雨上がりの午後

Chapter 290 家庭の柱を補う時間(後編)

written by Moonstone

 翌朝。俺は晶子に起こされて目を覚ます。恥ずかしながら、これは何時もどおりだったりする。勿論平日は携帯のアラームをセットしているが、晶子に
起こされた方がすんなり起きられる。起きて直ぐ、俺は晶子の額に自分の額を合わせる。熱が…少し下がってるか?昨日までより熱いという感覚が少なく
なっているように思う。俺はベッドの脇に置いてある体温計を取り、晶子に検温させる。その間俺は起きて朝飯の準備と洗濯をする。こういう時、家電製品の
凄さを実感する。洗濯ものを放り込んで洗剤を計量スプーン1杯、柔軟剤をキャップ1杯入れて、水道の蛇口を捻って電源を入れれば基本的に準備完了。
セーターとか一部はメニューから選択する必要があるが、通常はこのまま「開始」のスイッチを押せば始まる。あとは修了を知らせるブザーが鳴るまで放って
おいて良い。
 その間俺は朝飯の準備をする。晶子のように旅館で出るような凝ったメニューは出来ないが、鍋に湯を沸かして味噌汁を作り、小分けして冷凍しておいた
ご飯を取り出して電子レンジに入れる。熱したフライパンに卵を落として塩と胡椒で適当に調味して落とし蓋をして蒸し焼き。俺の分はこれで完了だ。
 晶子の分は別に作る。別の鍋に水を張ってそこに出汁の素を溶かす。よくかき混ぜてから塩で味付けする。沸騰したところで冷蔵庫から取り出したうどんを
入れて、麺が千切れないように解す。火から降ろして生卵を割り込めば完成。トレイに鍋敷きを置き、そこに鍋焼き月見うどんを乗せて晶子が居るベッドに
運ぶ。

「ありがとうございます。」
「熱はどうだ?」
「昨日までより下がってます。」

 晶子から受け取った体温計の表示は38℃をギリギリ下回っている。これまで38℃台のコンマ以下を上下していたから、明らかに下がっている。そのせいか、
晶子の声も今までより張りがある。

「快方に向かって来たな。もう暫く静養すれば大丈夫だろう。熱いから気をつけてな。」
「はい。いただきます。」

 なかなか状況が変わらなかったが、ようやく改善の兆しが見えて来た。俺は晶子が見える位置に座って朝飯を食べる。ごく簡単なものだが、食べるのと
食べないのとでは大きく違う。これから洗濯物を干したり買い物に行ったりするから、朝飯を食べておかないと腹が減ってやる気が起こらない。
 洗濯はすすぎもあるから1時間ほどかかる。その間に台所の後片付けや細かい掃除をする。掃除機をかけるのは晶子が食べ終えてからだが、生活していく
中で手が回らなくて置きっぱなしになった本を片づけたり、大きなゴミを取ったりする。こうするだけでも結構違ってくる。晶子に教わったことだが、俺が主体に
なった家事の運営でどうにか生活が維持出来ているのは、こうした生活関連の知識を晶子からちょくちょく教わっていたことも大きい。
 晶子の食べるスピードはかなり遅くなっているから、晶子が使っている食器と箸以外の後片付けを済ませてもまだ余裕がある。ついでに風呂とトイレの掃除を
する。トイレは何の変哲もない洋式だし、風呂は小さい。だから洗剤をつけて磨いて濯(すす)いでも大して時間はかからない。風呂掃除を終えて台所で手を
洗って戻る。晶子はまだ食事の途中。煮立てたし小さいとはいえ土鍋だから、そう簡単に温度は下がらないだろう。急かすつもりは毛頭ないから、ゆっくり
食べれば良い。

「食欲の方は問題ないようだな。」
「はい。他のものも食べたいって気持ちが出て来ました。」
「俺の作るものにあんまり期待するなよ。晶子と違って大したものは出来ないんだし。」
「いえ。祐司さんが作ってくれる食事は、どれも美味しいですよ。私が入院するほど酷くならなかったのは、祐司さんが料理も作ってくれたからだと思って
ます。」

