雨上がりの午後

Chapter 85 至福の朝を二人行く

written by Moonstone


 微かな明かりが染み込む闇の世界に、二つの小さな荒い呼吸音が入り乱れて不規則なリズムを形成する。
俺は右腕を額に置いて天井を眺める。左肩口には晶子が頭を乗せている。俺に抱きつくように腕を俺の胸に回している。
俺の左手は自分の方に抱き寄せるように晶子の頭に置いている。
 ふと俺は気になって、枕元の目覚し時計を手探りで探して見詰める。
蛍のような仄かな緑色に輝く時計の針は既に1時を回っている。
俺の誕生日は晶子との激しく熱い睦み合いの間に過ぎてしまったわけだ。時計の上では。
寝るまではその日という見方もあるから、別に構わないか。俺は時計を手探りで適当なところに置く。

「・・・なあ、晶子・・・。」
「・・・はい?」
「晶子自身も・・・誕生日プレゼントの一つか?」
「半分は・・・。」
「半分?」
「もう半分は・・・祐司さんの全てが欲しいっていう気持ちがあったからです・・・。」
「・・・そうか・・・。」

 正直に言えば、俺も晶子の全てが欲しかった。
あの夏の夜に手と唇以外で初めて直に触れた、晶子の肌の滑らかさと柔らかさ、そして俺の「攻め」に悩ましく喘ぐ声や仕草を忘れたことはない。
あれ以来何度か、あの夜のことを思い出してその欲求を「処理」していたことも事実だ。
 だけど、その欲求を実行に変化させられなかった。
夜、晶子を俺の家に連れ込む口実は、晶子には悪い物言いだが大して悩む必要はない。
恐らく、俺の家に泊まっていかないか、と一言言えば、いとも簡単に晶子を家に連れ込めたと思う。
何せ何時狼に変貌するかもしれない男の俺を、自分の家に食事付きで寝泊りさせているんだから。
 欲求を実行に移す機会は、それこそ毎週1回必ずあったといっても過言じゃない。
それでも俺がその機会を見て見ぬ振りをしてきたのは、やはり一線を超えることで、それだけの関係になってしまうのが怖かったからだ。
晶子が俺を自分の家に寝泊りさせてきたのも、見方を変えれば、俺が一線を超えることに恐怖を感じているから狼に変貌することはないと
踏んでいたから出来たことだと思う。
 晶子も俺の全てが欲しかったと言った。
つまりは一緒に寝る時、俺が狼に変貌しないというある種の確証に基づく安心感と同時に、俺が狼に変貌する時を待っていたのかもしれない。
でも、俺には俺の心理状況があったから待っても待ってもその時は来なかった。
だがら、晶子は俺が言うなれば自分で自分の足を引っ張っている状態を「打開」するきっかけとして、俺にとって特別な日である俺の誕生日を選び、
服を乱すことで自分の意思を表現したんだろう。

「・・・嫌じゃなかったですか?」

 晶子が不意に尋ねてくる。

「何が?」
「私が痛がらなかったこと・・・。」
「男と寝る時、女は初めてじゃなきゃ駄目、ってことはないだろ?」
「・・・こだわらないんですね。」
「晶子も俺の前に結婚したいって思うくらい好きだった相手が居たんだろ?だったら・・・その相手と寝ててもおかしくないさ。俺もそうなんだから。」

 晶子が俺に擦り寄って来る。否、より密着してきたという方が正しいか。
その口元には笑みが浮かんでいる。俺が言ったことがそんなに嬉しいことだったんだろうか?俺は持論を言ったまでなんだが。
 俺は晶子と付き合う前に宮城と付き合っていて、綺麗な言い方をすれば「一つになった」し、それはその場その時限りじゃなかった。
寝た回数で云々言うつもりはさらさらないが、晶子もそれなりに前の相手と、言い方は悪いがそれなりに「一つになった」数を持っていても何も不思議じゃない。
それは俺の手が及ぶはずもない過去のことだ。そこで貞操がどうとか言っても意味がない。大切なのは・・・今なんだから。

・・・そう言えば・・・

「・・・こんな時にムードぶち壊すようなこと言うけどさ・・・。」
「何ですか?」
「今日って・・・大丈夫だったのか?」
「心配要りませんよ。」
「それなら良いんだけど・・・。ほら、前に潤子さんとマスターに言われただろ?今更遅いけど、それを思い出したんだ。」
「自分の身体のことは自分が一番よく分かってますよ。女は特に。」

