雨上がりの午後

Chapter 64 一つの壁を越える夜

written by Moonstone


 −何度「Can't forget your love」が繰り返されたか分からない。
意識が殆ど遠ざかっていた俺は、ドアのノック音で急激に現実世界に引き戻される。

「どうぞ。」

 ちょっと場違いな応答をすると、ドアが開いてピンクのパジャマにはんてんを羽織った晶子が入ってくる。
真冬でもあるまいしちょっと大袈裟じゃないか、とも思うが、風邪を引いて喉が潰れるのを警戒しているんだろうと思うと、その「厳重装備」にも納得がいく。
晶子は風呂の準備をしに行くときとは違って、ベッドと俺の背中の間を通り抜けて俺の隣の「指定」クッションに腰を下ろす。

「お待たせしました。私、髪の毛洗うのに時間かかる上に長風呂なもので・・・。」
「それだけ髪が長いと洗ったり手入れしたりするのも大変だろ?」
「洗う時はまだ良いんですけど、乾かすのに時間がかかるんですよ。今くらいの時期になったらしっかり拭いて櫛で整えて終わりですけど、
冬場はドライヤーで強制乾燥させるんですよ。風邪ひいちゃいますから。」
「そんな日々の手入れの結果が、晶子のその綺麗な髪を形作ってるんだな。」
「綺麗って言ってもらえると嬉しいです。今まであんまり良い思い出ないですから・・・。」
「どうして?」

 少し沈んだ晶子の表情が気にかかって、俺は思わず尋ねる。
直ぐに答えを返さないところを見ると、聞かない方が良かったかな、と今更ながら後悔する。晶子は少しの沈黙の後、やはり沈んだ表情のままで口を開く。

「私の髪、見てのとおり茶色がかってますけど、これ、染めたり脱色したりしてるわけじゃなくて生まれつきのものなんですよ。
でも、中学や高校では生徒指導の先生に『髪を茶色にすることが許されると思ってるのか!』とか何度説明しても度々難癖つけられたり、
あまり質の良くないグループの人達から『優等生のくせにカッコつけるな』って言いがかりをつけられたり、街を歩いていて年配の人から
白い目で見られたりして・・・。大学に入ってようやく自分の髪の色にコンプレックス持ったり、周囲の目を気にしなくて良くなったんですよ。」

 辛い。聞いてるだけでも十分辛い。それを我が身で味わった晶子はよく中高6年間耐えて来れたもんだ。それだけでも賞賛の拍手を送りたくなる。

「・・・辛かったな。」
「止めてくださいよ・・・。私は・・・今この髪の色で居られることで充分なんですから・・・。」
「俺もバンドやってたから頭の固い生徒指導の先生と睨み合ったりしたこともあるけど・・・晶子みたいに持って生まれたものに難癖付けられたりしたら、
反抗して暴れるか登校拒否するかのどちらかだったと思う。本当に・・・辛かったな。」
「止めて・・・。慰めるのは・・・。」

 晶子の声が震え始め、その大きな瞳から涙が零れ落ちる。水晶にも似たその雫が晶子の手の甲に落ち、小さく弾けて小さな水溜りを作る。
俺は晶子の肩をそっと抱いて自分の方に引き寄せる。晶子は声を出すまいと唇を噛み締め、嗚咽を漏らす。
その目から止め処なく辛さの篭った涙が溢れ、頬を伝って零れ落ちる。
俺は慰めようと言葉を捜すが、直ぐに止める。
こんな時に下手な慰めの言葉をかけても無駄だし、不要だろう。
ただ気の済むまで泣かせてやることで慰めになるんだと思う。今の俺にはそれくらいしか思いつかない。
 暫く震えていた晶子の体から震えが徐々に消える。
晶子が真っ赤に充血した目で俺を見上げる。見ているだけで充分痛々しいその様を見て、俺は晶子の頬に出来た涙の跡をそっと拭う。

「・・・ありがとう・・・。祐司さん・・・。」
「礼なんて要らないさ。それより・・・少しは気が楽になったか?」
「はい・・・。泣いたせいで・・・嫌な記憶を流せました。」

