雨上がりの午後

Chapter 286 天敵の再来と裏話

written by Moonstone

 バイトは今日も盛況だ。一部の高校はこの時期進級最初のテストとして実力テストがある。定期テストと違って今までの内容、つまり進級までの内容全てが
試験範囲になるから、学生にとってはかなり厄介なテストだ。客の高校生は注文した料理を食べつつ、問題集とノートを広げてテスト勉強をしている人が
目立つ。最大4人のテーブルは料理を置くだけなら十分だが、更に問題集やノートを広げるのは想定してない。非常に手狭な状況になっているが、料理を
食べて腹を満たしつつ−この先実力テスト対策の塾があるそうだ−テスト勉強に勤しむのは、なかなか器用だ。
 俺は注文を運びつつ客席を回る。料理をこぼしたりしないように注意を払うのもあるし、可能なら勉強を教えるためでもある。普段使わない英語以外の文系
科目は少し難しいが、数学全般と物理は十分こなせる。これらがこなせないと大学の専門教科はやってられないんだが、多くの学生が苦手とする教科でも
ある。晶子を早々に確保したことで男子学生から睨まれて久しいが、勉強を教える分には素直に応じる。

「−で、その式を、コンデンサの電荷量の式Q=CVにあてはめれば、Vがtの関数として出せる。」
「あ、そういうことか。」

 4人テーブルに座る男子学生が一斉にノートに最後の導出部分を書き留める。コンデンサを充電してスイッチをONにして放電する際の両端の電圧Vを時間
tの関数として表すという物理の問題で全員停止していた。料理を運び終えた俺が通りかかり、問題を眺めたら十分解けるものだったから手早く導出方法を
教えた。

「同様の考え方で、充電する時の両端電圧をtの関数で表すタイプの問題も出来るから、見かけたらやっておくと良い。」
「分かりました。」

 普段は俺に素っ気ない男子学生も、問題を教えた時は割と素直になる。普段から少しはその態度を欠片で良いから見せて欲しいと思うが、俺が言っても
説得力がないことくらい分かっているし、他にも仕事はあるから席を去る。

「祐司君。これを11番テーブルにお願いね。」
「はい。」

 キッチンに戻った俺に潤子さんがカウンター越しに料理の乗ったトレイを2つ差し出す。2つなら1回で運搬できるから楽だ。それ以上だと2回に分けないと
安全上良くないし、往復の分だけ時間がかかる。

「高校生は試験勉強中みたいね。」
「はい。偶に教えています。数学と物理、あと少々の化学と英語くらいですけど。」
「その辺は高校生が一番苦手とする教科ね。暇を見つけて見てあげて。」
「はい。」

 国語と社会科関係、あと生物は割と暗記の量で決まる部分が大きいし、それだけ一夜漬けもしやすい方だ。数学や物理は暗記が殆ど有効じゃないし、公式
だけ覚えていても大して使えないことが多い。化学と英語は暗記が必要な部分もあるし、それを使いこなす力も必要だから力押しだけでは通用しない。試験
までにどれだけ問題をこなして理解したかが決定打になる。
 俺が不思議なのは、割と賑やかなこの店で試験勉強が出来ることだ。試験勉強と言うと自分の家か学校内外の図書館−新京市には新京市の中心部に
大きな図書館がある−が相場と思っていたんだが、人によってはそうでもないそうだ。自宅だとTVやゲームやインターネットと誘惑が多い。図書館はこの時期
直ぐ満席になるし、場所取りに失敗すると余計に大変。この店だと食事は出来るし、塾まで若しくは帰宅までの時間制限があるから集中せざるを得ない、集中
すると店内の音は気にならない。それがこの店で試験勉強をする理由だそうだ。
 店は事実上塾通いの中高生の食事と休憩場所でもある。近くの小中学校のPTAが偶にチェックに来るそうだが、子どもがタバコを吸うことを心配するなら
学校と塾の連続で疲れ果てないかどうか心配した方がずっと現実的だ、とマスターが言うとおりだと俺も思う。子どもは学校と塾に丸投げしておいて子どもの
健全な成長とはよく言えたものだ。

