雨上がりの午後

Chapter 208 才媛を交えてのミニライブ−前編−

written by Moonstone


 翌日。3コマ目が終わってほっと一息。今日の講義はこれで終わりだ。もっとも、それは電子回路論Tの単位を取っているから言えること。
落としている場合は4コマ目がこの講義室である。ひと時の休み時間という人の割合は結構多い。電子回路論Tは2年の後期にある必須科目の1つだが、
1回での取得率は半分程度だと聞いたことがある。

「じゃあ、俺は先に引き上げるから。」
「あー、そうかー。祐司は取ってたんだっけー。次のやつ。」

 俺と同じく1コマ目から講義を受けている智一が、気だるさと羨望を交えて言う。智一は電子回路論Tを落としてる。他にもぽつぽつ必須科目を落としてるから、
次の試験は進級がかかった瀬戸際と言えるだろう。それは俺も若干の程度の差はあれ変わらないが。

「何とかな。」
「良いよなー。」
「単位の山分けなんて出来ないんだから、しっかりな。まあ、出来たとしてもしないけど。」
「んー。単位の山分けかぁー。出来たら良いのになぁー。」
「じゃあな。」
「おう。」

 見るからに気だるそうな智一と別れて、俺は講義室を出る。工学部の講義棟には幾つも講義室があるが、此処はその中で最も大きい。そこが入れ替わりで
またびっしり埋まるわけだから、電子回路論Tの単位取得の難しさと、去年1回で無事取れた自分が少し楽になれることをやはり少し嬉しく思う。
講義室から出て携帯を取り出す。あ、新着メールが1通ある。件名を見ると「今日もお疲れ様です。」とある。晶子からだと分かってはいるが、この一言で気持ちが
ぐっと楽になって高揚さえするのは良いことだろう。さて、何て書いてあるかな?

送信元:井上晶子(Masako Inoue)
題名:今日もお疲れ様です。
このメールを見ている頃には、祐司さんの今日の講義は全部終わったんだと思います。今日もお疲れ様でした。私も今日は4コマ目が空白なのでゼミの学生居室に居ます。電話してくれても構いませんよ。待ってますので、慌てないで来てくださいね。

 電話という文字を見て、昨夜の宏一の助言を思い出す。今までならメールの返信で済ませていたところだが、今日は電話してみるか。けど、学生居室に居るなら
他の人、特に卒論の締め切りが迫ってる学部4年の人には迷惑になるんじゃないかな。それが心配だから、晶子には事前に移動してもらうか。そのためにメールを使おう。

送信元:安藤祐司(Yuhji Andoh)
題名:今電話しても大丈夫か?
メールありがとう。今、3コマ目の講義が終わって外に出たところ。一度電話してみようと思うんだけど、学生居室に他に人が居ると、その中で電話するのは迷惑になるから、必要なら場所を移してから折り返しメールをください。それを合図に電話します。

 試験とかだとチェックが入りそうな文面だが、今は構わない。送信して「送信完了」のメッセージが出たのを確認して、携帯を広げたまま持って文学部の方へ
歩き始める。今日は1コマ分余裕があるから、時間を気にして移動する必要はない。気持ちゆっくり歩いて冬真っ只中のキャンパスの風景を眺めてみたりする。
枝しかないポプラが林立する大通りを歩いていると、携帯が「明日に架ける橋」を奏で始める。さっきマナーモードを解除しておいたし、携帯は広げたまま
持っているから即見られる。新着メール1件。晶子は結構メールを書くのが早いな。何度も操作して俺もそこそこ慣れたつもりだが、まだ「素早く」と言うには程遠い。

送信元:井上晶子(Masako Inoue)
題名:電話してくれても大丈夫です。
メールありがとうございます。私は学生居室に居ますが、他の人は休憩中ですので、今から電話してくれても大丈夫です。ちなみに今、携帯を広げて待っています。

 どうやら大丈夫のようだ。携帯を持って結構経つが、私用の電話をしているところを誰かに見られるのは、今でもどうにも居心地が悪くてならない。
別に妙なところに電話をかけるわけじゃないんだが、個人的な通話を断片的とは言え聞かれると思うと、ちょっとな・・・。
近くに図書館が見える。中身が文系関係と理系関係で区分されていることもあってか、丁度この辺が文系学部と理系学部の分岐点となっている。公共の場所で
特に静粛が要求される図書館内で電話をかけられるようなら、その辺で電話出来る。近くまで行ってそこから電話をかける。周囲に人も居ないし丁度良い。
晶子の携帯に電話をかける。耳に聞こえるコール音が2回目を数えたところで終了する。「広げて待っている」とあったけど、今日は着信音を周りに聞かせないのか?