 そうだろうな。付き合う前、無視を通していた俺から名前なんかを聞き出したり俺の受ける講義を探したり、挙句の果てにはバイト先まで身をねじ込ませて
俺との接触の時間を増やして俺の心を入れ替えさせた策士の晶子が、俺みたいに自分の大切な日を−これからはあまり大切に思えなくなるような
気がしないでもないが−すっかり忘れることなんてないだろう。
 それにしても、流石に疲れた。全身がけだるい。
あれだけ激しく自分の全てを出し切るようなことをしたんだから当たり前といえばそうだが、明日は起きれるだろうか?
月曜は一コマ目に試験があるから、昼過ぎに起きて深夜まで、ってことは出来れば避けたいんだが。

「明日、って言ってももう今日だけど・・・起きれるかな?」
「午前中にですか?」
「ああ。一応月曜の一コマ目に厄介な試験を控えてる身だからな。」
「私が起こしますよ。」
「大丈夫なのか?」
「多分・・・。」

 晶子はそう言って苦笑いする。何時もみたいな確証は持てないらしい。
晶子もそれ相応に疲れている筈だから、まあ、無理もないか。
それに昨日だって起きたのは昼過ぎだったし、そんなに神経質にならなくても良いような気がする。・・・今だからそう思えるだけかもしれないが。
 俺は笑みを浮かべて晶子の頬を軽く突つく。晶子はきゃっ、と小さい悲鳴を上げて身を縮こまらせる。
弾力のある頬を何度か軽く突つくと、晶子は猫が嫌がるように顔を動かす。

「この、この。悪戯猫め。」
「やん、やだ、何するんですかぁ。」
「人の誕生日を見事に演出しやがって。どうやっても忘れられない日になっちまったじゃないか。」
「それは祐司さんが自分の誕生日を忘れてたのも大きな要因ですよ。」
「どうせ俺が覚えてても仕掛ける手筈は考えてあったんだろ?」
「それは・・・まあ・・・。」
「やっぱり悪戯猫だ。お仕置きしてやる。」
「お、お仕置きって・・・きゃっ?!」

 俺は素早く晶子を下にして覆い被さり、唇を唇で塞ぐ。それから少しして、俺の首が両側から強く抱きかかえられる。
俺はそれに呼応する形で晶子をしっかり抱き締める。
シングルベッドの上で、俺と晶子は時々上下を入れ替えつつ唇を離さずに舌を絡ませる。
何度も立てた音の筈なのに今日に限ってやけに艶かしい響きを含んだ音が、不規則に浮かんでは消えていく・・・。

 闇の淵から俺自身が浮き上がって来る。それと共に目の前の風景が徐々に白んで来る。
・・・見えたのはベージュ一色の見慣れた天井。カーテンからは恐らく外は晴なんだろう、明るい光が部屋に広がっている。
それに呼び起こされるように、昨夜の出来事が頭に浮かび上がって来る。特に・・・今俺が横になっているベッドの上での出来事が・・・。
 自然と口元が緩むのを感じつつ、俺はふと左隣、否、左脇を見る。
晶子が俺の肩口を枕にして、胸に手を置く形ですーすーと規則的で安らかな寝息を立てている。
私が起こす、なんて言っておきながら結局先に目を覚ましたのは俺か。
まあ、そこまで眠らせる原因は俺にもあるわけだから文句を言う資格はないし、晶子を起こしてそうするつもりもない。
若干残る気だるさが心地良く感じられる。  晶子を起こさないように注意深く右手で目覚し時計を探り出して見る。時計の針は8時を過ぎたところだ。
余韻を味わうようなキスをしてから眠ったのが何時かは知らないが、週末は普段昼過ぎまで寝ている俺としては奇跡的に早い時間に目を覚ましたわけか。
俺は探り出した時と同じように注意深く目覚し時計を元に戻して、これからの行動を考える。
 俺と晶子は共に明日以降も試験を控えている身。俺に限定すれば、厄介な教科の試験がある。
晶子も試験勉強をしなきゃならないだろうから、晶子を起こしてコンビニへおにぎりとかサンドイッチを買いに行き、朝食を済ませて晶子を送り届けて
試験勉強を始めるのが一番模範的ではある。だが、晶子の寝顔を見ていると、どうしても起こすのが憚られる。こんなに気持ち良さそうに寝てるからな・・・。
 この様子だと、このまま晶子が自然に目を覚ますのを待つのが一番適切なようだな。まだ8時過ぎだし、そんなに急がなくても良いだろう。
二度寝してしまうかもしれないが、それならそれで良い。
明日の朝眠くなるのを覚悟の上で、晶子が目を覚ましてからコンビニに行くなり、『Alegre』にブランチと洒落込むのも一つの手だ。
昨日晶子手製のおにぎりとサンドイッチを食べたから、コンビニのそれらは舌が拒絶するかもしれないし。