カラン、カラン。

 来客を告げるカウベルの音がする。この音を聞くと反射的に出入り口の方を見てしまう…!た、田中さん…?!間違いない。でも、どうして…?…と、兎も角
応対に出ないと。

「いらっしゃいませ。」
「こんばんは。1人だけど、空いてる?」
「少々お待ちください。」

 この時間は満席になりやすい時間だし、中高生は塾の時間までなかなか出ようとしない。塾の時間になると一斉に居なくなるから会計が大変なんだが、閉店
間際まで居座るとかしなければ退出を促すことはしない。相席があれば良い方だ。
 客席をざっと見回すと、ステージ近くの4人席が1人分空いている。こちらも塾通いの男子高校生だ。田中さんを待たせて相席の依頼をしに行く。相席は
承認を得られた。多分女性だと言ったからだろう。その返答を持って田中さんのところに急いで戻る。待たされる時間は長く感じるもんだからな。

「相席になりますが、よろしいでしょうか?」
「ええ。」
「では、こちらへどうぞ。」

 俺は田中さんを先導して相席の承認を得た席へ向かう。…視線が集中するな。特に男子中高生からの。歓声に近いどよめきの声も聞こえる。やはりと
言うか、相席を承認された席に到着すると、先客の男子高校生の目が輝く。

「御注文が決まりましたら、お知らせください。」
「ええ。ありがとう。」

 俺が差し出したメニューを受け取って、田中さんは応える。おしぼりと水を運ぶ必要があるし、他にも客は大勢いるから長居は出来ない。まずは拠点でもある
キッチンに向かう。

「祐司君、確か彼女は…。」
「ええ、知ってます。」

 キッチンに緊張に似た空気が立ち込めているのを感じる。ひと月ほど前、田中さんの来店に端を発して晶子が混乱をきたし、一時は俺の下から逃げ出した。
そこからプロポーズ、京都旅行、夫婦関係の前進へと繋がったんだが、結果的にそうなったことだ。田中さんの意図が分からないだけに、出方を窺うしか
ない。だが、客であることには違いない。客としてあるまじき行為−たとえば飲酒や他の客の迷惑になる乱痴気騒ぎや未成年者の喫煙飲酒を起こしていない
限り、接客をしないわけにはいかない。俺はカウンター脇の棚からおしぼりを取り、水を汲んで客席に向かう。

「グラタンセットを1つ。」
「30分ほどお時間をいただきますが、よろしいでしょうか?」
「ええ、構わないわ。」

 田中さんはメニューを決めていた。俺は水とおしぼりをテーブルに置き、注文をメモに取る。時間がかかるグラタンセットを頼んだ理由が何となく分かる。
田中さんと相席の男子高校生が英語の問題集を広げているからだ。どう見ても分からない問題を教えてもらおうとしている。手狭な感じがするから空いている
食器を片づけて再びキッチンに。少し晶子と目が合う。…多少表情が硬いが、以前のような警戒心むき出しというものじゃない。

「グラタンセットを1つ。」
「はい。」

 注文を受けたのは晶子だ。俺は注文を書いたメモをカウンターに置き、客席を巡る。空いている食器を片づけて中高生なら勉強がしやすいように、他の客は
注文の残りがあれば食べやすいようにすることも、接客担当の仕事の1つだ。

「ねえ、安藤君。奥のテーブルに来た彼女って、少し前に店に通ってた女性じゃない?」

 4人用テーブルの1つに陣取っていた常連のOL集団が話しかけて来る。この集団は俺より他の客をよく見ていることがある。前回の騒動の時もそう
だったな…。

「結構自由な性格みたいね。男子高校生と相席するなんて。」
「年下好みかもね。」
「あー、そうかも。」

 記憶違いでなければ、確かこの4月から博士2年。現在のこの店の客の多くは田中さんより年下だ。年下が好みと断定する証拠にはならないし、客としている
分にはあれこれ推測をしないのも接客側のマナーだ。