「はい、晶子です。」
「あ、祐司だよ。今、図書館の近くに居るんだ。行き先は学生居室だよな?」
「はい、そうです。」
「じゃあ、今から行くからちょっと待ってて。」
「はい。慌てないでくださいね。」
「分かった。話はそっちに行ってから。」
「はい。」

 短い通話を終え、携帯を持ったまま駆け出す。全速力というほどではないが、昨夜の宏一の助言が頭にあるから、少しでも早く晶子のところに行こうという
気持ちが足の回転を速くする。大学構内は建物のない部分が多いから、舗装を無視して直進すれば大抵目的地に辿り着けるという「副作用」がある。
図書館、文系学部エリアの生協の店舗、一般教養の講義棟の順番に隣を駆け抜けていくと、文学部の研究棟が見えてくる。出入り口のカードスロットに学生証を通して
ロックを外して中に入り、階段を3階まで上って廊下を少し歩くと、戸野倉ゼミの学生居室前に到着だ。少し荒れる呼吸を整えてからノックする。
はい、と応答が返ってきたのを受けてドアを開ける。

「こんにちは。」
「あ、祐司さん。」
「いらっしゃーい。」
「こんにちは。」

 部屋には晶子の他、見覚えのある顔5名−3年だったか4年だったかはまだ区別出来ない−、そして田中さん。この時間に学生居室に居るなんて意外だな。
仕事とかでゼミの読書室に篭ってる時間が多くて、学生居室に顔を出すのは珍しい、って前に晶子が言ってたと思うが。

「私が居るのは意外?」
「あ、いえ・・・。」

 田中さんが、いきなり俺の心の中を見透かしたようなことを言う。言うことを先読みされるのって、かなり脅威だ。それこそ、仮に交際していて軽い気持ちでも
浮気した時には、その後直ぐ悟られるだろうし、言い訳する前に言い訳の言葉を次々言われて、最後には「裏切り者」の一言で切って捨てるだろうな。

「博士にも講義はあるのよ。今日は前に休講になった分の補講があって、その帰り。」
「・・・やっぱり休講の分はきっちり補講があるんですね。俺の学科でもそうですけど。」
「学部より時間や回数はずっと少ないから、融通は利くけどね。」

 俺の方も通常の講義に加えて、今は補講の比率が高い。試験対策も兼ねてのこと−「此処は重要だ」とか言いながら講義を進める先生も居る−もあるかもしれない。
何れにせよ、休講で休みが出来た、若しくは増えた、と思ってもそれは一時のこと。後できっちり埋め合わせが待っているのは同じのようだ。
兎も角、入り口で突っ立っていると部屋が冷えるから、入室してドアを閉める。晶子も今日は4コマ目が空白だってメールに書いてあったから、久しぶりに早く
帰れそうだな。

「待たせたな、晶子。」
「いえ、少しも。」

 そう言って笑みを返すが、何時ものように席を立たない。どうしたんだ?・・・ん?晶子の隣にあるのはギター?此処からだとテーブルと椅子で全容は見えないが、
突き出て見える先端は見間違うならギタリスト失格と言っても良い、ギターのものだ。

「井上さんは今日の4コマ目は空白だって聞いたし、貴方もそれで迎えに来たんでしょう?」
「あ、はい。」

 俺が尋ねるより先に、田中さんの方から話が切り出される。本当に付き合うなら浮気二股は絶対不可能だってことを覚悟しなきゃ駄目だな。宏一だと1日持たずに
切って捨てられそうな気がする。

「このゼミには、去年卒業した学生の1人が置いていったギターがある、ってことは前に話したと思うけど、この機会にその道のプロを唸らせたっていう
貴方のギターの腕前を拝見したくてね。」
「ギターを、ですか。・・・何を弾けば?」
「レパートリーを幾つか。アポなしで聞かせてもらう立場だから、リクエストする権利はないものと思ってるわ。」

