雨上がりの午後

Chapter 233 臨時親子の旅日記(2)−金閣寺見物(1)−

written by Moonstone

 バスを最初に見てから10分ほどして、バスが到着した。めぐみちゃん、俺、晶子の順で列に並んでバスに乗る。バスは割と混み合っている。これだと
めぐみちゃんを座らせることは出来ない。めぐみちゃんのことだから黙って立っていられるだろうが、他の客との身長差を考えると、座席に座った方が
安全なんだがな。
めぐみちゃんがはぐれないよう、俺と晶子は距離を詰めてめぐみちゃんの手をしっかり握る。めぐみちゃんもはぐれないようにと思ってか、小さい手でしっかり
握り返す。バスが動き始める。窓からの景色は満足に見えないが、この混雑で窓際に移動するのは無謀だし、迷惑だ。
 晶子とは、めぐみちゃんを前に置いて左側で密着している。大学通学時と良く似た態勢だ。通勤通学ラッシュで混み合う車内では、密着する必要がある。
晶子の髪かからほのかに香る甘い香りを嗅いでいると、今でも頭がくらくらすることがある。
今も鼻を少し左に向ければ、晶子の髪に鼻先が触れる。軽く息を吸い込むと流れ込んで来る香りは、普段の香りと違って柑橘系だが鼻を刺すような刺激はない。
鼻先を少し動かすと、晶子の髪の艶やかさと滑らかさが実感出来る。
俺の鼻先の動きを感じたのか、晶子が更に身体を寄せてくる。右手はめぐみちゃんの手を繋いでいるが、空いている左手が俺の左腕に回って更に密着の
度合いを強める。双方のセーターとコートを通しているが、腕に晶子の胸の感触を感じる。連動して心拍数が上昇する。
 女の胸の感触、しかも現に付き合ってて何度も寝た相手の胸の感触で心拍数を高めるなんて、恋愛経験値なるものが高い奴等からすれば嘲笑もんだろう。
俺自身、昨夜の入浴前後から夜の最中の行為や光景と比較すると、何でまだこんなにドキドキするんだと思う。
原因は色々考えられる。昼と夜。他人の目がたくさんある外と2人きりの空間。最も大きいのは、晶子の言動全般が普段と夜とでまったくと言って良いほど
違うことと思う。普段は、俺に粘り強いことこの上ないアプローチを続けていた時より行動が控えめになっている。俺との付き合いに関して饒舌なのは
変わらないか加速しているかのどちらかだが、「仲の良いカップル」で説明出来る振る舞いに落ち着いている。
2人きりになると少し積極的・大胆になるが、部屋の電気を消して営みを始めると一挙に普段とまったく違う顔を見せるようになる。「こんなことも言うのか」
「こんなこともするのか」と今でも思うほどだ。
 実際、新婚初夜と俺も位置づけた昨夜の営みでは、晶子の全てに指を唇を這わせ、命令はしていないがそれこそ思うが侭にした。俺が言った卑猥な言葉を
嫌がるどころか喜び、言わせれば言ったし、させれば自ら求めるようにした。
夜が明けて晶子の声で目を覚ますと、つい数時間前に目の当たりにした光景や耳にした言葉が全部夢かも妄想だったのかと思うくらい、普段どおりの晶子に
戻っていた。シチュエーションは違うが、夜の最中と夜が明けてからの変貌ぶりはこれまでと変わらない。
ありえないと思うほどの晶子のギャップは、俺しか知らない。だから、普段の晶子を見たり感じたりすると、ある種当惑して緊張感が生じるんだと思う。
新鮮さが色褪せないから、俺はこれで良い。

「次は金閣寺前。金閣寺前でございます。」

 それまで停車してもあまり変動がなかった車内の空気が、金閣寺を含むアナウンスで一気に変わる。どうやら俺と晶子とめぐみちゃんも並んでいた停留所の
人達を含む車内の客の大半が、金閣寺を目的にしていたようだ。
 車内の彼方此方から、金閣寺を含む会話が聞こえてくる。今まで聞いてなかったが、目的地の金閣寺が近づいてきたことで想像を巡らせているんだろう。

