雨上がりの午後

Chapter 116 楽祭前の危機

written by Moonstone


 最悪だ。熱が全然引かない。一昨日からの発熱は収まる気配が見えないどころか、最悪の状況になっちまった。
昨日医者に行ったら、「疲れによる発熱だね」とあっさり言われたが、この発熱は尋常じゃない。
体温計がないから何℃あるのか知らないが、38℃くらいは出ているだろう。歩いていて宙を浮いているような感覚で大体分かる。
 よりによって今日はコンサート当日だったりする。
今までは熱冷ましを飲んでどうにか誤魔化してこれたが、今日は朝起きた直後に熱冷ましを飲んだが全然効きやしない。身体が発熱体になったような気がする。
 今日は一旦店に集合して、車に機材を積み込んで4人揃って行くことになっている。このままじゃ店に着く前にひっくり返ってしまいそうだ。
自分のギターは昨日店に運んでおいてあるから、手ぶらで良いだけまだましだが・・・。まさか休むわけにはいかない。
熱冷ましを飲んで時間ギリギリまで寝ていた俺は、喧しく鳴り響く目覚ましを止めて渾身の力を込めて身体を起こしてベッドから出る。
ステージで着る服はクリスマスコンサートで着る服と同じで、直ぐ出発出来るように、ってことで持って来てある。それがせめてもの救いか。
 俺はベッドから立ち上がるが、宙を浮いているような感覚は全然消えない。それどころか今までで一番激しい。こんなんじゃステージでぶっ倒れてしまうぞ。
俺は気力を振り絞って着替え、熱冷ましをポケットに入れて冷蔵庫からコンビニで買ったミネラルウォーターを取り出し、鍵を持って家を出る。
鍵を閉める際に身体がぐらついて思わずドアに寄りかかってしまう。・・・ヤバいな。
 俺は自転車に乗って店に向かおうとするが、頭がぐらついて手元がフラフラするわ、足に力が入らないわでもう散々だ。
だが、時間はない。俺は懸命にペダルを踏んで店へ向かう。
視界のぐらつきが酷い。耳もじんじんとしてまともに聞こえない。店までの道程がもの凄く遠く感じる。
 どうにか店に辿り着いた時には、マスターと潤子さん、そして晶子が車の傍で待っていた。
三人は俺の顔を見るなり、一様に不安を露にして駆け寄って来る。
俺は自転車を降りる。どうにか転ばずに済んだが、足元の浮遊感は全然収まらない。

「祐司さん、どうしたんですか?」
「君が待ち合わせ時間に遅刻するなんて、何かあったのか?」
「・・・ちょっと待って、祐司君。」

 不安げに言葉をかける晶子とマスターの横から潤子さんが出てきて、俺の額に手を当てる。
ひんやりした感触が凄く気持ち良い・・・って、人肌がひんやり感じるってことは、相当熱が出てるな。
潤子さんは仰天した表情で手を引っ込める。

「ちょっと祐司君、凄い熱じゃないの!」
「何?!」
「祐司さん、大丈夫ですか?!」
「だ、大丈夫。熱冷まし飲んで寝てたから・・・。それに念のため、熱冷まし持って来たんで・・・。」

 俺が言っても三人の不安な表情は変わらない。マスターと潤子さんは顔を見合わせて再び俺を見る。

「家にある熱冷ましを飲ますか?」
「駄目よ。祐司君が飲んだ薬と衝突する可能性があるわ。」
「となると、このまま行くしかないな・・・。」
「・・・中止しか・・・」
「それは駄目です!」

 俺は力を振り絞って潤子さんの選択肢を遮る。

「チケット完売でもう客が入っているかもしれないってのに、俺一人熱出しただけで中止にするなんて出来ないじゃないですか!」
「それはそうだけど・・・。」
「・・・行くか。時間が迫ってる。」
「あなた!」
「祐司君の言うとおりだ。今回のステージは誰一人かけても成立しない。それに、今まで積み重ねてきた練習と時間を水の泡にすることは出来ん。」

 マスターの言葉に潤子さんは反論しない。というか、出来ないんだろう。
マスターの言うとおり、今まで積み重ねてきた練習と時間を、俺一人のせいでなかったことにするわけにはいかない。
そもそも熱を出すような体調管理をして来た俺に責任がある。その責任をステージ中止という最悪の形で放棄するわけにはいかない。

「祐司さん。」

 晶子が駆け寄ってきて俺の左腕を自分の肩に回す。マスターはそれを見て車のキーを外す。
俺は晶子に支えられて車の後部座席に乗り込む。アコギの入ったソフトケースが窓際に置かれている。

