雨上がりの午後

Chapter 300 「家族」への準備(後編)−徒労の終焉

written by Moonstone

 家具店は電気店と同じフロアにある。場所は何と向かい側。電気店の出入り口にあるゲートを出る方向に進むと、すぐ正面に家具店の出入り口とゲートが見える。だから、電気店か家具店を出てそのまま直進すれば電気店を出たら家具店、家具店を出たら電気店に入れるようになっている。エスカレーターはその中間地点に位置している。
 その構造に従って、電器店を出て直進してそのまま家具店の出入り口でゲートを通る。すると、せいぜい10メートル離れているかどうかの場所が一転して別世界になる。アップテンポのBGMがリピートされる電器店と違って、BGMそのものがない。店内の照明も蛍光灯が敷き詰められたような電器店とは対照的に、間接照明主体でやや薄暗い。
 照明や雰囲気の違いは大きいが、客の入りは多い。この家具店はタンスやソファの他、デスクや椅子、ベッド、カーテン、キッチン用品など、インテリア関係なら何でも揃っている。向かいの電器店と合わせて、新生活や模様替えで家の中のもので新たに必要になったり買い換えたりといったことを、全てこのフロアで出来るようにと考えてのことだろうか。
 出入り口付近はソファが並んでいる。この辺の理由は全く分からない。商品が柵で囲ったりすることなくそのまま置かれているから、当然のように座っている客が多い。ソファ自体は表面の材質から大きさまで色々揃っている。見るだけでも飽きないし、座りたくなる気持ちは分かる。
 晶子はあまりソファを欲しいと思っていない。「掃除がし難くなる」というのがその理由。実に晶子らしい理由だが、ソファを置くには今の家は狭い。仮に置いたら、ものに沿って移動しなければならなくなる。
 ただ、見たくもないほど嫌いか興味がないかというとそうでもない。ソファにも色々な形状がある。イメージどおりの「豪華な椅子」に始まり、ベッドの縦半分を立てたようなもの、ふかふか具合が強くて座ったらめり込んでしまうようなものなど色々だ。眺めて想像するだけでも結構楽しい。
 ソファのコーナーを出て、デスクや椅子といったオフィス関連のコーナーに移動する。デスクや椅子も実にさまざまな種類がある。子ども向けの本棚と机が一体になった学習机、長方形の本体と4本の足というごくごくシンプルな作りのもの、L字型−曲がっているのは左か右かの違いがある−の大型のもの、会社の重役が使うような重厚な作りのものなど机でも色々ある。
 椅子も背もたれのない診察室にあるようなもの、オフィスにあるような背もたれがあるシンプルな作りのもの、肘掛まであるが骨組みに多少皮を貼ったような変わったもの、やっぱり会社の重役が使うような総皮貼りの重厚なタイプなど様々だ。
 意外なのは、机より椅子の方が全般的に高価なこと。机だと大型のものでも3万か4万で買えるが、椅子は見た目スカスカな作りでも簡単に5万を超える。総皮貼りのものに至っては10万を超える。この価格設定は分からない。骨格−と言うのか不明だが−の複雑さの違いだろうか。

「祐司さんには、良い机と椅子があった方が良いと思うんです。」
「俺に?」
「ええ。祐司さんは長い時間座ってすることが多いでしょ?長い時間を過ごす場所ですから、多少高くても良いものを買う方が良いですよ。」
「今使ってるのは古いからな。買い替えの時期と言えばそうかもしれない。」
「物持ちが良いですよね。」
「そう簡単に買い替えられるほど金持ちじゃないからな。」
「凄く良いことですよ。物を大切にすればその分無駄遣いしなくて済みますし、堅実な祐司さんらしいです。」

