雨上がりの午後

Chapter 288 不穏を払拭するための休日へ(後編)

written by Moonstone

 最寄駅の小宮栄公園駅に到着。小宮栄到着後初めて太陽の下に出る。小宮栄から地下鉄の1路線で行けて、最寄駅の名前が目的地の名前をそのまま
含んでいる。これ以上分かりやすい指標はそうそうないだろう。
 外は少し雲が出ているが、青空が過半数を占めていて明るい。同じく電車を降りた人達は少し眩しそうな様子を見せて、大半が公園の中に入っていく。最も
公園に近い、俺と晶子が降りた3番出口は外に出てすぐ目の前が公園で、周囲は同じ小宮栄とは思えないほど普通の住宅街だ。

「広いですね。」
「ああ。現在地が此処だから、中央付近にひょっこり顔を出した形だな。」

 出口脇に公園の見取り図がある。公園はほぼ東西方向に長い楕円形で、俺と晶子が居る現在地は北側の頂点辺りだ。見取り図には「バラ園」の表記が
ある。現在地から南進して少し東側に移動した位置にある。この分だと結構歩く必要がありそうだ。
 俺は晶子と手を繋いで公園に入る。高層ビルが林立して高架の高速道路と一般道に車がひしめき合う小宮栄駅周辺とは打って変わり、緑が多い住宅街が
周辺を取り囲んでいる。商業や工業の一大集約地であると同時に、日本有数の100万都市の1つでもある小宮栄のもう1つの姿だ。公園の中は樹木や遊具が
ひと塊に配置されていて、通路を兼ねた平地の割合が高い。樹木は桜が多く、半分以上散った桜の下では、ビニールシートを敷いた家族連れやグループが
花見をしている。平地では親子やグループがキャッチボールやバレーボールをしている。俺の家の近くの公園でも見られる、ごく普通の休日の光景だ。
 そんな光景を見ながら歩いて行くと、草木の割合が多いエリアに出る。公園から植物園に様相が変わったと言って良い。最初に出迎えたのは、水仙のような
細長い葉が無数に並ぶ湿地帯のような場所だ。

「菖蒲園らしい。」
「此処だけでも相当広いですね。」

 湿地帯は視界の左右を占拠して奥行きもかなり深い。湿地帯には人1人が渡れる程度の広さの低い橋げたが縦横に架けられている。何処かで見た風景
だと思っていたが、京都の平安神宮で見たものと似ている。菖蒲の群生地はこうして橋げたを渡って見るのが一種の流儀なんだろうか。

「流石に此処はまだ先の話だな。」
「梅雨の時期ですからね。でも、此処を渡ってもバラ園に行けるんじゃないですか?」
「足元に注意、な。」
「はい。」

 晶子の言いたいことは分かる。確認を取る必要はないから実行あるのみ。晶子の手を引いて先導する形で橋げたを渡る。橋げたの幅はそこそこあるが、
走って素早く渡るには不向きだ。足を滑らせれば湿地帯にダイブする羽目になるだろう。
 何度か左右に曲がってジグザグを描く形で菖蒲園を渡る。渡った先が丁度バラ園だ。バラはピンクと赤のものが咲いている。全面を埋め尽くすほどじゃ
ないが、1本1本が色鮮やかで花も大きいから際立って見える。

「大きなバラですね。」
「色も綺麗だし、此処の名物になっても不思議じゃないな。」

 近づいて見ても、バラは周囲に雑草が混じることなく花もくすみや色褪せがない。植えるだけ植えて後は季節に任せるというものじゃなく、きちんと手入れ
されているらしい。バラ園も通過してきた菖蒲園と同じく視界の大半を占める広さだ。単に手入れと言っても1日がかりだろう。
 バラ園を歩く。菖蒲園と同じように幾重にも細い通路が走り、バラの中を歩くことが出来るようになっている。菖蒲園と違って普通の石畳の通路で、バラの
木はかなり生長しているから、花は目線に近い位置にあるものが多い。

「あの店のバラのソフトクリームは、此処のバラから抽出してるのか?」
「それはないと思います。この公園は多分小宮栄市のものですから、そこの所有物を1つのお店に提供することはまずないですから。」
「そうだよな。専用に栽培したバラから抽出してると考えるのが自然か。毎日相当な数のソフトクリームを作ってるだろうから、その分のバラを使うとなると此処の
花がすぐなくなっちまう。」
「咲いてすぐ摘まれてお店に持っていかれたら、此処のバラを見ること自体が難しくなりますよ。」
「まったくだ。」

 あのバラのソフトクリーム1本でどれだけのバラを使っているのかは分からないが、仮にソフトクリーム1つにつき1本としても、あれだけの人だかりや行列を作る
くらいだから1日100個では足りないだろう。バラが摘んでも摘んでもすぐに咲くとは思えないし、桜のように1本の木に何十何百も花が咲くわけでもない。
それこそ咲いたら即摘むようにしないと間に合わないし、1日分を作ったら数日、否、数週間数カ月は空けないと次は作れないだろう。