「晶子は高校の修学旅行で京都に来たんだよな?」
「はい。金閣寺もコースに入ってました。」
「その時はどの辺まで近づいた?」
「めぐみちゃんと同じなんです。バスからは降りましたけど、観光案内とかで見るような角度から撮影された写真と良く似た位置から少し眺めて、記念撮影を
して終わりでした。」
「俺は小学校の修学旅行で行ったきりだからうろ覚えだし、めぐみちゃんと同じく今日初めて近くから金閣寺を見るんだな。」
「だから、尚更楽しみなんですよ。」

 俺に密着したままで晶子は心底嬉しそうな笑顔を見せる。さっきまでの性的な興奮が何処かに消えて、「大事にしたい」「危険が迫ったら守りたい」と思う
愛しさを強く感じる。この笑顔が見られるから、大学とバイトでくたびれても晶子と一緒に居たいと思うし、惰性にならずに昼も夜も−2通りの意味を含む−
愛し続けていられるんだと思う。
 晶子はひたすら俺に尽くしてくれる。朝は食事の準備をして起こしてくれるし、バイト以外の食事を毎回作ってくれる。俺はそんな晶子が「あんな男と
付き合って恥ずかしい」と言われたり思われたりしないように、大学の講義に真剣に取り組み、バイトは無遅刻無欠勤を続ける。晶子を朝晩文学部前まで
送っていったり迎えに行ったり、買い物で荷物持ちをするし、どんなに疲れていても夜の求めに全力で応じる。
 バスが停車する。それまであまり動きがなかった車内が一斉に前へ動き始める。めぐみちゃんが客の流れに飲み込まれそうになる。しっかり手を繋いで
引き寄せ、阻止する。車内に子どもは見たところめぐみちゃん1人。翻弄されないようにするにはそれなりの覚悟と行動が必要だ。俺自身もみくちゃに
なりながら、晶子とめぐみちゃんの存在を確認しつつ少しずつ前に進む。
 運賃を3人分払ってバスから降りる。めぐみちゃんが転んだりしないように足元に注意する。めぐみちゃんに続いて晶子が無事降りて、バスから溢れた
−そう表現するのが適切な状況だ−客から距離を置いてようやく安心。子連れって大変だな。

「降りられましたね。」
「晶子もめぐみちゃんも、怪我はないか?」
「うん。」
「私は大丈夫です。」

 2人から無事を確認して、完全に安心出来る。意外に年配者や老人って遠慮や加減をしないもんだな。混雑していたから全員とはいかないにせよ、俺と晶子の
近くに居た人は、明らかに背が低いめぐみちゃんの存在にそれなりに気づくと思うんだが、希望的観測が過ぎるか?
 金閣寺前と言っていたからバス停を降りればそこは金閣寺の前だった、というシチュエーションになるのかと思ったが、そうでもない。多少は歩かないと
いけないようになっている。
まあ、当然だろう。バス停の直ぐ傍に金閣寺があったら観光客でごった返して道がふさがってバスが通れなくなくなるだるし、交通事故の危険性も高まる。
事故が起こったら観光どころじゃなくなるから、観光客を十分収容出来るスペースを確保した場所にバス停なり駐車場なりを置くのが普通だ。

「金色の建物、まだ見えないの?」
「此処からも一応見えるけど、少し歩けば近くに見えるようになるよ。」

 めぐみちゃんの質問に一瞬何故分かりきったことをと思うが、身長差を考えて俺が間違っていたと分かる。
めぐみちゃんと俺とでは身長に差がある。俺も決して背が高い方じゃないが、めぐみちゃんよりは高い。逆に、めぐみちゃんから見れば周囲は人の壁で
阻まれてろくに何も見えない状況にある。明らかに違う視界を「有利」な自分に併せて判断すれば当然ずれが生じる。
 子どもが駄々をこねて親がどうしてこんなことも分からないのかと訝るのは、視界や視線の違いが原因の1つなんだろう。自分も経験した筈の子どもの視界や
視線を成長と共に忘れてしまい、大きく広くなった−一方で狭くなった部分もあるが、それを踏まえずに自分の視界や視線が当然のものだと思って判断
したりする。行き違いと言うべき相違が、時に深刻な断絶を生むように思う。

