雨上がりの午後

Chapter 46 年の埃を掃い、共なる時を過ごす

written by Moonstone


「どうにか・・・終りましたね。」
「そのようだ・・・な。」

 俺はベッドにぐったり腰掛けるしかない程の疲労感の重みを感じる。
その横には晶子が座っているが、流石に全身から滲み出すような疲労感を隠すことは出来ない。
暖房が要らないほど身体は火照っている。換気のために一度窓を開けたが、普段なら肌に突き刺さるような冷気の洪水が逆に心地良く感じたくらいだ。
 兎に角することが多かった。
廃品回収に出す雑誌の山を−結局、最新号以外は捨てることにした−部屋の隅に固めて、他のゴミを分別してそれぞれ用意した袋に入れて
−これだけでも大変だった−、細かいところまで掃除機をかけて終わり、と思ったらトイレや浴室、そして台所の掃除がまだだったことに気付いて、
二人で手分けして洗剤やスポンジ、時にはスチールウールを使って徹底的に汚れを落した。
 さらに晶子は押入れにある衣類入れを季節毎に整理してくれた。
引っ越してきたときは母親が整理して入れたはずだが、季節が変わるごとに俺が引っ張り出して適当に突っ込んだりしたもんだから、もう滅茶苦茶。
晶子はこの整理で余計に疲れただろう。心の中で何度も詫びるしかなかった。
 掃除の嵐が去った後の部屋は、隅々まで綺麗になった。
これが今日の朝と同じ場所とは思えない。それどころか部屋そのものが倍以上広くなったように感じる。

「時間は・・・5時半を過ぎたところか・・・。食事にはちと早いか・・・?」
「私、今は食べる気力がないです・・・。兎に角もう・・・疲れたです・・・。」

 疲れた、という言葉が晶子の口から零れ落ちたとき、俺の脳裏に突然あの記憶が鮮明に蘇ってくる。
永遠に続くと思っていた絆が「疲れた」の一言で切れた、あの記憶だ。
今続いている晶子との記憶でセピア色に染まって心の何処かに置き去ったのに、再び鮮明な色合いを伴って蘇ってくる。
早い調子で減っていくテレホンカードの残り度数。ややくぐもった優子の声。そして優子は言ったんだ。

「もう疲れた」と。

 俺は頭を抱えて蹲るような姿勢になって頭を何度も横に振る。
頼む!早く消えてくれ!あの記憶は嫌な思い出に分別してセピア色に染まって、そのまま心の何処かに埋もれていく筈だった!
なのに、なのに・・・!また思い出しちまったじゃないか!

「祐司さん。・・・どうかしたんですか?」
「・・・晶子・・・。頼むから俺の前で『疲れた』って言葉は出来るだけ使わないでくれ・・・。」

 俺は思い出した記憶の重みに耐えかねて、両手を頭で支えて蹲るしかない。
晶子に悪気があったとは思えないし、優子と切れたときの事情なんて話してないから知るはずもない。
だが・・・聞きたくない!どうしても聞きたくないんだ!女の口から出る「疲れた」って言葉は・・・!

「疲れたのは祐司さんと私の二人ですよ?祐司さんの部屋を朝からお昼を挟んで夕方まで大掃除をしたから。違いますか?」
「・・・そのとおりだ。」
「だったら良いじゃないですか、それで。」

 俺は顔を上げて晶子を見る。労わりの表情の中に叱咤を感じる。

「祐司さんが前に付き合っていた優子さんとの思い出に拘る気持ちは分かります。前にも言いましたけど、私自身手痛い失恋したことがありますから。」
「・・・。」
「でも、言葉の節々にまで過去の記憶に拘っていたら・・・何時まで経っても祐司さんは自分の思いとは逆に、優子さんの幻影に振り回されることになりますよ。」
「・・・。」
「祐司さん。今、貴方の隣に居るのは優子さんじゃなくて、私、井上晶子なんです。それだけは絶対憶えておいてくださいね。」

 左手を広げて自分の胸に当てて言う晶子の言葉は、何時もの労わりに満ちた優しさとは少し違って、叱咤激励しているように聞こえる。
・・・確かに晶子の言うとおりだ。失恋で痛い思いをしたとき決別の言葉として聞いた言葉だから、反射的に聞きたくない、と耳を塞いでいるだけだ。

「・・・分かった。」
「ちょっとキツい言い方してしまいましたけど・・・、私は祐司さんに・・・」
「いや、晶子の言いたいことは分かったつもりだよ。・・・ありがとう。」
「良かった・・・。」

 晶子は微笑みながら俺の肩に頭を乗せるように凭れる。俺は幸せそうに目を閉じて凭れている晶子の顔を見て、小さく溜息を吐く。
暖房が程よく効いた室内には、エアコンの低い音やたまに車の走る音が遠く聞こえるだけだ。
静まり返った室内を見ているうちに俺の瞼も重くなってくる・・・。

・・・!