 話の流れからして断れないのは俺でも分かる。ギターが用意されていて「聞かせてもらう」とまで言われたんだから。俺は鞄をテーブルに置かせてもらって、
携帯をセーターの内側に隠れているシャツの胸ポケットに仕舞い、立てかけてあったギターを手に取る。学生の1人が早速椅子を用意してくれる。その場に居る人と
向かい合って弾く、という構図だ。これは普段からしていることだからどうってことはない。
 軽くストロークして音を確かめる。・・・うん。音自体は悪くない。だけど相当放置されてたんだろう。チューニングしなきゃ使えない。普段チューニングを
欠かさないから癖になってるのもあるんだろうけど、これはチューニングしないとまずい、と直感する音程のずれを感じた。

「音が綺麗になるように調整するんで、少し待ってくれますか?」
「勿論よ。」
「へー。やっぱり音の違いが分かるんだー。」
「本物のギタリストねー。」

 ギターに限らず、弦を使って音を出す楽器を使ってれば、定期的にチューニングするもんだ。ピアノだと調律師っていう職業があるくらいだ。
ミュージシャンのアルバムやシングルのスタッフリストにある、Instruments Technicianとかいう表記がそれだ。楽器にせよ料理器具にせよ、それなりに使い込むんだったら
メンテナンスは欠かせない。

「歌はないですけど、良いですか?」
「曲に関すること一切は貴方に一任するわ。」

 弾き語りでないと嫌だとか、このアーティストの曲を弾いてくれとか言われたらどうしたものか、と思ったが、曲の選考や演奏に関しては全て俺が決めて良いのなら安心だ。
弾き語り出来る曲は唯一。「Time after time〜花舞う街で〜」のシアターバージョンがそれだが、あれは晶子に聞いてもらうためだけに覚えた特別のものだ。
あれは今回の候補から除外する。
 では、何を演奏するか・・・。知名度の高い曲で固めるべきか、それともムード重視でいくべきか。選択が難しい。チューニングしながら曲を考えるがなかなか決まらない。
特に最初に何を演奏するかが決まらない。
第一印象で物事がかなり左右されるのは、紛れもない事実だ。「中身が肝心」ってのはそれなりに接触や交流するだけの時間や機会があって初めて成立する結論だ。
最初から「中身が肝心」と言ったところで説得力はない。俳優やアイドルが美形揃いなのが説明出来ないのに、「中身が肝心」とだけ繰り返されても無意味だ。
それは別として、何を最初に演奏するか・・・。やっぱり、俺と向かい合っている面々が良く知るあの曲にするかな。チューニングを終えたところで、候補は確定する。
フレットに左手を、弦に右手を添える。結構広い室内が完全に静まり返る。
 気持ち軽めの深呼吸をゆっくりしてから、演奏を始める。夜空から降り注ぐ月光をイメージした細かいフレーズ。広い音域を使ったそれに続いて、今度はやはり
細かいが短めの駆け上がるフレーズ。僅かな間を挟んでボサノバのフレーズに移る。・・・最初を飾るのは、携帯の着信音でおなじみの「Fly me to the moon」
ギターソロバージョン。馴染みがあるという面でも良い選択だろう。
勿論、携帯に入力したものをそのまま演奏するわけじゃない。この場で思いついたもの、指が動いたままに編み出されるものをフレーズに織り込んでいく。
1度全フレーズを演奏してからソロに入る。まあ、ソロと言っても俺1人だからそのままだが、フレーズが大幅に変化する。コード進行はそのままだし、雰囲気を壊さないように
心がける。ただ細かいフレーズを羅列するだけがソロじゃない。
 最後に再び、駆け下がるフレーズと駆け上がるフレーズを奏でる。イントロとは違って音と曲の余韻を生むように、少しゆったりと。最後の音を爪弾いて音が完全に
消えたのを確認してから顔を上げる。と同時に大きな拍手が沸き起こる。

「凄ーい。本当に弾けるんだー。」
「その道のプロが唸ったっていうだけのことはあるよねー。」

 毎日店のステージで大勢の客の前で演奏してるが、これだけ近い距離でギターだけで弾くことはない。その分反応がよりしっかり感じられる。好評なようで何よりだ。
さて、次は何を弾こうか・・・。先頭に「Fly me to the moon」っていうしっとりした曲を持ってきたから、同じ曲調のものが良いかな。じゃあ、あれにするか。
リリースされてからかなり経つし、消耗品扱いの音楽市場では過去のものとなって久しいが、店でのリクエストは今でもあるし、幅広い客層から支持されている、
俺が選んだ名曲の1つを。

