雨上がりの午後

Chapter 268 モノトーンの静寂の世界

written by Moonstone

「昨日は、平安神宮から銀閣寺、下鴨神社と移動したから・・・、おおよそこんな経路か。」

 地図上のイラストを移動した順に指でなぞっていく。こうして見るとほぼ円周の1/4ほどを描くように移動したことはよく分かる。宿から平安神宮の経路と下鴨
神社から宿への経路を含めると、ほぼ中心角90度の扇形だ。

「昨日が鴨川を中心として右側だったから、今日は左側に行ってみるか。」
「良いですね。それだと・・・何処が良いでしょうね?」

 左側、すなわち西側の有名どころを地図で探す。金閣寺が含まれるがこれはめぐみちゃんが居る時に行ったからな。考えてみると、京都と言われて即座に
思い浮かぶような有名どころは今までの日程でひととおり巡ったようだ。となると、あとは完全に好みや気分の問題になる。今までもよく似たもんだったが。

「この龍安寺って、石庭で有名なところじゃないでしょうか?」
「そうみたいだな。」

 龍安寺は初めて聞く名前だが、地図上のイラストは見覚えのある石庭になっている。見覚えのある風景を自分の目で見ることがこの旅行の目的の1つに
なっている−晶子と話し合ったわけじゃないがそういう方針で行き先を決めている割合が高い−から、これは候補地の1つにしておこう。

「龍安寺を含めるとして、他には・・・東西の本願寺もあるな。」
「本願寺もあるんでしたね。そこも含めませんか?」
「龍安寺から距離があるが、行けないことはないだろう。これも含めよう。」

 龍安寺は金閣寺とかなり近い場所にある。一方東西の本願寺は京都御苑から南下して京都駅に近い。区の名前で言うと、左京区あたり−地図には明確な
境界線が描かれていない−と下京区あたりに点在している。こういう区の違いは小宮栄市でもそうだが、1つの市町村を移動するような開きがある。観光都市
でもあるが大規模都市の指標である政令指定都市の1つでもあることが、こんなところでも分かる。
 移動に時間がかかるとは言え、スケジュールが詰まっているわけでもない。これまで同様「夕飯時くらいに戻れば良い」くらいの感覚で良いし、遅れそうなら
宿に連絡すれば十分対処してもらえる。めぐみちゃんの時もそうだったし、その辺は許容の度合いがかなり高いから有効に活用しよう。

「他には・・・桂離宮や伏見稲荷といったところが有名ですね。でも、滞在と移動の時間を考えるとちょっと厳しいかもしれないですね。」
「移動時間を出来るだけ短縮出来るように、移動コースを組み立てれば良い。此処からだと・・・。」

 俺は観光案内の別のページにある交通機関網の一覧図を広げてコースを考える。昨日の経験から、京都市バスは一見周回しているような路線が実は折り
返しだったり、乗換えを必要としたりとかなりトリッキーだ。これを事前に読んでおけばロスする時間はかなり減らせるだろう。

「龍安寺から行く場合だと、市バスの河原町丸田町バス停から乗って龍安寺へ。龍安寺から市バスで北大路バスターミナルまで移動して、そこから地下鉄
烏丸線で京都駅まで移動して、徒歩かバスで東西の本願寺へ。」
「はい。」
「東西の本願寺からはこの路線を使えば桂離宮と往復出来るようだし、伏見稲荷は京都駅まで出てJR線で最寄り駅を使って往復。・・・こんなところか。」
「はい。それだと凄くスムーズに移動出来そうですね。」
「混雑とかで時間がかかるかもしれないが、その辺は誤差の範囲としてどうだ?こんな具合で。」
「私は何も異論ありません。そんなにスムーズな移動コースなんて思いつきませんから。」

 何故か晶子は目を輝かせている。昨日、京都市内を一周するために必要な概算時間を数学のやり方で見積もった時も、こんな感じだったな。晶子は決して
数字や数学が駄目で方向音痴でもない。珍しいものを見たことによる感動だろうか?

