雨上がりの午後

Chapter 151 一人の女神が望むもの

written by Moonstone


 19:00を過ぎたが、まだ実験は終わっていない。データの纏めで梃子摺っているからだ。
勿論俺は自分の分を片付けている。しかも他の3人の分を合わせた分より多い量を。だが、智一を含む残り3人はその量ですら満足に片付けられないでいる。
 俺は助けない。この程度が出来なかったら実験指導担当の教官の設問に答えられるはずがない。
もっとも今の今まで満足に答えた例がないから、今日期待したところで無理がある、と言われればそれまでだが。
 シャーペン片手に手持ちのグラフ用紙とテキスト、そして実験結果を纏めたノートを机の真ん中に置いて必死に格闘−もがいていると言うべきか−している
3人を見た後、俺は3人に背を向けて携帯を取り出して最新のメールを開く。

送信元:井上晶子(Masako Inoue)
題名:講義が終わりました
私は何時もどおり講義が終わって、今は図書館の3階305号室に居ます。祐司さんが買う予定のPCのカタログやチラシは、生協の店舗で入手しました。その辺の詳しいことは、帰りにお話します。実験頑張ってくださいね。

 晶子は何時になるかも分からない俺の実験終了を待っている。
一人音もろくにしない個室に篭っているのは寂しいだろうし、点になって生じた不安は円になり、球になって膨れ上がる一方だろう。
それを一刻も早く解消したいんだが・・・。自分の力だけではどうにもならないものがあるということは、こういう時に本当にもどかしく感じる。
 俺はメールを閉じて、携帯の着信音の調整を始める。
「Fly me to the moon」と「明日に架ける橋」を並行して作っているが、音数が比較的少ない「Fly me to the moon」の方は完成にかなり近付いている。
「明日に架ける橋」は結構音数が多いし調整項目、特にボリュームが多いから、まだベタ打ち部分が目立つ。
俺と晶子を繋ぐ、まだ輝きに新しさが残る携帯・・・。2種類の着信音が形になって俺と晶子の携帯から揃って流れる日を早く迎えたい。
その気持ちが、携帯に触れる時間を生んでいると言えるかな。

「うー、これってどうやってグラフにすりゃ良いんだ?」

 情けない声で、俺の携帯を操作していた手が止まる。まだそんなこと言ってる段階なのか・・・。
俺はあえて救援信号とも取れるその声を無視する。
説教が待っているとは言っても所詮一過性のもの。産みの苦しみ、ってやつを多少なりとも味わってもらわないことには、俺としても我慢ならない。

「ここではどこを原点にすれば・・・。」
「えっと、横軸はこのパラメータにすると、縦軸が2つ要るんだよね・・・。でもどうやって描けば・・・。」
「この設問がどうしても分からないな・・・。」

 暗に助けてくれと言っているのが分かる。だが俺は便利屋じゃない。そう毎度毎度おんぶに抱っこなんてやってられるか。
俺は携帯をそのままに首だけ3人の方に向ける。

「分からなかったら調べて来るんだな。俺の分はもう出来てる。テキストや関連書籍を少し調べれば解けるようになってるのは、もう分かってる筈だ。
俺はそう気の良い方じゃない。早く片付けてくれ。」

 それだけ言って携帯の画面に視線を戻す。
携帯を操作していると、後ろでガタガタと音がする。視線だけ動かすと、3人がテキストやノートを持っていそいそと実験室を出て行く様子が僅かに視界に
入って消える。
行ったか・・・。まあ、どうせ1時間くらいでギブアップして戻って来るだろうが、俺はそれ以上の手間を踏んでるんだ。多少は苦しんでもらわないとな。
 まだ機械音や相談する声がする実験室で、俺は一人携帯の画面に向かう。
思えば操作にも結構慣れてきた。最初はボタンの数に対する割り振られた操作やメニューとかの多さに戸惑ったり面倒に思うことが何かと多かったが、
これはこういうもの、と頭を切り替えて覚えればそれなりに出来るようになる。
今はこれだけの機能をよくこんな小さな筐体に詰め込んだもんだ、と電子工学科の学生らしいとも言える関心を持っている。
小さな発振回路(註:ある周波数の電気信号を発生する回路)一つでも苦労していちゃ通用しない世界の人達が設計してるんだろうな・・・。

