雨上がりの午後

Chapter 66 新鮮な気分漂う一日−夜−

written by Moonstone


 智一と別れ、帰宅した俺は早速持ち物の準備に取り掛かる。勿論、晶子の家に泊まる準備だ。
何時ものギターとアンプに加えて普通のタオルとバスタオルとパジャマ、それと物理の実験のテキストと下着。
着替えは大学に行く途中に此処に立ち寄れば良いだろう。あまり荷物が増えると持つのに苦労する。
ただでさえギターとアンプが重いから、その他の荷物は出来る限り減らしておきたいところだ。
 小さめの旅行鞄に荷物を詰め込んで、ギターをソフトケースに収めてアンプを持って、と・・・。これで良し。あとは晶子の家に電話するだけだ。
いきなり押しかけてもあのガチガチのセキュリティに阻まれてアウトだ。携帯電話なんて洒落たものは持ってないから、
連絡は出発する前にしておかないといけない。
 晶子の家の電話番号はきちんと暗記してある。毎週月曜日の練習の時には前もって連絡するからな。・・・あ、そう言えば、今日も練習はするんだったか。
晶子の家に泊まるということで頭がいっぱいで、普段の行動をすっかり忘れていた。どうも舞い上がってるな、俺。
 決まった順番にボタンを押して受話器を右耳に当てる。左耳に当てた方がメモをとったりする時に便利だと言うが、
右肩と耳で受話器を挟めば支障はないし、長年の習慣はそう簡単に変わりはしない。
コール音が3回目に差し掛かったところで、ガチャッと受話器が外れる音がする。そして聞き慣れた声が少しくぐもって耳に届いてくる。

「はい、井上です。」
「あ、晶子?祐司だけど。」
「祐司さん。今帰ってきたところですか?」
「いや、もう荷物纏めてそっちへ行こうとしてるところ。」
「早いですね。じゃあ私はロビーで待ってますね。」
「ああ、頼むよ。それじゃ切るよ。」
「はい。待ってますから。」

 晶子との通話は呆気ないほど直ぐに終る。
まあ、会話は向こうでそれこそ思う存分できるから、電話でだらだらとくっちゃべる必要はないんだが。
 荷物を再確認して、俺はドアに鍵をかけて家を後にする。
そして自転車の荷物籠に荷物を入れるだけ入れて、入りきらないアンプは紐で荷台に固定して、ギターは背負って準備完了。
こうしてみると、何だか本当にストリートミュージシャンになったような感じがする。まあ、本物のストリートミュージシャンは
自転車にアンプを括りつけて移動するようなことはしないかな。
 俺はかなり暗くなった道へライトを点灯させて自転車のペダルを漕ぎ始める。
この時期、冬ほどではないにしてもまだ日の暮れる時間は早い。早めにライトを点灯させないと事故を起こしかねない。
自分が被害者になるならまだしも、加害者になるのだけは絶対避けなきゃいけない。加害者になったら進路やバイトどころの話じゃなくなる。
 晶子の家までは緩い上り坂が続くから、どうしても進むスピードが遅くなる。その上ライトを点灯させているから尚更だ。
正直言って歩いた方が早いと思う。だが、帰りを考えると自転車で行った方が時間的にも得だから−勿論スピードの出しすぎには注意しないといけないが−、
敢えて重いペダルを懸命にこぐというわけだ。
以前は歩いて通っていたんだが、アンプが何しろ重いから辛い、ということで、自転車を使うようになった。
 人通りが殆ど消え、代わりに車が忙しなく行き来するようになった登り坂をゆっくりと進んでいくと−車の中の人間から見れば、
かなり奇妙に見えるだろう−、徐々に白亜の建物が見えてくる。晶子が住むマンションだ。その姿が見えてきたことで、俺の足に篭る力も強まる。
もうすぐ晶子と会える・・・。晶子が温かい笑顔で出迎えてくれる様子を想像すると、胸の内が温かくなってくる。
 坂道が平坦になって間もなく、晶子の住むマンションに到着する。
俺は空白が目立つ自転車置き場の−駐車場は半分ほど埋まっている−一角に自転車を止めて降りると、手早く荷台の紐を解き、アンプを「解放」してやる。
そして鞄と同じ手にアンプを持って入り口へと向かう。
俺一人では突破できないガチガチのセキュリティを解いてくれる、そして俺を待ってくれている筈の相手に自分の姿を見せるために。
 入り口正面に立つと、丁度入り口のドアの正面に向かって座っていた晶子が立ち上がって、笑顔を見せながら手を振る。
俺が笑みを浮かべて手を振ると、晶子は管理人のところに行って何やら言う。
ドアを開けてくれと頼んでいるんだろう。毎週繰り返していることだから、管理人ももう慣れたものだろう。
 案の定、セキュリティをどうこうしなくても−したところで解除できる筈もないが−ドアが開く。俺が素早く入ると直ぐにドアが閉まる。
小さな窓越しに見える初老の管理人にこんばんは、と挨拶すると、管理人は笑顔で頷く。
毎週のことで、もう3ヶ月以上も繰り返していることだから、管理人ともすっかり顔なじみになった感じがする。
管理人も俺の顔を覚えてくれていると思う。交代制らしいが、どの人の顔も識別できる。

