雨上がりの午後

Chapter 232 臨時親子の旅日記(1)−移動と会話−

written by Moonstone

「では、お願いします。」
「分かりました。」
「めぐみちゃん、お外に行こうっか。」
「・・・うん。」

 めぐみちゃんにとっては両親の男女が警察に連行−手錠はされなかったが見た感じはそのものだった−されて不安そうなめぐみちゃんを、晶子が努めて
明るく誘う。
男女−両親と呼ぶ気が湧かない−が警察に絞られている間くらい、めぐみちゃんには今までの現実から少しでも解放されてほしい。
あの男女が警察から解放されても、めぐみちゃんを取り巻く現状が即刻変わるとは確信出来ない。警察が出て来てようやくだったし、俺と晶子や事務所の
人の目から離れたところで逆戻り、って可能性も十分ある。
 晶子がめぐみちゃんの手を取る。俺と晶子は事務所の人に改めて挨拶して、事務所を出る。警察が来た後のせいか、事務所周辺の空気が若干ざわめきを
帯びている。警官は制服だったし、パトカーで来ただろうからかなり目立つ。男女がその警官に連行されてパトカーに乗せられたところを一部でも目にすれば、
何かあったと思うには十分だ。
 俺と晶子は何も知らないふりをして、人垣を抜けていく。「何かあったんですか」と聞くのは、わざわざ話に加わるようなもんだ。俺はめぐみちゃんの空いている
右手を取る。晶子が左手を握ってるから、京都御苑に戻った時と同じ並びになった。

「さぁて、何処行こっか?」

 周囲から「何かあったのか」とか「夫婦らしい若い男女が連行されていった」とかのやり取りが断片的に聞こえてくる中、晶子が屈んでめぐみちゃんに
話しかける。事務所を出た時と同じ口調だから、至って明るい。

「何処か行きたいところって、ある?」
「ん・・・。」
「ゆっくり考えて良いからな。」

 立ち止まって考え込むめぐみちゃんに、安心感を加えておく。さっきの調子だと、めぐみちゃんは何時も急かされていた可能性が高い。
「さっさと決めろ」に続いて「何グズグズしてるんだ」の叱責のパターンは、頻繁に聞く。絶えずそれに晒されていためぐみちゃんには、ゆっくり今したいことを
考えて欲しい。

「・・・何処でも良い?」
「ああ、良いよ。」
「えっとね・・・。金色の建物。」
「これのこと?」

 おおよそ察しがつく答えを出しためぐみちゃんに、晶子がガイドブックを広げて見せる。言うまでもなくそこは金閣寺のページ。色々な建物があるが、
金色の建物と言えばまず筆頭に浮かぶのが金閣寺なのは、共通事項だろう。

「うん、これ。前にね。少し見たことがある。凄く綺麗だった。もっと見たい。」
「よし、じゃあ此処に行こうね。」
「うん。」

 希望がすんなり叶っためぐみちゃんの表情が緩む。こういう顔が幼児本来の顔だ。今までこういう顔が満足に出来なかっためぐみちゃんを思うと
嘆かわしくなるが、嘆いていても仕方ない。今はめぐみちゃんに少しでも楽しんでもらいたい。

「金閣寺へは此処から歩いて行けるか?」
「えっと・・・。道のりは割と簡単なんですけど、歩いて行くにはちょっと距離があり過ぎると思います。」
「どれどれ。」
「これです。」

 晶子が差し出したガイドブックの地図を見る。京都市街中心部の地図で、主だった観光スポットが表記されている。
京都御苑から金閣寺へは・・・北東方向にあるのか。晶子の指に沿って道のりを見ていく。京都御苑が東で隣接している烏丸通を北進して、北大路通りという
ところで東に直進。確かに道のりは簡単だが、歩いて行くには遠い。
 俺と晶子だけなら「時間もあるし歩いて行くか」という気になるかもしれないが、今はめぐみちゃんが居る。優に数kmはある距離をめぐみちゃんに歩けと
言うくらいなら、あの男女にめぐみちゃんを引き渡している。一方車なんてものは持っていないから、電車なりバスなりを使う選択肢しかない。

「これだと電車かバスを使った方が良いな。電車だと・・・最寄り駅からかなり遠いから、バスだな。」
「バスの路線はですね・・・。これですね。」

 晶子が次に開いたページには、京都市内のバス路線図がある。晶子の指に沿って見ていくと、上手い具合に烏丸通から金閣寺方面に向かうバス路線がある。
これに乗っていけば行けるな。公共交通機関には余程のことがない限り道を間違えるなんてことはない。

