雨上がりの午後

Chapter 259 親になるための話し合い

written by Moonstone

 京都府警から車で30分ほどの京都市郊外の閑静な住宅街の一角に、高島さんの自宅があった。俺は京都府警の時とは別の緊張を感じている。車から
降りて目にする高島さんの自宅は随分大きなものだからだ。
 高島さんが裕福であることは京都府警を出る時から感じていた。俺と晶子とめぐみちゃん−めぐみちゃんは引き続き晶子が手を引いていた−項垂れた
ままの娘夫婦とを引き連れた高島さんは、京都府警の建物を出て「車を呼ぶ」と言って携帯を取り出した。やって来たのはタクシー2台。娘夫婦が1台に、俺と
晶子とめぐみちゃんと高島さんがもう1台に分乗して自宅へと向かった。
 助手席に乗った高島さんから頻りに感謝を述べられ、きちんとお礼がしたいから自宅に案内すると言われた。タクシー2台で30分走れば結構な額になる。
渋滞や混雑はあるが京都市内を網羅するバス路線や地下鉄を使わずに案内するというあたりから、裕福であると感じ取ってはいたが…。
 タクシーの代金を払い終えた高島さんは、インターホンを押す。少しして女性が出る。

「どちらさまでしょうか?」
「私です。出先から帰ってきました。お客様も一緒です。」
「おかえりなさいませ。ドアを開けます。」

 レンガ調の壁と調和を取る趣の門の鍵が外れる音がする。オートロックも装備か。高島さんは門を開けて振り向く。

「安藤さん、どうぞお入りください。めぐみもね。」
「「お邪魔します。」」
「貴方達は安藤さんご夫妻に続きなさい。」
「…はい。」

 高島さんの口調は娘夫婦に対しては厳しい。声のトーンや大きさは変わらないが異論反論は認めないという無言の圧力がこもっている。
 敷地に入る前に門の脇を見る。「高島」と書かれた表札の上に「高島法律事務所」という看板がある。弁護士なのか。それだと警察と面識があるらしいことも
腑に落ちる。弁護を頼まれて警察署に赴くこともあるだろうし、何より動転して話が通じないということがなく、疲労の色はあっても驚くほど落ち着きはらって
いたのも時に警察とやり合う職業柄か。
 高島さんに案内されて広々とした庭を通り、自宅へ入る。玄関にはやはりスーツを着た若い女性が立っていた。メイドやお手伝いさんといった雰囲気じゃ
ないから秘書か事務所のスタッフだろうか。

「先生、おかえりなさいませ。」
「ただいま。こちらが電話で伝えた安藤さんご夫妻です。」
「ようこそいらっしゃいました。」
「「はじめまして。こんにちは。」」
「私は安藤さんご夫妻と娘夫婦をリビングに通すので、めぐみをお願いします。」
「分かりました。めぐみちゃん。お姉ちゃんが御本読んであげる。」
「うん。」

 俺と晶子への感謝はともかく、娘夫婦への叱責にはめぐみちゃんを同席させられない。めぐみちゃんは晶子の手を離れて女性と共に奥に消える。
めぐみちゃんと手を離した時、一瞬晶子が離したくないといった表情を見せたな…。
 引き続き高島さんに案内されて自宅内を歩く。外観からの想像通り中も大きい。洋風建築だがこの手の家にありがちな派手な装飾品はなく、その分余計に
広く感じる。成金趣味はなくて堅実な性格なんだろう。昨日のヒステリックぶりが強い印象に残っている娘の方が異質に感じる。
 通されたリビングはこれだけで普通の家の部屋2つ3つ分はありそうな広さだ。窓から夕暮れ違い日差しがカーテンを通して柔らかく溶け込み、壁面に大型
TVと書籍は詰まった大きな本棚が鎮座し、中央に向き合う形で座れるソファが置かれている。俺と晶子は娘夫婦と向かい合わせに座るよう指示され、高島
さんは書棚脇の茶箪笥で茶を淹れ始める。メイドやお手伝いさんじゃなくて自分で淹れるのか。少し意外だ。