「ん・・・。」

 晶子が小さい寝言を立てて、より俺に密着して来る。
よく見れば−よく見なくても−俺と晶子は裸のままなんだよな・・・。肌の感触や弾力や温もりがダイレクトに伝わって来る。本当に心地良い。
夜、それらを指と唇で存分に堪能したことが脳裏に蘇って来て、また口元が緩む。他人から見れば、きっと気味悪い笑みに違いない。
 それにしても・・・。晶子が自分をプレゼントの一つにするとはな・・・。
漫画や小説ならありそうな話だが、自分自身がそれをもらう−と言って良いのか?−立場になるとは思わなかった。
「一つになる」のは、せめて俺が20歳になるまで、とは確かに言ったが、本当にそうなるとは思わなかった。
晶子は俺がそう言った時から自分を誕生日プレゼントにするつもりだったのかもしれない。

「ん・・・あ、朝・・・?」

 くぐもった声を上げた晶子が目を開けて何度か瞬かせる。起きたままの状態で少し間を置いて俺の方を見る。
晶子は俺を見上げるような姿勢のままで本格的な第一声を放つ。

「・・・おはようございます。」
「おはよう。よく寝てたな。」
「今、何時ですか?」
「さっき見た時は8時過ぎだった。だからまだ9時前だと思う。」
「私が起こすって言っておきながら、私の方が後になりましたね・・・。御免なさい。」
「良いさ。結果的に午前中に起きれたんだから。」

 晶子は小さい欠伸をして目を閉じ、枕にしている俺の肩口に猫が擦り寄るように頭を動かす。そして再び目を開けて俺に問い掛ける。

「もう一つのプレゼントは・・・どうでした?」
「・・・最高だった。」
「良かった・・・。」

 晶子は嬉しそうに微笑んで頭を起こして、俺の上に圧し掛かって来る。あの感触が胸を通してくっきりした輪郭を帯びて伝わってくる。
まさか・・・もう一回、なんてこと言い出さないだろうな?
相手は出来るが、明日試験だから体力は温存したいんだけど・・・。

「朝御飯、どうします?」

 何だ、そのことか・・・。心配して損した。・・・ちょっと残念な気もするが。

「外へ食べに行こう。俺の家には食材なんてないし。」
「コンビニへ買い出しですか?」
「否、晶子が良ければ・・・『Alegre』へ行こうか、と。」
「私はそれで構いません。けどお金は・・・。」
「一食くらい俺が奢るよ。」
「それじゃ、お言葉に甘えますね。」
「決まりだな。じゃあ、行く準備でもするか。」
「ええ。」

 晶子は身体を起こしてベッドに腰を下ろした態勢になって髪をさっとかき上げる。
その滑らかで豊満な丸みを帯びた身体が、カーテンを通して差し込む朝日に輝いて神々しささえ感じさせる。
夜に唇と指を這わせたそれが太古の女神の像を思わせて、少しもいやらしさや肉体的欲望を感じさせない。
 俺が見惚れていることに気付かないらしい晶子は、足をベッドに降ろしてベッドの下を見て屈んでごそごそし始める。服を着始めるんだろう。
窓がカーテンで閉ざされていることを確認して、俺も上体を起こす。
服を着るのは晶子がある程度服を着てからでも良い。慌てる必要なんてないんだから。
 晶子が下着を着けてブラウスに袖を通し始めたところで、俺はベッドの端に移動する。
改めてみると、ベッドの下には俺の服と下着と晶子のスカートが散乱している。昨日互いに服を脱がし合ってポイポイ放り出したからな・・・。
まあ、ああいう状況で服をきちんと畳んで、なんて野暮なことは言いっこなしだ。俺は下着から順に服を着ていく。
 ブラウスのボタンを嵌めたらしい晶子は、今日初めて立ち上がる。スカートをはくためだろう。
腰を覆う白い下着が目に眩しく映るのは気のせいだろうか?
俺はシャツを着てズボンを取って座ったままではく。足を通したところで腰を浮かせて整えれば完了だ。こういう時、男は着替えが楽で良い。
俺が服を着るのを済ませた時には、晶子はスカートにブラウスを仕舞い込んでファスナーを締めようとしているところだった。
俺はベッドに座って晶子が気負えるのを待つ。