 俺が思わず舟を漕いだことで俺は勿論、肩に凭れていた晶子はびくっとして跳ね起きる。
やっぱり俺もこの眠気にはちょっと耐えられそうにない。何をするにしても仮眠をした方が良さそうだ。

「・・・一回した方が良いか。」
「え?な、何を・・・?」
「仮眠だよ。1時間か2時間寝ればすっきりするだろ。」
「あ、ああ、仮眠ですか。そうですよね。び、びっくりした。」
「?・・・!」

 晶子の勘違いが分かって俺の体がかあっと内側から熱くなる。あれほど厚く意識を覆っていた眠気が一気に吹っ飛んでしまう。
晶子も顔こそ笑ってはいるが、その強張り具合は心の内側を如実に物語っている。

「「・・・。」」
「言い方が悪かった・・・かな?」
「え、あ、それは私が勝手に勘違いしただけのことですから・・・。」

 何故か俺と晶子はベッドの上で正座している。再び部屋が沈黙の海に沈むが、その海は深いことこの上ない。
少し俯いたままで視線だけ晶子の方を見ると、晶子も俯き加減で視線を彼方此方さ迷わせている。
このまま空気が凍っていると何も始まらない。おまけに眠気がどんどん意識を覆い尽くしつつある。これをどうにかしないと・・・。

「・・・でも、ちょっと寝た方が良くないか?晶子も料理なんてしたくないだろ?」
「・・・正直言ってちょっと・・・。祐司さんが食べたいって言うならどうにかしますけど・・・。」
「威張れることじゃないけど、俺の家の冷蔵庫に材料の存在は期待できないぞ。そうなると・・・買出しに出掛けなきゃならないから、余計に疲れちまうだろ?」
「・・・ごめんなさい。予めお弁当でも用意しておけば良かったんですけど・・・。」
「晶子が謝る必要なんてないって。」

 眠気が吹っ飛んだら今度は空腹の問題だ。台所も新品同様になってはいるが、料理の材料がなければ宝の持ち腐れだ。はてさて、どうしたものか・・・。
俺も晶子も手を煩わせる必要もなくて、出来れば温かい食べ物にありつける場所なんて・・・!

「そうだ。コンビニに行っておでんを買って来るか。」

 おでんなら好きなものも選べるし、調理の手間も必要ない。温かいのは当然だ。我ながら名案だと思う。あとは晶子がどう思うかだな。

「晶子はそれで良いか?」
「おでんですか・・・。良いですね。温かいですし。」
「決まりだな。それじゃ早速コンビニへ買いに行こう。」
「ええ。」

 俺と晶子はベットから降りて、いそいそとコートを羽織って玄関を出る。
この近くのコンビニといえば・・・2ヶ月前、俺と晶子が初めて出会った場所だ。晶子は・・・憶えてるだろうか?
あの時晶子がふと俺を見なかったら、否、それよりも前に晶子がコンビニに来てなかったら、俺が普段どおりにバイトに行っていたら・・・
今の関係はなかったかもしれない。

「確かあの時、おでんはまだ無かったですよね?」
「!晶子も・・・憶えてたのか。」
「勿論ですよ。あの瞬間が無かったら、祐司さんと私の時間が重なることはなかったかもしれないんですから。」

 晶子も憶えていたのか・・・。そう、あの瞬間があったからこそ、全く違う二つの時の流れが同じ方向を向き始めたんだ。
あの場所にコンビニがあって、そこに晶子がお茶菓子を買いに来て、大学もバイトもサボった俺が遅い夕食を買いに来て・・・
そしてその行動が同じ時間だった。偶然に偶然が重なったわけだ。
 出会いは偶然が幾重にも重なって生じる、ある意味奇跡のようなものだ。
その奇跡に気付くか、気付いたらどうするのか、それで新しい人間関係が生まれるかどうかが決まる。
・・・そう思うと、俺は案外運の良い人間なのかもしれない。

