雨上がりの午後

Chapter 238 臨時親子の旅日記(7)−金閣寺境内巡り(3)−

written by Moonstone

 晶子は器を手早く纏めて建物へ持って行く。こういった雑用ごとを率先して実行するのは晶子ならではだ。俺はめぐみちゃんを抱っこして立ち上がる。
戻ってきた晶子と一緒に休憩場所を出る。程近いところに煙か蒸気かが立ち上る建物がある。立ち上る白いものの近くに人が集まっている。

「不動堂っていう建物だそうです。」
「不動堂って名前からして、本尊は不動明王か。」
「そうです。」
「『ふどーみょーおー』も神様?」
「そう。有名な仏教の神様だ。見て行こうか。」
「うん。」

 不動堂に立ち寄る。煙か蒸気か遠目からでは判別し難かったものは、近づくと匂いを伴うことで煙だと分かる。東京だったか何処かの寺で煙を頭に擦り
付けてご利益を願うところがあるが、それと似たようなもんだろうか。仏教と一口に言っても不動明王や四天王が「主役」を張る密教、金閣寺の主足利義満
などが信仰した禅宗、日本史で一向一揆や戦国武将との武力衝突で表に出る浄土宗など色々ある。宗派が違えば寺ですることも大きく違うかと言えば、
「葬式仏教」と時に揶揄されるように日頃接する分には大きな違いはない。
 人が集う場所を通り過ぎて、建物の中が見える場所に向かう。金閣寺と違ってよく見えないが、奥の方に厳つい仏像が鎮座しているのが分かる。めぐみ
ちゃんは少し怯えた様子だ。四天王の時もそうだったが、不動明王などは大抵怖い形相だからめぐみちゃんが怯むのは無理からぬことだ。

「この不動尊は・・・石で出来てるのか?」
「ええ。石像だそうです。」

 奈良の大仏は木組に銅と水銀を流し込んで造られた巨大な鋳物だが、他で見るのは木像だ。石で造られた仏像は珍しい部類に入るだろう。コケらしい
ものが生えるほど長い年月を経ても表情が分かるあたり、不動尊の風格を醸し出すことに一役買っているように思う。人形や像には作り手の魂が宿りやすいと
いう。霊や魂の存在の是非はさておき、作った人も幾多の歳月と風雪を乗り越えて今も佇み続けるものを作れて満足出来るだろう。

「この神様にお参りする時は、どうすれば良いの?」
「お参り?・・・ああ、参拝か。」
「神社は再拝二拍手一拝が基本で、お寺は合掌−手を合わせることで良いのよ。此処では手を合わせる方ね。」

 めぐみちゃんが参拝を言い出すとはちょっと意外だ。鯉が放流されている神社に幼稚園で遊びに行く機会が多いそうだから、その際に神主や巫女さんが
教えているんだろう。宗教関連の幼稚園では関連する宗教の儀礼とかを学ぶらしいが、それとは多分違うだろう。キリスト教や仏教の幼稚園は割とよく
見かけるが、神社の幼稚園は聞いたことがない。

「お参りしていく?」
「うん。神様がお参りしていきなさいって言ってるように見える。」
「じゃあ、お父さんもお参りするからめぐみちゃんには降りてもらうな。」

 金閣寺の敷地内でさっきの茶所以外の場所で初めてめぐみちゃんを地面に降ろす。この辺は混雑してないから歩かせても良いんだが、急な階段もあったし
迷子になる危険性を考えてか抱っこしたままで居た。めぐみちゃんを降ろして腕が軽くなったというより、何か大きな穴が開いたように思う。抱っこが腕に
馴染んでいたんだろうか?
 不動尊に向かって右から俺、めぐみちゃん、晶子の順に並んで揃って合掌。願い事を心の中で言うところなのかもしれないが、適当なものが思いつかなくて
頭の中は漠然としている。願い事を叶えることが仏教の無数の仏の役割じゃないから、これでも良いだろう。

「めぐみ、きちんとお参りしたよ。」
「よしよし、自分から言ったことをきちんと実行して偉いな。」

 自分の参拝を俺と晶子を交互に見上げてアピールするめぐみちゃんに、俺は目を開けて合掌を止めてから腰を曲げてめぐみちゃんの頭を撫でる。小さい
ことだが、今まで自分で出来たことを両親に褒めてもらうことは恐らくなかっためぐみちゃんにとって、1つ1つ何か出来たことを褒めてあげることは大事な
ことだろう。何だかんだと将来の子育ての良い練習になっているな。

「めぐみちゃんは偉い偉い。」

 合掌を終えた晶子は、膝を曲げて微笑みながらめぐみちゃんの頭を撫でる。相手の視線に出来るだけ合わせるという晶子の基本姿勢がよく分かる。
子どもを自分の道具や捌け口とするんじゃなくて1人の人間として対等に見るという、人権意識か何かのお手本を絵に描いたような姿勢だ。本当に晶子は
良い母親になるだろうな。

