雨上がりの午後

Chapter 209 才媛を交えてのミニライブ−後編−

written by Moonstone


 最初のフレーズは原曲でもギターだけだ。だから、妙な細工をする必要はない。此処を演奏することでこういう曲だとアピールして、原曲だとサックスがユニゾンする
部分に入る。フレーズの形は同じだが、フレーズの度に移調するのが、この曲の最大の特徴の1つ。移調はするが上手い具合に自然な流れで移調するから、
曲の雰囲気を壊さない。この曲も俺と同じ苗字のギタリスト、安藤さんの手によるものだったりする。
原曲だとピアノソロ前の、ほぼサックスだけになるフレーズに移行する前にある移調のためのフレーズ。かなり複雑なコード展開で、#調から♭調へ移調する。
これはコードを鳴らす楽器の1つでもあるギターなら、弾くことは出来る。可能であることと実際に出来るかどうかは別だが。
サックス部分をギターソロ用に即興でフレーズを加えて乗り切る。サックスだと音が伸びてその間ビブラートがかかって、それが独特の情感を醸し出すんだが、
アコギだと音があまり伸びないから、空白になる部分を変な表現だが「手数を増やす」形にアレンジする。・・・よし、OKだ。
 続いてピアノソロ。楽譜のとおりにピアノをギターに変えればOK、とはいかない。ピアノをはじめとする鍵盤楽器が全ての音が等間隔で並んでいるのに対し、
ギターをはじめとする弦楽器はそうなってない。これが、ピアノソロをそのままギターに置き換えることを困難にする最大の要因だ。
鍵盤楽器だと何気なしに使える1音ごとの駆け上がり、例えば「ドレミファソラシド」をピアノと同じように出来ればそこそこの技能を修得したと言っても過言じゃない。
これは両方の楽器で音を出した経験がないと分からないことだ。ギターソロバージョンを作る時に一番苦労するし、時間もかかる。この曲も例外じゃない。
 練習の末に弾けるようになったフレーズをこなして、原曲だとサックスとのユニゾンするフェードアウトする前の部分に入る。此処は特に問題なし。強いて言うなら、
前のコピーにならないようにするくらいだ。これは、即興演奏を何度かやっていれば出来るようになるレベルのこと。
そして、原曲ではサックスソロでフェードアウトしていく締めの部分に入る。サックスならではの音の伸びをアコギ単独で再現するのは不可能と言って良い。
だから、サックスソロの再現より、原曲の雰囲気を壊さない程度にアコギらしくするアレンジにしてある。これでもギタリストで通ってるから、意識しないで居ると
ギター向けのアレンジになる。その時持っているのがアコギかエレキか、もっと厳密に言うとエレキでエフェクタを使っているかそれ以外かで、伸びる音をどうするかが
違ってくるくらいだ。一種の癖だろう。
 最後はフレーズの終わりに使われるGコードで素直に締める。音が消えた次の瞬間、大きな拍手が起こる。演奏が終わったと分かるんだろう。一応締めに
聞こえるようなアレンジにしたつもりではあるが。

「凄ーい。これも良い曲だったー。」
「細かい音もはっきり分かったー。」
「練習って、今でも毎日してるの?」
「はい。毎日少しでも弾かないと、その分腕が落ちるんで。」
「そうなんだー。」
「試験の準備にレポートにギターの練習・・・。直ぐ寝不足になっちゃいそうー。」

 実際、当の俺は万年寝不足状態だ。普段でも実験の前準備とそのレポート、他の講義のレポートがあるし、ギターの練習は欠かさない。今はそこに受けている
講義全ての試験の準備が重なってるから、寝不足に拍車がかかるのは当然だ。・・・このところ、夜が激しいのが止めを刺しているんだが。
慣れと言うのは結構凄いもんで、今より楽だった2年の時には寝不足で早退することもあったくらいだが、濃厚なことこの上ない現状では、寝不足なのは分かっているが
早退とかはせずに全ての講義に出てレポートもきっちり提出している。卒研が加わる4年のスケジュールがどんなものになるか実感しないと判らない部分はあるが、
今の過密スケジュールをこなしてるんだから大丈夫じゃないかと思える。

