雨上がりの午後

Chapter 306 けじめと決別(前編)

written by Moonstone

「祐司さん。どうですか?」
「もうちょっと。」

 俺は鏡の前でネクタイと格闘中。ネクタイを締めるのはまだまだ慣れない。普段ネクタイなんてしないし、就職先は私服通勤だから練習しようと思わない。だが、こういうかしこまった場や冠婚葬祭では必要だから、練習しておくべきかとこういう時は思う。
 晶子は就職活動の時に着たスーツと似た、黒のジャケットとタイトスカート。髪を後ろ手に纏めるリボンも黒で揃えている。就職活動の時のは下がズボンだった。スカートのタイプは丈が短いから−膝くらいまである−、買ったは良いが着るのを止めたそうだ。俺としてはちょっと嬉しい。

「丁度良い感じの長さにならないな…。」
「ネクタイピンでシャツに留めますし、裏側で纏められますから、同じくらいになっても良いんですよ。」

 結局晶子の手を借りる。一旦解いて長さを決めて、素早く締めて襟元の形を整え、真っ直ぐ垂れるようにする。此処まで来ればネクタイピンで留めるだけだ。他人がするのを見ると簡単に思うが、どういうわけか自分ですると上手くいかない。ネクタイに限ったことじゃないが。
 他の持ち物は手土産を除けば必要最小限。長居するつもりはないから、往復の交通費を詰めた財布があればひとまず事足りる。戸締りと電気ガスを確認していざ出発。今回も小宮栄から高速バスを使う算段だ。電車だと駅から歩く分時間がかかるからな。
 親には「大事な話がある」とだけ言ってある。月曜は実家は店が休み、こっちはバイトが休みだから都合が良い。研究室はあらかじめ今日は休むと連絡してあるし、晶子もゼミに今日の休みを前もって連絡してある。報告だけとは言え、一応余裕を見て丸1日休むことにした。
 通勤通学ラッシュはとっくに過ぎてるから、電車は結構閑散としている。手頃なところに座って小宮栄へ向かう。晶子はやや緊張しているようだ。前回俺の実家に出向いた時は親と口論になった際、俺の判断を支持して選択理由を合理的に淡々と説明した。今回はそんなフォローがなくても良いように立ちまわらないとな。
 小宮栄の駅に到着。此処は時間帯に関わらず人が多い。4月からこの駅を通過して通勤するんだよな。見るたびに何処かが工事で通路が増えたりしてるから、通勤用のルートも途中で変えられそうな気がする。便利になれば良いと思うのは身勝手か。
 バスターミナルは駅から連絡通路で行ける。エスカレータを上って広大な空間に出る。ん?ロータリーに面するバス停兼通路にガラスか何かの全面仕切りが出来てる。バス乗り場には自動ドアも出来てる。この前来た時にはこんなものなかったよな…?

「仕切りや自動ドアがつけられたんですね。」
「前はなかったよな?」
「いえ、なかったですよ。短期間で此処まで出来るんですね。」
「何か工事の準備らしいことをしてたけど、これだったのか。」

