雨上がりの午後

Chapter 24 共なる日々の幕開け

written by Moonstone


 大学進学のためにこの街に単身住むようになって初めての年の終わりも近い。
通学に使う駅の周辺も電飾とクリスマスツリー、そしてクリスマスソングで彩られる。もうクリスマスは12月の殆どを占めるイベント期間と言って良い。
 クリスマスが近付くに連れて、外の冷気も強さを増す。朝起きるのがどんどん辛くなってくる。
店のクリスマスコンサートに向けた練習やアレンジのチェックで夜が遅くなって眠気が重なると、布団に包まっていたくなる。
 コンサートまで1週間たらずになった今日の朝もそうだ。
目覚ましが鳴って目をさましたは良いが、外の冷気が壁を通して染み込んだような冷気を感じて、反射的に布団に潜ってしまう。

プルルルルル・・・

 そのまままどろんでいると電話のコール音が冷気を振るわせる。
俺は手探りで上着を取ると、気合を入れて布団から出ると同時にそれを羽織って電話のあるテーブルへ向かう。
放っておいても何時までも鳴っていたりする。出会って最初の頃の井上を思い出す。まあ、あの頃との印象とはぜんぜん違うが・・・。

「・・・はい、安藤です・・・。」
「おはようございます。井上ですよ。」

 遅刻常習犯にならずに済んでいるのは、この井上のモーニングコールのお陰だ。
俺がある日大学に遅刻しそうになったと話したら、早速翌日から始まった。
俺と井上は朝始まる時間が違うことが多いが、俺の方が早くてもきっちり1時間前にこのコールが鳴り響く。眠そうな声が一度もないのは俺にとっては不思議だ。

「眠そうですね。また夜遅かったんですか?」
「ああ・・・。なかなか切りがつかなくてな。」
「体壊しちゃ駄目ですから、ちゃんと朝御飯食べて暖かくしてから大学へ行ってくださいね。」
「分かった・・・。ふぁ・・・。」
「私も2コマ目から行きますから、講義で寝てちゃ駄目ですよ。」
「寝てたら起こしてくれるか?」
「耳元で囁くのが良いですか?それとも・・・お目覚めのキス?」
「普通に揺すってくれれば良い。」
「ふふふ。寝てたらそうしますね。」

 そんな会話をしているうちに目も覚めてくる。布団から出るのが嫌だった冷気がひんやりと心地良くすら感じる。
それに・・・こんな軽口を叩けるようになった自分も不思議だ。
 会話を切り上げて電話を切ると、俺はパンをオーブンにセットしてポットの電源を入れてから手早く服を着替える。
今日大学に行けばコンサート前の最後の週末が待っている。その週末は店に泊り込んで音合わせをすることになっている。
それぞれのソロに加えてペアでは俺と井上、マスターと潤子さん、俺とマスター、俺と潤子さん、井上と潤子さん、
そして4人勢ぞろいの演奏曲の仕上がりを最終チェックするためだと言っていたが・・・俺が寝込んだときの頃があるだけに何となくそれだけとは思い難い。

 俺は午前中の専門科目2コマをやり過ごして3コマ目の法学の講義に赴く。勿論、智一も一緒だ。
思えば井上は講義の一覧表で教養課程を調べて俺を探し出したんだったな・・・。
あの時はそのストーカーまがいの執念深さに辟易したもんだが、今はすっかり演奏のパートナーに落ち着いちまったんだから、
世の中どうなるか分からないってのは本当だと思う。

「安藤さん。」

 横から俺を呼ぶ声がする。勿論それは井上だ。
今じゃ井上が俺の隣に座るのも当然のことのようになっている。全く何がどうなるか分からないものだ。

「あ、井上。」
「はいはい、お若い二人のために今すぐ詰めるから、ちょっと待って頂戴ね。」
「智一・・・。お前な・・・。」

 コントか何かの老人を思わせるような濁声を出してそそくさと奥に一人分詰める智一を見て、俺は苦笑いする。井上もくすくすと笑っている。
 本気で入れ込んでいて、上手く行くと思っていたデートの途中で他の男、あろうことか自分が良く知る人物−俺のことだ−が気になるからと
帰った相手なのに、智一は余所余所したり逆に再チャレンジさせろと執拗に迫るようなこともしない。
病み上がりの翌日、まだ諦めたわけじゃないし、再挑戦する体制を整えると言っていたが、今までにそんな様子は一度も見たことがない。
 ・・・やっぱり、内心では諦めているんだろうか?思い込んだらとことん突っ走る井上を自分の方に向けるのは難しいと分かっているのかもしれない。
だとしたら尚更、少なくとも表面上はこうして振舞える智一は俺よりずっと強いと思う。俺には絶対真似の出来ないことだ。