「折角のご旅行中に色々とお手間とお時間を割いていただいて、お二人には感謝とお詫び以外に言葉が見つかりません。」

 淹れた茶を全員に出して俺と晶子の向かい、娘夫婦の隣に座った高島さんが溜息を吐いた後に口火を切る。

「此処は私の自宅兼事務所です。」
「…お邪魔する際に高島さんのお名前が入った法律事務所の看板を見かけました。」
「ええ。僭越ながら弁護士をしております。」

 弁護士本人と対面するのは初めてだが、高島さんを目の前にしても驚愕や畏怖より納得感しか覚えない。娘夫婦の警察への拘留。孫の見知らぬ旅行者に
よる1日の保護。これらが重なっても取り乱した様子が全く見せない落ち着きは、弁護士という肩書に確かな裏付けをするものだ。となると、玄関に出て
めぐみちゃんを連れていったあの女性は、やはり事務所のスタッフと見るのが自然だ。

「警察からは昨日の夕方頃、連絡が入りました。子どもを京都御苑に置き去りにした児童福祉法違反などの疑いで、娘夫婦を京都府警本部に一晩拘留して
事情聴取並びに厳重注意を行う、と。」

 一息と溜息を挟んで高島さんが事情を説明する。

「孫−めぐみはどうしているのかが最も不安でした。偶然めぐみを発見した新京市から来た新婚旅行中の若いご夫婦が一晩保護することになったと聞いて、
失礼ながら新婚旅行中の御夫婦に他人の子どもの世話を任せて大丈夫なのか、御夫婦に不和を生じさせたり、その影響がめぐみに及ぶのではないか、色々…。」
「「…。」」
「ですが、本日京都府警に出向いて担当の神田さんから改めてお話を伺ったところ、応対された御主人は大変しっかりしているし、指定の時間に出向くことも
確約しているので大丈夫と言われ、現にめぐみを午後4時までに送り届けていただいて、めぐみは本当に良いご夫婦に面倒を見ていただいたのだと安心
しました。」

 そりゃ不安だよな…。保護するという仮面を被った人攫いかもしれない。めぐみちゃん本人を確認しないことにはいくら念を押されても安心出来ないだろう。
めぐみちゃんが元気な姿で呼びかけ、そのめぐみちゃんを抱きしめたことで今までの不安が安堵に変わったのなら何よりだ。
 警察とやり取りすることで緊張したのは、京都府警に午後4時までにめぐみちゃんを送り届ける際の確認くらいだ。めぐみちゃんの世話では晶子の存在
なくしては語れない。子ども嫌いではないが世話の仕方なんて知らない俺だけじゃ立ち往生しただろう。子ども好き、世話好きの晶子に感謝だ。

「娘夫婦にはどうしたものか…、情けないことですが困り果てています。」

 一時見せた笑顔から一転、高島さんの表情が重くなる。話しぶりからして、娘夫婦がめぐみちゃんの養育を十分していないことは知っていたようだ。この家に
来ためぐみちゃんから断片的にでも話を聞いているだろうし。

「この機会に、安藤さんご夫婦に御意見など伺いたいと思います。叱責でも構いません。」
「ママ、そんな冷たい…」
「黙りなさい。」

 異議を唱えようとした娘を高島さんが一喝する。警察での厳しい取り調べと厳重注意からようやく解放されたと思ったら、今度は目の前にいる俺と晶子からの
叱責が母親に容認されてはたまらないと言うんだろうか。怒りより情けなさが強い。

「遠慮なさらずに、是非とも忌憚ない御意見などお願いいたします。」

 昨日見た夫婦のめぐみちゃんへの蛮行や醜態は、昨日の段階だったら怒りしか出なかった。それこそ高島さんの容認を受けて待ってましたとばかりに叱責
罵倒を開始しただろう。だが、丸1日親代わりとしてめぐみちゃんの世話をして、否、一緒にいて、やっぱりただ夫婦を叱責して「次はない」と念押しすれば良い
とは思えない。

「…整理しながらで良いですか?」
「勿論構いません。」
「分かりました。」

 昨日からのこと−広大な京都御苑にぽつんと佇んでいためぐみちゃんと出くわしたことに端を発した丸1日の出来事を思い浮かべる。途中より鮮明に展開
される蛮行と醜態に不快感が一挙に増幅するが、それを抑えつつ以降の出来事を思い起こしていく。そしてめぐみちゃんの親代わりをしながら考えたことも
思い返す。…言いたいことが少しずつ整理出来て来た。1つずつ言っていこう。

