雨上がりの午後

Chapter 214 緊張、激動、そして平穏

written by Moonstone


 ようやく今日の仕事が終わり、掃除も終わった。BGMが「LADY IN THE SHADE」のオーケストラバージョンなのは、今の俺と晶子、特に晶子の心理状況を考慮しての
ものだろうか。BGMを決めるのはマスターだから、あり得ると言えばあり得る。妙な気の利かせ方をするからな、マスターは。
 今は「仕事の後の1杯」を飲んで1日の仕事を労う、という雰囲気じゃない。晶子がまったく口を開かないからだ。晶子は決してお喋りではないが、相手の話を聞いたり
その場に合わせたりといったことが良い意味で上手い。それに「仕事の後の1杯」を飲む場に居るのは店のスタッフだけ、言い換えれば俺と晶子とマスターと潤子さんの
4人で決まっている。だから率直な意見交換が出来たりする。
 普通だと晶子は、この料理の注文が多かったとか、こういう客層がこんな注文をするようになったとか、キッチン担当の1人から見た店の動向を語ったりする。
それが原案になって店のメニューにグラタンが加えられたという経緯がある。だが、今日は今の今まで一言も喋っていない。マスターがコーヒーを出した時も
何時もなら「ありがとうございます」と言うんだが、今日は会釈しただけだ。
その原因は一応分かってるつもりだ。俺が田中さんとやり取りしていたこと。特に田中さんが店を出る時のやり取り。リクエストタイムがかなり迫った頃に、
偶然晶子に下げた食器を渡す機会があって、その時晶子が田中さんが店を出る時に何を話していたのかと聞いてきたから、やり取りを包み隠さず答えた。
晶子は硬い表情で「そうですか・・・。」と呟いて俯き、以後一言も喋っていない。
やり取りと言っても、特段変わったことはない。あえて挙げるとすれば「仕事頑張ってね」と言われたことくらいだ。単なる社交辞令の1つだと思うんだが、晶子が
一言も喋らないから、それが引っかかっているのかどうかすら分からない。

「・・・祐司君。ちょっと話があるんだけど、良い?」

 潤子さんがそう言って席を立つ。聞きたいのは山々だけど、今の晶子がこの調子だからな・・・。

「あなた、晶子ちゃんをお願い。」
「おう。井上さんは此処で俺の話を聞いてくれないかな。」
「あ、はい。」

 事前に口裏を合わせておいたのか、マスターと潤子さんはそれぞれ晶子と俺を「受け持つ」形になる。俺は潤子さんの後を追って席を立ち、店の北側の角に向かう。
カウンターからは完全に死角となる位置だから少しも見えない。

「祐司君。」

 暗闇の中、潤子さんが話し始める。店の二大看板女性の1人と至近距離で向き合うという気分の高揚はない。状況が状況なのもある。
俺は貴重なアドバイスを受けるべく、潤子さんの言葉に耳を傾ける・・・。

 帰り道。何時もと同じ道を何時もと同じように、手を繋いで晶子と2人で歩いていく。だが、何時もと違ってそれなりにある会話がまったくない。話を切り出すのは
晶子の方が多いんだが、晶子は店を出てから一度も口を開いていない。
一方の俺は、潤子さんから受けた晶子の心理状況や助言を心の中で反芻している。口調は普段どおりたおやかだったが、言葉の1つ1つが芯に迫るものだった。
晶子の夫と認知されている俺より、潤子さんの方が晶子の心理を読めているのが、情けなく思う。

 今日来店したショートの黒髪の女性が、晶子ちゃんが以前言ってた問題の女性だってことは直ぐ分かったわ。あの女性を見てから、晶子ちゃんが明らかに警戒心を
 剥き出しにし始めたから。
 晶子ちゃん、あの女性が店を出るまでずっと、キッチンの仕事の隙を縫ってあの女性の方を見てたわよ。見るっていうより睨むっていった方が良いわね。それくらい
 厳しい視線だったわよ。流石に店を出て行く時は平静を装っていたけど。
 晶子ちゃんは今日殆どキッチンに居たけど、キッチン関係のやり取り以外では一言も喋らなかったのよ。そんな暇があるならあの女性の様子を監視してないと、って
 いう気迫が溢れ出てたから、私も仕事以外では声をかけられないって思ったのもあるけど。

