雨上がりの午後

Chapter 236 臨時親子の旅日記(5)−金閣寺境内巡り(1)−

written by Moonstone

 復路も混み合っている金閣寺を出る。外は団体客が大勢居る。大混雑というほどじゃないが、金で覆われた有名な建物をその目で見て瞼の裏に焼き付け
ようとしているようだ。バスガイドらしい小さな旗を持った女性に先導されて動く客は多い。これが桜や紅葉の季節になると、更に凄いことになるんだろうな。

「さて、ここからどうするかだな。」

 俺はめぐみちゃんを抱っこしているから時間を確認出来ないが−携帯を持つようになって専ら時間の確認は携帯でするようになった−、まだ空は一面
青だ。時間は十分あるから他にも行けるなら行っておきたい。
 ここは明日の昼までくらいがタイムリミットであろうめぐみちゃんの希望を優先したい。俺と晶子はまだ明日以降もあるが、めぐみちゃんはそうもいかない。
あの両親が何を考えて京都に来たのか分からないが、めぐみちゃんが幼稚園児で遠足で京都に来たことがあると言うから、京都市内か隣接の市町村だと
考えられる。学校行事の移動範囲は、年齢に応じて拡大していく傾向にある。
 それに両親を連行しに来た警察も、最寄の児童相談所と連携するとか言っていた。行政の中でも警察は縦割り意識が特に強い方だ。都道府県警察
レベルは勿論、各市区町村の警察署でも此処までは自分達の縄張りという妙な縄張り意識があって、所謂「ネズミ捕り」でも警察の縄張りを越えるとそれ以上
追ってこないという話はよく聞く。そこから考えても、めぐみちゃんは京都にかなり近いところに住んでいると考えられる。だが、あの両親が警察に一晩かけて
絞られたからといって、即座に改心するとは限らない。人の目が届かなくなったところで元に戻る可能性のほうがむしろ高い。情けない話だが、あの両親なら
十分ありえる。だから、めぐみちゃんの希望を優先させたい。

「めぐみちゃんは、もっと金の建物見ていたいか?」
「他のところからも見てみたい。」
「他のところから、か。」

 めぐみちゃんの言いたいことは分かる。写真で見るような「よく見る角度」からじゃない、別角度から見たいってことだ。さて、どの辺から見れば良いやら・・・。

「結構庭は広いみたいだな。どの辺からにしようか。」
「写真とかでよく見る角度の点対称の位置、なんてどうでしょう?」
「それ良いな。それだと・・・向こうの方だな。」

 晶子が差し出した観光案内の地図を見て、「よく見る角度」の点対称となる位置に移動する。「巌下水(がんがすい)」という場所を通り過ぎて、「榊雲(しんうん)」
という祠みたいな場所も通り過ぎて庭園の西の端に行き着いたところで、改めて金閣寺の方を向く。来たときは逆光っぽいアングルだったが、今は太陽を
後ろにしているから、金閣寺の金がより輝きを増して見える。

「うわー!金色が今までより凄ーい!」

 めぐみちゃんの興奮が再び高まる。この年代の子どもって、折り紙とかでもそうだが金色や銀色を別格に見るんだよな。大人になっても金や銀をめでるのは
そういう人達の頭の中が子どもと同じだからか、或いは人間の本能なのかは分からない。

「お日様の光をさっきまでよりたくさん受けて跳ね返してるからね。」
「夕暮れ時とかだと、金色に赤が混じったりするだろうな。」
「今日は天気が良いですから、夕暮れ時は絶景でしょうね。」

 観光地は大抵昼に回る。夜景を見せる場所だと当然夜がメインになるが夜景は神戸や函館の方が有名だし、京都は夜景を構成したり眺めたりするほど
土地の隆起が少ない。盆地だし、夜に派手な電飾を灯す町でもないし。

「夕方まで見るか?」
「ん・・・。金の建物はいっぱい見たから、他のところも見たい。」

 意思を最優先すべきめぐみちゃんは、金閣寺敷地への滞在を避けて観光の継続を選択する。興味がたくさんあったとは言え、ずっと見ているより他の
場所も見たいと思うのは自然だ。

