雨上がりの午後

Chapter 81 魅惑の夜、爽快な朝

written by Moonstone


 帰宅ラッシュのせいだろう。通りをかなりの数の車が上って行く。
俺はスピードを出す車に注意しながら緩い上り坂を上り続け、晶子の家があるマンションの前に辿り着く。
夜とはいえ、昼間の熱気が残っている中で自転車を運転してきたからもう汗だくだ。
晶子に降りてもらって自転車置き場に自転車を置いて出入り口に向かう。此処を通るには晶子の力を借りなくちゃいけない。
 晶子がセキュリティを解いてドアを開ける。
俺は汗を拭いながら入り、管理人に会釈して晶子の家へ向かう。
汗をたっぷりかいたせいか、すっかり酔いが覚めちまった。
晶子は吹き出て止まらない汗を拭う俺を見て不安げに尋ねる。

「大丈夫ですか?凄い汗ですけど。」
「この暑さじゃ仕方ないさ。自転車運転してきたし。」
「シャワー浴びた方が良いですね。服はパジャマに着替えてもらって。」
「そうだな・・・。ふう、やっぱり夏は夏だな。」

 晶子はドアを開けて中に入ると、早速部屋の電灯と冷房のスイッチを入れる。家の中も結構暑い。冷房が効いて来るまでの辛抱になりそうだ。
俺と晶子はリビングに入り、晶子が部屋の電灯を点ける。
冷房の風が吹き付けて来るとはいえ、部屋の熱気を消すにはまだ力不足だ。
カーテンを閉めてあってもこれだけの熱気になるんだから、夏らしいと言えば夏らしい。
ちょっと困りものだが、冷夏で作物がどうとか大騒ぎになるよりはましだろう。

「祐司さん、シャワー浴びて下さいね。」
「ああ。悪いな。」

 俺はまだ吹き出て来る汗を拭いながら、部屋の隅に置いてある鞄からバスタオルとパジャマと下着を取り出す。
晶子はリビングを出ていったが、俺がバスタオルに荷物を包んだ頃には戻ってきた。
シャワーの場合は「給湯」のスイッチを入れるだけだから、あとは足拭きマットを敷いた程度だろう。

「それじゃ、入らせてもらうよ。」
「はい、ごゆっくり。」

 俺は晶子と入れ替わりになる形で、荷物を持って風呂場へ向かう。
服は汗びっしょりだ。さっさとシャワーを浴びてすっきりしたい。
俺は服をさっさと脱ぎ捨てると風呂場に入って蛇口を捻る。最初は生暖かかったシャワーが程よい熱を帯びて来る。
俺は頭から湯を浴びて汗を洗い流す。汗をかいた後の程よい熱さのシャワーは気持ちが良い。
 全身隈なく湯をかけ終えると、俺はシャワーを止めて風呂場から出る。むあっとした生暖かい空気が身体を包む。
バスタオルでさっさと水分を拭き取り、下着とパジャマを着て、脱ぎ捨てた服を纏めてリビングへ小走りで向かう。
念のためノックをすると中から、どうぞ、と応答が返ってきたので、俺はドアを開けてリビングに入る。

「お先に。」
「湯加減はどうでした?ちょっと熱めに設定したんですけど。」
「丁度良いくらいだったよ。すっきりした。」
「そうですか。じゃあ、私も・・・。」

 俺ほどではないが汗の雫を顔に幾つも光らせていた晶子が立ち上がり、俺と入れ替わる形でリビングを出て行く。
冷房が効き始めるまでって、冷房がない時より気分的に暑苦しく感じるんだよな。
こういう時はこの家の主の晶子から先に入ってもらうように俺から言うべきだったか?何分気が利かない質からな、俺は。
 無音の室内にシャワーの音だけが微かに聞こえて来る。
晶子の場合、俺と違って髪が長いから余計に暑いんじゃないか?
思えば晶子が髪を束ねる時は自宅でも店でも料理をする時くらいだ。
男の俺の感覚からすると、束ねたままの方が涼しくて良いんじゃないだろうか、と思う。
まあ、これは人それぞれだから俺がどうこう言う資格はないが。
 俺は女の髪型にこだわりがある方じゃない。
あえて言えば長い方が好きかな、という程度で、ポニーテールこそロマンとか三つ編み大好きとかいうことはない。
自分が良いと思う髪型にしてれば良いと思ってる。お洒落に無縁な俺ならではなのかもしれないが。
そういえば・・・海に行った時に見た晶子のポニーテールはよく似合ってたな。

