父方の実家もこんな感じだな。部屋数は不自由しないが掃除は大変そうだ。…おっと、きょろきょろしてると不審者だな。

「晶子。」

 左手の襖の奥から−ドアじゃないところが純日本風の家らしい−やや年配の域にさしかかった女性が出て来る。この女性が晶子の母親だろうか?

「こんにちは。お話をしに来ました。」
「そんな他人行儀な…。そちらの方は?」
「はじめまして。安藤祐司と申します。」
「ということは、貴方が…。」
「上がっても良いですか?」
「ど、どうぞ。」

 晶子の静かな迫力に気圧されたか、晶子の母親は承諾する。俺と晶子は靴を脱いで上がり、晶子の母親が居る方に向かう。晶子が襖を開けて中に入り、俺を招き入れる。
 中はやはり純日本風の和室。縁側から陽が差し込む空間は軽く20畳くらいありそうだ。その空間の襖で区切られる奥側、絢爛豪華な仏壇を後ろにした木彫りのテーブルの前に、仏壇を背後にしたやはりやや初老の男性が硬い表情で座っている。恐らくこの男性が晶子の父親だろう。俺と晶子は並んで晶子の父親の向かい側に座る。

「…お父さん、お母さん。お久しぶりです。」
「3年半…ぶりか。」
「はい。…家を出る時の宣言どおり、本日は…結婚相手の紹介のために来ました。」
「…はじめまして。安藤祐司と申します。晶子さんと同じ新京大学を来年春卒業見込みです。」

 うっかり「晶子」と言ってしまいそうだったが、それらしい口上だったと思う。俺は脇に置いておいた包みを出す。

「こちら、お持ちしました。ご笑納ください。」
「ご丁寧にどうも。」

 受け取った晶子の父親の表情は硬いままだ。俺の実家に行った時と殆ど同じだ。「若い2人の結婚は承服し難い」ってところだろうか。若くなくなって未婚だったらそれはそれであれこれ言うもんだから−俺の母方の従姉がそれだ−、どのみち自分達の思い通りでなかったら気に入らないという思考だろう。

「…本当に結婚するつもりなのか?」
「早いとは思わないけど…、いきなり連れて来た男性と結婚するって世間体が…。」
「結婚するからこうして連れて来たんですし、何かにつけて世間体を持ち出して行動を縛るのはやめてください。」
「そうは言うけど、世間体って言うのは余所様に出して恥ずかしくないかどうかの基準であって…。」
「余所様ってこの家の近所、広げてもこの河野市美咲町の範囲でしょう?そして世間体とは、その範囲で通用する相互監視と不毛な噂話のネタでしかない。」
「…。」
「先んじて、祐司さんのご両親には報告を済ませました。結婚する意志には変わりはありません。これは4年前、この家を出る際に言ったことを忠実に実行しているだけです。」

 晶子は静かな口調で、しかし一切の反論を許さないという強い気迫を込めた言葉を並べる。晶子の両親は硬い表情のまま俯く。何とかして思い留まらせるか考え直させる糸口を探っているんだろう。俺は必要な時まで黙っている。晶子が連れて来たと言っても初対面には違いないし、晶子の両親が俺の言うことを素直に聞く耳を持つとは思えない。

「安藤君…だったか?」
「はい。」
「就職先は決まっているのか?」
「はい。高須科学の中央研究所に配属予定です。」
「高須科学…?」

 晶子の父親は少し首を傾げて晶子の母親に目くばせする。晶子の母親は小さく首を横に振る。どうやら知らないようだ。理工系でも知名度は低い方だから知らないのは仕方ない。だが、こういう場合結婚相手が自分の知らない企業に勤めている、或いは勤める予定だと反応は芳しくなくなるのはお約束と思った方が良い。

「失礼だが、それはちゃんとした企業なのか?」
「非上場ですが、財務諸表は非常に優良です。理学系−物理や化学の分析機器や一部の産業機器では世界トップのシェアを持っています。」
「聞かない企業ねぇ…。」
「有名企業が及ばない分野で世界的な存在になっている企業も多いのに、CMで見る企業しか企業と認めない。自分の娘の結婚相手が何処其処の企業に勤めている、と自慢出来るかどうかを判断基準にしているに過ぎない。それも世間体と見栄のなせる業。」
「「…。」」
「少し調べれば、高須科学が株価の値動きに一喜一憂したり株価の下落に脅えたりする必要がない、見かけの給料の良さだけではなく長く健康的に働ける企業だと分かります。私も財務諸表などを見ましたし、堅実性は企業では指折りです。」