「最寄のバス停は・・・『烏丸下立売』ってところか。此処から割と近いな。」
「そうですね。烏丸通に沿ってますから分かりやすいですし。」

 行き先は決まったし、交通手段も最寄のバス停も決まった。混雑しているからバスが定刻どおり来るかどうかは期待してない。それに慌てる必要はない。
あの男女が警察に絞られる時間は相当あると思う。事実上の現行犯だからな。

「ちょっと歩こうな。」
「うん。」

 めぐみちゃんと再び手を繋いで、俺と晶子は最寄のバス停「烏丸下立売」に向かう。道路は多くの車が行き交っている。まだ本格的な観光のシーズン=
桜の季節には早いが、それでもこれだけ混雑してるんだから、桜の季節になったら凄いことになるんだろう。

「めぐみちゃんは、金閣寺をどのくらいの距離から見た?」
「えっと・・・、割と遠いところ。『あれが金閣寺』ってバスガイドの人が言ってて、それを少しの間見た。」
「遠足で来たの?」
「うん。去年。」

 幼稚園の遠足で来たってことは、めぐみちゃんはこの辺に住んでいる、少なくとも京都府外ではないと思う。遠足がどんなコースを辿ったまでは尋問みたい
だから聞かないが、途中の観光スポットは見てお終いってところだったんだろう。その辺は年齢を重ねて修学旅行とかになっても大差ないんだな。

「この時期だと、金閣寺は空いてるかな。」
「あまり期待しない方が良いと思いますよ。観光名所ですから。」
「そうだな。」

 表面が金で覆われた建物なんてそうそうお目にかかれるもんじゃない。金閣寺の敷地に桜や紅葉が見所になる場所があるかは知らないが、建物自体が
あまりにも有名だから、桜や紅葉がない季節でも人をたくさん寄せる効果はある。つまり、晶子の言うとおり年中混雑している可能性が高い。
混雑の緩和が望み薄でも、「今日が駄目なら明日がある」俺と晶子は別に構わない。日を改めて再び向かえば良いからだ。でも、今のところ両親が警察で
絞られている間しか欲求を出せないめぐみちゃんはそういうわけにはいかない。
 目立って背が高い方ではない俺も、女性としては背が高い方だと思う晶子も、めぐみちゃんから見れば見上げる高さだ。そんな身長の人間が多数集う
場所だと、肝心のめぐみちゃんが満足に金閣寺を見られない。展望台や、そこまでいかなくても高台が用意されていると期待しない方が良いから、俺と晶子で
対処するしかない。

「混雑は仕方ないとして、めぐみちゃんが見えるようにするにはどうするかだな。」
「団体の観光客なら一定時間で移動しますからそれを待てば良いでしょうけど、そんな人ばかりじゃないでしょうからね。」
「それもあるし、めぐみちゃんは俺達と身長差があるから、混雑してると見ようにも見えない。」
「お昼ご飯食べに行った時みたいに祐司さんや私が抱っこするか、それでも見辛いようなら・・・肩車とか。」
「肩車、か。」

 候補としては一応考えていたが、肩車した経験はない。めぐみちゃんを抱っこした限りではさほど重くはないが、肩車出来るかどうかちょっと自信がない。
あと、めぐみちゃんが俺に肩車されることに抵抗がないかという問題もある。まあ、肩車が駄目なら抱っこで視線の高さはほぼ俺や晶子と同じくらいになるから、
不安がる必要はないか。

「めぐみちゃんを抱っこするのは祐司さんばかりでしたから、私もしますね。」
「ああ、ありがとう。その時は頼む。」
「はい。」

 晶子が抱っこできるかどうかを心配する必要はない。晶子は華奢な外見だがそれなりの力仕事が出来る。普段だとスーパーで棚に置かれている米袋を
取ったり、米びつに入れたりすることだ。俺も手伝うが、俺が掃除その他と別のことをしている時は晶子1人でする。
 「祐司さんとこうして一緒に暮らすまで、自分の家のことは自分でしてましたから」。・・・これが、俺に対する晶子の回答だ。確かにそうしないと、毎日
自炊なんて出来るはずがない。
「あたし、重いの持てなーい」なんて可愛い子ぶってるようでは何も出来ない。誰か−主に男−に何かをさせる知恵は身に付くだろうが、それも若いうち、
厳密に言うと化粧で若作り出来るか身体を餌に出来る歳までだ。その時期を過ぎたら惨めなことになるだろう。
 北上する烏丸通は車の量が多い。京都は地図で見ると狭い道路が碁盤の目のように走っているから車で走り回るには合わない場所だと思うんだが、大通りは
そうでもない。町並みが日本家屋の装いでほぼ統一されていること以外は、俺と晶子が買い物に出かける時に沿って歩く大通りと変わらない風景だ。