「さっきの曲は、誰の?」
「T-SQUAREです。アルバムの名前は『GROOVE GLOBE』で、スペルはG、R、O、O、V、E、G、L、O、B、Eです。レンタルは多分出来ると思います(筆者註:2004年
10月20日までがレンタル禁止期間と表記されていますので、実際に借りられます)。」
「ああ、T-SQUAREなら知ってるわ。私も2、3枚CD持ってるから。ラジオ聴いてて−何の番組だったかまでは失念したけど、そこで流れたBGMが良かったからラジオ局に
問い合わせて買ったのよ。『IMPRESSIVE』の中の『RISE』だったわね。」
「ご存知でしたか。」

 T-SQUAREの名前を知ってる人は久しぶりだな。名前を出しても殆ど知らなくて、「F1中継のオープニングテーマ曲を作曲・演奏してるグループ」って言ってようやく、って
感じだ。BGMで使われる際はTVでは最初の方に少しの間だけ画面隅にテロップが出るくらいだし、ラジオだとリクエスト曲でないとまず紹介されない。
だから「曲を聴いたことはあるけど誰の曲かは知らない」ってパターンになりやすい。まあ、インスト曲の宿命だろう。
 田中さんが知っているという「RISE」は、俺のレパートリーの1つでもある。けど、「Fly me to the moon」とかのように複数のバージョンがあるわけじゃない。
マスターのサックスとのユニゾンによるバージョンしか作ってないし、リクエストされることもあまりない。リクエストされる曲が客によって大きく異なることはないからだ。

「じゃあ、最後は『More Then Lemonade』で。」

 5曲の即席ミニライブの最後の曲は、少し考えた末に「More Than Lemonade」にする。「Angel's Love」と比べたが、「More Than Lemonade」はミドルテンポの明るい
タッチの曲だから、今回はこっちの方が良いだろうと思ってのことだ。
この曲、実はヴォーカル曲だ。T-SQUAREというと伊東さんや本田さんのEWIやサックス、という印象が強いし、知名度のある曲でもインスト曲が圧倒的に多い。
だが、数少ないヴォーカル曲はどれも存在感がある。遡ると「MAGIC」がそうだし、最近だと今演奏を始めた「More Than Lomonade」や「Angel's Love」がそうだ。
「MAGIC」はヴォーカルを担当する晶子の声域より低めだし、イメージが合わないと思ってレパートリー入れは見合わせている。一方「More Than Lemonade」と
「Angel's Love」は、晶子の声域と同じくらいだし、曲のイメージが晶子に合う、と思ってレパートリーに加えた。
勿論、ヴォーカル曲だから原曲を再現するには晶子が必要不可欠だ。俺の独断でレパートリーに加えて、さあ歌え、と言えるほど俺は一方的じゃないつもりだ。
レパートリーに入れる前に晶子にCDを貸して、「More Than Lemonade」と「Angel's Love」をレパートリー候補にしてるから一度聞いてみてくれ、と頼んで、
晶子が歌いたいと回答したのを受けてデータ作りと練習に着手した。
 曲の構成はいたってオーソドックスなものだ。間奏と最後のフェードアウトがアルトサックスだということを除けば、一般的なポップス曲などと大して変わらない。
リクエストタイムの前で晶子の手が塞がっている−晶子は潤子さんと一緒にキッチンを取り仕切ってる−時のためにと用意したギターソロバージョンも、ヴォーカル部分は
そのままに、音が伸びている間に「合いの手」的に入るギターを加えるという形にしてある。
歌を口ずさみながら練習したのもあってか、完全ではないがそこそこ歌える。歌うというレベルではなくて口ずさむというレベルだが、そうしながら演奏を続ける。
チラッと観客を見ると、テンポに合わせて身体を揺らしている。馴染み易くて明るい雰囲気の曲だから、初めて聴いても戸惑うことはないだろう。
 ヴォーカル曲の宿命とも言える曲の短さ故に、間奏を挟んで2回フレーズを演奏したらもう、原曲だとサックスソロでフェードアウトしていくラストに到達する。
サックスソロは聞き取った部分をそれなりにまとめて終わり、最後はイントロと同じリズムを刻んで、サラッと終わる。

「凄く良い曲だったー。」
「メロディも分かりやすかったよねー。」
「曲も良かったけど、演奏も良かったよねー。流石に、その道のプロが唸ったってだけのことはあったよねー。」
「素人の私達が聞いてても、テンポが崩れたりしなかったし、細かいフレーズもちゃんと聞き取れたもんねー。」