 晶子が同じ口調で厳しく両親を断じる。どうもこのあたりの世代の「CMで聞かない企業以外は中小」≒「将来性がない」「不安定」という認識が多数派なのは何故だろう?この世代だと中卒高卒でも今の有名企業に大量就職出来たから、それ以外の企業に勤めるのは落ちこぼれという認識になるんだろうか。

「…生活していけると思っているのか?大学を卒業出来るかどうかというところで。」
「これまでに頂いた仕送りとバイトの給料を貯金しています。今年に入ってから手紙で伝えたように、1年分の学費を払った後でも十分余裕はあります。1人で住むより2人で住む方が食費は効率的に使えますし光熱費も安く済ませられることも、今年初めからの収支の推移で確認済みです。」
「!同棲してるのか?!」
「はい。私から徐々に生活の拠点を移す形で。」

 晶子の両親は絶句する。こういう両親だと、結婚前の年頃の娘が同棲なんてとんでもない、という考えだろう。同棲相手は俺だし、することはしてるから俺からあれこれ言うのは蛇足でしかないだろう。

「ふしだらとお思いでしょうが、結婚すればそのふしだらなことを続けるんです。婚姻届を提出しているかどうかの違いしかありません。まさか、自分が引き合わせた男性となら結婚準備で、そうでなければふしだらという都合の良い使い分けはしませんよね?」
「「…。」」
「今後の生活については心配無用です。2人で…、祐司さんと一緒に家庭を築いていきます。…報告は以上です。」

 晶子は一礼した後席を立つ。もう用は済んだというわけか。俺は一礼して立ち上がり、晶子に続く。予想に反して両親は追ってこない。追ってこられたら来られたで厄介なことになるんだが。あと、晶子の実兄が出て来なかったのも不幸中の幸いと言うべきところか。
 玄関で靴を履き、後ろを振り返らずに家を出る。此処ももう来ることはないだろうな。予想の範疇とは言え、晶子の実家でも好意的な反応は少しもなかった。大学卒業から程なく結婚すること−実際は間もなく婚姻届を提出するが−、俺の就職先、どれも気に入らないってことか。

「…御免なさい。気分を悪くしてしまって。」
「それはお互い様だ。どちらからも否定的だった方が、安易に実家に頼るって選択肢をなくせるから良い。」
「前向きな考え方ですね。でも、実家に頼ることを考えないのは重要ですね。実家を引き合いに出すと収拾がつかなくなる場合もあるそうですし。」
「約20年育ってきた環境が全く違うんだから、考え方や価値観に違いがあって当然だ。それを擦り合わせたり折り合いをつけたりするのが夫婦なのに、実家だとどうだったとか言い始めたら、最初から実家に居た方が良いってことになるからな。」

 夫婦の揉め事の原因は色々あるが、その多くは実家に行きつく。10数年、場合によっては20年とは30年以上家族として暮らし、その過程で培われた価値観や考え方が必ずある。だが、夫婦として、やがては父親と母親として子どもも含めて1つの家族を作って営んでいくなら、その価値観や考え方が当たり前という考えを捨てないといけない。
 冠婚葬祭におけるよくある揉め事も、突きつめれば実家に行きつく。自分の夢を前面に出したり実家や親族からの要求を次々受け入れると、相手の考えや価値観、そして実家や親族と当然衝突する。その結果実家や親族はメンツを潰されたとか、向こうは勝手なことばかりするとか文句を言うし、夫婦仲に溝が出来る。
 その揉め事をどう解決するかは最終的には夫婦次第だ。どちらかが主導権を持つのも良いし、徹底的に夫婦の考えを優先させてその他の意見は切り捨てるのも良い。その結果失敗したり不具合が起こったら、それは夫婦の責任で終わる。だが、自分の夢や考えを優先させたいあまり実家に頼ると碌なことにならない。
 冠婚葬祭や自宅の購入も、実家に頼ることでどうしてもその意向が加わる余地が出来る。相手が無謀な計画を進めようとしたり−大抵は資金面−実際に生活するに居心地が良いかどうかより自分の夢を優先させるようなら、それを諌めるのはやはり自分でなければいけない。下手に実家に頼ると「親を介入させるか」と心証を悪化させ、話が拗れる場合が多い。
 双方の実家訪問と結婚の報告で、どちらの実家も俺と晶子の結婚に賛成じゃないことは分かった。以降結婚の段取りや生活について何か言ってくるようであれば、それはその機会に懐柔を図っていると見た方が良いだろう。その背景にはやっぱり世間体や親族がある。

