雨上がりの午後

Chapter 59 新しい春の日にて−昼−

written by Moonstone


 晶子とのピクニックの日から程なく、2年生の講義が始まった。
高校までのようにクラスの面子が変わって自己紹介したりすることはない。それこそ突発的に普段の調子で講義が始まる。
まあ、講義によっては多少講師の自己紹介があったりするが。
 2年生になると一般教養の比重が減る分、専門課程の比重が増す。
そして実験という厄介なものが加わってくる。それも物理と化学。
まあ、実験と言っても一般教養の一部なせいか−必須教科であることは言うまでもない−、テキストも分かり易く書かれているから
それ程頭を悩ませる必要はない。高校まで知識として頭に詰め込んできたものを実験で確かめる、という感覚だ。
 実験は前期に集中して行うようにカリキュラムが組まれている。つまりは2年の後期からより専門課程の色合いが濃くなってくるって言うことだろう。
聞いた話じゃ、専門課程の実験はテキストもこんなに分かり易く書いてない上に、終了後のチェックも厳しいらしい。
自分で選んで入った学科とはいえ、卒業までの道程の険しさに少々気が重くなる。
 日程は火曜日に物理、金曜日に化学だ。
バイトが休みじゃない曜日に二つとも入ってきたから、カリキュラム一覧を見たときには少し冷や汗が出たが、いざ始まってみると、
2コマ分の時間で充分終れる程度のものだ。
予習を多少なりともしておけば、実験は十分余裕を持って終れる。

「おい、祐司。試験管1本貸してくれよ。」

 白衣を着た智一が、試験管にスポイトで試薬を入れていた俺に言ってくる。
俺は試薬を入れ終えてから試験管を試験管立てに入れて、空いている試験管を智一に手渡す。

「サンキュ。」
「そっちに試験管ないのかよ。充分支給されてるだろ?」
「試薬を入れるのに失敗して、蒸留水で洗って乾かしてたら数が足りなくなっちまってさ。」

 今日の実験は複数含まれている金属イオンを当てる−こう言うと語弊がありそうだが−というものだ。
だから失敗したら蒸留水で洗わないと、水道水に含まれる金属イオンが検出されてしまう恐れがある。
 それにしても意外なのは智一だ。
物理の実験ではペアを組んでいるんだが−名簿はあいうえお順だからだろう−、予想外に手際が悪くて俺がフォローすることがしょっちゅうある。
予習もしてきてないようだ。
女関係では手際が良くても実験ではそうもいかないらしい。まあ、両者には何の関係もないが。
 化学の実験ではこうして隣の席で−名簿順だとこうなる−実験をするんだが、時折観察していてもやっぱり手際は悪い。
試験管に溶液を入れる様子もぎこちなし、危なっかしい。これじゃ試薬を入れるのにしくじっても無理はない。
 試薬を入れ終えて反応を確認してその記録を取ってから、見かねた俺は智一の手助けをするべく声をかける。
いきなり試験管と溶液をふんだくって実験の続きをするのは智一のためにもならないし、智一のプライドも踏みにじってしまうことにもなりかねない。

「智一。俺が少し手伝おうか?」
「え?良いのか、お前の方は・・・って、綺麗に色が出てるじゃないか。」
「どうも見てて危なっかしいんだよ。智一の手際を見てると。」
「すまん。頼む。」

 智一から溶液が少し入った試験管と溶液の入ったビーカーを−失敗しても良いように多めに入れられている−受け取ると、
試験管立ての空いているところに試験管を立てて、ガラス棒を伝わらせて溶液を試験管の半分ほどまで少しずつ入れる。
智一は溶液をビーカーから直接試験管に入れようとしていた。あれじゃ加減が難しいし、事前の教官からの説明にも反する。
 溶液を入れ終えると、俺は溶液の入ったビーカーを智一の居る机の上に置いてガラス棒を智一に手渡す。
智一が感心したのか驚いたのか、ぽかんと口を開けている。

「やるな、お前。」
「やるな、って・・・。事前に説明があったじゃないか。溶液はガラス棒を伝わらせて慎重に入れるように、って。」
「そんな悠長なことやってたら時間内に終われないと思ってさ。」