「貴方達は…めぐみちゃんをどう思ってる?」

 夫婦が意外そうな顔をしている。昨日の記憶からすると厳しい叱責か警察に捕まってどんな気分かと嘲笑されると思ったんだろうか。

「どう思ってるって…?」
「親として、可愛いとか、…鬱陶しいとか、そういう意味で。」
「それなら…何ていうか…、うざいって言うか…。」
「…。」
「!!」
「何を言うの、貴方は!!」
「だって!友達と遊びに行けないし、纏わりついてくるし、ちょっと怒ると泣くし…。」

 「うざい」という答えを聞いた瞬間晶子の手を取って握っていた。晶子が激昂して殴りかかると思ったからだ。晶子の柔らかい手は小刻みに震えている。
俺は何となく予想していた。「うざい」つまり疎ましくて鬱陶しいと思っていると。だが、聞きたくなかった。情けなさとやりきれなさがこみ上げてくる。

「あんた達もうざいって思ったでしょ?」
「全然。」

 母親の拒絶への同意の求めを否定する。建前でも何でもない。またしても意外な返答に母親は戸惑っている。自分でも鬱陶しいと思っているのに、赤の
他人の俺と晶子が鬱陶しく思わないはずがないと確信してたのか。

「お…私は子どもの世話は今までしたことない。今回めぐみちゃんを預かることになって、自分に親代わりが務まるのか疑問だった。でも…、めぐみちゃんは
純粋で好奇心が強くて、言えばちゃんと言うこと聞いた。」
「嘘…。」
「怒鳴らなくても叩かなくても、此処ではこうしようとか今はこうしちゃ駄目とか事前に言えばちゃんと言うこと聞いた。嘘じゃない。お…私に親代わりが務まった
のは、妻の子ども好きや世話好きもさることながら、めぐみちゃんが良い意味で予想を大きく裏切る凄く良い子だったからだ。」

 最初こそ緊張はあったものの、めぐみちゃんは好きなものを美味しそうに頬張ったり、興味を抱いたことを熱心に質問してきたり、感動や驚きを率直に表現
した。それは意外だったり難しかったりしたこともあったが発見や意外な視点の発見の連続でもあり、可愛らしかったし楽しかった。

「貴方達は…親なんだよ。めぐみちゃんの。」

 戸惑う母親が落ち着いたのを見計らって、俺は話を続ける。

「結婚のきっかけがどうであれ、めぐみちゃんを産んだきっかけがどうであれ、貴方達はれっきとした親なんだよ。親である以上は、子どもを育てることを第一に
考えてほしい。」
「「…。」」
「乳幼児の間−もう少し長く見て小学校あたりまでは、子どもは親が頼りなんだ。親が居ないと何も出来ないんだ。友達とか自分がどうとか言う前に、まず
子どものことを、めぐみちゃんのことを考えてほしい。」

 今までの両親、特に母親を見ていて感じたことは、親になってもなお自分中心で考えて行動しようとして、それが邪魔されるのを嫌がっているということだ。
親の世話が必須の時期、しかも甘えたい盛りの子どもが居るのに、友人と遊ぼうとか自分のことが先に出る。それが心理の軋轢とめぐみちゃんへの怒りや
疎ましさになっている。
 親は子どもが出来たことや出生届を出したことで完結するもんじゃない。子どもの面倒を見て育てることが続くもんだ。出来ちゃった婚や体裁のためとは
いえ、親になった以上は親としての責任を果たすのが先決だ。そこに自分を最優先に位置付けて行動しようとするからおかしなことになるし、歪みの被害は
結局めぐみちゃんが被ることになる。

「もう1つ。これもどちらにも言えることだが…、働いてる?」
「え…。あたしは主婦してる。」
「貴方は?」
「俺は…。」

 父親の方は口ごもる。どうやら二人揃って無職らしい。だとしたら、次の質問で普段の生活の様子がほぼ判明するな。

「普段はどんな生活してる?」
「そんなことまで聞く権利あるわけ?」
「今はこっちの質問に答えてくれないか?」

 反発する母親を制する。自分達の立場が分かってないというか、自覚がないというか…。

「食事作ったり洗濯したりしてる。」
「俺は…パチンコ行ってるかな。こいつも一緒に来る。」

 予想通りか…。思わず溜息が出る。見た目明らかに健康な2人が両方無職で、揃ってパチンコに出掛けるとなれば、めぐみちゃんは足手纏いにしか映ら
ないだろう。

「甲斐性がどうとかは言わない。俺と妻も収入についてどうこう言えるほど大した立場じゃないし。だけど、これもさっき言ったことと共通するけど、経緯がどうで
あれ親である以上は、夫婦力を合わせて生活することを考えてほしい。その中にはめぐみちゃんの世話も含まれる。」
「「…。」」
「めぐみちゃんは今年から、もうあと少しで小学校に入学するんだってな。これからますますめぐみちゃんにとっては親が頼りになる。幼稚園と違って朝から昼
過ぎまで決まった時間の授業があって、おやつの時間なんてない。大きく変わる生活が始まるめぐみちゃんの親として、これからどうすべきか考えてほしい。」