 仕切りと自動ドアのせいか、排気ガスの臭いが前より少ない。気にしなければ殆ど分からないレベルだ。複数ある乗り場はそれなりに距離があるし、バスターミナルは行き先によって上の階に行く必要がある。切羽詰まっているとロータリーを突っ切って別の乗り場やエスカレータへ移動しようとする輩が出る可能性はある。
 こういう場所で事故が起こると、救急や現場検証が終わるまで封鎖される。後続のバスとの調整もあるから、バスの運休や大幅な遅延は避けられない。線路があるから他の交通機関と競合しない電車でも結構な時間待たされたり、代替輸送で別の駅に行かざるを得なかったりするんだから、他の車と競合して到着時刻の変動が大きいバスなら尚更影響は甚大だ。
 そういった安全面もさることながら、吹き曝しから防がれるのは大きい。ロータリーのある階は、バス停がロータリーを挟んで外気に直結している。普通の屋内だとそれこそ排気ガスが充満して大変なことになるだろうが、吹き曝しは特に冬寒い。全面仕切りと自動ドアの効力は大きい。
 券売機で切符を買ってバス停に向かう。バス停はもう1つの系統と兼用で、そちらには人が並んでいるが、俺と晶子が向かう麻生市方面は人が居ない。麻生市は市街地に行くなら小宮栄発の電車の方が早いし便利だから、そちらを使うのが多い。俺も高校時代は専らそっちを使ってたくらいだ。
 暫く待っているとバスが到着する。運転手が降りて来て、仕切りの向こう側で自動ドア近くの操作パネルを操作してドアを開く。俺と晶子は自動ドアを通ってバスに乗り込む。誰も乗っていないバスの前の方、並んだ2つの座席に晶子を窓際にして座る。もうすぐだな…。
 バスが停車する。俺と晶子は切符と整理券を纏めて運賃箱に入れて降車する。目の前に広がる、緩やかな道路の勾配に沿って家が立ち並ぶ住宅地は、この前来た時と変わってない。俺は晶子の手を取って実家へ向かう。することは…決まっている。
 玄関−どちらかと言うと裏口だが、その前まで来て一度深呼吸してからインターホンを押す。程なく応答が始まることを告げる電子ノイズが出る。

「はい。」
「おはよう。祐司だよ。…大事な話をしに来た。」
「祐司ね?今開けるから待ってなさい。」

 応対に出たのは母さん。少々声が硬いと言うか厳しいと言うか、歓迎一色のものではないのは確かな雰囲気だ。ドアの鍵が開き、母さんが顔を出す。ちょっとかしこまった服を着ている。普段は店が休みだとラフな格好なんだが、「大事な話がある」と言ったことで何かを感じたんだろうか。

「おはよう。」
「おはようございます。ご無沙汰しております。」
「井上さんも来たのね。上がりなさい。」
「お邪魔します。」

 俺と晶子は中に入る。少し奥まったところに靴を脱ぐ場所があるから、そこから上がり込む。5mに満たない廊下を進んで左手側に引き戸がある。開けると家の食事を作るキッチンと食べるダイニングが一緒になった空間がある。そこに先に戻った母さんと、休日は大抵此処に居る父さんが居る。父さんもちょっとかしこまった服装だ。
 俺と晶子は父さんの向かい側に並んで座る。母さんは俺の右手側に座っている。父さんと母さんは無言でじっと俺と晶子を見ている。このままじゃ何も始まらない。俺は手土産をテーブルに出す。

「…こちら、お持ちしました。ご笑納ください。」
「ん。…で、大事な話ってのは?」
「…俺は隣の女性、井上晶子さんと結婚します。その報告に来ました。」

 言うべきことはただ一つ。晶子と結婚することの報告。了承を得るか得ないかは度外視している。4月から夫婦として一緒に生活していく。そのための準備は進めている。どうしても反対と言うならこの場を強制終了させて退場するだけだ。

「…生活出来るのか?」
「新居は探してあって、手付金を払って入居申込書を提出した。引っ越しの段取りも進めてる。」
「生活費は?」
「俺と晶子…さんがそれぞれ貯めた貯金がそれなりにある。俺は4月から高須科学で働くし、晶子さんは今も一緒にバイトしている飲食店で引き続き働く。浪費しなければ十分生活出来る。」
「大学は?」
「勿論きちんと卒業する。内定は卒業することが前提だし、晶子さんも同じだ。卒業に必要な単位は卒研−卒業研究だけ。」
「井上さんは、本当に祐司と結婚するつもりですか?」
「はい。迷いはありません。」