「一緒に歩こうね。」
「うん。」

 晶子は腰を曲げて視線をめぐみちゃんに合わせる。金閣寺との位置関係をまず最初に考えた俺はめぐみちゃんを見下ろす格好で答えたが、こういうところも
めぐみちゃんには恐怖に感じるかもしれないな。めぐみちゃんが置かれてきた境遇を踏まえるなら、何気ないことにも気を配らないといけないのにな…。

 俺と晶子とめぐみちゃんは、手を繋いで並んで歩く。観光客の列は金閣寺の方に向かうものと離れていくものの2とおりがあるから、向かう方に乗って歩いて
いけば良い。めぐみちゃんが躓いたりしないように、歩調をめぐみちゃんに合わせることを忘れずに。
 少し歩くと、行列の流れが滞る場所に到着する。入場者数制限があるのか?・・・否、違うな。徐々にだが行列は動いている。列に並んで待ちつつ歩を進めて
いくと、行列の流れが滞っていた理由が分かる。入場券を買うためだ。
観光客の数に対して、入場券の販売やもぎりの数は少ないというのが、こういう場合にありがち且つ殆どの場合適用出来る。待つ間に表示を見て入場券を買う
準備をする。晶子が1000円札1枚を差し出す。俺は礼を言って受け取り、自分の分と併せて順番を待つ。
入場券を大人2枚、子ども1枚買う。晶子と出かける時は大人2人分だけだし、それに馴染んでいるから、子どもの分を買うのは新鮮だ。晶子との間に子どもが
出来たらこれが当たり前になるんだろうが、少し感慨めいたものを感じる。

「変わった・・・入場券ですね。」
「ホントだー。」

 晶子とめぐみちゃんも同じことを思ったようだ。入場券は金閣寺の写真入りの定番と思いきや、神社や古い民家に貼ってあるお札そのものだ。寺院仏閣が随所に
ある京都らしい。このままお札として効能があるのかどうかは知らないが−元々その手のことは信じないタイプだ−、雰囲気はバッチリ出ている。

「お札を模したものですね。」
「お札って何?」
「お化けや幽霊が入って来られないように、家とかに貼るお守りみたいなものよ。」

 晶子が分かりやすく説明する。めぐみちゃんはお化けと幽霊という単語を聞いて少し顔を強張らせるが、お札が何かは理解出来たようで何度か頷く。

「じゃあ、これをお札に使っても良いの?」
「うーん。お札はお寺でお坊さんがお祈りをして、お化けや幽霊が入って来られない目に見えない力を込めることで出来るから、このままだと無理なんじゃ
ないかな。」

 入場券が本物のお札になるわけがない、などと嘲笑さえされる流れだが、疑問や希望を率直に口にするめぐみちゃんと、めぐみちゃんに視線を合わせて丁寧に
説明する晶子の様子は微笑ましい。やっぱり晶子は良い母親になるだろうな・・・。

「めぐみちゃんも、入場券持って入ろうな。」
「うん。」

 俺は晶子とめぐみちゃんに入場券を配る。もぎりのところで人の流れが滞っているが、少し待てば順番が来る。めぐみちゃんはそのままだと入場券がもぎりの人に
届かないから、俺が抱っこするかな。
やや雑然としている行列に並んで順番を待っていると、俺と晶子とめぐみちゃんの番が回ってくる。俺と晶子は入場券を渡してもぎってもらう。めぐみちゃんは
背が届かないから、俺が抱っこして入場券をもぎってもらう。

「ありがとう。」
「どういたしまして。」

 自分の入場券を直接もぎってもらえて余程嬉しいのか、めぐみちゃんは満面の笑顔で礼を言う。このくらいの歳だと、何でも自分でしてみたくなるもんだ。
俺自身そうだった記憶がある。
めぐみちゃんはあの両親の下で日々びくびくせざるを得ない生活を強いられてきただろうから、こういう経験をすることはなかっただろう。「したい」「させたい」と
めぐみちゃんが少しでも言おうものなら、即座に「我が侭言うな」と頭ごなしに怒鳴られたと容易に想像出来てしまうのが悲しいし、情けない。
 もぎりを受ける列から脱したところでめぐみちゃんを下ろす。滞っていた人の流れが再びスムーズになる。此処まで来たら向かう先はただ1つ、金閣寺だ。
もう十分見える距離に来ているが、めぐみちゃんだとまだ見辛いだろう。

