雨上がりの午後

Chapter 247 臨時親子の旅日記(15)−親の思惑、夫婦の思い−

written by Moonstone

 線路と交差して、道沿いに進む。バスが2、3台ほど少しの間を置いて渋滞の波にもまれている通りに出る。晶子の案内だと、どうやら此処は太いバス通り
らしい。路線図と進路方向が把握出来ていれば金閣寺から此処までバスで来られたかもしれないが、道を見る限りだと渋滞に巻き込まれて降りようにも
降りられない事態に陥っていたかもしれない。

「此処から坂道を登っていけば清水寺に着きますよ。」

 小学校の修学旅行の記憶の痕跡が微かに脳裏に浮上してくる。それまで平坦だった見学コースが急に坂続きになったような・・・。観光バスが複数台
停まっている広い駐車場に差し掛かる。此処で降りたような憶えがある。

「お父さんとお母さんは、坂道でも歩くの平気?」
「平気よ。電車以外は殆ど歩いてるから。」
「めぐみちゃんも幼稚園まで毎日歩いてるか?」
「うん、歩いてる。お友達と一緒に行くよ。」

 どうやら友人関係も良好なようだ。幼児期は本人の行動範囲が限られているのもあってか、交友関係に家庭環境がかなり影響することがある。両親の仲が
悪い或いは離婚した家庭の子どもがいじめの標的になったり、逆にいじめの主導者になったりする事例もある。話を聞く限り、めぐみちゃんにはその兆候は
見られない。
 幼稚園くらいなら歩くもの、というのは思い込みだったりする。俺が住んでいた麻布市は小学校の学区内にある幼稚園に通園するのが当たり前で、それは
当然のことながら徒歩圏内にあった。俺もそんな時期を経てきたが、新京市や小宮栄市はそれぞれの家庭で通園する幼稚園を選ぶのが当たり前だと聞いた
ことがある。
 俺と晶子は今でこそ居着いて長いように感じるが、高々3年程度。しかも学生として賃貸住宅の一角で暮らす身だ。その土地の詳細の事情は大して
知らない。一方、マスターと潤子さんは2人で経営する店舗も含まれる住宅に居住する定住者だ。店が住宅街にあるという立地条件もあって、ゴミ出しや
回覧板の受け渡し、趣味のテニス−潤子さんがマスターを誘って始めたそうだ−で他の定住者から色々な世間事情を聞く機会がある。
 日本有数の大都市である小宮栄やそのベットタウンとして急速に人口が増えている新京市は、幼稚園から進学に向けて選別やふるいわけが始まる。この
中学校区からだと何処そこの進学校に行ける幅が広がるから、中学校区の前提になる小学校区の段階から転居や転入をする。転居や転入そのものは意外と
簡単だ。役所に前住んでいたところの証明書と身分証明書を提示すれば良い。役所で支払う手数料も数百円程度だ。実際の転居の費用は家族の規模に
よって幅があるが数十万。ある程度の企業などならボーナス1回分に2、3か月分の費用で転居先の確保まで含めた移動が出来る。自分が何処に住んで
いるか、法的には公共サービスを受ける権利を有する居住地は住民票の記載で決まる。ついでに言うなら、家族が必ず1つの住民票に記載されている
必要はない。例えば父親と息子、母親と娘で居住地を分割することも可能だ。それをある意味逆手にとって、「良い学校区」への転居が行われる。進学
させたい子どもに親の片方或いは両方を付加して目的の小学校区に転居・転入して、そこから「良い学校区」と評される中学校に送り込む。高校への進学が
決まった時点で住民票を元に戻す、若しくはその学校に近い場所に転居することも可能だ。
 誰が最初に考えたのか知らないが、マネーロンダリングに倣って住民票ロンダリング、子どもの学歴ロンダリングという激しい進学競争は、中学生の塾通いも
普遍化させる。俺も高校時代では塾通いが普通だったが、新京市や小宮栄だと普通のレベルが中学校に降りてくる。その前段階として幼稚園から受験
対策がなされるか、私立だと系列校を有する幼稚園に通わせることさえ行われているとマスターと潤子さんから話を聞いた時は驚いた。だが、俺と晶子が
バイトをする時間帯に中高生の客が多いこと、店で夕食を済ませて塾へ向かうか塾通いの帰りかの違いでしかないことを考えれば当然だろう。