 唐突に話を振られても晶子は少しも動じずに即答する。矢継ぎ早に質問を投げかけた父さんは黙り込む。

「…好きにしろ。」

 少しの間を挟んで父さんが出した答えは、是非の判断ではなく委任だった。

「あれこれ言ったところで聞きはせんだろう。2人でやってみろ。」
「お父さん。そんないい加減な…。」
「就職先でもあれほど言ったのに押し通したんだ。井上さんを連れだって来た結婚の報告で、言うことを聞くとは思えん。好きにやらせれば良い。」

 2人で自立することに背中を押すんじゃなくて、言うことを聞かないから放り出すってことか。反対されないだけましだな。就職先を決める時のように、しつこく止めろ変えろと言われるのは敵わない。

「祐司。どうしてあんたは勝手なことばかりするの?就職先にしたって公務員は景気に左右されないし、折角良い大学に行けたんだから、もっと良いところに行けるのに。」
「勝手だとは思ってない。親の言いなりにならないことが勝手なこととされるなら、それが失敗した時に保証出来るの?」
「そうじゃなくって、人の意見を聞きなさいってこと。」
「それは結局、公務員か有名大企業以外は認めない、ってことだろ?それは前にも散々聞いた。何度も何度も家に電話してこうしろああしろっていうことが、意見を聞けってこと?単なる意見の押しつけだし、見栄を張りたいためじゃないか。」
「よく考えて決めて欲しいし、そうすれば公務員か良い会社にってことになるじゃない。」
「それが見栄を張りたいために押し付けるってことなんだよ!」

 つい語気を荒らげてしまう。人の話を聞かない、意見を押し付けるってことを母さんは無意識か正しいことと思ってかどちらか分からないが平気でして来る。高校まではそれでも仕方ないと諦める部分はあった。だが、もうこれ以上そんな押し付けには付き合ってられない。

「祐司…。あんたって子は親に向かって…!」
「子どもを、否、相手を言いなりにさせることが親だって言うなら、それが失敗だった時きっちり保証出来るのか?出来ないだろ?!その時は『お前が悪い』で片付けるんだ!意見を聞けとか色々言うけど、結局は公務員か有名大企業以外は認めない、そういうところに俺を就職させたいっていう自分の夢や理想を押し付けてるだけじゃないか!」
「…。」
「晶子との結婚についても、まだ早いとか生活基盤が整ってないとか、何か難癖付けて反対すると予想してた。就職先ですらひっきりなしに家に電話して、出るまで電話をかけて来ただろ!借金の取り立てじゃあるまいし、そこまで何度も電話をかけてまで言って来たことといったら、公務員にしろ、もっと良い企業があるだろう、そればっかりだったじゃないか!」
「…。」
「意見や価値観が合わないのは仕方ない。だけど、それを親だ何だと言って押し付けないでくれ!そのとおりにならなかったら、何時までも文句を言ったり考え直すように言ったり、しつこいんだよ!」

 もう止まらない。俺は矢継ぎ早に今まで溜め込んで来た鬱憤をぶつける。母さんも、そして判断をせずに放りだすことを選んだ父さんも、結局は「公務員若しくは有名大企業に就職した息子」を自慢したいために、そうなるように俺を誘導しようとした。そうすることが父さんと母さんにとって「人の意見を聞く」ことであって、それが正しいと信じて疑わない。
 その価値観の修正を求めることはしない。だが、これからはもう公務員でも終始安泰とはいかなくなっている。有名大企業も業績悪化で大量首切りだし、派遣期間工の大量採用の一方で心の病で休職・退職といった事例は後を絶たない。高須科学がそうならないという保証もないが、自分の意に反して就職させられたら、その分ストレスが常時存在することになる。
 今までの知識や価値観だと、そうは言っても、となるだろう。それはそれで構わない。だが、俺が就職活動で得た知識や情報、そして俺を圧倒的に上回る就職活動でも失敗に終わった晶子からの情報では、確実に変わって来ている。だったら、知名度とかより長く働けることや快適に働ける環境を重視したい。有名企業や公務員に就職して身体を壊したところで、それを執拗に進めた親が保証してくれる筈がないんだから。

「折角良い大学に入ったのに、勝手なことをして…。」

 母さんは泣き始める。全然申し訳ないと思わないどころか、腹立たしくさえ思う。我儘な子どもに無碍にされる母親という図式に酔っている。もうまっぴらだ。こんな親の言うことを忠実に聞くだけの「良い子」で居るのは。失敗しても何も保証出来ない癖に!

