雨上がりの午後

Chapter 212 1つの大きなヤマ場を越えて

written by Moonstone


 終了を告げるチャイムが鳴る。一番後ろから答案用紙を集めてくるように、という監督者でもある担当教官の指示が飛び、溜息ともざわめきともつかない雑多な
音声が漂う。俺は答案用紙が回収された後、鞄に筆記用具を入れて席を立つ。同時に深い溜息が出る。
必須教科の1つでもある電磁気学Uのテストが終わったことで、3年後期の試験期間は終了した。半月の試験期間がこんなに長く感じたのは入学以来始めてだ。
進級する毎に専門色が濃くなり、数は増えて難易度は高まっているから、試験期間の体感時間は右肩上がりを続けているんだが。
 結果は今のところ神のみぞ知るってやつだが、感触は良い。連日睡眠時間をギリギリまで削って試験勉強に没頭したのは勿論、講義でのレポートを時にPCを動員
してでも自力で仕上げることに徹したことが功を奏した。テキストの例題や演習問題−演習問題をひたすら解かせるような講義もある−を自分で解けるようにしておけば、
大体の教科は対応出来るようになっていると感じた。
指定されている以上は、卒業したいなら1つたりとも落とせない必須は兎も角、選択は自分の得意分野や仮配属中の研究室関連の講義、果ては単位が取りやすいという
情報が流れてきている講義を摘み食いしてでも数さえ帳尻が合えば良い。だが、俺は所定の単位を取得していれば筆記試験免除・実務経験のみで取得出来る
国家資格関連の講義も全部押さえようと企んだから、殆ど全てのコマが埋まっちまった。疲労感は相当なものだ。

「ようやく終わったかぁ。」
「本当にようやく、だな。流石に疲れる・・・。」

 何時もどおり席が隣だった智一の感慨に同調する。本当に「ようやく」だと腹の底から思う。それくらい壮絶だった。何処のどいつだ?大学はレジャーランド、なんて
言ってる奴は?高校時代もテストと宿題、プラス課外講習アンド模試で忙しかったが、今と比べれば可愛い可愛い。

「どうだった?」
「割と簡単だったな。」
「あれを簡単と言えるか。」
「簡単も何も、先生が言ってたとおり、講義で配られた例題集からそっくりそのまま出てたぞ。」
「やっぱりそうだったかぁ。何処かで見たことあるなとは思ってたんだが。」
「・・・講義で、試験はこの例題集から出題する、って言ってただろ。」
「言ってたけどさぁ。あれって相当数あったじゃないか。」
「数は、な。内容は基礎的なことだけで、捻った問題は何もなかった筈だぞ。」
「しくじったなぁ。もっと例題集しっかりしておくべきだった。」

 智一はどうも、例題集の一部しかしていなかったようだ。講義の度に配布されるあの例題集はレポートでもあって、次回講義で提出することで出席を取るのも兼ねていた。
俺は例に漏れず全部自力で解いたし−当然クローンが大量に培養されたが−、先生が言っていたとおり例題集を繰り返し解くことで公式を見たりしなくても解けるように
しておいたから、十分対応出来た。満点は無理だとしても、単位を取れるだけの回答は出来たという手応えがある。
 必須選択問わず、大学の試験は担当教官の性格と言うか癖と言うか、そういうのがかなり如実に出るように思う。俺が居る電子工学科と同じカリキュラム且つ
担当教官も研究室も同じ−名称の違いは単に学科が出来た時の違いと同学年でのクラス編成の目安に過ぎない−電気工学科限定だが、使用テキストや講義で配布
される問題集とかを流用するタイプと、別に市販されていて教官が指定する問題集に手を伸ばさないと対応出来ないタイプに大別出来る。
ある意味当然だが、単位の取りやすさやその延長線上とも言える研究室の人気は、前者に集中する傾向がある。実験のグループがあいうえおの名簿で機械的に編成
される関係で実験の時期が早かった物性分野は、俺の感覚だと後者が多い。だが、実験の後の設問後に所属研究室をかなり熱心に勧めてきた助手が所属する
電力制御分野の堀田研など、例外も多々あるのは勿論だ。

「まあ、進級は出来るだろうから良いけど。」
「いきなり確証に近いことが言えるな。」
「幾つか必須を落としてるけど、今回の分を含めて4年進級の条件をギリギリクリア出来る程度は取ってるからな。数さえあれば、学部4年の段階なら痞(つか)えさせずに
とっとと卒論出させて出したいってのが、研究室の事情だからな。」