 暫くして講義が始まった。俺はノートを取りつつ暇を見つけては演奏する曲を頭の中で鳴らしてみたりする。
短期間で形にしたものが結構あるし曲数も多いから、こうした暗唱を繰り返して記憶を確実にしておかないといけない。
 ふと右腕に軽く突かれるような感触を感じる。視線だけ右を向くと、井上が少しだけ俺の方に向けて、シャーペンの先で何かを指している。
シャーペンの先を視線を動かして追うと、俺のノートの上にメモ用紙か何かの切れ端らしい紙があって、そこにはこう書かれてある。

今日、帰るの待っててくれませんか?

 授業中の手紙のやり取りなんて、高校の時以来だな・・・。
授業中に手紙のやり取りをしたのは、あの女、優子と同じクラスになった2年の時だ。
同じ学年には俺と優子が付き合っていたことはとっくに知られていたから、席替えの時、最初に決まったときは離れても、
ご丁寧にも直ぐ隣になるようにクラスの奴等に「配慮」されたから、その1年は必ず席が隣り合っていた。
 それで授業中には時々先生の目を盗んで手紙をやり取りしていた。
内容なんてそれこそ、帰りに買い物に付き合って、とか、今日は用事があるから先に帰る、とか他愛もないものだった。
でも、それが楽しかった。あの時は・・・。

 ・・・いけない。また記憶の海に埋没するところだった。
俺は井上から差し出されたその紙の切れ端をそっと取って、井上の書いたメッセージの下に返事を書いて再び自分のノートの隅の方に置く。
そこにはこう書いた。

今日って、これで終わりじゃないのか?

 事務的というか無愛想というか、そんな俺の返事に井上は再び紙にさらさらとシャーペンを走らせて再び俺の方に差し出し、
俺はさらに返事を書いて返すということを繰り返す。

前に休講になった分の補講が入ったんですよ。

じゃあ何処で待ち合わせる?

 縦に並んでいく俺と井上の字の違いが良く分かる。
比べてみると、習字をやっておくべきだったかと少し後悔する。

私は何処でも良いんですけど、安藤さんは何処に居ます?

生協しかないから、そこで雑誌でも立ち読みして時間潰すつもり。

じゃあ、講義が終わったら生協に行きますね。

O.K.。もし居なかったら、入り口辺りで待っててくれ。トイレくらいしかないけど。

分かりました。

 井上の了承で手紙のやり取りに区切りがつくと同時に、講師の声が聞こえてきた。
黒板を見ると、半分ほどが手紙のやり取りをする前と違っている。俺の意識は完全に講義から切り離されていた・・・。
居眠りした時と同じようで何処か違う、そう、かつて経験したものと同じ、楽しみに自ら埋没した感覚だ・・・。
 黒板と照らし合わせながら書いていない部分を急いでノートに取り始める。
ふと隣を見ると、井上も紙の切れ端ではなくてノートにシャーペンを走らせている。
「分かりました。」の返事で終わった俺と井上のやり取りを記した紙の切れ端をそっと手に取って、
シャーペンの芯を補充するときくらいしか開けないペンケースの中蓋を開けてそこに仕舞う。

 やがて講義が終わり、俺は井上と智一と一緒に講義室を出る。
智一は俺と同じくこの先講義はないから、普段なら此処で俺と井上は別行動になる。
実のところ、まだ一緒に帰ったことはない。やっぱり、智一にちょっと遠慮しているというか、負い目があるのもある。

「それじゃ、私は此処で・・・。」
「あれ?晶子ちゃんって今日はこれで終わりじゃないの?」
「今日は休講になった分の補講があるんですよ。」
「ふーん。よりによって週末前に押し込むなんて、気が利かないねえ。」

 智一は首を横に振りながら肩を竦めるジェスチャーをしてみせる。
大袈裟な気もするが、智一がするとその風貌から意外と様になる。俺がやっても多分こうは行かない。
だが、同時に少し胸にもやもやしたものを感じる。
・・・俺より親しげに話せることが、そして何より井上を名前で呼べることが引っかかっているんだ。
俺もそうすれば良いんだろう。でも、それにも引っかかるものを感じる。
 気さくに話したり名前で呼ぶのは、付き合っている間柄だけが出来るある種の特権だと俺は思っている。
俺はまだ井上と付き合っているわけじゃないから−まだ井上の告白に返事をしていないんだから−、それが出来ない。
智一も付き合ってはいないがそれが出来る。だから引っ掛かりを感じるんだろう。