 冷房が効いてきたのが感じ取れるようになった頃、晶子が入ってきた。
ピンクのパジャマを着ていて、髪は・・・あ、ポニーテールにしてる。ただ、海の時のようにリボンはしていない。ゴムで束ねているだけだろう。
晶子は何だかポニーテールをしている自分を俺にアピールするかのように−モデルみたいだな−、俺から視線を離さずに自分の「指定席」へ向かう。
そしてそこに腰を下ろすと、早速俺の腕を突いて自分の方を向かせる。

「どうです?これ。」
「よく似合ってるな。でも、何で今日はポニーテールにしたんだ?」
「まあ、気分的というか・・・特に意味はないです。」
「今日はリボンはなし?」
「寝る時は解きますから。それに、リボンだけでこうするのは難しいんですよ。」
「そうなのか?」
「ええ。リボンだけだと結ぶ途中で纏めた髪が解けちゃうんですよ。纏める力がゴムより弱いですから。ポニーテールをする人はゴムでそうしてから、
後でリボンを巻きつけるんですよ。」
「ふーん・・・。てっきりリボンだけでしてるのかとばっかり思ってた。」
「祐司さんはどういう髪型が好みですか?」

 やっぱり聞いてきたか・・・。晶子としては気になるところなんだろうな。
晶子の性格から考えて、俺の返事次第でずっとポニーテールにさせることも出来るだろうし、トレードマークの長い髪をばっさり切り落とさせることも
出来るだろう。
 でも、俺はそんなことはしたくない。晶子だって自分の髪に愛着がある筈だ。
そもそも高校時代にもともと茶色がかっているというだけで、記憶能力がない教師や質の悪い連中に因縁をつけられ続けて、大学に入ってようやく
その言われなき罪状から解放されたんだ。そんな歴史の重みがある髪を俺好みにして良い筈がない。

「俺は特に好みの髪型はないよ。晶子自身が一番自分に合うと思う髪形にすれば良いんじゃないか?」
「・・・私、どういう髪型が自分に合ってるか、よく分からないんですよ。」
「え?」
「普段は何も手をつけないでストレートにしてて、お店や家で髪が料理の邪魔になったり料理に混ざったりしたら、お客さんや祐司さんに迷惑ですから
後ろで束ねてるんですけど、必然性とかそういうのなしで、自分に似合う髪形を考えてるんです。」
「だから俺に?」
「ええ。男の人としては、彼女の髪形は気になるでしょ?」

 難しいところを突いてくるな・・・。
あえて言えば長い方が好き、という程度でそれ程こだわりがないのは事実だ。
だが、男ではそう似合う奴は居ない長い髪が、好きな相手に似合っていて尚且つ俺が良いな、と思えるスタイルになるのは決して嫌なことじゃない。
 俺は腕を組んでうん、と考え込む。頭の中で思いつく限りの髪型を晶子に当てはめてみる。
三つ編み・・・何となくしっくりこない。
ストレート・・・これは何時ものやつだな。
ツインテール・・・何だか子どもっぽいな。
後ろで束ねる・・・何か単純な気がする。
ショートカット・・・これは論外。折角の長い髪を生かせない。
だとすると行き着く先は・・・。

「・・・こだわりはない方だけど・・・思いつく限りじゃポニーテールが一番だな。」
「これじゃなきゃ嫌だ、ってのはないんですか?」
「ああ、特にない。引き合いに出すのは気が引けるけど・・・宮城が肩口で切り揃えた長さだから、髪型にバリエーションがなかったんだ。
何とかポニーテールが出来るかな、って程度だから。その影響か、女の髪型があんまり気にならなくなったんだよ。」
「へえ・・・。」
「それに女に自分好みの髪型をさせるって、女の髪を玩具にしてるみたいだから俺はあんまりそういうことはしたくないんだ。」

 俺の言うことに、晶子は興味津々といった様子で聞き入っている。
バンド仲間と女の髪について話してた時、さらさらのストレートこそ男のロマン、とか力説してた中で俺一人無関心だったから、
優子ちゃんに髪伸ばしてもらって色々してもらったらどうだ、とか言われたこともあったりする。

「祐司さんらしいですね、そういう押し付けがましくないところ。」
「単にファッションや髪型に無頓着なだけさ。本当はこういう髪型にしてくれ、とか言った方が話が盛り上がると思うけど・・・。」
「押し付けられるのは嫌ですけど、希望には応えたいんですよ。だから祐司さんはどんな髪型が好みかな、って思って。」
「普段のストレートも十分似合ってると思うけど、ポニーテールは見慣れてないせいか、新鮮に見えるのは間違いない。」
「じゃあ、これからは祐司さんと二人で居る時はポニーテールにしますね。それでどうですか?」
「俺はそれで良いよ。俺しか見れないっていうのが何か・・・嬉しいな。」