「・・・良い?」
「ああ、勿論。お母さんもそうだろ?」
「ええ、勿論よ。今日の観光はめぐみちゃんが主役なんだから。」

 晶子は上手く話を合わせてくれる。俺が自分よりめぐみちゃんを優先させることにやきもちを妬くんじゃないかと思ったが、そのあたりは心配無用だったか。
めぐみちゃんが遠慮するのは、想像するだけで十分児童虐待・育児放棄と判断出来る環境下で生活してきたから仕方ない。慣れるのとタイムリミットを迎える
のとどちらが先かは分からないが、今を楽しむことを優先しよう。めぐみちゃんも、俺も晶子も。

「次に行きたいところは、何処かな?」
「んっと・・・。名前が分かんない。」
「それはそうか。うっかりしてた。お母さんに写真を見せてもらおう。」
「はい、これよ。」

 晶子が観光案内をめぐみちゃんに渡す。晶子が広げて見せるよりめぐみちゃんが直接ページを捲って写真を見て選んだ方が楽しいだろう。分からない
読みや漢字があればその都度俺や晶子が教えれば良いことだし。

「んっと・・・。」

 めぐみちゃんは真剣な面持ちでページを捲る。ページを進めるだけじゃなく不規則に戻ったりする。こっちの方が良いかなと比べているんだろうか。

「あ、これ凄い。カッコ良い。」
「ん?どれどれ。」

 めぐみちゃんが広げて見せたのは、清水寺を斜め前から捉えた写真だ。絶壁のような柱の組み合わせの上に建つ巨大な建物は、周囲や遠くの景色との
コントラストで際立って見える。

「ああ、清水寺か。」
「有名どころですね。此処に行きたい?」
「うん!」

 めぐみちゃんは元気良く返事をする。金閣寺のようなぱっと見の派手さはないが、有名な「清水の舞台」から見る景色はめぐみちゃんにはかなりの迫力の
筈だ。高所恐怖症だったら怖くて泣き出すかもしれないが、その時は速やかに撤収だな。

「入れる時間って何時までだ?」
「めぐみちゃん。御本貸してね。」

 晶子はめぐみちゃんから観光案内を受け取る。「自分が見るから返せ」と言わないあたり、晶子らしい。

「えっと・・・。午後6時までですね。今は・・・午後2時を少し過ぎたところですから、十分間に合いますよ。」
「そうか。良かった。」
「バスは・・・市営バスで行けますけど、乗り方に注意しないといけないようですね。」
「どうしてだ?」
「京都市営バスの路線図を見ると、交差点によって曲がる時はこの方向しか曲がらない場所があって、単純に経路を辿ろうとするとかえって遠回りになって
しまう場合もあるようです。」

 晶子は俺とめぐみちゃんに観光案内の1ページを見せる。折り畳まれていた路線図はかなり字が細かいが、交差点のいくつかは拡大表記されていて、
カーブ方向が描かれているものがある。大きい十字路なのに1方向しか曲がれないらしい場所もちらほら。車の波に飲まれて遅れやすいバスを少しでも
スムーズに走らせるためだろうか。