 20時過ぎ。実験室から出た俺は夜の帳の下に居る。
予想どおりだった。1時間ほどして帰って来たが、雁首揃えて「分かりません」。
智一は多少ましだったが、携帯で呼び出してようやく手伝わせた残り二人は最悪以外に言葉が見当たらない有様だった。教官が説教したくなる気持ちが嫌でも分かる。
 で、今日も俺だけ先に何問か設問されて先に解放、と相成った。
恐らく今頃設問攻めに遭ってる頃だろうが、それで懲りてるくらいなら何の苦労もしない。
懲りない面々を相手にしなきゃならない教官に同情してしまう。俺だったら物ぶつけてるか殴りかかってるかもしれない。
 ・・・兎も角、晶子を迎えに行かないと。
俺は「迎えに行く」メールを作ろうかと携帯のあるセーターの襟首に手を突っ込んだが、止める。
メールを作って送って返事を待っている間の時間で、少しでも待ち合わせ場所の図書館に急いだ方が良い。
俺が携帯を操作している時、必ずしも晶子が電波の届きやすい個室に−窓際のせいかアンテナは常に3本立つ−居るとは限らないしな。
読み終わった本を戻しに、奥まった位置にある書庫に居ないとは言えない。
 俺は街灯が転々と灯る通りを軽く走る。闇に白い息が周期的に浮かんで消えるを繰り返す。
本格的な冬の訪れは近い。少しでも晶子の待ち時間を減らそう。白い息が闇に溶け込む前に新たな白い霧が浮かぶようになる。
 灯りをその筐体に幾つも抱える図書館がどんどん近付いて来る。
俺はIDカードで図書館のゲートを潜り、エレベーターで3階に上り、歩調を落として呼吸を整えながら305号室を目指す。
301号室、302号室、・・・305号室、ここだ。
俺はドアに「使用中 Using」の表示が出ていることを確認してから、控えめにノックする。
程なく人の気配が近付いてきて、ドアロックが外されてドアが静かに開く。出来た隙間から現れた晶子の表情が一気に晴れる。

「待たせたな。」
「いえ。実験お疲れ様。」
「行こうか。」
「はい。」

 俺は晶子と共に図書館を出る。街灯が一定間隔で照らす通りを二人で歩く。
バイトの帰りとかでもう日常の一部とも言えるシチュエーションなのに、こうして一緒に居られるだけで心の疲れが取れていくように思う。

「今日のお昼、祐司さんからメールが来た時は凄かったですよ。」

 晶子が弾んだ声で言う。

「ゼミの教室には居ましたけどまだ昼休みだったので音を鳴らすようにして置いたんですよ。そうしたら『明日に架ける橋』が流れて来て、旦那から
メールね、とか、もっと聞かせて、とか言われて・・・。」
「俺が送ったメール、見られたのか?」
「『明日に架ける橋』が流れ始めたら一斉に集まって来て、止めようにも止められなかったんですよ。電話だったら私の声が聞こえづらくなってたかもしれません。」
「そんなに大騒ぎするようなことかな。携帯で電話したりメールのやり取りしたりなんて、それこそ俺と晶子より頻繁にやってるだろうに・・・。」
「私だからこそですよ。ほら、先週祐司さんを誘導して学部の講義室に来てもらったじゃないですか。あの時もそうだったんですけど、私があの会社の
プランで祐司さんとお揃いの携帯を買ったことが、凄い話題になってるんです。」
「ああ、あの時か。」
「今でも着信音を聞かせてくれ、ってせがまれるんですよ。祐司さんがアレンジした『Fly me to the moon』は特に凄い人気ですよ。あれを聞いてCDを
買った娘(こ)も居るくらいですから。」
「そんなに珍しいかな・・・。」
「ああいうジャンルは着信音になってる曲が少ないらしいんです。それに、祐司さんがギター用にアレンジしたあのメロディの評判が凄く良いんです。
凄く綺麗だ、とか、お洒落ね、ってよく言われますよ。同じゼミの娘から話を聞いたっていう別のゼミの娘にも聞かせてくれ、ってせがまれて聞いてもらったら、
凄く羨ましがってましたよ。」
「随分話のネタになってるんだな。」
「ええ。」