「祐司さんは頼りになります。」
「そんな大げさな…。」
「入り組んだ路線図から情報を抽出して最適な方法を考え付くのは、私じゃ出来ないことですよ。」
「晶子くらいの頭の良さなら出来ると思うが…、コースが決まったから行くか。」
「はい。」
「あ、まだいらした。」

 晶子の賛辞に少々首を傾げながら出発しようとしたところで、後ろから声がかかる。担当の仲居だ。

「間に合って良かったです。」
「何かありましたか?」
「今日は昼前から雨という予報でございますので、傘をお渡ししようと思いまして。」

 仲居の手には濃い青の大きめの傘が握られている。荷物には折り畳み傘を入れてあるが、天気予報は見ていない。偶然にも今までずっと晴天に恵まれて
きたし、今日も少し雲は多いが晴れているから、傘は持っていない。

「老婆心と思ってお持ちくださいませ。」
「わざわざありがとうございます。」
「気をつけていってらっしゃいませ。」

 辞退するほど場違いなもんじゃないし、天気予報を確認していない身としては確認した人の助言を聞き入れておいて損はない。俺が傘を受け取って左手に
持ち、仲居の見送りを受けて出発する。使う機会がなければそれに越したことはないが、途中で降られて濡れ鼠になって宿に逃げ帰る、なんてみっともない。
俺と晶子が傘を持ってないことを知っていたことからも、よく客を観察しているな。

「仲居さんも気を利かせてくれてますね。」
「そうだな。傘をわざわざ届けてくれるなんて。」
「それもありますけど、もう1つ。」
「ん?…ああ、そういうことか。」

 一瞬晶子の言っている意味が分からなかったが、晶子の眼を見て納得。渡された傘は1本。雨が降ったら相合傘が出来るように、という意味だ。二重に気を
利かせるあたり、やっぱり客をよく観察している。
 空を見上げる。今のところ雨の気配はない。だが、仲居に言われたせいか雲が少し増えたような気がする。…天気予報の確認は道中で十分だ。早くも終日
単位では最後になった気ままな京都市内散策に繰り出そう。
 最寄りバス停に降り立って一安心。路線番号を確認して乗車したが、路線図の見間違いという可能性も捨てきれないからバス停到着まで油断ならない。乗り
継いだバス停が「立命館大学前」で、バス停の名前は「竜安寺前」とどちらもそのままズバリ。立命館大学が京都にあることは知っていたが、竜安寺のすぐ近く
だとは知らなかった。
 バス停から少し逆戻りする方向に歩いて、龍安寺に向かう。最初は広大な駐車場がお出迎え。これは清水寺と同じだ。駐車場の周囲には桜の木がかなり
ある。桜の季節になると駐車場でごった返すような気がする。観光案内の紹介ページを見ると、龍安寺も銀閣寺と同様に山に隣接している。京都御苑を中心
として銀閣寺とほぼ点対象になる位置関係だ。鬼門とかには疎いが、これも鬼門や守護神といったこととの関係だろうか。
 石の参道を登っていく。まだ時間が早いのと平日なことが重なっているためか、人影はまばらだ。駐車場も閑散としていたし、見覚えのある石庭をゆっくり
見物するには丁度良いのかもしれない。

「銀閣寺と似た雰囲気ですね。禅宗のお寺なんでしょうか。」
「その推測は正解だ。臨済宗の寺、とある。」

 観光案内は持ちやすいサイズと重さの割に緻密に作り込まれている。地図は主な観光名所を示すものから公共交通機関を網羅するものまであるし、観光
名所は歴史や位置づけ−宗派など−、見どころまで様々な情報が詰め込まれている。勝手が分からない京都で、その日その時の思いつきや成り行きで
決めるコースが目立ったトラブルもなくスムーズに移動出来ているのは、この観光案内によるところが大きい。
 庫裡(くり)という建物から本格的に中に入る。やはり閑散としている。今まで巡ったところは多い少ないの幅はあってもそれなりに人が居たから、今は明らかに
少ないと言える。俺でも名前は知らずとも見覚えはあるレベルの石庭を有する有名な寺らしいが、今日は運が良いと思うべきだろうな。
 中を歩いていくと、裏庭のような場所に出る。桶のような石に斜めに切られた竹と柄杓(ひしゃく)が添えるように接している。竹からは水が静かに注ぎ込まれて
いて、小さな庭園といった様子だ。

