雨上がりの午後

Chapter 107 愛しき人との睦み時

written by Moonstone


 その日の夕方、俺は家を出た。
親が送っていこうか、と言ってくれたが、荷物も大してないし、そんな程度で親の手を煩わせたくなかったから断った。
行きと同様、ギターとアンプを持って電車に乗り込んだ。
 バンドのメンバーとは、あの後近くのコンビニで買った酒やジュースで乾杯した。
自分で車を運転して会場入りした勝平は、唯一ジュースで我慢と相成った。
本来なら酒で乾杯したいところだが、成人式早々酒気帯び運転で逮捕なんてことになったら、俺達の責任でもある。
少なくともその辺の分別は弁えているつもりだ。
 電車を乗り換え、揺られること2時間半。
演奏と長時間の乗車−時期もあるし休みの日だから混んでいる−で立ちながらうつらうつらしていた頃、胡桃町駅に到着した。
改札を出ると、外はもう真っ暗だった。冷気が肌に突き刺さる。晶子から貰ったマフラーがありがたい。俺は首をすぼめて公衆電話へ向かう。
 受話器を上げ、親から貰った−親も携帯電話を持っていて要らなくなったそうだ−テレホンカードを差し込み、晶子の家の電話番号をダイアルする。
今頃夕飯の用意をしているか、食べている最中か・・・。トゥルルルルル、トゥルルルルル・・・という発信音が続く。
 しかし、5回発信音が続いても晶子は出ない。
晶子は長くとも3回目のコールまでには電話に出る。
買い物か?否、買い物は週末の午前に行くから、臨時に必要なものが出ない限り行かない筈だ。

・・・もしかして・・・。

 俺は一旦受話器を下ろすと、もう一度テレホンカードを差し込むところまでは同じ動作を繰り返して、今度は俺の家の電話番号をダイアルする。
トゥルルルルル、トゥルルルルル・・・という発信音が3回目に差し掛かったところでガチャッという音がする。

「はい、安藤です。」
「晶子か?俺、祐司だ。」
「祐司さん。今何処ですか?」
「駅の公衆電話だよ。ま、話は後でするから、今から帰る。」
「はい。祐司さん、夕食は?」
「いや、まだ食べてない。」
「丁度良かった。夕食の準備をしてたんですよ。」
「そうなのか?」
「ええ。道中気を付けて帰ってきてくださいね。」
「分かった。それじゃ・・・。」

 俺は受話器を置いてテレホンカードを取って財布にしまう。
確かに昨日の夜の電話で帰る予定の時間を教えておいたが、まさか俺の家で夕食の準備をして待っててくれてるとは・・・。
俺は気持ちが弾むのを感じながら自転車置き場へ向かう。
 閑散としている自転車置き場から自転車を取り出して外に出てサドルに跨る。
ペダルを漕ぐにしたがって肌に突き刺さる冷気が鋭さを増してくるように感じる。冬ならでは、そして自転車やバイクならではの辛さだ。
まあ、この程度のことで根を上げてるようじゃとてもやってけないだろうが。
 緩やかな上り坂を登っていき、脇道に入ると俺の家があるアパートが見えてくる。
駐車場の敷地に入ると、俺の家の窓が光っているのが見える。
チラッと人影らしきものが見えたような気がする。晶子が料理をしているからだろうか。
俺は自転車を押して家の前まで来る。
 自転車を壁際に止めてインターホンを押す。すると中から、はい、という声がして足音が近付いてくる。
そしてドアが顔が見える程度開く。きちんとドアチェーンがかかっている。この辺の防犯意識もしっかりしてるな。

「どちらさまですか?」
「俺だよ。」
「はい、今開けますから。」

 ドアが一旦閉まり、金属音がした後ドアが大きく開く。
俺は溢れてきた暖気を逃がさないように素早く中に入ってドアを閉める。
晶子は髪を後ろで束ねてエプロンをしている。

