雨上がりの午後

Chapter 226 降り注ぐ朝の光に包まれて

written by Moonstone


 ・・・じさん。祐司さん。ん・・・。晶子か・・・。
 ゆっくり開けていく視界はまだぼやけている。左の頬に小さな温かい感触が生じる。

「祐司さん、朝ですよ。」

 耳元で甘い声で囁かれる。くすぐったさが意識と視界の輪郭を明瞭にしていく。
浴衣を着た晶子が俺の傍に座っている。きっちり着ているから、何事もなかったかのようだ。

「・・・おはよう。」
「おはようございます。」
「旅館の人、来たのか?」
「いえ、まだです。」

 まだと知って少しほっとする。晶子が起こしても起きなくて、朝飯を運びに来た旅館の人を外で待たせてるってのは、旅館の人達も知ってはいるだろうがちょっとな・・・。
晶子から浴衣と帯と下着を受け取って手早く着る。きちんと畳んであるところが晶子らしい。晶子は稀に俺より朝が鈍くなることがあるし、昨夜は何時も以上に激しかったから
どうかと思ったんだが、要らぬ心配だった。
 部屋にある洗面台へ行き、顔を洗ってうがいをして戻る。晶子が茶を入れて待っていた。晶子は向かいじゃなくて、俺の隣に座る。直ぐに軽く凭れかかってくる。
一旦湯飲みを持った俺は、湯飲みを机に置いて晶子の肩を抱く。

「よく眠れました・・・。」
「俺もだよ。」
「重くなかったですか?私、祐司さんに覆い被さる格好で寝ちゃって・・・。」
「否、少しも。」

 あのまま寝たのか。俺も直後に寝たようだし、何時もどおり晶子が起こしてくれたから、重いとか感じる時間がなかった。
それに、晶子はかなり軽い。以前試しに抱え上げて−所謂「お姫様抱っこ」−みたんだが、思った以上に軽くて勢いで天井に向かって投げ出しそうになった。
晶子の体重は聞いて知っている。それも以前知らせた時より幾分減っている。晶子は体重計を気にするタイプじゃない。俺の家には体重計自体がないから、晶子が服を
交換しに自分の家に戻る時に計っている。それも毎回じゃないから推移の詳細は分からない。だが、意識せずとも減っているのは凄いと思う。
 茶を一口啜る。入れたての茶は濃くて、若干残っていた眠気を完全に消去する。湯飲みを置いて改めて晶子を見る。重たくない程度に俺に凭れかかっている晶子は、
幸せそうに微笑んでいる。
昨夜のことが頭に浮かんでくる。晶子の身体を隅々まで指と唇で堪能した後、1回目から激しかった。俺も晶子も。俺の下や上で喘ぎ動いた晶子は今俺の隣に座って
俺が肩を抱いている晶子と同一人物かと、ちょっと疑問に思ったりする。
入れ替わりがあるわけないし、同一人物だということは俺自身分かりきっている。だが、同一人物かと思うくらいのギャップが現にある。このギャップが、晶子を
抱いている時の性的興奮を高めているように思う。

「ねえ、祐司さん。」

 晶子が徐に顔を上げて話しかけてくる。上目遣いの顔にはこれまで以上にぐっと来るものがある。

「・・・何だ?」

 しまった。見惚れてて間が出来ちまった。だが、晶子は訝ったりしない。

「私と祐司さんの間に子どもが出来るとしたら、男の子と女の子のどちらが良いですか?」
「ん・・・。」

 晶子の質問に少し考える。妊娠しているなら産んで欲しいとは言ったが、男か女かどちらが良いとまでは言ってないし、この質問自体今回が初めてだったりする。
どちらでも良いと言うのが真っ先に浮かぶが、ちょっといい加減な気がする。

「深く考えなくて良いですよ。」
「自分が親になることにいまいち実感がわかないから、意外に難しいんだ。まあ、ぱっと考えてみると・・・女の子かな。俺の兄弟は弟1人だし、女の兄弟−正確には姉妹か、
姉妹が居ると良いかなって思う。理由付けの焦点がずれてるな。」
「いえ、どうなのか聞きたかったんですから、漠然とした考えで良いんです。」
「晶子は?」
「私は・・・祐司さんとは逆で男の子の方が良いかな、って。」

 晶子の回答はちょっと意外だ。晶子には確か兄さんが居るから男の兄弟の居る実感が分かるだろうし、そこから考えると女の兄弟−姉妹だな−が良いかと思うと
予想していたんだが。