 晶子は俺に完全に委ねていた体勢を立て直し、俺に密着した状態になって顔だけ俺の方に向ける。丁度真上を見上げるよう体勢と言えば良いだろうか?
涙の後は消えても目の充血が痛々しい晶子の顔に笑みが浮かぶ。それだけで俺は胸を撫で下ろす。

「やっぱり祐司さんって、優しい心の持ち主なんですね。」
「よせよ。晶子が風呂に入る前に俺に言ったじゃないか。しっかりして、って。それを少しでも実践しようとしただけだよ。
まあ、肩を抱くくらいしか出来なかったけど。」
「でも、私にはそれが本当に凄く嬉しい・・・。」

 晶子の笑みが笑顔へと変化していく。
良かった・・・。どうやら晶子の、聞くだけでも辛い過去の重みを少しは和らげることが出来たようだ。
少しでも晶子の力になれたのなら、俺はそれで満足だ。報酬は・・・充分貰っているし。
 エンドレスで流れる「Can't forget your love」を聞きながら、俺は晶子の肩を抱いたままで居る。
甘酸っぱい匂いが鼻に届く。晶子の長い豊かな髪の匂いだ。芳しいその匂いに、俺は頭がくらくらするのを感じる。男は女のこういう匂いに弱いんだよな・・・。
柔らかい感触と芳しい匂い、そして耳に届く「Can't forget your love」に、何だかほろ酔いしたような気分になる。
そしてある一つの欲望が徐々に心の中で大きくなってくる。
ちらっと下方に視線を移すと、その欲望の「標的」がパジャマの胸元から覗いているのが見える。
あまりに無防備なその様子に、欲望が膨らむと同時に頭が中から急激に熱くなって来る。
 俺はそれに引き寄せられるように、ゆっくりと開いた右手を動かして、左手が晶子を逃すまいとよりしっかり晶子の肩を抱く。
晶子は俺の肩に凭れて頭を乗せている。完全に俺に身を委ねた格好だ。
俺の右手がゆっくりと、ゆっくりと晶子の「その部分」へ近付いていく。晶子は目を開けているのかどうかは全く頭にない。
そして・・・俺の右手が「その部分」に触れる。触れただけで左手に伝わる感触とは比較にならない−晶子ははんてんを着込んでるしな−
柔らかい感触が瞬時に伝わってくる。その刺激は俺をほろ酔い気分から酩酊状態に持っていくのには充分すぎるくらいだ。
 晶子の体がぴくっと揺れる。もしかして、否、やっぱり拙かったか。
俺は急いで右手を引き戻そうとすると、その手が別の柔らかいものに引き止められる。
見ると晶子の左手が俺の手を押さえ込んでいる。これって・・・どういうことだ?まさか・・・このまま触っていて良いという無言の了承なんだろうか?

「晶子・・・?」
「いいですよ・・・。優しくしてくださいね・・・。」

 晶子から緩やかな条件付の明確な了承が得られた。俺の頭は沸騰寸前になる。
宮城との経験はこういう肝心な時に全く効力を発揮しない。まあ、別にどうでも良いことだし、妙に「上手」なのも変だしな・・・。
俺はゆっくりとした周期で晶子の胸を愛撫する。次第に晶子の体が少し早い周期で揺れ始める。
荒い呼吸音が微かに耳に届く。気持ち・・・良いんだろうか?
愛撫する手にほんの少し力を込めると、溜息にも似た吐息の音が聞こえてくる。
その吐息で完全に逆上せ上がった俺は、ゆっくりした周期で少し力強く、晶子の胸を愛撫し続ける。
晶子の体の揺れが早く、大きくなる。やっぱり・・・気持ち良いんだろうか?だとしたら・・・何か嬉しく思う。
 暫く、俺自身では存分に愛撫した後、晶子の胸から手を離す。
今度は晶子は俺の手を引きとめようとはしない。変な言い方だが・・・満足したんだろうか?
手を自分の方へ戻すと、急に頭の火照りが消えて、今度は罪悪感が湧き上がってくる。
晶子の家に泊まることを、晶子が無防備なのを良いことに、欲望に任せて好き放題した自分が情けなく思えてならない。