「語弊があるかもしれませんけど…、これでこれからは2人でやっていこうって踏ん切りがつきました。実家に頼るって選択肢がなくなった以上、祐司さんとしっかり手を取り合って生きていくしかない、と。」
「そうだな。2人しか居ないなら2人でやっていこう。」
「はい。」

 踏ん切りがついたというのは良い表現だと思う。もし賛成していたら実家が援助したり、何か辛いこととかあった際の一時退避場所になる、といった考えが頭の何処かに出来ていただろう。その選択肢がどちらにもないとなれば、自分たちで何とかするしかない。
 不安はあるが、ようやく晶子と本当に一緒に暮らせるという期待や楽しみの方が大きい。それに、不安がっている余地はない。新居はもう直ぐ契約出来るし、それに向けて引っ越しと不用品の選別も着々と進んでいる。電気やガスの引き継ぎもあるし、住民票の移動もある。更には婚姻届の提出もある。することが多いから不安であれこれ考えて動けないと言っている暇はない。
 双方の仕送りが止められることも考えて、生活はよりきちんとしていかないといけない。学生じゃなくて社会人となると働かないと収入が途絶えてしまう。どういうリズムが一番過ごしやすくて効率が良いか、どういう役割分担だと一番双方が納得出来るか、予行演習をしながら適応の準備をしておくのが前向きだろう。

「あ…。」

 玄関から出て少ししたところで、晶子が足を止める。表情が強張っている。晶子の視線の先には、1人の男性が立っている。茶色の髪はボサボサで無精髭が目立つ。スウェットの上下で首を少し左に傾け、更に後ろに反らしている。咥え煙草が印象を悪い方向にしか持っていかない。

「晶子ぉ。久しぶりに来たと思ったらもう帰るのかよ。」
「…用は済んだから。」
「その用ってのは、隣の冴えねぇ男を紹介するためか?」
「晶子。この人は?」
「…私の兄です。」

 一瞬耳を疑う。これが晶子の兄さん…?実家への報告のためにスーツを着て、髪も後ろで落ち着くように纏めて清潔な身なりにしている晶子と差があり過ぎる。言葉遣いも粗雑だし、言っちゃ悪いが単なるヤンキーにしか見えない。
 晶子の兄は俺と晶子に近づいてくる。晶子は強張った表情で敵意すら漂わせる鋭い視線をぶつける。晶子の兄は煙草を咥えたままだ。煙草を吸わないし周囲に煙草を吸う人間が居ない−研究室に若干居るが喫煙場所でしか吸えない−から、煙草の煙がかなり強烈に感じる。よくこんなのを吸えるよな…。

「そんな刺々しい目で見るなって。約3年半?ぶりの兄妹の再会なんだからよぁ。」
「…兄さんに会いに来たわけじゃないので。」
「だからさぁ、そんな冷たいものの言い方すんなって。」
「…。」

 フレンドリーを前面に出しているつもりなんだろうが、風貌のせいでフレンドリーさの押しつけにしかなっていない。嫌いな煙草を至近距離にされて、晶子は相当気分を害している様子だ。晶子の兄はそれに気づいていないのか自分をアピールするために意図的にしているのか分からないが、どちらにしても晶子には悪い印象を強くさせるだけだ。

「あんたが、晶子の男か。」
「…はい。」
「ふーん…。」

 晶子の兄は首を左右に傾けながら、視線を俺に固定する。この品定めするような視線は、煙草臭いのもあってかなり不快だ。でも、一応晶子の兄だからな…。

「お前さぁ。よく中古女と結婚する気になったよなぁ。」
「「!!」」
「晶子はさぁ。お前の前に男と付き合ってたんだぜ?しかも従兄妹同士。両方の親に黙って旅行に行ってハメハメしちゃってよぉ。新婚気分で近親相姦プラス処女喪失ってわけさ。」
「…どうして貴方がそんなことを知ってるんですか?」
「大学に入った年の夏前から、どうも晶子の様子がおかしくてさぁ。色々探りを入れたらビンゴ。日記とか証拠を押さえて旅行に行った後で両方の親に知らせてやったってわけ。こっちの親はうろたえるわ、本家の向こうの親は激怒するわでもう大変。」
「「…。」」
「従兄は強制見合いで即結婚。傷心の晶子はばらされたことを逆恨みして、このことを周囲にばらすって脅して大学生やり直しと1人暮らしを勝ち取って、向こうで男漁りをした結果、ひっかかったのがお前ってわけ。どう?結婚の報告とやらで晶子について来たところで知った衝撃の事実は?びっくりしたろ?」