「そういえば、晶子はジャムを作るよな。バラでも作れるか?」
「作れると思います。これもある程度量がないと難しいですけど。」

 晶子はパンを使った料理でサンドイッチをよく作るが、時々ジャムとトーストの組み合わせを選ぶ。そのジャムも手作りだ。季節によって材料は異なるが、
林檎や名前だけは知っていたマーマレード、苺など様々だ。市販のものより甘さが控えめで、たくさん食べても飽きが来ない。
 時々行く紅茶専門店にはジャムやクッキーなど紅茶に関係する食品も売っているが、そこにバラのジャムがあるのを見たことがある。他のジャムより高価
だった記憶がある。材料を煮詰めるのがジャム作りの基本だから、果実や皮と比べて材料を多く集めないといけない花弁のジャムはその分高価になるん
だろう。
 トーストとジャムの組み合わせは、晶子と出逢う前は朝飯の定番だった。何せトーストはトースターにセットしてダイアルを少し右に傾ければ自動で焼き
あがる。トースト出来たらそこにジャムを塗れば出来上がりと相成る手軽さは、料理に疎い俺にとってはありがたい。晶子が俺の家にいる時間が長くなり、
やがて今のように住み着くようになると、トーストの多くはご飯中心の立派な食事と多彩な組み合わせのサンドイッチに置き換わった。ジャムを思い出して話を
したら、なんとなくトーストを食べてみたくなった。トーストくらいは俺でも用意出来るし、説明会の出席と公務員試験の準備で何かと忙しい晶子に代わって
用意することも十分可能だ。

「今度、何かジャムを作りますね。ジャムはお菓子にも使えますから。」
「結構時間がかかるから、無理しなくて良いぞ。」
「気分転換になりますし、私が作った料理やお菓子を祐司さんに食べてもらうことで満たされますから、無理はしませんよ。」

 晶子の俺への献身ぶりには本当に驚かされる。自分を取り巻く状況が芳しくなく、それの改善の見通しが立たない中でも、俺に尽くすこと、俺が喜ぶことに
幸せや生き甲斐を見出す。それは企業に門前払いされるばかりの自分が、俺には必要とされていると実感して居場所を確認するためでもあるんだと、最近の
状況を見ていて思う。
 人は独りでは生きていけないという。それは他人と協力しないと生きていくのが困難なのもさることながら、自分の存在意義が分からなくなるからだと最近
分かってきた。自分がどれだけ頑張っても誰にも評価されない、喜んでもらえないとなると、自分はどうして生きているのか分からなくなり、やがてはこんな
自分は何時死んでも構わないと思うようになる。共存や協力を甘えとする向きもある。だが、そう言う輩は往々にして他人の協力どころか支えなくして
生きられない状況にあることを都合よく忘れている。インターネットで四六時中「甘え」や「自己責任」を連呼するが、自分の甘えや自己責任には頬かむり
だったりする。インターネットで暴れる連中がいざ逮捕されると多くは無職。無職でどうして日々の生活を営めるのか。自分が批判する人達のように働かずに
飯を食っていながら、それは甘えじゃないとでも言うのなら、これほど人を馬鹿にした話はない。
 晶子は俺に尽くすこと、俺が喜ぶことで自分が必要とされていることや自分の存在意義を確認している。大きな目標であり夢である子供を産み育てることの
財政基盤構築への道がかなり困難になっている中、企業に必要とされていないと言われ続けることでその確信が頻繁に揺らぐんだろう。俺には企業の
人事権はない。だが、晶子と一緒に生きて時に保護する権利はある。それは同時に責任でもある。
 晶子の願いは決して贅沢や華美を求めるものじゃない。むしろ、その逆を行っている。今日の外出にしても、高価なバッグやらアクセサリーやらを山ほど
買わされるわけでもなく、せいぜい地下鉄に乗る前に食べ終えたバラのソフトクリームくらいのものだ。それも俺が買うと言って押し切ったくらいだ。ジャムを
作るのも煮詰めるのに時間がかかることくらい知っている。焦げ付かないように基本コンロに張り付いていないといけないことも知っている。そんな手間を
かけてジャムを作ることも、晶子にとっては自分が俺に必要とされていることを再確認する重要な機会なら、晶子に任せるのが最適だろう。無理をさせない
ように注意する必要はあるが。
 バラ園を暫し楽しんだ後、再び小宮栄に異動して昼飯。やはり店には疎いから、食べたいものから店を絞り込む方式にした。今回選んだ店は中華料理。
事前情報なしで選んだ店だが、なかなか美味で満足。
 中華を選んだのは少し漠然とした理由がある。料理が得意な晶子は和洋中主だった料理は全て作れるが、店で作るより料理が少しべたつくことがあると
言う。原因はコンロの火力。家のコンロと比べて店のコンロの火力は強い。最大だと文字どおり炎が上がる。そのくらい強くないと思いどおりに作れない場合が
あるそうだ。無論、晶子も家のコンロの火力が店と比べて弱いのは重々承知している。それは晶子の家も同じだし、コンロが基本単身者向けのアパートや
マンションと業務用のものでは根本的に違うから、火力が違うのは当然だ。晶子はコンロの違いで思いどおりの料理、すなわち俺が満足する料理が出来ない
のがもどかしいわけだ。
 晶子は自分が作る料理で自分も俺も満足出来ないと思って選んだが、俺は別の理由だ。晶子の料理は美味いし、コンロの火力の違いも技術で十分吸収
出来ていると思う。料理を作る側と食べる側の認識の違いだろうが、俺はそれよりラーメンが食べてみたかったことが大きい。ラーメンは料理の出来ない
単身者の友のようなイメージがある。俺は晶子と出逢う前からラーメンを食べることはあまりなかった。インスタントラーメンは湯を沸かす手間がかかるが、
コンビニの弁当やパンだと買ってきてすぐに食べられる。そんなこともあって、食事はコンビニ弁当やパンが主体でラーメンは気が向いたときしか食べ
なかった。
 晶子が料理を作ってくれるようになって、食材から作られる上手い料理をいろいろ食べられるようになったが、ラーメンはあまり出てこない。晶子に理由を
聞くと、「麺もスープも個人では店のように作れないから」だそうだ。麺はスーパーに売っているが、どうも違和感がある。スープは店によって独自の味を維持
する秘密を持っているらしくて、そこに達するには個人では難しい。料理を作るのは晶子の趣味のような側面もあり、俺が喜ぶところを見たい、つまりは自分の
存在意義を見出すためだから、それが期待より低いレベルになるものはあまり手を出したくないようだ。これも、業務用、しかも収益を稼ぐことが必須の
料理店と自分や家族が満足できるレベルの料理が出来れば十分な家庭とは根本的に目的や要求の水準が違うし、それも俺は分かっているつもりだ。
ラーメンに執着がないから食卓に出てこなくても不満はなかった。だが、中華料理と言えばラーメンがイメージされる。店に入ってなんとなく食べてみたく
なった。それだけのことだ。
 とはいえ、ラーメンだけというのも何だか味気ないような気がした。結局、麻婆豆腐定食と小さいサイズの醤油ラーメンを頼んで、晶子と一緒に食べた。
晶子もラーメンには興味があったが俺と同じでそれだけだと気が引けて注文出来ずにいたそうだ。こういうところも似た者同士だと思う。