「これって…。」
「知ってるのか?」
「はい。確か、中央の穴を『口』の字に見立てて周囲の字を読むと、1つの意味になるという場所だったと。」

 立ち入り禁止になってないから、水が注がれ続ける石を上から覗き込む。水を湛える穴は四角だから「口」の字に見える。その「口」の上下左右に字がある。
中央の「口」と組み合わせて読むと、それぞれ「吾」「唯」「足」「知」の字になる。

「確かに4つの漢字が出来るな。この意味は…?」
「えっと…、『吾』『唯』『足』『知』の順に並べて、『われただたることをしる』と読む筈です。」
「…ああ、なるほど。『吾(われ)唯足ることを知る』になるな。」
「お釈迦様が説かれた『知足(ちそく)』・・・足るを知るという精神のことですね。」

 趣味は読書と間違いなく言えるほど本の虫である晶子らしい博識だ。観光案内にも、此処−つくばいに刻まれた文字は、中央の水穴を「口」として読める
「吾」「唯」「足」「知」の順に並べて「吾唯足ることを知る」という、足るを知る仏教の真髄を図案化したものと紹介されている。

「足るを知るって、大切なことですよね。」
「それは俺も思う。」

 現状に満足せずに向上を目指す。これが能力や技術や知識といった内面的なものだと自己研鑚や向上心となるが、より多い収入やより広い家やより豪華な
食事といった外面的なことや物質的なことだと物欲になる。物欲は自己研鑚や向上心より容易に膨らむし、なかなか限度に達しない。
 俺と晶子は物欲がかなり少ない方だと思う。だから仕送りとバイトの収入で十分やりくり出来て、かなりの割合を口座に貯め込められる。夫婦生活に法的な
裏付けを加えて本格化させるには、今の拠点である俺の家から名実共に新居に移動する必要がある。双方が両親や親族からの干渉を出来るだけ避ける
には、干渉と同時か先行して接近してくる金銭面での関与を極力少なくすることが望ましい。新居への引越しは人手の面からも関与と干渉の可能性が高いと
踏んでいる。
 新居の入居にまつわる経費−物件によって異なるが敷金と礼金と保証金、引っ越し費用、必要なら家具や電化製品の更新を実施しようと思うなら、
手持ちの資金は多いに越したことはない。それらは学生として仕送りと学費で−俺も晶子も4年次は自分で出すが−生活が保障されている現在が集め
やすいと思っている。
 仕送りとバイトを合わせると月20万以上の結構な収入になる。これも使おうとすれば簡単に使える。今のように遠出したり、ブランド物の服やアクセサリーを
買い与えるか揃えるかしたり、高級レストランでの外食を毎日の食事にしたり、車を買って乗り回したりすれば、今まで貯め込んだ金を使いきることも可能だ。
それが2人で共通して描ける現在と将来の生活を営む上で不要、若しくは阻害さえすると分かっているから、それらに興味も向けない。俺も晶子もそんな
生活で十分満足している。少しずつだが着実に増えていく口座の総額を見ると達成感がわく。だが、色々な方面から浪費への誘惑は尽きない。手招きする
誘惑なら無視すれば良いしそれで崩れるほど貯蓄優先の方針は脆くないが、浪費しないのは悪というタイプの誘惑も存在する。
 俺は入学以来バイトに熱心だから、大学でそれほど手広く付き合いがある方じゃない。それに、ノートの貸与−借りることは今やない−や過去の試験問題の
配布でやり取りする程度の面識や対応力があっても、相手の生活や趣味嗜好に干渉することはまずない。俺が晶子と事実婚同然かそれ以上の付き合いを
していたり、学科で希少な女子学生をもてはやしてセックスに持ち込んでいたりするが、思うところは色々でも干渉はしないという不文律がある。ところが、
晶子の場合は「浪費しないことは悪」とするタイプの誘惑がかなり激しく、しかも執拗だ。バイトに明け暮れて海外旅行にも行かないのはおかしいといった趣味
嗜好に関することから、結婚指輪が見るからに安物でさもしい、男に尽くさせて女性を酷使する結婚生活はおかしい、という女性誌やフェミニズムの影響
丸出しのものもある。
 女性誌は「より多く消費すること」が基本コンセプトになっている。広告も記事も1回買ったらバイトの収入がごっそりなくなるものはざらにある。車関係の雑誌と
良い勝負だ。車はマニアでなければ数台所有したり頻繁に買い換えたりすることはないが、女性誌の紙面に踊る服やバッグやアクセサリーは頻繁な購入を
前提にしている。学生だと学費や生活費は親が保証してくれる場合が多いから、バイトでの収入は割と自由に使える。実家通いだと自由度はさらに増す。
それは就職してからも同じ。自由に使える収入が頻繁な広告の品の購入に向けられるようだ。
 新京大学だと大学入学を契機にそれまでの抑圧から一挙に解き放たれて、ファッションやセックスに覚醒する学生が居る。エスカレータ式の進学方法は
ないし、入学にはそれなりの学力が必要=ファッション云々より授業についていくことで必死な進学校出身者が殆どだからだろう。そこに女性ならではの
強力な同調圧力が加わる。それは女性誌の扇動−これを持っていないと流行遅れ、これを買わないと仲間内から浮くといった強迫観念を伴うものと重なる
部分が多い。それに感化されてファッションやセックスに覚醒する女性はそこそこ居る。
 晶子は女性誌を読書の一環−嫌いだから読まないという方針ではない−として読むが、それが作る流れから大きく逸脱している。完全に異端者の位置に
居る晶子は、結婚や夫婦生活という女性誌の主要な話題の1つを実行したことで、より誘惑が強くなった。異端者なんざ放置して自分のことに専念すれば
良いと思うんだが、同調圧力が基本の女性では見過ごせないことらしい。