 試薬を入れるのもスポイトでせずに瓶から直接入れようとするし−流石にそれは俺が止めたが−、スポイトを使うにしても
少しで良いところを思い切り吸い取るし・・・。
がさつさでは智一に負けないと妙な自信を持っていた俺だが、実験をするようになってその見解は一変した。
普段の生活ではどうか知らないが、実験でのがさつさは智一が勝るようだ。
どっちにしても威張れることじゃないが。

「智一。お前もしかして、実験の類が苦手だとか?」
「おう。そのとおり。」

 ・・・あっさり肯定しやがった。こうもあっさり肯定されると、次の言葉が出てこない。

「実験って面倒だろ?手順は踏まなきゃならないし、細かい禁止事項があったりさ。だから大胆に出来ない。それが苦手な理由なんだ。」
「だからって、事前の説明や手順を無視したら、かえって失敗したりして時間がかかるだろ?」
「そりゃそうだけどな。」

 こいつ・・・事の重大さが分かってないのか?
今はこういう割と安全な実験だからまだ良いが、もし有機化合物を扱う実験があったらどうするんだ?
有機化合物に限らず、化学の実験では急な投入はそれこそ爆発的な反応を起こす危険があるっていうのに・・・。

「試薬の投入だって少しで良いって言ってたじゃないか。なのに瓶から直接入れようとするし・・・大丈夫か?この先。」
「大丈夫、大丈夫。いざとなったら頼りになるペアの相手に任せれば良いことだし。」
「・・・勘弁してくれ。」

 化学の実験は個人単位ですることになっている。元々物理の実験みたいにペアを組んでするもんじゃないってことだ。なのに俺を当てにされると困る。
俺だって自分の実験があるし、専門課程の実験ではペアの相手におんぶに抱っこというわけには行かないだろうに・・・。
 ・・・しかし、何をするにしてもあいうえお順の名簿を元にしているから、専門課程でも実験のペアを−ペアとは限らないが−
智一と組まされる可能性もある。否、その可能性が高い。となると尚更、智一のフォローをしなきゃならないのか?
・・・さっき言った言葉じゃないが、本当に勘弁して欲しい。

 どうにかこうにか実験の時間が終った。
俺は特にトラブルもなく順調にことが運んだのでかなり早く終ったが、智一のフォローをしていたら結局時間ギリギリまで居残る羽目になっちまった。
最後のコマまで大学に居ると、家に帰ったら即行バイトに行くことになる。まあ、バイト先では食事が待ってるからその点は問題ない。

「悪いな、祐司。また最後まで付き合わせてしまってよ。」
「・・・本当に悪いと思ってるのか?」
「勿論だとも。だからこうしてお前が生協に行くのに付き合ってるんじゃないか。」
「そりゃ何時ものことだろ。」

 俺が一撃を加えると智一は沈黙する。
俺が生協によるのはそれなりの理由があってのことだ。それも本来、智一がついて来る必要は全くない理由だ。
・・・智一もそれを知ってのことだろうが。
 俺と智一は生協に入り、書籍の並ぶ場所へ向かう。
一般教養と文系学部が近いこの生協はこの時間になると割と閑散としている。俺が生協を訪れた理由は直ぐに見つかる。

「晶子。待たせたな。」
「あ、祐司さん。」

 晶子は読んでいた料理の本を元に戻して、俺に笑顔を向ける。
俺が笑みを返すが、智一は満面の笑みを浮かべて晶子に歩み寄る。その様子に晶子が引いていることに気がつかないんだろうか?
・・・気付いててもやってるんだろうな。智一のことだから。

「や、晶子ちゃん。お待たせ。悪いねぇ。お連れさんを長いこと借りてて。」
「は、はあ・・・。」
「俺も悪いとは思ってるんだけどさ、何せ上手く出来ないもんでね。祐司にフォローしてもらってばかりなんだよね。今日も・・・」

 智一が晶子ににじり寄りながら話し掛けるのを見て流石にムカッとした俺は、晶子と智一の間に割り込むように入り、晶子の手を取る。

「待たせて悪かったな。行こう。」
「はい。」
「おいおい、俺を無視しないでくれよなぁ。」

 晶子の手を引いて生協を出る俺の後を、智一はしっかりついて来る。別について来なくて良いのに・・・。
まあ、智一の気持ちは分かるつもりだし、数少ない大学の友人を無下にするのも気が引ける。
この甘さが智一を未だに付き纏わせている原因なんだよな・・・。分かっちゃいるんだが・・・。
 俺と晶子は手を繋いだまま−俺が離そうとしたが晶子がそれを許さなかった−並んで、智一が俺のもう片側に並ぶ。
晶子を挟むように並ぶのは俺が許さない。
前に晶子の横に並んで身体を寄せてきた時、思わず「こっち側に来い!」と怒鳴って以来、智一は晶子の横ではなく、俺の横に並ぶようにしている。