「機材は・・・?」
「心配ない。全部積み込んである。」
「すみません・・・。」
「とりあえず休んでなさい。井上さんは祐司君の様子を見ていてくれ。」
「分かりました。」

 潤子さんが助手席に乗り込んでシートベルトをしたところで、マスターがエンジンをかけて車を発進させる。
エンジン音すらまともに聞こえない。耳をやられたら致命的だ。音楽は耳が頼りなんだから。
 走る車中で、俺は持ってきた熱冷ましを口に含み、持ってきたミネラルウォーターで飲みこむ。ミネラルウォーターの味なんて全然分からない。
本当は1日1回なんだが、今はそうも言っていられない。これで効いてくれることを祈るしかない。着くまでに多少でも熱が引いてくれれば良いんだが・・・。
 額にひんやりとした感触を感じる。目を開けると−何時の間にか目を閉じていたようだ−晶子が俺の額に手を当てているのが見える。
晶子は凄く不安げな表情をしている。心配してくれているんだな、と思うと嬉しく思うと同時に申し訳ない気がする。

「本当に凄い熱ですよ・・・。よく一人で来れましたね・・・。」
「ガキじゃないんだから・・・。」
「私が迎えに行ってれば・・・。」
「店に集合、って決めてあったんだし、仕方ない・・・。」
「薬が効いてくれると良いんですけど・・・。」
「効かなかったら効かなかったで、這いつくばってでもステージに出るさ・・・。こんな大事な時期に熱出した俺の責任なんだから・・・。」
「あなた。お医者さんに寄れない?そこで診てもらって解熱剤をもらった方が・・・。」
「今日は日曜だから大抵の医者は休みだ。それにやっていたとしても、診察までにどれだけ待たされるか分からん以上、寄り道は出来ん。祐司君には厳しいが、
それこそ這いつくばってでもステージに出てもらうしかない。」

 マスターの言うとおりだ。
俺が医者に行った時だって、診察までに2時間も待たされた。
今回のステージは搬入から自分達の手で始めないといけないから、余計に時間を見ておかないといけない。
しかし、今の俺に機材を持つことはおろか、ギターをぶら下げて演奏することなんて出来るんだろうか・・・?
 否、しなきゃならない。取り敢えずは薬が効くのを祈るしかないが、効かなければ無理矢理にでもステージに出るしかない。
遅刻して機材の積み込みが出来なかった分、搬入くらいは手伝わなきゃ駄目だ。酒を飲み過ぎて足元がふらついている、とでも思って行動するしかない。

 車は大通りからやや狭い道に入り、真っ直ぐ進む。間もなく会場の新京市公会堂が見えてくる。
随分人が居る。あれが今回のコンサートの客なんだろうか?
だとしたらクリスマスコンサートの比じゃない。益々こんな日に熱を出している自分が恨めしく思う。

「あれって、開場待ちの人達でしょうか?」
「多分そうだね。今日の新京市公会堂は俺達のステージ以外催し物はない、って明からメールが来てたから。」

 開場は午後4時、開演は午後5時だ。今は・・・午後3時前。
俺が健康体なら余裕で搬入出来てチューニングも確認出来るだろうが、この体たらくじゃ下手すると開演まで床に突っ伏してるしかないかもしれない。
・・・ったく、桜井さん達に何て言い訳すりゃ良いんだ・・・。
 車は駐車場に入る。前のリハーサルの時とは違い、駐車場は車がいっぱいだ。
熱で意識が朦朧とする俺ですら緊張感がみなぎって来る。晶子もマスターも潤子さんも緊張感を感じているだろう。
車は搬入口に隣接して停車する。駐車場に駐車しなくて良いんだろうか?

「一先ず機材を下ろそう。駐車は俺が後でする。どのみちこの様子じゃ遠い位置にしか駐車出来ないだろうからな。」
「そうね。祐司君は車の中に居なさいね。」
「俺も・・・手伝います。」
「駄目ですよ。全然熱が引いてないんですから!」
「そんなの待ってたら何時になるか分からない・・・。やることは・・・やる。」

 マスターがエンジンをかけたままドアロックを解除する。俺は脇にあるアコギのストラップに身体を通して、乗り込んだ時と反対のドアから外に出る。
・・・駄目だ。頭がぐらぐらする。俺は思わず車のボディに手をついて、反射的に手を離す。
強烈な夏の陽射しでボディが熱せられていることをすっかり忘れてた。でも、そのお陰で少し意識がはっきりしたような気がする。
 俺はアコギを背負ったまま、マスターが開けたトランクへ向かう。そしてシンセサイザーが入ったハードケースを持とうとする。
・・・ち、力が入らない。俺は力を振り絞ってハードケースを持ち上げてトランクから取り出す。
その反動で足元が大きくぐらつくが、何とか転ぶのは免れる。