「祐司お兄ちゃんと晶子お姉ちゃんは、車持ってないの?」
「ああ。持ってないよ。どうして?」
「新婚旅行で京都に来るより、ドライブ行ったりするんじゃないかなって。」

 そう思っても不思議じゃないな。旅館で俺と晶子を客室に案内した従業員の人も、俺と晶子くらいの年齢で京都に新婚旅行に来るのは珍しい、と言ってたし、
新婚旅行と言えばハワイやサイパンといった海外の方が主流で、同じ日数宿泊するにしても国内より安い場合が多いくらいだ。めぐみちゃんの言うとおり、
旅行で京都に来るより車で高速道路をかっ飛ばす方がイメージとしては近いだろう。

「それもありだけど、今のところ車は必要ないって思ってる。」
「晶子お姉ちゃんもそうなの?」
「うん。どうしても必要な時はレンタカー−車を貸してくれるところに行けば良いし、祐司お兄ちゃんが言ったとおり、今のところ必要ないと思ってるから。」

 俺と晶子の車に関する方向性は一致を見て久しい。ドライブは晶子が望んだ「別れずの展望台」への1回きりだし、以降晶子はドライブを口にしたことがない。
買い物は一緒に行っているが、紅茶の専門店がある大型量販店も含めて歩いて行ける範囲内にあるし、車を必要とするほど重いものや大型のものを買う必要は
今のところない。雨が降ってもどちらかが傘を差せば良いだけのことだ。
 大学は電車通学だし、最寄り駅からは今までどおり徒歩で行き来している。最寄り駅に駐車場はあることにはあるが、全て月極だから別途契約する必要が
あるし、確認した限りでは全部埋まっているから入る余地がない。今のような遠出の際には、電車なりバスなり公共交通機関と徒歩を組み合わせば事足りる。
俺の家があるアパートと晶子の家があるマンションにはそれぞれ駐車場があるが、どちらも駐車出来る数が入居者総数より少ない。住宅地だし、晶子の家は
30人ほどが入居しているから、その分を用意するのは1人暮らし用途のマンションだと難しい。俺が転居してきた時には駐車場が既に満員だったし、晶子も
そうだったそうだ。俺も晶子も車を持たないと決めていたから、駐車場の有無を考慮しなかった。
 一緒に住むようになってからも、出かける場所は決まっているし、車の必要性を感じない。せいぜい「あったら便利かも」と思うくらいだ。だが、車は中古でも
数十万、新車ならほぼ間違いなく百万の単位に達する。俺は4年の学費を自分で出すと決めているし、バイトの収入を全て貯金している晶子も車に回すつもりは
毛頭ない。だから、車を持つことは考えてない。

「珍しい?」
「うん。祐司お兄ちゃんと晶子お姉ちゃんって、20代でしょ?」
「うん。2人揃って大学生。」
「車に乗ってる人多いから、車を持ってないのは珍しい。」
「そうね。お姉ちゃんも珍しいと思う。」

 晶子は至ってあっけらかんとしている。開き直っているわけでもない。自分と相手の俺が車を持ってないことを認め、必要がないから持たないと単純明快な
方針で一致していることに自信を持っている。そう出来ないと、俺のような貧乏学生と婚姻届を出すだけというところまで付き合いを深めたりは出来ないだろう。
 新京大学はのキャンパスは無闇に広いから、駐車場は十分ある。付属病院がある医学部は見舞い客や通院で車を使う患者が居るから広い駐車場があるのは
当然として、他の学部にもそれぞれ教職員用と学生用の駐車場がある。季節や時間帯によって異なるが、学生用駐車場には車が多い。智一も利用者の1人だが、
国産車からどうやって買ったのか外車まで色々だ。
それを見て「こんな車あるんだ」とか「こんな車乗ってるんだ」とか思うことはあるが、欲しいと思ったことはない。やせ我慢でも何でもなく、興味がないだけだ。
メジャーな一部の車種しか判別出来ないくらいだし。
車より、ギターや弦のメーカーの方を良く知っている。定期的に交換なりメンテナンスしないと音が悪くなる。以前晶子が所属するゼミで即席ミニライブを
した時に掘り出されたギターは、メンテナンスもなしに放置されていたせいで音が狂っているのが直ぐに分かった。
 あれもこれも手を出していたら、俺の財布ではとても賄えない。「必要なもの」がまず前提にあって、次に「欲しいもの」が浮上する。買い物の時は殆どそうしてる。
そうしないと無駄なものを買ってしまって、結果的に損になる。この概念がないと浪費が生じる。経済学云々以前の問題だ。