「意外とややこしそうだな。」
「いざとなったら、地図を頼りに歩けば良いですよ。」
「そうだな。」

 こういう時、俺と晶子の「原始人的」生活が威力を発揮する。俺と晶子が所有する交通手段は自転車と徒歩だけだ。駐車場は俺の居るアパートだと各戸1台
ずつ、晶子の家があるマンションだと2件に1件くらいの割合であるが、車は持ってないし持つ気もないから俺は空けてあるし、晶子は入居の際に別の
入居者に権利を譲渡したと聞いている。俺の場合は来客が滅多にないから−宮城も車は持ってなくて専ら電車で来た−、偶に同じアパートの人が来客用に
使わせてくれと頼んでくると快諾している。晶子は同時期に入居した女性が駐車場の使用権を得られたことで、凄く感謝されたそうだ。
 晶子が話してくれた経緯はこうだ。先に入居契約を済ませた晶子でマンションの駐車場がいっぱいになってしまった。少し遅れて契約した女性は車を
持っていて、近くに月極駐車場はないしマンション近辺は路上駐車禁止だしで困っていたところに、不動産経由で話を聞いた晶子が「自分は車を使わない
から」とその女性に譲渡した。
 車を持つ人には駐車場は必須条件だ。俺は詳しく知らないが、車庫証明がないと車の登録が出来ない、つまり違法所有になるそうだ。軽自動車だと多少
優遇措置があるらしいが、駐車場や車庫に駐車していない車は「好きに使ってください」と宣言しているようなもんだ。盗まれたり部品を取られたり−車上
荒らしが結構増えている−しても文句は言えない。駐車場の空きはないし、キャンセルはまずないと不動産に言われて困惑していたところに、晶子から
無償で譲渡されたんだから、その女性にしてみれば「天の助け」だっただろう。事実その女性からは入居後に実家がある地域の特産という菓子折りが本人から
届けられ、今でも顔を合わせる度に礼を言われるそうだ。
 俺が駐車場を貸す時にも頻りに感謝される。車1台持つか持たないかで便利さは大きく異なるが、確保するための場所や資金はそれなりに必要だ。俺は
車に興味がないし、必要もないと思ってる。晶子も同じだ。そうでなかったら付き合ってられない。俺の場合、月々の家賃に駐車場代が含まれる。月5000円
だから年換算で6万円をどぶに捨てている計算になる。だからと言って駐車場を又貸ししたり、借りに来る人に請求したりといったことはしない。自分だって
何時必要になるか分からないから−引越しや車で来る来客が今後ないとは限らない−その時のために確保しておく。保険のようなものだ。
 京都はかなり広い。大抵の通りは東西か南北に直線を描いている所謂「碁盤の目」だから、曲がる交差点を間違えない限り割と目的に行きやすい作りだ。
そんなこともあって「歩いていけば何時か着く」という極めて楽観的な考え方が出来る。

「今から直ぐに清水寺に行きます?それとも此処の圏内をぐるっと一周します?」
「他にも見る場所ってあるのか。」
「ええ。結構広いですよ。」

 晶子が金閣寺の別のページを広げる。金閣寺を含む敷地の略図で、それを見ると金閣寺は広大な庭園の一部分でしかない。奥の方は階段になっている
らしくて、かなりの段数を上らないと上に行けないようだ。

「奥にも色々あるんだな。」
「階段があるみたいですけど。」
「毎日のバイトや週末の買い物で慣れてる。めぐみちゃんはどうしたい?」
「んっと・・・。見てみたい。」

 少し考えて、めぐみちゃんは金閣寺のある敷地全体を見て回る方を選択する。めぐみちゃんも金閣寺のある場所は金閣寺しかないものと思っていただろう
から、他にどんなものがあるのか見てみたいだろう。

「晶子は?」
「私も見てみたいです。けど、祐司さんは大丈夫ですか?めぐみちゃんの抱っこ。」
「まだまだ大丈夫。」

 晶子と抱っこを替わってからそれなりに時間は経ったが、腕の痺れや疲れは殆ど感じない。日々のバイトで料理を素早く幾つも運ぼうと複数の皿や鉄板を
持って、キッチンと客席を移動しているせいだろう。それに、この混雑で身長と歩幅が周囲と大きく差があるめぐみちゃんを歩かせるのは危険だ。俺と晶子が
めぐみちゃんに合わそうとすると、当然歩く速度は遅くなる進みも鈍る。周囲は年配の客が多いが少なくともめぐみちゃんよりは歩幅も大きいし、足の回転も
速い。となると、めぐみちゃんを加えた俺と晶子が人の流れの邪魔になり、渋滞やイライラを引き起こす。
 混雑で渋滞が厄介なのは勿論だが、イライラの方が一触即発の危険が高い。しかも年配でもそのイライラを爆発させる。「年季に応じて」「年甲斐もなく」と
いう表現が通用し難いが、かと言って此処の性格をその都度見極める余裕はないのも事実だ。そうなると、イライラの原因を自分達が生じさせないように
回避策を執るのが妥当だ。周囲から見れば、乳児じゃなくそれなりに大きくなった子どもを歩かせないのは甘やかしだの何だのと映るだろうが、そんなこと
まで気にしていたら外に出ない方がましという極論に繋がるし、無意味だ。