 中高生にとってそれが幸福なのかどうかは分からない。進学熱にやられるのは子どもより親、父親より母親だ。親の熱意に圧されて学校では宿題やテスト、
塾では課題や講習と戦わされ続けて、限界を突破して燃え尽きてしまったり、勉強が出来ていれば文句は言わないという親の態度を見て、勉強以外では
粗暴や無法とも言える言動に出たりする人も居る。
 中学高校での進学競争を突破すれば万々歳かと言えば、残念ながらまだ続きがある。今度は大学受験だ。少子化や大学全入時代と言われて何処にでも
行けると思いがちだが、その次に控える就職での競争では大学間の優劣が存在する。大学側も少子化や大学全入時代に対応して学生様歓迎とばかりでは
ない。大学の存在価値を上げる若しくは維持するために、選抜試験でふるいわけする。
 ある程度の大学、日本だと東大京大など旧帝国大学や早慶など有名私立、ローカルだと地方国公立や大規模な総合私大だと、知名度やそれまでの実績
から入学希望の学生は多数集まる。学生様歓迎と言ってはいてもしっかりふるいわけする。質の悪い、大学で必要な知識水準に達していないと判断すれば
その辺は容赦しない。
 学生を送り込むことで進学校としての実績を上げたい高校やそれ以前の学校も対策をとる。割と知られているのは中学校段階での受験だ。私立は有名
どころだと大抵中学あたりの段階で系列校を持っている。新京市だと新京大学の学生が合コン対象とする中美林大学がそうだが、中学受験を乗り越えれば
以降は割と楽に進める。程度の低い学生を内部で生じる危険も孕んではいるが、受験競争の凄まじい熱病にやられた親、特に母親にとっては子どもを
受験に駆り立てる好材料だろう。「中学に入れば後々楽」などの殺し文句が使えるんだから。
 少し前まで大学受験からと思っていた人生の競争−あまり使いたくない言葉だが−が高校受験、更には中学、小学校、果ては幼稚園にまでスタートが
押し迫っている。それは以前からあったことで少子化や大学全入時代とか言われるようになってマスコミや塾など受験産業が煽り立てることで全国に拡大・
浸透してきたのかもしれない。いずれもしても子どもにとって幸せなのかどうかは分からない。

「幼稚園へ行く道で坂道はある?」
「ちょっとある。」
「急がないから、到着までお父さんとお母さんと一緒に上ってみようか。」
「うん。」

 此処で速く行くぞとか急かしたら無意味どころか逆効果だ。俺自身そんなつもりはないし、途中で休むのもありだ。・・・何か話をしている途中だったような気が
するが、忘れて構わないな。めぐみちゃんの頻繁に変化する好奇心に対応するには1つのことに執着していられない。
 めぐみちゃんを真ん中にして並んで清水寺への坂を上る。大してきつくは感じないが、俺の視線と感覚ではそう思うだけでめぐみちゃんにはきつく長い坂に
感じるかもしれない。相手の身になって考える。これが子育てでも根本にあるべき考え方なのかもしれない。大して背が高くない方の俺でも170cmあるから、
結構先まで見通せる。歩幅もそれなりにある。めぐみちゃんはというと、身長は1mちょっとくらいで歩幅は俺の半分あるかないかだ。同じスピードで歩を
進めたとしても同じ時間歩いたら単純に倍程度の差が出来る。その分時間の経過の感じ方も違ってくるだろう。俺では感覚で「この時間ならこのくらいの距
離進める」と思い込んでいるところに、めぐみちゃんの歩幅に合わせて歩けば大幅な感覚のずれは避けられない。だから大人が子どもを急かす時に「もっと
早く」と言うんじゃないだろうか。
 年齢を重ねるにつれて時間の経過が早く感じるようになる、とよく言われる。学年を進めるごとに量と密度が増してくる専門教科の数とレポートをこなし、担当
教官のOKが得られるまで終わらない実験を進め、補講を含めた講義の全日程が終了したと思ったら単位の得るための試験のラッシュが襲い掛かり、それらと
並行してバイトをしていて、4年進級が確定したところで気づいたら冬が終わろうとしている時期に居た。あっという間だった。次々押し寄せる課題−大学関係
だったりバイトだったり晶子だったり原因は色々だが、対応し続けるうちにそのスピードに慣れて、若しくは順応して、かつて自分が経験した、ものの尺度を
忘れてしまう。そして自分が慣れたか順応したかのものの尺度からすると遅かったり手際が悪かったりするものに直面して、「何をやってるんだ」と焦り、やがて
不満や怒りに変わって募り、ついには爆発するのかもしれない。
 親になるための予行期間は、あってないようなもんだ。めぐみちゃんの両親のような出来ちゃった結婚だと更にゼロへと短縮される。出産や子育ての情報は
昔より沢山あるが、当人が処理出来ないと話にならない。情報が多い分処理を誤れば混乱や間違いを生じやすくなる。子どもも親の準備が終わるまで成長を
待つことはない。子どもが生まれて余計に混乱に拍車がかかる。
 「親になるためには免許制度を導入すべき」という主張を聞いたことがある。ある意味正論だがある意味誤りだ。免許を得るまでの講習なり研修なり必要な
学習・訓練期間を経ればその分知識や技術は取得できるだろう。だが、免許を取ったら問題ないかといえばそうでもないことは自動車免許が証明している。
決して安いと言えない金額を支払って学習・訓練期間を経たはずなのに、何かの拍子で車を凶器に変える輩は出て来る。免許制度にすれば万事安泰という
のは短絡的だ。それは親の資格でも変わらない。問題は子どものペースを理解して出来る限り合わせようとすること、自分のペースやものの尺度が全てだと
思わないことなんじゃないだろうか。