 晶子は嬉しそうに微笑んで俺の頬に唇をつける。
不意打ちに驚いた俺が、唇の感触が残る頬に手を当てた時、晶子は立ち上がる。

「紅茶、入れてきますね。」
「あ、ああ・・・。」

 俺が生返事を返すと、晶子は軽い足取りでリビングを出て行く。
何でだろう・・・。口と口のキスより頬にキスって方が照れくさく感じるのは・・・。
俺だけかもしれないけど、口と口のキスよりドキドキするものがある。キスは口と口をくっ付けるものっていう固定概念があるせいだろうか?
 5分ほどして、ドアがノックされる。
俺が立ち上がってドアを開けると、トレイに紅茶の入ったティーポット、ティーカップ、そしてビスケットが盛り付けられた少し大きめの皿を乗せて、
晶子が入って来る。
 晶子は、ありがとう、と言って−こういう律義さは晶子らしい−ティーカップをテーブルに並べてビスケットの乗った皿を中央に置く。
俺と晶子は並んで座り、晶子が膝を立ててティーポットから紅茶を注ぐ。この香りはラベンダーだな。そういえば昨日もそうだったな。
でも、お茶菓子があるところが唯一、そして大きく違う点だ。

「お茶菓子にビスケットか。なかなか洒落てるな。」
「何かあった方が良いかな、と思って。」
「じゃあ、いただきますかね・・・。」

 俺は芳香を漂わせる紅茶の入ったティーカップを持って晶子の方を向く。
晶子もティーカップを持って俺の方を向いている。考えることは同じか。
俺は思わず笑みを漏らす。晶子も笑みを浮かべる。

「まずは乾杯、か。」
「ええ、勿論。」
「「・・・乾杯。」」

 俺と晶子のティーカップがカツンと音を立てる。
ティータイムに乾杯はあまり似合わないかもしれないが、練習が終わって一息つく時は勿論、去年の二人きりのクリスマスパーティーの時にも、
前に晶子の誕生日を祝った時にも、こうしてカップを合わせた。これは俺と晶子の間に交わされる、暗黙の儀式なのかもしれない。
 BGMのない中、俺と晶子が時折食べるビスケットが破砕される音と会話だけが、部屋に微かな残響を残して現れては消えていく。
晶子はまだ酔いが残っているのか、何時もより口数が多い。
もっとも話題なんて今日の大半を過ごした新京フレンドパークと居酒屋での夕食くらいのものだが、それでも晶子はそのことを楽しそうに話して時に笑う。
俺も自然とよく喋るしよく笑う。
俺も酔いが残っているのか、それとも向き合う相手と話すのが心底楽しいのか・・・。両方だな、きっと。
 話し込んでいるうちに、ビスケットの最後の一枚を俺が口に咥えた。
咥えてからちょっと晶子に悪い気がして−最後の一つというのは取り辛いし、取ると何故か罪悪感を感じる−、ふと晶子の方を向く。
すると、晶子は悪戯っぽい笑みを浮かべて俺の咥えたビスケットを口に挟む。そしてパリパリと音を立てながら食べ進んで来る。
俺は突然のことにビスケットを食べるのを忘れて晶子を見詰めるだけ。晶子は魅惑たっぷりの目つきでビスケットを食べ進んで来る。
 俺が無意識にビスケットを少し食べて引き寄せると、半分を食べ終えてまだ食べ進んで来る晶子と一層距離が縮まる。
胸が益々高鳴ってきた。晶子との距離は縮まる一方だ。もう少し、もう少しで・・・。

パリッ

 唇と唇が触れ合う寸前のところでビスケットが割れる。割れたビスケットの片割れをそれぞれ口の奥に運んでいく。
俺は緊張が解けないまま口だけ動かしてビスケットを食べていくが、晶子は少しとろんとしているが寝起きの時のそれとは違って、
妖艶な目で俺を見ながらビスケットを食べていく。

「・・・残念でした。」

 先にビスケットを食べ終えた晶子が言う。だがその表情はちっとも残念そうじゃない。嬉しそうに−そう言う表現しか思いつかない−微笑んでさえいる。
舌の先を出して唇を嘗める様子が物凄く色っぽい。このままふらふらと晶子に吸い寄せられそうな気がしてならない。

「い、一体何なんだよ・・・。」
「前から機会があったらやってみたかったんですよね。」
「確信犯か・・・。焦ったぞ、かなり。」
「口と口が触れ合うのが怖かったとか?」
「怖くはなかったけど・・・一つのものを二人であんなふうに食べるなんてしたことないから、どうすりゃ良いか分からなかった。ドキドキした。」
「私もドキドキしてましたよ。このまま進めば祐司さんの口に届くって思うと尚更。」
「そ、そうは見えなかったぞ。何か表情も何時もと違ってやけに色っぽいし・・・。まだ酔いが残ってるんじゃないのか?」
「いいえ、ちっとも。」