 井上は手を振って小走りで文学部の方へ向かって行く。その手を振った相手は俺なんだろうか?・・・そんなことを考えてしまう。
胸に生じたもやもやは向こうをはっきり見えなくするから、余計な疑念を生むんだろう。
否、それより前に・・・疑う方に向かうことが癖になっているのかもしれない。

「さあて、俺達は帰るか。」
「・・・俺、今日は生協に寄って行く。」
「あ、そうか。じゃあ俺は先帰るわ。」

 智一はヒラヒラと手を振って帰って行く。俺は手を振り返してそのまま生協へ向かう。
智一が何も聞かないのは、俺が井上を待って一緒に帰るつもりだということを察したからだろうか?
俺と違って鋭い智一だから、多分そうだろう。それを思うとやっぱり今の井上との関係が後ろめたく感じる。
 何のことはない。俺も智一に負けじと−別に勝負事じゃないんだが−名前で呼んだりすれば良いわけだ。
恐らく井上も驚きはしても嫌とは思わないだろう。
どちらかの告白を受け入れて両想いが確認できてから付き合い始めて、仲が深まってから名前で呼び合う、
という形而上的なことに拘るのは、俺の頭が固い証拠だろうか?
 何時もながら込み合っている生協に入って、食料品売り場と並んで混雑する場所である雑誌コーナーの一角に陣取る。
普段は買わないキーボード関係の雑誌を広げて、俺は井上を待つことにする・・・。

 何冊目かの雑誌を読んでいると、軽く突かれるような感触が背中に伝わる。
振り向くと直ぐ後ろに井上が立っていた。

「・・・井上。」
「講義が終わったんで、約束どおり来ましたよ。」
「もう・・・そんな時間か。」

 時計を見ると確かに4コマ目の終了時間を過ぎている。
暇潰しのつもりが時間を忘れるほど読みふけっていたらしい。

「後ろに立ったら気付くかな、って思ったんですけど。」
「全然気付かなかった。」

 俺は半分ほど読んだ雑誌を畳んで元の場所に戻すと、井上と一緒にその場を離れる。
生協の中は相変わらずの混雑振りだが、食料品売り場は棚が殆ど空になっているから来た時より閑散としている。
時間が過ぎたことを実感する風景の切れ端だ。
 店の外には昼の面影はなくなっている。街灯が煌々と白色光を放ち、建物や木々が夕闇にシルエットを浮かべている
。暖房の効いた店内から急に冷気に晒されて、俺は思わず身を縮める。
 人通りがめっきり少なくなった通りを二人で歩いて行く。
出会ってからもう2ヶ月になろうというのに一緒に帰るのは初めて・・・否、2回目だ。
一月ほど前、井上の新しいレパートリーを探そうと、待ち合わせてCDショップへ行ってそのまま一緒に帰った。そしてその日、井上は俺に言ったんだ・・・。

俺のことが好きだ、って・・・。

 言い換えれば俺は、一月もの間、自分の態度を保留しているということだ。自分の気持ちが本当なのか分からないから、と言って・・・。
じゃあ、この一月で自分も気持ちが分かったんだろうか?分かろうとしただろうか?
・・・何もしていない。
月並みな言い方をすれば友達以上恋人未満、言い方を換えれば曖昧な関係のままにしている。
今の関係が心地良いのは間違いない。だが、理由はそれだけじゃない。
気持ちをはっきりさせる踏ん切りがついていないんだ。今になっても・・・。
あの告白はやっぱり大きな分岐点になったわけだ。

「泊り込んで練習なんて、クラブの合宿みたいですよね。」

 井上が話し掛けてくる。俺は慌てて意識を会話の方へ引き戻す。

「・・・そうだな。まあ、普段とは違う組み合わせもあるから、一度はやっておいた方が良いとは思う。」
「何時もは安藤さんと一緒だから、それ以外は実感が湧かないんですよ。」
「・・・だろうな。」