「早いですね。」
「こういうもんだよ。」

 短いやり取りの後、晶子はファスナーを閉める。
これで此処へ来た時の状態に戻った。これなら万が一覗かれても心配は要らない。まあ、普段男一人の部屋を覗こうなんて奴は居ないか。
考えられるとすれば、晶子が此処に入ったのを見て壁に耳を当てていた隣人か−顔もろくに知らないからそういう人物である可能性も否定出来ない−、
覗き趣味の変質者だろう。後者の場合は注意が必要だな。
 俺がベッドから降りて立ち上がったところで、晶子が俺に身体を寄せて来る。その表情は何処か不安げで、肩を抱かずにはいられない心境になる。
俺は晶子を支えるようにその肩を抱いて様子を窺う。晶子は上目遣いで俺を見て言う。

「これで・・・終わりじゃないですよね?」
「そんな筈ないだろ?昨日晶子自身が言ったのに。」
「そうですよね。」
「これからが不安になったのか?」
「少し・・・。」
「これで終わりになるような脆い絆じゃない筈だ、って自分で言ったくせに・・・。」

 俺は晶子の頬に手を添える。晶子は愛しげに眼を閉じてその手に頬擦りをする。
晶子の夜を挟んだ矛盾に腹立たしさは感じない。いざ自分を差し出したまでは良かったものの、その時の、言わば頭のブレーカーが吹っ飛んだ状態での行動が
今思うと不安に思えるのも無理からぬ話だ。
俺が身体を求めるだけの関係に陥りそうで一線を超えるのを恐れていたように、晶子も恐れていたとしても不思議じゃない。

「まだ1年にもなってないんだぞ?俺と晶子は。まだまだ、これからさ。」

 晶子は無言で頷く。

「昨日は特別な日だったんだ。また抱き合うことがあるなら・・・それは二人の心のベクトルが向き合っている時。それで良いんじゃないか?」
「・・・ええ。」
「人間なんて万年発情期の生き物だし、その上俺は男だから、変な言い方だけど昨日のことに味を占めて晶子を求めるかもしれない。
でも晶子にその気がなかったら拒否すれば良い。否、そうして欲しい。そうじゃないと・・・それこそ俺が恐れていたようなことになりかねないからさ・・・。」
「・・・はい。」
「それじゃ、行こうか。」

 俺は机の上に置いてあった鍵と財布をズボンのポケットに仕舞い込んで、晶子の肩を抱いたまま家を出る。
薄暗かった屋内から一転して残暑を感じさせる強い日差しに、俺は一瞬目を閉じる。
でも、それも一瞬のこと。直ぐに明るさに慣れた俺はドアの鍵を閉めて歩き始める。晶子の肩を抱いたまま・・・。

 休日のせいか行き交う車が少ない通りに沿って駅の方向へ歩いていくと、ふと宮城と付き合っていた時のことを思い出す。
月に1度くらいのペースで宮城が俺の家に泊り、一つのベッドで朝を迎えて、朝食を食べにこの通りを歩いて『Alegre』へ向かったっけ・・・。
あの時もあまり、否、殆ど会話はなかったな。不思議と双方喋らなかった。あれは宮城の時だけかと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。

「・・・祐司さん。」

 そう思っていたら、晶子が口を開く。
俺は思考と思い出が混濁した海に漂わせていた意識を晶子の方に切替える。

「どうした?」
「祐司さんが外で私の肩を抱いたままなんて珍しいな、って思って。」
「そう言えばそうだな・・・。ま、たまには良いだろ?」
「私は何時でも良いですよ。祐司さんにその気があれば。」