「晶子・・・御免。」
「どうして・・・謝るんですか?」
「俺・・・良い気分に浸っていて晶子の胸元が見えたから、晶子の胸に触りたいっていう欲望を抑えきれなかったんだ・・・。嫌だったか?」
「嫌だったら最初から力の限り抵抗してますよ。」

 晶子はそう言って俺を見上げる。穏やかな笑みの浮かんだその顔には、嫌悪感は微塵も感じられない。それを見てようやく俺は安堵する。
折角うまくいっていた仲が、その場の欲望で壊れてしまったら最悪だ。

「それに・・・こういう格好でこういう姿勢で居たら、祐司さんを誘っているようなものですからね。祐司さんがその気になっても、私のせいですから、
気に病まなくても良いんですよ。」
「どうしても・・・その・・・パジャマの胸元が気になるんだよな・・・。」
「気になるってことは、私にそれなりの色気があるってことですよね。言い換えれば、祐司さんが気になるような色気を私が持ってるってことだから・・・、
むしろ嬉しいですよ。この格好でこの姿勢で祐司さんが何も感じなかったら、ちょっと寂しく思ったかな・・・。」
「複雑だな、女心って。」
「ええ。私自身そう思いますよ。祐司さんに胸触られて気持ち良くて嬉しく思う気持ちと、恥ずかしいなぁっていう気持ちがあったんです。でも・・・。」
「でも?」
「今、私の胸を触って良いのは祐司さんだけですからね。」

 晶子が穏やかな笑みの浮かんだ表情のままで言う。そう言われて・・・俺は思わず言葉を返す。

「ありがと・・・。」

 言葉に窮したからといって礼を言ってどうする?言ってから気付いても遅いが。かと言って黙っているのも何だし・・・。
こういうシチュエーションは初めてじゃないのに−宮城の胸を始めて触ったのは夕闇迫る教室で二人きりになった時だった−、その経験が全く生きてない。
まあ、妙に生かされてぎこちない様子も見せずに平然と出来るのはちょっと嫌な気がする。初めてじゃないんだぞ、と誇らしげにしているみたいで。
晶子は首を小さく横に振って、穏やかな笑みを浮かべた表情のまま、その大きな瞳に俺を捉えて囁くように言う。

「好きな人だから良いんです。もう付き合い始めて3ヶ月ですし、祐司さんも男の人なんだから、キスだけじゃ満足出来なくなっても不思議じゃないですよ。
私も・・・キスだけじゃ満足出来なくなってきましたし・・・。」
「・・・ちょっとテンポが速い気もするけどな。」
「良いじゃないですか。双方の意思が向き合ってるんですから。早いも遅いも関係ないですよ。」
「あんまり・・・調子に乗らないようにしないといけないな。特に俺は・・・。」
「ん・・・。祐司さんは男の人だし、気持ちが一気に高ぶるってこともあって不思議じゃないですよ。でも、双方の意思が向き合わなかったら、
言い換えれば私がその気になれなかったら・・・拒否しますね。」
「そうしてくれ。男は理性より欲望の方が、どうしても強くなりがちなんだよな。精神的欲望を満たすことより、肉体的欲望を満たすことに走りやすいから・・・。」
「精神的欲望と肉体的欲望は完全に独立したものじゃないですよ。愛し愛されたいっていう気持ちと、キスしたい、セックスしたい、っていう気持ちが
重なることだってあると思うんです。私と祐司さんがキスする時、好きだからキスしたいって思いません?」
「ああ、そう思うよ。」
「同時にキスすることで相手と触れ合いたい、もっとくっつきたいって私は思うんです。だからキスが唇だけで終らなくて、
大抵私の方から舌を入れるんですよ。それは祐司さんともっと深く愛し合いたいから・・・。」

