雨上がりの午後

Chapter 292 不安漂う日常への復帰

written by Moonstone

 今日の卒研を終える。今までで一番忙しかった、言い換えれば一番卒研らしかった。
 昼飯の後、大川さんとディジタル信号処理の基礎理論とリバーブを例にとってVHDLでどうやって構築するかを学び、別のFPGA基板でリバーブ処理を試作
してみた。サンプルソースは大川さんが作ってくれたものだが、昼前の実験同様様々な条件で実験と測定を繰り返し、捉えた入出力波形を検証するのは骨が
折れた。
 だが、要領は分かった。複数の効き具合が異なるリバーブ回路を構築して、入出力波形の観測だけでなくスピーカに接続して検証することまでした。
広がりが複雑になり、使い方によっては立体音響になりそうな気がした。
 ギターメインだがシンセをいくつか所有し、エフェクターもそれなりに使える経験から、リバーブを深めにすると遠距離からの音や広大な空間のイメージ、
浅めにすると近距離からの音や狭い空間のイメージになることを話した。大川さんは強い関心を抱いたらしく、そこから立体音響に繋げるにはどうすれば
良いか熱心に討論した。
 俺の感覚では、音量の制御も重要な構成要素になると思う。近くで聞けば音量は大きいし、遠くから聞くと音量は小さい。それを組み合わせれば前後
方向の立体感は結構簡単に出来そうな気がする。音量の制御は今日の実験で成功が確認出来たある周波数からの増幅を応用すれば良い。
 立体と言うからには前後方向に加えて上下方向の変化が必要だが、それはまだ明確にイメージ出来ない。だが、回路製作で迫る他に、ヘッドホンや
スピーカで音を聞いて、どういう条件だと上下方向の変化に感じられるか調べる方法もあると思う。そう話すと、大川さんは俄然乗り気で是非やってみようという
ことになった。
 大川さんのスケジュールもあるから本格的に動くのは連休明けになるが、立体音響の具体化に向けて大きく動くのは間違いない。卒研テーマの完了と
まではいかないにしても、目に見えて分かるような前進を残したい。大川さんもそのつもりだから、直近の目標である中間発表に向けて頑張ろうと意思統一
出来た。
 今日は久々に文学部へ行く。先んじて晶子には「迎えに行く」メールを送っている。晶子からは「学生居室で待っている」という返事が届いている。恒例の
筈のこのやり取りも随分久しぶりのように思う。
 馴染んだ筈だが久しぶりの感がある道を歩き、文学部の研究棟に入り、階段を上って廊下を歩き、戸野倉ゼミの学生居室前に到着。ドアをノックして応答が
返ってきてからドアを開けて中に入る。

「こんにちは。」
「あー、晶子の旦那かー。いらっしゃーい。」

 気が抜けてるというか、「またか」と言いたげというか、間延びした声が届く。直ぐに来ないところをみると、晶子は席を外しているようだ。これも別に珍しいこと
じゃないから、戻るまで待つだけだ。以前ほどじゃないがあまり居心地が良くないのが難点だが。

「晶子は今、ゼミの書庫に行ってるよ。直ぐに戻ってくると思う。」
「戻るまで待たせてもらうよ。」
「ご自由に。」

 やや投げやりな物言いも慣れたというか、気にせず受け流せるようになった。就職活動の状況は全く変わらないんだろう。苛立ちや焦りより諦めが支配的に
なっているようだ。
 俺が居る研究室の雰囲気とは全く違う。男ばかりの研究室だから空気が淀んでいてむさ苦しいイメージがあるが、実際は自由闊達なやり取りがあり、笑いも
ある。1つのことを突き詰める学部の性質故か、マニアックな分野だと会話が自然と熱を帯びる。ゼミや実験時には緊張感があるが、メリハリがあって良い。

「旦那に聞きたいんだけど、良い?」

 少しの沈黙の後、別の方向から声がかかる。

「どうぞ。」
「旦那の学部っていうか学科っていうか、そっちの就職状況ってどう?」
「研究室では良好なようだね。この職種のこの規模の企業って無暗に絞り込まなければ十分に求人はあるから。」
「説明会とか行かないわけ?」
「行く人もいるけど、それは今まで採用実績がない企業を狙う場合だね。基本は学校推薦だから。」