「祐司さん、こんばんは。」
「こんばんは。ちょっと遅くなったか?」
「いいえ、むしろ早かったくらいですよ。」
「そうか。なら良いんだ。遅れちゃ悪いからな。」

 俺は晶子と並んで晶子の部屋に向かう。ロビー隣にあるエレベーターで3階まで上り、そこから廊下を少し歩くと晶子の部屋に辿り着く。
もう晶子の先導なしでも簡単に行ける。もっとも中に入れれば、の話だが。
 晶子がドアの鍵を開けて俺を先に中に入れて、続いて晶子が中に入る。ほんのりと温かい。まだ朝晩多少冷えるから暖房を使っているんだろうか?
俺の家ではとっくに使うのを止めている。光熱費が馬鹿にならないからだ。
たかが数千円、されど数千円。家計を仕送りとバイト代で折半している俺には重い金額だ。

「今日は先に夕食にします?」
「ああ。腹減ってるし。」
「じゃあリビングで待ってて下さい。今から直ぐ作りますから。CDとかは自由に聞いてもらって良いですから。」
「ありがとう。そんなに慌てなくても良いぞ。今日は此処に泊まらせてもらうんだから。」
「そうですね。今日はずっと一緒に居られるんですよね。」

 エプロンを着けながら晶子が嬉しそうに笑みを浮かべる。俺は笑みを返してリビングに通じるドアを開けて中に入る。
相変わらず整然と片付けられている部屋の片隅に鞄とアンプを置き、背中のギターを下ろす。
これもそれなりに重いからストラップが肩に食い込んでちょっと痛い。
 一旦晶子のベッドの上にギターを置いて、ギターをソフトケースから取り出してアンプに繋いで、続いてアンプのコンセントを繋いでスイッチを入れる。
そして軽く弦を爪弾いてギターの具合を確認する。・・・OKだ。
ギターの弦は湿度や温度の影響でチューニングが狂ってくるから、練習の前には本格的に調整しないといけない。
まあ、ギタリストなら誰でもやってることだろうが。
 ギターとアンプの調子を確認し終えると、アンプのスイッチを切ってギターを壁に立てかけて、今度は鞄から明日の物理の実験に使う
テキストを取り出してテーブルに置く。
晶子の厚意に甘えてCDをBGMに使わせてもらうことにする。家でやっていた時も無音じゃ何となく寂しいから何かCDをかけていた。
 さて、どれにしようか・・・。
晶子は俺と違って幅広いジャンルの曲を聞くから、CDの種類の不足に困ることはない。むしろ多過ぎてどれにしようか迷うくらいだ。
まあ、結局は俺が普段聞くジャンルに絞られるわけだが。
 少し考えた後、倉木麻衣の「Perfect Crime」を選んでコンポにCDをセットして−使い方は前に教えてもらったし、普通に使う分には忘れようも

無いほど簡単だ−「指定」のクッションに腰を下ろし、テキストを開いてテーブルの上に乗っていたリモコンの「Play」ボタンをコンポに向かって押す。
すると1曲目にしてタイトル曲の「Perfect Crime」がフェードインしてくる。音量を邪魔にならない程度に少し絞って、俺は物理のテキストに視線を移す。