「あ、これって・・・。」

 イントロを始めたところで観客の1人から思わず声が漏れる。「Stay by my side」ギターソロバージョン。店では客層の多くが若いこともあってアップテンポの曲の
比重が高い。その関係でエレキを使うことが多いんだが、じっくり聞かせるという点ではアコギの方が良い側面がある。電気的に加工されていない「これぞアコギ」という
音があるからだ。
 その音色を生かすために選択した曲の1つがこの「Stay by my side」。親しみやすいメロディと印象に残る歌詞の組み合わせが絶妙な、倉木麻衣の初期の名曲の1つ。
良い曲は時間が経っても人の心に残り、メロディや歌詞の一部を聴いたら記憶の中から浮上するもんだと思う。
勿論これはギターソロバージョンだから歌はない。弾き語りが苦手な方なのもあるが−ギタリストとしてどうかと思うこともある−、その分ギターらしい「合いの手」
フレーズを入れたり、アクセントを強調してギターで歌う。
 「Fly me to the moon」でもそうだが、短い時間で音域の違いが大きい音を演奏すると、フレットに触れる左手を頻繁に動かす必要がある。その過程でフレットノイズが
生じる。アルバムとかでは他の楽器が混じっていることが多い関係で聞こえなかったり、知らないと単なる雑音と勘違いされかねないが、人間が演奏すると必然的に
生じる音として、こういう場では重要な存在だ。
 原曲ではフェードアウトするところを、俺なりのアレンジで締めくくる。サビの部分の前向きな明るさを使ったフレーズを奏でて、音が完全に消えたところで
顔を上げる。同時に今度も盛大な拍手が起こる。間近で好感触が得られるのは、こういう場ならではの醍醐味だ。

「良かったー。ギターだけで『Stay by my side』ってどうかな、って最初は思ったんだけど、やっぱり凄ーい。」
「雰囲気出てたよねー。思わず一緒に歌っちゃいそうだったー。」

 当然と言えば当然だが、原曲は知っていてもギターソロバージョン、ましてや売れてるプロのミュージシャンでもない俺個人のアレンジが知られていると
考える方が問題だ。アレンジする時に一番注意することは原曲の雰囲気を壊さないことなんだが、晶子以外初めて聞いた人達にもアレンジは好評のようだ。
 次の曲を考えながら、ふと正面を見る。即席超ミニライブの観客は10人ちょっと。だが、距離は最前列で2mあるかないかといったところ。店より客との一体感が
より強く感じるし、反応もよりダイレクトに感じられる。その分、失敗した時が大変だろうが、それは高校時代から培ってきたつもりのステージ度胸でカバー出来る。
真正面に居るのはこれまた当然と言おうか、晶子。田中さんは俺から見て晶子の左側に居る。両方の肘を抱えるような感じの腕組みをしてじっと見詰めるその顔は、
一見無表情だが、今のところ好感触を得られるものになっているのが口元の微かな笑みで分かる。元々大きな瞳を更に見開いて、表情を輝かせて見詰める晶子とは
好対照だ。

「次は少し趣向を変えてみます。曲は『AFTER THE RAIN』と言います。」

 今までは歌詞のある曲、俗称「歌モノ」のアレンジバージョンだったが、今度は原曲に歌詞がないインスト曲を演奏してみる。こういうジャンルの曲もあるってことを
知ってもらいたい。歌詞なしでも曲の雰囲気を味わえるってことを。
選んだ「AFTER THE RAIN」は原曲を構成する楽器の大半が弦楽器で、しかもメロディの多くを奏でるのがフレットレスベース(註:文字どおりフレットがないベース。
バイオリンなどと同様で発音の際にフレットを頼れない)を使うという異色の曲だ。作曲者がベーシストならではとも言える。そう言えばこの曲の作曲者の苗字は、
去年の夏に新京市公会堂で共演した人と同じなんだよな。桜井さん達、元気かな・・・。
 少し思い出に浸った後、演奏を始める。軽くスイング(註:偶数番目のリズムが少し後ろにずれること。ジャズでは定番の1つ)するこの曲は、ベースがメロディの
多くを演奏するが、ギター用にアレンジしてある。勿論、基本的に低めの音を使うが。
原曲の雰囲気を大事にするためにも、チョーキング(註:ギターなどで発音した直後に弦に触れている指を押し上げることで音程を上げる演奏手法)を強調してみる。
演奏しながらチラッと観客を見ると、それぞれ身体でリズムを感じている。
リズム感と雰囲気を大切に、丁寧な演奏を心がける。何分原曲自体を初めて聞く人が多い筈の曲。後で原曲を聞こうとCDを買って聞いてみたら、あの時のアレンジと
まったく違ってた、となると大抵の場合、アレンジされた方に大きなマイナスイメージが作用するからだ。だから、「合いの手」フレーズは控えめに、原曲を基本に据えた
−店で演奏するアレンジバージョンは全部そうだが−フレーズを奏でる。
 最後はジャズっぽく締める。音が消えたのを確認してから顔を上げると、同時に大きな拍手が起こる。これもどうやら好評のようだ。原曲を知らない人が多いだろうから
選択しにはあまり適切じゃなかったかな、とも思ったんだが、好評ならそれで良い。