「お父さんとお母さんも、清水寺に来た時にこの坂を上ったの?」
「上ったと思うんだけど・・・、小学校の時の話だから、あんまりはっきり憶えてないんだ。」
「お母さんも修学旅行で見て回る先の1つだったから、此処でこんなことをしたとか、どういう道を歩いたかとかはあんまり憶えてないよ。」
「お父さんとお母さんでも?」
「お父さんとお母さんだって、何でも知ってて何でも出来て憶えてるわけじゃないさ。」
「そうよ。」

 めぐみちゃんと会話をしていると、自分の推測はあながち間違ってないんじゃないかと思えてくる。自分が馴染んでいる、否、順応しているペースや環境が
他人と共通のものだと思うな、という分かっていそうで分かっていないことを子どもから教わりながら進めていくのが子育ての王道なのかもしれない。
 後期試験が終わって間もないある週末、晶子がゼミの学生居室で借りてきた書籍を見せてきた。それは育児専門誌の1つで、読んでみて進学重視タイプ
ではなくて理念重視タイプのものだと思った。そこには育児の基本精神として「子ども目線」を代表に「子どもも大人と同じく人格を持つ」などの理念が並んで
いた。この書籍を読む読者層がどんな親、特に母親なのかは知らないが、進学重視タイプのように「自分の子どもを良い大学良い会社へ」と煽って常に
子どもに向けた向上心をかき立てられる親が読むものではないだろう。
 その書籍は読んでいて不快に感じたり首を傾げるような部分は見当たらなかった。理念を並べているから理想の育児像を描きやすいのもあるんだろう。
こういう姿勢で育児に臨むことは必要だと思う。
 だが、書籍をどれだけ理解するか、どう理解するかで違ってくるようにも思った。並んでいる理念は大いに結構だし、大人のペースや処理速度について
いけるはずがない子どもの状況を理解せずに大人の都合を頭ごなしに押し付けることで様々なひずみを生じることは、めぐみちゃんとその本物の両親の一部
始終を振り返ってみるとよく分かる。だが、書籍の理念を正常に生かすか、歪めて生かすか、果ては大人が都合よく解釈して結局子どもに頭ごなしに
押し付けるものになるかが変わってくる。
 「子ども目線」で考えるのは重要だ。だが、「子ども目線」であることを常に第一にして他人との調和は度外視しても良いわけじゃない。TVもラジオもインター
ネットもない、一切他人との接触がない無人島か別世界ならそれでも良いが、実際の社会はそうはいかない。晶子と買い物に行くスーパーで、割と混雑して
いる店内で全速力で駆け回る子どもとそれを容認する親が、書籍に並ぶ理念を歪めて生かした典型的な例だ。
 子どもが走り回るのは大いに結構だ。子どもの大半は退屈な買い物に飽きて友達と遊びたい気持ちになるのは十分分かる。だが、店には他の客が居る。
全速力で駆け回る子どもを無難にかわす人も居れば、子どもにぶつけられた衝撃で倒れてしまう人も居る−病気や怪我をすれば人間は予想以上に弱く
なる−。ぶつけられた子どもを酷い目に遭わせたり、親に監督責任を求める人も居る。逆に子どもが何かにぶつかった拍子に転んで怪我をしたり、商品を
破損したりする危険もある。前者は自分が痛い思いをするし−最悪死ぬ−、後者は店にとっては損害だ。危険は本人ばかりか他人や自分自身、他人が
必要とするかもしれないし店にとっては財産の1つである他のものにまで広がる。となれば、店では走り回らないで他の場所でするよう子どもに注意なり
指導なりするべきだ。
 それを最初にするのは他ならぬ親の筈だし、所謂「昔」は他の大人が注意した。ところが、「子ども目線」を歪曲して理解した親は、混雑した店内で全力で
走り回る子どもの目線を常に第一に考えることで、子どもの行動は当たり前のものと思ってしまっているから自分は注意しないし、他人に注意されれば
「何をするのか」「他人の子どもを叱るなんて」と食って掛かったりさえする。所謂「モンスター○○」と呼ばれる理不尽なクレームを迫る連中の中に、
「モンスターペアレント」と蔑称される親も含まれる。その「モンスターペアレント」の思考の行き着く先の1つは、「子ども目線」という理念に行き着くように 思う。
 そういった「モンスターペアレント」の出鱈目な言動に、反発する動きは当然生じる。中には「子ども目線」という理念そのものがいけないと否定し、
「子ども目線」の理念やその背景にある思想や行動まで否定する強硬な動きも生じる。右派雑誌で命令口調で主張を展開している人達の考えの大本の
1つは、こういった反発もあると思う。そういった動きを批判するなら、それに付け込まれる隙を与えるような子どもを野放しにすることは慎むべきだし、
そういった親を批判し改めさせる自浄作用が必要だろう。