「めぐみちゃん。金色の建物此処から見る?」
「見られるなら・・・。」
「よぉし。じゃあ今度はお父さんじゃなくて、お母さんが抱っこしてあげる。」

 晶子が抱っこ役を名乗り出る。遠慮気味なめぐみちゃんに−無理もないが−、晶子は微笑んでしゃがみ、両手を広げて迎え入れるポーズを示す。
めぐみちゃんはおずおずながらも晶子に近づいていく。晶子は自分の傍に来ためぐみちゃんを抱っこする。
めぐみちゃんは少し驚いた様子だ。男の俺なら抱っこ出来るだろうとそれなりに予想出来るが、プロレスラーでもなければ重量挙げの選手でもない、見た限りでは
力がありそうに見えないスラリとした体型の晶子が自分を軽々と抱き上げたせいだろう。

「晶子お姉ちゃん、凄い・・・。」

 目を見開いためぐみちゃんは、まじまじと晶子を見る。俺と比べて多少は力仕事になると思っていたんだろう。

「ん?何が?」
「晶子お姉ちゃん、そんなに力なさそうなのに、恵美を簡単に抱っこしてくれた・・・。」
「こう見えても、お母さんはそれなりに力あるのよ。」

 見た目華奢な晶子がそれなりの腕力があるのは、俺自身良く知っている。店で重いフライパンや鍋を持つのもそうだが、買い物帰りに荷物を持つにしても、
「俺と分担しなければ大抵は1人で持てる」くらいある。10kgの米袋でもしっかり片手で持ち運び出来る。
晶子が1人で住んでいた時は5kgのものを買っていた。俺が晶子の家に立ち寄ったり晶子が俺の家に出入りする頻度が増し、やがて一緒に暮らすようになって
米は10kgに増えた。俺が大食らいとはいかないにしても量を食べるから、5kgだと割高になるのもある。
 弁当を大学に持っていくようになったことがもう1つの決定打だ。弁当は単純に考えて別途1食分持っていくのと同じだから、当然食材の消費量は増える。
1人分でもそれなりの量を使うから、2人分となれば買う量が増えるのは自明の理。
俺が以前晶子を「お姫様抱っこ」した時、次に晶子の提案で俺と晶子の立場を交代してみた。流石に無理そうだったから止めさせた。俺と晶子の体重差は凡そ
20kg。当然と言おうか俺の方が重いから、晶子に抱き上げるのは無茶な要求だろう。

「あとね、めぐみちゃん。今は私と私の隣に居る男性が、めぐみちゃんのお父さんとお母さんだからね。『お兄ちゃん』と『お姉ちゃん』は使わないでね。」

 めぐみちゃんに俺と晶子を両親と思うだけじゃなく、そう呼ぶように促す。呼び方ってのは他愛もないようで実はその時の人間関係が分かるし、その後の
人間関係にも影響する重要な要素だ。重みは第一印象と同程度かもしれない。
 めぐみちゃんに今一番必要なことは、甘えることだ。甘えっぱなしは良くない。甘えが何時までも許されたまま、許されると思ったまま成長した大人が所謂
「子どもっぽい」という厄介な存在になる。見た目は大人で中身は子どもってのはたちが悪い。大人なら十分分かりそうな論理で説得なり説明なりしても、
中身が子どもだとそれが理解出来ずに「何でそんなことで自分が縛られなければならないのか」などとんでもない理屈で歯向かって来る。周囲や集団にとっては
迷惑以外の何者でもない。
 だが、誰かに頼ったり、時には誰かに甘えることも大切だ。困っていたり苦しんでいたりするところに「助けます」と手を差し伸べても気づかなかったり、
「何か裏がある」「借りを作らせるつもりか」「恩を売るのか」とか穿った見方までしてその手を跳ね除けていたら、本人にとってあまりにも窮屈だ。
めぐみちゃんは、少なくとも俺と晶子と比べれば甘えたい盛りの子どもだ。本当の両親がめぐみちゃんの甘えを受け止めるどころか、疎ましがって抑え付けてさえ
いた有様だ。両親が警察で絞られている間に少しでも甘えることを思い出して欲しい。そのためにも、「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」じゃなくて「お父さん」「お母さん」と
呼ぶことは重要だ。