「ただいま。」
「お帰りなさい。荷物を置いて手洗いとうがいをして下さい。もうすぐ出来ますから。」
「分かった。今日のメニューは?」
「それは見てのお楽しみということで。」

 晶子がそう言う背後で底の深い鍋に火がかけられている。晶子は急いだ様子でその鍋の方へ向かう。
俺はギターとアンプを部屋の隅に立てかけてから、流しで横目に晶子の料理姿を見ながら手洗いとうがいをする。
鍋の方からはジューという音が連続して聞こえてくる。どうやら作っているメニューは揚げ物のようだ。果たして何が出てくるやら・・・。
 タオルで顔を拭った俺は部屋を一望する。
自分では綺麗にしたつもりだった部屋がより一層綺麗になっていて、逆に閑散とした印象さえ感じる。
外に出ていたものは悉く収納されてしまったようだ。
まあ、晶子が部屋を掃除してくれるとは思わなかったし、文句を言う余地もないんだが。
 俺は自分の「指定席」−とは言っても普段自分だけだから指定も何もあったもんじゃないが−に座って食事が出てくるのを待つ。
既に綺麗に拭かれた机には、茶碗と汁物の器と野菜サラダ、それに胡瓜ともずくの酢の物が置かれている。
あとはご飯と汁物−まあ、味噌汁だろうな−、そして揚げ物らしいメインメニューが出てくるのを待つだけだ。
 少しして、晶子が炊飯ジャーと湯気が立つ鍋を持ってくる。湯気が立つ鍋からは味噌の匂いがする。
晶子はしゃがんで汁物の器に交互に、均等になるように味噌汁を注ぐ。そしてまた立ち上がってキッチンの方へ向かう。
今度は湯気が立ち上る二つの皿を持ってくる。皿の中身は・・・鳥の唐揚げだ。待ってました、って気分だ。晶子の唐揚げは美味いんだよな。
 晶子はしゃがんで二つの茶碗にご飯を適量よそった後、また立ち上がってキッチンの方へ向かう。
そして二本の缶ビールを持ってきて、俺の向かい側に座る。

「このビールは?」
「祐司さんの成人祝に乾杯ってことで。」
「夕食で酒を飲むなんて初めてじゃないか?」
「もう大手を振って飲めるんですから良いじゃないですか。それにお酒、飲んできたんでしょ?」
「な、何で分かるんだ?」
「匂いで直ぐ分かりましたよ。鼻は良い方ですから。」

 参ったな・・・。たった一本の酒の匂いを嗅ぎ取るとは。やっぱり晶子には隠し事なんて出来ないな。
俺は苦笑いしつつ缶ビールのプルトップを開ける。
プシュッという軽やかな音が、少しタイミングをずらして二つ鳴る。
晶子も缶ビールを開けたのか。となると、次に来るのは・・・。

「それじゃ、祐司さんの成人を祝って・・・。」
「「乾杯。」」

 やはりこれだよな。
カツン、という小さな音がして二つの缶ビールがぶつかる。そして二人揃って缶ビールを傾ける。つい先程味わった苦味と爽快な舌触りが心地良い。
一度喉を鳴らす程度飲んだところで一旦缶ビールを机に置く。

「祐司さん、唐揚げとか好きですよね?ちょっと今回は工夫してみましたよ。」
「え?どんな風に?」
「それは食べてみてのお楽しみ、ってことで。」

 また、お楽しみ、か。まあ、食べる楽しみが増えて良いんだが、口に合わなかった場合のことを考えるとちょっとな・・・。
今までの晶子の料理は殆ど美味かったが、煮込み料理などが甘口になる傾向があるのには最初ちょっと抵抗があったしな。
 こういう時は考えるより試すに限る。
俺は唐揚げを一つ箸で掴んでちょっと観察する。別に見た目には変わったところはない。
そのまま口に放り込んで一噛み二噛み・・・。ん?何だが肉の感触が違う。今までのより柔らかくて肉汁が豊富な感じがする。
何度か噛んで味わう。うん、やっぱり今までのとは食べた感触が違う。