「男子中高生諸君は、彼女に注目してるみたい。」
「綺麗な年上のお姉さんが好きな年頃だからねー。」
「あたし達が居るのにねー。」

 何だか聞いたことがあるようなやり取りを聞きつつ、空いた食器を片づけて追加注文の有無を聞く。この集団は結構よく食べるからな。案の定、デザートと
してケーキセットの追加注文が4人分出される。それをメモに取って他の客席に向かう。

「安藤さん。」

 1人席の1つでも声がかかる。だが、この客の場合「またか」という気持ちは不思議と起こらない。彼女は田中さんが相席している男子高校生と同じ高校の
女子生徒。加熱する一方の両親の教育熱の影響で自宅でも勉強に追い立てられる一方、満足な食事も摂れない状況が続き、心身共に疲れ果てていた
ところにこの店の話を耳にして訪れた。以来、ほぼ毎日通っている。

「ひと月かふた月くらい前に通っていた女性(ひと)、来たんですね。」
「ええ。」

 食事中の彼女は客の中高生では珍しく丁寧語で話す。先輩面するつもりはないから友達感覚で話すことは何とも思わないが、その中で丁寧語で話すと
印象が強い。

「高校でも一時、あの女性の話題が男子の間で持ちきりだったんですよ。凄く綺麗な大人の女性で、タイミングが合えば英語や国語を教えてもらえるって
ことで。」
「どうりで男子高校生の客が増えたわけだ。」

 白を基調にした洋風の建物と調度品で固められたこの店は、長く女性客が主体だった。客の中高生が通う塾の講師や話を聞いて訪れてみた人以外は
大半が女性客だった。それが晶子の加入で一気に男性客が増えて比率がかなり均等に近付いた。
 晶子が左手薬指に指輪を填めたことで男性客は激減するかと思いきや、比率としては少々減ったかもしれないが、数そのものは増えている。中高生でも
社会人でも、或いは昼間の主婦でも「美味い料理と生演奏付きで食べられる」と口コミで広がったからだ。おかげでバイトは暇になることがない。男性客の
割合は殆どが中高生で、これは変わっていない。男性だと仕事帰りや休日に喫茶店に行くという発想にはなかなか繋がらないようだ。その中高生は熟前後の
腹ごしらえと晶子や潤子さんの「見物」を兼ねて通っている。だが、どちらも夫持ちだから接客や演奏の時に近くを通ったり、割と近い距離から眺めたりする
くらいしかない。俺は兎も角、マスターの風貌を前に横恋慕をしかける勇気のある中高生はいない。
 そこに、フリーの女性として田中さんが来店するようになった。集団行動が普通の女性で単独行動のみ、しかも見ず知らずの男子中高生との相席も
躊躇わないと特異な点は多いが、その特異さがかえって注目を浴びる要素となりうる。女性誌の言われるままに化粧をした女性は、その比率が高いことで
個性を出すつもりが無個性になっているし、石膏を塗るか仮面をつけた方が早いような厚化粧や飾り立てた様子を好む男性はそれほど多くない。
 晶子も潤子さんも「売約済み」で遠目に眺めるしかなかった男子中高生にとって、田中さんの来店は新鮮かつ強烈だろう。来店が1度きりの気まぐれでは
なく、暫く続けば当然田中さん見たさに来る客はいるし、話を聞きつけた他の中高生も訪れる。そうだとすると、以前のごった返しぶりの原因が理解出来る。
その後音沙汰は途絶えたが、「もしかしたら今日は」と期待を抱いて来店を続ける客は多かったようだ。

「安藤さんに会いに来たんじゃないですかね。」
「え?」
「もしそうだとすると、注意した方が良いかもしれないですね。井上さん、かなり独占欲が強いタイプみたいですし、此処に暫く通って接客に出る安藤さんに
アプローチする様子を見せれば、井上さんは撹乱されるかもしれないですよ。」
「注意しておきます。」