「さて、行きますか。」
「もっと見たいものとかあったら言ってね。」
「うん。」

 めぐみちゃんもようやく自分の意見や主張を出すことに慣れ始めたようだ。俺と晶子が両親の代役をしている今日明日のうちに何処まで出来るようになる
かは疑問だが、そこをフォローするのが俺と晶子の役目だな。
 大勢の観光客が流れる方向とは逆の方向に歩いていく。大抵は金閣寺を見ておしまいのようだし、観光客も「金閣寺の敷地にあるのは金閣寺」と無意識の
うちに思い込んでしまっているのかもしれない。俺も晶子に地図を見せてもらうまで知らなかったし、特に団体客だと他に見るところや行くところがあるから、
広い敷地を一巡するのは難しい。
 金閣寺の写真を撮る際の定番場所の反対側に来るまでに通り過ぎた、巌下水や榊雲の間を再び通る。そこから先になると人の数が一挙に減って歩き
やすくなる。だが、めぐみちゃんは抱っこしたままにする。この先階段があるし、昔の建物の階段は幼児が上ることを想定してないから1段1段が高いし、
全体的に傾斜がきつい。転んだらすりむくどころじゃすまない可能性もある。

「水の音・・・か?」

 風呂に湯を入れる時のような音が聞こえてくる。・・・間違いない。この音は水が流れる音だ。それもかなり大量に、しかも継続的に流れているようだ。低音の
響きが風呂の時よりはるかに強い。

「もう少しで、『竜門滝』っていう滝が見えてきますよ。」
「滝まであるのか。」

 広大な敷地に金箔で覆った建物だけじゃなく、滝まであるとはな。金持ちのすることは今も昔も派手なもんだ。
 歩いて行くにつれて水の音が大きくなってくる。更に歩いて行くと太い水流と水飛沫が見えてくる。紛れもなく滝だ。正面まで来ると、小ぶりとは言え苔で
覆われている岩が形作る滝は、人工的な雰囲気を殆ど感じさせない。山奥の、川を遡って行った先にある小さな滝を髣髴とさせる。

「中央にある大きな岩が、『登竜門』の故事にちなんだ鯉魚石(りぎょせき)という名前だそうです。」
「『とうりゅうもん』って何?」
「そこを通過すると状況やその人の立場が大きく変わるきっかけ、っていう意味で使われる言葉だよ。」
「鯉−お魚の鯉ね、それが龍門っていう滝を登りきると龍っていう凄く大きな伝説上の動物になれるっていう言い伝えが、中国にあるの。それが転じて、
お父さんが言ったとおりの意味として使われてるのよ。」
「ふーん・・・。」

 晶子の詳しい説明が加わる。めぐみちゃんも見つめる竜門滝は、観光名所として紹介されるような落差の大きさや横の広がりは小さいが、竜にならんと
龍門の滝を上る鯉をイメージして作り上げた歴史上の人物に思いを走らせる。

「めぐみちゃんは、鯉を見たことある?」
「うん。幼稚園の近くにある神社の周りにある大きな溝でたくさん泳いでる。」
「お寺の周りの溝・・・、用水路か。そんなところで鯉を飼う神社ってあるんだな。」

 鯉というとまず池を連想するが、鯉としては基本的に流れのない一定の空間より、脱出は出来なくともそこそこ流れを感じ取れる場所の方が住み心地が良い
だろう。しかし、そんなところで鯉をたくさん飼うと、盗んでいかれることはないんだろうか。

「どんな鯉が居る?」
「真っ黒のと、赤や白や黄色の綺麗なのとが混じってる。」
「錦鯉も居るんだ。綺麗でしょう?」
「うん、凄く綺麗だよ。」

 俺と晶子の質問に、めぐみちゃんは目を輝かせて答える。普段こういう話をする相手は恐らく家には居ない。今までの抑圧から解放されてきたことが実感
出来てきたのか、自分の身の回りの話を喜んでする。

「神社の人がね、鯉に餌をあげてるんだよ。めぐみ達もさせてもらえることがあるんだよ。」
「お祭りの時とか?」
「うん。それもあるし、幼稚園でも毎月1回くらい皆で行って鯉に餌をあげるの。」
「幼稚園の行事か何か?」
「うん。皆でその神社に遊びに行くの。凄く広いんだよ。」

 幼稚園の行事として組まれているのなら、1人−はあまりないだろうが行き難い子も気軽に行けるだろう。幼稚園全体で行くくらいだから、鯉が飼われていると
いう神社は割と近いところにあるらしい。毎回バスや電車を使うのは親と先生が何かと大変だろう。

「公園みたいな感じなんだね。」
「うん。めぐみもお友達と時々幼稚園の帰りに遊びに行くよ。鯉に触ったりしなければ見るのは良い、って神社の人も言ってる。」
「錦鯉−綺麗な鯉は病気に弱いからな。扱いには特に丁寧にしないと駄目なんだ。」