 俺と晶子は二人分のおでんが入ったビニール袋を持って、俺の家に戻る。
袋から取り出した半透明の容器は充分に温かい、否、熱いと言って良いくらいだ。
蓋を開けると篭っていた熱気が湯気になって、ぼわっと宙に舞い上がる。
 俺は少し大きめの取り皿と箸を二人分、食器棚から取り出してテーブルの上に置く。
料理は全くしてないくせに−掃除のときも軽い水拭きと乾拭きだけで終ったくらいだ−食べるための道具はしっかり揃っている。
その上、今だ使ってない食器の方が圧倒的に多い。親に無駄金を使わせてしまったとも言える。
今ようやく食器棚で眠っていた食器に日の目を見るときが来たなんて・・・笑うに笑えない。
 掃除を終えて、ベッドの上だけじゃなくて床全体に「安全地帯」が広がったことで、俺と晶子は向かい合う形で座って思い思いに選んだ具を食べ始める。
全体としては大根とはんぺんが目立つ。あとは竹輪や卵、そしてこんにゃくが少々、といったところだ。

「意外って言っちゃうのも何ですけど・・・、結構美味しいですね。」
「ああ。俺もコンビニのおでんは初めてだから、味はどうかなって思ってたんだけど。」
「おでんや鍋物とか、そういう食べ物って一人で食べるより、誰かと一緒に食べるとぐっと美味しく感じません?」
「そうだな。でも、それはおでんや鍋物に限ったことじゃなくて・・・そこに会話っていう、一人だけの食事にはないものがあるから、
美味く感じるんだと思う。」
「一人のときに会話があったら、ちょっと怖いですよね。」
「一人芝居しながら食事・・・か。見世物なら面白いかもな。」

 俺と晶子はくすくす笑う。
湯気が立ち上る中、俺と晶子は食の間に会話を挟みながらのんびりとした夕食の時を過ごす。
そう言えば・・・此処で俺と晶子が夕食を共にするってのは初めてなんじゃないか?
前に俺が熱を出したときも、晶子が俺に食べさせた後で食べてたし、2日間看病してくれたお礼ということで夕食を共にしたときも外に出たよな・・・。
 二人で夕食を食べるのは晶子の家では、そう珍しいことでもなくなっている。これが晶子の思う壺なのかもしれないが、まあ、それは別として、
やっぱり俺の家で夕食というのは今日が初めてというのは、多分間違いない。
 それに今日、晶子は此処に一泊するつもりでいる。
俺が晶子の家に一泊したこともさほど珍しくないが−これも晶子の思う壷なのかもしれない−、此処では俺が熱を出して寝込んだ時の2日間だけ。
それにあの時は俺が知らない間に晶子が寝てたから俺が驚いたくらいで済んだが、今度は俺の意識があるうちに晶子が隣で寝るのか・・・。
煮込まれた大根を齧りながら、俺は夕食後の展開を考える。

「祐司さん。」
「ん?・・・どうした?」
「今日で掃除は終りましたけど、当初の予定どおり此処で泊まっていって良いですか?」

 考えていた矢先に晶子が尋ねてきた。「当初の予定どおり」なんて困ったな・・・。
晶子の部屋でお泊りしたときは、此処が晶子の家だから、というある種の遠慮があったから、思い切ったというか、
・・・まあ、第一次欲求の一つが表に出ることはなかったと思う。
 だが今日は自分の家だから遠慮も何もない。
そうなるとあとは理性がきちんと働くかどうかだが・・・ちょっと当てにならないような気がしないでもない。
ちらっと晶子の表情を見てみると、勿論OKですよね?と言いたげだ。・・・とても自分の家に帰ったらどうだ?とは言えない−言いたくなくもあるが−。
・・・腹を括るしかないか。

「・・・ああ、良いよ。」

 心の葛藤を隠して答えると、晶子は嬉しそうに微笑む。
もしかすると、一緒に掃除をしようと言い出したのは勿論そうするとして、本当のところは此処でご一泊するのが本当の理由だったんじゃないか?
という疑念が浮かぶ。否、確信と言った方が良いかもしれない。