「良い曲ー。」
「ギターの低い音って、結構良い響きだよねー。意外ー。」
「ねえ。原曲が収録されているアルバムとアーティストの名前を教えてくれないかしら?」
「あ、アルバムの名前は『WIND LOVES US』。アーティストはJIMSAKUです。アルファベットでJ、I、M、S、A、K、Uって書きます。」
「ありがとう。後で検索してCDショップに行ってみるわ。レンタルは出来る?」
「日付は忘れましたけど、レンタル禁止期間が過ぎてるのは確かです(筆者註:1995年6月30日までがレンタル禁止期間と表記されていますので、実際にレンタルで
借りられます)。」
「そう。じゃあ大丈夫ね。」

 曲や音の感想−低音主体だったからギターのイメージから幾分外れていただろう−が出る中、田中さんは曲に関する情報を聞いてくる。今回の演奏を聞いて
原曲がどんなものか興味を持ったようだ。店でもリクエスト対象曲は一覧になってて、収録されているアルバムやシングルのタイトル、ミュージシャンの名前、
発売元とCDの番号が書いてある。店で初めて聞いて聞いてみたくなったり、それでCDショップを当てもなく彷徨うことのないようにするためだ。
 売れ筋のミュージシャンの曲−正確には歌−しか聞いたことがない人は、若い客層に多い。倉木麻衣は知ってるが宇田多ヒカルの曲はないのか、と聞かれることも
偶にある。どの曲をレパートリーに加えるかは演奏者、つまり店の人間の趣向で決まるので、とやんわり断っている。あっちもこっちもと手を出してたら、ただでさえ
狭い部屋がCDで埋め尽くされちまう。

「次は春が近いってことで、それらしい曲にします。タイトルは『初節句』です。」

 最近レパートリーに加えた曲を選ぶ。タイトルのとおり原曲は春の雰囲気が感じられる。楽器も節句をイメージさせるようにと選んだのか、琴なんかも使われてる。
琴も弦楽器だし、「AFTER THE RAIN」と同じくメロディに登場するバイオリンもそうだから、ギター単独でも結構原曲の雰囲気を出せるようにしたつもりだ。
 まずイントロ。原曲では此処は琴だけ。ギター、しかも弦で生じた音が直接伝わるアコギだと雰囲気が近い。高めの音程で演奏すれば更に良くなる。
最後の方のフレーズは聞き取りに少し苦労したが、アクセントをはっきりさせて乗り切る。
メロディに入る。原曲だと琴とピアノのユニゾンなんだが、ギターだけでも十分雰囲気は出せる。ギターはピアノと違って全ての音が均等な間隔で並んでないから、
重音(註:2つ以上の音を同時に弾くこと)の再現が難しかったが、ギター用にアレンジしてある。
サビ前のバイオリン部分。アコギは音を長時間伸ばせないから、伸びのある音が特徴的なバイオリンの再現は困難だ。店ではエレキを使ってるから音を伸ばすのも
可能なんだが、今回はアコギだから「AFTER THE RAIN」と同様ビブラートを丹念に加えて「らしい」ものにする。
 サビは琴をメインに複数の楽器がユニゾンする。アコギ単独の今回はユニゾンの華やかさよりソロの純朴さを前面に出すように心がける。梅の蕾が少し大きくなって
きている−大学のキャンパスには色々な木が植えられている−今、春を期待させるゆったりとしたメロディを奏でる。
ソロも細かい音符の連打ではなく、基本は曲の雰囲気に沿ったゆったりしたものだ。弾いていると、春を髣髴とさせる。高校を卒業して以来オリジナル曲の作曲からは
遠ざかっているが、こういう味わい深くてイメージを膨らませるような曲を書けるようになりたい。
 ソロを終えてサビ前に戻り、サビを少し華やかに演奏して締める。音の余韻が完全に消えたところでフレットから手を離す。と同時に拍手が沸き起こる。
恒例とも言える反応だが、自分の演奏で拍手や好評が得られるのは何度弾いても嬉しいことには違いない。