 同性の動きや心理には聡くなるものなのか、彼女は以前の騒動の経緯を見透かしたようなことを言う。確かに、以前のように通い詰めてそのたびに俺と
会話をすると、晶子は独占欲を強めて攻勢に出る。しかし、それでも退散させられないとなるとどうして良いか分からなくなってしまうだろう。以前は現に
そういう経緯を辿ったんだから。
 田中さんが今回どういう目的で来店したのかは分からないし、本人に確認する術はない。したとしても巧みにはぐらかされるのがオチだろう。彼女の推論は
以前の経緯を踏まえたようなものなだけに、俺も注意しておくに越したことはなさそうだ。
 全身の硬直が解けると同時に、堰を切ったように荒い呼吸が始まる。眼前には一糸纏わぬ姿の晶子が無防備に表を晒している。腹の底から湧きあがって
くる欲情を転換出来るものが尽きたのを確認して、俺は晶子の隣に身体を横たえ、2人を出来るだけ覆うように掛け布団をかける。今夜も激しかった。
まだ晶子の事情で中には出せないが、晶子の要求に応えて出来る限りのことはしたし、晶子にもしてもらった。結果、俺は精根尽きたし、晶子は随所に俺の
飛沫を浴びた。

「祐司さん…。起きてますか…?」
「ああ。まだ何とか…。」
「少し…お話したいんです…。今日のことについて…。」

 晶子は身体ごと俺の方を向いた状態で肘を支点にして身体を少し起こし、俺の胸に左手を乗せてくる。間近で見る晶子の顔には、俺が浴びせた飛沫が
まだ新鮮な状態で残っている。話の内容は大方想像出来る。晶子が冒頭から激しく求めてきたのもそのことが背景にあるからだ。

「田中さんのことか?」
「ええ…。田中さんは…、祐司さんに会うために店に来た…。わざわざ来る必要はないのに…。」

 田中さんは帰る際、レジに出た俺に来店した理由を話した。「ゼミの学部4年の無礼を詫びに来た」…これが理由だ。今日、俺が晶子を迎えに行った際、
田中さんは隣接する戸野倉先生の居室から部屋伝いに入ろうとしたところで、やり取りの一部を耳にした。俺と晶子が帰った後、田中さんは残った学部4年に
経緯を問いただし、晶子は専業主婦になる逃げ道があることが嫌みに映ったと知り、それは妬みに過ぎないし俺にも嫌みを言うのは無礼だと叱責したそうだ。
 学部4年に代わって謝ろうにも、俺は既に帰宅した後。だから、自分の仕事を済ませた後、夕食を兼ねて店に赴き、機会を見つけて謝った。…そういう
流れだ。田中さんが謝ることじゃないし、俺は兎も角晶子の方に謝ってもらえば良かったと思ったが、それは無理な相談というもの。素直に受取っておいた。

「確かに、わざわざ来店してまで謝る必要はないかもしれない。ゼミの最年長として義理を果たした。…それくらいのもんじゃないか?」
「それだけとは思えない理由があるんです…。」

 晶子は食い下がる。店で言われたとおり、晶子の独占欲は強まっている。これは晶子の人格の一部だと分かっているが、そこまで不安を増幅させる必要は
ないんじゃないかと俺は思う。

「祐司さんの研究室で…お花見がありましたよね?」
「ああ。」
「田中さんは…、私がゼミに回したメールを見て、自分は行くと伝えてきたんです…。」

 あの時晶子のゼミから参加したのは田中さんだけだった。晶子を含む学部4年は全員合同説明会に出席したから不参加。今のところ就職活動とは無縁な
位置にある田中さんだけが出席したんだろう。晶子から発信されたメールを見て参加した、と田中さん本人も言っていたと思う。