 揃って無職でパチンコに興じる両親の下で安心して学校に通えるとは思えない。学校に入るといじめが顕著になる。家庭が異質だったり行動がおかしい
子どもがまずその対象にされる。いじめの是非は言うまでもないが、その要因を両親が提供するようなことは避けなきゃならない。
 俺とて今は臨時の収入と休みで晶子と旅行してるが、実際は学生だ。収入のことをとやかく言う資格はない。男は仕事で一家を支えなんてことも言いたく
ない。だが、親として夫婦として生活する以上はその生活を営む上で必要な収入を得るよう行動する、端的にいえば働くことが不可欠だ。

「この職業に就いてなきゃ駄目とか世間体がどうとか、そんなことはどうでも良い。誰かに陰口言われても堂々としてりゃ良い。犯罪にかかわる仕事じゃなきゃ
どんな仕事だって必要なことだから、それで得た収入をやりくりして生活することが親として大事なことだ。援助が必要ならそれこそ弁護士のお母さんに相談
して、生活保護や就学援助だったか…。そういうのを受けて良い。それは少しも恥じゃない。」

 働いても生活出来ないとか病気で働けないとかなら国や社会に援助を求めるのは立派な権利だ。そのために憲法には健康的で文化的な最低限の生活を
謳う生存権が明記されてるんだし、それを具現化した制度が生活保護など行政の支援だ。まずこの両親は自分で働いて得た収入で生活基盤を構築する
ことが肝要だ。それもなしにただ援助を受けるだけなのは、単なる集りだ。

「娘の親として、安藤さんのお言葉は非常に重く響きます。」

 押し黙って俯いた両親に代わって、高島さんが沈痛な表情で口を開く。

「娘が結婚することになって生活が立ち行かないことから私が援助をしていたんですが…、2人のためにはならなかったようです。めぐみが大きくなることで
変わることを期待していたんですが…。」

 推測はしていたが、やっぱり高島さんが娘夫婦を資金援助していたようだ。そうでなきゃ儲かるわけがないパチンコ通いで、めぐみちゃんの話にあった食器
洗い機とかが買えるわけがない。高島さんの援助に依存したことで「働かなくても母(義母)が援助してくれる」という意識が定着してるんだろう。となれば、言い
難いが高島さんにも言うべきことがある。

「返す刀になってしまいますが、良いですか?」
「はい、構いません。」
「高島さんが娘さん夫婦と、何よりめぐみちゃんを可愛がっているのは分かります。ですが、資金援助よりまず親としての自立を促すようにして欲しいです。」
「そんな、個人のライフスタイルに口挟む権利が…」
「貴方に言ってるんじゃない。それに、自分達のライフスタイルとか言うなら、親としてのライフスタイルを考えるべきなんじゃないか?」

 この母親の最大の問題点がまた顔を出す。親としての責任を放棄してろくに向き合わないのに、ライフスタイルとか自分の行動や考えを第一に置いて、
それに対する批判には権利の侵害として反発する。権利意識だけが肥大化した典型的な、そして最悪の事例だ。

「非常に耳の痛いお言葉です…。」

 高島さんの表情が更に沈痛になる。母や祖母として良かれと思って資金援助してきたんだろうし、めぐみちゃんが来た時に可愛がっていたんだろう。だが、
夫婦と子どもの生活をどうするかという視点からすると、それだけじゃ駄目だ。

「娘には自立した女性になるよう教育してきたつもりです。ですが安藤さんが仰るように、自立の意味が1人で生きている時と夫婦や親として生きる時とでは
異なるということを、私自身見落としていたようです…。」

 おそらく高島さんは弁護士として男性に負けじと仕事に打ち込んできたんだろう。男性に支配されない女性になるようにと「自立」を説いてきたんだろう。
だが、高島さんが言ったように1人で生きるのと夫婦として生きるのでは違う。自分だけがどうとか言っていたら到底共同生活は立ち行かないし、わざわざ
一緒に暮らす必要はない。
 ましてや両親は人の親だ。めぐみちゃんはこれから世界が大きく変わる。それに支出も何かと増えるはず。そんな中でも尚自分の行動や権利意識を最優先
させていたら、めぐみちゃんは何を頼りに生きていけば良いのか分からない。子どもの生活を保障するのは親のはずだ。子どもを産んだら勝手に育つほど
人間は自立が速くない。