「晶子ちゃんも大変だね。講義がないのに1コマ分待ってるなんて。」
「必ず祐司さんが来るのが分かってますから、待つのは苦になりませんよ。」
「良いねえ、祐司は。まだ朝晩冷える時期だってのにお暑いことで。」
「その冷える時間まで俺を引き止めたのは、お前自身じゃないか。」
「うっ、それを言われると・・・一人身には染みるねえ〜。」

 智一はそう言ってオーバーアクション気味に肩を竦めて、両腕を抱え込んでわざわざ寒そうに身体を震わせる。
俺は呆れて溜息を吐くしかない。智一の奴、俺と晶子が二人きりで居るのを邪魔したいのか、単に羨ましがってるだけなのか、全く分からない。
 ・・・どっちもかもしれない。
智一が晶子に真剣に熱を上げていたのは知ってるし、現に晶子に対して先にアクションを起こしたのは他ならぬ智一だ。
幾ら俺と晶子が名前で呼び合うような仲に進展したことを知っても−智一が知ることになったのは年が明けてからだが−、
そう簡単に諦められないんだろう。その気持ちは分からなくもない。
 羨ましく思える気持ちも分かる。
俺も宮城と付き合うまでは連戦連敗だったし、自分が告白した相手が別の男と楽しげに喋っていたり、並んで帰ったりするところを見て羨ましく思ったもんだ。
それを智一に置き換えて考えてみれば・・・智一が俺と晶子を羨ましく思う気持ちは分かる。
 だが、今と以前とでは状況が違う。俺は晶子と付き合っている。
言い換えれば晶子は最初にデートした智一ではなくて、俺を選んだんだ。
この事実だけは智一に明確に示しておかなければならない。抜け目のない智一のことだ。
俺がちょっとした隙を見せれば、そこに容赦なく付け入ってくるだろう。
智一は数少ない大学の友人であると同時に、晶子を巡るライバルでもある。油断は禁物だ。

「祐司。2年になって実験が入ってきてから、晶子ちゃんがお前を選んだ理由が分かるような気がする。」
「・・・智一?」
「お前、普段は素っ気無いけど、いざ人に何か頼まれると断れなくて、自分のことみたいに親身になるだろ?俺には真似できない。
そんな隠れた優しさがお前の魅力なのかもしれないな。」

 智一は妙にしんみりした口調で言う。
先に目をつけたのは自分なのに、俺に取られる形になって悔しい、だけど・・・、という気持ちなんだろうか?
晶子にデートを途中でキャンセルされたことを俺に言った時に見せた表情に似てると言えなくもない。
 そんなことを思っていたら、智一はさっきまでのシリアスな雰囲気をがらりと変えて挑戦的な笑みを浮かべる。
俺は反射的に防御態勢に入る。この笑みは晶子ににじり寄る時の笑みと同じだ。全く何て気分の切り替えが早い奴だ。

「ま、その魅力も前面に出ない限りは恐れるに足らず、ってとこだな。俺は俺の魅力で晶子ちゃんを魅了してみたいね。」
「お前の魅力?何だそりゃ。」
「1年以上学業を共にしてても気付かないのか?俺のルックス、話術、陽気で前向きな性格、そしてこれは正確に俺自身の力じゃないが財力。
これらをフルに発揮すれば祐司、お前の防御力を遥かに上回るだろう?」

 ・・・確かに智一はルックスも俺より良いし、相手を巧みに誉めたりしてその気にさせる話術も持っているし、何かとあれこれ考えたり
後ろ向きな思考になりがちな俺と違って常に陽気で前向きだし、財力は言うに及ばない。
これをフル稼働させたのが去年の晶子とのデートだったとすると、俺が熱を出して寝込んだりしてなかったら、晶子は、好かない言い方だが、
落されていたかもしれない。
そう考えるとやっぱり智一は油断ならない相手だな・・・。