 今度の実験は磁化率の測定だ。・・・また智一が悩みそうな気がする。
で、結局俺がメインで実行して、智一はそれを少しサポートして、ちゃっかり実験データを頂戴するんだよな。・・・ずるい奴だ。
まあ、どうしてそういうデータが出たか説明する時やレポートを書くときはきっぱりと突き放しているから、俺もそう甘くない奴だと
智一も思っているだろう。
 実験の手順をイメージしながらテキストを読んでいく。こうすると実際に手を動かす時にも戸惑うことがぐっと減る。
智一もせいぜい1時間要るか要らないかのことをすれば良いものを・・・なまじ意外なほど不器用で、さらにペアの相手である俺が「使える」となれば、
予習する必要もないと踏んでいるんだろう。・・・やっぱりずるい奴だ。
 ふとBGMの方に意識を向けると、まだ「Reach for the sky」の途中だ。長いようで意外に時間は経っていない。
まあ、予習だからそんなに時間がかかるわけじゃないんだが。今度の実験も機器の取り扱いや手順に気をつければそんなに難しい実験じゃないようだ。
一般教養の実験だからこの程度で済むんだろうな。専門教科の実験になったら・・・多分そう簡単に終らせてはくれないだろう。
それを思うと今から気が重くなる。
 ま、それはそれとして、今は目前に迫っている物理の実験の様子をきっちり把握しておくことに尽きる。
注意深くテキストを読み、テキストに描かれているように実験器具を繋ぐ様子をイメージする。・・・ここはこうで、ここはこうする・・・。
実験手順を念入りに読む。此処で躓(つまづ)くともう一度最初から、ということも珍しくない。
手順をゆっくり読みながら器具を操作する様子をイメージする。・・・ここをこうして、次はこうして・・・。
 どうにかひととおり予習を済ませた。
BGMに再び意識を向けると、丁度「always」がフェードアウトしていくところだ。大体30分くらいか。この程度で実験が滞りなく進むなら有り難いものだ。
自動車学校の実技だとあっという間に終っるところまでは同じだが、ハンコが押されるかどうかびくびくしているかどうかで決定的に違う。
 その時、ドアが軽くノックされる。俺がどうぞ、と応えると、ドアが開いて料理が乗ったトレイを下から支えた格好で晶子が入ってくる。
どうやら夕食の方も完了したようだ。俺はテキストをベッドの上に「退避」させてスペースを用意する。

「お待たせしました。出来ましたよ。」
「こっちも丁度予習が終ったところだよ。」
「じゃあ、丁度良かったですね。途中だと祐司さんの邪魔になるから。」
「予習は食べ終えてからでも少し時間をもらえれば済むことさ。それより夕食は待ってくれないからな。」
「ふふっ、そうですね。」

 晶子は目を細めて屈むと、出来たての料理をテーブルの上に置く。豆腐の味噌汁と、ひじきと大豆の煮物の入った器にもずくと胡瓜の酢の物だ。
最近晶子は和食の方にも手を伸ばしていて、洋食メニュー中心だった当初とは趣がかなり異なる。
煮込みは予め下拵えしておいたんだろう。手間隙かけて用意してくれていたことがひしひしと伝わってきて嬉しい。
 晶子はリビングとキッチンを何度か往復して料理をテーブルの上に並べる。
ほうれん草のお浸しに大きめの焼き魚がテーブルの上に加わり、元々あまり広くないテーブルが料理で殆ど埋め尽くされる。
そこに茶碗によそわれた御飯とお茶が入った湯のみが加わると、テーブルは完全に満席状態になる。
晶子が俺の左隣の「指定席」に腰を降ろすと、声を揃える。

「「いただきまーす。」」

 俺と晶子は同時にひじきと大豆の煮物に手を伸ばす。
二つの箸が煮物に届いたところで止まり、互いに顔を見合わせてぷっと吹き出す。

「本当に私と祐司さんって、似たもの同士ですね。」
「本当だな。で、理由は?」
「味見は一応念入りにしたつもりなんですけど、煮物の味が気になって・・・。祐司さんは?」
「晶子の作った煮物の味が気になって。」
「本当に似たもの同士ですね。」
「そうだな。」

 くすくすと笑った後、二人揃って煮物を箸で摘んで口に運ぶ。晶子らしい、ちょっと甘めの味が口いっぱいに広がる。上出来だ。
真っ先に誉めてやりたいところだが、慌てずに念入りに噛んでから飲み込んで口をフリーにする。

「美味いな、これ。」
「そうですか?良かった・・・。やっぱり人に食べてもらわないと自分の料理の腕の客観的な評価は分かりませんからね。」
「晶子のすることに欠点を見つけるのは、あら捜しに等しいと思うけどな。俺としては。」
「そんなことないですよ。私だってまだまだこれから覚えなきゃならないことがあるんですから。」
「それはそうだな。俺もそうだし。」