「どうですか?」
「美味いな、これ。肉が柔らかくて、肉汁もたっぷりで。今までのより美味いぞ。」
「そうですか。試しにやってみたんですけど、やっぱり効果はあったようですね。」
「どういう細工をしたんだ?」
「肉に下味をつけるときに林檎を摩り下ろしたものを入れたんですよ。」
「林檎?」

 思わず聞き返す。揚げ物と林檎の組み合わせなんて初めてだ。勿論この唐揚げは林檎の味はしない。
俺は最初の唐揚げを噛みつつもう一つ唐揚げを箸で摘んでしげしげと観察する。やっぱり何処にも林檎の雰囲気や面影はない。
不思議なもんだな、料理ってやつは。

「林檎を摩り下ろしたものを入れると、肉が柔らかくなって食べやすくなるんですよ。」
「何処で知ったんだ?こんなこと。」
「私、正月にマスターと潤子さんの家に居たでしょ?その時潤子さんに教えてもらったんです。潤子さんもこの前発見したばかりなんですって。」
「へえ・・・。潤子さんから教えてもらったのか。」
「でも、味が濃い目に作ってあるのは、私が祐司さんの好みを知ってるからですよ。」

 潤子さんと同じテクニックということを明かしたところで潤子さんとの違いをアピールするなんて、晶子らしい。
俺の好みを知っているのは自分だ、と言いたげなのが顔を見ても分かる。
やっぱり晶子の奴、潤子さんをライバル視してる一面があるんだな。

「確かに味は潤子さんが作るやつより濃い目だよな。新しく覚えた技に愛情が篭ってて、尚更美味く感じるよ。」

 言っておいて何だが、我ながら歯の浮くような台詞だと思う。だが、晶子は嬉しそうに微笑む。
帰って来て直ぐに晶子の手料理が食べられるなんて、今年は幸先良いかもしれない。少なくとも正月の親戚周りでの心労は完全に吹っ飛んだな。

「でも晶子。何で俺の家に来たんだ?」
「来ちゃ駄目でしたか?」
「いや、晶子の家の方が勝手が分かってるから料理もやり易いんじゃないかな、て思ってさ。俺の家だと材料が揃ってないから苦労するだろ?」
「そうでもないですよ。料理器具の場所は把握してますし、材料を持ってくるのは自転車を使えばそんなに苦労しないですから。それにそんな極端に
量が増えるわけじゃないですし。」
「そうか・・・。ま、俺は帰って来て直ぐに晶子の作った食事が食べられるなら、俺の家だろうが晶子の家だろうが、どっちでも良いんだけど。」
「今日、祐司さんの家に来たのは、もう一つ意味があるんですよ。」
「え?」

 晶子の思いがけない言葉に、俺はまた聞き返す。もう一つの意味って・・・まさか・・・まさかな・・・。
はは。正月早々何考えてんだか。晶子がわざわざ網に引っ掛かりに来るようなことをするわけがないじゃないか。
・・・でも、前例があるしな・・・。
 俺と晶子は和やかな雰囲気の中で食事を進めていく。
時間がちょっと遅いせいもあって、腹に料理がよく入る。
好物の油ものということもあるし、俺好みの味にしてもらってあるから、尚のこと食が進む。ビールを呑みながら食べているせいもあるんだろうか?
 会話の中で今日の成人式のことが話題に上り、俺は高校時代のバンド仲間と約束の場所に集ってスクランブルライブをやったこと、観客が予想以上に
多く集まり、途中で成人式の関係者が割り込んできたこと、それを皆で退散させたこと、全員揃って記念撮影したことを話す。
やっぱり酒が入っているせいか、舌がよく回る。
だが、宮城と再会して記念撮影をしたことは伏せておく。あらぬ誤解を招いて折角の雰囲気を壊したくないからな。
 食事は盛況のうちに終わり、晶子が後片付けを始める。俺は残りのビールを呑みながら洗い物をする晶子の様子を眺める。
ほんのり頬を赤く染めて洗い物をする様子は、さながら新妻のようだ。
去年の暮れ、マスターに晶子のことを未来の奥さん、と言われたことを思い出す。
こんな風景が何時も見られるようになると良いなぁ・・・。
 晶子が洗い物を済ませて戻って来た。
俺の向かい側に戻ると思ったら、俺の隣に腰を下ろして、肩に凭れかかってくる。
随分積極的だな。晶子って酒が入ると結構大胆になるところがあるからな。
・・・何だか変な気分になってきた。身体がむずむずする。酒が入ってるせいかな。