「めぐみちゃんに今までしたことを問いただして、すべて非難してたらきりがないからしない。だからその分、これからは親として、自分とかライフスタイルとか
言う前に親として子どものめぐみちゃんに向き合って、家族生活をして欲しい。それがめぐみちゃんへの最大の償いになると思う。」
「「…。」」
「俺、私が言いたいことは以上です。」
「貴重なご意見御指摘、ありがとうございます。」

 高島さんが礼を言う。両親は昨日今日の拘留で「次はない」と釘を刺された上で厳重注意されている。めぐみちゃんの養育放棄や虐待まがいのことには
多少はストップがかかるだろう。だが、抑止するだけじゃ両親は何をすれば良いのか分からずに結局自堕落な生活を続け、結果的にめぐみちゃんを邪魔者と
して同じことを繰り返しかねない。
 根本的な解決にはやっぱり「自分達が親」という意識の涵養が必要だ。親であることを何よりも優先させるようにすれば、めぐみちゃんが楽しく学校に通える
ように生活基盤を構築しなきゃならないし、そのためには自分達で収入を得なきゃならない。高島さんの援助はその上で行われるべきものであって前提に
なるべきもんじゃない。

「奥様はいかがでしょうか?」
「…私が言いたいことは、殆どすべて夫が言ってくれました。」

 手の震えが止まっている晶子からは、両親を責め立てようとする積極的な意思は感じられない。晶子がおそらく最も怒り懸念していることは、両親の
めぐみちゃんへの対応だ。子ども好きの晶子からすれば、こんな可愛い子どもをどうしてないがしろにするのかという思いが何より先に立つはず。
めぐみちゃんが二度と両親に怯えさせられ泣かされなくても済むようにするには何が必要か、考えていただろう。その上で聞いた、親としての自立を促した
つもりの俺の意見は、晶子がめぐみちゃんの家庭生活に笑顔を見せられるようになるものと感じたんだろう。

「ですので私は、1人の女性として、そして妻として意見を述べたいと思います。」

 晶子の絶対譲れないこだわり、すなわち俺という男を夫とする妻である女性という立場を堅守する強い意志が感じられる。親としての視点から意見を言った
俺に対して、晶子がどんな意見を言うのか。ここは黙って聞いてみるに限る。

「私は子どもが大好きです。感情を率直に笑ったり泣いたりすることに表す様子。大きくなろうと一生懸命周りの人を真似する様子。めぐみちゃんは、私と夫が
面倒を見ていた昨日からのほぼ1日、そんな様子でした。」
「…。」
「「…。」」
「子どもが何を言ってるのか分からない。だから貴方達は焦ったり苛立ったり怒ったりするんだと思います。それは子どもの言葉が大人よりずっと少ないから
なんです。子どもは自分が知っている少ない言葉から今の感情や疑問を伝えようとしている。でも、表現の仕方や言葉そのものを知らなかったりする。だから
どうしてもうまく伝わらないことが多いんです。」

 晶子の言うことは俺もめぐみちゃんと一緒にいて何度も感じた。めぐみちゃんは驚くほど純粋で、驚くほど知らない。純粋だからストレートな表現で思った
ことを言うし、知らないから知ろうとして質問してくる。思いもよらない言い回しや予想外の質問に驚き戸惑うことは多々あった。だが、「これはこういうもの」と
一方的に言うんじゃなくて、めぐみちゃんが分かる範囲で噛み砕いて説明することで、めぐみちゃんの感情や好奇心は満たされたようだった。
 子どもの心理を読むということは、大人が自分の知識水準や思考力−時に婉曲な表現を使ったりするなど相手の感情を無暗に刺激しないなどの立ち回りも
含めたことを子どもが持っていると考えずに、子どもの水準に合わせることだと思う。勿論これは簡単なようで難しい。普段交流がある相手は殆どの場合、
自分と同じくらいの知識水準や思考力を持っていると無意識に思いこんでしまう。更に子どもの水準は年齢的に大人である俺が思う以上に低い。
 俺は自分の知識を活用して質問に答えることがほとんどだったが、晶子は生活を送る上で必要なことをどうすれば良いか、この場面ではこうして此処では
こうしないといった分別を補助したり指導したりした。母親役に相応しいと思うほどそれが非常にスムーズだったのは、めぐみちゃんが今何を言いたいか
どうしたいかをめぐみちゃんの水準で考えて、めぐみちゃんの水準で答えて教えることを徹底出来ていたからだろう。