「直ぐに言い換えなくても良い。そんなに直ぐ切り替えられるほど簡単なことじゃないからな。」
「お父さんの言うとおり、慌てなくて良いからね。」
「・・・うん。」

 俺が晶子の促しを追認し、晶子が優しく念を押すが、何分怯えてきた時間の方が圧倒的に長いめぐみちゃんだ。甘えて良いと言われてすんなり受け入れろと
いうのは無理な相談だ。

「さて。めぐみちゃんも見たがってた金色の建物、見えるか?あっちだよ。」
「真正面、見てご覧。」

 呼ぶまで待っていると、かえってめぐみちゃんにとって心理的な圧力になるだろう。此処に来た本来の目的に立ち返る。めぐみちゃんの視線の高さだけでは
見えない金色の建物−金閣寺は、俺や晶子の視線の高さになれば十分見える。

「わぁ・・・。」

 めぐみちゃんは感嘆の声を出して金閣寺に見入る。遠足の時は少しだけしか見られなかった、しかもバスの中からだったというから、これほど近くじゃ
なかっただろう。窓ガラスを挟んでいるかどうかだけでも相当違う。自分の目で見る臨場感や迫力は、上手く撮影した写真や映像、精密に再現したCGとは違う
強さがある筈だ。

「今日はお日様が元気良く照ってるから、金色も綺麗に光ってるよねー。」
「うん。凄く綺麗。」
「もっと近くで見ようか。」
「うん。」

 めぐみちゃんの声が明るく快活になってきたのを感じる。これが普通だろう。その「普通」が普通でない状況に押し込まれていためぐみちゃんが、「普通」に
なれる第一歩になれば良い。

「晶子。交代して欲しかったら遠慮なく言えよ。」
「はい。まだまだ大丈夫です。」

 晶子が見た目よりずっと腕力がある方とは言え、少なくとも米袋よりは重いめぐみちゃんを抱っこし続けるのは厳しいだろう。もう限界と思ったら直ぐ交代出来るし、その準備が出来ていることを伝えておく。
 気配りや配慮と良く言うが、どうすれば良いか、どこまですれば良いかは意外に分からない。社会経験を積むことで分かっていくところもあるが、それだけじゃ
間に合わない場合もある。そんな時は「相手の立場に立って考える」ことを基本に発言・行動すれば大抵良いと思う。
「相手の立場に立って考える」。俺自身小さい頃から言われ続けてきたことだが、割と何処かに置き忘れていたりする。めぐみちゃんを抱っこすること1つ取っても、
自分だけ考えれば「相手に任せておけば良い」と丸投げして後は知らん振り、と出来る。そこで今の例で言うなら「晶子が抱っこに疲れたらどうするか」の予想を
「自分が抱っこを続けて疲れたらどうしたいか」と考えてみる。すると「晶子1人だと厳しいし、何れ限界が来る」→「晶子が限界を訴えたり、それより前に継続が
難しいと分かれば俺が代わる」と考えが発展する。
 無論、その都度その後の成り行きを計算していたら間に合わないことが多い。自然と出来るようになるには、些細なことでも誰かとコミュニケーションを取るように
することが王道且つ最短コースだと思う。俺も、店での日々の接客や晶子との付き合いで自然と出来るようになったんだし。

「お兄・・・、お父さん、凄くお母さんに優しいね。」
「そうか?」
「うん。お姉・・・、お母さんを凄く大切にしてるんだって思う。」

 めぐみちゃんが見ていても実感出来るようだな。勿論めぐみちゃんに見せるために演じたわけじゃないし、そんな使い分けが出来るほど器用じゃない。
他人が見て分かるくらい目に見える形で、自然に出来ていれば大丈夫だな。

「お父さんは凄く優しいから、お母さんもお父さんを大切にしたいと思ってるし、大切にしてるつもり。」
「お母さんの言うとおり、お母さんはお父さんを大切にしてくれるぞ。」
「お父さんとお母さんが仲良いから、恵美、安心出来る。」