 昼飯後、高層ビルの1つに入った。小宮栄は高校時代より縁遠くなっていた間に再開発事業が始まったらしく、幾つかの建物が取り壊されて高層ビルが
建設されたようだ。小宮栄駅−どの路線も駅の名前に含まれているから駅全体を指すと言って良いだろう−周辺には4つのまだ真新しい高層ビルが競う
ように聳えている。
 俺と晶子が入ったビルは、三木山(みきやま)トップタワーというところ。2本の柱に挟まれた中央の柱が何処かで見たような時計塔のような形状の高層
ビルだ。1階のテナントはやはりというか女性向けの服飾店とブランド店が殆どを占める。客層も若い女性のグループか男性を伴った女性が大半を占める。
「男性を伴った」としたのは、女性が先を歩いて男性に買わせているような様子だからだ。地下街も女性向け服飾店が多かったが、此処は規模がずっと
大きい。ブランド店は地下街を回った分には少ししか見当たらなかったが、此処では存在感をこれでもかと誇示している。ブランド店でも女性は集うだけで
なく、結構な確率でその店の紙袋をぶら下げて出て来る。

「晶子はどうしてブランド物に興味がないんだ?」
「理由は大きく分けて2つあります。1つは金銭的な負荷が大きいことです。女性向けのものは流行とかで商品サイクルが短いですから、流行や周囲に合わせ
ようとすると、その分頻繁に買わないと間に合わないです。そこまでして買いたいとは思いませんし、興味もないんです。」

 前々からの疑問が氷解する。晶子はファッションにこだわりがなく−センスの有無とは別の話−、ブランド物に興味を示さない。それは俺としてはありがたい
ことだが、女性全般の傾向から外れることを躊躇わない理由までは分からなかった。
 流行はパターンやアイデアの消費という話を聞いたことがある。ファッションの流行自体が自然発生的なものじゃなく、ファッション業界が「これ」と決めた
ものをファッションショーやメディアを通じて流行と発信することで発生する、人為的なものだ。同じものが長く続くのは、ファッション業界−デザイナーや
アパレルメーカーにとって商品の回転が滞るから好ましくない。頻繁に流行を変えるから、当然パターンやアイデアの消費サイクルは速くなる。それに、流行の
品だと品質や使い勝手といった製品の本質とは無関係に生じる飽きで人が離れていく。その勢いは集う時以上に早いし、次に流行とされない限り殆どの人は
寄り付かなくなる。だから、流行の変遷による買い替えは殆ど総替えの様相を呈する。ブランド物でなくても服は1着数千円するから頻繁に買えば軽く万の
位に達する。流行を追うことは多額の出費を覚悟しなければいけない。

「もう1つは、そういうことにのめりこむと、それが出来なくなった場合のストレスが大きくて、色々な場面で歪みや軋轢を生じると思うからです。特に私の場合、
祐司さんとの子どもが欲しいです。子どもを産んで育てる時にファッションやブランドにかまけていたら、子どもをきちんと育てられないですよね。」
「それに、ファッションやブランドにのめりこんでいると、子どもが居ることで時間的にも金銭的にも出来ないとなってストレスになる、と。」
「そうです。自分のことを優先するあまり子どもがストレスになるなんて、母親や妻としてあまりにみっともないです。家庭の運営どころの話じゃないですよ。」