 晶子はしれっと言ってのけるが、正直言って信用ならない。何故ならその表情と目が俺を誘っているような気がしてならないからだ。
第一、こんな表情の晶子は見たことがない。
今まで迫ってきた時も何かを訴えるようなものだったり、切なげなものだったりしたが、今の晶子はそれらと明らかに違う。
油断していると、本当に晶子に心を奪われてふらふらと引き寄せられる気がしてならない。
 正月にマスターと潤子さんの家でご馳走になった時にビールを飲んだが、普段よりよく喋った−秘密にしておくべきことまでばらしてしまったが−くらいで、
こんな様子は見せたことがなかった。
どちらが晶子の酔った時の様子なのか分からない。或いは今が二人きりだから本性が出たのかもしれない。
 何にせよ、このままだと俺の方までその気になっちまう。
俺と晶子が「関係」を持つにはまだ早い。それは昨日の夜、俺が言ったことだ。せめて俺が20歳になるその日まで、と。
それを晶子の魔法にかかったからといってなかったことにするわけにはいかない。俺だって酔いは多少残っているが、理性は何とか保ってるつもりだ。

「・・・きょ、今日は遊び疲れてアルコールも入ったことだし、もう寝るか。」
「まだ寝るには早いですよ。夜はこれから・・・。」

 晶子の目が妖しく輝く。それこそ獲物を見据えた猛獣か、魅惑の魔法をかけようと迫る魔女のように。
何を仕掛けて来るかと思ったら、晶子は自分の紅茶を口に運ぶ。
一瞬ほっとしたがよく見ると喉が動かない。口に含んだだけのようだ。

・・・まさか・・・。

 嫌な−ちょっと期待もあるが−予感が頭を掠めた時、晶子が妖しい目で俺の両肩を掴んで俺の口をピンク色の唇で塞ぐ。
俺は突然の勢いに体を支えるのが間に合わず、後ろに倒れてしまう。後頭部に軽い痛みを感じる間もなく、俺の口を柔らかいものが割って入って来る。
 そして・・・芳香を含んだ温かい液体がゆっくりと注ぎ込まれて来る。
俺は晶子にされるがままに注ぎ込まれてきた紅茶が或る程度溜まったところで飲んでいく。その度に喉がごくっと鳴る音が聞こえて来る。
晶子は目を閉じているが、俺はあまりの驚きで瞬きすることもままならない。
 紅茶の口移しが終わると、晶子は俺の両肩から手を離して俺の両脇に移して顔と同時に上半身を浮かせる。
俺を見る晶子の目は相変わらずとろんとしつつ妖しく輝いている。
こいつ・・・もしかして自分の紅茶に媚薬を入れたんじゃないだろうな?
もしそうだとしたら、その紅茶を飲んだ俺も気持ちが昂ぶって来ることになる。それを計算に入れて紅茶を口移ししたのか?

「・・・な、何のつもりだよ・・・。」
「口移しは私達みたいな間柄だからこそ出来ることですから。」
「・・・念のため聞くけど・・・変な薬入れてないよな?」
「変な薬って?」
「変な薬って・・・その・・・その気にさせるやつ。」
「そんなの持ってたら、迷わず祐司さんの紅茶にも混ぜてますよ。」

 言われてみれば確かにそうだな・・・ってそんなことはどうでも良い。
晶子が積極的なのは付き合う前からそうだったから分かってるつもりだが、こんな迫り方をして来るのは初めてだ。
やっぱりアルコールが頭に回ってるとしか思えない。
 俺は晶子を跳ね除けたり落着かせる−本人は冷静なつもりだろうが−言葉が出てこない。晶子の魅惑の魔法にかかってしまったみたいだ。
胸が激しく高鳴ってくる。
ポニーテールにしているからはっきり見える白い首筋と、パジャマの間からちらちら見える胸元が俺を誘っているような気がしてならない。

「晶子って、酔うとこうなるのか?」
「好きな人と二人っきりだからですよ・・・。」

 晶子は身体を沈めて俺の喉元に顎を乗せる。とろんとしていて妖しく輝く目が益々その威力を増してきたように思う。
危ない。このままだと俺の理性が吹っ飛んでしまう。そうなったら、昨日言ったことを自分で破ってしまうことになる。そんなことはしたくない。
だが、至近距離でこんな表情の晶子を見ていると、昨日言ったことはなかったことに、ってしてしまいそうな気がしてならない。
 晶子は身体を密着させたまま上にずらして俺の右肩に頭を落とす。晶子の胸の感触が破裂しそうなほど激しく高鳴る俺の胸に伝わって来る。
何をするつもりだ・・・?
・・・!
右耳に何かが這った感触が伝わって来た。晶子の奴、耳に舌を這わせたな!
 俺は晶子の暴走を止めようと思うが、身体が動かない。
やっぱり魅惑の魔法をかけられてしまったんだろうか?それとも今晶子にこうされていることが気持ち良いから止めさせたくないせいだろうか?
両方のような気もする。
右耳に伝わって来る身体がむずむずするような感触が絶え間なく伝わって来る中、頭の中が熱くなってきた。