 智一の言うことは、進級条件の厳しさや留年する人の多さの裏返しでもある。3年と4年の進級時にそれぞれ単位数の関門があって、3年次で約1/3、4年次で1/3〜
半分が留年するっていう概算だ。そういうこともあって、クラスメートに相当する同学年の人は学年が上がる度に増えていく。電子工学科と電気工学科の定員は共に
50人なんだが、今の3年は電子工学科だけで100人を軽く超える。2度3度留年する人もかなり居るからだ。
 そんな関門を突破して研究室に本配属された学部4年を留年させると、卒論を指導する研究室の教官や院生にとっては二度手間になるし、数が増えると当然その分
学生居室が狭くなったりと、負担が大きくなるだけでメリットは何もない。教官も院生も自分の研究を優先させたいから、学部4年は痞えさせないで卒業させたいってのが
研究室の本音だというのは、前にも智一から聞いた覚えがある。
智一の言葉を借りれば、熱心に勉強しようがその時は担当教官の説教を食らったりしてでも適当にやり過ごそうが、必要な単位の数があれば進級も卒業も出来るって
ことだ。その観点からすると、俺は自分から進んで苦行に励んでるようなもんだ。割が合わないと感じることもある。
 だが、今の3年の進路指導担当でもある増井先生からの事情説明があった後辺りから、俺は実験後の設問を1人だけ先にされて、終了すれば帰宅OKというようになったし、
智一を含む他のメンバーを一旦退室させて、担当教官から研究室の紹介や勧誘を受けるようになった。「大学生活の総括に相応しい」「研究テーマは幅広くて選り取り緑」
「この分野の企業には(研究室を統括する教授や助教授の影響力が)特に強いから就職に有利」などと美味しい言葉が並べられた。俺が卒業まで生活費をバイトで補填する
必要があることが周知徹底されているのか、俺が卒研をしながら今のバイトを続けられるか不安だとか言うと、即座に「その辺の事情は十分知っているからそれを阻害
するようなことはしないし、させない」「院生にはその辺の事情を踏まえるよう強く言うから心配要らない」などと、卒研とバイトの並行を保障する言葉が返ってきた。
 そんな紹介や勧誘の席上、「昨今の学生事情」が担当教官の口から出されることもしばしばあった。卒業さえすれば良いと考えていて、就職や院進学どころか4年
進級にも相応しない学力の学生が多い。そんな学生でも研究室に本配属されたら卒業させないことには何かと面倒だから、指導に割かれる手間や時間が増える一方だ。
研究室や学部、大学の質を疑われかねない。表現は色々だが、学生の学力低下を問題視しているようだ。

 試験の合格の仕方は、そこそこの人脈があれば縦からも横からも流れてくる。クラブやサークルに所属していれば勿論だし、そういう人と付き合いがあるだけでも
十分だ。俺は智一とくらいしかまともに話をしたことがないから−1年の時に宮城と遠距離恋愛をしていたのと今のバイトを並行させていたのが大きい−、そういった
人脈はないに等しい。そこに妙なところで凝り性なところがあると自己分析している俺の性格が重なって、ひたすら自力でがむしゃらに勉強することになっちまう。
自分で自分の首を絞めてるようなもんだが、学生は勉強が仕事とかいうたいそうな意識は特にない。割に合わないと感じることはあるが、気の良いマスターと潤子さんには
時給1500円+ボーナスで生活費の補填に十分な収入を得られるようにしてもらってるし、時には泊めてもらったりもしている。それに・・・晶子が居る。
 結局晶子は試験期間中ずっと弁当を作ってくれた。日曜と月曜は俺の家に泊まって朝飯も作ってくれたし、「自分の分のついでですから」と洗濯もしてくれた。
女と違って不定期に表面化する性欲にも応じてくれた。丁度試験期間中辺りが晶子の生理ということで−自己申告で知った−晶子の中で絶頂に達せないが、その直前まで
主に晶子の上で動いて晶子を体感する「儀式」で事足りる。男の性欲は何度か絶頂に達すれば解消されるもんだ。他の女性の裸やセックスで興奮しないで自分で興奮して
欲しい、と晶子は言っている。
その晶子も勿論、今日で試験期間は終了する。昨夜と今朝聞いたところでは、晶子は3コマ目で終わるそうだ。ということは、メール届いてるな。セーターの内側に
手を突っ込んで、シャツの胸ポケットに入れていた携帯を取り出して広げる。メインの液晶画面の上部にメール受信を示すアイコンが表示されている。