 俺が使っている机は小学校入学時に買ってもらったものじゃなく、父さんから譲り受けたものだ。そのせいで小中学生が使うものにしてはあまりにも古くてゴツゴツしていて、当時は使いたくなかった。今もそれは変わらないが、作りが頑丈らしくて壊れずに使い続けている。
 椅子は成長に合わせて何度か換えたが、座り心地は快適とは言えない。こうして豊富に取り揃えられた机や椅子を見ていると、机と椅子を買い換えたいという思いも生じる。だが、まだ使えるから絶対買い換えたいというほど強くはない。貧乏性とも言えるし、晶子の言うとおり堅実とも言える。
 最初は嫌々だったが、10年以上使っていればそれなりに愛着も湧いてくる。目立った損傷もないし、使い勝手も快適とまではいかないまでも悪くはない。それらを集約すると、差し迫って買い換えるだけの必要性が見当たらない。だったら、無理に買い換えて金を遣わなくても現状維持で良い。
 消極的とも保守的とも言える消費の姿勢だが、浪費に繋がり難い点では良いと思う。こういう性格だから、飲食店のバイトとしては破格の時給が毎年アップして結構潤沢な収入が得られるようになっても生活水準を乱さずに貯金を殖やしている。晶子との本当の共同生活を始めたいという明確な目標があるのもあるが。
 その目標に無理なく邁進出来るのは、晶子が率先して実践しているのが大きい。俺に貯金や節約を迫って自分はブランドものの服やバッグやアクセサリーを買い漁ったり、グルメだ旅行だと遊び歩いていたら、俺は貯金を止める。それで文句を言うなら付き合いそのものを止める。そんな不平等条約は受け入れるかどうか以前の問題だ。
 晶子は本当の共同生活を始めるため、そして京都旅行で明らかになった「その後」、すなわち安心して子どもを産み育てるためという2本立ての目標に向かって、無駄遣いをしない。ケチでは決してないが、使うところと使わないところを明確に分けていて、使うところも優先度を設けている。だから生活にメリハリを付けながら貯蓄額は堅調に増やせる。
 2本立ての夢を実現させるには、1つ目の夢が腰を据えた状態なことが絶対条件だ。そのためには、浪費リスクが高い男はパートナーにしてはならないし、家庭生活をないがしろにする男もリスクが非常に高い。俺に照準を絞って後は一直線に攻め続けたのは、自分の夢の実現に最適と見定めたからだということは、旅行で晶子が語ったことだ。
 そして同時に、俺1人に依存していては夢が実現し難いことも分かっている。俺の収入がいきなり5百万6百万、ましてや1000万とかいうレベルになる筈がなく、自分がそれに期待しているだけではいけない。だから、懸命になって内定を得ようとしていたし、それが実質不可能と分かった今では公務員試験の準備に勤しんでいる。
 机や椅子は、確かに今使う時間は長いが、生活に必要不可欠というレベルじゃない。一方、晶子が欲しいと思っている冷蔵庫や洗濯機やエアコンは「ないと生活出来ない」必需品だ。買い換えるならそちらを優先したい。晶子は喜ぶし生活は快適便利になるし、メリットだらけだ。
 机と椅子で連想した次のコーナーに移動。リフォームコーナーだ。浴室とトイレ、洗面台もあるが、広さゆえかキッチンが目立つ。複数のメーカーが代表的なリフォーム例を陳列する方式で、小規模なものから棚−キッチンボードと言うそうだ−を含めたシステムキッチンまで一覧出来る。

「これくらいキッチンが広いと便利だろうな。」
「夢は膨らみますね。コンロが3口あるのが羨ましいです。」
「今は2つだったか。3つだと変わるか?」
「煮込み料理をしながら焼き料理をしたり汁物を作ったりが出来ますから、出汁を取ったり長時間火にかける料理をするには便利だと思います。」

 晶子は煮物で必ず出汁を取る。だから昆布と鰹節は必需品の1つだ。カツオ出汁は割とすぐ出来るが出汁を取った後の鰹節を取り除くのが手間だ。昆布は手間こそ大して掛からないが、兎に角時間がかかる。最低30分は長い。
 最終的にはコンロで加熱するから、移動の手間を考えてかどうしてもコンロが1つは塞がる。煮物や長時間煮る作業が必要な料理をしながら他のことをしようとなると、今の俺の家のようにコンロ2つではやりくりが難しいだろう。
 店のキッチンにはコンロが4つある。火力が強いものが手前にあって、弱いものが奥にある。晶子と潤子さんが概ね火力の強いものと弱いものを1つずつ受け持って店の注文をこなしている。大量に来る店の注文をこなすためには4つあっても足りないくらいかもしれないが。
 頻繁に出入りするわけじゃないから確証は持てないが、渡辺家のキッチンにはコンロが3つあったと思う。やっぱり2つよりは便利なんだろう。その辺の事情は潤子さんの方がよく知っているだろうし、晶子とも話が通じやすいだろう。
 ただ、今の家ではどうにも手が出ない事情がある。賃貸の組み込み型だからだ。組み込み型だけならリフォームする際にどのみち撤去するからどうにかなるが、賃貸ではそもそも不可能だ。仮にリフォームを決行したとしても、退去する時に原状復帰する義務があるから手間と費用は2倍以上になる。
 だから、コンロ3つを使える環境にしようとすると、最低限持家に引っ越す必要がある。持ち家はどんなに安くても数百万、大抵は中古で1000万以上、2000万とか3000万とかの世界だから、さっきまで見て来た家電製品が物凄く安く見える。

「コンロ3つは別としても、キッチンが広いのは便利ですね。」
「店のキッチンは広いが、あんなイメージか?」
「ええ。お店のキッチンは広過ぎて持て余すかもしれませんけど、半分か2/3ほどあれば快適かな、って。」

 晶子の料理の手際の良さは見ていてよく分かるが、今のキッチンだと手狭だから元々ダイニング用に用意してあった小さいテーブルも使っている。俎板は流しとコンロの間にあるスペースに置き、刻んだ野菜を水に晒したり肉や魚に下味を付けるためにボウルに入れたりするのにテーブルを使う。
 晶子は時間と手間がかかる料理を作ることを惜しまない。出汁の元なんて溢れているのに昆布と鰹節から取ることにこだわるのもその1つだ。下味を付けたり灰汁を取ったりといったこまごまとした手間も惜しまないから、数々の上手い料理が出来るんだが、そのための環境としては貧弱だ。
 さっき俺の机と椅子の買い換えの話が出たが、緊急性はないし当分使える。並ぶキッチンの例を見ると些細な額だが、それらに使う分をキッチンの購入やリフォームに回したい。俺と晶子の生活、否、家庭におけるキッチンの主である晶子が便利で快適な方が、俺としてもありがたい。
 キッチンをひととおり見て回ったところで、必要な金額を概算してみる。キッチンは安いものでも数十万するし、幅も十万単位だからひとまず除外。実質家電製品のみで…安いものだと25万程度、高いと50万以上。倍くらい違ってくるのか。
 家電製品は今でも貯金を引き出せば何とかなるが、キッチンはどうしようもない。賃貸で組み付け型だからだ。据え置き型なら買い換えが可能だが方向性が違う。賃貸だとリフォームそのものが実質不可能だ。やれないことはないが退去時に原状復帰が必要だから、手間と資金が2倍以上必要になる。
 キッチンの購入やリフォームを考えるなら、最低限持ち家の購入が必要になる。となると、中古で最低数100万から2000万、3000万、新築だと2000万以上だったと思う。チラシで見たこの辺の物件の価格帯だから他のところだとまた違うんだろうが、一気に遠い世界の話になってくる。
 いきなり全てを手に入れるのは不可能だ。やっぱりまずは賃貸でしっかり金を貯めて、子どもが出来たり大きくなったりするにつれて適時引っ越すのが良いんだろうか。額が額だけにちょっとイメージし難い。俺1人じゃないから晶子と相談して決めていけば良いか。