 俺は飼ったことがないから体感してないが、錦鯉は寄生虫がついたり病気に弱かったりと飼育が難しいそうだ。釣ったり盗んだりするのは論外だが、幼稚園
くらいだと水面に近づいて来た時にでも触ってみたくなるだろう。大人でも分別のない奴は平気で触るだろうが、それを事前に防止する策は必要だ。
 鯉の数を数えようとしたが直ぐに分からなくなったこと、鯉に餌をあげた時に鯉が一斉に近寄ってきて最初はびっくりした、など鯉に関する話を聞いてめぐみ
ちゃんが満足した後、移動を開始する。
 龍門滝の隣にある「虎渓橋(こけいきょう)」を渡る。両脇には低い竹垣がある。これの名は「金閣寺垣」というそうだ。難しい名前が続いてきただけにこれだけは
何だか素っ気無くも感じる。虎渓橋を渡ると高い山道が出迎える。これをめぐみちゃんに歩いて上れというのは無理な相談だ。観光客が少ないのは金閣寺
本体を見て満足出来るのもあるし、その奥に別のものがあると知ってもこの階段を目前にして意思が萎えるのもあるんだろう。

「階段は濡れてないから、まだ危険じゃない方だな。」
「この階段を上ると何があるの?」
「えっとね・・・。『夕佳(ゆうか)亭』っていう建物よ。そこから夕方に見える金閣寺が綺麗だからってことで『夕佳亭』っていう名前−夕方に良いっていう漢字を
書くんだけど、そういう名前がついたんだって。」

 階段の向こうにある目的地を晶子が説明する。夕佳って女性みたいな名前だな。漢字を「夕」から別のものに変えれば、自分の名前と一致するという人も
居るだろう。人名に「夕」はあまり使われない。夕日は綺麗だが沈むから演技が悪いとして避けられているのかもしれない。

「めぐみちゃんは見たい?」
「うん。」
「では、上ろうか。めぐみちゃんは落ちると危ないから、到着するまではじっとしてような。」
「うん。」

 めぐみちゃんの意思を再確認して、俺と晶子は階段を上る。めぐみちゃんを抱っこしているが米袋10kgより不思議と軽く感じる。掴まる相手が居て安心感が
あるのと意思のないものとでは同じ重さでも体感が異なると聞いたことがあるが、それは本当らしい。ふと左腕に軽い感触を感じる。コート越しに微かに感じる
この引っ張り感というか掴まり感というかそんな感触は、多分晶子の手だろう。めぐみちゃんを抱っこしているから確認出来ないが、俺と手を繋げないから
コートを掴んでいようと思ったんだろうか。
 バイトで割と重いものを素早く丁寧に−料理がこぼれた食事はあまり食べたくないもんだ−運んでいるからか、階段を上っていっても体力の消耗は殆ど
感じない。それより足元に神経をすり減らす。俺が転んだら俺だけじゃなく、めぐみちゃんまで大変なことになるからな。一歩一歩確かめながら上っていく。
晶子は俺に合わせてくれている。コートを掴んでいるのもあるんだろうが、自分1人さっさと行かないあたりに晶子の配慮を感じる。階段は1つの建材で表面が
整備されていない、形が色々の岩を固めたものだから、油断すると足を踏み外す。階段での事故は意外と大事故になりやすいから注意しないといけない。

「もう直ぐ到着ですよ。」

 晶子の案内が入る。めぐみちゃんは予想以上におとなしくしているが、動かせる範囲で首をきょろきょろ動かしている。見る景色はどれも新鮮だから、出来る
だけ見ておきたいんだろう。足元の注意を続けながら歩を進める。

「はい、到着です。お疲れ様でした。」

 念のためめぐみちゃんの脇から覗き込むように下を見ると、階段は終わっている。意外に早く到着出来たな。下から見た時はもっと長いと思ったんだが。

「わぁー。凄ーい!金の建物がキラキラ光ってるー!」

 めぐみちゃんは再び興奮した様子で身を乗り出す。落ちないように反射的にめぐみちゃんの身体を支える。突拍子もなく行動するから結構怖いもんだな。
幼稚園の先生や保育士が重労働だと言われるのも納得出来る。