「これも良い曲だったねー。『初節句』ってタイトルにぴったりー。」
「こういう、じっくりメロディだけ聞かせる曲も良いよねー。」
「『初節句』はさっきの曲と同じアーティストの曲かしら?」
「はい。収録されているアルバムの名前は『JADE』です。」
「要チェックの曲がまた1つ増えたわね。」

 さっきと同じくミュージシャンとアルバムに言及した田中さんは、今のところ満足そうだ。表情の変化はかなり少ないが、口調と雰囲気で満足そうだと感じる。
俺の思い込みかもしれないが。
これまで演奏したのは3曲。次は何にするか・・・。今日もバイトがあるし、試験前に偶々出来た早く帰宅出来る日でもある。あと2曲くらいにしておこう。
このところ平日は朝から大学で講義、帰宅したらバイト、終わったら試験勉強にレポートの作成、ギターの練習をそこそこに、晶子と夜の激闘を展開してるからな。

「今日はあと2曲程度にしますが、良いでしょうか?」
「えー。折角の機会だから色々聴きたいんだけどなー。」
「彼には試験の準備があるし、工学部だからそれとは別にレポートの提出もあるでしょうし、帰宅してからバイトがあるっていう過密スケジュールなのよ。
それは貴方達も井上さんから今まで話を聞いてそれなりに把握してる筈。」
「はあ、確かに・・・。」
「それに今回の演奏はアポなしで、しかも今日彼が此処に来たところでいきなり依頼したこと。そんな私達が彼の方針にどうこう言える立場じゃないわ。」

 残り2曲という俺の宣言を残念がる声が出たと思ったら、田中さんが冷静に、しかも具体的な理由を提示して封じる。改めて理論派・知性派だということが分かる。
そして、自分の現状を相対的に位置づける柔軟性があることも。
 こういう場合、ある集団の中で突出した権限を持っている人はえてして、「自分の言うことが絶対だ」と強引に異論反論を抑え込む傾向がある。それでも尚異論反論を
口にしたりその人物の意向に沿わない行動を執ったりすると、集団からの排除などの粛清がなされる。
独裁政治の縮小版みたいなものだが、別に珍しい現象じゃない。中学以降の体育系クラブ活動もそうだし、小学校から高校まで、クラス単位若しくはあるグループ単位で
起こっていることだ。それが暴行や恐喝といった犯罪行為を伴うものになったものが「いじめ」と称され、犯罪行為をオブラートに包むことに繋がる。
一般教養の心理学の講義で出てきたくだりだが、田中さんの場合は自分のゼミにおける位置づけを絶対視せず、「アポなしでライブ演奏を依頼した立場」と相対的に
踏まえて、俺が抱える現状を具体的に提示して無茶な要求を退ける。こういうやり方だと、どこからしても異論を挟む余地がない。

「田中さんの言うとおりですねー。井上さんの旦那、入学も進級も厳しいことで有名な工学部だから、私達の感覚でもの言っちゃ駄目ですよねー。」
「この際本人から直接聞きたいんだけど、やっぱり工学部って大変?」

 観客の1人がいきなり俺に話を振ってくる。とは言え、話の流れからするとそうなる余地は十分あったし、俺も予想していた。別に隠すことでもないから、
現状とかを言っておくか。

「個人の感覚とかにもよりますから一概には言えないですけど、レポートが多いのは確かですね。1日4コマ講義があったら、最低1つは翌週提出のレポートを
出すことになるのが当たり前ですね。」
「聞いただけでも大変そうー。」
「最低1つってことは、2つ3つもあり得るってことよね?そんなの、あたし達じゃありえないー。」

 そのあり得ないことが日常化してたりするんだな、これが。バイトの時間を減らさないでよく続けてこれたもんだと今更ながら思う。

「進級って厳しいの?」
「卒業は別として、3年進級時と4年進級時に所定の単位数を取ってないと進級出来ません。一般教養の単位は2年終了時に取っておかないと、3年の講義に
出られなくなります。」
「うわー、何それ。凄く厳しいー。」
「あたし達、一般教養も必須も大体卒業までに取ってりゃオッケーなのにねー。」