「祐司さん、大丈夫ですか?!」
「大丈夫・・・。晶子は晶子で荷物を持って・・・。俺はこれを運んでいくから・・・。」

 俺はそう言って、搬入口から中に入る。足元がぐらついているのが自分でも分かる。
恐らく端から見れば、酔っ払いが荷物を持ってうろついているように見えるだろう。
だが、今は見てくれに構っちゃいられない。俺はハードケースの重さに何度も負けそうになりながら、通路を通ってステージに入る。
 ステージには桜井さんと青山さん、そして勝田さんが居る。ドラムは既にスタンバイされている。
何時会場入りしたのかは知らないが、やっぱりプロは準備が早い。熱を出してふらついている自分が余計に情けなく感じる。

「おっ、文彦一団のご到着か・・・って、安藤君、どうしたんだ?」
「顔が赤いな。熱でも出したのか?」
「は、はい・・・。実はそのとおりだったりします・・・。」

 俺は自嘲の篭った笑みを浮かべて桜井さんと青山さんの疑問に答える。
すると、桜井さんと勝田さんの表情が強張る。青山さんは眉間に皺を寄せる。不測の事態に驚いているんだろう。まあ、無理もないな・・・。

「ほ、本当に熱があるのかい?!」
「おいおい。洒落にならんぞ。」
「へ、平気です・・・。熱冷ましも飲みましたから・・・。」

 俺はそう言ってステージ上段に上り、ハードケースを置く。開けるのはスタンドが来てからでも良いだろう。
俺は一旦ステージに降り、背負っていたアコギをステージに立てかける。
 ケーブル類と俺のエレキを持った晶子と、ハードケースとスタンド各種を持ったマスターと、音源モジュールが入ったラックを持った潤子さんが
ステージに入ってくる。と同時に、桜井さんが血相を変えてマスターに駆け寄る。

「おい、文彦!安藤君、熱出してるんだって?!」
「ああ。俺や潤子も今日知ったばかりだ。」
「どうするんだ!今日はコンサート当日だぞ!」
「車の中でも言ったんだが、祐司君には這いつくばってでも出てもらうしかない。今日は日曜だから大抵の医者は休みだし、仮に今から医者に行ったところで
診察が何時になるか分からん。それに貰った薬が即行で効くなら話は別だが、そんな便利な熱冷ましの話は聞いたことがない。」
「しかし・・・。」
「祐司君は車中でも熱冷ましを飲んだ。その効果に期待するしかない。」

 桜井さんから異論は出ない。
実際俺はマスターの言ったとおり、這いつくばってでもステージに出るつもりだ。否、出なきゃならない。誰一人欠けても今回のステージは成立しないんだから。
それに体調管理が甘かった俺に責任がある。その責任はステージで取らなきゃならない。
 俺はマスターがキーボードスタンドを組み立てるのを待って、ハードケースからシンセサイザーを取り出し、所定の位置に置く。
普段でもそれなりに重く感じるそれが、今日はやけに重く感じる。身体に力が上手く入っていない証拠だ。
 続いてステージに上がってきた晶子と潤子さんが、シンセサイザーやラックの配線を始める。
俺はその前に晶子からエレキを受け取ってステージから降り、配線を済ませるとさっさとストラップに身体を通してチューニングを確かめる。
やっぱり暑さのせいで多少狂ってるな。まあ、ある程度音感のある奴じゃないと分からないレベルではあるが。
 エレキのチューニングを終えると、次はアコギのチューニングをする。
こっちはエアコンの効いた車内にあったせいか、殆ど調整の必要はない。まあ、気持ち程度いじっておくことにするか。
何もしないっていうのはちょっと引っ掛かるものがあるし。
本当に気持ち程度チューニングを済ませた後、マスターが置いていってくれたらしいスタンドに2つのギターを立てかける。

「安藤君、どんな具合だい?」

 桜井さんが俺に駆け寄って来て、俺の額と自分の額に手を当てる。そして険しい表情で俺の額から手を離す。

「こりゃかなり酷いな・・・。熱は測ったかい?」
「いえ・・・。体温計持ってないもんで・・・。」
「賢一が来たら一度計ってみるか。」
「国府さん、体温計なんて持ってるんですか?」
「賢一は万が一に備えて、ってことで救急セットを持ち歩いてるんだよ。しかし、まさかこんな形で役に立つ時が来るとは思わなかったな・・・。」
「熱冷ましを飲みましたから、そのうち効いてくると思います。」

