雨上がりの午後

Chapter 45 年越し前のひと仕事、そして休息

written by Moonstone


 2日後、俺は2コマ目の講義を受けるときの時間に目を覚ました。勿論自発的に目が覚めるわけではなく、目覚ましを枕元に置いたからだ。
普段の休日なら不機嫌に目覚ましをベッド脇の棚の一番上に放り出して寝直すんだが、今日はそういうわけにはいかない。
トーストに苺ジャムを塗り、インスタントコーヒーを飲む。これも普段と何も変わらない。
違うところをいえば暖房の電源を入れっぱなしにして、滅多に姿を現さない掃除機やはたきが壁に立てかけてあって、
何時買ったか記憶にないゴム手袋と雑巾がバケツに掛けられて鎮座していることくらいだ。
 昨日、今年最後のバイトを済ませて帰宅してから−晶子の家に連れ込まれて紅茶1杯で乾杯したが−用意したものだ。
これらを外に出すだけで雑誌の山を掻き分け押入れの中を捜索した。
当日になってから探してたんじゃ到底間に合わないと思ったのが正解だった。
 そうそう、昨日は今年最後のバイトだということで、終わってから順子さんが用意した軽食を囲んで乾杯した。
その後、マスターが俺と晶子に今月分の給料と共に所謂ボーナスをくれた。中を見てみたらなんと5万円。
今年のコンサートが例年の2倍近い大盛況で、その「要因」となった−そんな自覚はないが−俺と晶子が揃って貰ったというわけだ。
臨時の仕送りなど期待できない俺には金の延べ棒に匹敵する重みのある金だ。大切に机の引出しに閉まっておいた。

 さて、朝食を終えた頃に時計を見ると、約束の時間まであと15分くらいある。晶子は朝食を食べてからこっちに来ることになっている。
晶子のことだから多分遅れることはないだろうが、約束の時間まで長く感じる。
約束の時間が迫るにつれてそわそわと落ち着かなくなって、時計を頻繁に目をやるが、なかなか進まないように感じる。
途中で事故にでも会ったんじゃないのか、とか不安まで生まれてくる。
 約束の時間まであと5分となったところで、外の通路の方に人の気配を感じる。勧誘員か何かか、それとも晶子か、吉と凶の予感が同時に頭に浮かぶ。
俺はそそくさと立ち上がってドアの前へ向かう。
よく響くインターホンが鳴る。俺は鍵だけ外してドアを開ける。
ドアの隙間から見えたのは、ベージュのコートを羽織った晶子が立っていた。

「おはようございます。」
「ああ、おはよう。ちょっと待って。チェーンロック外すから。」

 俺は一度ドアを閉めてチェーンロックを外してから再びドアを開ける。
晶子は大きめのバッグを持っている。・・・やっぱり一泊するつもりか。でも、それにしてもバッグは何やらいっぱい詰まっているようだ。

「自転車は祐司さんの隣において起きましたから。」
「それは良いよ。それより、さ、一先ず中に入って・・・。冷えるだろ?」
「それじゃ、お邪魔しまーす。」

 晶子は中が割と暖かいのを知ってコートを脱ぐ。
茶褐色のセーターに黒のズボンという、掃除をし易い、即ち動きやすい服装だ。
かく言う俺もグレーのセーターと濃紺のズボンという、それなりに動きやすい服装をしているが。

「鞄、何所に置いとけば良いですか?」
「ベッドの上に置いておくか。此処は安全地帯、ということで。」
「ゴミや整理中のものは此処には置かないってことですね。」
「そうそう。何せこの様だからな。避難場所を作っておかないと。」

 改めて見回すと・・・晶子の部屋とは正反対の、あっちが穏やかな風吹く平原としたら、こっちは曇天垂れ込める廃墟といおうか。
兎に角足を置くスペースが格段に少ない。部屋の面積としては晶子のリビングよりは広い筈なんだが・・・。

「それじゃバッグは・・・よいしょっと。」
「随分入ってるみたいだけど、何入れてきたんだ?」
「これですか?今着てるのは作業着代わりなんで、掃除が終わってから着る服が入ってます。あとは下着とパジャマとタオル、マスクとか色々です。」
「マスク?」
「埃が出そうな場所を掃除する場合は、マスクをした方が良いですよ。埃でアレルギーになることもありますから。」
「・・・埃なら山と出そうだな。」