 祐司君。今から言うことをよく聞いてね。
 今の晶子ちゃんは、相当神経が逆立ってる。猫で喩えるなら、次にこれ以上一歩でも自分に近づいたら、近づかなくても手を出したら、容赦なく噛み付くか
 引っ掻くかしてやる、っていうところ。まさに臨戦態勢そのもの。少しも大袈裟じゃなくてね。
 あの女性が本当に祐司君に照準を当ててるかどうかは断定出来ないけど、興味があるのは確かだと思う。バイト先に乗り込んできたのは、祐司君と出逢った年の
 晶子ちゃんが、祐司君の追っかけみたいだったのとよく似てるから。晶子ちゃんがその当時の自分をイメージしているかどうかは分からないけど、晶子ちゃんの
 様子を見ていた私は、晶子ちゃんとあの女性が結構ダブって見えるのよ。
 祐司君からあの女性と祐司君のやり取りを聞いて、晶子ちゃんが極限まで警戒心を高めたのは間違いないと思う。大袈裟な、って思うかもしれないけど、
 晶子ちゃんが祐司君を奪おうとしてる警戒対象と見なしているあの女性が、帰り際に祐司君を労ったんだから。
 祐司君以外の店のスタッフにも言ったならまだしも、祐司君とのやり取りだけで労いの言葉をかけた、っていうのは、好意かどうかまでは断定出来ないにしても、
 興味があるのは間違いない証拠。特定の異性にとことん入れ込むタイプの女性は、目的の異性以外には見向きもしないで、目的の異性にだけアプローチするものなの。
 積極性の度合いには個人差があるけどね。それは晶子ちゃんも該当するから、祐司君も分かると思う。

 だからね、祐司君。今日で試験期間が終わって結果発表まで約半月あるから、その間晶子ちゃんだけを存分に愛してあげて。結果が分かって進級が確定したら、
 4年の講義日程が始まるまで期間を延長して、ね。
 祐司君の試験日程が厳しかったのは私も聞いてるから知ってる。それを乗り切った直後だから、疲労感一気に溢れてきてるのを感じてると思う。それを承知であえて
 言うけど、今夜晶子ちゃんを愛してあげて。意味は分かるわよね?
 お互いの家に出入りしてるんだし、夜明けも一緒に迎える仲なんだから、出来ればもう一緒に住むつもりで。それくらい祐司君を独占出来ないと、今の晶子ちゃんを
 安心させることは出来ない。
 私とマスターは、アドバイスとかは出来る。今もマスターが晶子ちゃんに、男性の立場から祐司君の性格を踏まえてアドバイスしてる筈。祐司君は独占欲が強いし、
 八方美人とはとても言えない、それとは正反対に特定の相手に、今は晶子ちゃんにとことんのめり込むタイプだから、祐司君があの女性と二股をかけることは
 ありえないと言って良い、とかね。私もそう思うし。
 だけど、最終的に晶子ちゃんを安心させられるのは、祐司君本人だけ。だから、祐司君が今の晶子ちゃんとの関係を最大限生かして、晶子ちゃんだけを存分に
 愛してあげて。

 晶子ちゃんね・・・。祐司君のためにお弁当を作って大学に持っていくようにしたこと、凄く幸せそうに話してたのよ。もうそれこそお惚気。大学でお弁当を
 食べてるところを見られたら、自分が作ったことは兎も角、祐司君も同じものを食べてることを絶対言う。自分のお弁当を祐司君に食べてもらいたかった。・・・とかね。
 もう本当に幸せそうだったわよ。呆れちゃうくらい。
 逆に言えば、晶子ちゃんはそれくらい祐司君に入れ込んでるってこと。その相手を取られること、相手が自分から離れることへの警戒心や恐怖心がどれほどの
 ものかは、祐司君も分かると思う。
 だから、繰り返しになるけど、これから最低約半月、祐司君だから多分確定事項だと思うけど、進級が決まったら4年の講義日程が始まるまで、晶子ちゃんだけを
 存分に愛してあげて。晶子ちゃんは絶対それを望んでるから。