「ねえ、祐司さん。」

 不意に晶子が話し掛けてくる。
俺の肩に頭を乗せたまま俺を見るその顔は何時になく色っぽい。
赤みがかかった頬と半開きの唇が俺を誘っているように見えてならない。
・・・やっぱり酒が入ってるせいだな。

「・・・何だ?」
「私のこと、愛してますか?」
「・・・愛してる。」
「私も・・・。」

 俺は晶子の顎に手をかけ、その魅惑的な唇に吸い寄せられるように唇を重ねる。じっくりと味わうように唇を動かし、軽く吸う。
益々身体がむずむずしてきた。俺はそっと舌を差し込む。
晶子の口は自然に開いて俺の舌を受け入れ、熱い舌が絡んでくる。
濃厚なキスを交わしているうちに、晶子の方から徐々に重みがかかってくる。俺は支える間もなく床に倒れ込む。
 晶子が俺の上に乗りかかってくるのが分かる。俺と晶子は自然に抱き合いながら濃厚なキスを続ける。
だんだん身体が熱くなってくる。何かおかしい。でも気持ち良さの前には疑念は続かない。
俺は身体を反転させて晶子の上に乗りかかる。
 喉の奥まで抉るような濃厚なキスを暫く続けた後、俺は一旦口と舌を晶子から離す。
晶子は目を閉じたまま、早く浅い呼吸をしている。それを見ていると益々身体が熱くなってくる。
俺は晶子の首筋に唇を付ける。何時嗅いでも爽やかで、そして甘酸っぱい香りが鼻の中に入り込んでくる。
晶子は何の抵抗もなく首を傾ける。

「はぁ・・・。」

 晶子の甘い吐息が俺の耳の直ぐ傍で聞こえる。俺も呼吸が荒くなっているのを感じる。
・・・もう我慢出来ない。俺は晶子の服を脱がしにかかる。
その時、晶子の両手が俺の手に重ねられる。

「ベッドへ・・・連れて行って・・・。」

 何かと思えば場所の要求だった。
俺は晶子の服から手を離し、晶子の上から退いてその頭と膝の裏側に手を入れて一気に持ち上げる。適度な重みと弾むような弾力が両手に伝わってくる。
晶子は目を閉じたまま見た目ぐったりしている。抱きついてくるわけでもなく、全て俺に任せるといった感じだ。
 俺は晶子を静かにベッドに横たえる。その時、俺の首に晶子の腕が回り、食いと引き寄せられる。
俺はされるがままに晶子と唇を重ね合う。俺は直ぐに始まった濃厚なキスを続けながら晶子の上に乗りかかる。
 時に抱き合い、時に服を脱がして、俺と晶子は互いに上になったり下になったりしながら濃厚なキスを続ける。
久々のこの感触。舌と手と前面に感じるこの離し難い感触。
もう止められない・・・。止めたくない・・・。

・・・。


 絶頂を越えた俺の身体から硬直が解ける。そして崩れるままに身を任せて前のめりに倒れ込む。
布団とはまったく違う弾力が俺を受け止める。
俺は荒い呼吸のまま、俺を受け止めた弾力の主の唇を塞ぐ。
暫く温かくて柔らかい唇を堪能した後、俺は唇と身体を離して布団に仰向けになる。