 19歳と20歳。それなりに生きてきたがまだまだ未熟者だ。これから色々なことと接して色々なことを学んで、人間的に成長していかなきゃいけない。
人生ずっと修行だ、とも言われるが、本当にそのとおりだと思う。
 晶子と出会う前、正確には晶子と月曜日の夜に練習するようになる前まで、月曜日の夕食は専らコンビニの弁当だった。
それが今や実家でしか味わえないような−味付けは晶子の家の伝統らしくちょっと甘めだが−料理に取って代わった。
潤子さんの手作り夕食も捨て難いが、こうして晶子と二人隣り合って晶子の手料理を食べられるんだから、縁ってやつは不思議なもんだ。
 夕食は互いの学生生活を中心にした話題の中で進んでいく。
晶子がいる文学部は一般教養の必要単位をを4年間で取れば良いということは人伝(ひとづて)に聞いて知っていたが、その量は俺や智一が居る工学部の
2倍近いということ、そして俺や智一同様、専門科目も入ってきて結構過密なスケジュールということが分かった。
必ずしも文系だから楽というわけではないようだ。俺の文系学部に対するやっかみのようなものが解消されたような気がする。
 それと併せて、俺が自動車学校で居ない間の智一の「攻勢」が相変わらず続いているという話が晶子の口から出た。
やっぱりあいつは油断ならない。諦めが悪いというか執念深いというか・・・。俺と晶子との絆に隙間が生じるのをしぶとく待っているようだ。
 勿論、晶子はその「攻勢」を袖にしていると言った。
何でもこの前、もう私のことは諦めて他の女の人を探してみてはどうか、とも言ったそうだ。
しかし、智一はそれで諦めることなく、尚もしぶとく食い下がっているらしい。
 俺や晶子が前みたいにつまらない意地の張り合いをして絆に隙間が生じるようなことがあれば、智一は間違いなくその隙間に割って入ってくるだろう。
それで俺と晶子との絆が切れたとしても智一には何の責任もない。意地を張り合って素直にならなかった俺や晶子に原因があるのは言うまでもない。
だからこそ智一の思う壺にならないよう、俺がしっかりしなきゃいけない。そして素直であり続けること。これが肝要だろう。

「ご馳走さま。美味かったよ。」
「ありがとう。どういたしまして。喜んでもらえて光栄です。」

 少し先に箸を置いた俺の賛辞に、晶子は笑顔で応える。自分が手間隙かけて拵(こしら)えた料理を誉められて嬉しく思わない奴は早々居ないだろう。
勿論、お世辞なんかじゃない。御飯も丁度良い歯応えだったし、味噌汁も出汁が効いていて美味かった。
もずくと胡瓜の酢の物も酸っぱさが控えめで食べやすかったし、ひじきと大豆の煮込みは満点に近い出来だったと思う。
甘めなのがちょっと引っ掛かるが、これは慣れの問題もあるだろう。少なくともコンビニの弁当よりは遥かにましだ。
 程なく晶子も食べ終えて、食器を重ね始める。俺もただ傍観してるだけじゃなく、自分の分の食器を重ねる。
幾らご馳走になった身とはいえ、何もかも晶子にさせるのは気が引ける。

「食器は纏めて洗いますから、祐司さんは座って待ってて下さいよ。」
「流しに運ぶところまではするよ。何もかも任せっぱなしというのも何だし。」
「そんなに気を使って貰わなくても良いのに・・・。」

 とは言うものの、晶子は嬉しそうだ。自分を気遣ってもらえている、という思いを感じたからだろうか。
俺は半分義務のつもりで言ったんだが、嬉しく思われて悪い気はしない。
 ドアを俺が開け、先に晶子をダイニングに入れて、続いて俺が入る。こういう所謂レディファーストは義務だと嫌だが−自分でやれ、と言いたくなる−、
自然に出来る仲なら何も嫌な気はしない。
流しに重ねた食器を置くと、晶子はブラウスの袖を半分ほど捲って洗い物の準備に入る。此処から先は晶子の独壇場だ。俺が手出しする余地はない。
晶子の言ったとおり、リビングで待つことにする。
 リビングに戻った俺はギターの準備を始める。
毎週欠かさずに続けているこの練習で、晶子の声に磨きがかかっていく様子が手に取るように分かるし、俺自身、歌と演奏をシンクロさせることの
楽しさを教えてもらった。
最初はなし崩し的に始まったこの関係だが、今じゃすっかり俺と晶子の絆の一つになっている。この絆も大切にしたい。
 晶子の主要なレパートリーを中心にした練習だが、俺のソロも練習の項目の一つになっている。
最初は晶子にせがまれて断り切れなかったからだが、今じゃ俺の方がむしろ晶子に聞いて欲しいくらいだ。
 人に聞いて率直な感想を言ってもらうことで、自分の腕の客観的な評価が出来る。
まかりなりにもプロへの道に触手を伸ばそうとしている今、独り善がりにならないように聞き手の感想を大切な教訓としていかなきゃいけない。
それはプロを目指さないにしても晶子にも言えることだが。