「意外そうですね。」
「ああ。」
「娘とお父さんの取り合いをしてみたいな、って。」
「娘と?」

 これまた意外な理由に思わず聞き返す。俺と晶子の娘が、晶子と俺を取り合う・・・。あまりイメージがわかない。逆に、俺と晶子の息子が「将来お母さんと結婚する」と
言って、俺と晶子を取り合う様子はイメージ出来るが。

「これも意外そうですね。」
「意外。娘と晶子が俺の取り合いって、想像し難い・・・。」

 答えてから改めてイメージを試みるが、構図が浮かんでこない。逆の構図なら直ぐイメージ出来るんだがなぁ・・・。

「娘がある程度大きくなって−5、6歳くらいですかね。そうしたら娘が『将来お父さんと結婚する』って言い出して、私は『お父さんはずっとお母さんのものなんだから駄目』
とか言って、私と娘で祐司さんを取り合うんです。」
「娘が息子で取り合うのが俺と息子なら、ぱっと想像出来るんだけどな。」
「息子が『将来お母さんと結婚する』って言って、祐司さんとで私を取り合う様子ですか?」
「そうそう。」
「そういう様子もあると、面白そうですね。」

 晶子は楽しそうにくすくすと笑う。晶子との間に息子と娘が出来て、俺は息子と晶子を取り合って、娘は晶子と俺を取り合う・・・。何だか奇妙な対決構図だ。
でも、仲違いして顔も合わさない、口も利かない張り詰めた重い空気よりはずっとましだ。

「息子が生まれても娘が生まれても、祐司さんは絶対良い父親になると思ってます。」
「そうか・・・な。晶子が良いお母さんになるのは間違いないけど。」

 晶子が良い母親になるのは簡単に想像出来る。料理は美味いし、怒鳴って頭ごなしに言うことを聞かせることはしない。見た目は申し分ない。子どもの友達に
羨ましがられる母親の典型例だ。
対する俺は、自分が父親になった様子が上手くイメージ出来ない。子どものオムツを換えたりあやしたりするところをイメージしてみるが、「こんな感じかな」という漠然とした
イメージすらもおぼろげだ。こんな状態で父親になれるんだろうか、ちょっと不安だ。

「子どもは何人欲しいですか?」
「ん・・・。出来れば2人かな。兄弟や姉妹が居た方が良いかなと思う。漠然とだけど。」
「私も出来れば2人欲しいです。」
「子ども関係で結構突っ込んだことを聞くのは、晶子が子ども好きだからか?」
「ええ。」

 晶子の子ども好きは買い物に出かけた時に分かる。スーパーの内外に居る子どもをよく目で追っている。菓子コーナーでどれにしようか迷っている−大抵個数を制限されて
いるもんだ−ところは、時々微笑みながら見入る。晶子が子どもを可愛がるのは間違いない。俺は・・・可愛いと思うだろうが実感がわかない。男と女の違いもあるんだろうか。

「出来れば今直ぐ欲しいか?やっぱり。」
「半々ですね。暫くは見送りたいっていう気持ちと。」
「何で半々なんだ?」
「子どもが出来たら、私が祐司さんを独占出来なくなっちゃいますから。特に娘が出来たら。」

 独占欲に伴う嫉妬までは行かないが警戒心を子どもにも向けるのか。むしろ俺の方が晶子べったりになった子どもを見て、甘えるなとか言いそうな気がする。
晶子は子ども好きだから甘えさせるだろうし。
 子どもを交えた光景を想像していると、ドアがノックされる。朝飯が運ばれてきたんだろう。俺の肩から頭を上げた晶子をやんわり制して、俺が応対に向かう。
旅館が旅館だけに不審者の出入りはないと思うが念のため。ドアを開けると、膳を持った女性達が笑みを浮かべて一礼する。

「おはようございます。」
「おはようございます。」
「朝ご飯をお持ちいたしました。」
「ありがとうございます。」

 ドアを開けて、女性達を入れる。整然と列を成して入室する。俺とすれ違う際に改めて「おはようございます」と言うのも、旅館の質の高さを感じさせる。
晶子も立ち上がって女性達と挨拶を交わす。ついさっきまでの甘えた様子は欠片も見せない。
料理が机に並べられて、女性達がやはり整然と退室していく。俺が見送ってドアを閉め、机に向かう。少量多種の料理は箸で崩すのが惜しいほど綺麗に盛り付けられている。
晶子は俺の向かい側に座る。穏やかな雰囲気の中、俺と晶子は朝飯を食べ始める。