 晶子の言うことはまったくもって理に適っている。晶子が俺との結婚を既成事実を重ねて今では率先して安藤姓を名乗るほど強力に推進している理由は、
子どもが欲しいからだ。子どもを安心して産み育てるために、その障害となる浮気や浪費のリスクが低い俺を早い段階から夫に据えることが必要だったことが、
この前の旅行で分かった。何度も詰られるだけ詰られて門前払いされるのに、就職活動に勤しんでいるのも、俺におんぶに抱っこにならずに子どもを産み
育てる財政基盤を構築するためだ。そこまでして子どもを待望しているのに、子ども以上に多額の消費をする可能性が高いファッションやブランドに手を出す
のは本末転倒でしかない。
 それに、この前の旅行で悪い親の例を間近に見た。めぐみちゃんの両親、特に母親は兎に角自分中心で、めぐみちゃんを疎んでいることを露骨に示す
こともあった。そもそも結婚も出産も世間体や成り行きやなし崩しの側面が強く、子どもの母親という自覚は感じられなかった。そんな身勝手な母親と似た者
同士の父親のおかげで、めぐみちゃんは絶えず抑圧され、挙句の果てには京都御苑に置き去りにされかけた。子どもが欲しいのに現状から我慢せざるを
得ない晶子にとって、あまりにも贅沢で許せないものだったことは想像に難くない。そんな事例に接したから尚更、子どもを産み育てることとは無縁で障害に
なり得ることは最初から近づかない方が賢明と判断する。その中にはファッションやブランドが含まれるのも当然だ。

「きちんと考えてるんだな。母親になることを。」
「そうでないと子ども好きを自称自認する資格はないですよ。それに、子どもをきちんと世話出来ない妻だと、夫が安心して仕事に専念出来ないと思うんです。
やっぱり男性は仕事をしているかどうかで評価される傾向が根強いですし、女性が自分を優先するあまり子どもも夫もおざなりにするようなら、最初から結婚
しないで独身でいる方がずっとましです。」

 めぐみちゃんの事実上の虐待とそれに罪悪感を覚えないめぐみちゃんの両親、特に母親に対する晶子の嘆きや怒りは強かった。めぐみちゃんを我が子の
ように可愛がっていたのは、母親体験は勿論、めぐみちゃんを悲しませないようにと努力した結果だった。
 女性と母親の違いは何か。この命題に対する明快な解答の1つは子どもを持つかどうかだ。厳密に言うなら、子どもを世話するかどうかだと思う。産むだけ
ならその辺の男を適当に見繕って一夜を共にすれば割と簡単に実現できる。だが、産むのと育てるのはまた異なる。子どもは当然最初は自分では何も
出来ないから、教えたり助けたり代わりにしたりといった世話が必要だ。「親は無くとも子は育つ」と言えるのは、少なくとも子どもが自分で判断して行動出来る
ようになってからだ。
 子どもが出来たなら女性である前に母親であることが必要だ。しかし、女性としてちやほやされ、給料を自分のためだけに使う−それは大抵ファッションや
グルメなど女性誌の基本テーゼだ−ことに慣れ切って、それに費やす時間や金を子どもに向けることは容易じゃない。きちんと切り替えられるなら良いが、
それが出来ない事例が多いことは、週末の買い物でも分かる。着飾ってはいるが自分と子供の言動は野良そのものの親子なんて、探さなくてもよく目にする。
自分の思い通りにならなければ簡単に離婚する事例も増えているし、それを女性団体や女性誌が煽っている。そういった事例が増えるとそれが多数派になる
危険性はあるが、それが良いとは思わない。晶子の言うとおり、母親や妻である前に女性でいたいなら、自由が利く独身でいるべきだ。子どもは親を選べない
以上、いい加減な親の下に生まれる子どもが少なくなる方が良い。

「晶子だと、こういった店より子ども用品の店とかの方が楽しめるな。」
「はい。一度見て見たいと思ってたんです。」
「このビルにそういう店があるかは分からないが、ひとまず色々廻ってみるか。」
「はい。」

 あるかどうかは分からないが、地下街がそうだったように見て回るだけでも結構楽しめる。買う必要がないなら買わなければ良い。この外出自体、買い物が
目的じゃなくて気分転換が目的だ。1フロアだけでも地下街の1つのエリアをすっぽり覆うような広さだ。それが高層に連なったビルなら、意外に子ども
用品店もあるかもしれない。
 人が行き交う通りを歩き、手近なエスカレータを探す。エスカレータのある部分は吹き抜けになっていて、見上げるとかなり高いところまでエスカレータの
蛇腹が達している。1階からだと終点が見えない。地下街がゲームで言うところのダンジョンなら、このビルはさしずめ塔ってところか。

「やっぱり…、子ども用品店はないみたいですね。」
「場所が悪かったかな。」

 2階と3階を回ってみるが、女性向け服飾店と女性向けインテリア用品店−置いてあるものからして女性向けだと思う−が大半で、時折宝飾店などがあるが、
それ以外の店はなかった。エスカレータ近くにビルのフロア一覧があったようだから、そこに戻ってようやくそういう店がこのビルにはないことを確認する。
 このビルの方針として、若者、特に女性向けの店を集約しているようだ。晶子も十分若い女性の範疇だが、服やバッグやアクセサリーを買い漁るのとは
正反対の志向は店の範疇からは完全に逸脱している。店にとっては晶子はお呼びでないわけだ。