「なかなかの出費になるな…。」
「買い換えなくても片方処分で良いと思いますよ。」
「片方?」
「祐司さんと私は今それぞれひととおりの家電製品を持ってますけど、そのどちらかを処分して片方をそのまま使い続ければ良い、ってことです。」
「それだと買い換えとは全然違う方向になるぞ。」
「夢や憧れは持ってますけど、それが叶わないのは絶対嫌、っていうスタンスはとらないつもりです。目標にすれば毎日を頑張れますし、まだまだどちらも使えますから、もっと使い込んでからでも十分ですよ。最初は2人ですから。」

 やっぱり夢や憧れに酔ってないな。元々そういう良い意味での割り切りや現実的なところはあったが、立て篭もり騒動や京都旅行を経て、若干あった「悲劇のヒロイン」病を根治しようと意識的に行動している。
 「悲劇のヒロイン」病ってのは創作の世界なら話を盛り上げたり緊迫させたりといった要素になりうるが、実際には迷惑だし精神を消耗させられるだけで良いことは何もない。「自分の夢や願いは叶えられて当然」というスタンスが背景にあるから、始末が悪い。
 付き合う状態でも精神力を削られるのに、結婚生活となると被害は甚大だ。消費に焦点があると「貧乏暮しに喘ぐ可愛そうな自分」と位置づけて勝手に嘆き悲しんだり、そんな境遇に晒す配偶者を貶めたり、「モノでしか心の穴を埋められない可愛そうな自分」と位置づけると浪費に明け暮れる。
 配偶者に焦点があると「配偶者に構ってもらえない可愛そうな自分」と位置づけて不倫に走ったり、子どもに自分の夢を託そうとして過干渉になったり、逆に虐待に走ったりする。子どもを含めた家庭生活全般に破壊的な悪影響を及ぼすだけで、良いことは何もない。
 共通する背景は「可愛そうな自分」という認識や位置づけだ。実は恵まれた状態だったり、そこまでではなくとも生活には支障ない状態だったり、配偶者の挙動も問題なかったりするのに、「悲劇のヒロイン病」はそういった客観的な状況を全否定し、「可愛そうな自分」を作るためには強引に問題点を作ったりする。
 作られた問題点は、それこそ問題にならないレベルだったり、話し合いで十分解消出来る範疇だったりする。ところが、「悲劇のヒロイン病」の前には解決困難な重大問題であり、そのために自分が苦しめられ、悲しんでいるという構図が作られる。自分だけで完結するならまだしも、それを周囲に広める場合も珍しくない。
 思うに、DVや痴漢やストーカーという女性の被害者が多いとされる犯罪や問題も、実は「悲劇のヒロイン病」に基づく誇張や捏造の場合が結構あるんじゃないだろうか。これを公言すると「女性の人権を無視している」とか激しく攻撃される危険性が高いが、それ自体人権を持ち出すことで批判を封じる非常に危険な性質のものだ。
 それは別にしても、郵便物を取られたり盗撮盗聴をされたりといった証拠が出るストーカーはまだしも、痴漢やDVは正直女性の言い分が殆どそのまま通用する。実際、それを悪用して示談金目当てに痴漢をしたと言いがかりを付けたり、DVの事実がなくても裁判所ぐるみでDV認定されてしまう事例も発覚している。そして、それらの悪用をした女性に対する制裁や糾弾は全くなされない。
 「女性だから」と最初から問答無用に門前払いしたり、方向性を決めるのはおかしい。それは紛れもなく差別だ。しかし、「女性だから」で全ての言い分を受け入れたり、それ以外の良い分野批判を「差別」や「人権侵害」とレッテル貼りするのは、女性の特権を作りたいだけのことなんじゃないかと思ってならない。

「それに、いきなり何もかも揃ってしまうより、1つ1つ買い換えたり揃えたりしていく方が楽しいと思うんです。今年はこれを買ったね、来年はあれを買い換えるのが目標ですね、とか話すことも出来ますし。」
「年単位の購入計画だな。」
「私はそのつもりですよ。これからの生活は2人で築いていくものなら、2人で考えて話し合って計画を立てて進めていけば良いんです。私は祐司さんとそういうことが出来る夫婦になりたいんです。」
「きちんと将来を見据えてるな。」
「この数カ月で、私独りだと大したことは出来ないし、勝手なことをして祐司さんに迷惑をかけてしまうって身に染みて分かりました。だから、祐司さんの補佐という立場に徹して、祐司さんの足手纏いにならないようにしたい。そのためにはきちんと現実を見据えて、夢や憧れに振り回されるようなことはしちゃいけない。常にそう考えてます。」