「・・・これって、二度目のご馳走って言うのかな・・・。」
「そうだったら嬉しいです・・・。」

 激しく求め合った。これが三回目。
まだ回数を覚えているということは、逆に言えばそれだけ間隔が開いていて、同時に印象深いということだ。
これが呼吸をするのと変わらない感覚になった時が危ないんだよな・・・。

「何か・・・仕込んだ?」
「別に何も・・・。何故ですか?」
「こっちに帰って来ていきなりこうなるとは思わなかったからだよ・・・。晶子が誘ってきたような気もするけど。」
「祐司さんをその気にさせようとしたのは事実ですよ。」
「何で?」
「抱いて欲しかったから・・・。」

 晶子は簡潔明瞭な答えを言って俺に擦り寄り、肩口を枕にする。

「祐司さんがいなかった約1週間・・・。短いようでやっぱり長かったです。私にとっては・・・。電話で祐司さんの声を聞く度に祐司さんと一種に居たい、
祐司さんに早く帰って来て欲しい、って思ってたんです・・・。」
「晶子・・・。」
「だから祐司さんの家に来て・・・祐司さんが好きな料理を作って・・・お酒を飲んで気分を盛り上げて・・・会えなかった分だけ愛してもらおう、って・・・。」

 俺は囁くように言う晶子の髪に指を通す。指を滑らせていくと、絹糸のような滑らかな感触が指に伝わる。

「向こうじゃ・・・色々あった。楽しい時もあれば窮屈な時もあった・・・。食事食べてた時には言わなかったけど、成人式の会場で宮城と会ったんだ・・・。」
「あの女性(ひと)と?」
「ああ。バンド演奏が終わってから記念撮影をしたんだけど、その時開口一番聞かれたよ。晶子と上手くやってるか、ってな・・・。その時つくづく実感したよ。
俺の隣に一番居て欲しいのはバンド仲間でも宮城でもない、晶子なんだって・・・。今日晶子を抱いて、帰って来たんだ、って実感が強まったよ・・・。
俺の前であられもない姿を晒す晶子を見ていて、俺は晶子と時間を共有してるんだ、って思ったよ・・・。」
「祐司さん、今日は何時になく激しかったから・・・。」

 晶子は身体を起こして俺の上に乗りかかり、俺を至近距離から見詰める。
電灯に照らされた身体はじっとりと汗ばみ、頬は紅潮している。
俺が晶子の頬に手を当てると、晶子は目を閉じて愛しげに頬擦りをする。

「・・・俺達ってさ、ちょっと変わってるよな・・・。」
「何がですか?」
「俺達が寝た時、きっかけは晶子が作ってるだろ?最初だってそうだったじゃないか。晶子が俺の隣で服を脱いでさ・・・。」
「そういう女は嫌いですか?」
「いいや、愛してる相手から誘われて嬉しくない筈がないさ。だから俺は懸命に晶子を抱くんだ。・・・満足してるかまでは分からないけど。」
「愛してる人に一生懸命抱いてもらって、満足しない筈ないですよ・・・。」

 晶子はゆっくりと倒れこんできて、俺の頬に自分の頬をくっつける。次の瞬間、頬に軽く温かい点が生まれる。
俺は再び晶子の髪に指を通して顔を晶子の方に向ける。
晶子は心地良さそうに、満足そうに微笑んでいる。

「・・・ただいま。」
「お帰りなさい・・・。」

 俺と晶子は囁き声で挨拶を交わて微笑む。そして俺は晶子の頭を自分の方に近づけて唇と重ね合わせる。
晶子の腕が俺の頭を抱き込む。
深い、味わい深い余韻が続く。この時間がずっと続けば・・・。

 ・・・俺の視界が徐々に開けてくる。やがて見慣れたベージュの天井が目に映る。カーテンはほんのりと輝きを漏らしている。
朝か・・・。何時の間にか寝てしまったんだな。
 意識がはっきりしてくるにしたがって、耳に様々な物音が届いてくる。
何かが焼けるような音と、調子良く何かを叩く音・・・。
俺の上には晶子ではなく、布団と毛布が被せられている。両隣を見ても晶子は居ない。
視線をもっと遠くに向けると、エプロン姿の晶子が包丁で何かを刻んでいるのが見える。
俺が身体を起こすと、晶子がそれに気付いたのか、俺の方を向く。