 俺は深いキスでは大抵最初は「受け身」に回るが−晶子から舌入れてくるからな−、受け身ばかりじゃない。
俺だって晶子ともっと深い仲になりたい、なり続けたいっていう気持ちがあるから、俺も「攻め手」に回って晶子の口に舌を入れる。
そういう時が、互いの気持ちが向かいあっているということだろう。
晶子の胸を触った時、晶子がぴくっと反応したのは驚いたせいであって、拒否感から来るものじゃなかったようだ。
晶子自身、嫌だったら力の限り抵抗するって明言したし、触られて嬉しいとも言った。
愛し愛されたいという気持ちが向き合ったから、晶子は俺の愛撫を受け入れ、今思い出すと色っぽい反応を示したんだろう。
 これからこのまま仲が深まれば、何れは大きな一線を超えるだろう。その時が一番、互いの気持ちが向き合っていなければいけない時だろう。
どちらか一方でも気持ちがそっぽを向いた時、俺の気持ちがそうだったら単なる自慰行為の延長線上でしかないし、
晶子の気持ちがそうだったら強姦と言って良いだろう。
一歩一歩互いに心を向かい合わせながら確実に・・・。そういう関係であり続けたい。

「・・・そろそろ寝るか?」

 俺が問い掛けると、晶子は小さく頷く。
俺が晶子の肩を解放すると同時に晶子が立ち上がり、コンポの方へ向かい、それを操作してBGMとして流れていた「Can't forget your love」を部屋から消す。
部屋は一転して壁時計の秒針が時の一定の流れを刻む音しかしない、それこそまさに水を打ったかのように静まり返る。
俺の気持ちを高ぶらせ、一つの大きな壁を越えるきっかけを作ったこの曲・・・。
これからこれを聞く度にさっきの出来事を記憶の大地から掘り出すんだろうな。
 晶子はノートパソコンを終了させて電源を切ると、元の場所である机の上に戻し、再び戻って来ると、今度は布団と毛布をきちんと整える。
それより前ははっきり覚えてないが、気になるような乱れはなかったと思う。こういうところ、晶子らしい几帳面な面が窺える。

「先に祐司さんが入ってくださいね。」
「俺から?」
「普段並んで歩くときと同じように、私が祐司さんの左腕の方で寝たいですから。」

 晶子もそうだが、女は自分の心臓がある側、即ち左側に人が来られると不安というか、落ち着かない気分にさせられるらしい。
普段並んで歩く時も−最近は殆どバイトの帰りの時だけだが−晶子は必ず俺の左側に来るからな。
特に疑問に思うこともなく、俺はベルトを緩めて−念のため言っておくが、寝苦しいからそうするんだ−先にベッドの中に入る。
 初めて入る晶子の布団の中・・・。何となく甘酸っぱい匂いがする。風呂上りの晶子が此処で毎夜寝ているのかと改めて実感する。
そして同時に、今、俺の意識がある間に晶子が同じ布団で寝る準備に入るんだと思って、妙に緊張感を感じる。
これがついさっきまで、相手の胸を愛撫していた男の心理か、と思うと何やら恥ずかしいやらみっともないやら・・・。もっと堂々と構えられないものか。
 そんなことを思っていると、部屋を照らしていた電灯が少し暗くなり、次にオレンジ色を帯びた闇に変わり、続いて完全に真っ暗になる。
晶子が電灯を消したんだろう。そう思うと余計に体が緊張感でがんじがらめにされてしまう。
俺の左脇の布団が持ち上げられて、何かがもぞもぞと入ってくる。・・・晶子だ−それ以外考えられないと言われればそれまでだが−。
ベッドの中央に横になっていた俺は、晶子が窮屈に思わないように右側に身体をずらす。
俺の左脇に入って来た物体、即ち晶子は、もそもそと俺に擦り寄ってくる。
これ以上右ににずれると壁にくっつく格好になる。まあ、晶子が使い慣れた枕を使いたいというのなら仕方ないが・・・流石にちょっと窮屈だ。

「祐司さん。枕使って良いですよ。」
「え?じゃあ、晶子はどうするんだ?」
「私には枕よりずっと使いたいものがありますから。」

 晶子は闇の中で−真っ暗になって間もないから周囲が殆ど見えない−そう呟くように言って、俺の左肩、胸の近くに頭を乗せる。
なるほど。これなら枕は不要だ。
さらに寄り添うように左手を俺の胸の上に乗せる。緊張して高鳴る胸の鼓動を感じ取られやしないかと緊張感が張り詰める。
 晶子は尚も俺に擦り寄ってくる。胸の左脇にさっき右手で感じた独特の柔らかい感触を感じる。
シングルベッドだから密着するのは仕方ないが、こうも密着されると・・・また欲望が頭を擡(もた)げてくるじゃないか。
晶子の奴、俺を意識的に誘ってるんだろうか?こんな悶々とした状態じゃ・・・とても寝られないじゃないか。