「早速、愛しの美人新妻とラブラブ通信かよ。」
「・・・何か、言い方に棘(とげ)を感じるぞ。」
「込めてるのを分かってくれて、嬉しいぜ。」

 試験期間中もずっと俺の昼飯が晶子の手作り弁当だったことを、智一は相当羨んでいるな。食べてる時も時々視線を感じたし、当然と言えば当然か。
それよりメールは、と・・・。

送信元:井上晶子(Masako Inoue)
題名:試験、お疲れ様でした。
このメールを見ているのは、最後の試験が終わった後だと思います。私は3コマ目で試験が全部終わって、
ゼミの学生居室に移動してこのメールを作成しました。ですので、祐司さんはゼミの学生居室まで来てください。
待っていますので、慌てないでくださいね。

 今日もゼミの学生居室か。来年から晶子も卒研を始めるから−晶子の場合は進級条件の関係で4年進級はほぼ確定している−、4年の居場所になるゼミの学生居室に
出入りするようにしているんだろう。毎日迎えに行っていることもあって、俺はゼミの人に完全に顔を覚えられているから、俺も出入りしやすい。

「今日も迎えに行くんだな?」
「ああ。この時期まだ4コマ目以降は暗いし、繁華街のど真ん中よりはずっとましだろうけど絶対安全とは言えないからな。」
「試験期間が終わったから、結果発表までの約半月は晶子ちゃんと蜜月の日々・・・。良いよなぁ、本当に。」

 蜜月・・・。上手い表現と言うか何と言うか、兎も角智一の羨望がひしひしと伝わってくる。
智一の言うとおり、試験期間が終わったら結果発表までの約半月は、講義は一切ない。結果発表後に追試がある講義は追試があって、その結果で−2回も3回も追試は
ない−進級の可否が決定し、4月1日から4年に進級するか3年に留年するかが分かれる。
仮に今回の試験が全て合格したら、新年度の講義日程とクラス名簿が発表される4月1日までの約半月も、丸々休みとなる。つまり、順調に推移すれば3月は殆ど休みと
いうわけだ。事実上大学生活最後の春休みだから、休めるなら勿論その方がありがたいに決まってる。大学とバイトの両立は今年は流石にかなりきつかったからな。

「晶子ちゃんと何処か旅行にでも出かけたらどうだ?」
「それも良いけど、バイトはあるからな。来年度の分に上積みしておきたいから、あまり休めない。」
「そう言えば、祐司は来年度の学費を全額自分で出すんだったっけ。」
「ああ。弟の大学進学と重なるんでな。」
「でも、行けるうちに行っておいた方が良いと思うぜ?就職したら金はあるけど時間がない、ってのが兄貴と姉貴の様子を見ての実感だし。」

 就職したらカレンダーどおりに休めるのがありがたいと思えるとは、前に聞いたことがある。晶子と2人きりで旅行、か・・・。晶子は年末年始の旅行が新婚旅行と
等価だと位置付けているし、旅行に行きたいとか言ったこともない。だけど、思えば今まで1泊でも2人きりで旅行らしいことをしたことがない。晶子も俺と2人きりで
旅行に行きたい、と思ってるけど口に出さないだけかもしれない。
 晶子は一言で言えば、表現は悪いかもしれないが「凄く燃費が良い」。クリスマスだ誕生日だと何かのイベント毎に高価なプレゼントを愛の証として要求することや、
高価なブランド物とかで着飾ることを良しとしない。アクセサリーといえば、俺がプレゼントした指輪とペンダントとイヤリング。それも金額だけ見れば、ジュエリーショップで
平気な顔で何万何十万という額がつけられている仰々しいものじゃない。
 ドライブだ外食だ旅行だと出費することやさせることを良しとしない。俺と一緒に手製の食事を食べて、俺と一緒に居られれば、俺が晶子だけを愛していればそれで
十分満足するのが晶子だし、晶子は何度もそう言っている。
だけど、俺はそれに甘えてや居ないか、と思う。晶子が「凄く燃費が良い」ことを良いことに、何でも安上がりで済ませることを当然と思ってやしないか、とも。
偶には・・・せめて晶子が何よりも望んでいる「俺と2人きりの時間」を新京市や小宮栄以外の何処かで用意しても良いんじゃないか?それを実現する1つの形が旅行なら、
何だかんだ言っても休みの期間は結構長い大学に居るうちに1度でも実現しておくべきじゃないか?