 大きな拍手の中、感嘆の声が幾つも上がる。選曲は正解だったようだ。俺のセンスだと意識してても妙な組み合わせにしてしまったりすることがあるから
−ファッションに無頓着なのが代表例−、どうかなと思ってたんだが、曲が良かったのなら何よりだ。それをきちんと聞いてもらえたなら、それで良い。

「さっきの曲が収録されてるアルバムを教えてくれない?」
「あ、はい。『PASSION FLOWER』です。これも多分借りられると思います(筆者註:2005年10月19日がレンタル禁止期限と表記されていますので、実際に借りられます)。」

 ミュージシャンは言わなくても良いだろう。勘の良い田中さんなら、さっきまでの話の流れでT-SQUAREの曲だと分かると思う。尋ねてきたのもアルバムの
名前だけだから、この推測は間違ってないだろう。

「何だか、何時にも増して賑やかだね。」
「あ、戸野倉先生ー。」

 学生居室の奥のドアから姿を現した初老の男性が、どうやらこのゼミを主宰する戸野倉先生らしい。第一印象では、穏やかな紳士といった感じだ。少なくとも、
女子学生に囲まれてハーレム気分に浸ったり、声をかけたりするようなタイプではなさそうだ。

「井上さんの旦那のミニライブを聞いてたんですよー。」
「井上さんの?ああ、工学部の。」
「そうですー。井上さんを迎えに。」
「プロも唸ったって言うだけあって、凄く上手かったですよー。ついさっき終わったところなんですー。」
「ほうー。そりゃあ勿体無かったなぁ。」

 観客からの紹介や「評価」を受けて、戸野倉先生は笑顔を浮かべる。若い女子学生に囲まれて鼻の下を伸ばしての下品な笑みじゃない。アットホームで楽しいと
晶子が言うゼミの雰囲気も、この先生が主宰していることが大きいだろう。
 大学は研究室やゼミ単位で良く言えば独立、悪く言えば閉鎖された小さな社会が形成されている。その頂点に居る教授、助教授(註:実際の大学の多くは教授と
助教授が共に数名の助手を伴う形で1つの研究室やゼミを形成していて、教授と助教授が完全に独立している大学などは少数派です。新京大学は学部毎で異なると
いう設定です)の人間性とかで、研究室やゼミの雰囲気が決まるといっても過言じゃない。

「はじめまして。安藤祐司です。」

 近づいてきた戸野倉先生と目が合って、反射的に立ち上がって簡単な自己紹介をする。「観客じゃなかったから知らん振り」なんて捻くれたガキみたいなことは
しないつもりで居る。

「あ、はじめまして。私は戸野倉慶一(けいいち)。このゼミの主宰者です。」
「お邪魔してます。」
「君のことは、井上さんや此処のゼミの人などから聞いています。井上さんと2年の春に結婚して、卒業後落ち着いたら入籍する予定だと。」
「はい。」

 晶子と結婚した、正確には晶子に初めての誕生日プレゼントであるペアリングを填めたことは当事者の1人として当然知っているが、入籍の話まで知ってるとはな。
確かに、晶子とは卒業後落ち着いたら入籍して、事実婚から法律上でも夫婦関係になるという話は何度もしている。俺は周囲に殆どそういったことは話してないから、
晶子が聞かれたら答えてるんだろう。「何時入籍するのか」というのは、今年晶子に届いた年賀状でも頻繁に目にしたし。

「あと、工学部の電子工学科3年で屈指の成績優秀者だとも。」
「屈指と言うほど上位じゃないと思いますが。」
「いやいや。私は今年度の学内セクハラ対策委員の1人で、英文学科から出てるんですが、その会議が終わった後で電子工学科代表の先生に君のことを知っているか
どうか聞いたら、勿論知っていると即答されて、君の4年進級を想定して研究室間で争奪戦が繰り広げられていると聞きました。」

 そんなにたいそうな成績なのかな・・・。高校までと違って他の人の成績表を見る機会が殆どない−大学の試験は合否しか分からないのが普通だ−から比較しようも
ないし、現時点で俺が今まで取得した講義は最低が8で、大半は9か10ということしか知らない。
研究室間の争奪戦というのは、この前久野尾先生に講義後に呼ばれて個別に話をした席でも出た話だから、一応知ってはいる。だが、学生実験後の設問が終わった後で
担当教官から必ず研究室の紹介とかを受けるくらいしか、自分では実感がないのが現実だ。