 俺の料理は良く言えば質素、悪く言えば殺風景だ。彩りよく盛り付ける技術がないし、その材料となる、うどんなら刻んだ薬味ネギとかこまごました物を用意
できる技術がない。包丁は短冊切りがやっとのレベル。薬味ネギを刻むつもりが潰してしまうかすき焼きや水炊きにでも入れるようなぶつ切りになるかのどちら
からだろう。味付けも専ら潤子さんのレシピに頼っている。注釈には「きちんと分量を測ること」とあるからそれを忠実に実行しているだけだ。それが
オリジナルの妙な味付けにならずに済んでいる原因だろうが、俺はレシピのとおりに作っているに過ぎない。それすらしないよりはましだろうが。

「早く治して、祐司さんの好きなものをいっぱい作りますね。」
「それを楽しみにしてる。熱いしゆっくり食べて良いからな。」
「はい。」

 晶子が食事をする間、洗濯は洗濯機任せの俺は完全にフリーになった。まだ買い物には早い。スーパーは早く来た客のために開店時間を早めたりしない。
1時間くらいあるから、勉強でもするかな。別にカッコつけるわけじゃない。必要だからだ。高須科学の採用試験はあと1週間。公務員試験も国家が連休明け、
地方がその半月後と続く。どちらも今までの試験のように試験範囲が明確じゃない。言ってみれば専門課程の全てと一般教養という広範囲だ。問題集を繰り
返したり、時間を測って過去問を解いたりとパターンは色々ある。

「御馳走様でした。」

 電子回路論の演習問題を解くのを一区切りつけたところで晶子から声がかかる。待たせたかな…。土鍋は汁を残してすっきり綺麗になっている。もう
そろそろ食べ足りないと思えるくらいだろうか。食欲はそれなりにあったがやっぱり低下はしていたから、それが持ち直してきたなら回復はより早まるだろう。

「昼あたりに、今までとは違うものを食べてみるか?サンドイッチくらいしか出来ないが。」
「食べてみたいです。」
「時間も…丁度良いくらいだな。買い出しで材料を追加で買ってくる。」
「楽しみです。」

 サンドイッチは作り方そのものはレシピを見なくても分かる。だが、晶子が療養中ということを考えて材料を吟味しないといけない。刺激物は厳しいから、
ツナと野菜が無難だろう。ツナ缶の在庫を見て、必要なら買い足す。野菜の不足分やその他の必要分は昨日のうちにメモに書きだしてある。こうすると余分な
ものを買ったり、同じものを買って在庫過多にならなくて済む。
 買い物の準備−大きめの袋と財布を持っただけだが−を済ませた俺は、ベッドの隅に腰掛ける。近くで見る晶子の顔色は、やはり昨日までより良くなって
いる。土日を療養させれば、早ければ月曜から大学へ行けるようになるかもしれない。

「俺は晶子のサンドイッチを早く食べられるようになりたい。何て言っても美味いからな。」
「サンドイッチくらいだと、そんなに変わりませんよ。」
「俺は晶子の作る料理は何でも一番美味いと思ってる。それと…。」

 俺は晶子の耳元に顔を近づけて囁く。

「晶子自身は極上品だから、早く食べたい。」

 晶子は俺の鎖骨付近に額を落とし、俺にしがみつくような感じで腕を回す。こんな際どいことを言うとは思わなかっただろう。
 言い方は少々芝居がかったが、嘘は言っていない。ついでに今の正直な気持ちも込めた。晶子の疲労の色が明らかに濃くなって説得して寝させた先週の
土日の前、抱いた晶子は激しく乱れた。喘ぎ動き求める様は媚薬を飲んだ娼婦そのものだった。中で絶頂に達せるのもあったが、終わった時には俺は
全身の精力を完全に出し尽くした。だが、俺の目の前で乱れる晶子はそれだけ欲情をそそるに余りあった。余すところなく味わいつくそうという意欲が、精力が
尽きるまで続いた。そして目の前で乱れる晶子の肌の滑らかさ、支配欲を煽る喘ぐ顔と声、メリハリのある豊満な身体が作りだす淫猥な姿勢と動き、俺に絡み
ついて離さない場所、全てが極上だった。
 セックスレス状態が1週間なのは、晶子が住み着いて以来初めての長さだ。その分蓄積するものは多い。正直、今すぐ始めたいくらいだが、そこまで理性は
弱くない。晶子が回復したら、存分に晶子を味わいたい。それも晶子を看病する楽しみになっている。