「田中さんが花見に参加したのは、晶子からのメールを見たからだと言ってた。発信元の晶子に出席を伝えるのは別に不自然なことじゃないと思うが。」
「出席することの意志表明だけなら…。」
「他に何かあったのか?」
「…お弁当を作って参加する。その方が喜んでもらえるだろうから、と…。」

 そう言えば田中さんは弁当というか差し入れを持ってきた。晶子が俺に持たせた弁当とおでんに匹敵する好評ぶりで、花見が終わる頃にはどちらも綺麗に
食べ尽くされた。料理が出来ることは知っているが、不特定多数に共通して「美味い」と言わしめるだけの腕だとは思わなかった。

「それは、男ばかりで手製の料理とは無縁に見える、俺が居る研究室の花見に弁当を持っていけば喜ばれる、って意味じゃないのか?」
「違うんです…。あの時の田中さんの目は…、主語は祐司さんだと言っていました…。」
「うーん…。その場に居なかった俺には真意は分からないが、言葉どおりの意味なんじゃないか?もし田中さんがその気なら、バイトに行くために花見の
終了で帰った俺についてこようとしたと思う。俺は時間からしても分かるように真っ直ぐ帰って来たし、田中さんはそのまま研究室の面々と二次会の店に
行ったようだし。」

 俺はそれほど勘が鋭い方じゃない。だが、あの時もさることながら今回も、田中さんからは特別な意図を感じる余地はなかった。花見に参加したのも気分
転換か晶子を介して繋がりがある、俺のいる研究室への義理だてか、単なる気まぐれかの何れかだろう。真意を図ろうとするのは構わないが、度が過ぎると
色々害になる。特に、前回それが顕著に出て晶子は家出と立て篭もりを引き起こしたんだから。

「俺の妻は晶子だけだし、外に女を作るような甲斐性はない。それが甲斐性と言えるのかは別として、俺には同時進行で女と付き合うようなことは出来ない。
だから、堂々と構えてれば良い。」
「はい…。だけど…、何か胸騒ぎというか…、そんなもやもやしたものを感じて…。」
「心配性だな。」

 俺は身体をひねって晶子を軽く抱きよせる。晶子は俺の上に覆いかぶさる形になる。まだ生々しい激戦の跡が欲情を刺激する。

「晶子が夜に驚くほど大胆で積極的になるのは、俺を逃がさないためでもあるんだろ?」
「!…はい。」
「もうひと頑張り…してくれるか?」
「喜んで。」

 俺は晶子を抱いて体勢を入れ替える。もう今夜は尽きた筈なんだが、休憩と晶子の顔を見ていたらもう一度抱きたくなってきた。晶子から離れないように、
晶子でしっかり果てておくか…。
 翌日。どうも眠い。おかげで演習問題の解答があまり進まない。原因は言うまでもなく昨夜の営み。1回追加で励んだことで疲労が大幅に増えたようで、
朝起きるのに苦労した。晶子が居なかったら完全に寝過ごしていただろう。その晶子は翌朝平然としていたんだよな…。
 木曜は俺が今年度受講する数少ない講義の1つ、職業指導がある。選択だが教員免許の取得に必須の講義だ。それ以外は講義がないから研究室に篭る
生活は変わらない。変化に乏しいが、今はこうして今後の卒研と色々な試験の準備を進めておくに限る。直前になっても出来ることは限られるもんだ。
今のところ新着メールはなし。流石に高須科学も本採用に向けての話が1日2日で進展する筈はないか。…うーん。どうも眠くて集中もままならない。茶でも
淹れて休憩するかな。俺は席を立って給湯室へ向かう。
 給湯室は学生居室の向かい側、院生居室の隣にある。更に会議室と奥のドアで連結しているから、会議などの前後で飲み物を淹れられる。研究室が出来る
時、考えて作られたんだろうか。給湯室には誰も居ない。俺は棚から自分のコップを取り出して急須の茶の葉を確認してから茶を淹れる。給湯室には茶
−日本茶とコーヒーと紅茶がある。家なら紅茶を選ぶところだが、此処での紅茶とコーヒーはインスタントのみ。インスタントは縁遠くなっているのもあって飲む
気がしないから、選択肢は茶に絞られる。これらは研究室の全員が月1000円を支出することで維持されている。
 コップに茶を淹れて、休憩室に移動する。休憩室は会議室の隣にある。ソファに大画面TV、漫画やゲームも揃った何でもありの部屋だ。学生居室に
あてがわれた個人スペースは、パーティションに区切られたデスク周りだけ。それに色々書類があるから、茶を溢すと大変なことになる。本格的に休憩する
時は、此処が何かと都合が良い。
 会議室には先客が居た。院生の1人、神谷さんだ。神谷さんは修士1年で、ハードウェアの比重が高い研究テーマを担当している。昨年の研究室のゼミには
出席していたが、今年は一度も見ていない。同じ研究室でも研究テーマが違うと今はゼミ以外では接点を持つのが難しい。そんなこともあって、神谷さんと
出くわすのは久しぶりのような気がする。