「君の奥さんがこのゼミの所属ですから、これからも気軽に足を運んでください。」
「ありがとうございます。」

 こういう場合、他所の学部の学生が私の許可なしに入ってくるな、と言う奴は居る。戸野倉先生は少なくともそういうタイプではなさそうだ。口調も表情も至って
穏やかだし。入り浸るというほど出入りしてないし、これからは尚のことそうしてる時間的余裕もないが、出入りが改めて認められたのは素直に嬉しい。

「おや、田中さん。君も居たのかね。」
「ええ。彼、安藤さんが井上さんを迎えに来ると聞いたので、アポなしで失礼なのを承知でミニライブを依頼したんです。」

 安藤さん、か。病院以外で−大学に入ってからは一度も行ってない−「さん」付けで呼ばれるのって初めてのような。新京市に引っ越して来て市役所に行った時に、
窓口でどう呼ばれたかなんて覚えてないし、ちょっと新鮮だ。相手が年下ならまだしも、単純計算で2つか3つ年上の人に「さん」付けで呼ばれるって、不思議な気分だ。
 晶子は一度大学を中退して今の大学に入り直した関係で、学年は同じだが年は晶子の方が1つ上だ。でも、初めて会った時から年上年下ってのを意識したことがない。
大学だと同学年で年齢が違うってのは別段珍しくない。ましてや留年が多い3年ともなると、高校が同学年だった人の方が少ないんじゃないかと思うくらいだ。
それに、晶子が俺より年上だと知ったのは出会ってからかなり後のことだから、年齢を意識する段階がなかったとも言える。

「田中さん宛に、欧州文芸社の編集部から回答が来ましたよ。今度の本も是非当社で出版させてもらいたい、と。」

 小さなどよめきの中、戸野倉先生が田中さんにA4の紙を渡す。メールを印刷したものか戸野倉先生宛の郵便かのどちらかだろうが、出版社の方から出版したいと
回答してくるというのは、英文や出版関係ではど素人の俺でも、相当凄いことだと分かる。

「随分早かったですね。今回も。」
「文章の構成を読者の視点から考えて考慮しているからだと思います。実用書は特に、内容は勿論ですが、読みやすさも重要な要素ですから。」

 感嘆を交えた戸野倉先生の称賛に対し、文面を見ながらの田中さんの答えは何だか他人事のようにも聞こえる。出版されるかどうかを気にかけるレベルをとっくに
通り越して、読みやすい、出版社にしてみれば売れやすい本を書けているかどうかを客観的に観察するレベルにあるんだな。凄いなぁ・・・。
毎日必死にあがいてどうにか今の成績を獲得して、次の試験で確実に単位を取れるかどうか気にかけている俺は、田中さんの足元にも及ばない。田中さんにとっては、
学部時代の講義なんて簡単すぎて退屈極まりないものだったんじゃないだろうか。

「これで出版は、博士になってから早くも4冊目ですね。」
「ああ、そう・・・ですね。」

 文面を読み終えたのかようやく顔を上げた田中さんは、記憶を辿る様子を見せてから答える。つまり、自分ではもう何冊目かなんてことはまったく意識しない
ものだってことだ。いったい今まで何冊本を出してるんだ?博士になってから、ってことは修士時代から本を出してたって考えた方が自然だな。・・・全然レベルが違う。
新京大学以外に文学関係が強い大学は他にあるし、入るのは割と楽でも出るのは難しいと言われる海外の大学も視野に入っていてもおかしくない。居心地の良さか、
学部4年だけでも住み慣れたせいか分からないが何にせよ、博士を取って英文関係の文筆業を単独で始めても、大学で教官になっても、余裕だろう。

「今度の学会発表の件で打ち合わせをしたいんだが、良いかね?」
「ええ。安藤さんのミニライブは丁度終わったところですし、今は自分関連の手は空いてますから。」

 学会発表まで関与してるのか。博士課程、生計と学費を捻出するための文筆業、そして学会での発表。2つも3つも平気な顔で並行してる。本当に田中さんにとって、
学部時代は退屈極まりなかっただろう。学部より履修科目が少ない修士や博士−工学部でもそうだ−で空いた時間を文筆業に充てるようになった。
「ずば抜けた」どころの成績じゃないな。