「めぐみちゃんくらいの歳でお参りしたいって言い出すなんて、珍しいね。お父さんやお母さんもそうだけど、お参りはお正月の初詣とか決まった時しかしない
方が多いから。」
「おばあちゃんが、お寺や神社に行ったらお参りしようねって言ってるから。」

 おばあちゃんか。めぐみちゃんにランドセルを買い与えたのも確かおばあちゃんだったな。両親があんな調子だから、おばあちゃんが時々様子を見に
行ったり、逃げてきためぐみちゃんを匿ったりしてるんだろうか。めぐみちゃんの心の傷を抉る可能性があるから突っ込んだことは聞かないが、おばあちゃんが
良い人物らしいことは不幸中の幸いだ。

「おばあちゃんを大事にしようね。」
「うん。」

 めぐみちゃんが元気に返事をしたことで、晶子は再び微笑を浮かべる。この間ずっと晶子は膝を曲げてめぐみちゃんと最大限視線の高さを合わせた
ままだ。相手がめぐみちゃんでなくて自分の子どもでもこうするのは間違いないだろう。
 晶子は成長する中で子どもへの接し方や育児の仕方も教えられてきたんだろうか。「自分の子どもだから」と幼児の髪を染めさせて憚らない親や、「頼んだ
憶えはない」と払えるにもかかわらず給食費を払わない親が続々と市民権を得ている中で、晶子が親になるのは子どもには勿論望ましいが、晶子自身には
生き辛い足枷になるかもしれない。

「もっと見る?」
「ううん。他のところ見たいからもう良い。」
「じゃあ、今度はお母さんが抱っこするね。お父さん、此処までずっと抱っこして来たからお母さんに交代。」
「階段を下りるまでは俺が抱っこするよ。晶子は俺を誘導してくれ。」
「腕は大丈夫ですか?」
「まだまだ大丈夫。普段のバイトで鍛えられてるからな。」
「お願いしますね。」

 上りの階段がかなり急だったから下りの階段の傾斜が緩やかと思わない方が良い。晶子にそれなりの腕力があることは十分分かっているが、この先まだ行く
ところがあるし俺はまだめぐみちゃんを抱っこ出来る。晶子に交代するのはもう少し先で良い。晶子は俺が抱っこを続けることに異議を唱えない。晶子が
自分の主張や考えを頑として譲らないのは、俺との絆を深めたり強めたりするきっかけになる場合に限定されるからな。
 俺はめぐみちゃんを抱っこする。抱っこで腕に重みが増したというより重さが戻って来たという感覚の方が強いのは、それだけ抱っこが馴染んでいたから
だろうか。それにしても、俺が幼児を抱っこするなんてつい昨日くらいまで想像もしてなかったんだが、いざ実行してみると意外と色々出来るもんだ。

「そろそろ階段ですよ。」

 晶子のナビゲーションが入る。見た限りやっぱりかなり傾斜が急みたいだ。階段は上る時より下る時の方が危険が大きい。下る時に踏み外したり転んだり
すると一気に一番下まで真っ逆さまとなることもあるし、当然怪我の確率も高まる。めぐみちゃんを抱っこしている今、俺の責任は何時も以上に重い。
だけど、本当に将来晶子と子どもを持ちたいなら、こういった責任を避けていてはとても親をやってられない。
 いよいよ階段に差し掛かる。靴を挟んで伝わる石の感触と段差の有無を確認しながら、慎重に階段を下りる。下りた先が遠近法でかなり遠くに見える。
ぼやぼやしてると吸い込まれて転げ落ちそうな錯覚を覚える。この高さから転げ落ちたら俺もめぐみちゃんも洒落にならないから、直接足元を確かめる
センサーの足がしっかり階段を踏みしめているかを確認する。
 めぐみちゃんは俺のコートにしっかりしがみついている。めぐみちゃんも階段の落差が怖いんだろう。めぐみちゃんの分も重なる責任は、めぐみちゃんが
自分を委ねている俺を信頼していることの裏返しだ。時折入る晶子のナビゲーションを聞きつつ、あくまで慎重に階段を下りていく。

「あと10段です。」

 汗が服の下を流れるのを感じながら足を進めた時間の終わりは、直ぐそこまで迫っている。だが、俺1人なら飛び降りられるような数の段差は、今はとても
飛び降りられそうにないように見える。下り切るまでは過ぎるほど慎重になっても悪くない。晶子のカウントダウンを聞きながら、一歩一歩地面に近づく。
5、4、3、2、1・・・。

「はい、下りました。お疲れ様でした。」

 足の感触が石から砂利に変わり空白部分がないことを確認すると、思わず安堵の深い溜息が口を吐いて出る。階段を下りるのにこれほど緊張したり汗を
かいたりしたのは初めてだ。自分以外の誰かを伴う行動は、責任が2倍にも3倍にもなるな・・・。

「汗、凄いですよ。」
「早春にこんなに汗かくなんてな。」

 自分で汗が頬を伝うのも感じるほどだから、晶子から見ると相当汗が出てるんだろう。だが、不思議と悪い気はしない。責任を成し遂げた達成感というと
大袈裟かもしれないが、人1人の安全を護ったことには違いない。