「私はつい最近夫と結婚出来たばかりです。子どもは大好きですけどまだ作れません。そんな私から見れば、貴方達は凄く贅沢で我儘です。」
「…。」
「「…。」」
「子どもさんを、めぐみちゃんを大切にしてあげてください。…お願いします。」

 晶子は話を締めくくる。晶子の気持ちは最後の方の言葉に集約されていると思う。子どもは欲しいが自分と俺の状況を考えると作れない。なのに、目の前の
夫婦は出来た子どもをないがしろにして、自分の目の前で子どもを怒鳴りつけ更には殴った。
 心情としては憤懣(ふんまん)やるかたないが、此処で両親を感情のままに叱責すればめぐみちゃんを怒鳴って殴った両親と同じになるかもしれない。
それに、どうしたって自分はめぐみちゃんの親にはなれない。だから親である両親にめぐみちゃんを託す。自分が出来ない分大事にして欲しい。
そう願ってるんだろう。

「奥様のご意見ご指摘もまた、重く受け止めるべきものですね…。」

 高島さんは感想を言う。俺の時とは表情が違って見える。意見の性質が違ったからだろうか。

「私は娘に『自立した女性』になるよう教育してきて、それは既存の枠にとらわれないことであると考えてきましたが、めぐみの養育状況と安藤さんご夫妻の
ご意見ご指摘を照合しますと、一人で生きる場合と夫婦や家族として生きる場合では自立の意味や目的は異なるものだと考え直すべきだと思いました。」
「…。」
「お話を伺って、安藤さんご夫妻は大変しっかりしておられて、夫婦におけるそれぞれの役割を認識して尊重しておられると感じました。」

 しっかりしているという評価は俺にとっては意外だ。親にも、以前付き合っていた宮城にも「どうも頼りない」と言われることはあっても、しっかりしていると高評
された覚えはない。俺自身「自分が変わった」という実感はない。もし俺の発言や行動が「しっかりしている」と映るなら、晶子との付き合いで変わったんだろう。
 晶子との付き合いは順調なようで結構トラブルに遭遇している。つい最近もこのまま別れるのも想定すべきかと思いかけるトラブルに遭遇したばかりだ。既成
事実の積み重ねで夫という立場に祭り上げられ、それが固められていく中で俺は夫としてどうあるべきか思案して模索してきた。お世辞にもスマートとは
言えないが、夫や父親になるっていうのは妻や子どもとのかかわりの中で徐々に変化して形作られていくものなんだろうな。

「そこでもう1つお尋ねしたいのですが…、御夫婦が夫婦として大切にされていることはどんなことでしょうか?」
「…月並みな答えかもしれませんが…、自分の状況を分析して最善の対応策を考えて実行することだと思います。」

 夫婦としてはまだ始まったばかりだが、めぐみちゃんの面倒をみる中で公的に夫と見なされる中で頭に置いてきたことを言う。その上で行動してきたことが
「しっかりしている」という評価に繋がっていると思う。

「先ほど妻が言いましたし、神田さんからお話を伺っているかもしれませんが、私はまだ結婚間もないです。夫であると妻や周囲から見なされる、言い
かえれば公的に夫として見なされる以上自分はどうすべきか。それを考えて行動したつもりです。…それくらいです。」
「なるほど…。では奥様は?」
「私は、自分が妻としてどうあるべきかを考えて行動しているつもりです。夫と立ち居地は違いますが考え方の方向性は似ていると思います。」