 そうこうしているうちに、おでんも残り僅かになってきた。
二人が思い思いに具を放り込んだから、双方均等に具が行き渡るわけではない。
既に大根と竹輪、それに卵は姿を消している。後はどういうわけかはんぺんが残っている。それも湯気がかなり少なくなった容器の中に1つだけ。
 俺自身は結構な量を食べたし、食い物の恨みは恐ろしいというし−まあ、晶子が執拗にあのときのはんぺん、なんて言うとは思えないが−、
ちょっと手を出しあぐむ。残り一つを誰が取るか、というある種の注目の的は、食卓を囲む人数が一人以外のときは必ずと言って良いほどあることだ。
 第三者から見れば実に下らないことこの上ないことで、俺と晶子の箸が止まっているのは事実だ。
・・・どうしよう?この最後のはんぺん。
たかがはんぺん、されどはんぺん。うーん・・・。
考えてるうちに湯気が少しずつ減っていく。さて、どうしたものか?冷えたおでんは食べたくないというのは本音なんだが・・・。
 俺が残り1つのはんぺんの取り扱い(?)について思考を巡らせている中、晶子の箸が動いた。
俺が見守る中、容器の中のはんぺんを拾い上げて自分の取り皿に入れる。あれこれ考えていたうちに呆気ない幕切れとなったが・・・ま、良いか。
 俺が少々未練を残しながら箸を置くと、晶子がはんぺんの中央部分の端を噛む。
そのまま食べるのかと思いきや、再びはんぺんを取り皿に戻し、噛んで切れ込みを入れた辺りに箸を入れて二つに分ける。
そしてそのうち一方を箸で掴んで俺の前に差し出す。

「・・・それ、食べて良いのか?」
「未練ありそうな顔してましたよ。」
「う・・・そうか?」
「ええ。それより、はい。」

 晶子にはやっぱりかなわないな・・・。
俺は差し出されたはんぺんを受け取ろうと取り皿を手に取るが、そこで晶子に止められる。

「取り皿は不要ですよ。」
「え、だって・・・!」

 晶子の望むことが分かった俺は取り皿を机において、差し出されたはんぺんの半分を咥え取る。そこで晶子がはんぺんから箸を離す。
これって・・・間接キスだよな。そう思うと冷めかけていた全身が再びかあっと熱くなる。
間接キスくらいでこうも興奮していたら、今日一緒に寝るときはどうなるんだ?
 口で受け取ったはんぺんは少々熱いが、一旦取り皿に置く必要があるほどではない。
俺ははんぺんを噛む毎に口の中に引き込んでいく。
そのままもぐもぐと噛んでいると、晶子が自分の分のはんぺんが入った取り皿を俺の前に差し出す。
俺は晶子の意図するところを察すると、全身の熱が更に増す。だが、ちょっとやってみたいという気持ちがあるのもまた事実だ。
 俺は晶子から取り皿を受け取ると、箸ではんぺんを取って晶子の口に近付ける。
すると晶子は口でぱくっとはんぺんを咥える。その仕草は仔犬か仔猫を思わせる。
俺がはんぺんから箸を離すと、晶子は俺がやったように噛む毎に口の中にはんぺんを引き込んでいく。俺と同じことをやっている。
 俺と晶子は顔を見合わせて笑う。口の中にまだはんぺんがあるから、噴出さないように口を手で押さえて。
案外俺と晶子は似た者同士なのかもしれない。

 終盤ドキドキの夕食が済んで、俺と晶子は音楽を聴きながらくつろぐ。
俺が持っているCDの他、晶子が前の休みの日に買ったというCDも聞く。
そのCDは、クリスマスコンサートで一番の目玉だったと言って良い「Secret of my heart」を歌っている倉木麻衣とかいう女性シンガーの
新しいアルバムだそうだ。
 スローかミディアムテンポの曲が多めだが、その中で快活な感じがする曲がある。「Stand up」という曲だ。
聞いていると歌に合わせて「Stand up」と言ってしまいそうになるノリの良い曲だ。

「私のレパートリーに新しく加えようと思って・・・。」

 その「Stand up」が流れる中、晶子が話を切り出す。
常に自分のレパートリーの充実を考えているのか・・・。ヴォーカルとしての探究心は大したものだ。
それにこの曲、意外に音が聞き取り易いしギターの出番も多い。俺もやってみたい気分になる。

「良いな、これ。ちょっと試しにやってみようか。」
「良いんですか?」
「ああ。俺も晶子のレパートリーに加えるには良い曲だと思うんだ。晶子のレパートリーはスローかミディアムテンポが多いだろ。
だから意外性もあって面白いんじゃないか?」
「ありがとう、祐司さん。」
「礼なんて要らないさ。ちょっと待っててくれ。数回聞いて音取るから。」
「はい。じゃあ私はその間に歌詞をしっかり覚えますね。」