 弦は月1回交換するようにしている。何分「生もの」だからだ。
ピッキングやストロークを繰り返しているうちにどうしても磨耗してくるし、温度や湿度で伸縮するうちにどうしてもチューニングがしにくくなってくる。
俺はアースティックギターの場合、好みでナイロン弦をよく使うが、場合によってはスチール弦も使う。張り替えるのが面倒だが。
エレキの方は専らナイロン弦だ。
 チューニングをし終えて軽く爪弾いてみる。・・・今日もご機嫌なようだ。エフェクターを通していないからエレキギター本来の音が出る。
高校時代はバリバリにディスト−ションをかけて演奏していたんだが、変わったもんだ。
当時聞いていたロック系のCDは、今は棚の端の方か積み重なったCDケースの下の方で眠っている。本当に変わったもんだ。
 こうも嗜好が変わったのは店で演奏を要求される曲がジャズやフュージョン系ということもあるが、一番大きな要因は、マスターのサックスや
潤子さんのピアノを聞いたことだろう。
ディストーションを聞かせた音もギターの音と言えばそうだが、アンプを通さない生の音を聞かされたら、エフェクターやアンプをどうこう言うのが
空しく思えてならなくなる。
 だからエレキギターに加えてアコースティックギターに手を出し−出費は多少痛かったが−生の音に増える機会が多くなったんだ。
エレキギター独特の音やアームを効かせた音程の変化も魅力的だが、アコースティックギターの柔らかい独特の音も捨て難い魅力がある。
 晶子の家で練習する時に重い思いをしてまでエレキギターとアンプを持ってくるのは、晶子の歌のバッキングが殆どエレキギターだからだ。
アコースティックギターでも良いのかもしれないが、本番に備えてエレキギターで感覚を掴んでおいた方が良いだろう。
何と言っても、何時晶子のバッキングのためにステージに上らなきゃならないか分からないんだから。
 適当なフレーズを幾つか爪弾いていると、ドアが開いて晶子が入ってくる。何時ものことながら結構手早い。勿論手を抜いているわけではない。
以前、あまりの早さに訝ってキッチンを見せてもらったら、きちんと洗われて洗い桶の中に収まっていた。意外に洗い物は早く済むらしい。
俺はろくに洗い物をしたことがないから、その辺はよく分からないんだが。

「お待たせしました。早速始めましょうよ。」
「何時も以上に随分乗り気だな。」
「だって、練習が終っても祐司さんが帰らないから。」

 ・・・成る程ね。普段は練習が始まると俺が帰る時間が近づいて来るのが分かるからな。
練習は晶子の喉を考えて5曲程度しかしない。細かい部分のチェックで一部を繰り返すことはあるが、それでも1時間あれば終ってしまう。
今日は、否、今日から練習の終わりを気にしなくても良くなったんだから乗り気なのは分かる。・・・こうして一緒に過ごす時間が増えていくと良いな・・・。

「今日は何からにしましょうか?」
「そうだなぁ。人気の『Stand up』から始めるか。」
「分かりました。じゃあ祐司さん、お願いしますね。」
「はいよ。」

 俺は態勢を整えると、早速ストロークを始める。これを8小節分演奏したら晶子の声が入る。
8小節目の、原曲ではカクッとなるようなところは4拍子にアレンジしてある。今のところ客からも指摘を受けたことはない。
頭の中でリズムを取っていて、突然変拍子が混じればカクッとなってしまうから、客にとっても都合が良いアレンジだと思う。
 晶子の声が入る。音量こそ控えめだが明瞭かつ流暢な発音で歌詞の一つ一つが際立って聞こえる。晶子も良い調子らしい。
俺も思わずバックコーラスを口ずさむ。
身体を揺らしながら歌う晶子の声は本当に通りが良い。軽快なリズムに埋没することなく明快に自己主張している。
人気があるのも単にルックスが良いだけじゃないことが分かる。
 サビの部分では俺も本格的にバックコーラスを入れる。歌詞は知っているし、何より晶子と声を合わせてみたいからだ。
俺がバックコーラスを入れてちらっと晶子を見ると、晶子は俺の方を向いて目で笑いかけて歌を続ける。晶子も充分その気らしい。
 Stand up、と声を合わせて最後を締めると、晶子の顔に充実感が浮かぶ。俺も良いコンビネーションが出来て満足だ。
店のリクエストでも「FLY ME TO THE MOON」や「Secret of my heart」と並んで人気の高いナンバーだけあって晶子も慣れているせいもあるだろうが、
これだけ充実感があるのはやはりこの曲が好きだからだろう。晶子自身がやりたい、と言い出したナンバーだし。