 俺がぼやいている間に、晶子はバッグからマスクを取り出して一つを俺に差し出す。
埃が出るのは十分予想されることだから、大人しくつけることにする。
しかし、マスクまでして掃除するなんて、ある意味相当情けない話だ。今まで面倒くささで掃除をサボりにサボったツケが回ってきたか・・・。

「まずは彼方此方に点在する雑誌を年別に一まとめにしましょうか。」
「ああ。そうしよう。」

 唐突に掃除の主導権は完全に晶子に握られてしまった。
まあ、俺は掃除の仕方なんてろくに知らないから、何時行っても綺麗なままの部屋を維持し続けている晶子の言う手順に従った方が安全で効率的だろう。

「・・・どうにか整理できましたね。」
「ああ・・・。まさかこんなにあったとは・・・。」
「ここでちょっとお茶にしましょ。準備しますね。」

 山というより山脈になった雑誌の束を目の前にしてベッドの上、即ち安全地帯に座っていた晶子が、マスクを外して鞄からティーポットと
紅茶の入ったガラス瓶を取り出して、雑誌の山脈を乗り越えて台所へ向かう。そして下の戸棚から片手鍋を取り出す。俺よりよく知ってるな・・・。
まあ、以前晶子が整理してくれてから俺がろくに使ってないせいもあるが。
 鍋に水を入れてガスコンロに掛ける。
その間に晶子はガラスのビンに入っている紅茶の葉を、別の戸棚から取り出したスプーンで注意深くティーポットに入れていく。
水の量は適当みたいだったから、それ程葉っぱの量に気を使わなくても良いと思うんだが・・・。何時もの習慣か?
 少しして湯が沸いたが、晶子は直ぐに火を止めない。
湯気がかなり立ち上ってきたところで火を止めて、それをティーポットにゆっくり注ぎ込む。
一気に表面が白くなるところから、あれが相当の熱湯だということは分かる。

「あと3分くらい待ってくださいね。」

 紅茶の葉に湯を注いだ時点で完成じゃないのか?どうしてだか分からないが、晶子に任せておけば間違いないだろう。
することといえば、紅茶が出来たときに直ぐ飲めるようにマスクを外すことくらいだ。
 3分くらい経つと、晶子がティーポットと戸棚から選んだ同じカップを−優子とコーヒーを飲んだ覚えがある−持って、
再び雑誌の山脈を越えてベッドに戻って来る。
晶子の家のようにトレイなんて洒落たものはないから、カップは片指に二つ引っ掛けている。
躓いて怪我をしたり熱い紅茶を浴びたりしなければ良いんだが。
 幸い、晶子は無事にゴミや雑誌の荒野を乗り越えて、安全地帯であるベッドの上に辿り着く。
晶子はカップを二つ共ベッドの上に置いて、そのうち一つに湯気が立ち上る紅茶をゆっくり注ぐ。

「はい、祐司さん。」
「あ、ありがと。」

 俺は晶子から紅茶の入ったカップを受け取る。
湯気に混じって林檎の香りが鼻から全身に染み透ってくる。・・・アップルティーか。
雑誌の整理の結果、さらに荒涼とした部屋にひとときの安らぎの空間が出来る。
 晶子は自分でもう1つのカップに紅茶を注いで軽く一口啜る。ポットは自分の横に置いてあって、中には茶褐色の液体が1/3ほど残っている。
二人が二回飲める量を作ってきたようだ。ポットには茶褐色の液体がまだポットの半分よりやや下の辺りまで残っている。

「なあ、晶子。どうして湯を入れて3分待ったんだ?」
「ああ、あれは蒸らすためですよ。そうする方がより美味しくなるんです。ご飯を炊くのと同じようなものです。」
「・・・そう言えば、俺の炊飯器にも『蒸らし』っていう部分があったな。」
「蒸すことで美味しくなったり、それが料理の必要条件だったりするんですよ。」
「結構、奥が深いな・・・。」
「易しい解説書もいっぱいありますし、続けていれば自然と覚えられますよ。」
「そんなもんなのか?」
「私だってそうですよ。基本的なこと、例えば千切りとかそういうことは母に教えてもらいましたけどね。」