 俺はコンポに演奏を繰り返させて音を取って、五線譜にメモ感覚でコードの展開と主要な音を書き連ねていく。
隣では晶子がブックレットを真剣に見詰めて、声を出さずに唇だけで歌って曲の流れを確認しているようだ。
2、3回聞くうちに曲の流れとコードはほぼ把握できた。だが、どうしても引っ掛かるところがある。ヴォーカルが入る直前の部分だ。

「うーん・・・。」
「どうしたんですか?」
「いやな、ヴォーカルの入る直前の小節、此処が素直に4/4拍子になってない。・・・1拍半、余計にあるように聞こえるんだ。」
「祐司さんもそこで疑問に思ったんですか?私もCDに合わせて歌おうとしたとき、そこが一番難しく感じたんですよ。
あれ?此処でヴォーカルが入るんじゃないの?って・・・。」
「これをどうするかだな・・・。原曲に忠実にいくならこれでも良いけど、客の立場からすると、特に初めて聞いた客の大半は
この部分で躓いたように感じる可能性が高いと思う。俺自身その部分に注目したとき、がくっとなったように感じたしな。」
「いっそ、その部分を4/4拍子にアレンジしちゃっても良いんじゃないですか?」
「そうだなぁ・・・。そうするか。じゃあ、この部分は他と同じく4/4として次の小節からヴォーカルが入るってことにしておく、と・・・。」

 俺は五線譜の該当する部分をささっと消しゴムで消す。今回は実験的なものだから、それ程シビアに考えなくても良いだろう。
音数に違いはあっても殆どはコードのストロークに留めておくことにする。

「−よし、これで良いか。晶子はどうだ?」
「私も準備OKですよ。」
「それじゃ、やってみるか。あ、今回は実験みたいなもんだから、立って歌わなくて良いからな。」
「はい。」

 俺はギターのストラップに身体を通してチューニングを済ませる。
エフェクターの準備も出来たし、アンプの出力も必要最小限に絞ってあることも確認した。
この時間に大音量で鳴らすなんて近所迷惑以外の何物でもない。
このまま始めても一向に構わないんだが、此処は一つ、店のステージを思い起こさせる演出でもしてみるか。

「それでは続いて、井上さんによる『Stand up』です。」

 俺はマスターの曲紹介を真似してから、この曲で基本になっているストロークでの和音を刻み始める。

「あー、曲紹介なんてマスターの真似ですね。」
「ほらほら、もうすぐヴォーカルの出番だぞ。」

 俺は晶子の突っ込みを避けるのを兼ねて、晶子に出番が迫ってきていることを告げる。
晶子はやられたという表情から直ぐに表情を引き締めて、歌声を入れるタイミングを窺う。
 俺が五線譜にメモしたコードを追う中、晶子の歌声が入る。
さっきの打ち合わせのとおり躓いたような感じもなく、俺のストロークで奏でる和音にヴォーカルか絡む。
勿論音量は控えめだが、時折ブックレットを見ながら歌うその表情は、ステージに立つときと何ら変わらない。
 曲自体がアップテンポな上に聞く側を扇動するような−悪い意味ではない−歌詞が特徴的だ。
「Secret of my heart」と同じ人物が作ったとは俄かには信じ難い。Stand upとある部分では、俺もStand upと思わず口ずさんでしまう。
 晶子は上半身を揺らしてリズムを取りながら歌っている。
今までは揺れる方向は上下だったが、この曲では肩が左右交互に前後に揺れていて、楽しげに踊っているようにも見える。
この曲ならステージで晶子が実際に躍っても不思議はないな・・・。ファンの声援を浴びながら軽快に歌う晶子の様子が目に浮かぶ。

 俺と晶子が同時にStand up、と歌って曲が終る。
何時の間にか俺もリズムに乗って身体を動かしていたようだ。身体が熱い。
光熱費の高騰を押さえるために−生活費に響くんだな、これが−控えめにしている暖房が熱風を吹き付けているようにさえ感じる。

「良い感じだったな。晶子がノリノリで歌ってたし。」
「自然と体が動いちゃったんですよ。そういう祐司さんも珍しく身体が動いてましたよ。」
「え?そうか?自分じゃ気付かなかった。」
「他の曲が悪いって意味じゃないですけど、肩肘張らずに楽しく出来ますね、この曲って。」
「ああ、それは言えるな。」
「祐司さんのお墨付きならレパートリーに加えても良いですよね?」
「もう俺の判断を仰がなくて良いよ。晶子はもう充分に一人立ちできる力を身につけてる。ヴォーカリストとしてのな。」
「私はまだまだですよ。でも、バックの演奏はシーケンサだけじゃなくて、『Fly to the moon』とかと同じく、
出来るだけギターは祐司さんにお願いしたいです。」