 俺と桜井さんが話していると、お待たせしました、という声が聞こえて来る。
声の方を見ると、その国府さんがピアノを抱えたスタッフを誘導しながら近付いてくる。
桜井さんは早速国府さんに駆け寄る。
桜井さんと国府さんが何かやり取りをした後、国府さんの表情が深刻なものになって、シャツの胸ポケットから何かを取り出して俺に駆け寄って来る。

「安藤君、熱出してるんだって?」
「ええ・・・。情けない話ですけど。」
「とりあえずこれで計ってみなさい。」

 国府さんは電子体温計を差し出す。俺はそれを受け取る。

「ありがとうございます。」
「薬は何か飲んだかい?」
「熱冷ましを2回・・・。」
「何時頃?」
「1回目は朝起きて直ぐ・・・。2回目は此処へ来る車の中で・・・。」
「それじゃそろそろ効いていてもおかしくないんだが・・・。」

 不安げな国府さんの前で、俺はシャツのボタンを2、3個外して体温計を左脇に挟む。果たして何℃と出るやら・・・。
こんな状況でこんなことを思うのも変な話だが、結果がちょっと楽しみだったりする。
人様に散々迷惑かけておいて楽しみも何もあったもんじゃないんだが。
 少しして、ピピッピピッ、という電子音がする。俺は左脇から体温計を取り出して計測値を見る。
・・・39.3℃。なるほど、宙に浮いた感じがする筈だ。
俺は体温計を国府さんに見せる。国府さんの表情がまさか、というものになる。俺自身は大して驚きもしないんだが・・・まったく妙な話だ。

「さ、39度3分?!よく立ってられるね。」
「立ってられなきゃ・・・今日のコンサートで演奏出来ないじゃないですか。」
「そりゃそうだけど・・・。」

 俺は手早くシャツのボタンを填める。念のため掛け違いがないか確認するが問題はない。
国府さんは体温計を持って桜井さんと青山さんのところへ走っていく。3人の間で何やらやり取りしているのが見えるが、何を言っているのかまでは分からない。
本来なら十分聞こえる距離なんだが、熱のせいか普段より聴力が低下しているせいだろう。
 今はあらゆる音が種類の違うノイズにしか聞こえない。熱よりこっちの方が問題だ。
テンポや曲の進行状況は耳で確認するしかない。その耳がまともに役割を発揮出来ないとなると、最悪の場合出鱈目な演奏をしてしまうことになる。
そうなったらこのステージは一巻の終わりだ。
腕時計を見ると4時前。開場直前だ。あと1時間ちょっとで熱が少しでも下がってくれることを期待するしかない。
しかし、今朝飲んだ熱冷ましが全然効かなかったことが引っ掛かるな・・・。

「・・・さん。祐司さん。」

 背後から呼びかけられて振り向くと、晶子が不安げな表情で立っていた。
晶子は俺の額に手を当てて引っ込める。不安が益々膨らんだ様子だ。

「凄い熱ですよ。さっき国府さんが39度3分とか叫んでましたけど、そんなに出てるんですか?」
「らしい。」
「らしいって・・・。熱冷ましを車の中で飲んでから1時間近く経つのに、全然効いてないってことじゃないですか!」
「しょうがない。このステージが終わったらゆっくり休めば良いことさ。」

 俺はスタンドに立てかけておいたエレキのストラップに身体を通す。
最初の曲「MORMNING STAR」がエレキを使うし、今の身体の具合に応じてこの重さに慣れておく必要があるからだ。
俺がステージの段差に−ちょっと高いが座れないことはない−腰を下ろそうとすると、青山さんが止める。

「安藤君。座るのは止めておきなさい。」
「え?」
「身体の具合が悪い時や疲れている時に一旦座ると、次立ち上がる時に力が入らなくなる。壁に凭れる程度にしておきなさい。」
「分かりました。」

 あまり喋らない青山さん直々のアドバイスだ。聞いておいて損はないだろう。
俺は座ろうとしていた姿勢を元に戻して、下りている幕の傍の壁に凭れる。
幕の向こうからは微かにざわめきが聞こえて来る。どうやら客が入り始めているようだ。
 壁に凭れていると、今まで立っていられたのが不思議なくらい身体がだるく感じる。なるほど、青山さんが座らない方が良いと言った理由が実感出来る。
頭がぐらぐらする。耳の聞こえが益々悪くなってくる。
熱冷ましがまったく効かなかったばかりか、余計に具合が悪くなったような気がする。薬を飲み過ぎたのが悪かったんだろうか?