 晶子ちゃんはあれ買ってとか、あそこへ連れてってとか、あれを食べさせてとか、男性の経済力に寄生した優雅なデートは望まないタイプ。その正反対。
 祐司君を独占出来れば良いの。一緒に食材の買い物に出かけられること、一緒に居られる時に一緒に居られること、自分の手料理をお腹いっぱい食べてもらうこと、
 それが最高の幸せと感じるタイプ。これも祐司君には分かると思う。晶子ちゃんがその幸せを存分に感じられるように出来るのは、祐司君しか居ない。
 晶子ちゃんがそういうタイプじゃなかったら、あえて言葉を悪くするけど、経済力が低くてバイトしないと生計を維持出来ない貧乏学生の祐司君より、車も持ってて
 ドライブに連れて行ってくれたり、雑誌で紹介されるような服や食べ物を着させて食べさせてで物欲を満足させてくれる裕福な男性の方がずっと良いから、
 すぐさま乗り換えてるわよ。
 祐司君。晶子ちゃんをお願いね。晶子ちゃんの相手は他の誰でもない。祐司君なんだから。

 潤子さんからのアドバイスが終わってカウンターに戻った頃には、マスターの晶子へのアドバイスも終わったところだったと言う。それから気分を落ち着かせるつもりで、
冷めたコーヒーを飲み干し、揃って店を出た。そして今に至る。
試験の結果は天のみぞ知る。今更ああだこうだ言っても結果が変化するわけじゃない。それまでの約半月、大学関係は完全に休みだ。試験結果次第では追試に対応する
必要が生じるが、手応えからして少なくとも進級に支障が生じることはないと思う。追試があるならその時全力投球する外ない。
その半月間、潤子さんのアドバイスどおり晶子を存分に愛するには・・・潤子さんも提案してたが、一緒に暮らすことがある。晶子はずっと前からそのつもりで居るし、
金曜の夜から前にもあった。晶子を招き入れることに俺は何も抵抗はない。
 歩きながら考えている間に、俺の家と晶子の家に分かれる分岐点が近づいてきた。左手がきゅっと強く握られる。言わなくとも心境は分かる。これだけ状況が
把握出来ている今、分からない方がおかしい。

「・・・晶子。」

 交差点に出たところで、晶子を見ながら言う。晶子は少しのタイムラグを挟んで、今にも泣き出しそうにも見える顔で俺を見る。

「今晩・・・俺の家に・・・。」

 そんな顔をしないでくれ、晶子・・・。

「泊まって・・・いかないか・・・?」

 晶子はゆっくりと、しかしはっきり首を縦に振る。左腕に微かに掴まれた感触を感じる。視線だけ動かしてみると、晶子の左手が俺の左腕を掴んでいる。
コート越しだが、掴んでいる位置は俺と腕を組んでいるように見える位置だし、晶子の左手があるコート周辺には深い皺が幾つも出来ている。絶対離さないという
強い意志がひしひしと感じ取れる。
 俺が家に招き入れられない理由はない。晶子は泊まりたいという意志を見せた。なら・・・迷うことはない。俺は晶子と共に、俺の家に向かう。
俺と一緒に過ごすことでどれだけ晶子の不安や警戒、そして恐怖が解消出来るのかどうか分からないが、潤子さんが言ったとおり、晶子の相手は他の誰でもなく
俺なんだから、俺が出来ることで晶子が望むことをするのが先決だ。その先の対策を講じるのは・・・晶子に幸せを存分に感じさせてからでも良い。