「祐司さん。」

 不意に晶子が声をかけてくる。
俺の左肩を枕にしている晶子の頭は布団の中にあるが、辛うじて物の輪郭が見えるようになった目で見ると、晶子が俺を見上げるようにしているのが分かる。
何か・・・可愛い仕草だ。

「何だ?」
「嫌じゃないですか?」
「嫌だったら跳ね除けて壁に向かって寝てるさ。それ以前に自分の家に帰ろうとするかもしれないけど。」
「良かった・・・。」

 晶子は微笑んで俺の左肩に何度も頬擦りする。猫がじゃれついてくるみたいでおかしくて、それでいて可愛らしい。
一歳とはいえ、俺より晶子の方が年上だということが実感できない。
まあ、中学高校なら別だが、大学では同期でも一つ二つ歳が違うのも珍しくないから、歳の差を実感できなくても無理ないかもしれない。
 晶子は頬擦りを止めると、再び俺の顔をまじまじと見詰める。
何だろう?こうして密着した状態でじっと見詰められると、何だか俺の心の中を見透かされているような気がして無意識に緊張してしまう。
防御反応に近いかもしれない。

「祐司さん。」
「ん?」
「こうやって一緒に寝てると、夫婦みたいな気がしませんか?」

 夫婦・・・その単語に込められた想いと重みが心に染みて圧し掛かる。
このまま仲が深まっていけば、何れそうなるだろう。否、それ以前に俺が音楽への道を志すことに心を決めれば、俺が有名になるか
「まっとうな道」に戻るまで、自ずと一緒に暮らすことになるだろう。そうなれば夫婦同然だ。
 夫婦というのを一概に定義しろと言われれば、俺は生計を一にして一つ屋根の下で日々を暮らす関係だと言う。
そういう意味では同居は夫婦同然なのは明らかだし、生計と本来の住まいこそ別だが、一つ屋根の下でこうして褥を共にしている今の状態も
夫婦みたいなものかもしれない。簡単に言うなら夫婦ごっこか。
 俺は夫婦という言葉に憧れめいたものを感じる。
宮城と一緒に過ごしていた頃も、何れは夫婦になるんだな、とか半分冗談で、半分真剣に言っていたこともある。
褥を共にして身体を重ね合わせ、朝を迎えることも何度かあった。その度に俺は、宮城と夫婦になったときの様子を想像していたものだ。
 俺の考えは時代遅れなのかもしれない。
でも、一つ屋根の下、それも褥を共にしているということはやっぱり特別なことだし、何かの縁あってこそのものだと思う。
夫婦の様子を想像する相手は宮城から晶子に代わったが、想像することは共に日々を暮らす様子には違いない。
晶子と一緒に住むようになったら、こうして一緒に寝るんだろうか?

「少なくとも・・・単なる友達やカップルじゃないとは思う。」
「夫婦まではいかないんですか?」
「一緒に住むようになったら夫婦みたいなもんだよ。それに今だって・・・端から見れば夫婦みたいなもんじゃないか?」
「そうですね。特定の異性と一緒に寝てるんですものね・・・。一緒に寝るのは初めてじゃないのに、何だか今日は・・・特別な感じがするんですよ。」
「前に一緒に寝たときは、俺が熱出して寝込んでたときは添い寝みたいなもんだったし、店に泊まったときは二人で外泊してるみたいな感じだったからな。
今は・・・晶子の家で寝てるからそう思うんだと思う。俺自身そう思う。」
「此処が祐司さんの家だったら・・・同じように思うんでしょうね。」
「ああ。多分・・・否、きっとそう思うだろうな。」

 俺は左手を晶子の頭の上に乗せる。見方を変えれば晶子を自分の胸に抱き寄せているような感じだ。
晶子の左腕が俺のシャツの胸の部分をきゅっと掴む。緊張してるんだろうか?晶子の視線は俺の方を向いたまま固定されている。