「…自分達でやっていけ。自立するつもりなら、自分達で何とかしろ。」
「そのつもりで準備を進めてる。…それじゃ、これで失礼します。」

 これ以上話し合いをする余地はない。価値観の押しつけとそれへの抵抗が形を変えて堂々巡りするだけだ。報告はしたし、無駄な時間を費やす必要はない。俺は席を立つ。晶子も続いて席を立つ。部屋を出て玄関へ向かう。

「ホントに馬鹿な子!」

 靴を履いたところで、ドアの向こうから母さんの叫び声による非難が飛んでくる。良い感じに背中を押してくれる。馬鹿で結構だ。自分の言うことを聞かなかったら馬鹿で我儘、か。用事じゃあるまいし、何時まで良い子の母親で居たいんだ?!失敗しても何も保証出来ない、ただ「お前が悪い」で片付けて来た癖に!
 これ見よがしな泣声を無視して家を出る。携帯で時刻を見ると…バス到着から30分に満たない。電話で済ませても良かったような気がするが、晶子をきちんと結婚相手として紹介したし、報告としては十分だろう。バスは1時間に2本だから今から行けばギリギリ間に合うかもしれないし、駄目なら駅まで歩くのも良い。

「兄貴!」

 家の敷地から出て少ししたところで、後ろから声がかかる。修之だ。家での騒ぎを聞きつけて後を追って来たんだろうか。

「修之。久しぶりだが、用は済んだから帰る。」
「結婚…するんだって?」
「知ってたのか。」
「1週間くらい前に兄貴から電話があった後、父さんと母さんが落ち着かない様子だったし、今日は今日で店は休みなのに良い服着てたし。大事な話があるって言ってた、って聞いたから、今の兄貴で思いつくのは結婚くらいかな、と。」
「そのとおりだ。俺は彼女−晶子と結婚する。その報告に来た。」
「修之さん、お久しぶりです。」
「ど、どうもこんにちは。兄貴とこのまま結婚するんですね?」
「はい。」
「父さんと母さんは、兄貴が公務員や有名大企業に行かなかったことを何時までもグチグチ言ってるし、その延長線上で結婚に良い顔をしなかったんだと思いますけど、俺は井上さんが義理の姉さんになってくれて嬉しいです。」
「ありがとうございます。」
「ありがとう、修之。」

 元より反対や難癖ばかりだろうと予想していた今回の報告。結婚そのものに対するそれはなかったものの、就職先を巡る意見の相違から生じた不満や愚痴が、そのままぶつけられた。それも父さんと母さんのこれまでの言動を考えれば十分予想出来るものだった。
 だが、そんな中で初めて身内から祝福や歓迎を受けた。修之も実家からの通学の身だから表だって喜べないだろうが、こうしてわざわざ追いかけて来て祝福されるのは、やっぱり嬉しい。殆ど顔を合わせないが、修之とはこれからもちょくちょく連絡を取るようにしようかな。

「新居が正式に決まったら、修之には連絡する。」
「分かった。えっと…井上さん、否、…義姉さん。兄貴をよろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」

 此処へ来て初めて結婚の報告と挨拶らしいことが出来たな。場所は路上だし、修之は普段着だし、儀礼の1つに含まれるシチュエーションとしてはかなり場違いでカッコ悪い。だが、結婚相手を紹介して挨拶するのはこれで十分だ。恭しくする必要はないし、かしこまって多額の現金や品物を行き交わせる必要もないんだから。