 前にこんな話をしてたとき、晶子は母親にこれが千切りか、と言われたということを思い出す。
バイトのキッチンで見たり、晶子の家での夕食の千切りを見る限り、そんな下手な時代があったのか不思議でならない。
 でも、これだけは言える。
親から子にその家庭の味を引き継いでいくことが難しい、否、そうすることが急減してファーストフードに代表されるように
味が全国均一になっていく今の世の中、晶子と母親はしっかりした絆があると思う。
・・・俺は家が飲食店をしているのに、厨房に立ったことがない。
母親も一人暮らしの前準備として料理を教えようとはしなかった。男だから適当にコンビニや外食で済ませるだろう、と思っていたかどうかは知らないが、
いっそ店の手伝いついでに多少は教えてもらうべきだったか。

「お茶、もう一杯どうですか?」
「ん?ああ、それじゃ頼むよ。」

 気付かないうちに俺のコップは空になっていた。
カップを前に差し出すと、晶子はゆっくりと紅茶を注いでいく。
一杯目とほぼ同じ量になったところで注ぐのを止める。感覚でどのくらい注いだか分かるんだろうか?
時間をおいたせいか、少し濃くなった気がする芳香漂う液体を口にする。
晶子が紅茶を持ってきてくれたお陰で、ゴミと埃に塗れた無残な部屋で呆然と立ち尽くすこともない。ゆったりと一息ついて次の段取りを考える。
 やはり山脈になっているあの雑誌の束の幾つか、或いは全てゴミとして処分するしかないだろう。
高校時代から買い続けて来たから三年もの、四年ものなんてものもあるが−親にこんなもの持ってってどうするの、と言われた−
押入れの中で埃を被ってそのままになっていた。よく考えてみると、開いて読んでいるのは今年の分くらいのものだ。
でも、いざ「ゴミ」として処分すると何か後味の悪さというか未練が残る。
あの雑誌を買っていた時代、即ち高校時代、個性ある友人達と・・・優子が居た。
それらを「ゴミ」として処分するのは、あの頃の良き思い出まで処分してしまうような気がする。

 優子を見ると逃げ出したくなるのは、あいつの全てが許せないからじゃない。
それまで何とか続けて来た関係を電話一つで断ち切ってしまったことだ。
優子との思い出の中には良いものだって沢山ある。それまで「ゴミ」として捨ててしまうのは・・・躊躇してしまう。
 関係が切れてから優子とは偶然も含めて2回会う機会があった。
その時逃げずに聞いておくべきだった。どうして俺と別れる気になったのか、その原因は何か、ということを。
そうすれば気持ちの整理が出来てあの雑誌の山を処分するかどうか、この場ですっぱり判断できたのに・・・。馬鹿な奴だ、俺は。

「祐司さん、如何したんですか?」

 晶子が声を掛けてくる。何時も俺の様子を見ているんだろうか?
お陰で思考の波間に飲み込まれることはないが、もう少し考える時間がほしいという気持ちもある。

「いや・・・あの雑誌の山を見て、ちょっと・・・何て言うか懐かしい気分になってさ。」
「右の辺りの束は××年ってあったから、祐司さんの高校時代ですよね。」
「そっ。今までの中で一番やんちゃで、でも・・・気の合う仲間が多かった時代。」
「・・・その頃が一番幸せだったんじゃないですか?」
「・・・かもしれない。でも・・・今と比べるべきじゃないかもしれない。」

 部屋に沈黙が漂う。
確かにあの時代は幸せだった。
個性ある気さくな仲間とバンドを組んで、傍に優子が居て・・・。
だが、今が幸せじゃないのかというとそうでもない。
今はあの時代が展開された場所から離れて、言わば別の世界で暮らしている。
そこには何故か気の合う友人が居るし、バイト先は居心地が良いし、そして俺の隣に晶子が居る・・・。
基本となる条件が違うのに、どちらが幸せか、なんて比べるのはナンセンスな気がする。