 それこそ携帯サイトでとっかえひっかえ出来る着信音が注目を集めてるのか・・・。
晶子としては、自分と俺しか持っていない着信音ってことで自慢出来るみたいだし評判も上々だから、二重に嬉しいんだろう。
作っている俺としても、それだけ喜んでもらえれば嬉しい。

「今日お昼ご飯を食べに生協に行った帰りにPCのカタログやチラシを集めたんですけど、そこでも、旦那に頼まれたのかとか言われて・・・。私が何か
違ったことをすると祐司さん絡みだと思われてるみたいです。」

 晶子は本当に屈託ない微笑を浮かべて言う。
俺と関われること。ただそれだけで嬉しくて幸せなんだということがよく分かる。
図書館で一人飲まず食わずで俺の帰りをじっと待っていてくれるのも、そこから派生したものならそうなるのが必然的か。

「カタログとかはPC本体の他にソフトの分も取っておきましたよ。まっさらのPCを買う場合、ソフトを別に買う必要があると思って。」
「わざわざすまないな。ありがとう。」
「私が夕食作ってる間にでもゆっくり眺めてみてくださいね。」
「そうさせてもらうよ。」

 俺は晶子と顔を見合わせて微笑む。これから俺の家に帰って晶子が作る夕食を一緒に食べる・・・。
何かと気苦労が多くて理不尽ささえ感じる実験で重くなった気分が、急速に軽くなっていくように思う。

「彼女と夜遅く一緒にお帰り?随分なご身分ね。」

 正門がはっきり見えてきたところで右側から声がかかる。
反射的に晶子の前に出る形で庇って様子を窺っていた俺の前に、吉弘というあの女がゆっくりと姿を現す。取り巻き連中を忘れていないのは流石と言うべきか。

「智一はどうしたの?さっき家と携帯に電話したけど、どっちも留守電になってたわ。」
「・・・俺だけ先に終わったんだ。これは今日だけのことじゃない。」

 吉弘という女の問いに答えつつ視線だけ動かして周囲を見る。囲まれてはいないようが、少なくとも正面は完全に塞がれている。
昼間自分を遮った智一が居ないことを不審に思っていたところに、自分が目の敵にしている晶子と俺が一緒に居るのを見て怒髪天を突く状態になった、ってところか・・・。

「まさか貴方が智一の友人だなんて思わなかったわ。智一が聖華女子大の女と遊んだりしてるのは知ってたけど、大学で男友達が出来てたなんて
聞いてなかったから。」
「要求は何だ?」
「後ろの彼女に頭下げさせて頂戴。貴方のファンを取り上げてすみませんでした、ってね。それで勘弁してあげるわ。」
「断る。」
「貴方には言ってないわ。」

 俺も吉弘も口調が強まってきた。
吉弘にしてみれば晶子が庇われるのが我慢ならないんだろうが、晶子が謝る理由はない。そんな理不尽な要求を受け入れさせるわけにはいかない。

「貴方が智一の友人だから、こうして人目につき難い条件を整えてあげたのよ?むしろ感謝して欲しいくらいだわ。」
「何を勝手なことを・・・!」
「祐司さん、待ってください。」

 頭に血が上って来た俺を晶子が呼び止める。
そして俺の横を通り過ぎて、そのまま俺の前に出て吉弘の前に歩み寄る。どうする気だ・・・!