「でも、車がなくても、晶子お姉ちゃんは祐司お兄ちゃんと一緒に居られる方が良いんでしょ?」
「うん。勿論。」
「祐司お兄ちゃんもそう?」
「ああ、そうだよ。」
「本当に、仲良いんだね。」

 めぐみちゃんは、悲しそうと言うより寂しげな表情を見せる。俺と晶子の仲と両親の不仲を比較して、あまりの落差に悲しいを通り越してしまったんだろう。
こんな悟りめいたこと、少なくともめぐみちゃんの年齢でするもんじゃない筈なのに・・・。

「恵美も大きくなったら、祐司お兄ちゃんと晶子お姉ちゃんみたいになりたい。」

 将来の希望を語るめぐみちゃん。今を楽しむことに絶望して将来に目を向けるようにしているのなら、悲しい。こういう育ち方をする子どもも居る、と
割り切るしかないのも事実。俺と晶子にめぐみちゃんを引き取って育てろ、と言われても無理なのもまた事実だ。

「それなら、まずお兄ちゃんみたいな男性(ひと)を見つけないとね。お兄ちゃんみたいな男性を見つけるのは大変よ。自分は、自分が、って
表にしゃしゃり出てこないから。」
「どういうこと?」
「えっとね・・・。色々着飾ったり、お金持ってるところ見せびらかしたり、良いカッコしようとする男性って、めぐみちゃんには分かる?」
「うん、分かる。」
「お兄ちゃんはそういう男性じゃなくて、それとは反対のタイプだって分かる?」
「うん。」
「着飾ったりお金持ってるところを見せびらかすような男性は目に付きやすいし、気をつけてないとそういう男性に流されちゃう。お兄ちゃんみたいな男性は
控えめで目立とうとしないから、気をつけてないと見逃しちゃう。だからお兄ちゃんみたいな男性は見つけるのが大変ってこと。これで分かる?」
「うん。分かった。」

 説明が飲み込めなかっためぐみちゃんに、晶子は順を追って説明する。語彙や言い回しが豊富だから出来ることだ。読書好きな晶子の一面が垣間見える。

「目立つ男の人には注意した方が良いってことなんだね。」
「そう。女の人の前で目立とうとしてる男性には特に、ね。」

 何だか・・・、俺は聞いてはいけないものを聞いちまったような気がする。晶子とめぐみちゃんが展開してる話って、男に対する女の策略そのものだよな。
めぐみちゃんはかなり素直だから−そうしないとあの両親の傍では生きていられなかったのもあるだろうが−、晶子の「知恵」をそっくりそのまま取り入れるだろう。
 男の1人として晶子の言うことは間違っては居ないと思う。もてようとする男は、自分の「長所」をアピールするのに躍起になる。「もてる男」になろうと、
流行の服を着たり気前良く奢ったり、女の会話に同調しようとする。
だが、大抵はその意向に反する方向に女の意思は動く。「もてようと必死でみっともない」と哀れまれるくらいならまだ良い方で、「もてようと必死で気持ち悪い」
「何だか怖い」と抵抗感や警戒感を抱かれて遠ざかることもある。男の方はそれに気づかないから、より必死になる。悪循環の1つだ。
 「もてよう」と必死になるより、自然体で居た方がもてるとまではいかなくても、意外に異性に好かれたり好評を得られたりするようだ。
俺が宮城と付き合っていた時−高校時代のことだが、宮城にノートを貸したり放課後マンツーマンで教えたりしている時や、バンドのメンバーと練習したり
ああだこうだ雑談したりしている時に、近くに居た女から「結構カッコ良い」とか「何か良い」とか言う声が聞こえて来た。逆に、もてようと笑いを取ったり
している男が、当人の見えないところで「みっともない」とか「勘違いしてる」とか評価を下げる一方だった。宮城が一緒に居てそういう声を聞いたり、
宮城から間接的に聞いたりと形式は異なるが、そういうものらしい。
 晶子と出逢って晶子のストーカーまがいの熱心なアプローチを受け、交際を始めたのも、もてようと意識してのことじゃない。むしろ、晶子の時は正反対の
言動を続けていた。そう言えば、田中さんが言ってたな。「余裕があるから輝いて見える」とか。晶子の言うとおり、もてようと必死になるよりそのままで
居た方が良いように思う。