「しっかり休んで早く良くなりますね…。その時…、存分に味わってください…。」
「ん…。」

 俺は晶子を軽く抱く。晶子も俺が我慢していることを分かっている。発熱がやけに長引いているのも、早く治そうとプレッシャーに感じているのもあるのかも
しれない。言ってからでは遅いが、晶子には療養だけ考えて欲しい。その過程で俺に甘えるのは、晶子の特権だ。

 買い物に出る。普段だと晶子と2人で結構な量を買うんだが、晶子が倒れたことで先週買い込んだ分が結構余っているから今日はそれほど買う必要は
ない。意外と痛むのが速い野菜類が中心だ。1人で十分買える量だが、1人だとやっぱり寂しく思う。普段と同じ道のりを歩いて、普段と同じ町並を見ても、
ぽっかり穴が開いたという表現そのものの喪失感が否めない。ふと隣を見ればいる晶子が今は1人家で療養中。早く帰ると出発の際に言ったが、それは俺の
ためでもあるんだな。
 何時も来ているスーパーに到着。開店間もない時間帯だからか、まだ客は少ない。土曜の夕方からと日曜はかなり混み合うから、買い物はこの時間帯に
することになっている。このスーパーでの買い物も、晶子と知り合ってからなんだよな。
 メモに従って買い物を進めていく。今回の買い物のメインの野菜類は、果物類と共に入口に一番近いところにある。どういうわけか、この並びは概ねどの
スーパーでも共通している。使用頻度の問題だろうか。これで今日の買い物の2/3は終了したようなものだ。

「御主人、おはようございます。」

 次は此処。常連になって久しい魚介類売り場だ。

「おはようございます。」
「今日、奥様は?」
「今週の頭から病気で寝込んでまして…。」
「それはそれは…。」
「それで、今日はこういうものを買おうと。」

 俺はメモを見せる。普段だと晶子が色々見繕うんだが、俺にはその目がない。晶子の療養用の食事に使えるものをレシピから抽出してメモに書いてきた。
こうすれば買い物はスムーズに出来るし、余分なものを買わなくて済む。

「どうぞ、お待たせしました。」

 店の主人はメモに従って商品を集めてくれる。サケの切り身とちりめんじゃこ。普段の食事でも使える便利ものだ。

「奥様のご回復のために、今日も勉強させていただきました。」
「ありがとうございます。」

 最後にメモを受け取って此処での買い物は終了。袋に貼られたタグシールを見ると、店頭の価格より2割ほど安い。サケの切り身はまだしも、ちりめん
じゃこは意外に高価だからこの配慮はありがたい。此処が終わると、今日はヨーグルトと卵を買えば終わりだ。
 籠に半分ほど入った品物をひととおり確認してからレジに。精算してレジを通り、品物を袋に詰めれば買い物は完了。籠を所定の場所に置いて出口へ
向かう。呆気ないな…。晶子が居ると色々話をするから気分転換にもなって楽しいんだけど…。

 荷物をぶら下げ帰宅。インターホンを鳴らして晶子に確認してもらい、素早く中に入る。

「おかえりなさい。」
「ただいま。何もなかったか?」
「はい。大丈夫です。」

 最早恒例になった抱きつきを受けながら、不在の間の状況を聞く。何ともなかったか…。土日が一番招かざる客の来襲率が高い。俺が居る時はまだしも、
晶子が1人だと色々厳しい。特に今は療養中だからな。
 晶子をベッドに戻してから、俺は買って来たものを収納する。今日のメインの野菜類は一番下の野菜入れに、サケの切り身は1つ1つラップで包んでから、
ちりめんじゃこは袋に入ったまま冷凍庫に、ヨーグルトと卵は冷蔵庫に収納する。意外と面倒だがこれを怠るとものを腐らせて余計に面倒なことになる。