・・・。

 身体の硬直が解けていく。硬直は短い余韻を残していく。硬直が完全に溶けたと同時に溜息が出て、直ぐに荒い呼吸に引き継がれる。今夜は・・・これが限界だ。
晶子も・・・もう満足しただろう。
危うく途中にベッドの上に手を付くなどのクッションを置くことなく晶子の上に倒れこみそうになったところで、辛うじてベッドの上に手を付いて食い止める。
そのまま晶子に覆い被さらないよう堪えるのがやっとだ。
仰向けに横たわっている晶子にキスをしてからどうにか晶子の右隣に身体を倒し−投げ出すと言った方が的確か−、事前に枕元に置いておいたティッシュを何枚か
適当に毟(むし)り取って、晶子の身体の表面に残っている俺の絶頂に達した証を可能な限り拭い取る。ティッシュの束が使えなくなったと感じたら、それをベッドの
外に投げ出して、ティッシュを新たに毟り取って拭い取るを繰り返す。
 ・・・これで良いか・・・な。暗闇の中だが、俺も晶子も全裸だし、シチュエーションがシチュエーションだから、一応カーテンを閉め切ってあるとは言え、電灯を
点けられない。だから、晶子の身体を顔から順に隈(くま)なくなぞって、残りがないか手探りで確認するしかない。晶子の呼吸も荒いのが、手に感じるティッシュの
揺れと胸の2つの隆起が上下する頻度で分かる。
全部拭き取ったのを確認して、俺は改めて仰向けになる。同時に深い吐息が出て、直ぐに荒い呼吸に戻る。残り僅かの力で後始末を済ませたから、もう身体を
動かせない。天井に向けている全身の腹側が涼しく感じる。身体がそれだけ火照ってるってことだ。
少しして、俺の隣で動きが起こる。肩で激しく速く息をしながら晶子がゆっくり身体を起こし、掛け布団と毛布を掴んで身体に任せて後ろに倒れこむ。剥き出しだった
全身が頭以外掛け布団と毛布で覆われる。これで・・・今夜は終わった。
 儀式・・・。晶子の女特有の事情で晶子の中で思いの丈を解き放てない時に、万年発情期の動物の例に漏れない俺の性欲を解消するためとして始めた筈が、
最近は確実に晶子の愛情確認も兼ねている。今夜の発端は間違いなく後者のためだ。
避妊具は使わない。だから、晶子の外に解き放ってしまう前に速やかに動きを止めて身体を離す必要がある。避妊具を使った方が確実なんだが、晶子が頑として
認めない。俺自身を直接感じられないから、というのが晶子の言う理由なんだが・・・。

「今夜は・・・もう・・・限界・・・。」
「満足・・・しました。」

 途切れ途切れの「ギブアップ宣言」に、晶子は同じく途切れ途切れで満足を表明する。これで、今夜の儀式は完全に終了した。これでまだ満足しないとなると、
俺は力を振り絞って再び晶子と繋がって動くか、晶子に相応の行為を要求する。晶子は俺の要求に必ず応じる。むしろ喜んでする。それを見て感じていると、
何時の間にか没頭して絶頂に達するのを感じて、急いで晶子から離れて外で絶頂に達する。この繰り返しだ。
 俺の首に抱きついていた晶子が、少しずつ身体を動かして俺の両脇に肘を突いて、俺に上半身を被せる格好で至近距離で向き合う。まさか・・・もう1回って言うんじゃ
ないだろうな?もう限界って言った筈だけど・・・。

「祐司さんの愛は・・・、私だけに・・・向けられてるんですよね?」
「ああ・・・。勿論・・・だ・・・。」
「祐司さんの・・・愛を・・・受けられるのも・・・、浴びられるのも・・・、私だけ・・・ですよね?」
「勿論・・・晶子だけの・・・ものだ。」

 晶子の「最終確認」に、晶子の頬に右手をあてがいながら答える。晶子は嬉しそうな、否、安堵と言うべきか、そんな笑みを浮かべて俺の右手に頬擦りをする。
俺の手の感触を堪能した後、晶子は身体を俺の左隣に戻して、左頬に軽くキスをする。「嬉しい」というささやきと左頬の感触が残される。こういう時だと、頬にキスでも
照れは生じない。生じる余地もないか。それとは比較にならない激しい行為を、ついさっきまで暗闇の中で繰り返してたんだから。

「なあ、晶子・・・。」

 首だけ晶子の方を向ける。まだ他の部分を動かす余力は生じていない。晶子しか見えない距離で向き合う。

「後期試験の・・・結果が・・・分かるのは・・・半月後・・・。それまでは・・・大学は・・・完全に休みだ・・・。」
「ええ・・・。」
「試験の結果が・・・どうなのかは・・・その時まで・・・分からないけど・・・、少なくとも・・・それまでは・・・。」
「・・・。」
「俺と一緒に・・・此処で・・・暮らさないか?」

 俺の提案に、晶子はやはり嬉しそうに微笑んで首をゆっくり、そしてしっかり縦に振る。俺が独占出来るとなれば晶子は絶対喜ぶ。それで晶子が幸せを感じられるなら、
不安や恐怖と言ったものを解消出来るなら、俺は晶子と此処で生活を共にするだけだ。