「晶子お姉ちゃんは、上手く祐司お兄ちゃんを見つけられたんだね。」
「うん。お姉ちゃん、自分でも本当に幸運だと思う。」

 幸運、か。俺と晶子の出逢いも幸運そのものだった。どうしても「たられば」の話になるが、あの時俺と宮城がまだ続いていたら、あの日あの夜コンビニの
レジであの瞬間に並ぶことはなかっただろうし、そのまま互いの顔も名前も知らないまま大学を出てそれぞれの道に進んでいただろう。出逢いってもんは、
本当に奇跡的な確率の上に成立するもんだと思う。
 バス停に到着。意外と人は少ない。面する烏丸通にはかなり車が行き交っている。これだけ車が多いと、バスが定刻どおり来ることに期待はしない方が無難だ。
バス専用レーンがあっても平気で走る車も多いし。

「時間は・・・、一応10分ほどで来ることになってるけど、期待出来ないな。」
「そうですね。これだけ交通量が多いと。」
「めぐみちゃん。バスが来るまで待ってような。」
「うん。」

 めぐみちゃんの声の調子は思いの外明るい。まあ、四六時中親の顔色を窺ってなけりゃならない状況より、普通に会話出来る今の方がましだろうから当然と
言えばそうなんだが・・・、当然のことが出来てないあの両親には、ほとほと呆れてしまう。子どもが出来たら自動的に親になるんじゃなくて、講習なり研修なりで
一定の知識や技術を身につけてないと親になれないようにすべき、という論に納得してしまう。
 バス停で待っている人は、俺と晶子とめぐみちゃんの他、数人居る。老人が多い。妥当な年齢層か。団体客は貸切バスで移動するし、俺と晶子くらいの若い
年代の観光客は京都にあまり来ないらしいし。
逆に見れば、他の待ち人からすれば俺と晶子とめぐみちゃんは相当若くて浮いて見えるかもしれない。気にはしないし、ならない。外に出るのにいちいち
他人の目を気にしてたらやってられない。そこまで人見知りじゃないつもりだ。

「祐司お兄ちゃんと晶子お姉ちゃんは、携帯電話って持ってる?」

 少しして、めぐみちゃんが話しかけて来る。話題がいきなり変わったが、話をするのは嫌いじゃないから構わない。

「ああ、持ってるよ。」
「お揃いなのよ。」

 晶子は尋ねられるのを待っていたかのように、嬉々とした表情で携帯をコートの内ポケットから取り出してめぐみちゃんに見せる。青みがかったシルバーの
携帯は俺と晶子が一緒に買ったもの。専ら俺と晶子の専用連絡ツールとなって久しい。

「綺麗な色だね。」
「めぐみちゃんも持ってるの?」
「ううん、恵美は持ってない。けど、友達が持ってる。」

 幼稚園で携帯持ってる子も居るのか。つい最近まで携帯を持ってなかったし持つ気もなかった俺には、ちょっとしたカルチャーショックだ。今は大人どころか、
中高生も携帯を持ってるから、小学生や幼稚園でも持っていて不思議じゃないか。親が持たせるかどうかの話だし。
 店に来る客は大抵席で携帯を弄っている。メールを見たり書いたりしているらしく、キーを素早く押す姿をよく見かける。客は2人以上の割合が多いが、
注文を取りに行くまでの間や、注文待ちの時間で会話せずに携帯に集中していることも珍しくない。
席に座ってメールを読み書きしたりする分には、別に構わない。問題なのは客席で大声で電話をする時だ。普通に客の話で店内が賑わうのは自然だから
良いんだが、電話はかなり浮くし、悪い方向に目立つ。店内には「携帯電話の使用にはご注意ください」と張り紙を出してあるが、それを無視する客が偶に居る。
俺が注意しても、「もう少し」と言うくらいならまだ良いが、「邪魔するな」と切れる客が稀に居る。そういう客でもマスターが出ると大人しくなるのは、
ぱっと見の威圧感の違いだろう。
 携帯のマナーは普及と浸透に伴って悪化しているように思う。電車内で携帯で電話する奴は「普通」で、道路でも携帯で通話しながら車を運転している
奴すら居る。時々自転車でも携帯を使いながらーキーを操作しているところからして多分メールを書いてるんだろう−運転している奴とも出くわす。
電話ならまだ前や左右が見えるが、メールを読み書きしている時は液晶画面を見るから−携帯をブラインドタッチ出来る人はまだ知らない−当然前は
見えてない。それでもかなりのスピードで突っ走ってくるから、他の人はたまったもんじゃない。よく事故を起こさないもんだと思う。