「サンドイッチの材料は買って来たから、これから作る。」
「お願いします。」

 在庫のツナ缶を流しの引き出しから取り出し、仕舞ったばかりのレタスとトマトとハム、そして食パンを冷蔵庫から出す。続いて皿を2人分出してそれぞれの
カップを用意する。コーヒーメーカーに1人分の紅茶を用意し、最後に用意した鍋には1人分の牛乳を出す。コーヒーメーカーは保温も出来るからこのまま
電源を入れるだけ。ホットミルクにする牛乳は、サンドイッチが出来る直前くらいに火にくべれば良い。
 食パンは8つ切りのものを買って来た。2枚で1組作り、それを4組用意する。晶子は少なめかもしれないが、残した分は俺が食べれば良い。サンドイッチは
作ると言ってもそれほど大層なもんじゃない。レタスを敷いて、そこに輪切りにしたトマトかハム、ツナを乗せればだいたい完成だ。味付けは塩少々と
マヨネーズのみ。マスタードはアクセントになるが、今の晶子には刺激が強いから止めておく。
 対になる食パンを乗せて軽く上から押し、1組ずつオーブンに入れる。挟んだところで完成としても良いんだが−俺だけならたぶんそうする−、軽く焼くとより
美味くなると晶子が言っていた。オーブンは1人用だから1組ずつ焼くしかないが、1分だから直ぐだ。その間、コーヒーメーカーに出来た紅茶を確認し、牛乳を
入れた鍋を火にくべる。順々にサンドイッチを焼いていき、取り出したものを包丁で半分に切る。中身は切った断面でも確認出来る。2枚の皿に野菜サンドと
ツナサンドを半分ずつ乗せる。シューと音を立て始めた鍋の火を止めて、晶子のカップに注ぐ。コーヒーメーカーに出来た紅茶を俺のカップに注ぐ。これで
全部出揃った。

「出来たぞ。」
「美味しそうですね。」

 俺は自分の分をテーブルに置き、残りをトレイごと晶子に渡す。食器が複数あるからこうしないと晶子は置き場がない。揃ったところで「いただきます」。

「美味しいです。」
「晶子に教えてもらったように、サンドしてから軽く焼いたんだ。自分で言うのも何だが、こうすると美味く出来るな。」
「久しぶりにこういうのを食べるのもありますけど、凄く美味しいです。」

 晶子はかなり軽快に食べていく。快方に向かい始めてその分腹が減っていたんだろうか。何れにせよ、旨そうに食べるのを見るのは気分が良い。晶子もよく
そんなことを言うが、晶子が毎日の労苦を厭わずに料理を作るその理由が今なら分かる。

「塩加減が良いですね。」

 晶子はツナサンドを食べて言う。ツナサンドを旨そうに食べる様子は、京都旅行で出逢っためぐみちゃんを髣髴とさせる。めぐみちゃんは、京都御苑で
出逢った日の昼飯に、好物だというツナサンドを旨そうに食べていた。
 そのめぐみちゃんは、この4月に無事に小学校に入学したと祖母の高島さんから手紙が来た。添えられていた写真には、小学校の校門前で緊張した様子で
佇むランドセルを背負っためぐみちゃんと高島さんが並んで写っていた。俺と晶子との出逢いが契機になって育児放棄や児童虐待に怯える日々から完全に
解放され、めぐみちゃんは毎日元気に過ごしているそうだ。めぐみちゃんに心からの笑顔を与えてくれた、と俺と晶子への深い感謝が綴られていた。
 手紙にはめぐみちゃんが高島さんに教えてもらいながら書いたという文章もあった。ひらがなのみで書かれた文章は簡単なものだったが、不思議と強く
深い感動を覚えさせた。