新婚旅行を兼ねる形で。

 来年進級した場合学費は全額自分で出すという公約を守っても、それで貯金が底を突くということはない。俺自身あまりものを買わない方だし、晶子が「凄く燃費が
良い」こともあって、貯金は今までずっと過去最高額を更新し続けている。行き先にもよるが、2泊3日程度ならそれなりの宿に泊まって観光地巡りをしたり出来るだけの
金は残る計算だ。

「行く気があるなら、俺に言え。俺の親父の会社が社員の保養所として契約しているホテルが彼方此方にあるから、泊まる場所には困らないぞ。」
「智一。」
「俺は金の工面に頭を捻る必要はないし、それは将来親父の会社に入って役員候補として鍛えられることを前提にしてのことだ。今住んでるマンションだって、親父の
会社の子会社が経営してるもんだし、兄貴も姉貴も大学時代は俺と同じライフスタイルだった。大学時代に留年しない程度に遊びまくってた分、今は役員候補として
親父にみっちり鍛えられてる。俺だけ大学を出たら無関係なんて思っちゃいない。」
「・・・。」
「お前は立派だと思うぜ。冗談抜きにな。研究室でお前の奪い合いをしてるのも、久野尾研がお前の本配属を今か今かと待ち侘びてるのも、お前の努力が評価されての
ことだし、晶子ちゃんもお前がそうだから、これなら浮気の心配しなくて良い、って安心して尽くせるんだと思うぜ。腹の探り合いや駆け引きなしでそれだけ尽くせる
価値があるから、お前と早々に結婚して自慢さえ出来るんだろうな。」

 普段はいい加減だが、智一は筋を通すところはしっかり通す奴だ、と改めて思う。口では未練がましいことを言ったりもするが、実際には俺と晶子の関係に
割り込もうとせず、潔く身を引いて俺が苦手な女心の読み時をしてみたりする。俺にはとても出来ないことだ。

「バイト先の都合もあるだろうから俺はこれ以上言えないし、言う権利もない。まあ、今回の試験の結果が分かってからでもホテルの予約は優先的に取れるから、
それまで考えておくのも悪くないんじゃないか?」
「・・・悪いな。」
「お前には世話になってきたし、4年も同じ研究室で世話になりたいしな。」
「そう来るか。」

 真面目な話をしたかと思ったらとぼけたり茶化したり、智一は相変わらず飄々としてるな。こういう良い意味で楽観的な性格になりたいとは思うんだが、21年
積み重ねてきて出来た性格はそう簡単に変えられない。代えようとしていないだけなのかもしれないが。

「じゃあ、俺は晶子を迎えに行くから。」
「おう、じゃあな。」

 大通りの交差点で智一と別れ、俺は一路文学部へ向かう。通りに沿ってではなくて、俺にとっては何時ものとおり図書館の脇を経由する「ショートカット」を使って。
道沿いに進むと結構大回りになるが、芝生や石畳のある場所を繋げば結構早く目的地につけるもんだ。こういう時、歩きや自転車は小回りが効くから良い。
文学部の出入り口のカードスロットに身分証を通して鍵を開き、階段を上って廊下を進み、戸野倉ゼミの学生居室前に到着。何度も来た道だから、俺でも体感的に
把握出来る。ドアをノックすると、はい、と応答が返ってくる。俺はドアを開ける。

「失礼します。」
「あ、いらっしゃーい。」

 学部も違う男が1人現れて誰だ、と訝る表情をする人が居ないというのはある意味凄いのかもしれない。

「井上さーん。愛しの旦那がお迎えに来たよー。」
「はーい。今行きまーす。」

 学生居室に居た人の1人が給湯室の方に向かって呼びかけると、晶子の応答が聞こえてくる。給湯室があるんだから、自分専用のマグカップを洗ってたんだろうか。
俺とは逆に後片付けがしっかり出来る晶子なら何ら不思議じゃない。

「祐司さん。」

 晶子が給湯室に通じるドア−部屋の間取りを把握しているのもかなり凄いかもしれない−から出てくる。手には2人分の弁当を入れる小さめの手提げ鞄。そのまま
学生居室にあるパーティションで区切られた一角−戸野倉ゼミでは学生が使うPCはこういう形で用意されているそうだ−に立ち寄り、筆記用具を入れている愛用の
明るい茶色の鞄と、コートとマフラーを抱えて駆け寄ってくる。

「お待たせしました。」
「いや、さっき来たばかりだから。」
「あー、何かドラマみたいな会話ー。」

 冷やかしが飛ぶ。言われてみれば、さっきのやり取りはドラマや映画とかでありそうだな。大学の勉強と音楽漬けの毎日で、流行どころか大学の勉強と音楽に
関係するもの以外との接点が、週末に晶子と買い物に出かける時以外はないと言って良い。だから、こういう場合自分の反応や周囲との王道的やり取りは想像するしか
ない。その場の話題に乗ることを考えるとちょっと問題かもしれないな。