「幼稚園で持ってる子って、何に使ってるの?」
「お父さんやお母さんに、電話してる。ピアノや水泳に行くから迎えに来て、って。」

 「帰るコール」ならぬ「迎えに来てコール」か。それは店の中高生の客がしているところを時々見かける。塾は胡桃が丘にもあるが、新京市駅前や小宮栄駅前には
大手予備校がある。送迎は親がしているそうだ。
 幼稚園から習い事となると、結構苦痛なんじゃないかと思う。俺は珠算教室にだけ通ったが、小学校になってからだった。それでも結構苦痛で、小学校卒業と
共に辞められて内心ほっとした憶えがある。ギターは中学の時興味を持ったのがきっかけで自分から手がけたから、練習を重ねて複雑なコードやフレーズが
弾けるようになる達成感の虜になった。
 高校の頃は塾通いが当たり前で、成績上位者でも塾に通っているのが普通だった。一応成績上位常連組の1人だった俺やバンドのメンバーは、バンドの
練習後に勉強会を開いて、相互補完していた。耕次と宏一が国語系科目や英語や社会系科目といった文系科目、俺と勝平と渉が数学や理科系科目の理系
科目を主として、宿題やテスト対策以外に根本的な疑問−倫理で何故こういう概念が生じてきたのかといった、授業では行われない命題について討論
したりした。
 「数学や理科が出来ないことを理由に文系に行く奴は居ても、国語や英語が出来ない奴が理系に行くことはまずない。此処に日本社会の根本的脆弱性が
ある」というのが、度々生徒指導の教師と対決した耕次の理念の1つだった。論理立てて、系統立てて物事を理解しようとしない。その場その時の流れや
勢いに加担して突っ走る。だから同じ失敗を繰り返す。その先導役がマスメディアだ、というのも耕次の持論だった。
一方「理系の人間が社会や言語に疎いことが日本の学術振興や海外戦略を理系主導で出来ないで内輪の自己満足で終わる」「理系の人間の科学技術マニア
ぶりが似非政治家や似非経済者に牛耳られる社会構造の形成に寄与している」とも言っていた。理系志望の面子には耳の痛い言葉だったが、それは違うと
反論しきれない現実を耕次に何度も突きつけられた。だから、文系志望の面子は数学や理科系教科にも力を入れたし、理系志望の面子は文系教科にも
力を入れた。

「着メロとかは制限つきだから最初から入ってるもの以外に出来ない、って言ってた。」
「子ども向けの料金プランだな。際限なく電話やメールを使ったり、変なWebサイトにアクセスして犯罪に巻き込まれるのを防ぐためだよ。」
「それがつまんない、って。」

 欲しいものがあっても我慢するのは勿論だが、誰かが持っているからと言って直ぐ欲しくなるのを抑制するのも大事だ。それを知らないまま成長すると、
超が付くほどの我が侭になって周囲に迷惑をかけるか、顰蹙を買って孤立するかのどちらかだ。だが、そうでないことも多い。王様か女王様みたいに
ちやほやされ続けて、我慢することを知らないまま大きくなった奴も居る。
 めぐみちゃんは、あのろくでもない両親の下で絶えず自分を抑圧することを強いられてきた。幼稚園の友達が携帯を持ってるから自分も欲しい、と言おう
ものなら直ちに罵倒されるだけならまだ良い方で、殴られても不思議じゃない。それでめぐみちゃんが我慢することを体得したのは、決して両親の功績じゃない。
めぐみちゃんが身につけた処世術だからめぐみちゃん1人の功績だ。
あの両親は警察に連行された。今頃警察署でこっぴどく灸を据えられているだろう。もう二度とめぐみちゃんに当り散らす気力が出なくなるまで絞ってやって
欲しいし、我慢するってことをしっかり叩き込んでやって欲しい。そうじゃないと、めぐみちゃんが不幸でしかない。

「祐司お兄ちゃんと晶子お姉ちゃんは、着メロとかどうしてるの?」
「電話の方もメールの方も、お兄ちゃんが作ってくれたの。」

 またも「待ってました」とばかりに晶子が答える。俺が言うより早く、晶子は携帯を操作する。電話の着信音かメールの着信音か分からないが、早速
めぐみちゃんに聞かせるつもりなんだろう。
晶子の携帯から「Fly me to the moon」のギターソロバージョンが流れる。電話、メールの順で着信音を聞かせるのか。2種類しかないからどちらが先でも
大して変わらない。1フレーズ分演奏させてから止める。