「じゃあ・・・今は幸せですか?」
「今は今で・・・充分幸せだよ。」

 俺が答えると、晶子は微笑を浮かべる。その微笑みはどこか切なげで・・・心の共鳴を感じさせる。

「私も・・・今は今で充分幸せです。マスターと潤子さんも良い人だし、祐司さんが居る・・・。幸せを感じる場所も時代(とき)も違うし、
幸せの価値はそのときそのときで違いますからね・・・。時代の違う幸せを比べるのは意味のないことかもしれませんね。」
「・・・そうだな。」
「もし過去の幸せに拘ってたら・・・今の幸せが幸せに感じられない。それに新しい幸せを取り逃してしまうかもしれない・・・。」
「幸せは・・・始まりも終わりもある日突然やってくる・・・か。」
「そして何時やってくるか分からないし、時にそれが幸せだって分からないときもある・・・。幸せって色々難しいですね。」

 詩篇の語り合いのような会話が続く。
普段はとても出来そうもないことが出来てしまう・・・。これもこの空間の中に居るからだろうか?
ゴミと俺の持ち物で雑然とした空間から切り離されたようなベッドの上に生じた小さな安らぎの世界に・・・。
 2杯目の紅茶が尽き始めた頃、ベッドの上に出来た空間が隔絶されていた現実の世界と徐々に融合していく。
改めてみると溜息が出るような−つい昨日までそんな部屋を気にもしなかったくせに−ゴミが溢れる空間と・・・。

「そろそろ掃除の続きをしましょうか?」
「ああ、そうしよう。」

 俺が残りの紅茶を一気に飲み干すと、晶子は俺からカップを受け取って自分のカップとティーポットを台所へ持っていき、
素早く洗って洗い桶の中に入れる。
そしてセーターの袖を再び腕の半分くらいまで上げて、掃除の準備に取り掛かる。
・・・と、俺も見てばかりじゃいられない。同じようにセーターの袖を出来るだけ上げてベッドを降りる。
掃除はまだこれからだ。のんびりさっきの世界の余韻に浸っている暇はない。

 押入れやベッドの下の引出しの整理をして−奥にあるH本が見つからないようにここは自分一人でやった−、
さらに部屋全体を上の方から順番に水拭きしたところでふぅと溜息をついて額を拭う。これだけでもかなり部屋が綺麗になった。
下さえ見なければ−此方はまだゴミだらけだ−新品同様だ。

「これでまず、一つの山を越えましたね。」
「そうだな。しかし・・・家具の色があんな色だったとは。」
「それだけ埃を沢山被ってたってことですよ。」
「・・・そのとおりだけに言い換えせない。」

 晶子が沢山、のところを強調していったのでちょっとムカッとした俺は反論の材料を探したが、
実際そのとおりだっただけに反論の材料が見当たらない。完全に俺の負けだ。
ギターはほぼ毎日使ってるから殆ど汚れはなかったし、音源モジュールも埃を被っていても拭いたら原色の黒色を保持していた。
しかし、原色が白や明るいグレーの家具は・・・暗いグレーかと思って水拭きしてみたら実際の明るい家具や電化製品らしい色が見えたときにはびっくりした。
気付かないうちにこれだけ埃が溜まっていたかと思うと唖然としてしまう。
 何はともあれ、床を除く家具やものは綺麗になった。
後は床を残すのみだが・・・これまた余計に時間がかかりそうだ。
雑誌の束など重いものもあるから、拭き掃除をやっていたときの倍はかかるような気がする。時計を見ると12時前。ちょうど昼時だ。

「昼時だし、ここでちょっと本格的に休憩と行くか。」
「そうですね。じゃあ着替えますからお風呂場貸してくれますか?」
「ああ、良いよ。」

 流石に掃除で作業着代わりに使っていた服のまま外出するのは気が引けるか。まあ、それは俺も同じだが。
晶子は鞄から幾つか服を取り出して浴室の方へ走っていった。
俺自身も着替えないといけない。彼方此方埃塗れだ。セーターじゃなくてトレーナーにしとけば良かったか、と今更ながら思う。
 俺の方は10分ほどで着替えが終わった。そのときパタンと音がして着替えを終えた晶子が戻って来た。
掃除のときはズボンだったが今は茶褐色のスカートだ。上には薄いグレーのセーターとシャツを着ている。
着替えて荷物になったさっきまでの服は晶子が抱えて自分の鞄の上に置く。