「上出来だな。問題点なし。」
「そうですか?Cメロの高音部分がいまいち伸びなかったかな、って思ったんですけど。」
「音量が控えめだからある程度は仕方ないさ。本番で思い切り伸ばせば良いんじゃないか?」
「そうですね。本番はマイクもありますし、思いっ切り歌えますものね。」

 どうやら晶子も納得したようだ。近所迷惑を考えて俺も晶子も音量を絞っているから、本来ある程度声量が必要なところが伸びなかったりする。
それが晶子には問題点と映る。この辺のところは前にも何度か問題に上ったんだが、今日も口にしたところを見ると、
やっぱりまだ心底では納得がいかないらしい。

「祐司さんがバンドやってた時、練習はスタジオを借りてやってたんですよね?」
「ああ。キーボードやドラムは俺やベースみたいに、楽器を背負ってアンプとエフェクターの入ったラックを両手に持つだけ、ってわけにはいかないからな。
皆で料金折半して2時間くらいみっちりやった。」
「5人だと結構安くなるんじゃないですか?」
「それでも高校生の小遣いには結構効いたよ。楽器屋にしょっちゅう出入りしてたから多少値引きしてもらったけど。だから月1回が限度だったな。」
「それで本番に臨んだんですから、皆さん凄い腕前だったんですね。」
「本番前には音楽室とかで何度か練習したから。例の泊り込み合宿もあったし。学校での冬場の練習はかなりきつかったけどな。暖房なかったから。
まあ、俺は兎も角として他の奴等は全員腕は確かだったから、自分のパートをしっかり練習しておけば、割と簡単に音合わせは出来たよ。
それにスタジオや学校なら、近所迷惑を考える必要は基本的にはなかったし。」
「良いなぁ・・・。私も隣近所を気にしないで思いっきり声を出したいなぁ・・・。」
「欲求不満気味だな。」
「だって、折角毎週1回一緒に練習できるのに、本番に近い形で練習できないと、特に新しい曲を始めて歌う時に本当に声が出せるのか、不安なんですよ。」

 こんなやりとりは何度かあったし,晶子のぼやきも何度か聞いた。だけどしつこいとは思わない。
俺だって晶子との練習で本番に近い音を出したいっていう欲求はあるし、それが出来ないが故の欲求不満がある。
 週に一度は無理にしても、月に一度くらいはスタジオを借りて練習出来れば良いとは思う。
俺がギターの弦を定期的に替える為に出入りしているから、その楽器屋の常連だし、多少はスタジオ料金も−ギターの弦も結構値引きしてもらっている−
値引きしてくれるかもしれない。
 だが、俺が如何せん貧乏学生だから、晶子におんぶに抱っこになりそうで嫌だから−好きな相手に金を払ってもらうのは、良い気分がしない−
スタジオでの練習の話を持ちかけたことはない。晶子もその事情を分かっているのかどうかは知らないが、スタジオで練習したい、と口にしたことはない。
 この辺、智一だったら1日分ずっとスタジオを借りて、さあどうぞ、と出来るところだろう。
俺が最低限の仕送りとバイトで生活をやりくりしなきゃならない身なのが歯痒く思えてならない。
だから、スタジオで歌いたい、と言わない晶子に内心感謝すると同時に甲斐性のなさを詫びている状況だ。

「さて、次は何にする?」
「えっと・・・最近リクエストが多い『always』か、『Simply Wondarful』かどちらか。」
「『always』は割と慣れてるから後回しにしないか?先に俺の絡みも多い『Simply Wondarful』をやっておきたいんだ。前にちょっとトチったし。」
「え?間違ったことあるんですか?」
「気付かなかったかもしれないけど、イントロで一部音程を間違えちまったんだよ。他の部分も音程をずらして誤魔化したんだけど。」
「・・・ああ、そう言われれば前に、イントロであれ?って思った時がありましたけど・・・よくそのまま続けられましたね。」
「バンドやってた頃に編み出した賜物だよ。間違えて一瞬あれ?って思われても平気な顔して誤魔化せば、アレンジかな、とか思わせることが出来るんだ。
ちょっと姑息な手段だけどな。」

 俺は「Simply Wonderful」の問題のフレーズを軽く掻き鳴らしてみる。この曲でのギターは実際にはアコースティックの方なんだが、
二つもギターを背負えないから練習で使う割合が多いエレキギターで代用している。
そのせいもあってか、晶子と一緒にステージに上る時、違和感を感じてしまうこともある。
 だが、問題のフレーズはラテンっぽい曲の雰囲気を形成する重要な要素だから、ここで失敗すると命取りになる危険性だってある。
自分の家でも何度か練習してるんだが、いまいち納得のいく出来にならない。
練習がまだ足りないんだと思う。少々勝手だが、ここは先に「Simply Wonderful」を納得出来るまでやっておきたい。