「お父さん、凄い汗。」
「そんなに凄いか?」
「うん。顔に何本も流れてる。顔赤くなってる。」
「公園を何周も走ったわけでもないのにな。」
「汗をかいたままだと風邪をひきますから、これで拭いてくださいね。」

 晶子はスカートのポケットからハンカチを取り出す。晶子は外出する時にハンカチとポケットティッシュを必ず持つ。幼稚園辺りから持つように躾けられて、
今では癖のように何も考えていなくても持つようになったそうだ。俺も晶子に倣ってハンカチとポケットティッシュを持つようにしているが、ハンカチはトイレで
手を拭く時に使うからまだ気づきやすいが、ポケットティッシュは使う機会が滅多にないからよく忘れる。

「汗を拭くのも兼ねて、此処で抱っこを交代しましょう。この先は平地ですから。」
「じゃあ、頼む。」

 めぐみちゃんを晶子に渡して−ものみたいな表現だが−代わりにハンカチを受け取る。自分の分も持っているが、厚意に甘えて晶子の分を先に使わせて
もらう。晶子は日用品に関しては見た目より実用性を重視する。ハンカチでは水分を吸収しやすいタオル生地で、柄は無地が大半であってもワンポイント
程度といたってシンプルだ。
 顔を流れる汗は晶子のハンカチだけで十分拭える。まだ吹き出てくるがきりがないから拭くのを止めて、拭いた面を内側にするように折り曲げ直す。
晶子は俺に代わってめぐみちゃんを抱っこしているから、当然手が塞がっている。渡すのは後で良いな。

「この先の経路は祐司さんが案内してくださいね。観光案内は私のコートの右ポケットにあります。」
「ついでって言うのも何だけど、借りたハンカチを入れておいて良いか?」
「ええ、そうしてください。」

 こういう時「手渡しでないと」とか妙な駄々をこねないのは晶子らしい。俺は丁度自分の左側にある晶子のコートの右ポケットに手を入れて観光案内を
取り出し、代わりに借りたハンカチを入れる。観光案内を早速開いてページを捲る。えっと・・・金閣寺のページはっと・・・。あいうえお順に並んでいるから
探しやすい。
 観光案内を持つのは殆ど晶子だったから今まで知らなかったが、名所や施設によってページ数が異なる。有名どころは当然と言おうかページ数が多い。
金閣寺は見開きで定番の角度から撮影された写真や、今日見た四天王像など歴史や内部を紹介して、次の見開きに敷地一覧のイラスト風の地図と各所の
解説がある。今は階段を下りたところだから・・・、此処だな。

「此処から暫く歩くと、総門ってところが見えてくる。かなり大きい屋敷らしい建物や立派な庭があるそうだ。」
「『そーもん』って何?」
「えっと・・・禅宗、金閣寺も含む仏教の1つにおける寺の表の門のことを言うそうだ。」

 少しでも聞き慣れない単語が登場すると、直ぐにめぐみちゃんの質問が飛んで来る。何だか本配属希望で仮配属中の研究室の週1のゼミとよく似ているな。
誰の番かを問わずテキスト−ちなみに全て英文−を読んでいると、重要だったりそうでなくても基本的なことでゼミを主導する学部4年が「此処は」と思った
ところで「これはどういう意味か」「どのようにこの公式を導き出すのか」といった質問が出される。答えるのはまず読んでいる人で、その人が答えられない
或いは十分な答えでないと無作為で別の人が指名される。時間の関係で2、3人答えられないと学部4年がホワイトボードも使って詳細を説明する。
 当然予習をしておかないと本文で出てくる単語や定義については答えられない。表層的な−例えば「フーリエ変換(註:時間tで定義される関数yを周波数
成分に変換する定理で、ディジタルの電子回路や信号処理における基礎的且つ必須の定理)」とだけ答える−回答だと、「それを使って定理の証明を」
「この定数は何か」と細部を突っ込まれてたちまちアウトと相成る。「これはここをこうすることでこうなる」と筋道立てて説明することが要求される。
 めぐみちゃんはそこまで厳しくないが、無意識に繰り出してくるから不意を突かれて慌ててしまう。総門については観光案内の説明に書いてあったから、
それを一部めぐみちゃんに分かるように噛み砕いて言った。子育ては毎日がこういうことの連続なんだろうか?