 晶子は京都旅行を契機に俺の妻を名乗るだけでなく、自分の立ち位置を意識している。どういう立場で居れば俺と自分が納得出来て、一番行動しやすいかの観点だ。その結果として行きついたのは、旅行中にも言っていたが俺が判断を下して行動を先導し、晶子が補佐や追従に徹するというもの。
 所謂夫唱婦随というやつだろうが、基本形であって絶対じゃない。現にスーパーで食材を購入する時は完全に晶子が主導している。他にも臨機応変にその場その時でどちらが主導するか決めたり、妻が基本的に主導するパターンもある。どうするかは夫婦やカップルがそれぞれ決めることだ。そこに女性の権利や男女差別を旗頭に、「男女が常に話し合って決めるもの」という一律の価値観を押し付けて来るからおかしなことになる。
 一律に夫が全て決めて妻はそれに必ず従うものという価値観を適用するのはおかしい。そういう価値観を道徳や修身として教育レベルでも押し付ける時代があったのは事実だ。ところが、それに反対して平等や同権を求める筈が、男女が常に話し合って決めるという価値観をセミナーなり講演なりで押し付けている。
 深刻な矛盾だし、それが自分達の反対・敵視している勢力と同じようなことをしていることに気づかないから、反発は起こるし男女間の断絶も起こる。元々男性の理解や協力を得ようとしている向きはないから当然だが、それで本当に同権だの平等だのが多くの人に納得できる形で普及すると思ってるのが怖い。

「折角本格的に一緒に暮らせるようになるのに、新生活は全部新品じゃないと嫌だとか言い出したら、それ以降ずっと揉めることにもなりかねませんし、女性はそういうことを言いやすいですから、尚更自戒しないといけないんです。」
「俺か晶子のものを継続して使うのは良いアイデアだと思うが、新品じゃないことに抵抗はないか?」
「全然ないです。現に今も祐司さんのものを使わせてもらってますし、その継続や延長線上のことですから、気になる方が変ですよ。」

 それはそうだ。俺の家にある家電製品は1度も買い換えていない。晶子は俺の家に居る時間を増やして今に至るから、その間当然洗濯機に限らずキッチンやその他家にあるものを使って来ている。俺のものを使うことに抵抗があったら住み着くどころの話じゃない。
 俺と晶子が合意出来ている範囲だと、本格的な新生活を始めるにはそれほど大きな出費は必要ないかもしれない。流石に家は今のだと狭いから引っ越すとして、その出費と不用品の処分くらいで済むような気がする。だとすると、最低4、50万くらい見込んでおけば良いし、それくらいなら今の貯金で十分間に合う。
 家電製品の買い替えは3製品だけでも安くて20数万、高いと50万は必要になる。つまり引っ越し費用と不用品の処分で見積もられる費用と同程度だ。初期費用は抑えられればそれに越したことはない。必要なところでは使うが不要なところでは使わない。このメリハリが大切だ。
 新婚で全て新品を揃えることは珍しくない。家電製品は言うに及ばず、家も車も新築−マンションでも同じ−や新車で揃えるというものだ。そうなると費用は簡単に2、3000万は必要になる。そこに披露宴を加えると計算するのが嫌になるほどの額に達する。
 京都旅行で滞在していた宿で、後半から披露宴のために滞在しているという新婚夫婦の夫側とそういう話になった。専ら夫の愚痴を聞いていたようなものだったが、夫の言うことはどれも納得がいくものだった。披露宴の費用だけでも新居の頭金に出来る額だったが、それとは別に新居などの費用が必要になるというのは、全て新品で始めたがる女性側の心理を裏付けていた。
 それが男性側も納得出来るもので、両者が折半するなら夫も何も言わなかっただろう。それらが全て夫の出費で夫は妻と妻の両親に押し切られた結果だと言っていた。単純に意志が弱いとすることも出来るだろうが、1対3と数で不利な上に、「一緒に一度のこと」という決まり文句で受け入れを迫られて断れる自信がどれだけあるだろう。
 挙式までの詰めの段階で揉めると、後々まで尾を引くと言われる。そこに金銭が絡むと尚更根は深くなるし、こじれてしまう。更に両親や親族が口出しするともう最悪だ。最低限夫婦は確実に細部まで合意しておいて、干渉を退ける意志の強さが求められるだろう。

「そういえば、さっきの電気店もそうだが、新居向けって銘打ってるものが目立つな。」
「時期が時期ですからね。」
「時期?」
「今時期はジューンブライドの真っ只中ですよ。」
「ああ、6月だからか。」