「ちょっとした展望台ですね。良い眺めです。」
「上から見る金閣寺ってのもなかなか良いもんだな。こういう角度から見るなんて初めてだし。」
「ホントに上まで金なんだー!」
「『夕佳亭』って名前をつけた理由が分かるな。」

 めぐみちゃんの希望で「よくある角度」とは反対側から見た金閣寺も新鮮だったが、高台から見る金閣寺もなかなか新鮮だ。これで夕焼けの朱色が
加わったら、金閣寺の眺めは更に新鮮で絶景になるだろう。夕方に佳く見えるから「夕佳」とは上手く名前をつけたもんだ。

「金の建物を建てた人も、此処から金の建物を見てたのかな?」
「金閣寺を造った人は、この場所から金閣寺を見てないと思うよ。この場所は後で造られたから。」
「え?金閣寺って同じ人が造ったんじゃないの?」

 めぐみちゃんは「この敷地にあるもの=金閣寺」っていう印象が今尚健在らしく、晶子の説明に疑問を呈する。分からないことがあれば聞ける環境が今の
めぐみちゃんにはある。それを最大限有効に使ってもらいたい。

「めぐみちゃんも見てる金閣寺−金色の建物の他に此処には色々な建物や場所があるの。さっき鯉のお話をした滝もその1つね。それらは全部金色の建物が
作られた時に『せーの』で同時に作られたものじゃないの。」
「へぇー・・・。」
「今めぐみちゃんがお父さんとお母さんと一緒に居る『夕佳亭』は、金色の建物が建てられた時代より後に造られたものなのよ。」

 めぐみちゃんにも理解しやすい、噛み砕いた表現で言えるのは晶子らしい。俺だとどうしても専門用語や自分の知識水準でそのまま言ったりするから、
こういう場合は晶子の方が親しみやすいだろう。

「じゃあ、金色の建物を造った人は此処から金色の建物を見なかったんだ・・・。」
「金色の建物が造られた時にこの場所がどうなってたのかは分からないし、偉い人が造ったから、階段もない山道を登っていって自分の居る場所を
見下ろすってことはしなかったと思うよ。その点で、今のめぐみちゃんは得してることになるね。こんな良い景色を自分で見られるんだから。」
「うん。」

 めぐみちゃんは見開いた目を輝かせて再び景色に見入る。昼過ぎの少し西への傾きが大きくなってきた太陽に照らされる金閣寺を見下ろす光景は、
なかなか良い。「夕佳亭」を造った人のおかげで見物の穴場から金閣寺を見られたようなもんだ。

「この建物の中、どうなってるの?」
「めぐみちゃんの直ぐ後ろだよ。」

 めぐみちゃんを抱っこしている俺は、その場で回れ右する。後ろに夕佳亭そのものが控えていて、中が直ぐ見えるから分かりやすい。

「・・・あれ?これだけ?」

 予想と違ってあまりにも呆気なさ過ぎたのか、めぐみちゃんはそれだけ言うと夕佳亭を見たまま言葉を失ってしまう。窓もドアもなく開け放たれた夕佳亭は
いたってシンプルで、しかも狭い。3畳の和室で畳剥き出しだから直ぐ数えられる。

「何で・・・これだけなの?」
「うーん。何でって言われると難しいな・・・。」
「此処はお茶を点(た)てて飲む場所だから、これで十分なのよ。」

 俺が説明に困っていると、晶子が上手くフォローしてくれる。茶室−この場合は茶屋か、そう言えばそれだけなんだが、めぐみちゃんは多分茶道を知らない
だろうし、噛み砕いて説明するのは難しいと改めて思う。

「お茶って、ペットボトルに入ってるもの?」
「そういうお茶じゃなくて、『茶道』っていう礼儀作法を学ぶ手法の1つで飲むお茶のことだよ。」

 言ってから「こんな説明で良いのか」と思う。長いと何処が重要なのか把握し辛いし、短いと説明しきれない。めぐみちゃんの年代と話をすることなんてない
から、経験則も頼れない。

「お茶を飲むことが礼儀作法になるの?」
「ああ。そのための部屋に入るところから色々あるんだ。それをきちんとこなせるようになる過程で礼儀作法を学ぶようになってる。」
「めぐみちゃんも、幼稚園でご飯やおやつを食べる時に先生に『いただきますって言いましょう』とか『ご馳走様って言いましょう』とか言われた憶えってない?」
「うん、あるよ。食べる前に『いただきます』で食べた後に『ご馳走様』って言いましょうって言われた。」
「そういうことを、お茶をいただくまでの流れに触れることで学ぶことが『茶道』って言うの。」
「へぇ・・・。そういうのがあるんだ・・・。」