おとうさん、おかあさん、ありがとう。
めぐみは、げんきにがっこうにかよっています。
おとうさんとおかあさんにあえることが、たのしみです。

 晶子は涙ぐんでいた。実母より可愛がっていたと言っても過言ではないめぐみちゃんが、離れてからも元気に暮らしていて、自分に会いたいと言って
いるんだから。もしかしたら、晶子とめぐみちゃんはツナサンド好きが巡り合わせた不思議な縁だったのかもしれない。
 めぐみちゃんには、俺と晶子で4月に入って撮ったばかりの写真を添えて返信を送った。そこには「2人の大事な仕事を済ませたら、遊びに行こうと思います」
としたためた。めぐみちゃんは俺と晶子の子どものようなものだし、家族のようなものだ。否、遠く離れていても、血は繋がっていなくても、親子であって家族
だろう。何時の日か俺と晶子の間に生まれた子どもを連れて会いに行く日が来るんだろうか。

「ツナサンドを多めにした方が良かったか?」
「いえ、ツナサンドも野菜サンドも好きですから。」
「サンドイッチも食べられるようになったから、もう少しだな。」

 ツナサンドを頬張る晶子は、本当にめぐみちゃんと重なる。今度会う時には、あの喫茶店で晶子とめぐみちゃんにツナサンドを食べさせたい。きっと同じ
ように両手で持って旨そうに食べて、顔を見合わせて幸せそうな顔をするだろう。

 食後少ししてから晶子の検温。結果はやはり体温の低下を示した。これまでの誤差の範囲のような小数点以下の変動じゃなく、朝測った時よりも下がって
いる。もう微熱と言える段階に入った。この分ならこの土日を療養に費やせば完治すると見込んで良いだろう。勿論油断は禁物だが。

「随分下がってきたな。もう暫くの辛抱だ。」
「はい。安静にしてますね。」

 体温計を仕舞った俺は洗濯ものを取り込んで畳む。洗濯で面倒なのはこれだ。だが、畳まないと次の洗濯で干すものと場所がない。料理の後の食器洗いも
そうだが、何かをしたら片付けをすることで次回が出来るようになる。それをしないと必ずどこかで滞る。上手く出来ているというか…。
 晶子が寝込んでいても洗濯ものはそれなりに出る。特に下着とタオルは必ず存在する。当然晶子の分もあるわけだが、洗濯ものだから畳まないといけない。
俺が言うのも何だがどうもまだ気恥しさが完全に消えない。それこそ晶子の裸と同じで何度も見てるんだが。下着は俺の分も含めて室内で干している。天井が
それほど高くない家の天井にぶら下がるわけだから少々邪魔に感じる時もあるが、防犯の観点からこうしている。俺だけならどうでも良いが、晶子が居る。
晶子の家があるマンションのようにオートロックも常駐の管理人も居ないこのアパートでは、目をつけた変質者が下着やその使用者、すなわち晶子を狙って
くる危険がある。むざむざ危険や好奇の目に晒すわけにはいかない。
 畳んだら元の場所に仕舞う。これも洗濯で重要なことだ。俺の分はタンスの所定の場所に、タオルは脱衣所脇の小さな棚に−此処からタオル類を各所に
「配布」している−、晶子の分は部屋の片隅に置かれた風呂敷の上にそれぞれ収納する。晶子の服は毎週土曜日に、買い物帰りか一旦帰宅して収納した
後で晶子の家に交換に行っている。だが、今週は晶子がまだ療養中だから見送りだ。本来なら晶子の分の収納場所を用意するべきなんだが、晶子の服を
完全に収納出来るほど俺の家の収納を増やせないから、未だにこうしている。