 この辺は学部の違いは如実に出る。就職難と言われる時代だが、よほど高望みするか業種や職種を限定するかしない限り、工学部、特に電気電子と機械は
まず就職に困らない。確かに以前より誰でも名前を知っている大手電機メーカーの採用枠は減っているが、別の分野、たとえば化学や建設など学科と直接
関係がないような分野の企業から新規あるいは採用枠が増えることで、総合すると求人数は減るどころか増えているようだ。
 大川さんの志望先も大手電機の他、通信事業や医療機器を含んでいる。従来の研究室や学部学科の枠組みを超える分野や企業が多く、そういうところ
ほど採用に熱心だそうだ。黙っていても多くの学生が集まってくる大手電機メーカーより、これから需要が増える企業の方が採用に熱心になるのは当然と言えば
当然だろう。
 採用に温度差がある企業も、殆どは学部事務室の就職課を通して求人を出している。だから学生は説明会に行くより、就職課が掲示する求人票を見て
コンタクトをとる方が就職活動の労力が少なくて済む。求人票にもなく、これまでの就職実績にもない分野や企業を自ら開拓する学生が説明会に赴く。そんな
図式がある。

「旦那もその口?」
「ああ。」
「同じ大学でもこうも違うのかぁ…。」

 学生居室全体に深い溜息が幾つも漏れる。あまりの落差に愕然としたんだろう。優越感より文学部の就職活動の状況があまりにも酷いという気持ちが
圧倒的に強い。決して楽ではない受験を経たのは同じなのに、片や妙に選ばなければ就職には困らず、片や説明会に行くたびに全否定されて帰るだけと
知れば、今までの自分は何だったのかと疑問や絶望を抱く。晶子の状況に接しているから、決して他人事とは思えない。

「何時頃内定出るの?」
「一番早いところで連休明けくらいかと。」
「そんなに早く内定出るんだ…。」

 再び学生居室全体に深い溜息が幾つも浮かぶ。何せ文学部は内定どころか採用試験にもたどり着けない状況だ。連休も含めて何度説明会に出ないと
いけないか、行ったところで採用試験への糸口が掴めるのか分からない。1kmも離れていないであろう別の学部では連休明けに内定が出る動きだと言う。
落差を感じない筈がない。
 このままだと、文学部は内定が1つも取れない状態で卒業する学生が続出する可能性もある。学部全体の状況まで把握してないが、1つのゼミで全滅で他の
ゼミが良好ということは少ない。学部全体の傾向は1つのゼミの拡大版と見て良いだろう。内定を取れた学生が希少価値が高いと見られるなんて妙な話だ。

「内定を幾つも取る人も出るわけ?」
「恐らくは。」
「全然違うね…。」
「晶子には先見の明があったってことか…。」

 店の常連の女子高生との会話と似てるな。就職の確実さ、言い換えれば安定感では工学部は全体的に高い。遊ぶ分にはレポートやら実験やらで時間を
取られて、それを怠ると簡単に留年するからどうしても不利だ。時間のやりくりや要領の良さで遊ぶ時間を作る人もいるが、少数派だ。遊ぶ時間が多い、会う
機会が多く取れる方に流れやすい。
 そこに理系と文系の男女比の違いと、理系に対するイメージの悪さや偏見−医学系を除く−も加われば、工学部はどうしても女子学生と縁遠くなる。俺と
晶子は専門色が強くなる前の1年の秋に出逢ったから、徐々に生活や意識を順応させる機会があった少ない例だろう。
 いざ就職の段階になって、学部の強みか今までの歴史や実績の積み重ねかで状況に大きな格差が出ると知って、今まで内心では物好きなどと見くびって
いた晶子−言われなくても何となく分かる−が先見性が高いとなる。現金な見方だが、現状からすると正しいと言わざるを得ない。

「祐司さん。お待たせしました。」

 背後から晶子の声がかかる。手には複数の書籍が抱えられている。丸々1週間休んだから借りる書籍が増えたんだろう。

「まだ病み上がり間もないんだから、無理しないようにな。」
「はい。帰る支度をしてきますね。」
「ああ。」

 晶子は自分の席に向かい、少しして鞄を抱えて戻ってくる。この間も学生居室の空気は沈滞したままだ。少し前のように晶子に対する敵意や嫉妬が表面化
して来ないだけましと思うべきか。

「お先に失礼します。」
「お疲れさーん。」

 やっぱりやや投げやりな声が向けられる。追いだされるように言われるよりはましか。「〜よりはまし」という受け止め方をするしかないところに、このゼミ、否、
文学部の学生が面している就職活動の現況が窺い知れる。
 俺は晶子と共に文学部の研究棟を出る。此処まで来て内心安堵。何処で田中さんと遭遇するか気が気じゃなかった。今回晶子が倒れるトリガとなったのは
田中さん。ようやく生活に問題ないくらいに回復して間もないところに出くわして再び悪化しないとは限らない。

「今日1日大学に居て、身体は問題なかったか?」
「はい。力仕事はないですし、ゼミ自体が殆ど就職活動一色になってますから。」
「1週間で劇的に変化はしないか…。」
「ゼミだけじゃなくて学部全体の状況が過去最悪と言って良い状況だそうですから…。」