「お先に失礼します。」
「はーい。お疲れ様ー。」
「旦那と仲良くねー。」

 普段どおり−やっぱりある意味凄い状況だ−学生居室に居る人たちの見送りを受けて、俺は晶子を連れ立って退室する。晶子と合流したことで、今日の大学での
1日が終わったという実感が強まる。同時に試験期間終了という実感がより現実味を帯びてくる。

「今日でようやく終わったか・・・。過ぎてしまえばあっという間に思えるもんだけど。」
「祐司さん、連日ハードスケジュールでしたから尚更だと思いますよ。」
「後は結果待ちだから、それまで心臓に悪い日が続きそうだな。」
「あれだけ熱心に勉強してたんですから、祐司さんは絶対進級出来ますよ。」

 個人的にはどの講義も結構手応えはある。レポートや演習問題を自分でこなせるようにしておけば、少なくとも単位は取れる程度の解答は出来ていると思っている。
だけど、自分1人だと何かと不安が先行する。こういう場合、傍らで晶子が励ましてくれるからありがたい。

「晶子もお疲れさん。」
「いえ。私は祐司さんとは比較にならない生温さですから。」
「自分の試験だけじゃなくて、俺の食事を作ってくれたり、励ましたりしてくれる。そうしてくれる存在が居るから俺は頑張れるんだ。落第の旦那なんて晶子に肩身の
狭い思いさせたくないからな。」

 隣で嬉しげにはにかむ晶子。そう、俺は晶子が居るから頑張れたんだ。晶子にみっともないところを見せたくない、晶子が恥をかくようなことはしない、と
思ってるから。それを常に意識しては居ないが、そういう思いが常駐しているから行動に反映されるんだと思う。

「これから半月、ゆっくり休んでくださいね。」
「晶子もな。俺の家に来てても食事だ弁当だで忙しかったんだから。」
「食事の準備は、普段からしていることですから。」
「今回は弁当作りも加わったし。」
「お弁当は、朝ご飯を作る時に数と量が増えるだけですから、少しも苦になりませんよ。」
「本当に凄いな、晶子は。」

 数と量が増えた、と晶子はさらっと言うが、料理を作るのがどんなに時間と手間がかかるものか一応知っている俺には、そう言えるだけでも凄いことだ。
晶子の弁当には冷凍食品やレトルト食品の類は1つもない。買っても居ないからだ。週末、主に土曜に−日曜は混むからというのが理由−晶子と一緒に買い物に
行くのが恒例になってるが、その時晶子が買うものを勿論俺も見ている。コーナー毎にその時必要な食材を篭に入れていくが、冷凍食品やレトルト食品のコーナーには
足を向けさえしない。
買い物に行くスーパーの一角には惣菜コーナーもある。そこには行くたびに結構な人が居て、トレイとパックを持って棚に並べられた多くの料理を選んでいる。
だが、晶子はそこも素通りする。そこは晶子が常連になっている魚屋に隣接しているからついでに、といってもおかしくないんだが、晶子は見向きもしない。
 「必要ありませんから」・・・これが、惣菜を買わないのか、という俺の問いに対する晶子の回答だ。続けて「自分で作るものをわざわざ買う必要なんてないでしょう?」と
言った。確かに、惣菜コーナーに並んでいる料理は、全部晶子が自分で作れるものではある。
だけど、今までの朝昼の食事と違って、今度は弁当だ。晶子は月曜に俺の家に泊まる時は夕飯も作ってくれるが、その時出たメニューが翌日の弁当に流用されていた、
ということが一度もない。昨日の夕飯は何だったと聞かれると意外に答えられないもんだが、少し時間があれば思い出せる俺でも、流用は一度もない。
それに、生協の食堂のように−これはこれで仕方ないと思ってるが−あるメニューがやや不規則なローテーションで搭乗するということもない。鶏肉1つとっても、
俺の好物のから揚げに始まり、ソテー、照り焼き、煮物など色々ある。ローテーションがあるとしても「数日前に出てきた覚えがある」という水準にも届かない。

「・・・なあ、晶子。」
「はい。」

 駅に一番近い大通りの交差点を渡ったところで、晶子に尋ねる。

「弁当作りもそうだけど、料理作るのってそれなりに時間食うよな。特に煮物とか。」
「まあ、そうですね。」
「他人事みたいに言うけど、時間かかるな、とか思わないか?」
「作り始めた頃はそう思ったかもしれませんけど、今は全然思いませんね。このくらい時間がかかるからこういう段取りで進める、とかは思いますけど。」