「私は先に退席するわね。学部4年と修士の人は後で対応するから、ちょっと待ってて。」
「分かりましたー。」
「お願いしますー。」
「それから、安藤さん。」
「あ、はい。」
「今日はアポなしのミニライブをしてくれて、ありがとう。やっぱり生演奏は良いわね。音の響きがCDとかとは全然違ったわ。」

 柔和な笑みが浮かぶ。成績が良かったり他の人にはない特技を持っていたりすると人を見下すような態度に終始する輩も多いが、田中さんはそういうタイプじゃ
なさそうだ。

「さっき戸野倉先生も仰ったけど、貴方はこのゼミの所属学生の夫なんだから、これからも気軽に此処に来て頂戴。歓迎するわよ。1年ほど埃を被ってたギターも、
貴方の手で日の目を見られてきっと満足してるでしょうし。」
「ありがとうございます。」
「それじゃ。」

 小さく会釈してから、田中さんは戸野倉先生と共に学生居室を出て行く。学会発表の打ち合わせも直ぐ終えて、学部4年と修士の面倒を見るんだろう。事実上、
戸野倉先生の代理的存在−大学の教官は出張とかで頻繁に居なくなる−になってるのが良く分かる。

「えっと、このギターはどうすれば・・・。」
「あ、それはこっちで片付けておくからー。」

 隣に立てかけておいたギターは、観客の1人が引き取りに来てくれた。このままケースもなしに放っておくとまたチューニングしないといけなくなるし、
保管そのものが問題だが、部外者の俺が頼まれもしないのにどうこう言う資格はない。

「これで終わり、でよろしいでしょうか?」
「良いよー。ありがとうー。」
「何時来てくれても良いからねー。その時にまたギター聞かせてねー。」
「時間の都合とかがありますから何時でも、とはいかないと思いますが、機会があれば。」

 観客は歓迎ムード一色だ。男性も居ることは居るがちょっと影が薄く感じる。前面に出てくるのは晶子以外の女性ばかりだから、押され気味なんだろう。
女3人寄れば何とやら、って言うくらいだし。まあ、来たら嫌そうな顔で迎えられるよりはずっと良い。

「それじゃ晶子、行こうか。」
「はい。」

 今まで観客の1人で居た晶子が、俺の呼びかけに応じて立ち上がる。手には俺と同じく2つの鞄を持っている。1つはテキストやノートを入れる、今まで持っていたもの。
もう1つは弁当を入れるためのもの。弁当は晶子が作るのは勿論だが、鞄に入れて渡してくれる。往路で文学部の研究棟に来たところで受け取っている。
他の観客−ゼミのメンバーと言い換えた方が良いか−の見送りを受けて、俺と晶子は退室する。思いがけないことで間近に客を据えての演奏となったが、
満足してもらえたのはギタリストの端くれとして率直に嬉しい。客との距離が近いほど反応がダイレクトに伝わる傾向がある。その点からすれば、今回は観客と
身近になったライブだったと言えるだろう。

「今日の弁当も、美味かった。」
「ありがとうございます。どうですか?お昼に弁当を食べるのは。」
「食堂で並ばなくて良いし、その関連で昼休みの残り時間を気にしなくて良いし、俺にとっては良いこと尽くめだ。」

 昼休みの食堂は当然と言うべきか、ほぼ一斉に関連学部の学生が集中する。食堂のスペースは間違いなく大きい部類に入るが、それでも学生数に対しては小さいと
言わざるを得ない。だから少しでも出遅れるとより長い時間待たないといけないし、その分昼休みの残り時間も気になる。これも一種の悪循環だ。
弁当を持っていると、待ち時間がなくなる。包んでいるナプキンを紐解いて蓋を開ければ、その日のメニューが顔を出す。昼飯は生協の食堂の他に喫茶店や生協の
売店で売ってるおにぎりやサンドイッチといったものも選択肢にあるが、前者は割高だし、後者も生協の食堂ほどではないが競争率が高い。手持ちの弁当なら
その辺の心配は無用だ。

「俺は良いこと尽くめだけど、本当に晶子は良いのか?晶子だって試験の準備があるんだし。」
「私の方は祐司さんとは比較にならないほど楽ですし、元々朝は早い方ですから、朝ご飯を作る時間に組み込めば問題ないですよ。」

 確かに単位の条件とかは晶子の方が楽だろうが、身体が心配だ。俺も関わってることだから尚更なんだが、連日夜が激しい。晶子が息を切らしながら
求めてくるのもあるんだが、終わってからは俺に抱きついたら殆ど直ぐ寝てしまう。でも、俺が目覚める頃には晶子は寝不足の様子は見られない。一晩寝たら
寝不足なく朝はスッキリ、というタイプなんだろうか?