「これ、金閣寺本体より大きな建物だぞ。」

 晶子とめぐみちゃんに観光案内の見開きを見せて、総門以降に控える屋敷を指差す。色で比較すると金と黒褐色で不利だが、規模は屋敷の方がずっと
大きい。何十階と高く聳える高層建築と平屋で横に広い邸宅とでは、同じ場所に建てられていると仮定すると後者の方が不動産としての価値は高くなる。
元々の土地がアメリカや中国などより狭いのに人口密度が高い関係で土地信仰が根強い日本では、所有する土地の広さが不動産の価値を決定する大きな
要因だからだ。俺が父さんと一人暮らしを始めるために不動産屋を回って説明を受けた時も、築年数と面積で物件の値段がかなり決まってくると感じた。
単純に平屋だから貧乏だと言うのは大きな間違いだ。
 新京市は市町村合併で出来た割と新しい市で、俺と晶子が住む胡桃が丘は新興住宅地だから宅地の面積は割と平均的だ。区画整理と宅地整備を経て
更に住宅が建てられて販売されるからだろうが、新しく出来た区画や家ほど建物が似通っている。切妻屋根の日本家屋より欧米のようなコンクリートを
組み上げたような洋風建築の方が多いのも特徴だ。
 一方、新京大学がある地域−町名である「新京」が大学の名前の由来でもある−や合併前の町村では、建物も大きいが敷地が新興住宅地のものより格段に
広いことが多い。代々その土地に住んでいたようで、家屋も大半は日本家屋で階を増すにしても2階まで。1階、言い換えれば平屋でも十分建て増し出来る
土地の広さがあるから、上に積み重ねる必要はないのもあるようだ。
 昔からの住宅だと庭がいかにも日本庭園といった佇まいの広大なもので、庭の向こうに平屋の屋敷というべき住宅が鎮座している。大学の研究棟や
講義棟の上層階から展望してようやく全貌が分かるくらいだ。多くが農家だったから自分の家族が食べていけるだけの食料を確保できる土地は持っている
だろうし、昔は「大きな家=平屋で水平方向に広い家」が普通だったんだろう。次に控える方丈という屋敷も、土地がふんだんに使えた時代ゆえの遺産と
言えると思う。

「かなり広いみたいですね。」
「ホントだー。いっぱいお部屋ありそう。」
「昔の家だから・・・どうだろう?1部屋で畳10枚分以上とか、普通にあるかもしれないな。」

 家の広さに比例して間取りも潤沢になる傾向がある。俺が晶子と事実上一緒に住んでいる家は8畳のリビング−といえる代物じゃないが−と4畳半程度の
キッチン+ダイニング、それに風呂トイレで1LDKという間取りで、晶子の家があるマンションもキッチン+ダイニングが6畳相当と広いこと以外は俺の家と
ほぼ同じく1LDKの間取りだ。単身者向けだからそれだけあれば十分だろう。
 人数にもよるが、家族となると1LDKでは手狭に感じる。寝る場所と食べる場所以外に服や食器も人数分必要になるし、それらを収納する場所も必要に
なる。晶子は今のところ週1回くらいのペースで自宅マンションに着替えなどを交換に行っている。本当に一緒に暮らすとなると引越しを前提にするのが
無難だろう。
 後期試験の合間、主に昼休みに生協の店舗で賃貸住宅の情報誌を見たことがある。生協が斡旋することで仲介料などの一部が生協に入るし、学生などは
通常の不動産価格より割安で入居出来るし、貸主も学生相手だと数年単位でローテーション=敷金礼金が入って得というシステムだ。そんな関係で大半の
物件は賃貸で単身者向けの間取りだったが、偶に中古の売却物件がマンションや住宅で載っていた。若手−給料の基本は年功序列らしい−で世帯を
持った教職員向けだろう。そこでは3LDKや4LDKといった間取りが主流で、リビングが10畳以上あった。その時はこんな物件もあるのかという程度の認識で
眺めていただけだったが、将来晶子と一緒に暮らして更に子どもを儲けることになれば、それくらい必要になるだろうな。

「結構距離があるな・・・。晶子、抱っこが辛くなってきたら言ってくれよ。」
「はい。階段を上り下りすることに比べればずっと楽ですから大丈夫ですよ。」

 晶子の心強い発言を受けて、俺は道案内をするため歩き始める。道案内といっても次の目的地までの経路は迷路でも何でもない。落ち着いた雰囲気の
広い並木道だ。地図を見る限りでは2回道に沿ってカーブを曲がれば屋敷に辿りつくようだ。迷路にしたら後世の観光もそうだが、実用に造られたものなら
使う人、特に訪ねて来る人が来るたびに大変な目に遭わされる。毎回迷路を通らされてはたまったもんじゃないだろう。
 階段を上る前と夕佳亭周辺では人が少なかったが、階段を下りて歩いていると人数が再び増してくる。金閣寺を見て次、という修学旅行を含むツアーの
団体客だと避けられない事情だと、金閣寺から順に見るものという固定概念が尚更出来やすくなるだろう。地図を見たところ確かに金閣寺は目玉ではあるが、
正確には鹿苑寺というこの寺は金閣だけじゃない。建物の規模からすれば次に見て回る方丈がメインだ。解説を見ると、金閣寺は舎利殿、すなわち釈迦の
骨である仏舎利を祭った建物で方丈が職務を行ったり生活をしたりする実務的な建物とある。俺も今回こうして晶子と京都に足を運ばなければ、金閣寺には
金閣寺しかないと思ったまま過ごしただろう。