 和洋中、主だったメニューは言えば何でも作れるというのが晶子の凄いところだが、時間がかかる−嫌な意味はない−煮物でも苛立ちとかは感じないのか。
時間がかかるのを段取り構築に役立てているのは、料理をしているのを見ていて何となくだが分かる。ある料理をしている間に違う料理の準備をしたり、というものだ。

「話を逸らしちまったから元に戻すと・・・、晶子が料理作ってて一番楽しいことって何だ?」
「食べてくれる人が『美味しい』って言ってくれること。これに尽きますよ。」

 晶子は即答する。それだけ迷いがないし、選択肢がそれだけということでもある。

「祐司さんは、私が作る料理を何時も『美味しい』って言ってくれますよね?」
「ああ。」
「私はそう言ってもらえるのが嬉しくて、幸せだから、作るんです。」
「・・・。」
「他人からすれば安っぽいかもしれませんし、今時尽くす女なんて流行らないとか言われるかもしれません。でも、私はそれが嬉しくて幸せだから、そうしたいから
してるんです。お弁当を作るようになったのも、もっと祐司さんに『美味しい』って言って欲しいからなんですよ。」

 前に智一が言ってたとおりだ。晶子は俺に食べて欲しいから、俺に「美味しい」と言われるのが嬉しいから弁当も作るようになったんだろう、と。本当にそのとおりに、
何の見返りも求めずにそうしてる。俺が「美味しい」と言うことが見返りだと言った方が正確だろうか。
自分がしたいからする。これはTPO次第では傲慢や横暴ともなりうる思考だが、晶子はそういった意味では極めて無害な方向に向いている。俺が晶子から弁当を
もらって腹痛を起こしたとか、嫌いな焼き茄子を満載されたとかそういうことはない。息が詰まる1日のひと時を存分に癒せる貴重な時間になっている。

「祐司さんは、私がお弁当を作るのが迷惑に思いますか?」
「いや、全然。」
「即答ですよね。」
「実際そうだからな。現金な話だけど、昼時の行列に並ぶ必要もないし、似たようなメニューでもないし、食べてて何時も美味いから俺にとっては良いこと尽くしなんだ。ただ・・・。」

 俺は一番、否、唯一懸念していることを言う前に一呼吸置く。

「弁当作りが晶子の生活の負担になってないか、それが心配なんだ。」
「少しも負担になってませんよ。作る前には今日は何を作ろうか、これだと映えるかなとか考えたり、作ってる時は次にこれを此処に詰めてとか考えたりして、
作ってることだけでも楽しくて、幸せなんです。」
「弁当作り全体が、晶子にとって楽しみの連続なんだな。」
「そうですよ。」

 今日も弁当作るのかと面倒に思ったり、明日のメニューはどうしようかと困ったりするんじゃなくて、メニューを考える時点から100%弁当作りを楽しんでることが
よく分かる。負担だけで俺のために作ってるんじゃないかと思ってたんだが、まったく的外れだったようだ。

「祐司さんが私に遠慮して弁当作ってって言わないから、私が作って持っていこうって思ったのがきっかけではありますけどね。」

 晶子の口調が少し弾み始めたように聞こえるのは気のせいだろうか。

「割と前から、私はお弁当を作る準備は出来ている、って言ってたのに祐司さんが言わなかったですから。言ってましたよね?私。」
「ああ、ちゃんと聞いてた。年末年始の旅行の時にも言ってたよな。」
「でも言わなかったのは、私に遠慮してのことですか?」
「そう。理由はそれだけ。晶子だって講義やレポートがあるんだし、今日までは試験もあったからその準備もあるんだ。今まで生協の食堂で済ませられたものを晶子に
背負わせるのは、どうも気が引けてな・・・。」
「私が準備出来てます、ってアピールしても、私を思い遣ってくれるんですね。」
「弁当作りが負担になって、晶子が倒れたりしたら俺の責任だからな。それに、晶子は1人しか居ないんだし、寝込んでも弁当が欲しいから作れ、とはとても言えないし。」
「祐司さんのそういう思い遣りが、凄く嬉しいです。」

 晶子は嬉しそうに微笑む。思い遣りと言えるレベルなのかどうか分からないが、晶子には俺の家に泊まる時には何時も食事を作ってくれてるし、それに便乗して
弁当も、とは言えない。弁当が昨日の夕飯の流用だとしても、晶子にあれもこれもと頼むのは問題だと思う。