 食事を終えて、俺と晶子は外に出る準備をする。準備と言っても着替えが中心。浴衣から持ってきた服に着替えて、財布と携帯を持てばほぼ完了と相成る。
晶子は普段どおり髪をおろしている。少し違うのは、前に屈んだりする時に髪が不要に垂れないよう、少量束ねて後ろで結わえているところ。服は明るいブラウンで
リボンも似たような色。晶子の髪は茶色がかっているから、茶色系統でほぼ統一された格好だ。
 バイトの時は料理に「髪の毛が入るといけないから」という理由で髪を後ろで束ねているが、その時はリボンをつけない。ゴムで束ねるだけだ。髪を束ねる理由が理由だから
装飾の必要はないと考えているそうだ。これは潤子さんも同じ。リクエストタイムの時に髪をおろすのも同じだが、これを見ただけで男性客、特に中高生の客から
歓声が上がる。立ち聞きした限りでは「束ねていたストレートの髪が広がる瞬間が堪らない」というのが理由らしい。納得は出来る。
 長い髪は晶子のトレードマークの1つ。よく手入れされているから艶も豊富。だから何もしなくても十分なんだが、普段と少し違ったところが見られるとそれだけで
嬉しくなる。「特別なものが見られる」っていう単純な優越感もどきだ。

「よく似合ってるな。」

 俺は、近づいてきた晶子の髪に手をやる。晶子は少しくすぐったそうにするが、嫌がったりはしない。触りやすいようにより近づいてくる。これは家に居る時と同じ。

「そうですか?嬉しいです。」
「普段こういう髪型しないから、新鮮なのもある。」
「そのままか束ねるかの二極ですからね。今は特別ですから。」
「この色のリボン、前に買ったばかりのやつだよな?」
「あ、憶えててくれたんですか?」
「ああ。晶子がリボン買うのって珍しいからな。」

 買い物に行った際に少し遠い大型量販店に行って−普段行くスーパーは食品と日用品しかない−服を買いに行くことがある。晶子はあまり服を買わない方だ。
ブランド物や宝石で飾り立てるタイプじゃないし、そんなタイプだったら貧乏学生の俺とは付き合ってられないだろう。だからと言って俺に遠慮しているわけでもなく、
自分の背丈に見合った範囲での長く着られる服を選んでいる。
 リボンもアクセサリーに含まれるのかどうかは、ファッションとかにとんと疎い俺には分からない。晶子は普段あまりリボンを着けない。必要性の有無や似合う
似合わないではなく、単に「興味があまりないから」らしい。俺がプレゼントした指輪とペンダントは肌身離さず着けているし、それで十分だと言っている。
そんなこともあって、晶子がリボンを買ったことは印象に残りやすい。珍しくリボンのあるコーナーに向かって、楽しそうに選んでいた。俺が一番似合うと言ったリボンが
晶子も気に入っていたらしく、それを買った。そのリボンが今着けているものだ。今日のために持ってきたんだと思うと、また嬉しくなる。我ながら実に単純だ。

「じゃあ、行こうか。」
「はい。」

 ひととおり晶子の髪に指を通した後、俺と晶子は部屋を出る。途中で出くわした旅館の人達−服の色が統一されている−と挨拶を交わし、1階正面で入り口から
外に出る。昨日より幾分暖かく感じる。まだ東寄りの太陽から降り注ぐ日差しは柔らかい。

「気持ち良いですね。」
「そうだな。綺麗に晴れてるし。」

 千切ったような小さい雲が幾つか浮かぶ青空は、何時もより綺麗に見える。冬の色がまだ少し残っているひんやりした空気は、新鮮な肌触りだ。
俺は晶子の手を取る。軽く握った手が軽く、でもしっかりと握り返してくる。手を繋いで歩くのは未だにバイト帰りを除いては殆どない。だからかなり新鮮だ。
 通りに沿って南に向かって歩き、大きな交差点で東に曲がる。直ぐ見えるのは鴨川。本格的な春の訪れを感じさせる日差しを受けた川は、静かに流れている。
流れで生じた小さな波が、日差しを受けて宝石のように煌いている。星空とはまた違う煌きは普段見ないだけにこれまた新鮮だ。
橋を渡る途中で川を眺める。川縁(かわべり)を散歩している老夫婦らしい人達。フットサルをしている中高生くらいのグループ。俺と晶子もそうだが、学生はまだ
春休みだから平日のこの時間に遊んでいても別に不思議じゃない。色々な人々の日常が重なり合って生じる穏やかな風景のひとコマが確かにある。