 今度は晶子から逆指名された。
前のコンサートで初披露した『Secret of my heart』など一部の例外を除いて、『Fly me to the moon』をはじめとする晶子のレパートリーの殆どは、
既にヴォーカル以外のパートのプログラミングが出来ていて、シーケンサで−とうに型落ちしたPCで動く、高性能なソフトウェアだ−作成したデータを
ロードしてフットスイッチを押せば、晶子は一人でも歌えるようになっている。
 実際、店が混んでいて俺の手が回らない場合に晶子のレパートリーが指名されたら、晶子は一人で一連の操作をして何度か歌っている。
それでも俺の手が空いているときは必ず俺の手を借りようとする。勿論断ることはしないが・・・。

「俺が横に居ないと不安なのか?」
「それもありますけど、やっぱり・・・祐司さんと一緒にステージに立ちたいから・・・。」

 晶子が得意とする少し上目遣いで懇願するような表情を見せる。
・・・この「切り札」を使われたら、俺の対応は必然に一つに絞られてしまう。
そしてそうすることが苦痛になるどころか、それが自然なことのようにさえ感じる。これも一種のマインド・コントロールなんだろうか?
もしかしたら「好きだ」という気持ちそのものが、する側の相手も気付かないうちに実行しているマインド・コントロールなのかもしれない。

「分かった。シーケンサのデータは俺が居るときと居ないときの二種類を作っておくよ。」
「はい。お願いしますね。」

 晶子はにこりと微笑みながら俺に近付いたと思ったら、俺の右頬に点状の柔らかい感触が伝わる。
・・・頬にキスされた・・・のか?
そう思うと急激に、否、一瞬で身体が内側から熱くなる。
晶子と交わした最初の口同士のキスと同じくらい、もしかしたらそれ以上に強烈な印象となって、俺の胸を激しく鼓動させる。

「な・・・、何すんだよ・・・。いきなり・・・。」
「今から頬にキスしますよ、なんて事前に言うと思います?」
「そ、そりゃあ、そうだけど・・・。」

 俺はまだあの感触が残る右頬に手をやる。何か言おうにも頭が混乱して口がまともに動かない。
晶子は悪戯っぽい笑みを浮かべて俺を見ている。俺はギターを身体から離して壁に立てかける。まだ全身の火照りと痛いほどの胸の鼓動は収まらない。

「祐司さんって結構照れ屋なんですね。」
「ま、まあな・・・。それに・・・頬にキスってのは・・・何て言うか・・・虚を突かれた感じがするというか、慣れてないからというか・・・。」
「じゃあ、慣れるまでしますね。勿論不意打ちですよ。」
「・・・せめて人の目がないところでやってくれ。」

 それだけ言うのが精一杯だ。衆人環視の前でやられたら・・・周囲の目が怖い。特に男の目が。

 全身の火照りがようやく収束に向かいかけたところで、再び眠気が強くなってきた。
この部屋の掃除と「Stand up」の実験で溜まった疲れは、もう誤魔化したり押さえ込むことは出来そうにない。
晶子も口を手で覆っているが、欠伸で口が開くのを完全には隠し切れない。

「今日はもう寝るか・・・。さっきから眠くてしょうがない。」
「そうですね。私も眠いです。」
「風呂の準備してくる。20分くらいで入れるようになるから。」
「お願いしますね。」