「あのフレーズ、確かに難しそうですものね。じゃあ祐司さんのご希望に添って、先に『Simply Wonderful』にしましょう。」
「悪いな。本来『主役』の晶子に勝手なこと言って。」
「私だって納得できない部分を何度も繰り返しやってもらってるんですから、お互い様ですよ。さ、始めましょうよ。」
「ああ。・・・じゃあ始めるか。」

 俺は一度深呼吸をした後、問題のフレーズを弾き始める。右手で弦を掻き鳴らしながらフレット上にある左手の位置を逐次確認する。
これだけでもかなり大変だ。・・・今のところは上手く行ってる。このまま晶子の歌が入るところまで持ち堪えられれば・・・。
 どうにか持ち堪えた。晶子の歌が入る。此処から4小節ぐらい「休憩」があって、あとは歌の合間や本体にラテンっぽいフレーズを入れるわけだ。
っと、そうこうしているうちに俺の出番が来た。此処はイントロと同じくらい、否、他に楽器が少ない分目立つからしっかり入れないとな・・・。
 ・・・よし、OKだ。今日は指の調子が良い。左手がスムーズにフレットの上を滑り、右手がしっかり弦を爪弾く。
フレーズの音の一つ一つが明瞭に感じ取れる。こんなに好調な日も珍しい。弾いていることそのものが楽しい。楽しくて仕方がない。
そしてそれが上手い歌と絡まるのもまた楽しい。
一人、部屋でヘッドホンをして楽譜と睨めっこしながら練習している時には絶対味わえない至福の時だ。
 俺のストロークで「Simply Wonderful」を締める。次の瞬間、思わず溜息が口を突いて出る。
安堵というより達成感や充実感から生じたものと言った方が相応しいと思う。

「祐司さん、バッチリでしたね。聞いててリズムに乗ってるって感じましたよ。」
「ああ。俺自身ノレたと思う。今日は調子良い。」
「今日、此処に泊まっていくからじゃないですか?」
「そうかもな。」

 俺の言葉に、晶子ははにかんだ笑顔を見せる。それを見て俺の口元から笑みが零れる。まったく言ってくれるもんだ。
でも、以前と違ってそれに嫌悪感を感じたりすることは全くない。人間、状況や感情が変われば本当にころっと変わるもんだな。

 練習はその後、「always」や「FLY ME TO THE MOON」、「Secret of my heart」といった、リクエストや歌う機会が多い曲をメインに1時間みっちりこなした。
晶子の張り切り様は尋常じゃなくて、客が気付きそうもないちょっとしたミスでも途中で止めてやり直しを要求した。
その表情は楽しげであり、同時に真剣だったから、俺も断るつもりは全くなかった。
 ただ、晶子の喉が潰れたら話にならないから、腹式呼吸をするように何度か念を押した。
しつこいとか何を今更とか思われたかもしれないが、晶子は俺が言う度に真剣な表情で頷いていたからまあ、不愉快には思わなかったと思っておこう。
 あまりにも熱が入ったので、一旦休憩することになった。
晶子が紅茶を入れてくる、と言ってさっさとリビングを出て行った。俺はストラップから身体を抜いて、ギターを晶子のベッドに立てかける。
身体が熱い。俺はトレーナーを脱いでシャツ1枚になる。もう汗だくだ。額をぐいと拭って見ると、たっぷりと水分が付着してくる。
 少ししてドアが軽くノックされる。俺がどうぞ、と応じるとドアが開き、トレイにティーポットとティーカップ2つを乗せた晶子が入ってくる。
この動作も随分手馴れたものだ。俺の最初の頃よりはましだったとはいえ、流石に最初は危なっかしいところがあったからな。

「お待たせしました。」
「この香りは・・・ミントか?」
「御名答。もう香りが区別できるようになってきましたね。」
「ミントの香りは特別だからな。他のはまだよく分からないよ。」
「さ、お茶にしましょう。祐司さんも疲れたでしょう?」
「熱が入ったからな。」

 晶子が紅茶を入れて準備を整えると、それぞれの「指定席」に座って鼻によく通る独特の香りを放つミントティーを口に運ぶ。
やや熱いストレートのそれは口いっぱいにミントの香りを広げて、喉の奥へと流れ込んでいく。飲み干すと思わず溜息が出る。
本当に休憩しているんだという実感が湧いてくる。
 練習の間に休憩を入れるのはそう多くない。
大抵は俺や晶子が問題に思った個所を数回繰り返して、他に数曲を通しで2、3回ずつ歌って練習は終るからだ。
最近休憩を入れたのは、曲調がそれまでとガラッと変わった「Stand up」の時くらいだろうか?
あの時は俺もバンド時代を思い出してつい調子に乗って何度も繰り返して、練習が殆どそれだけで終った覚えがある。