 早いところでは連休を挟んで内定が出始める俺の学科と、採用試験にすら行きつけない文学部とでは落差が大きいどころの話じゃない。この状況が劇的に
改善する見込みもない。去年、と言ってもまだ年度が変わってひと月も経っていないが、その時は文学部もそれなりに求人があって内定も出ていたよう
だから、学年1つでも出鱈目な境遇の違いが出ている。

「企業では事務職の新規採用を相当絞り込んでいるんです。退職者が居ても派遣で補充するから新卒の分は殆どなくて…。その僅かな新卒採用枠に全国の
事務職希望の学生が殺到している状況ですから、倍率は数十倍ではきかないかもしれません。」
「1年違いでこれほど採用枠に違いが出るもんなのか。」
「1年違うからこそ違いが出るみたいです。…去年の暮れに株価が大きく下落したことがあったじゃないですか。それが採用枠を大幅に絞らせている要因に
なっているそうです。」
「あの事件か。」

 去年の暮れに、投資ファンドの大規模な株価操作だかで市場が一時大混乱して株価が全体的に大きく下がったことがあった。詳しくは知らないが、市場
公開前の株の情報をやり取りして購入するインサイダー取引以外、基本的に株の売買は犯罪にならないようだ。大損をしても知ったことじゃないで済ませ
られるが、大儲けをしても卑怯と言えない。文字どおり「やった者勝ち」「自己責任の範疇」だからだ。
 株価下落のニュースはかなり大きく報道されたが、何時の間にかニュースから消えた。株価は一定の水準を回復したようだし、株イナゴの大襲来の事件と
して一部の人の記憶に残る程度だと思っていた。ところが、その影響は新採用枠の大幅削減という形でしっかり続いていたってわけか。
 恐らくその影響は事務職に留まっていないだろう。派遣での補充にしても例外じゃない。工学、特に機械と電気電子が企業と職種を絞り込まない限り就職に
困らないのは、今までの採用枠が減る一方で他の分野、化学だったり建設だったり材料だったり、そういう分野からの採用が拡大しているから総合して
求人数がプラスになっているからだ。従来どおりだったら俺も就職難に喘ぐことになっていたかもしれない。

「公務員試験は勿論あるんですけど、企業の採用枠が大幅に絞られた分そちらに流れるであろう学生が多いのも容易に予想出来ますから、公務員試験が
あるからと状況を楽観視出来ないのもあります。」
「企業が駄目なら公務員、って考えるのは誰でも同じか。当然と言えば当然だが。」
「ですから、ゼミは卒研どころの話じゃなくて…。皆それぞれの席で説明会を探したり、予約をしたり、エントリーシートを書いて送ったり、公務員試験の準備を
したりしてるんです。」
「会話もなさそうだな。」
「ないですね。食事も誰かが立ったらそれに黙って続いで向かう感じで…。和気藹藹とはお世辞にも言えないです。」

 頑張っていれば状況は良くなる、と鼓舞しても白けるだけだろう。あの雰囲気では絵空事と冷笑さえされる可能性もある。笑い声どころか話し声もろくに
ない、ただ切羽詰まって殺気立った室内。そこに響くのはPCのキーボードをタイプする音くらい。考えるだけで重々しい空気だ。

「その分だと、1週間ぶりに復帰しても心配されたり話題にされたりってこともなかったようだな。」
「ええ。それよりも、お昼ご飯は早く終わりたい気分でいっぱいでした。」
「晶子も弁当を食堂に持ち込んで食べてるんだよな?」
「ええ。かなり奇妙というか新鮮に見えたようで、弁当はどうしたのって少し聞かれました。それくらいですね。私が居ても居なくてもゼミの雰囲気は悪いままで
変わりありませんよ。」

 晶子が倒れた先週の月曜以外は大学を休まなかった俺も、時々晶子の容体について聞かれた。研究室では真剣に議論したり実験や検証で頭を悩ませる
ことはあっても、どこかしらで話し声は聞こえるし、笑い声も起こる。休憩室ではその時々に居る人が思い思いに過ごして、趣味や研究テーマのことで談笑
している。男ばかりだと重苦しくて女ばかりだと賑やかで華やかという一般的なイメージが完全に入れ替わっている。
 大学の次は就職だが、此処で大きく明暗が分かれている。同じ新京大学という枠組みでも学部によってこれほど違う。大学間となると更に状況が異なるかも
しれない。…久しぶりに耕次達に連絡を取ってみるかな。今日は月曜でバイトは休みだし、こういう時でもないと電話をする機会はないし、思いつきもしない
からな。