「出過ぎたことをして、すみませんでした。」

 晶子が吉弘に深々と頭を下げた・・・。
喉が硬直して声が出ない。身体全体が硬直してしまっているのが分かる。
どうして・・・どうして謝るんだよ・・・。そう言いたいけど声が出ない。身体が動かない。

「祐司さんには何もしないでください。お願いします。」
「ま・・・。」
「・・・良いわ。許してあげる。」

 そう言った吉弘の口調は威張ってはいるものの驚きは完全には隠せていない。平静を装っているつもりの表情にも驚きが見え隠れしている。
まさかこうもすんなりと自分の要求どおりに晶子が頭を下げるとは思わなかったんだろう。俺もそう思ってるが・・・。どうして謝るんだよ・・・。

「・・・安藤君。智一が終わるのは何時頃?」
「・・・教官の設問と説教があるけど、今日は割と時間が早いから日付を超えることはないと思う。」
「そう。分かったわ。・・・それじゃあね。」

 吐き捨てる、否、ばつが悪そうに言うと、視線と一緒に俺と晶子に背を向けて歩き去って行く。取り巻き連中もそれに続いていく。
ついさっきまでの一触即発状態が嘘のように静まり返ってしまった。
 ・・・そうだ、晶子。どうして、どうしてあんな女に謝ったりしたんだ。晶子は何も悪いことしてないのに。
俺は晶子に駆け寄りその肩を掴んで振り向かせる。晶子は驚いた顔で目を見開いている。驚いてるのはこっちだよ。

「晶子、どうして謝ったりしたんだよ。晶子が謝る理由なんて、何もないじゃないか。」
「・・・あれで良いんです。」
「良くない!何も悪いことしてない晶子がどうして謝るんだよ!」
「祐司さんに危害が及ぶかもしれなかったからです。」

 思わず語気を荒らげた俺に対して、晶子は落ち着いている。俺は晶子の肩にかけていた手の力を弱める。

「あの女性(ひと)は私が気に入らないんです。あそこまで状況が悪化していて気に入らない対象である私が謝らなかったら、あの女性は激昂して他に居た
男の人達に祐司さんを攻撃させてでも謝らせようとしたと思うんです。」
「・・・。」
「私は殴られても構いません。でも、祐司さんに危害が及ぶのは絶対嫌なんです。私が頭を下げることでその可能性がなくなるなら、私は迷わず頭を下げる方を
選びます。あの女性は私が頭を下げることを第一に望んでいたんですから、そうしたんです。」
「晶子・・・。」
「曲がったことが嫌いな祐司さんからすれば、私の行動は許せないと思います。自分可愛さに逃げたんだろう、とか、徹底抗戦すべきだった、との責めは
甘んじて受けます。でも、私の既成事実の上積みに応えてくれている祐司さんを護るためなら・・・、私はそうする手段を選びます。現にあの女性は許す、と
言っていました。祐司さんに危害が及ぶ可能性はなくなりました。私は・・・それで良いんです。」

 晶子がそう言った次の瞬間、俺は晶子を抱きすくめていた。言葉は出てこない。否、出せない。
晶子は・・・俺のために自分のプライドを捨てたんだ。
俺のことだけを考えて・・・、俺のために・・・、ただそれだけのために・・・、理不尽な選択を受け入れることを選んだなんて・・・。

「謝らなきゃならないのは・・・俺の方なのに・・・。俺が・・・晶子に雑誌を引き取りに来させなかったら、こんなことにはならなかったのに・・・。
なのに、俺のために・・・。」
「譬え理不尽なことでも受け入れざるを得ない時はあるんです。祐司さんにとっては理不尽なことだとは思います。でも、私が頭を下げて済んだから・・・
それで良いんです。それだけで・・・。私のプライドは常日頃祐司さんに護ってもらっているんですから・・・。」
「晶子・・・。」

 俺は晶子をよりしっかり抱き締める。今はそうすることでしか晶子の気持ちに応えられない。
もし全人類と俺とを天秤にかけられたら、晶子は、俺が抱き締めている女神は俺を選ぶんだろう。否、選ぶに違いない。
 自分は最低とでもプライドなしとでも罵られても構わない。自分のプライド云々よりまず俺のことを考えるこの女神・・・。
元はと言えば、俺の軽率とも言える依頼から始まったことなのに、それを全部一人で背負い込んで恨み節の一つも口にしないこの女神・・・。
この女神の切なる願い、俺と一緒に暮らすこと、それを叶えることは俺の・・・使命だ。
何としても・・・晶子の笑顔に幸せ色を重ねよう。それだけで喜んでくれるに違いないんだから・・・。

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