「今の金閣寺には、誰が住んでるのかな?」

 方丈への道を半分ほど進んだところで、めぐみちゃんが尋ねる。金閣寺が建設された時は当時の将軍足利義満が居ただろうが、今はどうなんだろう?
観光案内の出番だ。指を栞代わりに挟んでおいたから金閣寺のページは直ぐに開ける。えっと・・・、うーん・・・。臨済宗相国寺派の寺とは書いてあるが、現在
誰が住んでるのかまでは書いてないな・・・。

「この本には書いてない。お父さんも知らない。」
「寺院ですから、どなたか住職さんがいらっしゃると思います。」
「『じゅーしょく』って?」
「寺で生活しているお坊さんのことだよ。」

 晶子の言うとおり、金閣寺はれっきとした寺だから住職は居るだろう。寺といえば・・・鐘はあるのか?ふと浮かんだことが気になって、観光案内の地図を
見る。・・・あるな。方丈がある敷地に鐘楼が存在する。

「お父さん、何か見つけたの?」
「寺って言葉で鐘があるのかと思って探してたんだ。きちんとある。」
「鐘って、大晦日に鳴る鐘のこと?」
「そう。此処でも大晦日に鐘が撞(つ)かれるんだなって。」

 除夜の鐘は大晦日の日本の風景だが、俺自身は自分の目で鐘が撞かれる様子を直接見たことはない。専らテレビのみだ。闇の中であるところは一面の
雪化粧を背景に、あるところは空以上に黒い森を背景にして鐘が撞かれるのを見ていると、今年も終わりなのかと少し感傷的な気分になる。
 新京市で一人暮らしを始めてからの年越しは、感傷より間もなく訪れる新しい年を待ち遠しく感じる気持ちの方が大きくなった。晶子と付き合い始めた
年は俺の家で倉木麻衣のカウントダウンライブ中継を見ながら年を越した。翌年は俺が成人式での約束を果たすために帰省したから、年明けに新京市に
戻る−実家には「行く」という感覚になっていた−ことが楽しみだったし、それまで殆ど晶子と一緒に過ごしていたから寂しい思いをさせている分約束を
果たしたら早く帰りたかった。3ヶ月ほど前の昨年の年越しは飛び込みで入った高校時代のバンド仲間との一足早い卒業旅行で、今思えば偶然2年前と
同じく倉木麻衣のカウントダウンライブ中継を見ながら晶子とバンドの面子と共に年越しをした。今年は・・・どうなるんだろう?

「お父さんとお母さんは、大晦日に鐘を鳴らしたことある?」
「お父さんはないなぁ。テレビで見たことはあるけど。」
「お母さんもまだないわよ。お父さんと一緒でテレビで見たことはある。めぐみちゃんは?」
「めぐみもない。近くにお寺があるからテレビじゃなくても音が聞こえてくる。」

 遠足で金閣寺に来たことがあると言っていたことからめぐみちゃんは京都に近いところに住んでいると推測しているが、どうもその推測は少なくとも「当たらず
とも遠からず」のようだ。寺は新興住宅地の中にはまずない。昔からある町だとその町の住人を檀家としてある意味束ねる寺がほぼ必ずある。京都は寺の数に
不自由しないし、幼稚園で定期的に遊びに行くほど神社が身近な存在だから京都近辺に自宅があると考えられる。
 大晦日に除夜の鐘を直接聞く、か。一番その可能性に近かった去年の年末年始の旅行では俺と晶子はスキーに行った面子とは別行動で終日観光だったが、
町並みは昔ながらのものでも神社や寺には行く機会がなかった。終日街中を歩き回ることを何回か繰り返したとは言え行ける範囲は限度があるし、コースに
とらわれない完全自由行動でも無意識に迷わないようにと思うせいか、極端に狭い脇道に入ることは殆どなかった。年越しは当然の流れで面子と一緒
だったが、少し足を伸ばせば自分の眼と耳で直接除夜の鐘を撞かれて鳴るところを見聞き出来たかもしれないな。

「大晦日に鳴らされる鐘のこと『除夜の鐘』って言うの。108回鳴らされるんだけど、めぐみちゃんは108回全部聞いたことある?」
「ううん。途中で眠くなって寝ちゃう。おばあちゃんも無理に起きてなくて良いって言うし。」
「おばあちゃんと年越ししてるの?」
「うん。夏休みとお正月と5月のお休みの時は必ずおばあちゃんの家に行く。おばあちゃんは来て良いって言うし・・・。」

 めぐみちゃんの口調が鈍くなってくる。おばあちゃんの家がめぐみちゃんの家からどのくらいの距離のところにあるのかは分からないが、少なくとも年3回は
行っているところからするにさほど遠くないところにあるようだ。おばあちゃんはそれを利用して言い争いが絶えないめぐみちゃんの家からめぐみちゃんを
「脱出」させてるんだろう。緊急避難場所としておばあちゃんの家は十分機能しているようだしおばあちゃんとの仲は良好らしいからその点は問題ないが、
友達と遊んだりしたい時に離れなきゃならないのはめぐみちゃんにとって辛い部分があるだろう。