「この時期に祐司から電話ってことは、内定に関することか?」

 電話が通じて最初の挨拶に続いて、耕次は俺の考えをズバリ言い当てた。高校時代からその傾向はあったが、大学に入ってより目標を明瞭にしたことで
能力に磨きがかかったようだ。

「そのとおり。どんな状況かと思って。耕次だけじゃなくて他の面子も。」
「ご要望にお応えして、順番に俺が把握している状況を説明していくか。」

 どうやら耕次は面子全員の状況を把握しているようだ。俺から電話があることで全員の状況が分かり、後で他の面子に情報が伝搬するんだろう。情報の
出入り口を集約することで収集や発信が効率的に出来る、と耕次は言っていたな。

「まず俺からだが、司法試験のシステムが大幅に変わったことは知ってるか?法科大学院と新司法試験と言われているものだが。」
「名前は聞いたことがある。」
「簡単に言えば、法科大学院修了者でないと新司法試験は受験出来ない。というわけで、俺は法科大学院に進学することが決まってる。大学が設置している
ものだから、大掛かりな準備はしてない。」
「院進学と見なして良いわけか。」
「それで良い。次に勝平だが、あいつは今年4年に進級して卒研の真っ最中。予定どおり卒業後の就職先は大手産業機器メーカーが中心で、1つは連休明け
くらいに内定が出る見込みだそうだ。かなり順調だな。」
「なるほど。勝平は機械工学科だから、さほど就職先に悩むことはないか。」
「しかも歴史のある工学部単科大学の大嶽工科大学だからな。次は渉だが、あいつは院に進学するそうだ。理学部は院進学者が多数派。しかも渉が居る物理
学科はほぼ全員院進学なのもあるそうだ。」
「理学部ってそんな状況なのか。就職難とは思えないが。」
「泉州大学だからな。学部でもあるにはあるが、理学部の学生には基本的に修士レベルが求められるそうだ。特に企業や大学の研究職に就くには最低でも
修士が必要だから、渉の目標のためには進学以外の選択肢はないと言って良い。」
「大変だな。」
「研究職に就くには相当の修練が必要。院進学は序章に過ぎない、とは渉の弁だ。で、宏一だが、あいつは現在就職活動中。コンサルタント企業を中心に
商社や金融など交渉や外交のウェイトが高い企業を当たっている。こちらは少々状況が厳しいようだが、経験値上昇中と思って意気込んでる。」
「市ヶ谷大学でも厳しいのか。」
「誰もが知っているような大手企業は軒並み採用枠を絞ってるし、知名度や認知度が急上昇中の企業はあぶれた分も含めて学生が殺到する。当然競争率は
上がる。良く言えば自由競争が基本の文系学部の就職状況は、コネでも使わない限りさほど変わらない。」

 つい5年も経たない過去には1年の多くの時間を共有していた面子は、今それぞれの道へと歩み始めている。そこには進学した大学より学部学科の影響が
如実に出ている。順調に見えるのは工学部進学の俺と勝平か。だが、耕次と渉は夢や目標の実現のために進学するんだし、宏一は持ち前の明るさと
行動力で状況を打開出来るだろう。高校時代から確固たる信念を持って進学先を選んだ面子は、紆余曲折はあっても必ず夢を実現するだろう。

「祐司の方はどうなんだ?」
「俺は高須科学って企業の採用試験を受ける。順調にいけば連休明けに内定が出る。」
「高須科学か。計測機器や産業機器の老舗にして新分野の開拓や技術開発も熱心な企業だな。」
「知ってるのか?」
「目標の職業柄、企業研究は幅広く、がモットーなんでな。巷の経済評論家よりは企業の名称や状況は把握してるつもりだ。知る人ぞ知る隠れた優良企業だ。
理学部系統では非常に有名だが、それ以外での認知度はかなり低い。委託研究か共同研究先の教授を介して有望な学生を探して、1つは祐司に行き
着いた、ってところか。」
「優秀かどうかは分からんが、その推測どおりだ。」
「大学が企業に学生を紹介する際にレベルの低い学生を出す筈がない。委託研究や共同研究の提携先なら尚更な。研究室や教授自身の程度を
疑われるし、大学や学部学科の沽券に関わる。恐らく紹介した教授や研究室のボスも同じようなことを言った筈だ。」

 本当に天性の才能と言うか…。よくこれだけ会話から相手の状況や背景をズバズバ言いあてられるもんだ。あらゆることに関心を向け、探求を怠らない
好奇心や探究心の強さは、俺は見習わないといけないな。

「俺としては、晶子さんとの現況や今後の計画が気になるところだ。」
「…どちらかと言うと、耕次としてはそっちの方が重要と位置づけていそうだな。」
「そこまで分かってるなら話は早い。話せるところまでで良いから話せ。」