「おはようございます。もうすぐ朝御飯が出来ますよ。」
「おはよう。早いな・・・。」
「昨日は良く眠れましたから。」

 晶子はそう言って微笑み、再び正面を−俺から見れば横を−向く。
俺はベッドの下に脱ぎ捨てられているであろう自分の服に手を伸ばす。
服はきちんと畳まれて一箇所に積まれていた。晶子がそうしておいてくれたんだろう。
俺は畳みを崩すのが惜しい服を手に取って着ていく。
ふと気付いたんだが、下着は新しいものに代わっている。抜かりないとはこういうことだな。
 俺が服を着終わってベッドから出ると、晶子は皿を両手に持ってやって来る。皿には焼きたての目玉焼きとハムが乗っている。
晶子は向かい合わせに皿をテーブルの上に置くと、またキッチンに戻って今度は鍋と炊飯ジャーを持ってくる。
晶子は鍋から味噌汁、炊飯ジャーからご飯をよそってやはり向かい合わせに置く。そして前から置いてあった急須から二人分の湯飲みに茶を注ぐ。
やはり前からテーブルの上にあった野菜サラダと合わせて朝食が出揃ったようだ。
 晶子はエプロンを外し、自分の「指定席」に座る。
俺は何時も一人で食事を食べる場所、即ち晶子の向かい側に腰を下ろす。
俺と晶子は顔を見合わせて両手を合わせて唱和する。

「「いただきます。」」

 俺は茶を一口啜った後、朝食を食べ始める。
実家に居た時は店を開ける前に叩き起こされるか、昼まで我慢するかのどちらかだったが、晶子と一緒に居る時は大抵不思議と自然に目が覚める。
目が覚めないで起こされるのは酒が入った時くらいだ。
 そう言えば昨日は夕食に酒が入ったよな・・・。
スクランブルライブから間もなくこっちに戻ってきたから、疲れがドバッと噴き出てよく眠れたってことだろうか。
ま、何にせよ、食事が待っていて出てくれるのは本当に助かる。
こっちでも夕食は晶子か潤子さんの手料理を食べているが、朝食だけはそういうわけにもいかない。火曜の朝を除いて。

「バイトは明日からですし、今日はどうしますか?」

 晶子が尋ねてくる。確かに今日は月曜だからバイトは休み、大学は今週の木曜からだから、今日は完全にフリー。何も用事はない。
さて、どうしたものか・・・。
家でゴロゴロしてるのは何だか凄く勿体無いような気がするし・・・。

「あの・・・よかったら映画を見に行きませんか?」

 考えていたら晶子が話を持ちかけてくる。
映画か・・・。映画といえば、晶子と付き合う前に評判の映画に行って、泣いていた晶子に大勢の前で抱きつかれたよな・・・。

「マスターが招待券をくれたんです。期限は今週末までですからまだ余裕はありますけど、祐司さんが暇なら一緒に行きたいな、と思って・・・。」
「何ていう映画?」
「『ナタリー』っていうタイトルです。十数年前に上映されて大ヒットした映画の続編っていう位置付けだそうで、前評判は高いそうですよ。」
「ふーん・・・。」

 こういう暇を持て余す機会はこれから先益々なくなるだろうし、折角晶子と一緒に居られる時間が増えるんだ。これを逃す手はないな。

「行こうか。どんな映画か興味あるし。」
「はい。」

 晶子は嬉しそうに微笑む。晶子も行きたかったみたいだ。
まあ、折角招待券を貰ってるんだから使わないと勿体無い、っていう気持ちもあるかもしれないけど、そんなことはどうでも良い。
今回の帰省で、晶子と距離が出来ることがどんなに俺の心に大きな穴を開けるか思い知らされた。
俺の進路次第じゃ一緒に居られる時間を作るのが難しくなるかもしれない。だからこそ恵まれた機会を大切にしたい。
 俺と晶子は朝食を食べ終わると、晶子が洗い物を済ませてエプロンを外す。
行く準備と言っても格好は普段着そのまま。変わったことと言えばせいぜい歯を磨いて髪に櫛を通すくらいだ。
それも普段していることと言えばそうだから、別段変わったと頃は何もないと言ったほうが適切か。
飾らない普段着の付き合い。これがどんなに気楽でありがたいことか。