「お弁当は生協の食堂で食べてるんですよね?」
「ああ。講義室で1人で食べてると余計に目立つみたいだし。」

 最初の頃は講義室で食べてたが、ある時弁当を広げる時とかに視線を感じた。顔を上げて見てみたら、かなりの数の人がその場に−出入り口だけじゃなくて彼方此方に
居て、俺が顔を上げたのと少し遅れてさっと視線を逸らして出て行った。
 そこで初めて、講義室で弁当を広げる方が余計に目立つことに気づいた。少し考えてみれば、生協の売店でも売ってるおにぎりやサンドイッチ、菓子パンの封を
開けるならまだしも、弁当箱を開けるのは少なくとも俺の居る学科では極めて特異な例だということくらい、直ぐ分かりそうなものを・・・。
翌日から、智一と一緒に生協の食堂に行って、そこで弁当を広げて食うようにした。弁当を出したり開けたりする時に視線を感じる時はあるが、それでも混雑の
時だから上手い具合にカモフラージュされていると自分では思っている。

「目立つのには、もう慣れました?」
「うーん・・・。微妙なところだな。今でも時々視線を感じるし。」
「私は平気なんですけどね。」

 そりゃそうだろう、と言いそうになってどうにか抑える。晶子は俺とは逆に、俺との中に関する事柄を一応さりげなく見せびらかす方向に走るからな。今の弁当作りも
そんな晶子の積極的な行動の一環だし、それで照れてるようなら弁当を作って、しかも初日に俺の実験中に押し掛けるなんてことはしないし出来ないはずだ。

「晶子はゼミの人と昼飯に行くんだよな?」
「ええ。ゼミに居る時間の方が長いですからね。」

 3年で研究室に仮配属、4年で本配属と同時に卒研、という流れの工学部と違って、文学部は2年からゼミに出入りするようになる。3年から本配属になって−原則
希望で多数の場合は抽選という−ゼミの雰囲気に馴染みながら4年で卒研に専念、という流れだそうだ。
晶子が必要な単位を今まできっちり押さえて来ているのもあるし、文学部は卒業までに必要な単位数が工学部より少ないのもあって、晶子が言うとおり、講義室に
出向く時間よりゼミに居る時間の方が長くなることもある。ゼミの学生居室には本配属と同時にPCに専用アカウントが作成されるから、それでレポートや卒研の
下準備をしたりするそうだ。

「文系エリアの生協の食堂だと、割と手作りの弁当を持ってきてる人は多いですよ。」
「自分で作ってくるのかな。晶子みたいに。」
「作り方にもよりますね。冷凍食品を使えばご飯を炊くと殆ど出来上がりというところまで持っていけますし、自宅通学ですと親御さんに作ってもらうという手段も
ありえますし。」
「あ、そういう手段もあるか。」

 自宅通学だと高校と同様−食堂がある高校もあるだろうが−親に弁当を作ってもらって持参、という手段が使えるだろう。俺の場合も高校がそうだった。
県下有数の進学校とは言え、公立。私立みたいに食堂完備なんてことはない。私立には金がないから行かせないという親の方針はその当時から貫徹されていたから、
昼飯は購買でパンや飲み物を買うか弁当などを持参するしかなかった。
 大学に入ると食事の事情は割と変わってくる。生協なり何なりで食堂はあるし、購買関係も結構充実している。食堂は夕食もOKとなる。実験や研究で夜遅くなる人も
食事に困らないようにとの配慮だろうが、外の飲食店よりずっと安価でそこそこの食事を摂ることが出来る環境がある。
だから、大学進学を機に今まで弁当を作ってきた家庭だと、「大学で済ませなさい」となる可能性は十分ある。俺の親だったら間違いなくそうする。弁当と生協の食堂の
食事とどちらが安価なのかは分からないが、造る側の手間が完全に省けるのは間違いない。

「そう言えばさ・・・。現金な話になるけど、弁当ってどのくらいの値段で作れるんだ?」

 言って改めて現金だと我ながら思う。色とりどりで「またこれか」と思うメニューがない晶子の弁当。手間もそうだが、結構原価は高くついてるんじゃないだろうか。

「そうですね・・・。日によって上下しますけど、1個当たり300円程度。400円は多分かかってないと思います。」
「え?」
「500円かかったら相当豪華な部類ですね。」
「そんな・・・って言うと言い方が悪いけど、そんな値段で作れるもんなのか?」
「ええ。十分ですよ。」