「生憎此処は・・・ものが多いくせに・・・狭いけど・・・。」
「良い・・・。衣服と下着を・・・必要分・・・持ってくれば・・・、私は此処で・・・何不自由なく・・・暮らせます・・・。」
「・・・。」
「広さなんて・・・関係ない・・・。祐司さんと・・・一緒に暮らせさえ・・・すれば・・・私は・・・良いんです・・・。幸せ・・・なんです・・・。」
「・・・。」
「それで・・・十分・・・なんです。」

 途切れ途切れの晶子の言葉は急速にフェードアウトしていき、言い終わった後規則的な寝息に代わる。朝は俺より早いし、俺と同じく試験もあったし、バイトでは
見た目よりかなりの労力を使う−フライパンを煽るだけでも相当腕力が必要だ−から、そこに体力を更に消耗することを加えたら、疲れて当然だよな。
 晶子の穏やかな寝顔を見ていると、瞼が重くなってくる。明日から半月ほど、晶子と一緒に暮らすことにしたし、そうなった。今までも少なくとも日曜はずっと
一緒に居た。それが毎日続くんだよな・・・。それで・・・晶子の不安や・・・警戒が・・・解消出来れば・・・良いけどな・・・。

Fade out...


 ・・・朝、か?薄いカーテン越しに差し込んでくる光が目に眩しい。久しぶりによく寝た。試験期間中は土日でも睡眠時間を削ってたからな。隣に晶子は居ない。
身体を起こす。背中が幾分寒く感じる。肌が剥き出しだから当然だが。

「あ、起こしちゃいましたか?」

 台所から晶子の声がする。掛け布団にあった上着を−置かれていた−着ながら台所を見ると、トレードマークの茶色がかった長い髪をポニーテールに束ねた晶子が、
エプロンを着けて立っている。包丁を持っているから料理中か?

「いや、さっき自然に目が覚めたんだ。・・・おはよう。」
「おはようございます。」

 晶子は明るくて穏やかな笑みを浮かべて応答する。普段の朝と同じ表情だ。

「さっきお風呂を使わせてもらいました。今もお風呂に入れますよ。」

 夜の営みの翌朝は少なくともシャワーを浴びるのが、晶子の習慣だ。それを「水道の無駄」とか言うつもりはない。昨夜もそうだが、夜は特に晶子が汗をかく。
汗臭くては、折角の髪と質素だが品良く着こなした服が台無しだ。それに「儀式」の翌朝だと晶子は俺の想いの丈を浴びてるから、洗わないといけない。だから、
遠慮なく使ってもらう。

「さっき、ってことは、晶子も起きてそれほど時間経ってないのか?」
「ええ。ぐっすり寝ちゃってて・・・。」

 はにかんだ笑みを浮かべて視線を台所に戻す晶子。土日でもほぼ同じ時間に起きて朝飯の準備をしている晶子も、流石に試験期間明けとバイト疲れと儀式が重なって
アラームに気付かなかいほど深く寝入っていたようだ。
・・・夜がどれだけ激しくても、夜にどんなことをしてもさせても、翌朝の晶子は何事もなかったような顔をするんだよな。・・・これ以上思い返す前に、床に畳んで
置かれていた−俺が置いたものじゃない−パジャマを着て、風呂に向かう。
 風呂に入って全身と頭を洗い、何時もよりゆったり湯船に浸かってから出る。確かに湯船の湯は十分な熱さだったが、一番風呂でないことは感覚で分かる。
俺が起きる時間を見越して沸かしておいたのかと少し思ったんだが、思い過ごしだった。下着と服を着て脱衣所を出て、台所に立つ晶子の横に向かう。晶子は葱を
刻んでいた手を休めて俺を見る。

「朝昼兼用になっちゃいますけど、良いですか?」
「それは良い。晶子が起きたのって、何時頃だ?」
「10時半過ぎ・・・なんです。」

 寝過ごしたのが申し訳ないのか、晶子の口調が鈍る。今日は大学は休みだし試験とかもない、大学関係は完全に休日だから何も謝る必要はないのに。

「祐司さんが起きたのが11時半頃ですから、私、完全に寝過ごしちゃって・・・。」
「そんなことは良い。試験が終わって昼間はもう完全に休みなんだから。それより・・・。」