「残念ですけど、ないものは仕方ないですね。」
「百貨店のあるビルだとあるかもしれないな。そっちに行ってみるか?」
「いえ、良いです。子どもが出来てからでも遅くないですし、それ以外にも見て回りたいですから。」

 子ども好きだし将来を思い浮かべて楽しみたい気持ちはあるが、それに固執はしない。幸福を思い浮かべることで困難続きの現状に晒される自分を嘆く
悲劇のヒロインにならないようにと自戒しているんだろうか。

「上まで行ってみるか。展望台があるみたいだし。」
「はい。何処まで遠くが見えるんでしょうね。」
「小宮栄の市街地全体くらいは見えると面白いだろうな。」

 高層ビルの定番だろうか、最上階は1フロア丸ごと展望台になっている。店は俺と晶子の志向と違うが、高所から絶景を見るのは一致する。1フロア丸ごと
だから、360度の絶景が見られる可能性もある。普段の生活だとせいぜい研究室の居室から180度の風景を眺める程度で、キャンパスと近隣の住宅くらいしか
見るものがないからな。
 最上階へはエレベータで行く。エスカレータで50階を超える場所を行き来するのは時間がかかる。エレベータも全てが通じているわけじゃなく、半分は途中
までしか往復しない。最上階直通のエレベータは同じ目的らしいカップルや家族連れが並んでいる。ここはあえて乗り換えのエレベータを使うことにする。
エレベータはそれほど大きくない。大人が10人ほど入れば満員だ。大学には大型荷物搬入用−計測器もあるがレーザーやその常盤(註:レーザーや精密
加工機器など振動や傾きを嫌う機器を据え付ける専用の作業机)や真空チャンバーは大き過ぎて普通のエレベータには入らない−のエレベータがあるが、
人を上下に運搬するエレベータにはある種の規格があるんだろうか。
 上に軽く引っ張られるような感覚の後、エレベータが上昇を始める。20階に達すると今度は下に軽く引っ張られるような感覚の後エレベータが止まる。ドアが
開くと一斉に人が降りる。隣接する最上階へのエレベータへ向かうところからして、考えることは同じのようだ。

「この辺は企業が入っているフロアなんですね。」
「店だけじゃないんだな。」

 エレベータを待つ間、出入り口脇のフロア案内を見る。中継点でもあるこの20階を含む4階から40階はオフィスフロアとなっていて、有名企業の名も多い。
企業規模が大きくなると大きな自社ビルを構えるのがステータスだった時代があったが、今は総合駅近くの大型ビルに入るのがトレンドのようだ。
オフィスフロアだけに、エレベータ回りは閑散としている。企業の部門か部署に通じる道には、自動改札のような門があって閉じられている。周囲は殆ど
向こうが見えない曇りガラスに囲まれていて、中を窺い知ることは出来ない。
 今回は企業訪問が目的じゃないからそのくらいにして、エレベータの到着を待つ。5つあるエレベータには全て順番待ちの列が出来ている。俺と晶子が
並んでいるのは中央の列だ。エレベータの現在位置を示すインジケータが40階から急速に近付いてくる。エレベータが到着すると、行列が一斉に動く。その
波に乗ってえれエータに乗り、40階に運ばれる。と思ったら、37階から順次止まる。そのたびに若干人の出入りが生じる。俺と晶子は最上階の40階で降りる。
降りて早々に「スカイスクエアガーデン」と書かれた洒落た雰囲気の看板と、入場料の告示がある。

「入場料が必要なのか。」
「今度は私が出します。」

 晶子はさっさと財布を出して券売機でチケットを買ってくる。俺がソフトクリームを買ったからそのお返しということだろう。晶子は自分が出費することを
躊躇わないんだよな。今まで何度か遭遇した「女は男に奢られて当然」という意識がないのは、意外に希少だったりする。
 チケットのもぎりも自動改札のような機械を通す。チケットの裏側は切符と同じく磁気タイプで、それを機械に通すとゲートが開いて穴が開けられたチケットが
出て来る。自動改札を通る感覚で通行すれば良い。近代的と言うのか殺風景と言うのか分からない。
 展望台ことスカイスクエアガーデンは、俺と晶子が降りた40階だけじゃないようだ。エスカレータが上に伸びている。開けたところの傍にあるフロアガイドを
見ると、40階から43階が丸ごと展望台で、エレベータが順次停止した37階から39階は展望レストランことスカイスクエアレストランになっている。スカイスクエア
ガーデンは、予想どおり中央にエレベータとエスカレータと売店が集中していて、360度全域がそのまま展望台になった構造だ。手近な窓−といっても全面
ガラス窓だが−から見ると、麓には大小のビルが林立する小宮栄駅周辺が広がっている。

「良い眺めですね。」
「40階まで上ると景色が全く違うな。あっちは…小宮栄港かな。海がうっすら見える。」

 ビル群から離れるにつれて景色は霞んでいる。その霞の向こうにビルも家も緑もない広がりが見える。方角からして海、そして最寄りの小宮栄港だろう。地図
では駅から港まで結構距離があるんだが、この高さまで上ると見えるんだな。