 暑い寒いくらいしか季節を感じる要因がないのもあるが−今年は空梅雨と言われている−、今は6月、ジューンブライドの時期だ。ローマ神話だったかの女神ジュノーの祝福を受けるからとかいう説を聞いたことがあるが、日本では単に梅雨時期で結婚式場の入りが悪いから、そういう売り文句を作って広めたんだろう。
 海外ならまだ話は分かる。雨や曇りが多いイギリスは兎も角、欧州には梅雨時期はないから6月とジュノーの祝福を連携させても違和感はないだろう。梅雨がある日本に欧州でのやり方をそのまま持ち込めば、「?」と思う違和感を伴う部分がどうしても生じてしまう。
 違和感を満載していても、商業ベースで儲けが出るとなると宣伝が繰り返される。そして何時の間にか普及・浸透してしまって、異論や正論が「夢を壊す」「味気がない」と忌避され、更には果ては事実までが「嘘」とされてしまう状況も出来てしまう。嘘も繰り返せば真実になるとはよく言ったもんだ。
 改めて見てみると、此処家具店に限っても幾つか関連商品−例えばダイニング用のテーブルと椅子を必要個数−纏めて幾ら、としているものが点在している。はっきり憶えてないが、家電量販店でも「新婚生活応援中」とかいう札が貼られた商品が点在していた。ジューンブライドで挙式→家電製品と家具をまとめ買い、という算段だろう。
 晶子はウェディングドレスに憧れはあっても、ジューンブライドには全く興味がない。何故か聞いてみたら「梅雨時期や暑い寒いが極端な時期にウェディングドレスは厳しそう」というのが理由。ドレスだから通気性や機動性は二の次だし、梅雨時期は湿度は高いが気温は暑くもなく寒くもない微妙な時期だから、空調も効かない場合が多い。そうだと、式場でのドレス着用はかなり身体的に厳しくなることが考えられる。
 晶子が入籍日の希望を、俺と晶子が出逢った日である10月10日にしているのは、その観点からも理に適っている。その時ウェディングドレスを着られるかどうかは、正直不透明だ。だが、式場やプランといったものに執着しなければ、それこそ写真を撮るためなら融通は効き易いだろう。普段殆ど強請ったりしないだけに、数少ない希望は叶えてやりたい。

「次のところを見に行きませんか?ジューンブライドに絡めるつもりは全然ありませんから。」
「そうだな。」

 ジューンブライドに便乗した売り場や商品に興味はないことは一致しているから、商品を改めて見て回る必要はない。家具店もこれまた相当広いし、コーナーはまだまだある。本格的な共同生活のイメージが湧きやすいコーナーや商品を見た方が楽しい。
 キッチン本体の次はキッチン周りのコーナー。食器や料理器具、その他キッチン周りの商品が集約されている。キッチン本体よりこっちの方が身近な感じがするし、買い換えのイメージも湧きやすい。シンプルで使いやすそうなもので商品が統一されているのもあるんだろう。
 食器は俺が1人暮らしを始める時に何故か2人分買いそろえてもらった。「来客があっても困らないように」とのことだったが、前の彼女である宮城があまり料理が得意じゃなかったし、遠距離でそう頻繁に来られるわけでもなかったから、使われる機会はあまりなかった。
 宮城と破局して間もなく晶子と出逢って、紆余曲折を経て今に至るが、晶子は料理が好きでしかも得意だ。2人分あった食器の1つはそのまま晶子の食器として使われ続けている。自炊を早々に放棄して食器棚で半ば埃を被っていた食器が、頻度の違いはあっても生活のレギュラーとして使われるなら、食器も本望だろう。

「食器でこれはどうしても欲しい、ってものはあるか?」
「えっと…。直ぐに思いつかないですね。私が作る範囲だと今ある食器で十分事足りますし。」
「グラタンは深めの皿があるし、敢えて買う必要はないか。」
「ええ。グラタンのように用途で必要な形の食器はそんなにないんですよ。それに、食器が幾つもあっても、乗せる料理がないんじゃ意味がないですよね。」
「それはそうだ。」

 食器を揃えても料理の品が増えるわけじゃない。それは買い換えでも同じだ。立派な食器を買ったりしても載せる料理がなかったら食器棚の飾りになるだけだし、最悪ガラクタになってしまう。ガラクタになると分かって買うのは無駄遣いでしかない。
 買い換えるにしても、皿が欠けていたりフォークの枝−と言うのか分からないが刺す部分−が1本ないとかいうのなら、見栄えの問題もあるし、何より怪我をする危険性があるから買い換えた方が良い。だが、問題なく使えるものを買い換えるにはそれなりの目的や理由が必要だ。そうでなければ無駄でしかない。
 定期交換という考えを適用しないことでも、人によっては貧乏性に入るかもしれない。実際、仕送りと−親と就職内定先で実質決裂したが一応続いている−バイト代を元手に晶子と共同出資して生活を続け、残りは貯蓄しているだけの俺は貧乏学生と言われても仕方ない。だが、今の生活に困っていないのも事実だ。
 貧乏だから今あるものを大切に使い、使えなくなったら速やかに交換する。そんな生活で不自由はない。家電製品、特に冷蔵庫と洗濯機とエアコンが壊れたら直ちに電器店に走る必要があるが、今まですこぶる順調だ。壊れたら新品に買い換えれば良いし、それこそ今のものを買った時の値段で性能は十分上のものが買える。買い換えの頻度はそれで良いと思っている。
 食器もわざわざ投げつけたりしなければまず壊れることはない。運悪く洗い物の最中にぶつけて皿の端が欠けてしまうこともあるが、その時買い換えれば良い。世間的には安物かもしれないが、使い続けていればそれなりに愛着も湧く。尚更無理に買い換える理由がなくなる。