「それじゃ、行こうか。」
「はい。」

 俺はコートを着てマフラーを巻き、エアコンを止めて晶子と共に家から出る。そして鍵をかけて・・・これで良し。
俺は鍵をセーターの下に着ているシャツの胸ポケットに仕舞い、どちらから言い出すまでもなく晶子と手を取り合う。
映画館までは歩いてでも十分行ける。時間待ちの可能性もあるがそんなことはお構い無しだ。

「二人で映画って、久しぶりですね。」
「そうだな。前に行った時は付き合う前だったから、付き合うようになってからは今日が初めてか。」
「あの頃から私はその気でしたけどね。」
「俺はまだその気じゃなかった。否、気付かないふりをしてただけかもしれないな。」
「でも、今こうして一緒に居られるんですから、結果オーライですよ。」
「結果オーライ、か・・・。確かにそうだな。」

 俺と晶子の手はしっかり繋がっている。
この温もり、この気持ち、この瞬間、どれも大切な記憶にすると同時にこれからに向かって大切に育んでいきたい。
抱いて抱かれて、だけの関係になった時は、そこには恐らく何もないだろう。
全てを過去に変えてただ抱いて抱かれてに明け暮れる時間・・・。そんなのはまっぴらだ。
 冬の朝の通りは車も人も疎らだ。
社会人なら仕事が始まっているだろうし、学生はまだ夢の中か或いはクラブ活動か。
剥き出しの顔や手に突き刺さる冷気の針は鋭いが、晶子との接点に意識を向ければそんなこと大して気にならなくなる。
 日頃は学生や社会人の波でごった返す駅前もひっそりしている。俺と晶子はそんな駅前通りを通り過ぎ、映画館へ向かう。
あの映画館へ行くのは久しぶりだが、不思議と道程は覚えている。
それだけ晶子と一緒に映画を見に行ったっていう思い出が強く脳裏に焼きついているせいか、或いは・・・。
 止めた。今は過去を振り返ってあれこれ考える時間じゃない。今は今を大切にしなきゃいけないんだ。
それが晶子との時間を充実させるために最も必要なことだ。
それを忘れた時が一番怖い。そうなったら全てが惰性になっちまう。晶子との絆も思い出も一緒に居る時間も何もかもが。
それだけは絶対に避けなきゃいけない。
 暫く歩いていくと映画館が見えてきた。
学生らしい若い集団やカップルが目立つが、それほど人数は多くない。
まだチケットを買っている奴も居るところからして、上映開始時間までにはまだ時間はあるようだ。
今日は時計を見ないようにしよう。時間に追われる生活はこれから嫌でも待っているし、こんな時くらい文字どおり時間を忘れて楽しみたい。
折角の二人きりの時間んだから、存分に楽しみたい。

「どんな映画なんでしょうね。」
「さあ・・・。それは兎も角、大勢の前で抱きついて泣くのだけは勘弁してくれよ。どうしたら良いか分からないから。」
「そういう時は優しく抱き締めてくれれば良いんですよ。」
「あのなあ・・・。」
「冗談ですよ。もう昔の私じゃないんですから、心配要りませんよ。」

 晶子はそう言って微笑む。この悪戯娘め・・・。寒さで縮こまっていた俺の口元も思わず緩む。
まあ、以前みたいに泣きつかれても、それを受け止めるだけの心構えは出来ているつもりだ。俺も昔の俺じゃないんだから。
さて、どんな映画が待っているのやら・・・。

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