 晶子はそう言って悪戯っぽい笑みを浮かべる。俺がなかなか人前で仲睦まじいところを見せられないことを分かってて言ってるな・・・。
俺は苦笑いして、よりしっかりと晶子の肩を抱いて誤魔化すしかない。
晶子の表情が穏やかそのものの様子からして、嫌じゃないんだろう。むしろ晶子は、俺にもっと積極的に自分達の仲をアピール出来るように
なって欲しい、と思っているんだろう。
誕生日プレゼントのペアリングを嵌める時にも今の位置に嵌めてくれって聞かなかったくらいだし。
 駅前に近付いてきたが人通りは少なくて、閑静な住宅街そのものといった感じだ。
このまま直進すれば駅へ辿り着くというところで路地裏に入り、少し歩くと目的の『Alegre』が見えて来る。
「営業中」の看板が見える。日曜にこの店に来るのは本当に久しぶりだな。店は混んでいるんだろうか?
宮城と一緒に来た時は混んでいる時が多くて、朝っぱらから喫茶店に来るなんて暇人が多いのね、と宮城がぼやいていたもんだ。
それじゃ俺達は何なんだ、と言いかけた時もあったが勿論口にはしなかった。
 店のドアを開けると、いらっしゃいませ、という声がしてウェイトレスが駆け寄って来る。
何名様ですか、の問いに二人、と答えると、ウェイトレスがこちらへどうぞ、と言って先導する。
店内は新聞を読んでいる社会人風の男性や、これまた賑やかを越えて騒々しい主婦連中−自分の家のことはどうしたんだ?−などでかなり混み合っている。
俺は晶子の肩を抱いたまま−不思議と恥ずかしいとか思わない−ウェイトレスに席を案内される。案内された席は・・・

宮城と付き合っていた時に必ず座っていた席だった。

 俺が晶子から手を離して向かい合って座り、ウェイトレスがお絞りと水の入ったコップを置いて立ち去った後、俺はお絞りで手を拭きながら
思い浮かんで来るあの頃に心が揺り動かされる。
まさか過去に付き合っていた相手が座っていた席に今付き合っている相手が座ることになるなんて・・・。
晶子の横に宮城の顔が浮かび上がってきて仕方がない。

「この席って、優子さんと一緒に来ていた時に優子さんが座っていた席ですよね?」

 晶子が俺を見ながら問い掛ける。
その大きな瞳に吸い寄せられるかのように、俺の視線は晶子から逸れることがない。

「よく覚えてたな・・・。」
「女は記念日とか思い出の場所とか、そういうことはよく覚えてるんですよ。」
「俺と晶子のことは別として、宮城のことまで覚えてるなんてな・・・。
去年の暮れに教えたことだし、宮城に関わることだからてっきり忘れてるものかと思ったんだけど。」
「祐司さんと私の立場が逆だったとしたら、きっと祐司さんはそのことを覚えてると思いますよ。」
「そうかもな・・・。」

 俺と晶子は顔を見合わせて互いに笑みを浮かべる。
過去に傷を負いつつそれを心の奥底に秘めながら生きている俺と晶子は、思いを共有出来る部分が多いのかもしれない。
それが楽しいことだったり悲しいことだったりと色々あるのは当然だが、傷でもあり宝石でもある過去の記憶を重ね合わせることが出来ることは、
落ち着きを取り戻した心には良いんじゃないだろうか?
 二人揃ってモーニングセットを注文して、俺と晶子は今日のことを話し合う。
晶子も試験勉強がある身だから、此処で朝食を食べた後、俺が家まで送り届けてまたバイトで、という方向で一致した。
まさか昼食を作っていってくれ、なんて言えない。言ったら晶子のことだ、本当にそうしかねない。
 程なく注文のモーニングセットはやって来た。
店は混み合っているといっても、案内される時に軽く見渡したら既に注文の品がテーブルに置かれている席が殆どだったから、
それ程時間はかからなかったようだ。
バタートーストにカップのポタージュスープ、小さなサラダ、そして飲み物−二人揃ってアイスティーにした−という内容。
これも宮城と付き合っていた時と変わらない。
 試験のことや新しいレパートリーのことなんかを話しながら朝食を食べていると、何だか昨夜のことが夢だったように思える。
表面上その証拠は残ってないから−キスマークはついてない筈だ−尚更だ。
だけど、宮城との時と同じく、この店のこの席でこの朝食を食べていると、やはり昨夜のことは夢じゃなかったんだと思い直せる。
昼過ぎまで寝ていてコンビニの弁当で朝食と昼食を兼ねる普段の週末とは決定的に違う。
 俺と晶子が食事を進めていくうちに、店内の騒々しさは消失していった。騒々しさの元凶の主婦連中が出ていったからだろう。
俺と晶子を見て、前みたいにああだこうだ言っていたのかもしれない。
だが、内容が聞こえないまま喧騒は過ぎ去ったし、その内容を詮索したところで何の意味もない。
俺は晶子との時間を過ごしているんだから、そのことだけ考えていれば良い。