 1個当たり高くても400円行かないなんて・・・。あれだけ手間がかかってるのに原価換算だと400円未満なんて、安過ぎると素直に思う。もしあれが仮に売られてたら、
5、600円は出す。否、1000円出しても良い。それくらい見た目も味も価値を兼ね備えている。

「祐司さんのご実家、お弁当を作って売ってらっしゃるんですよね?」
「あ、ああ。」
「そこでも値段は500円から700円くらいの範囲内じゃなかったですか?メニューにもよるでしょうけど。」
「・・・そう言えば確かに。」

 俺の実家は食堂兼弁当屋。そこではその看板どおり弁当を販売してた。俺も休みの日に弁当やメニューを運んだり弁当を店頭で売ったりするのを手伝わされた。
バンドの練習や宮城とのデートを理由に抜け出したこともしばしばで、それが修之との喧嘩の原因の1つになったもんだ。
 店頭で売る弁当は、当然のことながらコンビニや別の弁当屋から仕入れたものじゃなくて−それだったら直接その店で買った方が安いってことくらい俺でも分かる−、
父さんと母さんが作ったものだった。メニューは「日替わり」「幕の内」の2種類だったが中身は日替わりで、値段は「日替わり」が600円、「幕の内」が800円だった。
去年1人で帰省した時もその値段だったのを憶えている。
それで父さん曰く「家族4人どうにかやっていける」程度の収入があったんだから、原価は相当安いと考えないと計算が合わない。そこから考えれば、晶子の弁当も
原価は結構安いと考えられる。

「原価は安いな。想像だけど。」
「ええ。2人分だと更に安くなる計算ですよ。」
「利益部分は手間賃とか光熱費を等分したものを加算したものってところか。その手間賃が晶子の弁当の場合、かなりかかってると思うけど、俺が出す分は材料費だけで
良いのか?」
「勿論ですよ。毎回一緒に買い物に行ってくれてますし、祐司さんに美味しく食べてもらうことだけでも私には十分な報酬になってるんですから。」

 晶子の答えには何ら迷いや嘘が感じられない。確かに買い物には一緒に行ってるし−俺が土曜の晶子の家のあるマンションに出向いてから行くというパターンが多い−、
材料費は晶子と折半してるし、その帰り道で荷物を持つ。だが、作るのは結局最初から最後まで晶子の仕事になっている。俺は洗い物を手伝うくらいだ。
 「男女平等」や「フェミニズム」からすれば、俺は真っ先に批判の槍玉に挙げられるだろう。だけど、そういう人達は仕事も家事も育児も現状のままで男性に背負わせることを
良しとする傾向にある。晶子はそんな人達をどう思ってるのか知らないが、その人達からの批判を気にしてたらやってられないだろう。
 そもそも、晶子は一度自分で決めたことは自分以外という意味での「他人」の言うことには、容易に耳を貸さずに我が道を突っ走るタイプだ。古くは−まだ3年も
経ってないが−左手薬指に指輪を填めさせたこと、今だと昼の弁当。俺が言うより先に自分で決めて行動に出て、頑として譲らない。意固地とも言える頑固さだ。
そんな晶子に「男女平等の時代なんだから男にも作らせろ」と言っても聞きやしないだろう。

「弁当は助かったし、嬉しかった。昼に並ばなくて良かったし、メニューに飽きることもなかったし、何より量も多くて美味かったし。」
「そう言ってもらえると、凄く嬉しいです。」
「進級はまだ不確定事項だけど、4年になったら卒研とかで晶子も忙しくなるだろうし・・・。」
「でも、私はお弁当を作りますよ。今回の試験期間中でもずっと作っていられたんですから。」

 やっぱり作る気満々だ。勿論嫌じゃない。むしろ飽きることもないし美味いし良いこと尽くめだ。少々回りの視線が気になる時もあるが、それは慣れもあるだろう。
意識しないと填めていると分からない、左手薬指の指輪も今までそんな流れで来てるし。

このホームページの著作権一切は作者、若しくは本ページの管理人に帰属します。
Copyright (C) Author,or Administrator of this page,all rights reserved.
ご意見、ご感想はこちらまでお寄せください。
Please mail to msstudio@sun-inet.or.jp.
若しくは感想用掲示板STARDANCEへお願いします。
or write in BBS STARDANCE.
Chapter 211へ戻る
-Back to Chapter 211-
Chapter 213へ進む
-Go to Chapter 213-
第3創作グループへ戻る
-Back to Novels Group 3-
PAC Entrance Hallへ戻る
-Back to PAC Entrance Hall-