「女性は・・・何かと欲が大きくなりやすい・・・。今よりもっと愛してほしい。今よりもっと大事にしてほしい。こうして欲しいああして欲しいって自分中心の欲を
簡単に肥大化させてしまう・・・。」
「・・・。」
「これから先、裕司さんと一緒に暮らしていくには、私はより強く自戒しないといけないですね・・・。」

 女性の欲の端的な例は、今朝それに直面したという男性から生々しく語られたばかりだ。挙式だの結婚指輪だの新生活に際しての思い出にはなっても生活
基盤の構築には殆ど役に立たないものの準備や購入に、女性を接頭語にした殺し文句を使われて疲れ果て、結婚生活そのものにまで強い否定感情を
抱いてしまった男性の話は、笑い話や他人事では片付けられない。
 晶子が他人の懐をも使っての消費から異端となる位置にまで距離を置いても、消費しないことは悪とする誘惑はなかなか途絶えない。女性誌に影響された
ものに加えて、女性が男性に尽くすのは時代遅れとする歪んだフェミニズムが混じったものが、皮肉にも晶子が結婚という、自分の収入をすべて小遣いに
出来る立場から脱却したことで強まってしまった。
 フェミニズムも色々な流派や派閥があるからややこしいが、現在主流になっているのは、権利を求める際には「女性だから」「女性ならでは」と女性である
ことを肯定的に利用し、保護を求める際には「女性だから」と女性であることを被差別や弱者の立場で利用するというダブルスタンダードのやり方だ。「本当の
フェミニズムや女性解放とは違う」という批判は説得力がない。なぜなら、フェミニズム運動による恩恵や優遇を大なり小なりさまざまな分野で享受する向きを、
男性や社会に対する時のように正面から厳しく批判することをしないからだ。もっと厳しく言うなら、フェミニズムの方針を歪めて阻害するとしてそれらを排撃
出来ないいい加減さが当然のこととして存在するからだ。
 その考えに基づくと、晶子の行動は女性誌の扇動を受ける誘惑の流派と同様、修正すべき対象に映るらしい。家事で奉仕することで男性に隷属するのは
旧態依然であり修正せよというのが、晶子にも、晶子を介して俺にも求めることだと感じる。だが、俺は晶子に家のことをしろと命令したこともなければ、弁当を
作れと言ったこともない。ましてや住み込んでまで世話をしろとは一言も言ってない。どちらが始めたとか言い出したとかではなく、俺と晶子の利益や
方向性が一致するから生活の一体化が始まって進んだに過ぎない。加えて言うなら、個人の自由や価値観の多様化と頻りに言う割には、晶子の自由や
価値観は認めないし修正すべきという矛盾した言動は説明がつかない。女性が働くことや結婚しないことも「女性だから」で否定しないで、男性も含めて認め
合うのがフェミニズムやそれと関連するジェンダーフリーの基本概念であり定義であるはずなのに、自分達の思想にそぐわない場合は認めないし修正を迫ると
いう狭量具合はいかがなものか。