「出ようか。」
「ええ。」

 食べ終えて少し休んだところで俺が切り出すと、晶子はすんなり了承する。
俺と晶子は席を立って、俺は伝票を持ってレジへ向かう。モーニングセット二人分1000円。
昨日の思いがけない豪華な昼食や誕生日プレゼントの数々を考えれば、無料にも等しい金額だ。
俺は千円札を差し出して会計を済ませ、晶子の手を取って店を出る。
 外は徐々に暑さを増して来た。今日はまたエアコンの世話にならなきゃいけない様相だ。
もう9月も終わりに近いんだから、いい加減涼しくなっても良さそうなもんだが・・・。
まあ、試験が済んで結果が出るまで気分的に前期の区切りはつかないから、このままでも良いのかもしれない。

「祐司さん。」

 晶子が話し掛けて来る。

「試験勉強、頑張りましょうね。」
「ああ。留年なんてみっともない様晒したくないしな。」
「私の学部は進級の関門がないですけど、いい加減なことはしたくないですから。」
「首席卒業を狙ってるとか?」
「そんなことはないですけど、出来る時に出来るだけのことはやっておきたいですから。色々なことに手を出せるのは学生時代だけだ、って
よく言われましたから。」
「そうだよな。仕事するようになったらそのことで精一杯になって、それ以外のことはどうしても後回しになっちまうらしいからな。
ほら、俺の実家は自営業だろ?そのために父さんと母さんが二人して調理師の免許取ったんだけど、父さんは仕事の後や週末に、母さんは殆ど毎日、
近くの料理屋へ行ってたんだ。実務経験が必要らしいから。だから免許取るまでそれこそ休む間もなく、って感じで、俺と弟は放ったらかしだったよ。」
「それって、何時頃の話ですか?」
「弟が小学校卒業した年だから・・・俺が中学2年の時か。だからそれ程手はかからなかったと思う。弟とはしょっちゅう喧嘩してたけど、
最後の方は取っ組み合いじゃなくて口利かないタイプになった。お互い止めてくれる存在が居なくなったから、取っ組み合いの喧嘩するのが
面倒になったのかもな。」
「・・・帰りたいって、思いませんか?」

 晶子が少し不安げな表情で尋ねる。俺は晶子の手を取る手に軽く力を込めて答える。

「今の方が生活は大変だけど気楽で良い。それに・・・。」
「それに?」
「俺が実家に帰ったら、その間晶子と会えなくなるだろ?」

 俺がそう言うと、晶子は俺との距離を詰めて、頭を俺の肩に乗せるように寄せる。その表情は安堵と嬉しさが混じったものに変わっている。

「私のために帰らないっていうことですか?」
「そう思ってもらって良いよ。」
「親御さんに悪いですけど・・・嬉しいです。」

 俺と晶子は顔を見合わせて微笑む。
食事や洗濯が苦もなく済ませられる、肉親との暮らしが懐かしくないと言えば嘘になる。
でも、今は今の生活の方が楽しいし、少なくとも食事の点では恵まれている。
それにやっぱり晶子と離れたくない。一時的にも距離が出来ることで、晶子に対する疑念を抱くのが怖い。
晶子が浮気するのが怖いんじゃない。晶子を信じる心に拭い辛い染みが出来るのが怖いんだ。
 少し賑わいを帯び始めた通りを晶子と並んで歩く。
晶子を家まで送り届けたら、半日ほど晶子とは別行動だ。
でも、あの店に、バイト先に行けば晶子と会える。それを楽しみにして試験勉強に励むとするか。
見上げた残暑の空は蒼く高い。雲一つないその空に輝く光の球は、まだ何も終わっていないことを強調しているように思う・・・。

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