 めぐみちゃんが表情を緩めて言った言葉を、今警察で絞られている筈の本当の両親に聞かせてやりたい。
事務所での醜い口論からして、めぐみちゃんに辛く当るだけじゃなく、夫婦間の言い争いも耐えないんだろう。笑い声のない怒鳴り声だけが飛び交う家庭、か・・・。
そんな家庭で1日の大部分を過ごさなきゃならないめぐみちゃんにとって、家庭って息苦しいだけの牢獄だろう。
家庭を築くってことは、子どもが生まれれば子どもにも責任を持つことでもあると思う。なのに、児童虐待や育児放棄を頻繁に耳にするし、今はその被害者を
預かっている立場に居て、あまりにも結婚や家庭の構築を安易に考えてやしないか、と疑わざるを得ない。
 めぐみちゃんの母親が言ってたな。「子どもが出来たから仕方なしに結婚した」とか。あの口論から推測するに、めぐみちゃんの母親はめぐみちゃんの父親以外の
男性と関係を持っていて、子どもが出来たことで仕方なくめぐみちゃんの父親と結婚したという筋書きが見える。
だが、現状は異性関係がいい加減なめぐみちゃんの母親と、他の異性との付き合いを気づいていながら許しためぐみちゃんの父親の責任であって、
めぐみちゃんには何の責任もない。親は子どもを選べても子どもは親を選べないってことを、親になる可能性がある男女はしっかり認識すべきなんじゃないのか?
 胸の一部が震動する。「Fly me to the moon」のギターソロバージョンを伴うこの震動は、心臓の鼓動じゃない。俺は考えるのを辞めて携帯を取り出す。液晶には「京都御苑 管理事務所」と登録しておいた表示が出ている。・・・もう釈放されたのか?

「はい、安藤です。」
「京都御苑管理事務所の者です。」

 兎も角、電話に出ないことには始まらない。電話越しに聞こえてきた声は、俺と晶子を出迎えて警察に通報した京都御苑の管理事務所の人のものだ。

「今、お電話よろしいですか?」
「はい。構いません。」
「先ほど中立売署の方−京都御苑最寄の警察署ですが、そちらの担当の方からお電話がありました。」

 補足説明からも、警察の方で何らかの動きがあったことが分かる。事情聴取が終わって釈放されたんだろうか?早過ぎるような気がするが。

「事情聴取を行ったところ、児童虐待と育児放棄の疑いが非常に強く、更に事情聴取を行う必要があると判断されたそうです。」

 釈放でなくて安心する。これは当然だろう。俺と晶子と事務所の人の前であれだけ見苦しい言い争いとめぐみちゃんへの暴力を見せ付けたんだから、事情
聴取のプロが行えばボロが次から次へと出て来るだろうし、場合によっては犯罪として正式に立件することも視野に入ってくるだろう。

「時間の関係で両親を一晩留置するため、お子さんの処遇をどうすべきかとの問い合わせがありました。」
「・・・一晩より長引くんでしょうか?」
「今回は児童虐待や育児放棄の現場を押さえていないので保護責任者遺棄の容疑での立件は難しいですが、両親の居住地最寄の児童相談所や警察署に
通報し、厳重注意しておく必要があるため、一晩必要とのことです。」

 警察の対処はめぐみちゃんの今後を考えれば適切だと思うが、その間めぐみちゃんをどうするかが問題だ。警察署に泊める場所があるかどうかは分からないし、
あったとしても宿泊施設じゃないから十分なものとはいえないだろう。ましてや、小さいめぐみちゃんには独りなのもあって孤独で不安が募るばかりになるかも
しれない。
かと言って、京都御苑の管理事務所で預かれるという保証もない。こちらも宿泊施設じゃないから、居心地は期待しない方が良い。自分がこれからどうなるかの
不安を抱えながら見知らぬ場所で一晩を明かすのは、めぐみちゃんにとってストレスの要因以外の何物でもない。
 じゃあ、めぐみちゃんをどうするか?選択肢は自ずと絞られる。俺と晶子が一晩預かることだ。旅館の部屋は有り余るほどのスペースだし、布団も俺と晶子が
それぞれ1人で1人分の布団を完全占拠するほど身体の幅はないし、寝相も悪くないから、「川」の字になって寝ることも可能だ。
これは俺1人で決められない。晶子は俺との旅行を楽しみたいだろうし、めぐみちゃんの両親の事情を話して相談して決めるべきだ。