「108回全部聞くのは、めぐみちゃんが大きくなってからね。お母さんも小さい頃は全然聞けなかったよ。」
「今は聞けるの?」
「んー。聞けるくらい夜遅くまでは起きてるけど、テレビ見てないから聞いてない。」
「108回鳴ることは、やっぱり本を読んで知ったの?」
「そうよ。分からないことや知らないことはいっぱいあるし、本を読むことで分かることがあるの。分からないことや知らないことを調べるためだけに本を
読むんじゃなくて、昔話とか有名な作家さんの本とかも読むよ。お母さんは本を読むのが好きだから。」

 晶子もめぐみちゃんの家庭事情を察したのか年末年始をおばあちゃんの家で過ごすことについてそれ以上言及せず、108回除夜の鐘が鳴ることを中心に
据える。
 晶子は噂話や陰口といったことを嫌う。人目も憚らずめぐみちゃんを怒鳴り散らして挙句の果てに醜い口論まで展開したあの両親は甚だ問題だが、だからと
言ってめぐみちゃんの前で両親を批判するのは控えるべきだ。ましてや悪口や陰口を言うのは絶対に避けなければならない。
 親の禁則行為に挙げられるものでは過干渉が代表的だが、片方の親がもう片方の親の悪口を子どもの前で言うことも、してしまいがちだが紛れもなく禁則
行為だ。片方の親が一方的な視線で延々と子どもの前でもう片方の親の悪口を垂れ流すことは、子どもが悪口を言われている親を軽蔑したり嫌悪したりする
ようになる。更に悪口を言うことがコミュニケーションの手段として当たり前と位置づけてしまうこともある。
 地方の過疎化が言われて久しい。過疎化の原因としてその地域に職業がない、言い換えれば就職口がないことがよく挙げられる。それは勿論大きな要因
だが、ムラ社会と称される人間関係に嫌気が差して若年層が出て行って戻らないことも重要だ。隣に誰が住んでいるかも分からない都会の人間関係を
「希薄」と批判し、それとの比較として地方の人間関係を「緊密」することもよく行われているが、緊密の意味を履き違えている場合が多い。
 ムラ社会では様々な理由で目に付いた人が噂話や悪口の標的にされる。結婚や進学・就職といっためでたいことならまだしも、離婚や病気、失業など
知られたくないことは格好の標的だ。夜勤や自由業などその地方では馴染みがない職業もそうだし、車を変えた、家を買ったといった知らなくても良い
個人的なことまで知ろうとする。向こう三件両隣どころか友達の友達や親戚の親戚まであらゆることを知っていて、その認識の範疇を超える存在や状況が
噂話や悪口・陰口の標的にされる。
 集落ほぼ全てが農家だった時代は広大な土地の耕作で協力関係なしではやっていけなかっただろうから、そういった人間関係の構築はやむをえなかった
側面はある。だが、農業だけで生活出来る時代じゃなくなり−農政の問題もあるがこれは別の話−兼業農家の比率が増えて農家でない人の比率も増えた
所謂「戦後」では、個人のプライバシーや価値観が重視されるようになったことで従来の人間関係は敬遠されるようになる。若年層になればなるほど顕著だ。
進学や就職で住み慣れた地方を離れ、噂話や悪口・陰口がコミュニケーションの手段とされる人間関係とは別世界のものと知ると、そんな人間関係の社会に
戻りたくなくなる。
 高校まではスポーツの強豪は別として、殆どは地元の人間関係が継続される。以降の進学や就職でそれまでの人間関係から脱してみると、特に地元で
圧殺される立場にあった人は地元に帰りたくなくなる。俺は幸い高校までの友人関係に恵まれてきたが、苛められたり学校の人間関係の序列で下位の方
だった人は言わばそれまでの人生をリセットするために進学や就職で地元を離れ、一挙に花開く場合もある。それだと尚更社会的立場では序列が変わった
にもかかわらず、過去の学校での人間関係そのままの意識で接されることには耐えられない。
 学校の人間関係、特に女性の場合は噂話や悪口陰口で成立していることがままある。悪口や陰口が当たり前の環境が標的にされた人を特に精神的に圧殺
するのは間違いない。聞かされる側はそれが当たり前と思っている環境でないと良い気分はしない。標的にされた場合は当然言われたくないから、悪口や
陰口で成立する人間関係に加わらない。すると更に人間関係の「緊密化」と疎外の二極化が進む。一度疎外されるとその場に加わることは非常に困難だし、
そんな苦労を家に帰ってまで背負いたくないと思うのが普通だ。
 田舎暮らしは都会と違って人間関係が緊密で良いと言われるが、一方でその田舎では小説やドラマの世界をそのまま事実にしたような村八分や権力争い、
緊密なようで昔からの人物以外を排斥しようとする呆れた人間関係や風習がまかり通っている。それを改善しない限りは、幾ら地価が安かったり税金が優遇
されたりすることで企業が進出して就職先が増えても過疎化の抜本的な解決には至らないだろう。