「俺が・・・ミュージシャンへの道を進むことに決めたら・・・何時かは晶子と一緒に暮らすことになるだろうな。俺が売れない間は自活できないから、
晶子に頼るしかないし。」
「それは承知の上ですよ。」
「でも、一緒に寝られないかもしれない。俺が夜遅く何処かのジャズバーなんかで演奏して回るような生活をするとなると、晶子は一人で寝て、
朝起きた頃に俺が帰って来るとかいうようなことになるかもしれない。」
「・・・。」
「それでも・・・一緒に居られる時間は出来る限り多く持ちたいな。今日こんなことがあったとか、これはどう思うとか言い合ったり考えあったり出来る時間・・・。
それを少しでも多く持つことが出来れば、譬え行動時間が昼夜ひっくり返っても絆は保てると思う。マスターと潤子さんもそうしてきたって言ってたし。」
「・・・一緒に居たい。出来る限りずっと・・・。今日、祐司さんを引き止めたのは、さっき祐司さんが言ったように、一緒に居られる時間を
少しでも多く持ちたかったってことに帰着するんです。今から始めても遅くないと思って・・・。」

 俺は晶子の頭の上に乗せた手を自分の方に押し付ける。より強く晶子を密着させる形だ。
晶子は俺のシャツを掴んだまま、俺の方をじっと見詰めている。
譬え一瞬でも一緒に居たい、離したくないという意思が、その瞳から痛いほど伝わってくる。

「今でも前に比べれば一緒に居られる時間は減ったもんな・・・。今は暫くの我慢で済むけど、俺が3年になったら実験のレポートとかで
バイトに来れなかったり、行くのが遅くなったりするだろうからな・・・。晶子の言うとおり、今から出来るだけ一緒に居る時間を増やすようにした方が良いと思う。」
「祐司さんには無茶言いますけど・・・これから月曜日くらいはこうして一緒に夜を過ごしたいです・・・。」

 具体的な提案が晶子から出される。
月曜の翌日は物理の実験がある。多少は予習していかないと本番で戸惑うことになる−俺も最初の実験は甘く見ていた−。
練習する時間と食事の時間は今までどおりとして、晶子を放ったらかしにし実験のテキストを読むというのも何だか悪いような・・・。
 でも、晶子の願いを叶えたいという気持ちがあるのは言うまでもない。
予習は此処でさせてもらうことにして、ギターとアンプを持っていくついでにテキストと下着とタオルを持っていけばいいことじゃないだろうか?

「俺も無茶言うけど・・・火曜日は物理の実験があるから多少なりとも予習をしておきたいんだ。だから・・・」
「それは勿論構わないですよ。私はその間邪魔にならないように小説書いたりしてますから。」

 晶子の声が弾んでいるのがはっきり分かる。自分の願いが叶いそうなのを敏感に感じ取ったんだろうか?

「順序は相談して決めるとして・・・テキストを持ち込んで予習に1時間程貰っても構わないか?」
「はい。じゃあ、一緒に過ごせるんですね?」
「晶子の願いは出来るだけ叶えたいからな。それに俺自身、こうやって一緒に居られる時間を多く持ちたいし。」
「やったぁ。」

 晶子は嬉しそうにそう言って満面の笑みを浮かべて、また俺の左肩に何度も頬擦りする。本当に猫みたいだ。
猫と違うことといえば、姿形が人間で言葉を喋ることと気まぐれじゃないってことくらいじゃないだろうか?
 俺は頬擦りを続ける晶子の髪に指を通す。
僅かに湿り気を帯びた滑らかな感触を味わうように、俺は晶子の頭をゆっくりと撫でる。
そうしていると、俺自身心地良い気分になってくるのが不思議だ。
 これで毎週月曜日は晶子の家にお泊りすることに決定か。半同居という既成事実がこれでまた一つ積み重ねられたような気がしないでもない。
でも、今はもうそれを快く思わない理由なんてないし、むしろ、こうして晶子と一緒に居られる時間が確約されたことを嬉しく思う。
前に潤子さんが言っていたように、一緒に居られる時間を大切にすること、そして一緒に居られる時間を少しでも多く持つことが、
絆を保つために必要なことなんだからな・・・。

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