「式とかするの?」
「少なくとも披露宴はしない。式は…まだ考えてない。」
「披露宴は余興が傍から見てて自己満足でしかないから止めて欲しいけど、式は会費制でするのも良いかも。」
「会費制、か。」
「そう。それなら祝儀も兼ねるし祝儀より格安だし、食事とかに専念出来るから、披露宴よりずっと良いと思う。」
「するんなら、そっちの方で考えておく。」

 何もしない選択肢もありだが、ごく気心の知れた人−マスターと潤子さん、それと俺の場合は高校時代のバンド仲間あたりのみを呼んで、食事会をメインにした結婚式、否、結婚会を開くのは良さそうだ。修之が言うように披露宴は余興がとにかくくだらないし、料理も高級なんだろうが味わって食べる雰囲気じゃない。
 祝儀にしたって本当に祝福のために払うと言うより、マナーや相場に従って呼ばれたから払うという程度のものだ。それと、披露宴を開催した新郎新婦の出費の埋め合わせのためでもある。それより食事会を兼ねた会にしておけば、食事は1人数千円あればかなり質も量も上等なものに出来るし、余興をやり過ごす必要もなくなる。何より数百万を投げ捨てるようなことをしなくて済む。
 新居はかなり決まりつつある。不満たらたらの両親と居る修之には悪いことをしたが、このまま進める方針には変わりない。修之に改めて礼を言い、新居が決まったら連絡すること、式をするならそれも決まり次第伝えることを話す。これで…十分だな。
 修之と別れた後、俺は晶子と共に最寄り駅まで歩く。小宮栄駅までのバスは丁度出た後で、次の便まであと30分ある。最寄駅までは15分程度で行けるし、麻生市で一度乗り換えることを含めても高速バスより早く小宮栄駅に着ける。
 早く着くと言っても30分に満たない時間差だから、バスを待つのもありと言えばあり。だが、今は一刻も早くこの町から出たい。「親の言うことを聞け」を自分の意見を押し付けることと勘違いしている両親、特に母親。泣くほど嫌がられるほどなんだから、とっとと離れてやる。そんな反抗期じみた気持ちもある。
 この町は何時来ても殆ど変わらない。恐らくもう来ることはないだろう。この町で朝から晩まで過ごした小中学校では苛めに遭うこともなかったからさして悪い記憶はないが、さして良い思い出もない。もう俺には帰る家があるし、家に帰れば待っていてくれる人が居る。だから、この町に未練はない。

「…決して喜ばれる雰囲気じゃなかったですね。」
「俺が就職先で言うことを聞かなかった、否、言うとおりにならなかったことが気に入らないのさ。気に入らないから他のことも気に入らない。そういう考え方なんだ。これでもう来ることはないと思うとむしろ清々する。…そう思うのは駄目か?」
「いえ。親は…何処でもそれほど変わらないのかな、と。」