 晶子はそう言って小さい欠伸を手の指で覆い隠す。大口を開けて欠伸するところを人に見せないように、と躾られてきたんだろうか。
男女問わず大欠伸を見せびらかしているような今時には珍しい。
俺が見ているからそうしているのか、という疑念も多少はあるが、少なくとも欠伸を他人に見せないようにしていることには変わりはない。
その日その時で出来るようなもんじゃない。
 風呂の準備といっても簡単だ。湯の量と温度、そして湯を使う場所を設定するパネルが壁にあるから、そこで風呂を選択して点火のボタンを押せば
設定した量と温度の湯が風呂桶に張られる、というわけだ。
どうせ湯は風呂場でしか使わないし−洗い物は殆ど出ないから−湯の量と温度は何時ものとおりだから、ただ点火のボタンを押せば良い。
風呂桶の栓は今日の大掃除が終った後に塞いでおいたから間違いはない。あとはアラームがなるのを待つだけだ。
俺が寝込んだ2日目の夜、晶子が俺の説明なしに風呂に入ったんだから、それだけ操作は簡単だということだ。
 実際20分程で風呂桶に湯が張れる。問題は只一つ、その時まで眠気に耐えられるかどうかだ。
今の疲労から考えると、目を少しの間でも閉じているとそのまま眠りこけてしまうのは確実だ。
もしかするとくつろいでいるだけで自然に意識が遠ざかっていくかもしれない。
 自分一人だったら雑誌を読むなり、ヘッドフォンをして大音量で音楽を聴くかしていればどうにか我慢できるだろうが、今夜は晶子が居る。
一人の時と同じことをしてたら晶子は良い感じはしないだろうし、かと言って双方黙って待っていると揃って寝入ってしまって、
浴室が湯で溢れ返ることになりかねない。さて、どうしたものか・・・。
 俺は意識が眠気の方に向くのを避けるために、床絨毯の上に座って待っていた晶子の右手側に座る。
こういう場合、男が女の左手側に座ると女は不安に感じたり緊張したりするそうだ。・・・高校時代、優子の友人から聞いた話だが。

「祐司さんから私の傍に座るなんて珍しいですね。」
「そうか・・・な。」

 自分の家で晶子と隣り合わせで座っている。
晶子の家では少しではあるけど慣れたように思うが、この家では初めてだ。
緊張してなかなか会話が続かない。まあ、意識が眠気の方を向いて暗い穴の中に吸い込まれてしまうよりは、はるかにましだが。
時計の秒針が刻む音が一定の間隔で沈黙の流れの中に打ち付けられていく。

「緊張・・・してるんですか?」

 晶子の方から沈黙を破る。俺は頭に浮かんだとおりに答えを発する。

「してないって言ったら嘘になるな・・・。」
「私の記憶に間違いなければ、この家で私と祐司さんが両方健康な状態で一緒に寝るのは初めてですものね。」
「・・・そのとおり。」

 晶子も今夜が初めてづくしなのは分かっていたのか・・・。まあ、俺でさえ分かっていることだから、晶子が分かっていて当然か。

「緊張するのは、やっぱり私が女だからですか?」
「・・・それはある。」
「そうでしょうね。私も緊張してるんですから。」
「晶子もか?」
「少しですけどね。」

 晶子はそう言うが、緊張感は少しどころじゃないと思う。何時隣の男が狼に変貌するか分からないんだから。
自宅なら物音が周囲の迷惑になるとか何でも良いから理由付けして回避することが出来るだろうが、今夜は俺の家だ。
言ってみれば何時変貌するかも分からない狼男と隣り合わせているようなものだ。
逆に言えば、俺が狼に変貌すればほぼ確実に「獲物を仕留める」ことが出来る。だけど・・・。
 暫しの沈黙の後、今度は俺から口を開く。

「まだ・・・したいとは思えない。」

 少しの沈黙の後、今度は晶子が口を開く。

「それは・・・どうしてですか?」

 さらに少し沈黙が過ぎ行き、俺が口を開く。

「勿体無いから・・・って言えば良いかな。」
「勿体無い・・・?」
「何て言うか・・・そこまでの過程をもっと味わいたい・・・。二人で何処かへ行ったり、一緒に買い物したり、さっきみたいにレパートリーを選んだりとか、
そういうことを何度か繰り返していくうちに、俺と晶子の仲が深まっていく過程を一歩一歩踏み確かめていきたい・・・。」

「・・・。」
「それで・・・俺と晶子の気持ちが・・・変な言い方だけど頂点まで高ぶったら・・・自然にそうなると思う。」
「・・・。」
「まあ・・・逃げ口上に聞こえるかもしれないけどな・・・。」

 俺がそう言うと、晶子は首を横に振って微笑を浮かべて口を開く。

「全然逃げ口上には聞こえないですよ。祐司さんの気持ち・・・良く分かりました。」
「・・・そうか?」
「ええ。やっぱり祐司さんって真面目な人ですね。改めてそう思いました。」
「真面目って・・・言うのか?俺の性格って・・・。」
「そうですよ。だからもっと祐司さんは自分に自信を持っても良いんじゃないかなって思うんです。ステージで演奏するときみたいに。」
「ステージに上がっている時は演奏のことしか考えてないからな・・・。」
「それじゃあ、私と一緒に居るときは私のことしか考えないようにしてみたらどうです?」