 晶子から前にも聞いてるが、俺が居る工学部と違って、文学部の進級条件はかなり緩い。事実上ないと言っても過言じゃないようだ。俺が居る電子工学科でも、
文面どおりに解釈して2年までに一般教養の単位を十分取ってなかったせいで、3年の専門科目、しかも必須の講義に出られなくなってほぼ留年確実という事態に
追い込まれる人が結構居るらしい。専門科目の単位を取るのは本腰入れないと取れないってことが分かった時には手遅れだった、ってパターンだ。

「留年ってどのくらい出るの?」
「大体ですけど・・・、3年の進級時で1/3くらい。」
「「「ええっ?!」」」
「4年の進級時で1/3から半分くらいは留年するそうです。」

 最初の答えで驚愕の声が上がり、次の答えで観客が顔を見合わせてざわめく。文学部じゃとても考えられない、って声も聞こえて来る。改めて、此処が「異世界」なんだと
実感する。工学部はどの学科も総じて厳しいし、その証明でもある留年の割合は高いが、俺が居る電子工学科と電気工学科、それと分子工学科が特に厳しいらしい。
文学部で留年になるのは、晶子の話では稀だそうだ。病気などで休学したり、何らかの事情で中退したりする人が偶に出る以外はほぼ全員ストレートに進級して卒業、と
なるらしい。進級の条件を工学部と文学部でそっくり入れ替えたらどういう事態になるか、少し興味はある。

「そんな厳しい条件で、研究室間の引っ張りだこになるほど成績優秀なんだ・・・。晶子の旦那って・・・。」
「そんじょそこらの学生とは次元が違うってこと。」

 観客の1人から出た、感嘆とも驚愕ともつかない言葉に田中さんが続く。俺が5曲で今回の即席ライブを終えて帰る方針だということに異論を挟む余地はない、という
さっきの自身の発言を補強するためだろう。何となく、誇らしげなニュアンスを含んでいるように思えるが、気のせいか?

「必要な単位の数も違えば、それを取るための試験突破も一筋縄じゃいかない。留年さえ珍しくない。文学部のぬるま湯環境に浸りきった体質じゃ1年持たずに
脱落するのが明白なそんな環境下で、勉強と生計を補填するためのバイトを両立させている。尚且つ研究室間で争奪戦が展開されてるくらいだから、上位5位、
最低でも上位10位には入る成績だと考えるのが適切。生半可な人物じゃないってことよ、彼は。」
「「「「「・・・。」」」」」
「そんな彼に、来るやいきなり演奏を頼んだ立場の私達が、彼の方針に異論を挟む余地は一切ない。此処まで言えば、もう分かるわよね?」

 田中さんの口調は変わらないが、最後の念押しには猛烈な威圧感が篭っている。田中さんは学部時代からずば抜けた成績で修士まで当然のように修了し、
ゼミの先生の依頼で博士に進学して同時に翻訳業をこなして生計を立てている、俺から見ても超人的な存在。当事者の俺からしても甘いと思える文学部の進級条件で
ひぃひぃ言ってる程度で口出しするな、とその存在に暗に言われれば、異論反論を出す余地は一切ない。

「・・・田中さんの言うとおりですよねー。あたし達とはレベルが違うってこと、思い知らされましたー。」
「私達のレベルと一緒にしちゃ、駄目ですよねー。」
「理解出来たみたいね。余分な時間を挟んだけど、次、お願い出来る?」
「あ、はい。じゃあ・・・『I'M IN YOU』を。」

 とっさに出た曲のタイトルだが、俺のレパートリーの1つだから問題はない。観客のざわめきが消えたのを受けて、演奏を開始する。この曲はイントロと明確に
区分出来る部分がないタイプの曲だ。最初に演奏するワンフレーズをほぼ全編通して演奏することになる。だから割と分かりやすい構成だ。
店で演奏するバージョンは、俺単独の時のギターソロ−今回と違ってMIDI演奏を従えるが−、マスターとユニットを組んだ、ソロ以外は原曲とほぼ同じに出来る
ギター&サックスバージョン、そして日曜限定の、俺とマスターと潤子さんがユニットを組んで、ソロを含めたメロディを原曲と同じに出来るフルバージョンの3つがある。
今回は完全にギターだけだから、即興で必要なフレーズを入れるしかない。

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