 そうか…。晶子も世間体を最優先した両親に従兄との仲を引き裂かれたんだったな…。価値観が合わないのは人間だから仕方ない。自分以外は全部他人という極端な見方も出来るくらいだし。だが、親子だと親が自分の価値観を絶対として子どもに押し付けることが「教育」や「躾」と信じて疑わない場合が多い。
 もうそれは通用しないし、させない。大学は就職先こそ企業にしたがそれなりに目標があって選んだものだし、それは親の希望−世間で納得される「良い大学」に入ることを満たした。大学までは親の希望に一致する方針で進めても良かった。だが、就職してからはそうはいかない。一言で言えば「時代が違う」。
 大企業の社員や公務員になったら一生安泰だった時代は確かにあった。親の世代はそういう価値観が圧倒的だったし、職業によって生活や教育の水準に明確な格差があった。それに企業や自治体もしくは政府の方針に従って仕事をこなしていけば、相応に昇進できるシステムがあった。
 残念ながら今は違う。大企業でも数百人数千人規模のリストラ≒首切りをするし、公務員への風当たりは強い。公務員を妬んで悲願で叩く癖に子どもにはそれを進める感覚が理解出来ないが、いずれにせよ公務員も評価や合理化と無縁じゃなくなっている。公務員だからこそ些細なことで全体を叩く風潮すらある。
 高須科学がリストラしないという保証はない。だが、企業訪問と採用試験を通じて自分がしたいこと、そこまでいかなくても積極的に取り組める仕事があるし、知名度や業種だけでは分からない優良さ、特に社員が長く健康的に働ける環境があって、社員がそれを護るシステムが存在することを知った。だから高須科学に決めた。
 それに、大企業や公務員に就職してハラスメントや長時間過密労働で心身を壊した際、それを勧めた両親が何か責任を取ってくれるかと言えばそんなことはない。「お前が悪い」で最終的には片付けられる。そんなことはそれなりに経験して来た。学生だから「お前が悪い」でも過ごせたが、今後はそうはいかない。責任を取れないんだから無責任に押し付けられては困る。
 結婚にしたって、親の世代のように結婚式に続いて披露宴をして、なんてことをしていたら貯金が吹っ飛ぶ。援助されたらされたで親族同士で見栄の張り合いや醜悪な争いが起こる。元々本当に親族の結婚を祝おうという意志がある人の方が少数派で、披露宴にかこつけて客の立場で飲み食いしたい、酒の勢いで言いたいことを言いたいだけの輩の方がずっと多い、と少ない出席経験で悟った。
 だから、披露宴はしない。式は会費制の食事会形式なら検討する。「金を出すから口も出す」で式次第から出席者まで振り回されたり、「金は出さないが口は出す」で外野からあれこれ言って、言うとおりにならないと「メンツを潰された」とか意味不明なことを言うような親戚なんて、こちらから付き合いをお断りしたくてならない。
 親の言うことは絶対正しいとは限らないが、親は自分の言うことが絶対正しいと信じて疑わないし、言うとおりにならないと何時までもグチグチ文句を言う。そうすることで相手が折れて自分の言うことを聞くことを待っているし、言うことを聞いたら聞いたで「最初からそうしておけ」とまた文句を言う。もうそんなのには付き合ってられない。

「正直…私の両親も喜ぶより不満や文句を言う可能性が高いと思います。」
「親や親族には歓迎されないようだな。それならそれで良い。むしろ…、披露宴を開かない口実が出来る。呼ぶ新族が居ないんだから。」
「そう…ですね。」
「親にはけじめとして報告に行くって決めたんだし、それだけ考えよう。」
「はい。」

 今後圧力がかかるかもしれない。少なくとも仕送りを停止する可能性はあると踏んでいる。それならそれで良い。どのみち4月からは仕送りなしで生きていかなきゃいけないんだし、俺独りじゃ出来ないことを晶子と分担して出来るようにするために、一緒に暮らすって決めたんだから。
 翌週の日曜夜。バイトから帰宅して明日に備える。備えると言っても着る服を出してアイロンをかけるくらいだが。明日は結婚報告の第2回、晶子の両親への報告。緊張感より諦め感の方が強い。世間体を優先して前に居た大学を辞めて今の大学に入り直し、単身新京市に移り住んだ晶子を止められなかったとはいえ、結婚の報告に良い顔をするとは思えない。
 世間体云々を最初に持ち出し、晶子が前に付き合っていた従兄を強制的に見合い結婚させたくらいだ。両親や親族の閉鎖性や硬直性は俺の方より強いと思っても差し支えないだろう。恐らく、地元の大学じゃなくて1人暮らしで遠距離の大学に通うこと、否、大学に通うこと自体世間体の範疇に引っ掛かる可能性すらある。
 そんな価値観で久しぶりに帰省した娘が結婚相手として見知らぬ男性を連れて来たら、まず良い反応は示さないだろう。「遠距離の大学に1人暮らしをしてまで通うから」「親の知らない男を連れて来ていきなり結婚の報告なんてふしだら」とかいう反応が出るのは容易に予想出来る。
 …考えても始まらない。どのみち俺と晶子の結婚は身内には基本祝福や歓迎はされないものと思った方が良いってことは、第1回の俺側で分かったつもりだ。少なくとも「こんなどうしようもない男と」と言われて晶子が恥をかかないように振る舞うこと。これだけは肝に銘じておかないといけない。