 晶子がそう言った次の瞬間、左の頬に熱くて柔らかい感触がする。・・・あの一撃だ。それも「公約」どおり不意打ちで。
やられた、という思いが浮かぶ。気を抜いていた隙を突かれたという、ちょっとした自分への叱責と、ほわんとした幸せが入り混じっている。
どうせ頬や耳は火傷したみたいに赤くなってるんだろうな・・・。

「・・・やってみる。」

 左の頬に手をやって、俺はそれだけ言う、否、それだけしか言えない。
晶子を見ると、悪戯が成功した子どものような笑みを浮かべている。
・・・俺は苦笑いするしかない。

 その後、風呂に入って−今回は「客」の晶子に先に入ってもらった−寝間着を着て寝る準備は完了した。
俺はエアコンのスイッチを切って、湯冷めしないように着ていた上着を脱いで布団に潜り込む。
続いて晶子も羽織っていた厚手の上着を−自宅で風呂上りに着ている半纏は鞄に入らなかったそうだ−脱いで布団に潜りこんで来る。

「それじゃ、電気消すぞ。」
「はい。」

 俺は晶子の上を横切る形で、電灯の紐を掴んで3回引っ張る。
紐を引っ張る毎に部屋や家具が普段の色合いから弱いオレンジ色を帯び、そして暗闇に淡い輪郭を帯びるだけになる。
 改めて俺が布団に潜りこむと、待ってましたとばかりに晶子が身を寄せてくる。・・・猫みたいだ。
俺が大人しく左腕を横に伸ばすと、晶子は左腕に頭を乗せて肩口にまで擦り寄ってくる。・・・やっぱり猫みたいだ。
 直ぐに寝てしまうだろうと思ったが、逆に寝付けない。疲労感は全身にたっぷり溜まっている筈なのに・・・。
犯人はやはり俺の左肩の肩口に擦り寄っている、「刺激物」をたっぷり備えた大きな猫のせいか。否、そうとしか思えない。
 左を向けば、この闇の中で微かに茶色の光沢を発している髪が残り香を漂わせているし、左脇の辺りには柔らかくて弾力のあるものを感じるし・・・。
さらに左足の脹脛に何か別の、軽くて弾力のあるものが絡み付いている。
至近距離どころか俺に密着している大きな猫は、俺の左半身をしっかり捕らえて離さない、と仄めかしているようだ。
 ・・・これ以上「刺激物」が多い左側に意識を向け続けていると、狼への変貌を余儀なくされると思って、俺は天井に視線と意識を移す。
別に天井に何かあるわけでもない。今、高ぶりかけている興奮というか欲望というか、何て表現すれば良いか分からないが、
兎に角そう言う感情を鎮めないことには・・・。
 暫く黙って天井を見上げていると、胸の奥で噴出る隙を窺っている感情が徐々にではあるが収まっていく。
開いている右手でそっと布団と毛布を上げてみると、晶子が俺の肩口を枕にして動きが止まっているのが分かる。
規則的で微かな呼吸音が静まり返った部屋に拡散していく。余程疲れてたんだろう。まったく目覚める気配がない。

 俺は布団と毛布を静かに下ろして、右手を毛布の下に潜らせる。
そのまま暫く天井を見ていると、何処かに封印されていた今日の疲れがじわじわと全身に、そして意識にも染み渡ってくる。
当然、瞼も重くなってくる。
 自分でまだしたいとは思わないって言って色々理由付けしておきながら、密着している「刺激物」の多さに欲情が顔を出しかけたなんて情けない話だ。
どうにか落ち着いたところで、俺は晶子を起こさないように静かに小さな溜息を吐く。
やっぱり恋愛関係になると、好きだという気持ちや言葉だけでは済まなくなってくるんだろうか?
 もし俺と晶子が大きな一線を超えたとき、今のような関係を続けていけるんだろうか?
前は・・・続かなかった。続けられなかった。
今度は回避し続けるか?回避し続けられるか?
・・・そんなこと・・・そのときになってみないと分からない。未来を映す鏡でもないと分からない。
 ・・・色々考えているうちに溜まりに溜まった疲労の波が怒涛となって、意識という砂上の楼閣を本格的に崩し始めた。
急速に目の前の闇が深まってくる。
考えるのは・・・明日でも、それこそ考えようと思えば何時でも出来ることだ。もう・・・考えるのは止めにしよう・・・。

Fade out...


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