「でも、その人の魅力は相手の人から見てそう思えるようなものじゃないと、効果ないんじゃないですか?」

 不意の晶子の「一撃」に智一の表情が一瞬にして強張る。
まさかの「一撃」は智一には相当ショックだったようだ。
無理もない。智一が言う「自分の魅力」をフル稼働して望んだ晶子とのデートでも、結局晶子の心は俺の方を向いていたと、智一自身が言ってたな・・・。

「ううっ、そう言われると痛い・・・。」
「御免なさい。でも、これだけははっきり言えますけど、私はお金で心動くようなタイプじゃないつもりですよ。それより控えめでも真剣に物事に取り組めて、
誠実な人がずっと良いです。」
「ノオーッ!それじゃ俺は真剣に晶子ちゃん獲得に取り組んでないみたいじゃないかぁーっ!」
「正直言って・・・伊東さんからはあまり誠実さが感じられないんですよ。」

 両手で顔を覆って−智一はリュックを背負っている−大袈裟にショックを受けたというアクションを見せる智一に、晶子が優しく追い討ちをかける。
本人は諭すつもりで言ってるんだろうが、智一には相当なダメージになったんじゃないだろうか?ちょっと可哀相な気がする。

「何て言うか・・・人をからかって楽しんでいるような気がするんです。」
「お、俺はそんなつもりじゃないよ。晶子ちゃんには誠心誠意・・・」
「そうは思えないんですけど・・・。」

 晶子が困ったような表情で言うと、智一はがっくりと肩を落とす。
晶子のこの一言は間違いなく智一にとって決定的な精神的ダメージを与えた筈だ。
無論、晶子本人はそれを狙ってはいないだろうが。
 智一には同情出来る面もあるが、晶子に痛烈な肘鉄を食らったことで、晶子のことをすんなり諦めて貰えれば、という気持ちもある。
我ながら勝手な物言いだとは思うが、まかりなりにも晶子と恋人同士で−こういう言い方自体古臭いかもしれない−ある以上、
晶子から他の男の視線を遠ざけたいという気持ち、言い換えれば独占欲が働くのは仕方ないだろう。
 だが、智一は少しして直ぐ表情を元に戻す。
何て気持ちの切り替えが早い奴なんだ、こいつは。
まあ、そうでなけりゃ、晶子を狙っていながら合コンで他の女とくっついて、性格の不一致とやらで直ぐに別れる、なんて俺にしてみれば器用な芸当が
出来る筈もないか。
しかし、一旦付き合っておきながら「性格の不一致」を理由に挙げるなんて如何なものか、と俺は思うんだが・・・俺の頭が固いだけなんだろうか?

「・・・ま、何れ晶子ちゃんにも、俺の誠意が通じると信じてるから。」
「お前なあ・・・。」
「おっ、自分の彼女に手を出されるのは嫌か?」
「当たり前だろ。」

 俺は思わず語気を強める。
以前みたいに変に強がって、晶子と智一をデートさせてしまうようなことは、まっぴら御免だ。
すると智一は口を尖らせて、ひゅう、と軽く口笛を吹く。

「ほほう。祐司も随分変わったもんだな。以前は自分には関係ない、って意地を張ってたっていうのに。」
「以前と今とじゃ、状況が違う。」
「以前も今も両想いだったのにか?」
「・・・以前は・・・自分に正直になれなかっただけだ。」
「あーあ。あの時お前が熱出して寝込んでなけりゃあ、晶子ちゃんは俺と一緒になってたかもしれないのになぁ。絶対お前、タイミング良過ぎ。」

 それは俺も思う。
俺が熱を出して寝込んでなかったら、晶子は智一とのデートを続行していただろう。
晶子が店に電話をかけたとき、俺が呼ばれて電話口に出たら、結局その前の晩の蒸し返しになるのが関の山だっただろう。
立つのもままならなかった程のあの高熱はもう御免だが、あの時の高熱が俺と晶子を再び繋ぎ、俺が自分の気持ちに正直になれるきっかけを作ったと思うと、
満更でもないと思えたりする。