「私がものを知らないだけかもしれませんけど、食器はどのメーカーが作ったとか何処の産地で作られたかで、値段や色柄が変わることはあっても、使い勝手や耐久性に極端な差が出るとは思えないんです。材料が特別なもので耐久性が抜群とかいうのなら話は変わりますけど。」
「確かに。安価にしようとなれば材料に特別なものは使えないし、耐久性がずば抜けてたりするとその分割高になるだろうしな。」
「それに、やっぱり載せる料理がないことには、食器も飾りでしかないですよ。私としては食器を増やすより料理のレパートリーを増やしたいです。」
「晶子が今よりレパートリーを増やそうとすると、材料が特別なものくらいしかないんじゃないか?」
「うーん…。どうでしょうね。気づいていないだけでまだまだあると思いますよ。」

 晶子が作れない料理は何かと聞かれても直ぐには思いつかない。和食洋食中華思いつくものは何でも作れる。材料が手に入らないフォアグラやトリュフといった料理は別だが、必要なものがあれば中華のフルコースや懐石料理も作れるだろう。それくらいレパートリーは豊富だ。
 豊富なレパートリーをTPOに応じて調整したり取捨選択させることも自由自在。刺身を作れても弁当に使えば食中毒の危険があるし、懐石料理を料理の分だけ皿に載せて持って行くのは不可能だ。弁当には適した料理があって、数あるレパートリーの中から選んで詰めてくれる。
 4月の花見で晶子が持たせてくれた重箱弁当と鍋に入ったおでんは大好評だった。弁当は多彩なメニューだったし、おでんは少し肌寒い時期なのと、コンロで温めて食べられた。いずれも条件から可能な料理を選定して、前日の夜から準備していた。ああいう選択や調整は、料理に熟知した晶子ならではの技だ。
 晶子を看病した時に作った料理は潤子さんのレシピを見ながらだったし、普段の料理を手伝うことはあっても食材を出し入れしたり晶子の指示に従って下味を付けるために調味料を入れたり、出来上がった料理を盛りつけたりといった雑用だけだ。晶子が料理を主導することで居場所を見出しているから、俺は補佐や手伝いのままで良いような気がする。
 食器に続いてキッチン用品を見て回る。包丁やフライパンといった料理器具、ピラーとかいう皮むき器など便利グッズの類など、これまたバリエーション豊かだ。カラーリングを統一するためか、取っ手が茶色や黒以外に緑や赤の商品もある。取っ手がカラフルな料理器具は、見慣れていないせいで違和感がかなりある。

「カラーリングを意識してるんだな。」
「キッチンでもカラーリングが色々ありましたから、それと揃えるのもあるんだと思います。」
「バラバラよりは統一感があって良いよな。」

 単に個別の商品を売るだけじゃなく、色を揃えることも含めての品揃えか。キッチンが緑で料理器具が赤、冷蔵庫が黒だとすると、何だかミスマッチな気がしてならない。俺にも多少はセンスの欠片らしいものはある。無理に複数の色を揃えて調整しようとするより、1つの色で揃える方が簡単に整えられる。
 キッチン周りや料理器具はカラーリングの統一がしやすそうだが、家電製品、特に冷蔵庫との統一は限られる。家電製品はそれほど色のバリエーションが多くない。1機種で白と黒の2種類、多いもので3とか4でそれも明るい灰色や茶色といった無難なものだ。全部揃えないといけないことはないが、冷蔵庫だけ浮きそうな気がする。

「晶子は料理器具のカラーリングとか気にする方か?」
「原色に近い色とか、料理をする気がなくなるような色じゃなければ何でも良いです。それよりはやっぱり使いやすさや壊れにくさが重要ですね。」
「使う立場だと必然的にそっちにまず目が行くよな。」

 やっぱりこの辺晶子は現実をしっかり見据えている。カラーリングを揃えたキッチンで悦に浸るのは良いが、それで料理が自動的に出来るわけでもないし、使い終わった食器や料理が自動的に片付くわけでもない。道具はあくまで道具、道具は使えるかどうかが問題、と浮つかずに見るところは見ている。
 キッチン周りを過ぎると、次はベッドルーム関係に移る。衣料品に属するせいかパジャマなどはないが、ベッド本体に始まり布団、シーツ、枕など、ベッドルーム関係が網羅されている。ベッドはシングルも勿論あるが、ダブルの方が多い。カラーリングはキッチンより制限になるものが少ないから豊富だ。
 正直、ベッドルーム関係は少々苦手だ。どうしても晶子との夜を想像してしまって商品を見て回ることに専念出来ない。妄想というより直近の夜の光景を商品のベッドに投影する、記憶の再生といった感じだ。その分リアルでしょうがない。

「祐司さん、このエリアに来ると動きが少なくなりますね。」
「!気のせいだ。こういうのを置くにはやっぱり引っ越さないと無理かな、とか…。」
「んー。それだけじゃないような気がするんですけど。」
「気のせいだ、気のせい。」