「服の交換はどうする?晶子の具合が良ければ月曜にでも行くか?」
「来週の土曜で良いです。服はパジャマしか着てませんから。」

 そう言われてみればそうか。晶子の家があるマンションはオートロックがあるし、管理人は常駐で居る。晶子が持っているエントランスの鍵を持って行っても、
管理人が通さないから男性単独ではどうにも入れない。それは何度も出入りしている人でも変わらない。防犯上の観点からすれば当然とも言えるが、こういう
時に手間になる。
 一方で、晶子は毎日違う服を着るほど持っていない。俺より多いのは間違いないが、タンス1つあれば十分収まる量だと思う。晶子が服を買うところに
付き合うのも年に片手で数えるくらいしかないし、ブランドショップじゃなく一般的な服飾店で買う。服を交換しないとイライラすることもないし、同じ服は
着られないとストレスに感じることもない。
 パジャマは元々洗濯を考えて2着だけ。発熱で汗をかくから2着では足りないから、俺のを着せている。今着ているのは俺のだが、晶子はそれがむしろ
嬉しいらしい。快方に向かって来ているのは俺のパジャマを着て気分が良くなったからか、と都合の良いことを考えてみたりする。

「これで終わりかな。」

 洗濯ものを全て仕舞った。机に置いてある携帯で時間を見ると、取り込み始めてから1時間も経ってない。面倒だと先送りにしてしまいがちなのが
後片付けや掃除、そして洗濯ものの取り込みと畳むことだが、やってみると意外に短時間で済むもんだ。昔のように全てが人力だったらひと苦労どころじゃ
済まないだろうが、殆どは家電製品がこなす。その間に色々できるし、締めに相当する部分はそれほど時間はかからない。

「ちょっと休憩するかな。晶子も何か飲むか?」
「お任せします。」

 俺は台所に行き、紅茶を1.5人分用意する。俺は紅茶そのもので晶子はミルクが多いミルクティーにする。今までホットミルクばかりだったし、良くなってきた
からそろそろ違うものを飲みたいだろう。これくらいの配慮はあって良い。
 それぞれのカップに必要分紅茶を注いで、晶子の分にはミルクを足す。これをそのまま持って行く。ものの5分もかからないティータイムの準備だ。これだけ
でも家のことや勉強の合間に一息吐けるし、会話も出来る。費用も全部合わせて100円に満たない。コストパフォーマンスの良さは抜群だ。

「熱いかもしれないから、気をつけてな。」
「ミルクティーですか。ありがとうございます。」

 俺はベッドの端、晶子の隣に腰掛けて飲む。晶子はカップを暫く傾けて安堵の溜息。俺も続いてほっと一息。家電製品があるから随分楽だが、こまごまと
した手作業が多い家事を済ませて飲む紅茶は、同じものでも何となく旨く感じる。

「ミルクを多めにしたが、まだ紅茶はちょっときつかったか?」
「いえ、熱くもなくて凄く飲みやすいです。」
「今までホットミルクばかりだっただろ?そろそろ良いかと思ってな。」
「凄く新鮮に思います。嬉しいです。」

 晶子は笑顔を浮かべる。好物の紅茶をほぼ1週間ぶりに飲めて余程嬉しいんだろう。俺が同じ状況で食事に鳥の唐揚げを出されたら、恐らく歓喜する
だろう。好物ってものはそれが食べられるだけでテンションが上がる。病気だと気分が沈みがちだから、ある程度良くなったら好物を出すのは薬よりよく効く
かもしれない。

「夕飯ももう少し普通のものに近付けるかな。作れるものは限られてるけど。」
「祐司さんが作れる範囲で十分ですよ。祐司さんに看病してもらってるだけで十分ですから。」
「こういう時、料理が出来ることの強みが出るなぁ…。俺も少しずつでも出来るようになっておかないといけないな。」

 俺の料理は潤子さんのレシピに頼りっきりだが、晶子は食材の組み合わせで多彩な料理を作る。レシピは全て頭の中に入っているし、それをスムーズに
駆使出来るだけの技術がある。簡単そうに見えるが、他人が食べても美味いと思う料理を作るのは難しいし、自己流は意外と通用しないのも料理だと分かり
つつある。

「それだと、私のすることがなくなってしまいます…。」
「晶子の域に達するのははるか遠い道のりだから、晶子が居場所や領域を奪われることを心配する必要はない。俺は晶子の料理を食べたいんだし。ただ、
今回みたいなことになったり、この先晶子が妊娠や出産で入院した時、インスタントやコンビニ弁当に頼らなくてもある程度の水準の料理が出来るようにして
おいた方が良い。晶子が主役なのは変わらないが、代打や控えは居た方が良いってことだ。」