「好き・・・。」

 晶子の切なげで甘い囁きが耳に届く。こんな声を耳元で聞いて何とも思わない男は居ないだろう。
右耳に伝わる感触が止んだと思ったら、首筋に柔らかいものが触れる。続いて何かがゆっくりと這う。
俺の呼吸が無意識に荒くなってくる。宿での夜、俺が晶子の首筋に唇を這わせた時、晶子もこんな気分だったんだろうか?
 右側の首筋から首元、そして左側の首筋に柔らかいものが這っていくにつれて、俺の両腕が無意識に晶子の背に回る。
これじゃ立場が逆じゃないか・・・?ま、どうでも良いか。
晶子の求めと攻めに抗う気はもう欠片もない。俺は荒い呼吸を懸命に抑えながら、晶子の攻めを必死に耐え凌ぐ。
 しかし、本当にどうしたんだ?今の晶子は・・・。
酔っているから、とか元々積極的な方だから、で片付けるにはあまりにも変だ。
俺だって酔いが完全に消えたわけじゃないが、晶子が取った行動を起こそうとは考えてもみなかった。
単なる夕食後のティータームとしか考えてなかったし、晶子が「暴走」するきっかけになった、ビスケットを咥えて晶子の方を向いたことも、
ただ最後の一枚を自分が取って口にしたのが晶子に悪いことをしたかな、と思って晶子の方を向いたに過ぎない。
 甘美な攻めがようやく終わり、晶子が自分の顔を俺の顔の真上に持ってくる。鼻先の距離は10cmあるかないかだ。
俺はまだ荒れが収まらない呼吸を懸命に静めながら晶子を見る。その目はやはりとろんとしていて、尚且つ妖艶だ。
普通の男なら簡単にその瞳の輝きに心を奪われて、ふらふら近づいていくに違いない。
 だが、俺はそうはいかない。
高潔を自負しているわけじゃない。
俺だって普通の男だ。それに過去に性体験もある。
ただ俺は、昨日の夜晶子に言ったこと、「せめて1年、それが駄目なら俺が20歳になる日までは大きな一線を超えない」ということを守りたいだけだ。
どこぞの政治屋みたいに自分の発言をなかったことにするなんてことはしたくない。

「なあ、晶子・・・。本当にどうしたんだ?今日は。」
「したいからしてるだけですよ。」

 呆気ないというか、禅問答みたいな答えが返ってきた。
したいからする・・・。つまりは、手を繋いだりキスをしたり、俺が晶子の胸を愛撫するのと同じだということか?
俺が晶子の胸に初めて触れた時と同じく、程度の差や行動の違いはあれど、したいと思ったことをきっかけが出来たからしたということか?
 そう考えれば、晶子の「暴走」が理解出来なくもない。
一昨日の夜だって俺は勿論、晶子もしたかったから服を脱がしあったり、俺は晶子の身体の彼方此方に手と唇を這わせた。
仕掛けるのは男からじゃなきゃいけないなんて法律なんてないし、俺が晶子にしたいと思うのと同じ様に、晶子も俺にしたいと思っていたことがあったんだ。
それが偶然にも俺がきっかけを提供したことで酔いの力もあって一気に行動へ移ったんだろう。

「まったく・・・晶子には時々心底ドキドキさせられるよ・・・。この悪戯娘め。」

 俺は薄い苦笑いを浮かべて晶子の鼻先を軽く突つく。
晶子の瞳が誘うような妖艶なものから徐々に普段のそれに戻っていく。
どうやら俺の推測はそれ程間違ってはいなかったようだ。晶子は笑みを浮かべると、再び俺の右肩に頭を落とす。

「私だって好きな人にしたいことがあるんですからね・・・。」

 晶子の囁きが耳を擽る。俺は晶子の頭に右手を置いて抱き寄せているような態勢にする。
束ねられた髪に指を通すと、絹糸のようにするりと滑らかに流れていく。
電灯の白色光を浴びて虹色に煌く。
辛い歴史を背負った髪が今、俺の手の内にある・・・。この髪を切り落とすようなショックを与えないようにしていかないとな・・・。

「あんまり積極的だと、本格的に逆襲するぞ。」
「私を襲うってことですか?」
「・・・ああ。」
「・・・祐司さんになら・・・襲われても抵抗しないと思います・・・。それに・・・。」
「それに?」
「祐司さんが自分の言ったことを大切にする人だって知ってますから、安心出来ます・・・。」