「こうして、祐司さんと2人でゆっくり過ごしたかったんです。」

 晶子が身体を寄せて言う。風景を少し遠い目で見詰める横顔に見惚れてしまう。綺麗だ・・・。「女神のような」とか「天使のような」とか、ありきたりな表現しか浮かばない。
緩やかな風になびいて少し舞い上がる髪が、綺麗さに拍車をかけている。

「私が京都に行きたいって言ったら反対されるかも、って思ってたんです。」
「何で?」
「退屈なんじゃないかな、って。有名な寺社仏閣ならまだしも、こうして川の風景を眺めたりするなんて、退屈でつまらないとか・・・。」
「全然。普段大学だのバイトだので、2人でゆっくり長期間、泊りがけで過ごすなんて出来ないからな。俺は京都で良かった。京都じゃなくても、晶子と一緒にゆっくり
街を歩いて、その場その時の風景を見て回れたら、それで良かった。」
「嬉しい・・・。祐司さんと一緒に居られて・・・。」

 俺の手を握る晶子の手の力が強まる。痛くはない。代わりに柔らかい感触が増す。他人からすれば安っぽいだろうが、俺と晶子が揃って納得して満足しているから、
これで良い。晶子と2人きりで一緒に居られる今この時が幸せだと感じられれば良い。

「1回、降りてみるか。下に。」
「はい。」

 暫く眺めた後、場所を橋の上から川岸に変える。降りるところは左右どちらにも見えるが、左、つまり東の方が広くて降りやすそうだ。一旦橋を渡って、そこから直ぐ
近くにある道路から分岐したような斜面を下っていく。東の川岸は遊歩道や遊び場として広く整備されている感がある。西側は昔からの川岸をそのまま保存してある感じだ。
見える範囲だが。
 新京市、厳密には俺と晶子の家がある胡桃町には近くに川がない。大学まで南下して更に下ったところにある。そこは大学周辺地図で見ただけだから、実際は
どんなものか知らない。川自体見るのが久しぶりなように思う。実家が住宅地にあって、盆や正月の親戚回りで行く父さんの実家付近に小川があるにはあるが、
あんまり遊んだ記憶がない。

「何だか・・・、川っていうより海みたいな感じがします。」
「そんな感じがするな。川幅が広いのもあるし、波が海に似てる。」
「祐司さんがプロポーズしてくれた場所と、似てますね。」

 晶子は俺に身体を寄せてくる。
晶子が俺の家に戻ってきた日の翌日、法律上での結婚に向けて俺と晶子の背中を押してくれたマスターと潤子さんに礼を言った後、その足で晶子を柳ヶ浦に連れて行った。
俺と晶子が2回訪れた場所。1回目は冬。2回目は夏。3回目は春。関係を深めていくたびに訪れるような気がする場所を、俺はプロポーズの場所に選んだ。
浜風が吹く誰も居ない海岸で晶子と向き合い、「結婚しよう」と言った。今思えば、他に場所はあったし、言葉もあった。だが、戻ってきたとは言えまだ不安が
残っているように感じた晶子を安心させるには、その時その場で思いついた場所へ晶子を連れて行って、結婚の意志を率直に告げることしか思い浮かばなかった。
 婚姻届を提出して受理されれば結婚は成立する。だが、それより前にけじめの1つとしてプロポーズをしておくべきだと思って、即実行した。安直だったかもしれない。
でも、それで晶子が泣いて喜び、「よろしくお願いします」とゆっくりはっきり答えたことで、俺と晶子の意志が向き合っていることが分かった。
節目に変な演出は出来ないし、要らない。言いたいこと、言うべきことを言ってそれに答える。それで良い。妙な演出をするから勘違いや誤解が生じる。
自分が請った演出を出来ないからそういうもんだと思っている部分もあるが。

「つい昨日の出来事なのに、ずっと前のことのように思えます・・・。」
「突き進むことが殆どだったからかもしれないな。」

 途中ふらついたり逆戻りしたりしたが、総じて俺と晶子の関係は猪突猛進で此処まで来た。勢いだけで婚姻届の提出まで迫ったことは、客観的に見て良いのか悪いのか
分からない。
 「出来ちゃった結婚」と少し似ている。勢いで子どもが出来てしまって、体裁を整えるために慌てて結婚、ってパターンだ。「出来ちゃった結婚」は俺は否定しない。
産み捨てて殺したり、1人で産んでから育児放棄や虐待で子どもを不幸にするより、夫婦として子どもを育てていこうという意志の表れの1つとして、良い選択だと思う。
 晶子と出逢った頃、俺は荒んでいた。普通ならとっくに見限られている筈が、晶子の強力なアプローチの連続が続いた。付き合うようになって半年足らずで誕生日
プレゼントが結婚指輪になり、俺の誕生日で晶子を抱いた。今に至っては晶子が同居している。勢いだけで突き進んで良いのか、と思う。だが、最初の頃を考えると
勢いがなかったら此処まで来ることはなかっただろう。
 …ん?何だ?この痛み。晶子が身体を寄せてきて感じたことで、痛みの存在を思い出す。何だか左腕の肘より上の一部にヒリヒリチクチクと痛みを感じる。
朝起きて浴衣を着てから感じ始めたが、忘れていた。