「めぐみも、お父さんとお母さんみたいになりたい。」
「めぐみちゃんならなれるわよ。」

 父親や母親のようになりたい。言わせるのは簡単だろうがそう思える親であるのは、現在やこれからの親の中でどれくらい居るんだろう。これからの親の
中には俺と晶子も含む。今は暗中模索が偶然上手くいっているだけ。そう思った方が良い。本当に自分が親になる時こんなに親らしく行動出来るかどうかは
分からない。
 大学までの6+3+3年と大学の4年で色々なことを学ぶ。その中で将来親になることを想定した教科や課題は意外に少ないように思う。家庭科は得意な人に
任せるのが「主流」だし、保健体育は時期が時期だけに色物扱いだ。
 社会に出るにはより良い大学を目指すことが前面に出される。学校においても塾においても−俺は知らないが中高生の客から痛いほど感じる−そして
過程においても。それは必要だろう。なりたい職業によっては特定の学部学科を卒業しないと前提条件が成立しないものも多い。だが、それだけで良いとは
思えない。晶子と出逢って仮免許的な夫婦関係になった今、晶子が圧倒的に高い水準にある技術や知識、すなわち料理や掃除や裁縫の仕方、何処に何が
売っていてどうすれば効率的に良いものが出来るかといった家庭生活を円滑に進めるものの重要性を痛感している。料理や裁縫の仕方は家庭科で習うが、
週1回。小中学校では興味や好奇心が旺盛なのもあるし、ある種飯事やごっこ遊びの延長線上にあるのもあってか子どもの側から割と熱心だが、高校に
なれば大学やその先の就職には無関係どころか邪魔扱いだ。
 やはり日常の一部と認識してこなせるようになるには、ある程度の訓練と反復が必要になる。向き不向きはあるが訓練や反復でそこそこのものが出来る。
火加減1つ取っても昔は竈に付きっ切りで薪をくべたりして大変な労力を要したが、今は電気やガス、更には自動化によって必要な分量を器に投入して
スイッチを押したりタイマーをセットしたりすれば出来上がってしまう部分が多い。だが、何時も誰でも全ての材料が揃えられるとは限らない。あり合わせの
ものでどの程度まで出来るかで料理をはじめとする家事能力の違いが出るように思う。シチューを作るにしても、レシピの材料がないから買いに行くというの
では手間がかかるし効率も悪い。冷蔵庫にある材料で牛肉を豚肉や鶏肉に代えたり、ニンジンやジャガイモをサツマイモに代えたりといった工夫が出来る
ようになって初めて、本当に「料理が得意」と言えるんじゃないかと思う。
 進学熱や競争が激化するにつれて家庭科や美術など「その他」の科目を邪魔者扱いする雰囲気が、学校でも家庭でも蔓延している。その一方で「食育」や
家庭の教育の重要性を時に強制力を伴う形で説くことが、家庭科や美術を隅に追いやることを推進する連中や勢力からなされるというのは、たちの悪い冗談
でしかない。とは言うものの、家庭科で習う知識や技術の本当の意味が分かったのは、晶子と出逢って生活を共にするようになってからだ。本当に親に
なればまだ知らなかったこと、分からなかったことが出てくるんだろうな。

「人、多いねー。」

 周囲を頻りに見回していためぐみちゃんが驚いた様子で言う。観光シーズンの真っ只中じゃないし休日の小宮栄の混雑ほどじゃないが−小宮栄方面の
通勤ラッシュは凄まじいらしい−、人が多いのは確かだ。
 めぐみちゃんの行動範囲から推測するに、めぐみちゃんは京都府在住だが大規模な市街地ではなさそうだ。混雑はそんな地域に住む幼稚園児が目にする
普段の風景とはかけ離れた光景の1つだろう。

「桜が咲く季節や紅葉が真っ赤になる季節は、もっと沢山の人が来るそうよ。」
「清水寺からも桜や紅葉は見えるのかな?」
「うーん・・・。高いところから景色を見るのがメイン・・・中心だから、桜や紅葉は『あんなところに見える』って感じかもしれないな。」