「さて、何所へ行くかな・・・。」
「私は何でも構いませんよ。」
「・・・じゃあ、・・・『Alegre』(アレグレ)へ行くか。」
「『アレグレ』?」
「普通の喫茶店だよ。」

 俺は何気なくその店の名前を口にしたが、そこは過去の記憶と関係の深い場所でもある。優子と朝を迎えた後、必ず朝食を食べに行った店の名前だ。
そこに晶子を連れ込むことは・・・俺が過去との衝突と決別を兼ねる意味がある。
 俺は今まで優子から逃げてばかりだった。
関係が切れたあの夜、酒の威を借りて思い出の品物を悉く破壊し尽くしたのも、優子本人に背を向け続けたのも、
優子との過去が心の前面に引き出されて、そのときの自分、特に晶子と仲良くなってからの自分が覆い隠されそうな気がしたからだ。
今やもう、優子は過去へと追いやられ、晶子が傍に居る・・・。
そのことを自分の内面で改めてしっかりと認識するには・・・優子との思い出の場所へ行って優子との思い出を過去へと追いやるしかない。
・・・それが一番だ。

 俺と晶子はコートを羽織って揃いのマフラーを巻いて外に出る。
流石に冬本番の冷気はコートやマフラー、さらに着込んでも容赦しない鋭さで頬に突き刺さる。
この寒さがこれからさらに増すとなると、1月から再び大学へ行くのがある種の拷問に感じられる。
 『Alegre』は俺の家から駅の方に向かって暫く歩いて、線路に近い割と大きな通りに入って左手にある。
俺がこの町に来て少ししてから自転車でぶらついているときに見つけた店だ。
丁度優子が来た時に行く近場の飲食店を色々探して居る最中に見つけた店だから、今でもはっきり覚えている。
優子と切れて以来ずっと行ってないが、少し奥まった場所にある店にしては随分繁盛している店だ。
住宅地や繁華街から離れた小高い丘の上にある『Dandelion Hill』とよく似ている。店が繁盛するかどうかは立地条件だけじゃなさそうだ。
 中を覗くとかなり混んでいるようだ。近くの主婦らしい集団がランチを食べに来るのが大きい。
今日は御用納めだからだろうか、近くのビルにあるオフィスの人らしい人も居る。
二人座れるだろうか?ちょっと様子を伺ってみることにする。
晶子にちょっと待ってて、と言ってドアを開けると、少し遠いところからいらっしゃいませ、という声が聞こえて、ウェイトレスが走ってくる。
店内を改めてみると、やはり相当混んでいるのが分かる。

「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
「二人ですけど。」
「あ、ちょうどさっき空いたところですので、そちらへどうぞ。」

 偶然席が空いたところに来たらしい。俺は晶子を呼び寄せると一緒に店に入る。
店内の視線が一瞬俺と晶子に集中する。しかし、それも直ぐに元通りになる・・・とはいかない。
いかにも暇を持て余していそうな、よく似た体系と衣服の主婦連が、ウェイトレスに先導されて並んで奥の方の席に案内される俺達をじっと見詰めている。
無視して通り過ぎたが、その後ひそひそと話す声が聞こえる。きっと俺と晶子のことをあれこれ推測して話のネタにしてるんだろう。
勝手にしてろ。俺と晶子はこの店に昼飯を食べに来ただけだ。
 俺と晶子はかなり奥の4人用らしいテーブルに案内される。・・・此処は違うな。
ちょっとした安心感と共に俺が店の出入り口側に座り、晶子は向かい合う形で奥を背にした場所に座る。
いっそ並んで座っても・・・なんて思ってしまうが、まだそれを口にするのは勇気が全然足りない。

「祐司さん、如何したんですか?顔、赤いですよ。」
「あ、ああ、寒いところから急に暖かいところに入ったからさ。」

 ありがちな言い訳で何とかその場を誤魔化す。晶子は別段疑う様子もない。
もっとも、晶子が俺を疑うことを記憶から探す方が難しいが。

 注文を取ってもらうのは少し待ってもらうことにして、俺と晶子はメニューを広げて食べたいものを探す。
とはいえ俺の場合、生活費に響くような高いものは遠慮させてもらいたい。ま、ランチで決まりかな・・・。ちょっと侘しい気もするが。