「あの時ですか・・・。」
「そうそう、晶子ちゃんとデートしたあの日。」

 嬉しそうに弾む調子で智一が言うと、晶子は一旦視線を上げて、程なく智一の方を向いて口を開く。

「あの時・・・祐司さんが寝込んでなくても、伊東さんとのデートはあの日きりにするつもりでした。」
「え?!」
「祐司さんがさっき、自分の気持ちに正直になれなかった、って言いましたけど、私もそうだったんです。あの日の前の晩に祐司さんと意地を張り合って、
半ば自棄になって伊東さんとの待ち合わせ場所に向かったようなものですから。」
「うう・・・。た、確かにディナーを予約したレストランへ行く途中で、祐司のことを気にかけて電話したってのは覚えてるけど・・・。」
「あの時は伊東さんにも迷惑をかけてしまってすまないと思ってます。でも、デートの途中で気付いたんです。祐司さんに止めて欲しかった、
自分の思い通りに祐司さんに言って欲しかったんだ、ってことに・・・。」
「あうあう・・・。俺は所詮、ピエロでしかなかったってことか・・・。寒い、寒いよ、パトラッシュ・・・。」

 智一の奴、ショックのせいか、訳の分からないことをのたまう。
だが、俺と晶子の意地の張り合いに智一を巻き込んでしまったことには変わりはない。
それを思うと、未だに智一に対する罪悪感が消えない。

「智一を俺と晶子の意地の張り合いに巻き込んじまったことになるよな・・・。あの時は悪かった。」
「すみませんでした。」
「良いさ、もう済んだことだし。それに俺にだってチャンスが全然ないってことはないしな。」
「お前、まだ・・・。」
「盗られるのが嫌だったら、つまらない意地の張り合いで仲違いしないこったな。」

 智一に言われて俺ははっと思う。
晶子と智一をデートさせた原因は、俺と晶子がそれこそつまらない意地の張り合いをしたことにある。
今度そんなことがあって仲違いを起こすようなことになったら、その時晶子はどうするか・・・分からない。俺がどうするか・・・それも分からない。
智一にみすみす付け入る隙を与えないようにするには、俺と晶子がしっかり手を取り合ってないといけないな。

 俺と晶子は正門を出たところで智一と別れて駅へ向かう。
智一が駄々っ子みたいに晶子との別れを惜しんでいたのは、正直言ってかなり恥ずかしかった。
大学は大通りに面しているし、人通りも結構多い。
なのに「晶子ちゃんと一緒に居たいんだー」「晶子ちゃんを独り占めするなー」などと喚かれては迷惑この上ない。
逆に晶子の心情を害することになるとは頭が回らなかったんだろうか?
 智一と別れてから、晶子は沈痛な表情で溜息を何度も吐いている。
呆れたというか、それともみっともなく思えたのか、何れにしても良い感情にあるとはいえないだろう。

「やっぱり・・・呆れたか?」
「え、ええ・・・。まさか伊東さんがあんな行動に出るなんて思いませんでしたから・・・。」

 予想通りだった。だが、俺も智一のあの行動は意外だった。
今までも三人一緒に帰って別れ際に俺に恨めしげな視線を向けたり、晶子に名残惜しそうな視線を向けることはあったが・・・。

「智一の奴、俺と晶子のことを妬いてるんだよ。智一は相当晶子に熱を上げてたし、今でも隙あらば、と思ってるみたいだし。」
「そうなんですか・・・。」
「こんなこと本人の居ないところで言うのも何だけど・・・迷惑か?」
「ええ。ちょっと・・・。伊東さんの気持ちは知ってるだけに余計・・・。」

 やっぱりとも数の行動は裏目に出たようだ。
そりゃ公衆の面前で自分の名前を選挙カーみたいに連呼されて迷惑に思わない筈がない。智一らしくない、しかし痛い失策だ。
智一に伝えるのは・・・勝ち誇るようなものだから止めておいた方が賢明だな。

「智一も悪気があってああ言ったわけじゃないと思うんだ。だから大目に見えやってくれ。」
「祐司さんって、思いやりのある人ですね。」
「いや、思いやりっていうか、智一もそう簡単に晶子のことを諦めきれないって気持ちは分かるからさ・・・。」
「そういうのを思いやりって言うんですよ。」

 晶子は微笑んで俺の顔を覗き込む。鞄を両手に持って後ろに回してのその仕草は、心臓をぐっと掴まれたような気分になる。
まだ肌寒さが残る夕暮れ時に身体を熱くしてくれる。こういう仕草が自然に出来るところが晶子の魅力というか、魔力というか・・・。
俺の心を掴んで離さない。