 そこまで言った次の瞬間、バシンと乾いた大きな音がして、晶子の兄の顔が大きく右に傾く。晶子は固く結んだ唇を震わせ、うっすら涙ぐんでいる。過去のこととはいえ、世間体によって引き裂かれたことは記憶として残っている。そこを無神経に抉るようなことをされれば怒って当然だ。

「おいおい。本当のこと言われてキレるなって。俺にMっ気はないし。」
「「…。」」
「俺は井上家の長男として、妹が不埒なことをしでかしたのを諌めただけだぜ?近親相姦プラス処女喪失って、嫁の貰い手がなくなるからなぁ。あ、此処で公表しちゃったな。」
「!!」

 再び張り手の洗礼を浴びせようとした晶子の右手を、俺は掴んで止める。これ以上晶子が手を汚す必要はない。

「…それって事実ですか?」
「おう、そうそう。当事者として調査・報告・正常化に関わった俺が把握した事実。嘘や誇張は一切ありませんよ?」
「本当ですね?他に話していない事実はありませんか?言うなら言ってください。」
「ホントホント。ないない。全部言っちゃったもんねー。お前、なかなか疑り深いねぇ。」
「そうですか。分かりました。…全部晶子から聞いていることばかりで、新鮮味の欠片もなかったです。」

 すっかり勝ち誇った様子だった晶子の兄は、一瞬にして愕然としたものに変貌して固まる。振り子のように左右に揺れていた首の動きも止まる。

「晶子が前の大学を辞めて新京市に単身移り住んだこと、その経緯、全部晶子から聞いてます。出逢ってから3年ほどかけて信頼関係を築く過程で少しずつ。それも含めて晶子と結婚すると決めて、今回は晶子の両親への顔見せと報告のために来たんです。」
「…祐司さん。」
「…。」
「二番煎じのことを衝撃の事実って言われても、TVの宣伝文句並みに薄っぺらいですよ。ちなみに、近親相姦は直系の親兄弟で成立することで、従兄との結婚は法的にも承認されています。」

 何を言いだすかと思えば…。事前に晶子から聞いたことばかり。念を押してみたが新事実は1つもなし。これで誇らしげに「衝撃の事実」の謳い文句を付けられても、まったく気を惹かれるもんじゃない。わざわざ出て来てこれを言いに来たんだとすれば、余程暇だったとしか思えない。
 長男だか何だか知らないが、旧来の人間関係の悪いところの1つを見せつけられたのは不快だ。それに、自分がかつての幸せを破壊した妹が結婚の報告をしに来たところで、相手の俺が知らないと思ってわざわざ言いに来たとなれば更に不快。こういう輩は極力相手にしないに限る。

「行こう、晶子。」
「は、はい。」

 俺は晶子の手を引いて、晶子の兄の横を通り過ぎる。馬鹿みたいに突っ立ったままだが、今までの振る舞いがあるからショックを受けた演出としか思えない。報告も終えたことだし、此処にこれ以上留まる必要はない。晶子の兄も、晶子の実家も見えないところまで振り返らずに晶子の手を引いて歩く。どのみち此処に来ることはそうそうないから、通りがかりの人に見られても構わない。

「この辺まで来れば良いか。」

 周囲が縦横に真っ直ぐ走る道で区切られた田んぼが多数を占める風景に変わったところで、俺は足を止める。晶子の実家は細かくうねる道の向こうに消え、追ってくる人影や車はない。秋を強く感じさせる風が吹き抜ける。新京市より冷気が強めで爽やかだ。餞別にしては洒落てるな。

「世間体を気にするから、徹底的に追いかけて来るかなかったこととして放置するかのどっちかと思ったんだが、ひとまず放置みたいだな。」
「目につくことは表立ってはしませんよ。それより…嬉しかったです…。兄にはっきり言ってもらえて…。」
「事前に晶子から聞いてたから、ある程度心の準備は出来てた。それに、晶子が前もって包み隠さず話したから、驚くようなことは何もなかった。」
「やっぱり…、全部話しておいて良かったです…。言う時は不安が大きかったですけど。」
「ああいう場面で初めて知る事実があると、隠されていたことへのどうしてっていう気持ちが重なって、疑心暗鬼が膨らむんだろう。晶子の決意と告白は、それを未然に防いだんだ。」

 俺が晶子の兄に念押ししたのは、晶子が隠している事実がないかどうか確認するためだった。俺の実家へ行く前日、晶子が最後まで隠していた謎を明かしたことで、晶子はもう何1つ俺に隠し事はないと明言した。それも確認出来たことで、晶子は嘘を言ってなかったと信頼が強まったし、晶子の兄の暴言も受け流せた。晶子の決意と告白は全ての面で正しかった。