 晶子は悪戯っぽい笑みを浮かべている。絶対分かってるな…。もう回数を数えられないほど繰り返してるのに、記憶に残るような光景を作るのは一体誰だと…。
 夜は昨日も営んだばかり。昨日どころか、週5〜6日ペースがずっと続いている。なかったのはそれこそ晶子が寝込んだ1週間くらいだ。新婚旅行と銘打った非日常感満載の京都旅行でひと段落つくかと思いきや、質・量共に濃密さを保ち続けている。
 ある意味万年発情期の男である俺はまだしも、晶子は良い意味で落ち着くと思っていた。非日常でムードたっぷりの京都旅行を過ごしたことで、俺の妻の座をほぼ完全に確保したことで「俺を繋ぎとめられる」と確信して、セックスのペースを落とすんじゃないかと思っていた。
 ところが予想とは逆だ。京都旅行であらゆるタガを外したことで、俺の妻の座をほぼ手中にしたからこそセックスに全てを注ぐような感じになった。俺がセックスする相手は自分だけと人間関係的にも心情的にも確信したから、徹底的に自分をさらけ出し、それに喜びや幸せを見出しているんだろう。
 俺としては困ることはない。同じ女とセックスしていると飽きる、という話を聞くが、俺は全く飽きない。晶子が喘ぎ動いて乱れる様は興奮を扇動する。磨きがかかる一方の晶子の身体を感じるうちに絶頂に達する。迸らせる場所が晶子の中か外かの違いだけだ。
 それほど目新しいことを繰り出せるわけでもない。なのにこうも飽きが来ないどころかベッドに入る直前から高ぶってくるのは、晶子の昼と夜のギャップが大きいからだろう。夜は何でもするし何でも言うし何でも見せるが、昼は家に居る時でも下着が透けないように服を合わせるし、顔と手以外の肌が見えないようにブラウスのボタンは上まで留める。
 そういう「俺しか知らない面」「俺だけが知っている姿」があるからこそ、飽きることなく没頭し続けられるんだろう。晶子はそういった男の独占欲をよく分かっている。晶子は以前、自分を独占欲が強いタイプと言っていたが、それだからこそ分かることがあるのかもしれない。

「今の部屋の大きさからしても、セミダブル以上はちょっと無理だよな。」
「逸らしますね。でも、私は今のままでも良いです。」
「狭くないか?」
「寝ていてベッドから突き出されたり布団や毛布を取られたりしたことはないですし、今の方がくっついて寝られますから。」

 確かに今は密着して寝ている。大体夜の営みを終えた後だから、晶子が俺の肩口を枕にするか、俺に覆いかぶさるかに大別出来る形で朝を迎える。とは言え、俺が目覚める頃には晶子は起きて朝飯を作ってるから、寝る前の様子しか見ることはないが。
 夜を休む日も晶子は俺の肩口を枕にして寝る。俺も晶子も寝つきは良い方だし、今まで寝ている途中に寝相が悪いと怒られたり、逆に布団や毛布を取られて寒くて目が覚めるといったことはない。夜の営みと比較すると実に平和だ。
 ベッドもそのままで良いとなると、晶子の就職先によっては引っ越し代のみで新生活を始められるかもしれない。どちらかの持ち物の流用や持ち物の共同化をすれば、高価なものが多い−貧乏学生にとっては万の単位は大金だ−家具や家電製品を殆どそのまま使えて、必要経費をかなり抑えることが出来る。
 財政面では理想的だが、晶子が現実を冷静に見ていて少々不安になる。あれを買えこれを買え、これじゃないとみっともない、と欲求任せや見栄を気にしての買い漁りをされるよりずっとましだが、ある意味「らしくない」晶子の様子は、ちょっと無理をしてるんじゃないかと思ってしまう。
 別に帰宅してからとか別の機会に突然蒸し返して、ああしたかった、あれが欲しかった、とか愚痴ることはない。そうされているくらいなら、今頃こうして実質一緒に暮らしてもいない。本心から必要なもの以外はいらないし、あれば良いけど執着はしないと思ってるんだろう。
 それが俺との本格的な共同生活に向けての心構えであれば勿論良い。だが、自分を過度に抑え付けてまで我慢に徹する必要はない。かと言って「無理をしてないか」とか聞くのは押しつけがましいし、それで「無理をしてます」と言うとは思えない。この辺難しいところだ。

「そろそろ帰るか。」
「はい。」

 広大な店内をほぼ一周してゲートを通って出る。今は必要ないと思っていても、いざ引っ越しとなれば必要なものが出てくるだろう。その時はその時で必要なものを見繕って買えば良いし、買うにしても一気に全部揃える必要もない。優先度の高いものから買い揃えていけば良い。
 帰り道、晶子は「楽しかったしまた来たい」と言う。俺には断る理由はない。イメージを膨らませるのは楽しいし、晶子と2人なら話やイメージの幅も広がる。俺だけ、晶子だけであれこれ考えて進めて既定路線を押し付けるんじゃなく、2人で話し合って納得して進んでいこう。そうすれば、すれ違いも最小限で留められるし修正も容易だろう。普段から意識して行動していけば、馴染んでいく筈だ…。
 まさか、これほど酷い状況になるとはな…。7月も中旬になって一連の公務員試験の結果が出揃った。俺と晶子の結果はあまりにも差が大きい。俺は国家U種、新京市がある地元県庁の上級試験のどちらも合格。晶子は…すべての試験が不合格だった。
 原因は尋常じゃない倍率だ。晶子は国家U種も4つの地方公務員試験−俺と同じものに加えて、新京市と小宮栄市の市役所試験と小宮栄市がある県庁の上級試験−もすべて「行政」の試験区分だったが、すべて20倍越えだった。
 俺は2つ共「電気電子」の試験区分で受験した。こちらも倍率は例年と比較するとかなりの高さだったが、国家U種は10倍、県庁上級は13倍と「行政」区分よりは低かった。一般教養は全区分共通だろうし、専門分野は院試のレベルだったから、試験対策と同じ感覚で解けた。
 晶子も入念に準備していた。体調も万全だった。しかし、事態は予想より悪くなっていた。4大出の文系女子学生はごく一部を除いてどこもかしこも内定が取れず、結果公務員試験に殺到した。昨年の不合格者も相当数含むから異常な倍率になってしまったわけだ。
 得点や順位は公表されないから分からないが、恐らく1点2点で明暗が分かれる事態になっていて、晶子はそのギリギリのラインで不合格になってしまったんだろう。準備も入念に進めて体調も万全で臨んだのに…。