「私が行く合同説明会の会場は…、あのあたりですね。」
「大きな屋根が見えるな。小宮栄国際会議場だったか?」
「ええ。祐司さんがこの前行った高須科学はどのあたりですか?」
「港湾線沿いで路線のやや北寄りだから…、あの辺かな。目印になりそうなものは見えないな。」

 小宮栄国際会議場も最近の臨海開発で出来た大型施設で、この類の建物の例に漏れず港に近い位置にある。シーサイド云々を気取るためか単に土地が
安くて大面積の駐車場が確保しやすいからか分からないが、晶子は毎回小宮栄を経由してあの会場まで足を向けていた。にもかかわらず何も成果が出ない
から、正直場所も見たくないかもしれない。
 俺が好感触を得て内定に向けて前進中の高須科学も港に比較的近い位置にある。同じ港湾線を使っていたが、晶子は終点に近い方だ。晶子が自分が
通う場所を言い出し、俺が最も内定に近い企業の場所を尋ねた心境は、あくまでも気分転換だと自分に言い聞かせるためだろうか。

「他の方向も見てみるか。」
「そうですね。お城は…あっちの方ですね。」

 俺と晶子は港の方向とは反対の、北側の窓へと移動する。小宮栄駅は小宮栄市の中心よりやや西寄りの位置にある。面積の広い町を東側で吸収合併した
ことが影響している。吸収合併は自治体の判断だし、その結果中心部の位置が領域の中心からずれても行政に支障が出るとは思えない。
 城は官庁街にある。小宮栄から地下鉄で2駅か3駅移動したあたりだ。天守閣をはじめとする建物は先の戦争での空襲で全焼したが、戦後に再建された。
歴史の教科書に必ず登場する、誰でも知っている大名が生まれ育った城だから石垣と堀しか残ってないのはおかしい、と思ったんだろうか。城はそれほど
距離が離れていないから、白亜の天守閣は勿論、堀に囲まれた全域がはっきり見渡せる。近隣の官庁街を構成するビル群も、道を挟んだ城の反対側に
整然と並んでいる。城を護る防壁のように見えなくもない。

「祐司さんは高校時代にお友達と小宮栄に来ていたんですよね。お城に行きました?」
「それが行ったことがないんだ。専らスタジオか楽器店巡りだったからな。」

 高校時代の俺にとって、小宮栄は設備が充実したスタジオと品揃えが豊富な楽器店がある町という認識だった。だから、行動範囲はそれらがある場所プラス
周辺の飲食店くらいのものだ。そんな有様だから小宮栄公園は今日初めて知ったし、城に行ったことがあるかと尋ねられてもないとしか答えられない。
 宮城と付き合っていたが、そのデートは大半が地元の麻生市だった。このビルにあるようなブランド物や高級品を買えるような金なんて持ち合わせて
なかったし−それは今もだが−、書店や雑貨店を回って祭り時期には屋台で何か買って食べるようなデートだった。それで十分楽しかった。そのことは
伏せておく。宮城からは音沙汰がないし、晶子も宮城のことを聞いても居ないのに話されても良い気分はしないだろう。自分の過去の恋愛事情を嬉々として
話す趣味はないし、自分の手が及ばない時代の話を意に反して聞かされてもやり切れなさと言うか、そんなものを抱くだけだ。

「私は新京市に来てから小宮栄に接しましたから、お城を見るのも初めてなんですよ。」
「それほど距離は離れてないし、行ってみるか?」
「はい。」

 次の目的地が決まった。時間からして城の散策が今日の最後の目的地になるだろう。行った場所の数や範囲よりどれだけ満喫出来たかで、外出の充実
具合を考えれば良い。晶子も恐らく、否、きっとそんな気持ちだろう。そうじゃなけりゃブランド物が誇示されているフロアを一瞥して、子ども用品店探しを
楽しむことなんて出来やしない。
 城の最寄り駅、小宮栄城駅を出る。1番出口を出ると堀の南東端が出迎える。その大きさに圧倒される。堀だけでも大きな川幅くらいあって、そこを挟んで
見える石垣は構成する石からして大きい。戦国時代に繰り返し激しい戦火に巻き込まれても一度も落城せずに空襲まで持ちこたえたというだけのことはある。

「こんなに大きい城だったとはな…。」
「ビルの展望台からだと箱庭みたいに見えましたよね。」
「全域を回るのはちょっと難しいかもしれないな。」
「来ることが目的だったんですから、回れるだけ回れれば十分ですよ。」

 堀に沿って正門に向かう。堀沿いの道は広い歩道で、東に向かって歩くと片側3車線の大通りにぶつかり、その向こう側に官庁街がある。俺と晶子のように
西に向かって歩くと、横長のレンガ造りの建物が近付いてくる。小宮栄市の市役所本庁舎だ。戦前からの建物で、こちらは空襲でも焼け残って今も使われて
いる。文化財としての価値もあるらしく、今時のコンクリートビルへの建て替えはしないし出来ないらしい。
 正門は城の真ん中にある。花の盛りは過ぎたが観光客らしい人の出入りは多い。正門を前に写真撮影をする人も居る。写真撮影の合間を縫う形で正門から
敷地に入る。堀を渡す橋は朱塗りの軽いアーチを描くもので、この前の京都旅行を髣髴とさせる。敷地に入ると広大な平地が広がる。随所に桜があって、奥に
天守閣が見える。南東端にもあった櫓の他、入り組んだ壁や御所らしい建物もある。遅い花見をしている人は、桜の下にビニールシートを広げて酒や料理を
囲んでいる。桜の代名詞であるソメイヨシノ以外にも八重桜が満開だし、花見は実質屋外での飲み会だから桜の種類にはこだわらないだろう。