 小学校の修学旅行でも清水寺に来たが、何を見たか全然憶えてない。清水寺は高いところから見る場所っていうのも、後付けの記憶、否、記録のような
もんだ。その観点では、今から清水寺に行くことは後付けの記録を修正・変更して正確なものにする格好の機会だ。めぐみちゃんの選択に感謝、だな。

「お父さんもこれから何が見えるか、確認しに行くようなもんだ。」
「お母さんもよ。」
「じゃあ、皆で清水寺に何が見えるか、観に行くんだね?」
「そうだよ。」

 俺を晶子を交互に見ためぐみちゃんは、蕾がパッと弾けたような笑顔を浮かべる。義務感や億劫さを感じながら連れて行かれるんじゃなくて、一緒に何が
あるのか観に行けることそのものが楽しいし、嬉しいんだと分かる。
 坂道が少し険しくなってくる。めぐみちゃんに合わせている俺の歩くペースは普段の半分にも満たない。だが、それをじれったく感じたりはしないあたり、
俺もこうやってゆっくり歩く時間が欲しかったんだろうと思う。
 普段の生活は殆ど駆け足状態だ。大学がある平日だと全速力の方が多い。講義では出来るだけ漏らさないようにノートを取り−黒板以外にプレゼン用
資料も使われるあたりが大学らしい−、実験ではどうにか人手として使える智一に指示したり結果を分析したり、時には図書館に走ったりで、ほっと息を
吐けるのは昼飯時くらいだ。
 大学が終わったら今度はバイト。生活費を補填する他不測の事態やこれからの出費−PCに関してはずばり正解だった−に備えた資金蓄積の意味も
増えたバイトは、忙しさが増している。塾通いの中高生が夕食や休憩に使えるような安心感が口コミで広まった結果のようだが、これまた始まったら
キッチンと客席、時にはステージへと忙しなく移動していて、気づいたら閉店時間になっている。
 休日は平日に比べればゆっくり出来るが、最新の記憶である後期試験の只中は普段の平日を移植したような時間だった。後期試験が始まる前にも実験や
講義のレポートは容赦なく出されるから、それらを処理するだけでも土日のどちらかは殆ど潰れてしまっていた。
 後期試験を奇跡的にも全部白星でクリアして進級を確定させて卒研が始まるまでの今を含めた時間は、違う世界に来たかと思うようなゆっくりした流れだ。
忙しいことに順応してやり過ごしてきたことで、これまでの土日の晶子との買い物や散歩でもあまり感じなかった時間の流れの穏やかさが良く分かるんだろう。

「車、通らないね。」
「この坂に差し掛かった時に、バスや車が沢山停まっていた駐車場があったでしょう?」
「うん。」
「皆の邪魔にならないように、皆あそこから清水寺へ歩くのよ。」

 清水寺へ通じる道は1車線のみ。この混雑の中、車で通行するのは不可能だ。道の両側には土産物屋をはじめとする店舗が多数と民家が若干あるが、車の
通行をさせると観光客が足止めを食らってしまう。
 観光客を移動させるためにと車を使うと、大きさによっては行き違いが不可能だし、歩いている観光客の邪魔になる。最悪の事態である交通事故となれば
観光そのものが駄目になり、ひいては道沿いの店舗の営業に重大な支障を齎す。それを避けるには、観光客は全員徒歩にして店舗の営業や救急車両の
通行時など必要且つやむを得ない場合以外は車の通行を禁止するようにするのが賢明な方策だ。

「清水寺のお坊さんも、歩いて出るのかな?」
「そうだろうな。どうして?」
「お坊さんも買い物したり、郵便局に行ったりするんでしょ?」

 俺は思わず吹き出しそうになる。買い物は兎も角、郵便局とは随分現実的だな。坊さんと修行のイメージからかけ離れているが、生活するのは世俗と
同じだ。郵便局に行く機会もあるだろう。

「そうだな。その時は勿論お坊さんも歩くさ。」
「めぐみちゃんは、どうしてお坊さんが歩いて出るのか疑問に思ったの?」
「お坊さんはお経を読む練習をするから、お寺に誰かが野菜とか肉とか持ってきてくれるのかなって思った。」
「なるほどね。お坊さんはお経を読む練習以外に自分達の生活は自分達でするから、買い物したり郵便局に行ったりするのよ。」