「どうしました?」
「いや・・・、何だか左腕がちょっと痛くてな・・・。」
「え?!ちょっと見せてください。」
「大した痛みじゃないから。」
「駄目です。ちゃんと確認して必要なら手当てしないと。」

 血相を変えて迫る晶子に押されて、俺はコートを左半分だけ脱いでセーターと長袖シャツを強引に上まで捲くる。その時痛みを連続的に感じるが、耐えられないような
痛みじゃない。

「何かなってるか?」
「傷の形からして・・・引っかき傷みたいです。血は出てません。」
「引っかき傷か。何時・・・。」

 左腕を自分の方に捻ってみると、晶子が見つけた傷が見える。赤い筋が5本あって、端の一方が他より深く食い込んでいるらしくて赤みが濃い。引っかき傷なのは
間違いなさそうだが、何時ついたんだ?

「これは多分・・・、私が夜に・・・。」

 晶子が頬をほんのり赤らめて少し俯く。そういえば昨夜、晶子が何度か俺の腕を掴んだな・・・。何時かまでは分からないが、力が入りすぎたんだろう。
赤くはなっているが晶子の言うとおり血は出ていないし、消毒だの云々するほどたいしたもんじゃない。
痛みの場所と原因は分かったから、俺はセーターと長袖シャツの袖を下ろして、脱いでいたコートの左半分に袖を通す。晶子が手を貸してくれる。引っかき傷をつけた
詫びも兼ねてるんだろう。

「あの程度、放っておけば治るから気にするな。」
「はい・・・。すみません・・・。」
「大丈夫だから。」

 血が出ているわけでもなし、単なる引っかき傷と分かれば尚更どうってことはない。元々大した痛みじゃなかったんだし。左腕にってことは、右手だな。
そんなに爪伸びてたか?俺は晶子の右手を取って見る。

「あ・・・。」

 爪は指の先端に少し被さる程度まで伸びている。何時見ても綺麗な手だな・・・。指は白くて細くて長い。ネイルアートどころかマニキュアもしていない爪は、
十分な艶を湛えている。この長さで引っかき傷が出来たってことは、相当強く掴んだんだな。

「そんなに伸びてないな、爪。」
「ええ。適時切ってますから。」

 爪は長い方が見栄えが良い。だが、伸ばすと邪魔になる。ギターを弾く時だと、ピックを使わない場合別の弦に触れてしまうことがある。接客でも爪が伸びているのは、
衛生上の問題で客を警戒若しくは敬遠させる。学生実験だと色々な測定装置や機器を扱う際に爪が伸びていると邪魔になる。だから、俺は結構頻繁に爪を切っている。
晶子は俺より徹底していて、指先を少し隠す程度になったらきっちり切っている。料理の時、特に包丁を使う時邪魔になるそうだ。キャベツなどの千切りで少し手元が狂うと、
キャベツとかと一緒に爪を切ってしまうそうだ。そうでなくても、爪が伸びた状態での料理はやっぱり衛生上の面から良くないとしているらしい。

「引っかき傷くらい、気にしなくて良いからな。」
「・・・はい。」

 俺は取った晶子の右手をそのまま左手で包むように軽く握って下ろす。晶子は再び身体を寄せてくる。
引っかき傷が少し痛むが、晶子がその傷を作るほど昨夜俺にしがみついたこと、そして間違いなく今傍に居ることを示すものだ。こんな傷なら幾つ出来ても構わない。
相手あってこそのものなんだから。

このホームページの著作権一切は作者、若しくは本ページの管理人に帰属します。
Copyright (C) Author,or Administrator of this page,all rights reserved.
ご意見、ご感想はこちらまでお寄せください。
Please mail to msstudio@sun-inet.or.jp.
若しくは感想用掲示板STARDANCEへお願いします。
or write in BBS STARDANCE.
Chapter 225へ戻る
-Back to Chapter 225-
Chapter 227へ進む
-Go to Chapter 227-
第3創作グループへ戻る
-Back to Novels Group 3-
PAC Entrance Hallへ戻る
-Back to PAC Entrance Hall-