「・・・ま、まあ、智一も晶子をデートに誘ったりしたくらいだから、彼氏が出来たくらいで諦められないんだよ。」
「もう私は祐司さんに決めたのに・・・ですか?」
「男ってな、意外に諦めが悪いんだよ。」
「そうなんですか?」
「ああ。もしかしたらもう一度、って心の何処かで思ってるんだ。ストーカーは男の方が圧倒的に多いことは晶子も知ってるだろ?
あれはそんな未練の表れなんだよ。」
「へえ・・・。」

 晶子は意外な事実を知ったかのような表情を見せる。
かつて俺に兄さんの面影を重ねてストーカーじみた行動をしていた晶子なら知ってるかと思ったんだが。
まあ、ストーカーには自分がストーカーだという認識を持っているかどうか怪しいところだし、晶子もその例に漏れないとは言い切れない。

「でも私としては・・・もう私なんか諦めて他の女の人を探した方が、ずっと伊東さんの為にもなると思うんですけど・・・。」
「それが分かるくらいなら、公衆の面前で未練たっぷりの口上を垂れ流したりしないさ。それに1つのカップルの陰では誰か1人は泣いてるもんだよ。」
「そう考えると・・・伊東さんを責めるのはちょっと気が引けますね。」
「でも、超えちゃならない境界線を越えようとしたときは、俺も黙っちゃいない。」
「前に伊東さんが、私に擦り寄ってきたときのことですね。あの時の祐司さん、今にも伊東さんに殴りかかりそうでしたよ。」
「友達付き合いなら目を瞑るけど、それ以上は許さない。そういうところははっきりさせとかないとな。」

 そう、一番大事なのは境界線を明確にしておくことだ。友人と恋人、晶子と智一の間にはその明確な境界線があって、それを踏み越えようとしたときは
−晶子も勿論だが、今のところは大丈夫だ−手段を問わずにシャットアウトする。それが出来ないと恋愛と友達付き合いの両立なんて出来っこない。
 それに、もう二度と手に出来ないと思っていた絆を、晶子との間で得ることが出来た。
やっと手に入れたこの絆を切らせるわけにはいかない。
幾ら友人といってもやって良いことと悪いことがある。悪いことをやろうとしたら未然に防ぐのも俺の努めだと思っている。
 もっともそれは、俺が晶子にとって大切な存在である、言い換えれば絆を保ちたいと思わせるだけの度量があればの話だ。
俺にその度量がなくなったとき、智一が「境界線」を越えて来ても、俺には晶子も智一も止められないだろう。
だからこそ、絆があるうちに智一を晶子から遠ざけておきたい。
図々しい話だが、もう恋愛という絆は失いたくない。失いたくないからこそ、こうして一緒にいる時間を少しでも多く持って、少しでも絆を強めておきたい。

「私はどれだけ伊東さんに言い寄られても、祐司さんから離れたりしませんからね。もう決めたことですから。」
「・・・そう言ってくれると、気が楽になるよ。」
「祐司さんも心配なんでしょ?私が祐司さんから伊東さんや他の男の人に目を向けることが。」
「ああ。」
「大丈夫ですよ。私、こう見えても一途さでは誰にも負けない、って自信ありますから。」
「晶子の一途さは嫌というほど知ってるよ。付き合う前、俺をストーカーみたいに追いまわしたり、俺があんなに邪険にしてもしぶとく食らいついて来たし。」
「ね?思い込んだらとことん、っていうのが私の信条ですから。祐司さんも安心できるでしょ?」
「・・・その一途さが他の男に向かないように、俺が晶子にとって魅力ある存在でないとな。」
「今は充分魅力的ですよ。祐司さん、意外と自分を過小評価するところがありますけど、そんな必要は全然ないですよ。もっと自信を持っても良いくらいです。」

 晶子の表情は笑顔だが、その目は真剣そのものだ。しっかりして、と訴えているのをひしひしと感じる。
・・・そうだ。俺が晶子を守る、っていうくらいの気構えがないと、晶子が不安になるじゃないか。
まるで自分から堤防に大穴を開けようとしているようなもんじゃないか?今の俺は。
 年明け早々マスターと潤子さんの家にお邪魔したとき、潤子さんにも言われたっけ。どうしてそんなに自分を過小評価するのか、って。
あの時も恋愛に関する話だったが、自分を無闇に過小評価することが表面に滲み出て、告白した相手がそれを感じて、自分を好きでい続けられないんだ、
って感じて「御免なさい」になったんじゃないか、って潤子さん、言ってたな。