「祐司さんは決まりました?」
「ああ、これにする。」

 俺はランチのイメージ画像と価格が隙間に入ったプラスチックの置物を晶子の前でヒラヒラさせる。すると晶子が不満そうな顔をする。

「折角来たんですから、もっと良いもの注文しましょうよ。」
「あのな・・・。俺はバイト代が生活費に化けるから懐具合が厳しいんだよ。」
「大丈夫ですよ。高くてもそれと比べて400円か500円くらいなんですから。折角ゆっくりするために来たんですかから、ちょっと贅沢にいきましょうよ。ね?」
「・・・晶子には負けるよ。」

 俺は苦笑いを浮かべながら諦めの溜息を吐く。
言われてみればそのとおりだし、ボーナスも出たから400円や500円で躊躇するのは、改めて考えてみれば何だか貧乏くさく思える。
俺はプラスチックの置物を元の位置に戻して、広げたメニューに視線を移す。
 少しして俺は焼肉定食、晶子はハンバーグ定食に決めた。
晶子はハンバーグが好きのようだ。俺と夕食を食べるときもハンバーグは出てくる比率が少しだけだが高い。
何でも「一番失敗する確率が少ない洋食メニュー」なんだそうだが・・・料理の仕方と言えば、フライパンと油で切った野菜を熱すれば
はい出来上がり、という連想しか出来ない俺には実感が湧かない。
 俺はメニューを元の位置に戻して呼び出しのボタンを押す。すると少しして店員が少し早足気味でやってくる。
注文や運びものがひと段落ついたからだろう。俺もバイトで歩く速さを使い分けているから同業者(?)には直ぐに分かる。
それぞれ店員にメニューを告げると、店員は一度確認のために読み上げて立ち去る。先客が出て行ったせいか静まりが戻って来た・・・と思ったら、
妙な話し声、否、雑音が俺の後ろ側から聞こえて来る。
声の主は見なくても分かる。この席に案内されるときにすれ違ったあの主婦連だ。

「あの子達、この時間に一緒に喫茶店に来るなんて・・・きっと特別な関係なんですわ。ほら、最近の子は進んでるって言うでしょ?」
「同棲してそうな感じしません?二人とも行動に初々しさがないでしょ?親の目を盗んで同棲してるって言っているようなもんですわ。」
「大学生・・・くらいみたいですよ。多分奥様のおっしゃるとおりですわ。」
「まったく、親のお金で優雅な生活して、さらに同棲なんてねぇ。親の顔が見たいと言うのはこのことですわね。」

 ・・・冗談じゃねえぞ、てめえら。俺は学費こそ親に払ってもらってるが、生活費の仕送りは毎月10万きっかり。
それ以外は全部バイトで工面するって約束でこの町で一人暮らしを始めたんだ。勝手なこと言ってんじゃねえ!
 晶子もそうだ。住んでる所はマンションだがそれ程広くないし、あまつさえ自炊さえしてる。
仕送りを減らして親の負担を少しでも減らすためだろう。
バイトで結構なお金が入っても遊びやアクセサリーに使ったりしてない。それくらい毎日見てれば分かる。なのに、あいつら・・・!

「・・・なあ晶子。変なこと聞くけど・・・良いか?」
「何ですか?」
「俺はバイトの金を完全に生活費に充ててるけど・・・晶子は如何してるんだ?」
「全部貯金してますよ。これから色々お金も要るでしょうし・・・それに4年の学費くらいは自分で払うつもりなんです。」