 こうなると話すまで納得させられそうにない。俺は先月下旬に晶子と一足早い新婚旅行に出かけたこと、4月から晶子は大学でも安藤姓を使い始めたこと、
実質一緒に住んでいることを話す。この1週間晶子が寝込んでいたことは関係ないから省略する。

「なるほど。晶子さんは着実に祐司の妻の座を固めているようだな。」
「卒業が近い時期に改姓するのは晶子が面倒かと思ったんだが、意外にそうでもないようだ。」
「教職員で旧姓使用者が増えているが、その逆は今でも多数派のものだから、多数派に合わせるのは容易だろう。国公立なら特にな。式とかはどう
するんだ?」
「俺自身は正直金の無駄遣いと思ってるし、晶子も同じ考えだ。ただ、写真を撮るのはしておこうと思う。記念になるからな。」
「良い考えだな。少々不謹慎と思うが敢えて言うと、一生に一度のことと言いながら現実問題、離婚率は4割近い。ついたり離れたりが神に誓っても安易に
出来る状況でそんなざまじゃ説得力がない。それに、式はまだしも披露宴は殆ど両家の見栄の張り合いと新族のメンツの衝突だ。金を出さない奴ほど口は
出すのが親族という見方も出来るくらいだし、親族のメンツや思惑が先行すれば肝心の夫婦の祝福が二の次になる。それが大なり小なり頻繁に起こるのが
実情だ。新族とはトラブっても絶縁すれば良いが、夫婦間で最初にトラブると仮面夫婦か離婚になる。新族のメンツより夫婦の結束を優先するのが重要だ。」

 俺がどうにも腑に落ちない決まり文句の1つが「結婚式は一生に一度のこと」だ。離婚を前提に結婚するわけじゃないだろうが、「気に入らないことがあったら
離婚」という安易な考え方がまかり通っているような気がする。そんなに簡単に離婚するくらいなら最初から結婚しなければ良いのに、とその手の話を聞く
たびに思う。
 それに輪をかけて疑問なのが、披露宴とそこに絡む親族の思惑やメンツだ。耕次の言うとおり披露宴は新郎新婦を仲立ちにした新族同士の顔見せという
より、思惑のぶつかり合いやメンツの張り合いという側面が強い。そうでなかったら、結婚式や披露宴がらみだけでも新族の乱痴気騒ぎがあれだけ続々と出て
来る筈がない。
 晶子との結婚には何も不満はない。気になるのは今後法的裏付けを進める上で新族の介入が生じる可能性だ。いくら結婚が家と家との結びつきという
側面があるにしても、1組の家族の生活に介入するのは正当な理由がない限り排除しなければならない。それが疎遠絶縁を伴うものであっても良いと思う。
これも耕次の言うとおりだが、金を出さない奴ほど口は出すのが親族でもある。口だけ出して言いなりにしようとするなら絶縁する方が賢明だ。

「式や披露宴をどうするかは、祐司と晶子さんが決めることだ。決まったら連絡をくれ。俺に連絡すれば面子全員に知らせて参加する。」
「時期が来たら知らせる。」

 俺は耕次との電話を終える。携帯を閉じてふと視線を下に向ける。俺の腕の中にはお気に入りの体勢になっている晶子が居る。俺が電話をしている間、
晶子は俺がウエストに回した右手にじゃれついていた。

「もう電話は終わったんですか?」
「就職活動と晶子との関係についての現況報告が目的だったからな。」

 高校時代は当たり前のように顔を合わせていた面子とは、全員が違う大学に進学したことでめっきり顔を合わせる機会が減った。全員が揃ったのは成人式と
この前の奥濃戸旅行だけだ。情報の集約と伝達は耕次が担う流れになっているが、そうそう流すべき情報はないだろう。大学の講義がどうとか報告されても
実感が湧かない。
 次に全員集合の機会があるとすれば、やはり結婚だろう。その可能性は今のところ俺が最も可能性が高い。耕次が全員の就職活動や進路についての話より
俺と晶子の状況や今後について熱を入れていたように感じたのは、次の全員集合の機会を窺っているためだとしても不思議じゃない。

「皆さんの就職活動はどんな様子ですか?」
「2人が院進学で、俺を含む3人が就職希望。経済学部に進学した宏一は少々苦戦しているそうだが、宏一ならではの楽天的な性格で乗り切るだろうな。」
「大学もさることながら、学部学科で大きな違いが出て来るのは似ていますね。」
「文系は良く言えば自由競争だ、って耕次は言っていたが、それだと弊害が大きいな。」