「おはようございます。」
「…ん?ああ、安藤君か。おはよう。」

 神谷さんは少しのタイムラグを挟んで応答すると、今度はタイムラグなしに視線を広げていた雑誌に戻す。耳には白いイヤホンが嵌っている。音楽を
聞きながら雑誌を読んでいるのか。完全に自分の世界に入って寛いでるな。此処は休憩室だから、どう使おうが基本的にその人の自由だから俺がどうこう言う
ことじゃない。イヤホンをしていても俺に応答したのは、それほど音量が大きくないせいか、或いは俺の気配に気づいたかのどちらかだろう。
 休憩室はかなり広い。ソファも俺が座っているものと神谷さんが座っているものの他に、神谷さんが座っている者の向かいにもう1つある。寝泊まりする以外に
此処でお茶会や飲み会をすることも十分可能だ。こうしてコップに茶を淹れて閑散とした室内で飲むだけの休憩が、何だか凄く贅沢な使い方に思える。
家にはソファを置くスペースなんてないからな…。

「安藤君。」
「は、はい。」

 不意に呼びかけられて反射的に応答する。何処からかと見まわしてみると、神谷さんが雑誌から顔を上げている。

「この前の花見に来た…田中って女性(ひと)、知ってる?」
「はい。晶子の…、妻が居るゼミの院生ですから。」
「用心した方が良いよ、彼女。」
「田中さんがどうかしたんですか?」
「寝取る気だよ。嫁さんから。」

 寝取る…つまり晶子から鞍替えさせるつもりってことか。初めて聞いたが、どうして田中さんがそんなことを企んでいると思えるんだろう?

「どうしてそうだと?」
「安藤君がバイトで帰った後、彼女は俺達と二次会に来たんだ。男10数人に女1人だから全員色めき立って色々質問したんだ。その中で理想の男性像はって
質問があって、何て答えたと思う?彼女。」
「…さあ。」
「『安藤君が一番』…即答だよ。」

 二次会の場に居なくて良かったと言う他ないな…。その場に俺が居たら阿鼻叫喚の地獄絵図になっていたかもしれない。確か智一も居たようだから、智一
から晶子に伝わって更なる修羅場が待ち構えていたかもしれない。独占欲が強い晶子がそんな話を聞いて平然として居られるとは思えない。昨日
田中さんが来店しただけでもあれだけ帰宅してから甘えて夜を強請ったんだから。