「本人が居ない前で言うのはあまり良くないが…、晶子と兄さんは全く違うな。」
「こういう地域は、長男とそれ以外の子どもの扱いが違うんですよ。跡継ぎとか将来の家長とか持ち上げられる長男と、長男に万が一のことがあった際や家が困った際の保険やスペアという認識の他の子ども…。特に女は結婚要員、子孫育成要員の域を出ないんです。私が前の大学−地元の私立大学なんですけど、そこと新京大学に行ったこと、更に新京大学へ通うために単身移り住んだことも、私が従兄との関係の一部始終を盾に取らなかったらまず許されなかったことなんです。」
「俺も一応長男だが、生まれた順が違うだけで扱いが違うってのはおかしな話だな。長男長男って言うけど、自分達はその長男だったのか怪しいところだし。」
「そうですよね…。父は次男ですから分家の位置づけ。言わば本家や本家の当主のスペアや保険なのに、自分達は長男をことさら持ち上げるのは不思議で…。」
「自分がかつて経験したことだから子どもも受け継ぐべきと思ってるんだろうな。伝統とかしきたりとかいう以前に刷り込みみたいな形で。或いは今度は自分がある意味上に立ったから子どもにも経験させてやるって意識なのか。何れにしても良いもんじゃない。」

 中学高校あたりの運動系の部活、もっと進めば大学の体育会系の部活で、1年2年の違いで−大学だと多少の誤差はあるが−身体を壊すようなしごきや理不尽な習慣が根強く残っているのと、田舎とかの長男以外は補欠や保険みたいな考え方はよく似ている。どちらもその中に居る限り反対するのが難しく、その中に居る間はその習慣や考え方が絶対のものだと思いこまされるところも似ている。
 だが、その集団や社会から一歩外に出ると、その習慣や考え方は全く及ばないことが多い。スクールカーストと言われる学校での序列も、その学校から離れて進学なり就職なりすると、序列が無効になるどころか逆転する場合もある。中学高校で冴えなかったり異性から全く相手にされなかった人が、医者や弁護士、国家公務員とか社会的地位や認知度が高い職業に就いたり、出世して高年収を稼ぐようになっている一方で、人気だった人が地元で解雇や倒産に脅えながら生きていたりする例はよく聞く。
 晶子は過去の従兄との恋愛と終焉を経て、自分の住む地域はおかしいと思ったんだろう。従兄との関係を暴露することを盾に大学の入り直しと単身移り住むことを勝ち取ったことで、全く違う世界に触れた。そして俺と出逢って早々に既成事実を積み重ねていき、結婚目前へと漕ぎ着けた。俺と新たな生活を始めることで、二度とこの忌まわしい地域に戻らなくて済むように。

「晶子は此処を出て新京市に住むようになって正解だったかもしれないな。」
「そう思います。…あの出来事で、この地域社会で生きていたら、私は親の選んだ相手と結婚させられ、子どもを産まされ育てさせられるだけの道具として一生を終えるだけになる。私はこの地域社会の奴隷になりたくない。かなりの強硬策でしたが、大学を入り直して新京市に移り住んだのは正解でした。」
「…。」
「一番正解だったと思うことは、何と言っても祐司さんと出逢えて、こうして今一緒に居られることです。」

 晶子は身を寄せて来る。若干警戒気味だった往路とは違って、吹っ切れた様子だ。此処に戻ることはないと決めれば、自分がどういう状況で誰と居るかといった些細なことに神経を尖らせる必要はない。

「此処を出て新京市に移り住んだから、3年前のあの日、祐司さんに出逢えたんです。その意味では…あの出来事があって良かったと思います。」
「お互いあの時までは独りだった。今はもう独りじゃない。戻ったら色々することはある。それを再開しよう。」
「そうですね。今日はお店もお休みですし。」
「婚姻届の提出ももう間近だしな。」
「それは忘れてませんよ。」

 両方の親に引き合わせて報告を済ませた。帰ろう。もう此処に模様はない。どちらの言うことを聞いて、といったくだらない利害調整はしない。晶子と始める新しい生活に向かって基盤を作っていくだけだ。一緒に暮らす確固たる裏付けとして…婚姻届を提出する。その期日はもう半月もない。
 これから先、2人で生きていくことに不安もある。だが、2人なら何とか出来るとも思う。独りで出来ないことも2人なら手分けして出来る。そのために、そしてやがて…何人かは分からないが、子どもを加えて新しい家庭を作る。親や親戚の言いなりになったり顔色を窺っていたら…始まらない。
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