 ・・・このとおりだ。分かったか、ババア共!・・・って言わなきゃ聞こえないが。
 暫くしてメニューがほぼ同時に来て、俺と晶子は早速食べ始める。
晶子はこれからの掃除の段取りの案を言ったり、新しいリクエスト用の曲を色々上げたりする。
俺は勿論それを聞いて提案に一部改定を唱えたり−国会みたいだな−リクエスト曲の中で晶子の声の音域で一番綺麗にフイットする曲を考えて挙げる。
普段平日の昼飯といえば揚げ物中心の学食が関の山だが、こうして全然違う場所で、そして好きな相手と話し、
笑いながら食べる昼飯は普段よりずっと上手く感じる。
 ・・・しかし、それでも耳の片隅にあの雑音が引っ掛かって来る。まだ俺と晶子のことをあれこれ言ってやがる。
気にしないつもりでも耳に引っ掛かってくるからどうしようもない。店が昼の嵐を通り過ぎて静まりを取り戻したから尚更通りが良い。

「随分良い雰囲気ですわね〜。まるで夫婦みたい。」
「若い美空で昼は外食、夜はホテルと決め込むんでしょうね。最近の子は風紀が乱れてるって本当ですわね。目の前で見ると良く分かりますわ。」
「家の娘はしっかり教育してますわ。男には近寄らない、夜の塾は送り迎え。門限は7時。完璧でしょ?」
「家は男の子なんですけど、男女交際は兎角乱れがちですからしないようにと口煩く言っておりますわ。」

 ・・・いい加減なこと言ってじゃねえぞ、てめえら!
晶子は俺の家の大掃除を手伝いに来てくれて、丁度昼時でひと段落ついたからこの店に昼飯を食いに来ただけだ!
・・・確かに相手の家にお泊りなんてしたことは何度かあるが、19や20になってお前らの価値観から生まれた風紀だ何だと言われる筋合いはねえ!
 それにお前らの教育が正しいと思ってるのか?単に自分の芸術作品が思いどおりに出来ていくのを楽しげに観察してるだけじゃねえのか?
常識的な範囲で楽しく付き合っている中高生なんて今時珍しくも何ともねえ!それを自分勝手に制限して何が楽しい?それで教育のつもりか?!
 晶子との楽しいひとときの手前、殴りかかりたいのを必至で堪えていると、突然晶子がフォークとナイフを置いて勢い良く立ち上がる。
その顔は・・・眉が吊り上り、唇を噛み締めた今まで見たことのない憤怒の表情だ。
視線こそあの主婦連のほうに向いてはいるが、間近で見る俺も恐怖を感じさせるに充分な表情だ。
今まで晶子が怒った顔なんて見たことがないから、余計に怖い。立とうとしても立てない。・・・腰が抜けたか?
 晶子はそのままずかずかと主婦連の席に向かい、何と手元に合ったコップの水を力いっぱい主婦連にぶちまける。
俺は声も出ない。俺なら兎も角、あんな荒っぽいことを晶子がしでかすなんて・・・。

「・・・さっきから聞いてれば・・・勝手なことばかりべらべらと・・・!」
「な、何なさるんですの?!」
「私と祐司さんは最近付き合い始めたばかりよ!ワイドショーや偏った番組を鵜呑みにして得た知識で、私達をネタにして勝手な噂話しないで頂戴!!」
「ゆ、祐司さん、ですって?まあ、ご夫婦みたい。」
「まだ言う気?!私と祐司さんの仲がどうだって貴方達には関係ないでしょ?!相手をどう呼んだって勝手でしょ?!私達は大学生よ!!
それなりに自制して行動できるわ!貴方達は貴方達でお手製の工芸品だけしっかり抱き締めて頬擦りでもしてなさい!!」

 主婦連は勿論、俺や他の客も声を失い、店にはクラシックの控えめなBGMが漂うだけになる。
晶子は小さく肩を上下にしながらプイッと向きを変えて、俺の方に戻って自分の席に座り、俯いて一つふう、と大きな溜息を吐く。
再び顔を上げると、さっきまでの鬼も裸足で逃げ出すような表情は何所へやら、何時もの晶子の表情に戻っている。・・・手品を見てるみたいだ。

「・・・ご、御免なさい。あんまりにも祐司さんの悪口が聞こえるもんだから、つい・・・。」
「い、いや、俺のことは別に良いけど・・・正直びっくりした。」
「私、一度怒ると無茶苦茶しちゃうんですよ。高校生のとき、担任の先生が私の友達の成績が学年最低だったことをネタにして
皆の前で侮辱したのが頭に来て、その先生の頭を力いっぱい花瓶で殴って病院送りにしちゃったし・・・。」
「・・・。」
「だって・・・友人だって好きな人だって、自分にとって大切な人を侮辱されるなんて許せないじゃないですか。だから・・・。」