 自由競争と言うと公平公正のイメージがあるが、実際は水面下での取引や裏口も他者を叩き落とすことも合法−正確に言えば発覚した時点で法律違反で
なければ何でもOKとばかりにまかり通るし、結果ではごく少数の持つ者≒勝ち組と多数の持たざる者=負け組へと二極化する。
 内定を10個も20個も取っても個人が就職する先は1つ。内定が少数に荒稼ぎされたことで、多くの人があぶれてしまい、最悪卒業後に無職になる。無職まで
行かなくともある程度希望に沿った就職先でないとモチベーションは上がらないし、長続きしない。
 仕事をすることは−育児も含む−収入を得るばかりではなく、生活の構築や安定も含まれる。それがないことには手持無沙汰になるし、自分は社会に
必要とされていないと思うようになるし、有り余る暇と不満から犯罪も生じやすくなる。
 自由競争で全てが上手く行くという論理自体、社会学ではとっくの昔に否定されている。アダム・スミスが提唱した神の見えざる手による均衡や調整は、現実
には機能せず、貧富の差が拡大して社会不安が増大した。その批判や教訓からトーマス・モアのユートピア論、マルクス・レーニンの共産主義が生まれて
いる。
 マルクス・レーニンの理論を官僚主義と融合した結果が旧ソ連などの国家社会主義だ。生産段階から完全に管理統制すれば良いというのは極端で、経済
活動が停滞するだけだ。しかし、調整も均衡もなければ単なる「やった者勝ち」社会になって社会不安が増大する。「自己責任」と言って片付ける向きも
強いが、その手の輩がいざその立場になったら「自己責任」ですんなり納得するのか甚だ疑問だ。

「1週間休んで、その間ゼミの子の内定が出ているかも、って思ってたんですけど、1週間そこそこでは状況は劇的に変化しないものですね。」
「採用枠が大幅に増えるわけでもないからな。」
「今の状況が続くと、公務員試験の結果が出るまで殺伐とした雰囲気が続くと思います。公務員試験まではひたすら説明会に出向いて採用試験や面談に
こぎつけるしか手がないですから…。」
「状況が状況だから無理をするな、とは言い難いが…、身体に注意して就職活動を進めれば良い。晶子の場合、俺っていう保険があるんだ。縁起でもない話
だが、どうしても駄目だったら保険に頼って良い。その時のための保険なんだから。」
「私は…本当に恵まれてると実感してます。」

 晶子は俺の右腕にじゃれながら、顔を俺の方に向ける。

「就職活動がうまく行かなくても、マスターと潤子さんが引き続き働かせてくれると確約してくれていますし、祐司さんは私の夫で居続けてくれる。こんな
恵まれた状況にあるなんて、まずないことです。」
「その恵まれた状況は、晶子が何の努力もせずに手に入れたわけじゃない。俺との関係にしても、出逢ってから3年近くの積み重ねがあったからだ。自慢する
のはいがかなものかと思うが、保険があることには安心して良い。」
「はい。」

 晶子の就職活動は公務員試験に合格しない限り改善されることはないと言って良い。試験の結果が出るのは早くて7月頃。後2カ月から3カ月は殺伐とした
ゼミで過ごさざるを得ない。仮に企業の内定が取れたとしても公表することは憚られる。こんな状況じゃ抜け駆けとうがった見方をされるのがオチだ。
 2カ月や3カ月は過ぎるとあっという間だが、過ぎるまでは長い。悪い状況や雰囲気では尚更だろう。そんな時、独りでは辛かったりやり場のない不満に
苛まれたり何とかしようと焦ったりするしかなくても、2人で居れば状況は変わらなくても気分は少しは楽になる。それだけでも随分違う。
 晶子がゼミで半ば孤立しているのは、以前俺も聞いたが就職活動に失敗しても独りで無職になることがない保険を持っていることが原因だ。しかし、その
保険も晶子がある日天から授かったわけじゃない。保険を持っていることを嫌みと受け止めるのは単なる僻みだし、それこそ嫌みでしかない。

「その代金にもならないかもしれませんけど、明日からお弁当が復活しますからね。」
「十分だ。晶子の弁当の方がバリエーションも豊かだし、味も飽きが来ない。」

 帰宅して晶子が最初に着手したのが、料理だった。野菜を切ったり出汁を取ったりといった地味だが日々の上手い料理を支える重要な部分を、台所をフル
稼働させて実行した。俺が使っていた時はコンロ1つが精いっぱいだったが、晶子が使うとコンロ2つが全力稼働する。
 俎板も広がり、使い終わった皿やざるが流しに次々入れられるが、晶子の手が空くごとに洗って片付けられて行く。一部は洗い桶で水を切ってから布巾で
水気をふき取って次の利用に回される。終わる頃には全ての料理器具が片付いている手際の良さは、1週間のロスでは鈍っていなかった。