「妻と相談しますので、少しお待ちいただけますか?」
「はい。構いません。」

 俺は携帯を保留にして晶子とめぐみちゃんの方を向く。俺が受けた電話のやり取りから大きな動きがあったのを察したのか、2人の表情はやや硬い。

「管理事務所から、警察に電話があったそうだ。・・・めぐみちゃんの両親には一晩警察署に泊まってもらうって。」

 相手が晶子だけなら詳しい事情を言えるが、今は被害者でもあるめぐみちゃんが居る。「留置」とか「拘留」とか難しい表現を使うとめぐみちゃんが不安を
増すだろうから、「泊まる」という穏やかな表現に変える。こうするのも配慮ってもんだろう。

「ちょっと警察での注意が長引くそうだ。今日1日だけじゃ足りないらしい。」
「そうですか・・・。」
「・・・。」
「泊まってもらうのは今日一晩だけだそうだ。・・・晶子。ちょっと重要な相談。」
「あ、はい。」
「めぐみちゃんは、ちょっと待っててな。」
「・・・うん。」

 出来るだけショックを与えないようにしたつもりだが、「一晩警察署に泊まる=一晩帰ってこない」ことには変わりない。
兎も角、次に控える、めぐみちゃんにとって最も重要な課題をどうするかを晶子と相談して決めないことには。晶子の顔で視界が満たされるが、今は胸の高鳴りや
性的興奮は感じない。感じている場合じゃないし。

「両親が一晩拘留される今晩めぐみちゃんをどうすべきか、警察から併せて問い合わせがあった。」

 周囲にそこそこの喧騒があるからさほど声量を落とす必要はないだろうが、めぐみちゃんの不安を増すことは極力避けないといけない。晶子に聞こえる程度に
声量を絞って簡潔に状況を説明する。

「めぐみちゃんの両親が警察に拘留されるなら、めぐみちゃんは警察署に泊まるか別のところに泊まるかになりますね。」
「ああ。そこでめぐみちゃんをどうするか、だ。」
「祐司さんと私で預かりましょう。」

 俺が提案する前に、晶子はめぐみちゃんの保護継続に進み出る。めぐみちゃんを俺と晶子で今晩預かることは提案しようと思ったが、てっきり「2人きりの
新婚旅行が一晩無駄になる」と不満を言うかと思ったんだが。

「祐司さんと私のお部屋は十分スペースがありますし、食事も事情を話して必要なら別料金を払うか外で食べるかすれば良いことですし。」
「・・・俺も殆ど同じことを思ってた。食事の選択肢は晶子ほど広くなかっただけで。」
「私はめぐみちゃんに今日1日一緒に居ようって言いますから、祐司さんは事務所の方にお話してください。」
「分かった。じゃあ、めぐみちゃんの方は頼む。」
「はい。」

 呆気なく意見が統一出来た。勿論その方が良いんだが、ちょっと拍子抜けした感がある。何はともあれ方向性が決まったから、このまま保留を続けるわけには
いかない。俺は携帯の保留を解除して通話を再開する。

「もしもし。お待たせしました。」
「いえ、構いません、奥様とのご相談は終わりましたでしょうか?」
「はい。今日1日私と妻が預かることで話がまとまりました。」
「そうですか。ありがとうございます。」

 抑えているとは言え、事務所の人の口調は明るい。事務所の人も迷子の扱いはそれなりに慣れているだろうが、一晩預かるまでは想定していなかっただろう。
この反応は当然のことだと思う。

「私はこれから旅館の方に一晩お子さんを預かれるよう事情を話しますので、事務所からは警察に私と妻が今晩お預かりする旨お伝えください。」
「承知しました。間違いなくお伝えしておきます。」
「警察には念のため、私の携帯の番号をお伝えください。お子さんの両親が釈放されてからの連絡は、警察と私の方で直接やり取りした方が早いでしょうから。」
「そうですね。では併せてお伝えしておきます。引き続き保護していただきますよう、よろしくお願いいたします。」
「分かりました。では失礼します。」

 事務所の人との通話を終え、続いて旅館に電話をかける。追加料金を払うことは覚悟の上だ。めぐみちゃんが安心して今晩寝られるよう手を回すのが、
一時とは言え保護している俺と晶子の役割だ。
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