 晶子も昨日俺が言ったことを覚えていたか・・・。
晶子は俺を信用してくれている。その信用を無にすることはしたくない。
それは即ち、俺と晶子が身体だけの関係に陥るか関係そのものが切れるかのどちらかに繋がる。
そうならないためにも自分の言葉を大切にしていかないといけない。

「もう少し・・・こうしてて良いですか?」
「ああ、良いよ・・・。」

 断る理由なんてある筈がない。
頬を摺り寄せて来る晶子の肌の滑らかさ、指を通す髪から漂って来る甘酸っぱい匂い、胸に感じる肉感たっぷりの独特の弾力感、
そして全身に感じる晶子のふわふわした重み・・・。
これらを感じていられることが嫌な筈がない。好きな相手の存在が今、自分と重なっていることが実感出来るんだから・・・。

「・・・じさん、祐司さん。」

 遠くから俺を呼ぶ声が聞こえる・・・。朝か・・・?
俺が自然に任せてゆっくり目を開けると、目を閉じた晶子の顔が迫ってきていた。昨日と同じく「おはようのキス」をするつもりなんだろう。
止めようと声を発しようとした時には既に唇が塞がれてしまっていた。
 軽いが刺激的なキスの後、晶子は顔を離して目を開ける。
当然俺の目はしっかり開いているし、意識もこれでもか、というほどはっきりしている。
でも、俺が目を開けたところを見ていない晶子は、自分のキスで起きたとしか思ってないだろう。まあ、悪いもんじゃないから良いんだが。

「おはようございます、祐司さん。」
「ああ、おはよう・・・。」
「祐司さん、お酒が入ると極端に目覚めが悪くなりますね。何度も呼んだんですけど、ちっとも目を覚まさなくて・・・。」
「それ程酒に強い方じゃないからな。正月の時もそうだったし、宮城にふられた夜に自棄酒飲んだ時も、目覚めたのは翌日の昼過ぎだったし・・・。」
「疲れたところにビール大ジョッキってのが余計に効いたんですね。祐司さんが困ることになるなら止めておけば良かった・・・。」
「困ってないから良いよ。ここでは起こして貰えるし、家ではきちんと加減してるから。」

 少し沈んだ、申し訳なさそうな表情の晶子に言う。
昨日居酒屋でビール大ジョッキを飲みつつ夕食を食べたのは楽しかったし、俺がそれ程酒に強い方じゃないのは分かってるから
−自棄になった時はそんなことお構いなしだが−、晶子が気に病む必要なんてまるでない。

「それに昨日は楽しかったんだから、それを考えれば気にするに値しない些細なことさ。」
「・・・すみません。」
「謝る必要なし。で、起こしに来てくれたってことは朝飯が出来たってこと?」
「え、ええ。今から運んできますから。」

 晶子は身を翻して部屋を出ていく。時計を見ると7時半を少し過ぎたところ。
何だ、晶子の様子からてっきり昼過ぎなのかと思ったら30分くらい遅くなっただけじゃないか。
まったく晶子も律義だな。それが度を越さなきゃ良いんだが・・・。ま、俺もあまり人のことを言えるほど人間出来てないけど。
 俺がベッドから出て髪を手櫛で手っ取り早く整えていると、ドアがノックされる。俺はすかさずドアを開けに行く。
トレイに見慣れない色をしたトーストとサラダ、コーンスープを乗せた晶子が姿を現して、ありがとう、と言って中に入って来る。
そして何時ものように二人分の食事を並べて、空になったトレイを抱えて再びリビングを出て行く。多分飲み物とそれ用の器を取りに戻ったんだろう。
 程なく二つのティーカップと湯気が注ぎ口から吹き上がるティーポットをトレイに乗せて、晶子が再びへ屋に入る。
もう何か取りに戻ることはないだろうと思った俺はドアを閉めて、自分の「指定席」へ向かう。
カップを並べてティーポットを置いた晶子も自分の「指定席」、即ち俺の左隣に座る。

「「いただきます。」」

 何時もどおり同時に唱和して食べ始める・・・のは晶子で、俺は手が止まったままだ。
目の前にある初めて見るトーストらしきものが何なのか判らないから、手を出し辛い。
晶子に聞くか、と思って晶子の方を向くと、そのトーストらしいものを一口食べた晶子が俺の方を向いて、口の仲のものを飲み込んでから言う。

「どうしたんですか?」
「あのさ・・・。今晶子が持ってるその・・・トーストらしいものって、一体何なんだ?」
「ああ、これですか?これはフレンチトーストっていうものですよ。」
「フレンチトースト?・・・聞いたことはあるけど・・・これがそうなのか。」
「ええ。普通のトーストの感覚で食べてもらえば良いですよ。食べられないようなら残しても良いですから。」