「弁当を作ってもらうようになって、もうすっかり馴染んでるから、食堂とかでも定食を食べてると『嫁さんと喧嘩でもしたのか』とか聞かれてな。」
「お弁当を食べる人自体が少ないですからね。でも、祐司さんがお弁当を食べることが普通の風景になるまでになったんですね。」
「何せ毎日だからな。特別な風景でも毎日繰り返されればそういうもんか、って思うんだろうな。それも大事だし…。」

 俺は晶子の両脇に−右腕は先行してるが−腕を突っ込んで、晶子の胸を覆うように掴む。晶子は一瞬驚いたような顔をして、俺をまじまじと見る。

「こっちも食べたい。」
「…お風呂に入ってからなら…。」

 俺の両腕に手をかけて晶子は言う。寝込んでいた1週間、風呂に入れなかったから、久しぶりにスッキリしたいんだろう。それは当然のことだな。1週間レス
だったから相応に溜まっている。風呂に入るのも含めてじっくりたっぷり味わわせてもらうかな。

 まだ息が切れるな…。隣の晶子は俺の傍で突っ伏したままだから、それよりはまだ体力が残っていると言えるか…。1週間ぶりの夜は最初こそ少し様子を
窺う感じだったが、服を全部脱がしたあたりで欲求に火がついた。以降、俺が尽きるまで激しく攻めた。
 病み上がり間もない晶子を激しく攻めることに躊躇がなかったわけじゃない。だから最初の方は様子を窺っていた。欲求が全開になったのは、晶子の肌と
感触を直接感じたこともあるが、それより少し前に晶子が「遠慮しないで」と言ったことが大きい。
 晶子が布団からゆっくり顔を上げる。そのまま全身を少しずつ俺の方にずらして、俺の肩口に来たところで再び突っ伏す。完全に体力を奪い取ったな…。
それから少しして晶子が再びゆっくり顔を上げる。乱れた前髪が汗ばんだ顔に貼りつき、色っぽさと強い疲労感を感じさせる。

「ちょっと…やり過ぎたか。」
「満足…出来ましたか…?」
「十分。」
「それなら…良いんです…。」

 晶子は俺の身体を這うように身体を上にずらし、肩口から頭を落とす位置まで移動する。お互いの耳元に口が近付く体勢になる。自分の声が聞こえない
かもしれないと思って、僅かに残った体力を振り絞ってこうしたんだろう。

「我慢させてしまって…御免なさい…。」
「謝る必要なんてない。病気で寝込んでるところに夜を求める方がどうかしてる。」
「看病もしてもらって…、買い物も行ってもらって…、不謹慎かも…しれないですけど…、寝込んで益々…、祐司さんと一緒に…居られることの…
ありがたみを…知りました…。」
「どういたしまして。」

 息も絶え絶えといった感じの晶子の頭を軽く抱く。晶子は引きずるように腕を動かし、俺の両肩に引っ掛けるように置く。そこで何度か手に力が篭るが、
身体を起こすには至らない。体力を削り尽くされて腰が立たないようだ。

「俺が言うのも何だが、ゆっくり寝てくれ。」
「もっと…お話したい…。もっと…祐司さんの顔を見たい…。」
「明日目覚めても、俺は傍に居るぞ。」
「でも…。」

 縋るように聞こえる声に引き寄せられるように、俺は晶子の方を向く。晶子は布団に突っ伏したまま、顔を俺の方に向ける。鼻先が触れ合うような至近距離で
見つめ合うと、晶子は安心したような微笑みを浮かべる。

「私の…祐司さん…。」

 囁くような言葉を残して、晶子の瞼が目を覆う。そしてそのまま寝息を立て始める。安心して力尽きたか…。俺はそのままの姿勢で目を閉じて寝る態勢を
整える。
 眠気が徐々に表面化して来た。俺は1週間ぶりの夜を存分に味わえたし、晶子は俺と存分に愛し合ったことを確認出来た。それに加えて、晶子は俺を独占
出来ていることを確認出来たようだ。
 晶子は今日口にしなかったし−その前に力尽きてしまったのかもしれないが−、やっぱり田中さんの存在が頭にあったんだろうか。存在そのものをどうにか
するなんて出来ないし、もしやろうものならそれは犯罪だ。存在を意に介さないようになるか存在を退けるかのどちらかが現実的だ。
 晶子はこの4月から大学で安藤姓を名乗っている。それはまだ公的なもんじゃないにしても、大学という公的な場で別の性を名乗るのは実質公的な
存在感と言うかそういうものを伴う。それでも尚田中さんの存在にある意味怯えているとなると、マスターと潤子さんも言っていたように残るは妊娠出産くらい
しかない。
 安心して子どもを産み育てるために自分も財政基盤の構築に参加したい、と俺に頭を下げてまで別居婚も含めて就職活動に勤しんでる。妊娠出産はその
行動や背景にも反する。やっぱり晶子が俺の妻という自信を強めるしかないかな…。