 共同生活、特に家族や夫婦関係では分担が頻繁に言われる。その分担をどうするか、例えば家事を曜日交代制にするか、早く帰宅した方が担当するか、
この分野はどちらがするとかいうのはそれぞれの家族で決めることで、それを男女平等やジェンダーフリーの名目でそれらの提唱者が本来嫌う筈の上からの
押しつけや一律の強制で推進しようとするから、軋轢や反発が起こる。俺と晶子の場合、決定や行動の先陣は俺が担当して、晶子がそのサポートをする
方向で固まっている。家事については、特に料理は晶子が主導する。料理の最大の判断基準である味は元より、それに費やす時間と効率を含めて総合的に
判断すれば、おのずとそうなる。
 だが、物事は何でもそうだが、主役だけじゃ成立しない。「シンデレラ」にしても王子に見染められるシンデレラだけじゃなく、シンデレラを苛める継母や
義理の姉が居て、その存在感が引き立つ。「桃太郎」で全員が桃太郎だと物語の冒頭から成立し得ない。「桃太郎」だと、犬と猿と雉(きじ)がサポートしたから
鬼退治が出来たように、主役の行動をサポートする存在が必要だ。スポーツでも代打や控えが居ないと、選手の交代が出来ない。圧倒的な戦力差があって
終始優位に進められるとしても、不慮の事故−スポーツではそれこそ日常茶飯事だ−で選手が1人でも行動不能になった際に控えが居ないと、試合は成立
しなくなる。戦術として控え選手を出そうとしても、控えが居ないと戦術そのものが成立しない。家事に関しては、洗濯や掃除は家電製品のおかげで俺でも
殆どこなせる。料理もレシピがあればどうにかなる。主導する晶子が今回のように寝込んだり、俺が例示したように妊娠や出産その他で入院することになった
場合、晶子の代役として家事を回転させられるかどうかでかなり家庭環境は変わってくる。

「普段、晶子が俺を立ててサポートしてくれるように、家事、特に料理に関しては晶子の補佐や代役をこなせるようにしておくのが、俺の役割だ。1人じゃ
出来ないことや難しいことを2人ですれば出来るようになるのが、家族であって夫婦だろ?」
「はい。」
「俺はそんな家族や夫婦になりたい。そうじゃなかったら、今も晶子を叩き起こして茶を淹れさせてる。」
「良かった…。祐司さんが私の夫で…。」

 晶子はカップを両手で持ったまま俺に凭れかかってくる。元々片手でカップを持っていた俺は、晶子の肩を抱く。

「家庭内での役割分担や分業は俺達が決めることだし、基本的な決定や行動は俺が主導して晶子がサポートすることも、家事に関しては晶子が主導して
俺は補佐役ってことも俺達がこの前の旅行も含めて合意して実行して来た。俺は主導役が療養中だから補佐として表に出てるだけだ。晶子の居場所が
なくなるなんてことはない。」
「私だけで生活してるんじゃないんですよね…。」
「ああ。だから、俺はこうして家事をしたり茶を淹れたりしてる。晶子の分も含めて、な。晶子が回復したら、今までと同じようなスタイルに戻るだけだ。」
「きちんと治して、美味しい食事やお弁当を作りますね…。」

 病気にはぶり返しがある。治りそうだと油断して無理をする、そこまでいかなくても普段どおりのことをしようとすると、再び悪くなることがある。晶子の病気は
明確な病名があるものじゃないから、尚更油断は禁物だ。弁当はこの1週間お預けだったし、夜も丸々1週間お預けだ。どれも晶子が全快してからでも十分
元は取れる。晶子が療養に専念出来る環境を作り、療養だけ考えれば良い精神状態にするのも、俺の役割だ。
Chapter289へ戻る
-Return Chapter289-
Chapter291へ進む
-Go to Chapter291-
第3創作グループへ戻る
-Return Novels Group 3-
PAC Entrance Hallへ戻る
-Return PAC Entrance Hall-