出来る限りのことをしての結果ですから、残念ですけど悔いはありません。
もう少し頑張ってみます。それでも駄目だったら…、よろしくお願いします。

 晶子は試験結果が出揃ったところで、見た目サバサバした表情でこう言った。事実は事実として受け入れるしかない、残り僅かな可能性に賭けて出来るだけのことをする。そんな決意は言葉だけでなく表情からも滲んでいた。一番落胆しているはずなのに…。
 勿論、「よろしくお願いします」の申し出の意味は分かっているし、俺は無条件に受け入れると確約してある。店には結果を報告して、本来保険とするようなことは失礼だと思うが、どこにも就職出来なかった場合は引き続き店で働かせてもらうよう俺も頼んだし、マスターと潤子さんは快諾してくれた。
 落胆のあまり大学にも行かなくなり、バイトも休むようになるんじゃないかと、結果が出揃った時に危惧したが、それは今のところ杞憂に終わっている。今後心身の疲労が蓄積してふとしたことで一挙に噴き出す危険がないとは言えないが、言葉どおり可能性がある限り模索しようと前を向けるのは凄い。
 だが、時期が時期だからオンラインでエントリーシートを記入して登録、というタイプの企業はもう空きがない。だから晶子は文学部の事務室に足繁く通って、求人が来ていないかを探り、来ていれば即アポイントを取って出向くようにしている。可能性が完全に潰えるまで諦めないつもりだとよく分かる。

「まったく駄目、か…。」
「はい…。」

 7月も終わりに近いバイトが休みの月曜日。通常どおり大学に行っていた俺は、ようやくアポイントを取った新京市の企業に出向いていた晶子から連絡を受けて、帰宅後に話を聞く。結果は今回も駄目。面接どころか採用試験にも辿りつけない有様は、企業間で口裏合わせをしているんじゃないかと思うくらい一致している。
 コンプライアンス云々と言われるが、就職活動に限ってみるとまったく存在しないと言って良い。無法地帯と言って良いくらいだ。晶子の場合、最初から交際相手は居るかどうか聞かれて、居ると言うと態度が拒否で決まるか、目聡く指輪を見つけてふしだらだ何だと因縁を付けて門前払いするかが殆どだ。
 中には、交際を止めれば採用試験を考えなくもない、と取引めいた言い方をしてくる企業もある。晶子は当然拒否するから、やっぱりふしだらだ何だと喚き散らして門前払いと相成る。パートやアルバイトなら既婚だろうが同棲だろうが大して問題にせずに面接とかをするのに、正社員採用となるとこれほど態度が大きくなる企業がコンプライアンスと言うのは噴飯ものだ。
 これらは晶子が話すことで知るんだが、晶子はこれでもオブラートに包んだりしてるんだろう。企業の人事部の連中は、晶子が圧倒的に不利な買い手市場だということに付け込んで言いたい放題やりたい放題する。神にでもなったつもりなんだろうか。

「先週、学部の事務室にももう求人が来る見込みはない、と言われました…。時期的なものもありますけど、求人そのものが非常に少ない、と…。」
「正社員採用は望めない、ってことか…。」
「はい…。」

 晶子は短く返事して暫く沈黙する。沈黙を終えて顔を上げ、俺を真っ直ぐ見据える。

「もう…諦めても良いですか?もう少し頑張ってみると言いましたが…、これ以上は…。」
「晶子はもう十分頑張った。これ以上…痛めつけられるために彼方此方走り回らなくて良い。」
「御免なさい…。」

 晶子は振り絞るように言うなり、俺の胸に飛び込んでくる。何度洗って袖を通したか分からないスーツに包んだ身体が、小刻みに震えている。子どもを安心して産むために、俺と一緒に働ける限り働いて貯金する。そのために頑張ってきたのに足蹴にされるばかりで、もう心が限界に達した。そんな晶子を叱咤するなんて出来る筈がない。
 今まで十分頑張った分、卒業することに専念して欲しい。幸いにも店は晶子を引き続き働かせてくれると言う。晶子にとってもその方が精神的にもずっと良い。一緒に生活出来れば良い。残り半年少々の学生生活を満喫して、全ての鬱憤を卒論にぶつけて卒業してくれれば良い。独りだけじゃ倒れても起きるのが辛い時もあるが、2人ならどちらかが手を差し伸べて引き上げられる。それが…夫婦の筈だ。
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