「どうして除夜の鐘は108回鳴らすの?」
「色々な説があるけど、代表的なものとしては人間の煩悩−こういうものが欲しいとか必要以上に思ったりすることを言うんだけど、それが108個あるからという
説と、1年が12ヶ月あることと季節の表現が1年で24個、それをそれぞれ3回に分けたものが全部で72回あるから12+24+72=108、つまり1年全てを表している
っていう説、それと四苦八苦−兎に角苦しい状況のことを言うんだけど、それを取り除く意味で4×9+8×9=108回鳴らすっていう説。この3つがあるのよ。」

 除夜の鐘と聞いて湧き上がってくる疑問、すなわち何故108回撞かれるのかというめぐみちゃんの疑問に、晶子は予想外に詳しく説明する。煩悩が108ある
からその分撞くという説は俺も聞いたことがあるが、他の2つは初耳だ。季節の表現っていうと立春とかそういうものだろうが、それって1年で24もあるのか?
数えたことがないから分からないが、晶子はこういう時に嘘を言うタイプじゃないからそうなんだろう。初耳の2つは語呂合わせに近いが、計算してみると
確かに108になる。誰が考えたのか知らないが上手いこと考えるもんだ。
 めぐみちゃんは頻りに首を傾げる。108という数そのものは理解出来るようだが−そうでなかったら108をまず聞く筈−、足し算はまだ出来ても一桁くらい
だろうし掛け算や足し算との組み合わせは未知の領域だろう。その計算の仕方から教えるとなると散策を止めて青空教室を始めないといけなくなる。
俺は進級を確定させた大学の4年で教員免許取得に必要な講義を受ける予定だが、それで取れる免許は工業だし教育学部のように教員課程じゃないから
上手く教えられるか怪しい。教員免許を持っていても教師の資格はないと確信出来るようなとんでもない教師も中には居るもんだが。

「お母さんが言った中で算数の力が必要なところはめぐみちゃんが小学生になったら学校で教わるから、今のところはお母さんが言った計算をすると108に
なるってことを頭の何処かに入れておけば良いわよ。」
「うん。分かった。」

 めぐみちゃんが幼稚園児とは言え見下した態度を取らないのは、晶子がめぐみちゃんを年下だからなどという先入観や上下の意識を超えて1人の人間と
して扱っている証拠だろう。親になるためにはこういう態度を取れることが必須なんだが、身体や知識だけ大きくなって精神年齢は子どもかそれ以下という
情けない大人が居て、そういう大人ほど結婚や出産を安易に捉えやすいんだよな・・・。めぐみちゃんの事例を目の当たりにしている今、本当に親になるために
免許制を導入した方が良いんじゃないかと思う。

「煩悩が108個あるからっていう説は俺も聞いたことあるけど、他のは初めて聞いた。」
「季節の表現で1年を表すものと四苦八苦を取り除くためのものですね?語呂合わせでもよく出来ていますよね。」
「計算してみたら確かにそうなるからな。よく出来てると思う。」
「お父さんも知らなかったの?」
「ああ、お母さんがさっき言ったことで初めて聞いた。お父さんとお母さんが大学で勉強していることは違うからお父さんが知らないことでもお母さんは知ってる
こともあるし、その逆もある。お父さんとお母さんは何でも知ってるわけじゃないからどちらも知らないってこともあるんだ。知らないことを知ろうとするのが勉強
なんだ。」
「お父さんの言うとおりよ。知らないことを知るために、知ってることをもっと詳しく知るためにお勉強するの。そのために皆はめぐみちゃんも4月から入学する
小学校から中学校へと進んで、更に勉強したい人やする必要がある人は高校や大学や専門学校でもお勉強するの。」

 晶子は俺を巧みにフォローしつつ、これから先の勉強人生が本来楽しいものだと教える。進学先にもよるがテストで良い点を取ることが勉強の目的と思い
がちだし、それだと勉強は単なる作業でしかなくなる。小学校から段階を追って物事を理解していくことで以降の進学を自分に合ったものに合わせられるし、
興味は1つの方向に深化するだけじゃなく多方面に広がる。
 理解の仕方を学ぶ過程で一連の作業の繰り返しをすることもある。中学の数学で習う因数分解や連立方程式を解くのもそうだし、めぐみちゃんを待っている
小学校だと足し算や引き算の仕方を繰り返すこともそうだ。算数や数学でそういったルーチンワーク的な作業が多い傾向があるが、その作業を取得することが
目的と思いやすい。算数や数学が嫌いになる人が多いのは、何のために数式の解き方を繰り返さなきゃならないのかと反発めいた意識を抱きやすいのもある
ようだ。
 因数分解や連立方程式の解き方などは確かにその時は覚えるしかない。だが、高校大学と進むにつれて、そういった作業が身体に染み付いていないと
とてもやっていられない事態に直面する。義務教育での算数や数学の知識がないことには、高校で学ぶ微分積分や行列計算は到底出来ない。そして微分
積分や行列計算が出来ないことには理数分野の専門課程を理解出来ない。俺が在籍している学科だと、微分積分が解けないことには積分で定義される
電磁気分野はまったく手がつけられないし、行列計算が出来ないと画像の拡大縮小は理解出来ない。大学で学んだ知識も以降の仕事で取り組む分野の
バックボーンだから、基盤が出来ていないことには専門分野に携わるどころの話じゃない。
 数学と理科は好き嫌いがはっきり出る上に嫌いになる方が多い教科でもある。高校までだと実際の生活との関連性が分からないことが多くて、考え方や
学ぶ目的が分かるより先に放棄するのはある意味自然だ。理解出来ないこと、しかも単純作業の繰り返しをしたくないと思うのもある意味自然だ。だから、
暗記すればひとまずテストや受験をやり過ごせる方に学生は流れる。理系より文系、物理より化学や生物というように。