 めぐみちゃんは興味深そうに何度か頷く。「これはこういうものだから」とか「お前にはまだ早い」と片付けるのは簡単だ。でもそれだと興味や関心を
殺(そ)がれるし、怒られるようなことになると興味や関心を示すことに恐怖感や躊躇いを感じるようになる。普段だと全てに最後まで構っていられないだろう。
だが、今は時間に余裕がある。分かるか分からないかより、納得出来るまで付き合う。これが大切だ。子育ての経験なんてないが、自分の経験から想像すると
そう思う。

「お父さんとお母さんは『さどー』ってしたことある?」
「お父さんはないなぁ。見たことはあるけど。」
「お母さんもないよ。お父さんと同じで見たことはある。」
「んー・・・。どんなことするの?」

 めぐみちゃんの質問攻勢は続く。茶道自体初めて聞く言葉らしいから、興味が次から次へと湧いてくるんだろう。これに対応するのは結構大変だ。持って
いる知識の動因は勿論だが、めぐみちゃんの水準で分かるように噛み砕く必要がある。

「メインはお茶を飲むことだけど、それまでの過程−お茶を飲む場所に入るところから始まるんだ。めぐみちゃんもすると思うけど、まず手を洗う。それから
お茶を飲む場所に入って、料理やお菓子を食べる。次に淹(い)れてもらったお茶を飲む。飲んだらお茶を淹れた方も淹れてもらった方もお礼を言って、
場所を出ておしまい。・・・大まかな流れはこんなところ。」
「お茶を飲むだけなのに、色々するんだね。」
「食べる前に『いただきます』、食べ終わったら『ご馳走様』って言う行儀を大掛かりなものにして、お茶をいただいて終わるまでの過程を習得することでお行儀
良くすることが茶道の大きな目的だから。」
「ふーん・・・。」

 茶を飲むだけであれこれ必要なのが納得出来ないようだが、「そういうものがあるんだ」と知れば良い。何から何まで把握するのは大人でもまず無理だ。
「こういうものがある」と知る程度で済ませれば良いこともある。

「『さどー』って学校で習うの?」

 尋ねためぐみちゃんはやや嫌そうな顔をしている。茶を飲むだけなのにああだこうだしないといけないと知って、面倒なものだというネガティブなイメージが
先行したようだ。

「学校では普通習わない。小学校の次にある中学校や高校のクラブで、したい人だけ習うことが多いな。」
「クラブって何?」
「スポーツだと野球とかサッカーとか、それ以外だと美術−絵を描いたりすることとか茶道とか、何かをしたいと思う人が集まってする、学校の勉強以外のこと
だよ。」

 なかなか噛み砕いた説明が難しい。語彙の少なさを痛感する。めぐみちゃんは理解したようで頻りに頷いているからこれで良しとするか。

「お父さんとお母さんも、クラブをしてたの?」
「お父さんは中学校でバスケットボールやってた。高校はクラブじゃないけど、友達と一緒に音楽をしてた。」
「お母さんは中学校は陸上やってたよ。高校は文芸部。小説書いて学校の人向けに本を出してた。」

 今まで知らなかった晶子の過去が1つ明らかになる。高校での文芸部は今のイメージから想像出来るが、中学の時は陸上やってたとは意外だ。それを
言い出すと、俺が中学の時にバスケをやってたのも十分意外の範疇だろうが。

「色々あって、学校って楽しそうだね。」
「めぐみちゃんもいっぱい御本を読んだり、お友達と遊んだり出来るよ。」

 そうだ。本当ならめぐみちゃんは間近に迫った新入学に心躍らせて、自分から話しても良いくらいなんだ。今までは恐らく、否、きっとそれが出来なかった。
あの両親はいったい何のために夫婦で居るんだろう?
 あの両親のことを考えても仕方ない。警察で一晩かけてじっくり絞られた後、めぐみちゃんに新入学間近の胸踊る感覚を十分味わわせるように悔い改め
れば良い。それが出来ないようなら、いっそ監獄にぶち込まれた方がめぐみちゃんのためだ。
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