 素朴さは時として現実的なことに結びつくんだな。寺での生活がどんなものかは知らないが、托鉢だけでやっていけるとは思えない。寺の収入源として直ぐ
思いつく葬式や法要、檀家−清水寺にあるのかどうかは知らないが−や宗派の講演、それと清水寺の拝観料あたりで収入を得ていると推測出来る。それらを
金庫に保管しておくのもあまり現実的じゃない。盗難の心配もあるから郵便局や銀行に預けるだろう。郵便物も当然届くだろうし送る必要もあるだろうから、
郵便局に行く必要も生じる。
 竈と井戸で台所仕事や水仕事をするのもこれまた現実的じゃない。水道やガス、電気も使っているだろう。現代社会に存在する以上、そのインフラを使うし
使わざるを得ない。寺での修行、言い換えればそこで暮らす坊さんの生活も現代社会に応じたものに変化している部分はあるだろう。

「お坊さんって、どんなものを食べるのかな?やっぱりお肉は食べちゃいけないのかな?」
「食べる時もあるだろうけど、積極的に食べたりたくさん食べることはしないだろうな。食事もお寺での生活の一部だから。」
「お坊さんがお肉を食べちゃいけないっていうのは、習慣や慣例−こうするようにしようって自然に決まって定着したことで、食べちゃいけないってことは
ないのよ。」
「へぇー。」

 仏教は同じ世界三大宗教であるキリスト教やイスラム教と違う部分が多い。キリスト教とイスラム教は唯一神の信仰が教義の中心だが、仏教は日本神道の
八百万の神に近いたくさんの仏が居る。偶像崇拝もキリスト教とイスラム教では禁止だが、仏教は仏像が無数に作られている。では仏教が曖昧でいい加減な
ものかと言えばそうじゃない。「万物は流転する」とも表現される諸行無常をはじめとする一切の苦しみからの脱却−解脱を目指し、絶対的な力を持つ
唯一神による救いではなく自分で善行を積むことを基本思想とする。
 仏教の特異性は高校の倫理の授業で習ったが、その時は漠然としたものだった。バンド仲間との勉強会で耕次と渉の議論から理解が深まった。2人曰く、
「仏教をキリスト教やイスラム教の観念で理解しようとするのが間違い」だと。

 キリスト教とイスラム教は絶対の頂点・原点として、それに集う一族や集団は唯一神に救われるという観念なのに対し、仏教は階級闘争を原点とするため
開祖=釈迦の体験を基に信者が独自に救いを目指す観念だ。これらはどちらが正しいかではなく、成立した背景の相違がある。
 キリスト教、正確にはその源泉であるユダヤ教とイスラム教は、民族に対する迫害や厳しい気候の下で生き抜く必要性が背景にあった。だから、「たとえ今は
苦しくとも唯一神により救われる」という共通意識が神格化した時、絶対の信頼を寄せる唯一神以外に信頼が向くことや共通意識を揺るがせる外部要因は
禁忌事項だ。それが偶像崇拝の厳格な禁止や厳格な戒律として端的に示されている。
 一方、仏教は当時のバラモン(僧侶)を頂点とするカースト制度の中、バラモンの支配に頼らない救いを求めた開祖釈迦が悟りを開き、それを基に同調する
人達が同様の救いを求めるようになったという背景がある。だから「これを信じなければならない」という縛りはかなり緩い。その仏教が自らの救いをひたすらに
求めるか、他者も救おうとするかに二分化され、後者が大乗仏教として日本に伝わった。二分化といっても教祖の直系や本流を云々する対立ではなく、
それぞれ釈迦の救いを求めるという仏教の教えの中で分化した緩やかなものだ。そういった背景があるから、日本人にはイスラム教のスンニ派とシーア派の
対立が理解し難い。逆にキリスト教圏やイスラム教圏から見ると、年末に年越し蕎麦を食べて年初に初詣に行き、盆には墓参りというごった煮状態が理解
出来ない。
 明確に信仰していなくても、日本人の多くには仏教的な思考が根底にある。それが時として曖昧なままのなし崩しやその固定化を生む。キリスト教や
イスラム教のような絶対的存在がない分、自分達が絶対と称しても民族・国家規模での批判や粛清が起こり難い。いかようにも解釈出来る分、解釈の仕方に
よっては本来の思想や方針とは矛盾することも簡単に受け入れられる。
 仏教で肉を食べてはいけないという慣習や認識は、殺生を戒める仏教の教えが変遷した結果だ。仏教において殺生を戒めることは絶対悪ではない。
イスラム教で飲酒の戒めを破るのは信仰を阻害する、すなわち悪魔の所業として厳しく咎められることだが、仏教ではそういうことはない。だが、イスラム教の
ような明確さがない分、殺生を戒めることの解釈が変遷して、生きるために殺生をする人、すなわち漁業や畜産業を「穢れ」として忌み嫌うことへと繋がり、
それらの人達は仏教では救われないという流れになった。
 そこに、「南無阿弥陀仏」を唱えて仏に救いを求める−これが「他力」−ことで救われるとする流派、浄土真宗が現れた。浄土真宗の開祖親鸞の死後、
親鸞の教えを歪曲する向きを嘆いて教えを抽出した「歎異抄(たんいしょう)」にある「「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや(善人でさえ往生する
のだ。悪人なら尚更のことだろう)」のくだり、「悪人正機(あくにんしょうき)」まで歪曲された。
 文面をそのまま読めば「悪人でも極楽浄土へ行ける」となって、「南無阿弥陀仏」を連呼しながら刃物を振り回す輩まで正当化される。そうじゃない。「悪人
正機」の語る善人とは自分の善行によっての救いを求める「自力」の人で、仏の力を頼る「他力」の人が悪人だ。
 そこまでめぐみちゃんに説明するのは時間が足りなさ過ぎるし、それは何れ学ぶだろう。今は晶子が言ったように習慣や慣例の1つだと分かれば良い。