「俺が晶子に言っておきたいことは・・・2つ。」
「2つ・・・ですか?」
「ああ。1つは雑誌やテレビが喧伝する女性像に流されないこと。もう1つは、女性の集団−年代は問わない−から距離を置くこと。これを守っていれば、
女性が陥りやすい自分中心の欲を際限なく膨らませる根源の、悲劇のヒロイン病にかからなくて済むし、俺が見限ることはない。」
「悲劇のヒロイン病・・・。核心を突く表現ですね。」

 悲劇のヒロイン病というのは俺のオリジナルじゃなくて、渉の受け売りだ。宮城と付き合っていた時、時々宮城が相手してくれないと拗ねて−バンドの練習で
そうなる部分があったのは事実−機嫌を直すのが難しいと愚痴をこぼした時、もっと構ってやれと他の面子が言う中で、渉は「悲劇のヒロイン病」と切って
捨てた。
 渉は説明した。雑誌やテレビ、映画や小説といったメディアや娯楽で描かれる女性像の大半は、不幸な境遇に翻弄されるヒロインを描いている。その切り
込み方がフェミニズムの方々が嫌う女性が虐げられる状況であったり−渉は大のフェミニズム嫌いでもあった−、女性が多数の男性を従えて颯爽と先頭を
歩く状況であったりするが、描く女性像は悲劇のヒロインに変わりはないと説いた。そして、直接間接問わず常に多くの情報を取り入れ、仲間内や同一の
グループでの相互に掛け合う同調圧力の一方で首位に立つことを目論む女性は、情報を取捨選択しているようで実は情報に踊らされている。それが様々な
媒体で描かれる悲劇のヒロインとの同一化として言動に表れる。これを渉は悲劇のヒロイン病とその罹患原因と説いた。
 宮城との遠距離恋愛と宮城の移り気による破局やその過程、さらには今まで晶子と付き合ってきた中で何度か遭遇した危機的な状況も、宮城や晶子が
悲劇のヒロイン病を患った結果と見ることが出来る。俺には何の責任もないとは言えないが、宮城や晶子の言動には悲劇のヒロイン病と言うべき共通事項
−辛い状況に悲しみ混乱する中で理想的な救いの手が差し伸べられて幸せにされるという行動原理が見える。
 正論だがそれを言ったら身も蓋もない、と宏一は言ったが、筋の通った論理で自分の非を責められて性別を逃げ口上に使ったり逆上したりするところが
ご都合主義そのもの、と渉は断じた。その辺渉は容赦がない。
 これから先一緒に暮らしていくと色々なことがあるだろう。セレモニーだけでなく、周囲からの圧力や周囲との軋轢で困難な場面に出くわすことがないと
考える方がおかしい。それを2人−子どもが居たとしても基本主導するのは親だ−で協力して乗り切ろうという時に、悲劇のヒロインになられては困る。困る
だけでも大問題だが、悲劇のヒロイン病をこじらせて別居だ離婚だと騒がれたら心労は何十倍にも何百倍にもなるだろう。とても協力どころじゃないし、乗り
切る以前に力尽きてしまう。晶子には今後悲劇のヒロインにならないよう釘を刺しておく必要がある。
 とは言え、俺が挙げた予防方法は今の晶子なら実践は容易だ。雑誌−女性誌は読書の一環に過ぎないし、テレビは殆ど見ない−テレビは日を追うごとに
見る時間が少なくなっている−。女性の集団からは前から距離を置いている。つまりは今の状態を継続すれば良いわけだ。