「お城が見えたビルは、あっちの方角ですよね。」
「そうだな。もう少し高台に行けば見えるかもしれない。」

 ビルらしいものは僅かに見えるが、塀や木々に隠されている。此処で高台と言うと…天守閣だな。この際だから天守閣へ行ってみるか。
 天守閣への道のりを歩く。これがなかなか長くて入り組んでいる。上下したり幅が変化したりする道を歩いていくが、天守閣は見えてはいるがその入口がある
敷地まで辿りつけない。行く手を阻むような作りだが、これが城の本質だ。今でこそ城は観光資源だし自治体のシンボルでもあるが、建設された時代には
侵攻時だと前線基地、侵攻された時は防衛拠点になった。天守閣は城主が鎮座する中枢地域だから、城内に侵攻された場合、出来るだけ時間を稼ぐと
同時に敵を迎撃する仕掛けを施しておく必要がある。道が複雑な構造をしているのは、城、特に天守閣の防御を高めるためのことだ。歴史的建造物って
ことで当時の資料を基にして再現したのに、現代人の都合に合わせて正門から直進で辿りつけるようにするのはおかしい。

「足元に注意な。」
「はい。」

 途中急峻な階段に出くわす。緩やかに右へカーブしていて段差がかなり大きい。うっかりして足を滑らせる危険がある。晶子は歩きまわることを想定して
ズボンを穿いているが念には念を。手を引きつつペースを晶子に合わせて進む。晶子は少し息が上がっているが嬉しそうだ。
 ようやく天守閣のある敷地に到着。正門があった平地が斜め下方に見えるから、何度か上り下りしているうちに高いところに来たようだ。間近にそびえる
天守閣は迫力があるが、まずはビルが見えるかどうかだ。

「あのビルじゃないでしょうか?向こうに見える2つのビルのどちらか。」
「そうだろうな。形からして左側だな。」

 やや霞んでいるが、南の方角に細長い白亜の建物が幾つか並んでいるのが見える。その中で突出した2本があって、向かって左側は辛うじて見える下側
1/3ほどが幅広だ。中にあったフロア案内で見たビルの全容と同じ形状だ。

「此処から見るとビルの方がミニチュアみたいですね。当たり前ですけど。」
「2駅分だけど、意外と距離があるんだな。」

 住宅街か商店街を丸ごと飲み込んだようなビルは、此処から見ると立ち並ぶビル群で目立つ1本に過ぎない。逆にビルの展望台から見た時は箱庭に
見えたこの城は、勇壮さを醸し出しながら巨体を横たえている。見る場所を変えれば見え方も変わるってわけか。
 続いて天守閣に入る。混んではいるが行列や人垣を成すほどじゃない。蛍光灯は灯っているが全体的に薄暗い屋内を順路に沿って歩く。書物や甲冑など
色々な資料がガラスのケースに収納されて陳列されているのを見ていく。順路に沿っていくと階段に差し掛かる。階段は民家の階段を少し広くした程度で
段差が大きい。此処は晶子を先に行かせる。この段差で邪魔にならないように1段空けて歩くと、丁度尻のあたりが後ろの人の目の前に来る。後ろは男性
だからその点が気になる。
 天守閣の最上階に到着。此処を建設した初代城主の彫像もあるが、全体的に質素で薄暗い。窓際には望遠鏡が設置されているが恒例のように塞がって
いる。窓からは景色が見えるが絶景とは言えない。正直拍子抜けの感は否めないが、此処は城だからこういうものだろう。

「お城の天守閣に上ったのは今回が初めてなんですけど…、豪華な作りってイメージと全然違いますね。」
「それは情勢が安定した時代の財政力があった大名−豊臣秀吉とか、そのイメージの拡大適用と後で作られたものだ。基本的に天守閣はこんなもんだと
思う。」

 城は前線基地だったり防衛拠点だったり領主の立場によって役割は変わるが、大将が鎮座して戦術を編み出したり指揮を取ったりする場所だ。特に攻め
込まれた時はいかに攻め込まれにくくするか、敵が攻めあぐんでいるところに敵を迎撃して数を減らすかが重要だ。その時一番危険なのは窓際だ。当時は窓
ガラスなんて存在しないし、防弾ガラスなんて空想でもあったかどうかのレベルだ。敵に存在を勘付かれたり、低層階だとそこから敵に踏み込まれてしまう。
守りを固めても窓から侵入されたら意味がないし、窓際の防衛に人を割かれたらその分城の守りが手薄になる。
 人が入れない程度の覗き窓は観察もさることながら、弓矢や鉄砲での遠距離狙撃口にもなる。戦略の基本として高所に居る方が有利だし、そこから高速で
飛んでくる矢や弾丸は非常に脅威だ。だから、情勢が安定して城が権力の誇示に意味を変えていくまで、城の作りは攻撃と防御、言い換えれば戦争の
只中に居ることを大前提に作られた。