「お父さんは、お肉好き?」
「え?あ、俺・・・お父さんか?肉は好きだぞ。」

 本当に唐突に話の矛先が向けられる。思わず聞き返してしまった。

「お魚とどっちが好き?」
「どちらかと言えば肉だな。」
「お母さんは?」
「お母さんは、どちらかと言うと魚ね。」
「お父さんと違うと、ご飯作る時困らない?」
「全然。お父さんはお母さんが作るご飯を美味しい美味しいって言って食べてくれるから。」

 即答した晶子は満面の笑顔だ。晶子が大学で俺の食の好みを聞かれた時の様子が目に浮かぶ。そして、ある程度予想してはいても率直に返されて、半ば
呆れる聞き手の表情も容易に想像出来る。
 晶子の作る料理は美味い。俺の好物である鳥のから揚げは勿論、今までそれほど積極的に食べなかった刺身や煮魚といった魚料理も俺の好みに
合わせて作ってくれる。弁当に煮魚が入っていてもがっくりすることはない。智一の羨望の視線や言葉で食べ辛いと思うことはよくあるが。
 魚料理もよく食べるようになったのは、晶子が魚好きでその料理をよく作ることが大きい。晶子は肉嫌いではないしそもそも食べ物の好き嫌いがないが、
料理を作ってもらう度合いが高まるにつれて魚料理への関心が高まっているのは間違いない。

「お父さんは、お母さんが居ないと生きていけないんだね。」
「え・・・。」
「あら・・・。」

 物凄いストレートな表現だ。ストレート過ぎて突き抜けてしまったおかげで、何と言えば良いのか分からない。
俺と晶子が揃って絶句したことに、張本人のめぐみちゃんは不思議そうに俺と晶子を交互に見ている。

「・・・そうね。お母さんも、お父さんが居ないと生きていけないから。ね?お父さん。」
「・・・あ、ああ。そうだな。」

 はぐらかすのではなく同調しての晶子の確認で、俺はようやく言葉を発する。こんなストレートな表現には初めて遭遇する。
確かに、晶子の料理がないとずぼらと自覚している俺では数日持たずにレトルトやスーパーの惣菜やコンビニに頼るだろうし、晶子が居るという安心感や
心の支えといったものがあるから頑張って来れた部分は間違いなく存在する。
 晶子が一時俺の家を出てマスターと順子さんの家に篭ったが、その時のどうしようもない心の穴というのか強い喪失感というのか、そういうものも間違いなく
あった。やっぱり晶子のない生活は考えられないし考えたくない。