 さっきの自分の「荒業」を思い出してか紅くなって俯く晶子。俺の口元から思わず笑みが零れる。

「俺も同じだよ。晶子がしなかったら、俺がやってたと思う。それより・・・俺は嬉しいよ。晶子が大切な人だからってことで怒ったってことは
・・・俺が晶子にとって大切な存在だっていうことが分かったから。」
「・・・祐司さん。ありがとう。」
「さ、馬鹿な集団は放っといて食べようぜ。昼からさらに忙しくなりそうだしな。」
「・・・ええ。」

 そう言ってフォークとナイフを再び手にした晶子の顔は・・・俺が大好きな何時もの晶子の顔だった。・・・ありがとう、晶子。
でも・・・晶子しなかったら俺がやろうとしたことをやったなんて、所詮は結果論でしかない。
俺は晶子と話をしながら食べてただけだった。「報復」のために立ち上がることすらしなかった・・・。
 晶子は俺が立ち上がって噂への「報復」を期待していたが、何時までもそうする気配もないし、耳障りな雑音を止めるのはもう自分しかない、と
追い詰めての行動だったかもしれない。
・・・結局俺は自分可愛さに誰かが行動してくれるのを待って、開けた小道が出来たところにこそこそと撤退を決め込むつもりだったんじゃないのか?
・・・卑怯な奴だ、俺は・・・。

 食事を食べ終わり、食後の飲み物が運ばれてきた。二人揃ってミルクティー。
コーヒーは朝にも飲んだし、フルーツ系や炭酸系は滅多に飲まない質だから、そうなると残りは紅茶しかない。
晶子が沸かした紅茶はストレートだけだから、ちょっとした冒険心でミルクティーを選んだ。
 あの主婦連はまだ何か言っているみたいだが、大して気にならない。気にしたって奴らを黙らせることは出来そうも無いから、放っておけば良い。
ゆっくりしたペースで紅茶を飲む俺と晶子の席に落ち着いた雰囲気が漂う。
この間、俺と晶子の間には会話はない。別に喧嘩をしたわけじゃない。倦怠期でもない。ただ晶子と向き合いながら紅茶を飲む。それだけで良い。

 −どれだけ時間が過ぎたか。晶子が1/3ほど紅茶が残ったカップを静かに皿に置いて、俺の顔を見ながら呟くように言う。

「この店に・・・何か思い出があるんですね?優子さんとの・・・。」

 以前なら顔を強張らせる名前が出ても俺は動揺することなく、あと一口程度紅茶が残ったカップを皿に置いて、
ひと呼吸間を置いてから頷いて言葉を滑り出させる。

「ああ・・・。俺が優子と付き合っていたとき、必ずこの店に朝食を食べに来てた・・・。」

 最後の部分には俺と優子が深い仲だったということが含まれている。晶子なら簡単に分かるだろう。

「そのとき必ず座ってた席が・・・丁度晶子の後ろの席なんだ。」
「そこに座れれば良かったんですけどね・・・。」
「・・・。」
「その席に座ることで祐司さんが少しでも楽になるなら・・・その方が良いですよ。」

 俺と晶子の間に沈黙の雲が現れ、直ぐに消えていく。
晶子が少し大きめにカップを傾ける。再びカップを置いてから、今は空席になっているその席を見ながら、思うが侭の言葉を流し続ける。

「いや・・・これで良かったんだ。あの席だったら俺は、晶子を優子の代役に仕立てて優子との思い出に浸ることしか出来なかったと思う・・・。」
「祐司さん・・・。」
「・・・もう終った絆の欠片を追いかけるより、新しい絆を作る方が良い・・・。俺はマスターと潤子さん、そして何より晶子からそれを教えられた・・・。」

 俺は残りの紅茶を飲み干して小さく溜息を吐く。チラッと腕時計を見ると1時はとっくに過ぎている。
少し長い休憩だが・・・これで過去の残像の一つが綺麗なセピア色のベールを被ったような気がする。

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