「祐司さん。朝ですよ。」

 晶子の呼び声で目を覚ます。これまでの日常が戻ってきたんだな。髪を後ろで束ねてエプロンを着けている晶子は、何時もの快活な晶子そのものだ。勿論
眠気もなければ夜の淫靡さもない。見事なまでの切り替えぶりも変わらない。

「朝ご飯、もうすぐ出来ますからね。」
「ああ、分かった。準備しておく。」

 晶子がキッチンに戻るのを見ながら、俺はベッドから出る。昨夜脱ぎ捨てたパジャマと下着はきちんと畳まれている。その中から下着を取って穿き、ひんやり
した空気を感じながらタンスの前まで移動して、服を見繕って着る。テーブルを見ると、朝飯が向かい合わせに並んでいる。晶子が炊飯器を持ってきて準備
完了だ。
 俺は晶子を向かい合わせに座って朝飯。やっぱり美味いな…。潤子さんのレシピを見て作っていた時は、我ながら美味く出来たかもと思ったんだが、
晶子は呼吸をするようにこなして、その上を行く。修練の差だろうな。
 朝飯はゆっくりゆったり過ぎて行く。食べ終えたら食器を運んで洗う。流しが空いたら歯を磨いて顔を洗い、テーブルに戻る。家を出るまでまだ時間がある。
晶子を看病していた時は何度もテーブルやベッドとキッチンを往復して、洗いものをしたり自分の準備をしたりしてたからな。
 晶子が淹れてくれた茶をすすって一息。起きて間もないのに一息ってのも変だが、食後に茶をすすると不思議と落ち着く。向かいで茶を啜っていた晶子が
おもむろに立ち上がる。何だ…?軌跡を追っていくと、晶子は俺の背後に回って…背後から俺の首に両腕を回して抱きつく。

「晶子?」
「たまには私がこうしても良いですよね?」
「…ああ。」

 京都旅行以来、機会を見つけて人間座椅子−俺がつけた通称−になるようにしている。晶子は大のお気に入りだし、俺も晶子と密着できるし、その気に
なれば色々出来るから嫌な筈がない。
 今晶子がしているのは、ドラマとかでありそうな構図だ。晶子は俺の左肩越しに顔を出しているから、胸のたわみが分かるほど密着している。何時だったか、
背中を預けるのは文字どおり相手を信頼しているからこそ出来る行為だと聞いたことがある。背中には目がないし、その背中側で包丁の刃先を向けて構えて
いても分からない。晶子が俺の人間座椅子を甚く気に入っているのは、俺を信頼しきっている証左とも言える。

「…祐司さん。」

 暫くして晶子が話しかけて来る。勿論、体勢は変えていない。

「今日のお弁当、1週間ぶりなのもあって気合を入れて作りましたよ。」
「そりゃ楽しみだな。」
「味わって食べてくださいね。…昨日の夜のように。」

 「夜」というワードに反応して晶子を見る。悪戯っぽく微笑んではいるが、頬は仄かに赤らんでいる。照れくささや気恥しさを表情で覆い隠している様子が
分かる。

「…そりゃあもう隅々まで。昨日も極上だったし。」
「…後半はされるがままでした…。」
「その後半に、か細い声で喘ぐ様子が可愛かったぞ。」
「もうっ。」

 お仕置きのつもりなのか、晶子は俺の首に回した両腕に力を込める。後ろから抱き付いているのは変わらないから、より密着するだけだ。夜はどんなことでも
言うしするしの乱れっぷりだが、夜が明けると甲斐甲斐しくて貞淑になる。このギャップがたまらない。
 晶子が昨夜の後で話したかったことは、こんなことだろうか。帰宅してから下ごしらえをしていたし、条件は重なる。他愛もないことかもしれないが、会話って
大事だよな…。言わなければ伝わらないことだってある。重要なことでなくても、日常的なことでも、今自分がどう思っているかを伝えて、相手がどう思って
いるかを考える機会は大切だ。
 それにしても…、晶子が寝込んでいる間、そのトリガとなった田中さんは一度も接近して来なかったな。流石にこのタイミングではまずいと踏んだのか、
それとも単に機会を窺っている最中なのか。…両手に抱えたい花は1本で十分だ。1本を大切に育みたい。
Chapter291へ戻る
-Return Chapter291-
Chapter293へ進む
-Go to Chapter293-
第3創作グループへ戻る
-Return Novels Group 3-
PAC Entrance Hallへ戻る
-Return PAC Entrance Hall-