「お母さんは嬉しそうだけど、お父さんは俯いてる。」
「ほら、お父さんは照れ屋さんだから。」

 口調からも驚きから徐々に嬉しさに変貌していくのを感じているのが分かる晶子に対して、俺の反応は芳しくない。晶子と付き合って3年以上経ち、今では
夫婦の仮免許期間に至っているが、相変わらず俺は人前での自分の幸せや愛情表現が苦手だ。
 2人きりの時は「好きだ」とか「愛してる」とか言うが、口を開けば、というほど言わない。「好きだ」や「愛してる」より「綺麗だ」「良い匂いだ」と言う方が多い
ように思う。性風俗店以外で見ず知らずの異性に言うと、その異性が第一印象で好意を持てる相手でないと怪訝な顔をされるだけで済めば良い方だ。最悪
変質者扱いされて警察沙汰になりかねない。
 自分は伸ばすつもりはないのに、晶子の長くて艶のある髪には惹かれるし憧れめいたものもある。自分が伸ばしたところで似合わないを通り越して失笑もの
だと分かっているからか、髪を長くして綺麗に整えていられることとそうしている本人に惹かれるんだろう。
 生活を共にする時間が増すにつれて、言うことが増えたと実感する言葉がある。「ありがとう」だ。晶子も現役の大学生。レポートもあれば試験もある。
バイトでは順子さんと共に店のキッチンの双翼を担う重要な存在だ。そんな中で俺の食事を作ってくれるし、俺がレポートや試験の準備で手がいっぱいの
時は掃除洗濯もしてくれる。
 男女平等を至上とする人達からは旧態依然だの女性を家政婦扱いしているだの罵詈雑言が浴びせられるだろうが−それに近いことを何故か晶子が
言われたのは聞いた−、俺が日増しに厳しくなる学業で良好な成績を修めていられるのは、晶子のおかげだ。一言も文句を言わないどころか喜んでして
くれる、更には弁当まで作ってくれる晶子への感謝の気持ちで「ありがとう」と言う。
 「ありがとう」より「好きだ」「愛してる」の方が愛情表現らしいし、カップル、否、仮免許中の夫婦なんだからそう言うべきところかもしれない。だけど、俺の生活を
支えてくれる感謝の気持ちが湧き立ってくる。それを抑えられるほど悟りを開いてない。 晶子もよく「ありがとう」と言う。「好きだ」「愛してる」より頻度は
多いように思う。晶子の場合、一緒に居られることが凄く嬉しく、その気持ちを表現せずには居られないそうだ。
 晶子と一緒に居ること、今では一緒に暮らすことにストレスを感じたことはない。俺がレポートや試験の準備で延々と机に向かっていても、晶子は寂しいとか
あそこへ連れて行ってほしいとか言わない。「休憩にしましょう」という呼びかけに振り返ると、手作りのクッキーと共に淹れたての紅茶と共に座っている。
 俺は作業中にBGMを流す習慣がない。晶子はそれを踏まえている。任せる掃除や洗濯、時に料理の仕込みで当然音はするが、それらが集中力を阻害
することはないし、生活の音として十分許容範囲内にある。家事や自分のレポート、最近では後期試験の準備以外で俺が机に向かっている間、晶子は本を
読んでいる。1週間に1回くらいの頻度で服を交換したり郵便物を確認したりするために行く晶子の家にあるものや、買い物ついでに買った本を静かに読んで
いる。クッキーをつまみ、紅茶を飲んで一息吐く時、ふと前か隣を見ると晶子が居る。学業に集中出来て寛げる環境を整えてくれる晶子に俺は「ありがとう」と
言い、一緒に居させて邪魔者扱いしない俺に晶子は「ありがとう」と言う。

「お父さんは、違うの?」
「否、そんなことはない。お母さんが言ったとおり・・・照れくさいだけだ。」
「お父さんは、お母さんを凄く大切にしてくれてるって、ちゃんと分かってるよ。」

 俺の反応が芳しくないことを疑問−若しくは不安に思っためぐみちゃんへの晶子の補足説明は、俺にも向けられているように思う。
反応の見え方は違っても思うことは同じ。俺は晶子を、晶子は俺を大切に思っていて、めぐみちゃんが言うように「晶子(俺)なしでは生きていけない」と感じて
いるということは共通している。

「お父さんは、お母さんが居ないと生きていけないのは凄く分かった。」

 俺が肉の方が好きってことは憶えていて、これまでの話や反応から自分が発した言葉の正確さを認識したようだ。理解力は結構あるようだが、何時話の
方向が変わったり何処からとんでもない変化球が来るか予測出来ないから、レポートや実験より難しい。

「お母さんが、お父さんが居ないと生きていけないのはどうして?」
「お父さんは、お母さんを全部受け入れてくれる。一緒に居させてくれる。だから、お母さんはお父さんが居ないと生きていけないのよ。」

 自分の全てを受け入れる、か。「ありのままの自分」に通じる命題かもしれない。「ありのままの自分」って何なのか俺には良く分からない。少なくとも
あらゆる自分の意思を実行に移すことを、法や道徳やマナーといったものを無視してでもよしとするものではないとは分かっている。それは単なる我侭であり
傲慢でしかない。
 「ありのままの自分」は個人によって違うものだと思う。酒池肉林を絵に描いたような享楽を極めた生活が出来ることも、自分の生活を維持出来ることも、
善し悪しは別として価値判断が違うだけでその人がそれで満足出来るなら、そうしているその人が「ありのままの自分」で居る時なのかもしれない。
 晶子にとって、俺は生活の重要な要素になっている。自分ではそんなたいそうな認識はないが、晶子にとってそうであることは、この旅行と仮免許とは言え
夫婦になるに至った、田中さんによる晶子の混乱や逃避など一連の経緯から分かる。
 何が晶子をそんなに俺への強い依存、もはや同化と言っても過言じゃないほどの心境に駆り立てるのかはまだ分からない。だが、晶子にとって俺が
事実上の夫であること、晶子が俺の事実上の妻であることを独占出来ることが晶子の至上の喜びなのは確かだ。
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