 晶子の答えは、俺からすれば十分予測範囲内。とりわけ京都入りしてから実践していることが良く分かることをそのまま言っただけだ。

「私は、妻は夫を補佐するものだと考えています。私が自分の判断のみで行動した時は時に夫や周囲に多大な迷惑を及ぼすと、結婚前に痛感したのも
あります。」

 晶子はつい3日前までのこと、田中さんの台頭に混乱してマスターと潤子さんの家に篭城したことを悔やんでいるようだ。潤子さんも言っていたように、俺が
二股かけたり晶子から別の女性に乗り換える可能性はまずないと言って良い。俺は自分の魅力が何なのかと言われてもせいぜい誠実さや堅実な経済感覚を
挙げるくらいだが、それが女性から見た魅力になるとはあまり思えない。それに、田中さんが俺に好感以上の感情を抱いていると晶子やマスターや潤子さん
から色々な表現で指摘されても、当の俺自身は何かの間違いじゃないかと未だに思っている。
 だが、晶子の混乱はなかなか収まらず、痺れを切らしかけた俺は晶子にこのまま閉じこもり続けてどうしたいのかと突き放すメールを送った。それでも反応が
ないようならマスターが示唆したとおりこのまま別れることも覚悟しつつあったが、メールを読んだ晶子は一気に態度を覆して戻って来た。
 俺は晶子に他の女性と関係を持ったり晶子から別の女性に乗り換えることはないとより明確に晶子に印象付けるために、突貫工事そのものだったが晶子に
プロポーズし、マスターと潤子さんからの祝い金を元手に京都へ1週間旅行することを新婚旅行と位置づける行動に出た。晶子が始終俺より一歩若しくは
三歩下がった立場に徹するのは、自分は夫を補佐する立場を弁えた妻であるという認識を実戦を通して強めるためだろう。

「夫を信じて、夫だけでは手が回りきらない場合に自分の持ち味を生かして夫を補佐する。それが、私が妻で居る際に最も安定して夫婦関係を維持出来る
ことが、今回の旅行とめぐみちゃん−お孫さんの面倒を見る中で再認識しました。ですので、夫を補佐する妻という立ち居地に徹しています。私の考えは以上
です。」
「なるほど・・・。ご夫婦の考えを聞いて、夫婦や家族という共同生活を営む人間同士の単位において、一人で居る時とは自立の意味が異なるのだと感じさせ
られました。」
「でも・・・、それって女性が男に付き従うってことじゃない?今時流行らなくない?」
「女性がどうか男性がどうかとか流行るか流行らないかより、夫婦や親としてもっと重視すべきものがあるんじゃないか?」

 改めて母親に釘を刺す。この母親の自立と無秩序、今の自分より理想の自分−「私らしく」をひたすら追及する姿勢は、女性としての権利意識の肥大と
絡まって彼方此方で顔を出す。親としての責任に背を向ける一方で、流行的観点から女性の権利や自分が主役に徹しようとする意識には貪欲だ。そこから
すると、晶子の姿勢は後れていると見えるだろうが、女性の権利や「自分らしさ」を追求した結果警察沙汰になってれば笑い話でしかない。
 母親は不満で仕方がないが、警察から解放されたばかりで身柄を引き取りに来た母親が隣に居るという状況を考えて仕方なく黙っている様子だ。俺が
あれこれ注意したところでどれだけ認識を変えるか疑問だ。親としてのあり方や姿勢を考え直させるには母親の高島さんから言ってもらうのが最適だろう。
それは今言うことじゃない。

「夫婦の立ち位置や持ち味というものは、男女の平等の下でこそ発揮されると思っていましたが、そうとは限らないのですね…。」
「夫の方向性に妻が従う形の夫唱婦随もありますし、『かかあ天下』と呼ばれる妻主導の形も勿論ありえます。大切なことは夫が言うとおり、親として子どもを
どう育てるか、子どもとどう生活するかを第一に考えることだと思います。平等は大切ですが、機械的に一律に適用することが平等だとは思いません。」
「なるほど…。正論とは往々にして耳を痛ませるものです。」

 男女平等を重要視するのは構わない。だが、権利を振り回して義務や責任をおざなりにすれば様々な軋轢が生じるし、今回の場合だとめぐみちゃんが
迷惑と被害を受ける。高島さんは抵抗感を感じつつも娘夫婦の現状を考慮して受け入れようとしているが、娘夫婦、特に母親は不満そうだ。母親になりたく
てもまだなれない晶子の方が母親が務まると思うが、親が子どもを選べないように子どもは親を選べないからな。