「・・・さん、・・・じさん、祐司さん。」

 雑音の中から晶子の声が聞こえて来る。顔を上げると−何時の間にか俯いていた−晶子が不安そうな様子で立っている。
俺は笑みを作る余裕もない。晶子の姿が若干歪んで見える。・・・こりゃ相当ヤバいな。

「大丈夫ですか?何度も呼びかけたんですけど全然反応がなかったから・・・。」
「今回ばかりは・・・大丈夫とは言えないかな・・・。あと1時間、大人しくしてる。」
「祐司さん、このままステージに出ら・・・。」

 晶子の声が急速にフェードアウトしていく。晶子は何か言っているようだが、まったくその声が聞こえない。
晶子の声はよく通るソプラノボイスだから、多少の五月蝿さの中でも聞こえる筈なんだが・・・。

まさか・・・耳が聞こえなくなったのか?!

 俺は右手を耳に当てて、あー、あー、と言ってみる。右耳の辺りで自分の声が聞こえる。
今度は手を退けてもう一回、あー、あー、と言ってみる。だが全然聞こえない。
駄目だ。完全に耳をやられてしまった。

「・・・?」

 晶子が俺の左頬に手を当てて顔を近付ける。何か尋ねたようだが全然聞こえない。兎に角非常事態だということを伝えるにはジェスチャーしかないか。
俺は右手の人差し指で耳を指差して、次に両手の人指し指を前で交差させる。
晶子は大きな瞳を更に大きく見開く。まさか、と思っているんだろうか?
俺はもう一度同じジェスチャーをする。すると晶子の顔が驚きに変わり、俺の左耳に顔を近付けてくる。

「・・・?・・・こ・・・す・・・?聞こえますか?」

 晶子の声がようやく聞こえて来る。俺は頷く。
どうやら完全に聞こえなくなったわけじゃないが、相当耳が遠くなったような状態に陥ったらしい。

「私、祐司さんの本当に耳元で声を出してるんですよ。これで聞こえますか?」
「ああ、今なら聞こえる。最初の方は聞こえなかった。」

 かく言う自分の声はまったく聞こえない。喉の振動が伝わってくるだけだ。
高熱で一時的に耳が聞こえなくなることがあるという話を聞いたことがあるが、まさか自分がそんな状態になるとは思わなかった。

「このままじゃ演奏出来ないですよ。事情を話して中止にしてもらった方が・・・。」
「もう開場して客が入り始めてるってのに、今更中止なんて出来るか・・・。店のクリスマスコンサートならまだしも、下手すりゃ暴動が起きるぞ。
此処まで来させておいて金まで取っておいて逃げる気か、って。」
「それじゃどうするんですか?」
「会場のスピーカーの音は相当大きいだろうから、それを頼りにするしかないかな。」
「会場のスピーカーは客席に向かっているんですよ?満足に聞こえなかったらどうするんですか?」

 その可能性は全否定出来ない。
客席からステージを見たことがないからスピーカーがどっちを向いているのかは分からないし、向き方と音量によっては客の手拍子に紛れて満足に
聞こえないかもしれない。どうすれば・・・!

「晶子。ちょっと頼まれてくれるか?」
「何ですか?」
「晶子が待機している間は、ステージの袖で曲のリズムに合わせて手拍子をしてくれ。曲の流れや締め方は決まってるから、耳が聞こえなくてもテンポさえ
分かれば何とか出来る。」
「私がステージに出る時はどうするんですか?」
「俺が演奏し始める場所は分かってるだろ?その直前に少し右手を挙げてくれ。それを合図にする。テンポは何時もどおりリズムに乗って身体を揺らしていて
くれれば良い。それで分かる。」

 俺は晶子の手を握る。

「晶子。俺が耳聞こえないってことは二人だけの秘密にしてくれ。桜井さん達に知られたら大騒ぎになる。頼む。」
「・・・分かりました。」

 晶子は真剣な表情で了承してくれた。
音楽を演奏する人間が耳が聞こえないなんて、ベートーベンみたいな超人でもない限り大変なことになるのは火を見るより明らかだ。
兎も角、一番信頼がおける晶子に頼るしかない。
腕時計を見ると4時15分過ぎ。あと45分で多少でも耳が聞こえるようになってくれれば良いんだが・・・。

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