「俺が言ったことは、晶子が普段実践してることだと思う。」
「そう・・・ですね、はい。」
「あとは、自分が悲劇のヒロインだと暗示をかけないことくらいだろうな。」
「悲劇のヒロインが登場するのは、劇中だけで十分ですよね。」
「そういうことだ。」

 晶子は決して物分かりが悪いわけじゃない。女性を言い訳にしない、責任逃れの口実にしないといったことを意識していれば、行動を改めて制約しなくても
事足りる。裏庭にひっそりと置かれた簡素な文言は、完璧人間のはずがない俺も心に刻んでおくべきことだな。
 つくばいに続いて侘助(わびすけ)椿を鑑賞して裏庭を後にして、方丈を横断して最大の見所である石庭とご対面。・・・広い。見覚えのある、今まさに目の
前に広がる石庭の実物はこの一言だ。一面に敷き詰められた白砂。白砂を海に見立てると島のように点在する石。白砂は石の周囲で波打ち際のように
紋様を描いている。石には苔が生えているものもあるが、砂の白と石の黒で形成されたモノトーンの世界に微妙なアクセントを加えるにとどまっている。
 本当にどういうわけか他の観光客は数が少ない。順番待ちや立ち見をするまでもないどころか、畳に腰を下ろして悠然と眺望出来る。隣に座った晶子と
観光案内を捲って龍安寺の歴史を紐解く。龍安寺の歴史は応仁の乱で、京都御苑をはさんで東側に位置する銀閣寺と対照的な軌跡を辿る。創健間もない
時期に応仁の乱に遭遇して焼失してしまう。その後再建されるが、何度か火災に見舞われている。建立と焼失、破壊と再興を繰り返す数奇な運命を辿り今に
至る、とある。
 波乱万丈の歴史を有する中、目の前にある石庭には謎が多い。推定では作庭時期は創建された室町時代らしいが、正確な時期や作庭者は誰かは
分からない。気づいたら存在していて、幾度の火災を潜り抜けて、今では名跡の1つとなっている。

「名前や所在は知らなくても見覚えはあるくらい有名だが、鳴り物入りで作られたものじゃないんだな。」
「だからこそ、混乱の時期にも壊されずに残ったのかもしれないですね。」

 戦争にルール−主にジュネーブ条約が出来たのはごくごく最近のことで、その概念は十分認知されているとは言い難い。戦争となれば敵の領地や施設
どころか、無関係なものも破壊や略奪の対象になる。戦争は目的こそ違えど殺し合いには違いない。うかうかしていたら自分が殺される極限状況で無関係か
どうか厳密に識別するのは無理だろう。だからこそ、文明の高度化や科学技術の向上で戦禍や犠牲が膨大になり、ついには人類そのものを死滅させてしまい
かねない域に達したことで、戦争そのものを違法という認識に立った。これもごく最近のことだ。
 今では想像も出来ない、京都全体が戦渦に巻き込まれる羽目になった応仁の乱。それで寺は焼失したが、この庭は存在していたらしい。その後も襲った
災厄を潜り抜け、飾り気のない砂と石の質素な様式美を今に伝えているのは、目立たなかったことが幸いしたのかもしれない。