「今まで・・・あまり良い思いしてないから、どうしても自分に問題があるんじゃないか、って思いがちなんだよな、俺。」
「それは相手の人が祐司さんを見る目がなかったってことですよ。私は星の数ほど居る男の人の中から祐司さんを見つけて、この人だ、って決めたんですからね。
・・・それとも、私に選ばれたことに自信が持てないんですか?」

 晶子の表情が急に曇る。今にも大雨が降りそうなくらい・・・。
此処で俺がおろおろしててどうする?!
自分に自身が持てないで居ると晶子を不安に陥れるって、さっき気付いたばかりじゃないか!
 俺は思わず晶子の両肩をがしっと掴む。
晶子はびくんとして大きな瞳を更に大きくして俺を見る。
周囲に結構人が居るが、そんなことには構っていられない!

「俺は・・・晶子に見初められて嬉しく思ってる。こんな幸せなことはもう二度とないって思ってる。」
「・・・祐司さん。」
「俺は・・・弱い人間なんだ。今まで恋愛事は連戦連敗で、これが最初で最後と思った宮城との絆も切れた。そんな惨めな思いをした俺に
もう一度だけチャンスが来た。それが晶子との絆だと思ってる。」
「・・・。」
「だからこの絆は大切にしたい。これからもずっと・・・。」
「・・・嬉しい。」

 瞳を潤ませた晶子が俺に抱き着く。その瞬間、俺の脳内血管が破裂寸前に血流を増す。
目だけ動かして周囲を見ると、羨望と嫉妬の視線が俺にぐさぐさと突き刺さってくるのが分かる。
大学帰りで結構人通りも多いから目立つのは当然なんだが・・・。一連の会話の場所を間違えたか?
 晶子の手が俺の背中を愛しげに撫でる。時々下の方に何かが軽くぶつかるが、これは晶子の鞄だな。・・・って、妙に冷静になってるな、俺。
晶子の気が済むまでこうして突っ立ってるか?
否、それじゃ如何にも「突然の嬉しい出来事に固まってます」って喧伝してるようなもんだ。
はて、どうしたものやら・・・。
やっぱり離れてもらうのが現実的且つ賢明な対応だな。

「なあ晶子。そろそろ離れてくれないか?」
「どうしてですか?」
「どうしてって・・・衆人環視の前でこうしてるのは何と言うか・・・その・・・見せびらかしてるみたいだろ?」
「良いじゃないですか。見たい人は見れば。私はこうして居たいんです。」

 だ、駄目だ。映画やドラマのヒロインにでもなりきったかのような晶子の理性に訴えかけるのは無理があったか。
しかし、こうしている間にも人波は俺と晶子の横を通り抜け、羨望と嫉妬の−時間帯のせいか嫉妬の方が多いように思う−視線が向けられる。
このまま晶子の気が済むまで俺は突っ立ってるしかないんだろうか?・・・!

「晶子。このままだと次の電車に乗り遅れちまうぞ。」
「良いじゃないですか。その次の電車にすれば。」
「次の電車じゃないと俺達、バイトに遅刻することになるぞ。」

 そう言うと、晶子は名残惜しそうだが俺から離れる。
バイトに遅刻するのはまずいし、何より俺の生活費に直結している。
晶子もそのことは知っているから、俺に迷惑をかけるわけにはいかない、と思ったんだろう。
ちょっとずるいやり方かもしれないが、こうでもしないと晶子は離してくれそうにないからな・・・。

「バイトに遅刻しちゃ駄目ですよね。マスターや潤子さんにお目玉貰っちゃいますし、それでバイト代カットなんてことになると、祐司さんの生活にも影響しますよね。」
「分かっててくれて良かった。さあ、行こう。」
「はい。」

 俺は晶子の手を取って走り出す。最初こそ後ろに引っ張られるような感覚があったが、直ぐに俺の動きに後ろの動きが同調する。
衆人環視の前で抱き合うことは出来なくても、こうして手を取り合う分にはもう何も恥ずかしく思わない。
手を繋ぐことは俺と晶子にとってもう自然な−当たり前、とは言わない−ことだ。
 俺と晶子は駅へ向かう人波に乗って駅へ向かう。
ちょっとタイムラグはあったが、次の電車には充分間に合うだろう。
その証拠に、人波はまだゆったりと流れている・・・。

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