「今日は何時もより調子良いですね。」
「そうだな。真剣さも何時も以上だったんじゃないかな。」
「やっぱり時間を気にしなくていいっていうのが大きいんでしょうね。」
「またそう来たか・・・。でも、実際そうだと思う。今日から俺が帰る時間を気にしなくて良くなったから、それこそ時間を忘れて没頭できたんだろうな。」
「理論上は時間無制限ですものね。スタジオじゃこんなことできませんし。」
「・・・スタジオで歌ってみたいか?やっぱり・・・。」
「あ、御免なさい。露骨な物言いしちゃって・・・。」
「良いさ。隣近所を気にしないで思い切り音を出したいっていう気持ちは、音楽に触れた人間なら大抵思うことだから。」
「プロの歌手みたいにスタジオで歌えたらな、って思うことはあるんですけど・・・お金かかりますからね。それより音量は控えめにしなきゃ
駄目っていう制限はあるけど、祐司さんと思う存分一緒に音楽が楽しめる環境の方が良いです。」
「・・・無理すんなよ。何だか早くも晶子に頼ってるような気がするな・・・。」
「私も練習は一人でも出来るのに、こうして毎週練習に付き合ってくれて、色々教えてくれたり問題のある場所を繰り返したりしてくれるんですから、
頼っているのはお互い様ですよ。」

 晶子の言葉が嬉しい。同時に自分の甲斐性のなさを改めて思い知る。俺にもっと甲斐性があれば・・・晶子に思いっきり声を出させてやれるのに・・・。
この甲斐性のなさも俺の「弱点」だ。此処を迂闊に突かれたら、特に智一みたいな奴に突かれたら、晶子は

・・・もしかしたら・・・。

 何考えてるんだ、俺は!晶子が金に釣られてホイホイとついて行くような女じゃないって分かってる筈じゃないか!
何でこの期に及んで晶子を信じてやれないんだ?!晶子だって人を信用できないような出来事を乗り越えて俺を信じているんじゃないか!
なのに俺が信用できなかったら、それこそ付け入る隙を与えるようなもんじゃないか!

「・・・祐司さん?」

 不意に横から声がかかる。はっとして隣を見ると、少し首を傾げた晶子が俺を見ている。
いかんいかん。また思考の泥沼に嵌っちまった。この悪い癖、早く直さないとな・・・。

「ん、ああ、悪い。ちょっと考え事しててな・・・。」
「さっきも言いましたけど、スタジオで歌えなくても祐司さんとこうして一緒に練習できるし、それに混み具合にもよりますけど、
お店のステージでお客さんの前で一緒に出来るから、それで充分すぎるくらいですよ。」

 ・・・次の瞬間、俺は晶子を抱き締めていた。自分でも気付かないほど、それこそ反射的とでも言おうか。
微かに甘酸っぱい香りがする晶子を自分に押し付けるようにぎゅっと抱き締める。

「ゆ、祐司さん?」

 晶子は何事かと思ったらしいが・・・今はこうしてお前を離さない、と行動で示すのが精一杯で、頭の中もそのことしかない。
・・・俺の背中で二つの優しい感触が動く。それは俺を優しくあやすように背中を撫でる。
 嬉しい・・・。そして愛しい・・・。俺は晶子を離したくない、否、離さない。
何としても俺が頼もしい存在になって、晶子の気持ちを掴んで離さないようになるんだ・・・。晶子を抱き締めながら俺は強くそう思う。
甲斐性のなさが何だ。俺は俺なりに、精一杯のことをするんだ。
そうすればきっと・・・晶子は分かってくれる筈だ・・・。

このホームページの著作権一切は作者、若しくは本ページの管理人に帰属します。
Copyright (C) Author,or Administrator of this page,all rights reserved.
ご意見、ご感想はこちらまでお寄せください。
Please mail to msstudio@sun-inet.or.jp.
若しくは感想用掲示板STARDANCEへお願いします。
or write in BBS STARDANCE.
Chapter 65へ戻る
-Back to Chapter 65-
Chapter 67へ進む
-Go to Chapter 67-
第3創作グループへ戻る
-Back to Novels Group 3-
PAC Entrance Hallへ戻る
-Back to PAC Entrance Hall-