「今日のミニライブは、何時から企画されてたんだ?」
「実は、今日私がお昼休み前にゼミの学生居室に行ったら、その話が既に進展していたんです。」

 気になっていたことが1つ明らかになった。俺が晶子を迎えに行ったらギターと共にお出迎え、なんて偶然にしてはタイミングが良過ぎるとは思ってたが、
晶子抜きの段階でもう話が進んでたのか。晶子の性格からして、俺に危害が加えられるとかそういうレベルじゃない限り断れないだろう。この前の実験室訪問プラス
見学もそうだったし。

「私が来たのを受けて、今日祐司さんが何時私を迎えに来てくれるのかと早速聞き出されて、今日は私と同じで3コマで終わると答えたら、迎えに来てくれた時に
頼もう、って事実上決定してしまって・・・。」
「話を進めたのは晶子じゃないんだから、責任感じる必要はないぞ。」
「・・・そう言ってもらえたのは救いです。何も知らない祐司さんにいきなり演奏を求めるのは、祐司さんも心の準備が出来ないでしょうし・・・。」
「演奏を求められてするのは店で毎日やってることだし、要求はライブだったから、別に嫌だったとかそんなことは思ってない。晶子との関係を洗いざらい吐け、とか
言われたら流石に断るけど。」

 これでも店で「この曲を演奏してくれ」というリクエストに応えて演奏してる身だ。そのリクエストは「常連」とは限らない。「この曲が聞いてみたい」と普段殆ど
演奏しない曲をリクエストする客も居る。その時に心の準備云々は弾けない言い訳にならない。プレイリストに載せた以上、どの曲も弾けるようにしておくのが当然だ。
だから、演奏なら時間が許す限り何曲でも出来る。今日は珍しく早く帰れるし、まだ寝不足が残ってるから、バイトまでの時間少しでも寝ておきたいと思って
5曲で打ち止めにさせてもらっただけのことだ。それに、晶子と何処で出逢ったとか、キスはしたのかとか、そういうプライベートな部分に踏み込む質問や要求じゃ
なかったから、何も気分を害したりはしてない。

「確認になるけど、晶子がゼミの学生居室に出向いた時には、話が勝手に進んでたんだよな?」
「はい。」
「その場に田中さんは居なかったのか?居たら講義や試験に関係ないことは遠慮しろとか、止めそうな気がするんだけど。」
「それが・・・、祐司さんの推測とは逆で、田中さんもその話に乗り気だったんです。ですから尚更断ろうにも断れなくて・・・。」

 ゼミで事実上主宰教授の代理を務める大御所である田中さんが乗り気だったなら、晶子は除いて満場一致の状態で話が進んでいたと考えられるな。そういえば
初対面の時、ゼミにはギターがあるから機会があったら演奏を聞かせてほしいというようなことを言ってたな・・・。今日がその機会と踏んだんだろう。

「ゼミの中で晶子が来るまでにそういう方向では話が進んでたんだったら、止めようもないな。」
「・・・御免なさい。」
「誤る必要なんてないって。晶子との関係を全部吐けとかいうなら別だけど、ギターの演奏は毎日してることだし、客の身近で演奏してその反応を受けられるって
機会はなかなかないからな。」

 晶子は話を止められなかったことで俺の負担が増えて、その責任を感じてるようだが、プライバシーに土足で踏み込む尋問をされるんじゃなくて話に聞いている
俺のギター演奏を聞きたいってだけだったから、帰る時間が少しずれ込んだくらいで負担のうちに入らない。

「それより、家に行ったら少し寝させてくれないか?ちょっと眠くて。」
「お邪魔して良いですか?」
「勿論。俺1人だと寝過ごしちまいそうだし。」

 即席ミニライブから話を切り替えたことで、それまで責任を感じて少し沈んでいた晶子の表情に明るさが戻る。やっぱりこういう表情の方が映えるな。見る側も気分が弾む。

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