「これが、電話の着信メロディ。」
「かなり大人しい曲だね。電話の着メロって、高い音で『ピリリリリ』っていうのが最初から入ってるみたいだけど、お友達のは賑やかなのが多い。」
「そうね。着信メロディは割と賑やかなのが多いね。お姉ちゃんは、お兄ちゃんに頼んでこの曲にしてもらったの。電話でびっくりするより『あ、電話だ』って
気が付くくらいの方が良かったから。」
「聞いたことない曲だけど、凄く良い曲。」
「曲の名前は『Fly me to the moon』っていってね。これは、お兄ちゃんがギターだけで演奏するためにアレンジしたものなの。」
「祐司お兄ちゃん、ギター弾けるの?」
「うん。凄く上手なんだよ。」

 俺のことを自分のこと以上に−自分自身の自慢は聞いたことがない−自慢するのは、何時もの晶子だ。着信音のことを初めて尋ねられた時に晶子が嬉々として
答えて聞かせた様子が、簡単に想像出来る。このやり取りで、めぐみちゃんを他の誰か−晶子が居る文学部やゼミの人あたりに置き換えれば、再現出来ると
断言しても良さそうだ。

「次は、メールの着信メロディ。これは、めぐみちゃんも聞いたことあるかもしれないね。」

 晶子が次に鳴らすのは、当然メールの着信音「明日に架ける橋」。「Fly me to the moon」の時は興味と疑問−「何の曲か」という類のものだと思う−が混じった
顔で聞いていためぐみちゃんは、今度は「聞いたことがある」ような明るい表情だ。

「これ、聞いたことある。題名は・・・『明日に架ける橋』だったかな。」
「大正解。よく知ってたね。」
「友達が前に着メロにしてた。何て曲か訊いたら教えてくれた。これも大人しい曲だね。」
「メールも電話と同じで、届いてびっくりするより『あ、メールが来た』って気づけるくらいの方が良かったから、これにしてもらったの。」
「晶子お姉ちゃん、大人しい曲が好き?」
「そうねー。どちらかっていうとそうかな。騒々しいって思うような曲は聞かないくらいで、色々聞くよ。」

 最初は腰を曲げて視線の高さをめぐみちゃんに合わせていた晶子は、「明日に架ける橋」を聞かせ始めたあたりでしゃがんでいる。極力「上から目線」じゃなく
「相手と対等に」と行動する晶子らしい。無論、めぐみちゃんの両親のように例外はある。

「変えたりしないの?」
「凄く気に入ってるから、お姉ちゃんは変えたくないな。お兄ちゃんが作ってくれた大切なものだから『長く使ったから取替え』なんてことは出来ないし、
したくもないし。」
「着メロって、専用のところから買うって聞いたことあるけど、作ることも出来るの?」
「うん。だけど、1つ1つ音符を入力していかないといけないから、凄く時間と手間がかかるの。お兄ちゃんはね、大学のお勉強とバイトで凄く忙しくて
大変なんだけど、そんな中で作ってくれた。だから、この2つの着信音はお兄ちゃんとお姉ちゃんしか持ってない、大切な宝物なの。」

 晶子はめぐみちゃんを相手に穏やかな表情はそのままに、口調は真剣そのもので語る。
俺が手入力することを了承し、亀の速さでの進捗を楽しみにしていた。出来上がって晶子の携帯に転送し、設定を完了した後、晶子は本当に喜んでくれた。
あの笑顔を見られただけで、それまでの単調且つ地道な作業の苦労と時間は十二分に報われた。
 あれからそれなりの時間が流れた。携帯着メロ専用Webページがあるくらいだし、大手ページでも頻繁に新曲が追加されているから、着信音は事実上
使い捨てが当たり前になっているように思う。そんな中である曲をずっと使い続けるのは珍しいだろうし、それだけ愛着があるということでもある。
これだけ使い込んでくれれば、入力した俺も曲自身も本望だろう。

「晶子お姉ちゃんは、祐司お兄ちゃんが作ってくれた着信音を凄く気に入ってて、凄く大切にしてるんだね。」
「うん。」

 晶子は即答して微笑む。余程気に入ってるんだな・・・。この分だと、作っている途中の「Stay by my side」は俺の携帯の中だけで眠ることになりそうだ。
それはそれで構わない。自分が作ったものを長く使ってもらえるのは嬉しい。
 バスが見えてきた。まだ遠いし、渋滞に巻き込まれているからなかなかスムーズに近づいてこない。俺と晶子は慌てる必要はないが、両親が警察から
解放されるまでの猶予しかないめぐみちゃんのことを考えると、渋滞がもどかしい。