 俺は晶子の後ろから抱きつき、両腕を晶子の首に回す。晶子は少し身体をびくっと震わせるが、それ以外は何ら驚きや拒否の反応を見せない。

「晶子は今、幸せか?」
「・・・はい。凄く・・・。」

 俺の左腕に晶子の手がかかる感触が伝わる。どんな表情なのかは分からないが、答えたときの口調は幸せを噛み締める時のものだ。鼻を触れさせ、否、埋め込んで
いる長い髪から漂うシャンプーの甘い香りが芳(かぐわ)しい。

「祐司さんの愛をいっぱい感じ取った翌朝・・・、目が覚めたら祐司さんの寝顔が直ぐ傍にあって・・・。夜に私を力いっぱい愛してくれた男性(ひと)と一緒に朝を
迎えたと実感出来て・・・。本当に・・・幸せです・・・。」
「それなら・・・良いんだ。」
「もう少し・・・このままで居て良いですか?」
「料理の邪魔にならないなら。」
「少しもなりませんよ・・・。」

 俺の左腕にもう1つ、晶子の手がかかる感触を感じる。俺に後ろから抱き締められてることで、一つ屋根の下で俺と2人きりで居ることをじっくり噛み締めてるんだろう。
それで晶子が満足出来るなら、晶子が幸せで居られるなら、それで良い。
 車で高速道路を軽快に走ったり、豪華なディナーやプレゼントを用意出来ない、貧乏学生そのものの俺。俺と付き合うことで得られる金銭的物欲は、自慢じゃないが
殆どないと言って良い。俺が今までプレゼントしたアクセサリーも、宝石がついているものもあるが、値段そのものは「本場」のジュエリーショップから見れば、
鼻で笑うような額だ。
そんな俺との時間に、俺と過ごすことに最高の幸せを見い出し、それだけを求めて止まない晶子。どうして晶子は俺を此処まで深く強く愛せるんだろう?
将来の経済力を見越してじゃない。そうだったら、就職先を早く決めろとがっつく筈だ。先行き不透明でも、俺と一緒に暮らせさえすれば良いと言い切れる
愛の源泉は・・・?
 ・・・止めよう。変な勘ぐりをしてしまう。俺は晶子を愛してる。晶子は俺を愛してる。それで良い。それで十分じゃないか。俺は晶子だけを愛してる。2人も3人も
同時に「愛してる」と言えるほど器用じゃない。「愛してる」って言葉を軽く口に出来るほど、俺はそういう言葉を言い慣れてない。

「晶子の髪、良い匂いがする・・・。」
「毎日きちんと手入れしてますから・・・。祐司さんのために・・・。」

 鼻を心地良くくすぐる甘い香り。晶子が風呂に入る時に、一番洗う時間と乾かす時間がかかる髪が発するこの匂い。鼻先を上下させることで芳香と共に滑らかな
感触を感じ取る。何時触れても良く手入れしているのが分かる。

「・・・ねえ、祐司さん。」
「何だ?」
「お昼ご飯を食べ終えたら、一緒に買い物に行ってくれませんか?」
「勿論、一緒に行くさ。」

 俺の即答に、晶子は小さく首を縦に振る。晶子の表情は分からないが、俺の左腕を掴む手の感触が強まったから、嬉しいんだろう。試験勉強とのやりくりで気分の
段階であたふたする必要はもうない。結果が発表されるまでの約半月、晶子が望むとおり此処で一緒に暮らそう。晶子と一緒に。

「月曜にさ・・・。」
「鳥のから揚げ、作りますね。」
「晶子のから揚げ、美味いんだよな。」
「期待していてくださいね。」

 ちょっと強請ってみたり。先を取られたが、月曜って言えば分かるか。月曜は店の定休日。大学とも店とも完全に切り離される貴重な日。試験結果発表まで・・・
今度を含めて2回ってところか。発表は再来週の金曜日。晶子が望む俺と2人きりで暮らす時間。俺と一緒が最高の幸せなら、こんな狭い場所でも良いなら、
この場所を晶子の安住の地にしよう。それが・・・今の俺に出来る精一杯のことだから・・・。

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