 晶子の解説を受けた俺は、再びフレンチトーストとかいうものを見て、徐にそれの端を掴んで口に運ぶ。
何せ食べたことがないものだから、遠慮気味に−多分焼き茄子ほど不味くはないと思うが−端の方を一口齧って口の中に入れてみる。

「・・・あ、なかなか美味い。」

 思ったままのことが無意識に口を突いて出る。
砂糖らしい甘みと普通のトーストと違う香ばしさが口いっぱいに広がる。
俺は口に入れた小さな切れ端を何度か噛んで飲み込むと、次は大きく口を開けてぱくつく。
やっぱり美味い。これがフレンチトーストってやつなのか。
今まで食べたこともなければ見たこともなかったからどんなものかと警戒してたんだが、その必要はなかったな。

「良かった。どうやら祐司さんの口に合ったようですね。」
「何せ食べたことも見たこともないものだったからどんなものかと思ってたんだけど、こりゃ良いな。」
「普通のトーストにしようかな、とも思ったんですけど、この際だから作ってみようかな、と思って。」
「所謂毒見?」
「味見って言って下さいよ。」

 晶子は苦笑いする。晶子もあまり作ったことがないらしい。それで自分の腕試しを兼ねて作ってみたんだろう。
ま、何にせよ美味いものなら文句を言う余地はない。
それにしてもまさかこういう形でフレンチトーストにお目にかかれて食べることになるとは思わなかったな・・・。
 最初こそ当惑で始まった朝食は、フレンチトーストの正体が判明したことを受けて何時もどおり和やかに、ゆったりと進んでいく。
俺はこの朝食を食べたら帰宅することにしている。
旅行と晶子の家に泊ったことで出来た洗濯物を片付けたいし、ギターから離れた時間が長かったから感触を確かめておきたいからだ。
 本当はバイトへ行く時まで一緒に居たいと思う。
だが、晶子も掃除や洗濯物があるだろうし、俺も用事があるからこれ以上長居は出来ない。
数えてみれば4泊5日だが、振り返ってみるとあっという間だったな・・・。
その間色々なことがあった。
宮城との遭遇、そしてきっちりした別れの儀式−宮城は区切りを付けただけとか言ってたが−、あと一歩のところで寝てしまった晶子との夜、
そして遊園地で一日遊んだ後の居酒屋での夕食・・・。
短い間に色々なことが凝縮された夏の日々だった。
 今日からまたバイトが始まる。大学での時間を除けば何時もの生活に戻るわけだ。
自分で準備したり買ってきたりしなくても朝食や昼食が出て来る生活から離れるのは、正直惜しくてならない。
だが、俺もまかりなりにも自分の家がある以上はそこで生活していかないといけない。
バイトを続けるのに欠かせないギターと音楽との「付き合い」もあるし、そもそも俺と晶子は一緒に住んでるわけじゃないんだから、
晶子に何時までもおんぶに抱っこというわけにはいかない。

「今日からまたバイトが始まりますね。」

 俺の心を見透かしたように、晶子が話を切り出す。

「あ、ああ。」
「振り返ってみると、短い間に色々なことがありましたよね。その中で一番の思い出は、バイトや練習の時とは違う祐司さんと自分を見れたことですね。
今回のために水着買ったりしたくらいですから。」
「あの水着、初めて着たやつだったのか?」
「ええ。祐司さんを驚かせようと思って。でも、いざその時になったら急に恥ずかしくなって、潤子さんにファスナーオープンされるまで
見せられなかったですけどね。」
「顔真っ赤にしてたよな。でもあの水着、よく似合ってたぞ。」
「嬉しいです。・・・ねえ、祐司さん。今度の月曜日にまた海水浴に行きませんか?」

 思いがけない晶子の誘いに、俺は一瞬どう返答して良いか分からなくなった。

「今度は二人きりで。今度は時期が時期ですから日帰りになっちゃいますけど、どうですか?」
「そうだなぁ・・・。盆を過ぎるとクラゲが出て泳ぐどころじゃなくなっちまうし、数少ない大学もバイトも休みっていう日を何時もみたいに
練習と食事で終わるのは勿体無いよな。・・・行くか?」
「はい。」