「−一部推測も交じるが、こんな事情がある。」
「なるほど…。納得出来ます。」

 晶子は感心したらしく目を輝かせている。これも高校時代の勉強会で得た知識の1つだ。歴史は高校では日本史も世界史も教科書の一部しか学んでない。
だから中学の社会科に多少上乗せした程度しか知識は存在しない筈だ。勉強会に参加していたら、自分の受験に関係ない教科でも討論や調べた内容の
突き合わせに参加することになる。軽い気分で聞いていたつもりが疑問に思ったのが発端になって、自分の教科そっちのけで発言したりしていたこともよく
あった。
 今回の知識にしても、確か耕一と勝平が戦国時代の日本史を勉強していて−勝平は理系で日本史を選択した少数派の1人−、侵攻や防衛で呆気なく
落ちたところとしぶとく残った城の違いを討論していた。特に豊臣家の覇権の象徴である小田原城攻めと、終焉の象徴である大阪城についてかなり研究して
いた。名将と言われた武将の存在や兵力の大小だけでなく、城の構造や周囲の環境も城全体の防御力を大きく左右するという結論に達したと思う。

「このお城が質素で薄暗いのは、戦国時代を生き抜いたからなんですね。」
「そうだな。その後改装をしたとしても、城の構造を抜本的に変えるほどのことはそう簡単には出来なかったからな。主に財政面で。」
「良い景色を見るには残念ですけど、歴史を垣間見るには良いですね。」

 他の城の内部は見たことがないから分からない。だが、小宮栄城は弓矢が飛び交い血飛沫が舞い、骸(むくろ)が地面を埋めた時代を潜りぬけ、今に佇む
歴史の遺産だ。こういう時代があったと知るだけでも良いし、城よりずっと高い建物や馬よりずっと早い移動手段がある中で佇む、生まれた時代の相違を
感じるのも良い。
 小宮栄の経験は晶子よりは高校時代の分だけ長いようだ。それでも今日の分だけでも初めて目にするもの、初めて赴いた場所が殆どだった。京都旅行でも
新鮮な風景と出来ごとの連続だったが、電車で30分程度の距離にもたくさん知らない世界はあるもんだな…。
 小宮栄からの電車に乗った。小宮栄城の天守閣を出た後、小宮栄城を散策したら時間が来た。バイトはこれから卒研や就職活動が本格化したり忙しく
なったりした時のために出来るだけ休まないようにしている。それは晶子も十分分かっているし、休むつもりもない。
 車内はかなり混み合っていた。小宮栄の人の数を見れば、そのベッドタウンの1つである新京市方面への人の移動は予想外のものじゃない。鮨詰めになる
ほどじゃなかったが、俺と晶子は出発の少し前に乗ったから終始立っていた。
 駅に到着後、そのままバイトへ直行。時間的には多少余裕はあったが、家に帰ってから行く理由はない。バイトでは俺は着替えるし、晶子はエプロンを
着けるから通勤時の服装はどうでも良い。そもそもわざわざ着飾っていくほど服のバリエーションは豊富じゃない。

「「こんにちはー。」」

 カランカラン、とカウベルが軽い音を立てる。この音を聞くと今日もバイトに来たんだ、と認識出来る。

「おや、今日も仲良く御出勤か。何時もより少し早いね。」
「お出かけ帰りなんです。」
「どうりで特に晶子さんがご機嫌そうなわけだ。」
「分かりますか?」
「晶子ちゃんは顔に出るからね。夕ご飯は準備出来てるから座って待ってて。」

 今日の行動結果を交えたものをプラスしたやり取りは、出勤時恒例のもの。出勤後、潤子さんが用意してくれた夕飯で腹ごしらえして、準備をしたら店の
一員として店内に出る。何時もの流れだが、1日の後半戦に臨むために気分がきちんと切り替わる。今日も店内は賑わっている。この賑わいは週に1回の
潤子さん登場のせいだろうか。
 今日は客として飲食店に入る機会があった。客の立場と店のスタッフの立場では見えるものが違う。どちらが良いというもんじゃなく、どちらも知っているから
分かることがあると思う。その意味でも、今日は朝から出歩いた価値があった。
 夕飯を済ませ、準備をしてスタッフとして店に出る。俺は客席を回ってキッチンとの往復、晶子はキッチンに詰める。チラッと窺った晶子は今もご機嫌な
様子だ。何か大層なものを買ったわけでもないし、期待に沿うかどうかを測るサプライズもなかったが、俺と出歩けたことが楽しかったことが分かる。俺は
晶子の気分転換になれば十分だったし、見返りの徹底的な奉仕と比較すると次はもっと楽しませたいと思う。
 店は明日休みだが、俺と晶子は大学での次の1週間が始まる。状況はどう転ぶか分からない。気をつけて行くのは勿論だし、晶子と支え合っていくことを
忘れないようにしよう。1人では難しいことも出来ないことも2人なら出来る。その男女関係の1つが夫婦なんだから…。
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