「今度は私の方ってなると…色々頭に浮かんできます。」

 自分の服にアイロンをかけた晶子が口を開く。

「やっぱり…緊張より不安や諦めの方が強いです。」
「不満や文句を言われるよりは、祝福された方が良いからな。その可能性が低いとなるとどうしてもそうなる。」
「だからと言って、結婚そのものや今後の生活が不安とか、そんなことは思ってません。それは…間違いないです。」

 女性はどうしてもこういう場合、「周囲に反対される自分が可哀相」と悲劇のヒロインになったり、「こんな状況で新生活に入るのは怖い」とかマリッジブルーになったりしやすい。反対されるのは様々な事情があるから一概に新婚側が虐げられているとは言えないし、本当に2人きりから始める生活に不安がない方が不思議だ。
 だが、それを理由に悲劇のヒロインやマリッジブルーとやらで、絶えず自分を気遣うことを求められたり、それが最優先されないと悲劇のヒロインやマリッジブルーを悪化させていくようだと話にならない。晶子はこれまでの経験と教訓から、状況や不安から生じる悲劇のヒロインやマリッジブルーという、自分を中心にすることを当然視する妄想に陥らないように自戒しているのが分かる。

「そんなこと言ってたら、これから2人で始める生活どころじゃなくなりますよね。」
「大丈夫だな。」

 晶子が服をハンガーにかけに行く間、俺はアイロンを受け取って自分の服にかける。服をかけるのは直ぐだから、晶子は風呂の準備をしに行く。アイロンをかけるのはシャツとズボン。ジャケットの方はクリーニングから帰って来て間もないし、形状が複雑だから不要にアイロンがけしない方が良い。ズボンは…まじないみたいなもんか。

「1つ…お願いすることになります。」

 風呂場の方から戻ってきた晶子が、俺の隣に座る。

「恐らく…実兄が何か言ってくると思います。実兄の言うことを真に受けないで欲しいんです。」

 兄と言わず実兄と言うあたり、従兄との感情の違いを感じる。従兄と付き合っていたのを両親にばらしたのが晶子の実の兄だったな。どうも実の兄とは仲が良くないようだ。

「兄さんとはあまり仲が良くないのか?」
「実兄は両親寄りの考え方なんです。親の言うことは常に正しい、長男は親の光景だから私はその言うことを聞いて当たり前、という感じで…。従兄との交際を私と従兄の親に伝えたのは、親の考え方を受け継いだことで、従兄妹同士の交際は言語道断だと思ってのことで当然のことだ、と後で実兄から聞かされました。」
「直系の家族ってのは親戚より関係が密だから、諍いがあると親戚より厄介になるな…。」

 俺の場合は弟が祝福してくれた。兄弟の数は同じだが、関係の状況は違う。となると晶子の場合は全面的に反対されて、不満や文句のオンパレードになると考えた方が良さそうだな。

「それこそ、報告したら即退散、くらいの考えで良さそうだな。…晶子の言うことはきちんと憶えておく。」
「お願いします。」

 俺の時より波乱やトラブルが起こりやすそうだ。でも、これで堪えているようじゃ話にならない。「何も言えないのは悔しいから文句を言ってやる」くらいの立ち居振る舞いで、晶子が胸を張って報告出来ることだけ考えよう。誰にでも好かれるってことは無理なんだから、割り切りも必要だ。
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