 晶子は嬉しそうに頷く。そんなに俺と一緒に居る時間を、色々な形で過ごしたいのか・・・。
それだけ想われているんだと思うと、心が温かく、心地良くなって来る。
俺も自然に笑みを浮かべる。また晶子と楽しい時間が過ごせるんだから悪い気なんてしないし、むしろこちらこそ願ったり叶ったりだ。
 話は早速今度の月曜日に向けた話題になる。晶子は今度もあの水着を着ると言う。
スタイルが良い晶子が再びあの水着を着たところを見れると思うと嬉しいというか楽しみなのと同時に、他の男の視線に晒したくないという思いもある。
まあ、プライベート・ビーチじゃないから自分だけ見るってのは無理な相談だな。
でも、これが俺の彼女だってところを見せられると思うと、今度は何だか優越感じみたものを感じる。やれやれ、俺も困った奴だ・・・。
 朝食が済んで晶子が後片付けを済ませた後、俺は洗濯物が詰まった鞄を持って晶子の家を出る。
勿論というか、晶子は見送りについて来てくれている。
嬉しいのは言うまでもないが、それは同時に暫しの別れが近付いていることを証明しているから、名残惜しさが強まって来る。
二人で居る時間を増やせば増やすほど、一人で居る時間が来ることが寂しく思えてならなくなってくる。これは宮城との時もそうだったな・・・。
 エレベーターで1階ロビーに到着したところで、俺は晶子に言う。

「じゃあ、バイト行く時に迎えに来るから・・・。」
「はい。待ってますね。」
「言うのが遅くなっちまったけど・・・2泊もさせてもらってありがとう。食事は何時ものことだけど、本当に美味かった。
今朝は面白いものを食べさせてもらったしな。」
「今度も美味しいもの作りますから、期待してて下さいね。」
「ああ、そうさせてもらうよ。」

 俺はそう言って玄関へ向かう。管理人に会釈してドアの前に立ったところで、俺は振り返る。
晶子が微かな笑みを浮かべて手を振っている。
・・・そうだ。これで終わりじゃないんだ。俺はそれを改めて実感して言う。

「それじゃ、また後でな。」
「はい。気を付けて帰って下さいね。」
「分かった。」

 俺がそう言って手を振ると、晶子は目を細めて柔らかい笑みを浮かべて手を振る。
俺は暫しの間別れを−大袈裟だが−惜しんだ後、再び前を向いてドアの前に立つ。
ドアが左右に開いて夏の熱気を含んだ空気が俺を出迎える。
手荒い歓迎だが、これも夏ならではのものだ。冬になれば今度は冷気を多分に含んだ空気が待ち構えているんだから。
 俺はもう一度だけ後ろを振り向き、まだ立っている晶子に手を振って、晶子が微笑みながら手を振るのを見てから三度前を向き、
出入り口を後にして自転車置き場へ向かう。
何時になく長い間停めてあった自転車は、無言で俺を待っていた。たまにはこいつも奇麗にしてやるかな・・・。
 早くも厳しい夏の朝の日差しを浴びながら、俺は自転車に跨ってペダルを踏んで通りに出る。
疾走していく自動車の数はそれ程多くないが、それを受けてかスピードが何時も以上に増しているように見える。

気を付けて帰って下さいね。

 晶子の言葉が蘇って来る。確かにそのとおりだ。気を付けて帰らないとな・・・。
俺は自転車の向きを駅へ向かう方へ変えて、ペダルを数回軽く漕ぐ。俺を乗せた自転車は直ぐにスピードを上げて緩い坂を下っていく。
 また半日過ぎた頃にこの坂を登って晶子を迎えに行くんだよな。その時まで自分がすべきことをやろう。
昼食の買い出しに洗濯、そしてギターの練習に部屋と自転車の掃除・・・。結構忙しくなりそうだ。
夏はまだ終わっていない。暦の上で秋を迎えた後も暑い日は当分続くだろう。そして晶子との関係も今のまま続くだろう。否、続けていきたい。
1週間足らずの夏の日々で俺と晶子はもう一つ大きな壁を越えた。残るは・・・最後の大きな一線のみと言って良いだろう。
 俺が20歳になるまであと一月くらいだ。その時に俺と晶子は本当に大きな一線を超えるんだろうか?
越えたいという気持ちがないと言えば嘘になる。だが、まだ早いという気持ちもある。
・・・その時が来るのを待とう。その時の俺と晶子の気持ちの向き合い方次第で自ずと進む方向が決まるだろう。全ては時の流れのみぞ知る、ってところか。
今は今の生活と関係を大切にしていこう。
黙っていても俺が20歳になる時は来るんだから・・・。

このホームページの著作権一切は作者、若しくは本ページの管理人に帰属します。
Copyright (C) Author,or Administrator of this page,all rights reserved.
ご意見、ご感想はこちらまでお寄せください。
Please mail to msstudio@sun-inet.or.jp.
若しくは感想用掲示板STARDANCEへお願いします。
or write in BBS STARDANCE.
Chapter 80へ戻る
-Back to Chapter 80-
Chapter 82へ進む
-Go to Chapter 82-
第3創作グループへ戻る
-Back to Novels Group 3-
PAC Entrance Hallへ戻る
-Back to PAC Entrance Hall-