「安藤さんご夫妻は、これから私と娘夫婦がめぐみをきちんと養育していく上でどうすべきと思いますか?」
「色々考えられますが…、さっきの娘さん夫婦の話からして、まず生活基盤をきちんと構築することが大切だと思います。たとえば…、高島さんのこの御自宅に
娘さん夫婦とめぐみちゃんを住まわせて、娘さん夫婦を高島さんの下で働かせるとか。」
「ちょ、ちょっと。何で大人の私達がママの世話にならないといけないわけ?」
「親と一緒に住むなんて流行らないって。」
「流行る流行らないの問題じゃないってさっきも言ったはず。それに、大人と言うなら生活そっちのけで親に厄介をかけている状況をどう考えるんだ?」
「「…。」」
「繰り返し言うけど、貴方達がまず考えないといけないことは親としてどう生活していくか、めぐみちゃんをきちんと養育することだ。収入は親に頼りっぱなしで、
めぐみちゃんの養育より自分達の権利やライフスタイルとか追及してて、今回の件で反省してめぐみちゃんを養育することに本腰を入れるつもりがあるとは
思えない。」

 まともに行動や結果が伴わないのにひたすら権利意識や周囲からの認識を気にする両親に、俺は思わず語気を強めてしまう。高島さんの手前もう一回
警察署で絞られてこいとは言えないが、どうしたもんだか…。

「これではどちらが子どもを持つ親か、人生経験を重ねて来た大人か分かりませんね…。」

 高島さんは溜息を吐く。親戚関係でも何でもない俺と晶子でも頭の中が子どものままのこの夫婦に手を焼く。その横でやり取りを聞いている高島さんは、
娘夫婦の惨状に頭を抱えたい気分になっても仕方ない。

「無論、娘さん夫婦の生活をどうするかは最終的には高島さんと娘さん夫婦で決めることです。ですが、めぐみちゃんの養育を考えた場合、生活基盤が
未整備の娘さん夫婦を一旦引き取るのも一案ではないかと思います。」
「まったくおっしゃるとおりですね。幸い此処には部屋は十分ありますし、私の事務所のスタッフも居ますから、めぐみを放り出すことも少なく出来ます。」
「マ、ママ…。」
「貴方達に決定権はないのよ。これ以上、めぐみを悲しませるようなことはさせない。私の責任でもあるのだから。」

 高島さんは強い態度で娘の反論を封じる。高島さんがめぐみちゃんを可愛がっていることは分かっている。今回警察沙汰になって、最も「次はない」と痛感
したのは高島さんかもしれない。めぐみちゃんがもう泣かなくて済むようにするなら、高島さんが娘夫婦に強権発動するのが最適だろう。俺と晶子には文句を
言えても、高島さんには何も言えないようだし。

「貴方達を親の自覚や責任がないまま資金援助だけしていた私にも責任がある。丁度、私の事務所のスタッフが2、3人欲しいと思っていたところだし、
貴方達は暫く私の事務所で住み込みで働きなさい。安藤さんご夫妻の言うとおり、貴方達が生活基盤を整えないまま家に帰したら同じことの繰り返しに
なりかねない。そうなったら一番悲しむのはめぐみだから。」
「「…。」」
「本来、こういうことはそれこそ私と貴方達で話し合って決めることなのに、こんな事態になって御旅行中の若いご夫婦に指摘されるまで気づかないとは…、
私も親としては至らないことばかりだったと痛感しています。」

 高島さんを責めるつもりはない。めぐみちゃんを可愛がっていることは知っていたし、娘夫婦の自立を促すために資金援助をしていたんだろう。それに依存
して自力で収入を得る努力もせずにめぐみちゃんをないがしろにしたのは娘夫婦、すなわちめぐみちゃんの両親だ。娘夫婦をめぐみちゃんと共に引き取って
生活させればめぐみちゃんへの目も行き届くし、めぐみちゃんがハンバーガーとジュースしか与えられないということもなくなるだろう。

「高島さん。それから御両親。どうか、めぐみちゃんをお願いします。」

 晶子が頭を下げる。頭を下げるべきは両親なんだが、めぐみちゃんを本当の子どものように可愛がって大事にしていた晶子は、自分は親代わりには
なれても親にはなれないと実感しつつ、めぐみちゃんが今後二度とあんな目に遭わなくて済むよう願って託すことしかないと思ってるんだろう。子どもを
可愛がってきちんと面倒を見られる晶子が母親になれなくて、自分の子どもをないがしろにしてはばからない両親が親になってるなんて、皮肉なもんだ。
 だが、めぐみちゃんが笑って過ごせる道筋はついた。高島さんが両親とめぐみちゃんを引き取り、両親を自分の事務所で住み込みで働かせれば、生活
基盤は収入の段階からきちんと構築しやすい。めぐみちゃんの育児放棄や虐待から護りやすくなる。あとは…、高島さんと両親の問題だ。
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