「お父さんとお母さんは、これからもお勉強するの?」
「学校での勉強はあと1年くらいで終わりかな。でも、お仕事するにしてもそのお勉強をするから学校を出たらお勉強しなくて良い、っていうのは、お母さんは
賛成出来ないな。」

 今後更に勉強するかどうかは、俺の進路に関係することでもある。院進学はないから別として、就職のためには筆記試験がある場合が多い。公務員試験と
なれば必ずある。就職したらその関連の勉強が必須になる。追試なんてないから学校の勉強より厳しい。学生実験担当の教官が俺だけを残して数問質疑
応答を済ませて、学生次代に勉強する習慣が出来てなくて社会に出たらドロップアウトは必然だろうと言っていた。そのとおりだと思うし、学生実験は手順や
目的がひととおり説明されているのにそれすら手抜きで済ませていたら、仕事なんて満足に出来ないだろう。
 大学生活の最後を締めくくる卒業研究も勉強の連続だ。1年という限られた期間で卒業論文を形にしないといけない。そのために取り組むテーマの目的を
把握して実験のスケジュールを組んで進める。必要な知識や技術を取得するために幾つも専門書を読み、時にはCAD(註:Computer Aided Designの略。PC
での設計の総称)で製図したり半田付けをしたりする。一方で研究室全体の行事である週1回のゼミに今度は主催する側で臨む。3年の仮配属時は極端な話
分からなくても最後は「まあ良い」で流されたが、主催する側になったらそれでは済まされない。より自主的に取り組む必要がある。
 卒業研究は必須教科だから取りこぼしは出来ない。卒業論文の完成が事実上卒業の最後の関門だから、卒業論文なくして卒業はない。いかに学部4年に
使えられると困るとは言え、卒業論文も出来てないのに卒業させるわけにはいかない。最初から最後まで教えてくれるなんてことはないから、自分で計画
立てて進めないと結果的に自分の首を絞める。3年までは自分の留年だけで済んだが−これでも相当重大だが−卒業出来ないと院進学も就職も出来ない。
内定していても辞退せざるを得ない。留年よりはるかに傷は深いし治療は容易じゃない。
 とは言え、3年まで卒業研究に必要な全単位を取得した身としては、卒業研究に専念出来るからかなり楽だ。特に必須教科を全部押さえてあるのは大きい。
選択教科はそこそこ幅があるから苦手なものは捨てて得意なものを取るという選択肢が取れるが、必須教科は文字どおり卒業に必須だから1つでも取り
こぼしがあると卒業出来ない。当然といえばそうだが、卒業を控えた年に崖っぷちの材料を抱え込むのは心理的にも負担になる。
 俺は受講した全講義の単位を取れた。これは自分だけの成果じゃない。晶子が生活面をしっかりサポートしてくれたからだ。実験で遅くなっても温かくて
美味い食事が待っている。1コマ目から講義があって朝が早くても食事を摂れる余裕があるように起こしてくれるし、食事も作ってくれる。その代わりが
俺の家に通う若しくは住み込むことと買い物を一緒に行くことなんだから、ありがたい。春休みで実家に帰ることがまったく思いつかず、新婚旅行と銘打った
2人きりでの長期旅行に出かけることを決めたのは、晶子との生活がある胡桃が丘のアパートの1室が俺の帰る場所だという意識が完成しているからだろう。

「大晦日には、次に見る鐘も鳴るの?」
「日本全国のお寺がほぼ同時に鳴らすから、勿論鳴らすと思うよ。」
「鳴らすのを見る人、やっぱりいっぱい居るのかな。」
「いっぱい居ると思うよ。普段でもあれだけ混み合ってるくらいだから。」

 幼稚園の遠足で来るくらいの地元とは言え、大晦日に午前0時を超えて起きているのはめぐみちゃんくらいの年齢だと難しい。早寝早起きの習慣を崩すと
簡単に夜型になるし修正が難しい。学校へ行くことを考えると夜型の生活は好ましいことじゃない。大学は自分の責任で講義を休んでも良いが、高校までは
出席日数が重要だし遅刻は良くない。遅刻をしないためにも早めに寝る習慣をつけておいたほうが良い。
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