「真意を問いただそうと−半分以上は別の意図もあったようだけど、研究室の人間は彼女に酒を注いだんだ。酒は強力な自白剤っていうくらいだからね。
ところが彼女、結構な量の酒を飲んでも平気な顔をしてたから、研究室の人間が先にどんどんダウンしていった。結局残ったのは俺を含む2,3名。」
「…。」
「それ以外全員寝込むかトイレに行くかのどれかになったところで、改めて彼女に真意を聞いた。安藤君は自分と安藤君の嫁さんが居るゼミに嫁さんを迎えに
来るようになって、女性だからと色めき立ったりちやほやしたりしないで普通に接する紳士的なところに惹かれた、うちの研究室の花見に来た理由は安藤君に
会えると思ったから。差し入れで料理を作って持参したのは安藤君へのアピールのため。安藤君尽くしだった。」
「…。」
「彼女は出版社−後で久野尾先生から聞いたらかなりの頻度で出版してるほど飛びぬけて優秀だそうだが、その出版社との打ち合わせがあるとかで、
ひとしきり話したら自分の分の支払いを置いて帰ったんだ。帰り際に『話をしたかったな』って呟いてたけど、対象が安藤君なのは疑いようがない。そういう
裏話。」
「そう…でしたか…。」

 晶子の異常なまでの危機感は、決して思い込みや被害妄想じゃなかった。女の直感と言うべきものだった。その危機感が日に日に強まったことで、俺を
独占するだけでは対応出来なくなって俺の家から逃げ出してマスターと潤子さんの家に立て篭もったのなら、晶子の勝手な行動とばかり責めることは
出来ない。
 田中さんの真意を知っての感想を一言で言うなら「どうして俺なんだ?」だ。複数の女性から好意を向けられても、複数同時に扱うような甲斐性がない
俺には持て余すものでしかない。それに、晶子から鞍替えするつもりは毛頭ない。晶子は俺の妻だ。それがまだ婚姻届を提出する前の事実婚や同棲の
状況であっても、対外的にはもう晶子は俺の妻で十分通る。晶子の既成事実の積み重ねに乗せられるように進んだとはいえ、その関係で窮屈とか不満に
感じることはない。料理は美味いし掃除や洗濯−洗濯そのものは洗濯機がするが問題は干すことと取り込んで畳むこと−も好きだから、家は清潔に保たれて
いる。俺の趣味である音楽とギターに干渉しないどころか、興味を持って一部は一緒に取り組んだり、些細なことでも褒めてくれたりする。
 ブランドや流行には興味がなく、俺に金を使わせることをよしとしない。ケチじゃなくてものに明確な優先順位をつけられる。物腰や言葉遣いは柔和だし
−これが意外に少ない−、見た目は俺があれこれ言うようなレベルを超えている。夜は一転して積極的で、昼間の様子からは想像も出来ないようなことも
言うし実行もする。浮気性どころか頑固一徹一途そのもので、離れている間浮気を心配する必要はない。かと言って、俺の浮気を疑ってメールや電話の嵐を
作りだすことはしない。俺が今まで勉強に専念出来て、今も卒研や就職活動に専念出来るのは晶子のおかげだ。そんな晶子を捨てる選択肢は考え
られない。

「彼女、かなりしたたかで凄く頭が切れるような感じがした。二次会ではそれなりに酔っていたし、安藤君本人が居なかったから本音や思惑を喋ったんだろう
けど、普段はそれを完全に隠して安藤君と嫁さんに多方面からじわじわ揺さぶりをかけたりしそうだな。」
「注意しておきます。それに、教えてくれてありがとうございます。」
「いいや。俺はどうもああいう女は嫌いでね。嫁さんになり代わってうちに来られるようになったら迷惑だから。」

 神谷さんは再び雑誌に視線を落とす。神谷さんは田中さんを口説く集団に参加せずに成り行きを観察していたようだ。人のタイプの好き嫌いは人それぞれ
だし、仕事や研究などを進める上で支障になったりしない限りはそれをあれこれ言う必要はない。だが、田中さんの俺への接近が晶子の過剰な危機感や
被害妄想じゃなくて事実だったことが分かった以上、十分注意しないといけない。危機的状況に陥った前例があるからな…。
Chapter285へ戻る
-Return Chapter285-
Chapter287へ進む
-Go to Chapter287-
第3創作グループへ戻る
-Return Novels Group 3-
PAC Entrance Hallへ戻る
-Return PAC Entrance Hall-