「祐司さん、どうしました?」
「バスが見えてきた。」

 晶子はしゃがんだままだ。立っている俺から見ると上目遣いだし、ブラウスの襟元から鎖骨の延長線が交差するあたりとそれより少し下が見えるから、
ちょっとドキッとする。

「渋滞に巻き込まれてるから、到着にはもう少しかかりそうだな。」
「車、多いですもんね。」
「こればっかりは待つしかない。」

 小さい溜息が出る。車だと出発時間を気にせずに道路があるところなら何処でも好きに行けるが、数が多過ぎると渋滞が発生して逆に行こうにも行けずに
立ち往生してしまう。観光地や市街地だと公共交通網がそれなりに整備されているからそちらを使うべきなんだろうが、車ってのは一度馴染むと1kmに満たない
距離でも歩いたり自転車といった人力手段を避けて車を使うようになる麻薬的な特質を持っているらしい。
 智一は大学合格後に直ぐ免許を取って、兄さんから譲ってもらった今の車に乗るようになった。だから、通学は最初からずっと車だったし、今でもそうだ。
車を使わなかったのは、俺と飲みに行った時程度だったそうだ。そんな智一が体験談として言っていたから、車の依存性にはかなり真実味がある。
京都は観光案内の地図を見たところ、地下鉄もあるし−割と最近出来たそうだ−バス路線は結構張り巡らされている。それを使えば日中の移動は簡単に
出来ると思うが、車を使うと依存してしまうんだろう。それが慢性的な渋滞の原因になっているように思う。
 環境云々とか地球温暖化云々とかスケールの大きな話より、渋滞を我慢したり交通事故の心配をしたり、毎日必要ならまだしも、週末に出かける程度で
高いガソリンや税金−普通車だと年間十万単位が必要らしい−などを払って維持するより経済的なんじゃないかと思うが、それは「ケチ」と言われる部類らしい。
こういう時、価値観ってものが問題になる。ガソリン他維持費を払ってでも道路があれば自分の好きな時間に好きな場所へ、大きな荷物や重い荷物も同時に
運べる車を持つか、荷物の移動は手数料を払うことで店に依頼して、自分達の移動は公共交通機関に徹するか、大まかに2つに分けられる選択肢のどちらを
取るか、車を持つ選択肢に絞ると、維持費が割と安いらしい軽で済ますか、普通車にするか、次にどんなタイプの車−スポーツカーか普通の乗用車かと
いったこと−を選ぶか、色々と価値観が左右する。
 単独なら本人の問題で片付けられる。車が欲しければ借金してでも買うだろうし、必要ないと思ったら買わないと出来る。だが2人以上、しかも生活を
同じくする他人とだと、価値観のすり合わせが必要になる。自分の価値観を押し通すか相手の価値観を丸ごと飲むか、適当なところで妥協するかと色々あるし、
妥協でもどの程度妥協するか程度によるが、上手くすり合わせが出来ないと人間関係にひずみが生じる。その時だけなら良いが、後々まで影響を及ぼすと
大抵悪い方向に働く。
 俺と晶子は、価値観で殆ど衝突することがないように思う。比べるのは良くないが、宮城の時より明らかに衝突や妥協の頻度は少ないし、あっても深く
悩んだりしなくて済むレベルだ。一言で言えば「相性が良い」というやつだろう。これほど相性が良いことは多分珍しいと思う。
俺は晶子との付き合いに不満はない。それより、晶子が我慢したり抑え込んだりしてないか気がかりだ。無論、我慢させ続けたりするつもりはないから、
それとなく−俺がそう思えるレベルだが−尋ねてみる。晶子の答えは決まっている。「何も不満はない」と。その時の顔はいたって明るいものだし、目や口調は
表情に同期している。嘘を言っているようには思えない。

「お兄ちゃんは、バス見えるの?」
「上の方が少しだけとな。・・・見たい?」
「・・・うん。」
「よし。抱っこしてあげる。」

 遠慮気味に答えためぐみちゃんを、俺は屈んで両手を広げ、「おいで」というジェスチャーをする。めぐみちゃんはやっぱり遠慮気味に近づいてくる。
今までの熾烈と言える生活環境からすれば、他人、特に年長者から好意的に誘われることに慣れてないだろうから、こういう反応は当然だろう。
 喫茶店に行った時の要領でめぐみちゃんを抱っこして、北を向く。めぐみちゃんの目線は俺と同じくらいになっているから、バスが見える筈だ。

「見える?」
「うん、見える。バス、なかなか来れないみたい。」
「渋滞してるからな。でも、もう少し待てば来るぞ。」

 渋滞に巻き込まれてはいるが、少しずつバスは近づいている。俺はめぐみちゃんを下ろす。めぐみちゃんは晶子と手を繋ぎ、続いて俺と手を繋ぐ。
晶子は膝を伸ばしてバスを待つ。
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