「雨・・・。」

 晶子のつぶやきでその視線の先を見る。石庭と背景の土壁に何本か細い線が縦に横切る。細い線は次第にその数を増し、石の色を濃くして表面を覆う
苔に瑞々しさを加える。仲居から聞いたとおり雨が降ってきた。雨の勢いは強い方だが、目が細かいシャワーのように細く、音もなく降り注ぐ。石庭が少し水に
煙り、水墨画のような雰囲気を醸し出す。

「降ってきたな。」
「もしかすると、今日人が少ないのは雨の予報だったせいかもしれませんね。」
「そうかもしれないな。」

 観光は雨が降ると傘が必要だったりそれで視界が遮られたり邪魔になったり、見学時間が短縮されたりあるいは中止になったりと様々だが、色々不都合な
ことが生じる。俺と晶子は仲居に傘を届けられるまで天気予報を知らなかったが、他の観光客、特に団体客は雨が降ると分かって予定を変えたりした
可能性がある。
 他の観光客がどんなコースなのかは知らないが、団体客だとより「京都と言えば○○」と即座に問答出来るような場所−金閣寺や清水寺あたりを選ぶだろう。
それらはぱっと見豪華絢爛だったり景色が絶景だったりと強い印象が残りやすい場所でもある。その点、この龍安寺は石庭こそ名前は知らなくても見覚えが
あるような有名な場所だが−観光案内にはエリザベス女王も拝観したとある−、それ以外は基本的に地味だ。禅宗の寺だからその傾向は王道的なものだが、
強い印象を受けるような場所としての観光コースの候補としては、順位が下がるだろう。元々地味な場所であることに平日という日程、さらに降雨が重なった
ことで、客足が遠のいた。しかし、2人で勝手気ままに行き先を決めて移動している俺と晶子には、待ち時間や視界の障壁が大幅に少なくなってむしろ都合が
良い。縁側近くで畳に座って石庭を鑑賞出来るなんて、そうそうない贅沢だ。

「こういうのって、良いですね・・・。」

 晶子は安らぎに浸って言う。身体は寄せているが、場所を弁えてか俺の肩に頭を載せたり腕や手を取ったりしない。ちなみに晶子はしっかり正座している。
慣れているとこういう場でも足を崩さない方が楽なんだろうか。

「ああ。不思議と落ち着く。かしこまらなくて良いからだろうな。」

 時折観光案内で龍安寺や石庭についての解説を読みつつ、雨の石庭を鑑賞する。イベントがあるわけでもないしライトアップもない。白砂を敷き詰めて石を
配置しただけの、味気も色気もない、粗末と言う輩も居てもおかしくないこの庭は、見ているだけで心を平静にする何かがある。
 禅宗は座禅を組んでの瞑想で心を洗練させ、悟りを開くことを目標にする宗派だと記憶している。そのためには華美な装飾は不要どころか有害だろう。
修行のための様式美が、信仰の有無を超えて心に働きかけるのかもしれない。

「この石庭に雨って、何だか似合うな。」
「ええ。石庭がモノクロの世界ですから、雨が加わると水墨画みたいですね。」
「水墨画、か・・・。そういうのを味わい深いとか思うような歳になったのか。」
「何言ってるんですか。自分の年齢を実感するのは早過ぎますよ。」

 晶子は笑う。受けを狙ったつもりは・・・全然ないとは言えないが、水墨画やそもそも寺社仏閣を巡って落ち着きや安らぎを覚える感覚が強くなったのは、
年齢によるところも大きいと思う。小中学生あたりで寺社仏閣を巡ってもさして感動は覚えなかったし、寺だと線香の匂いがどうも苦手だった。さらに葬式と
イメージが連動するのもあって寺にはあまり良い印象を持てなかった。
 水墨画も盆暮れ時期に両親の実家に行くと、仏間がある広い和室の床の間にほぼ必ずかかっていたが、美的感動より黒一色でつまらないというやはり
否定的なイメージを持っていたように思う。それが今では、目の前にあるモノトーンの世界に味わいや安らぎといったものを感じて満足している。美的感覚の
変化は様々な知識や経験を積んで、理解の幅が広がったからだろう。
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