 俺はたまにマスターと潤子さんの演奏のバックに回ることもあるが、井上は「Fly me to the moon」以来、
ずっと俺とだけ一緒にステージに上がっている。
井上が俺以外の相手とペアを組むなんて、まあ、サックスは歌うのと似てるから必然的に潤子さんと組むことになるが、俺も実感が湧かない。
 井上が自分以外と一緒になる・・・。ステージの上じゃなくて別のところでそうなったら・・・。そう考えると胸の奥が激しくざわめき始める。
一月ほど前にも、そして今日3コマ目の講義が終わった後に感じたもやもやとは比較にならない激しさで蠢く。
 帰り道に目に入る、深まる闇に沈んでいく町の風景。そこに星のようにぱらぱらと浮かぶ家の明かりや街灯。
この季節この時間なら当たり前で普段なら目に映るだけで印象の欠片も残らない風景が、何処となく情感を醸し出しているように思う。
 かと言ってこれからのことに変な期待をしているわけじゃない。何と言うか・・・この機会に決断を迫られるような気がする。
井上が直接迫るとは−妖しい言い回しだが−あまり思えないが、一つ屋根の下で過ごすという状況がそうさせそうな・・・。

 交わす会話はやはりと言うか、目前に迫った「合宿」のことだ。
井上は合宿の経験が無いらしくて、その楽しみや期待もあるんだろう。それに音楽に携わることが本当に楽しいと思っているみたいだ。
それはそうだろう。中学以来能動的に音楽に触れることが無かった自分が、この二月あまりのうちに自分の歌が店の一部になって、
新しく選んだ歌がマスターと潤子さんにも好評を受けて、今度はコンサートという大舞台にメンバーの一人として出るまでになったんだから。
もっと歌いたい、もっと上手くなりたいという気持ちでいっぱいなんだろう。
 高校以来遠ざかっているとはいえ、俺は学園祭の他にライブの経験もかなりあるし、ライブ前には音合わせということで
1日2日学校に泊り込んだこともあるから、それほど緊張感は無い。
言ってみればある意味擦れてしまったんだが、井上を見ていると、バンドを始めた頃の緊張感や高揚感を思い出す。
井上のやる気を挫かないためにも、俺は他所事など考えてないでしっかりしてなきゃ駄目だな・・・。

「安藤さんはバンドやってた時に合宿とかしたんですか?」
「学校でやる以外のライブの時は・・・時々な。体育館に寝泊りしてた。夕飯は家庭科室で作ったり、夏場は屋上で飯盒炊爨もしたか・・・。」
「結構やんちゃだったんですね。」
「5人居たしな。屋上で飯盒炊爨やったときは、火事に間違われて騒ぎになったこともある。」
「怒られたりしませんでした?」
「用務員の人と仲良かったからな。火災報知器の誤作動ってことで誤魔化してもらったよ。」

 今思うと滅茶苦茶なことをやったもんだ。だが、あの時は本当に楽しかった・・・。
バンドの奴らとは散り散りになっちまったが、電話番号をやり取りし合って成人式に合おうと約束している。
だが、あいつらも俺があの女、優子と別れたこと、そして井上と出会ったことは話していない。
 同じ時間と場所を共有していないとこうして少しずつ世界が違っていくんだろう・・・。
だから・・・、優子は俺から離れていったんだろうか・・・。

 そうこうしているうちに電車が駅に着いた。俺と井上は電車を下りて一緒に自転車置き場に向かう。
これから俺の家、井上の家の順で立ち寄って、纏めた荷物を持ってバイトに向かう手筈になっている。
 自転車と言えば、初めて一緒に帰った時には井上と二人乗りをしたんだったな・・・。
今日は井上も自転車に乗って来ている。荷物を抱えて二人乗りはきついからその方が良いんだが・・・ちょっと残念な気もする・・・って、
何を期待してるんだ?俺は・・・。

「私、向こうの方なんですよ。取ってきますね。」

 置いた時間が違うせいか、俺と井上の自転車の位置は随分離れているようだ。
終日混み合うこの自転車置き場で、隣り合わせるなんてかなり難しい話だから仕方ない。

「じゃあ・・・先に井上のところへ行くか。」
「え?待ち合わせても・・・。」
「最近物騒だから、その方が良いんじゃないかって思って。」

 この自転車置き場には照明こそあるが警備がいるわけじゃない。
広大な敷地の中に自転車がぎっしり詰まっているから、遠くで何かあっても判らないかもしれない。
考えたくないが・・・考えないといけないのが今の世の中だ。
 井上がちょっと前屈みになって、上目遣いに俺を見る。
・・・井上のこの顔は苦手だ。本音を言って、と優しく、しかもじっくりと迫られているようで・・・。

「・・・心配ですか?」
「・・・心配じゃなかったら・・・何も言わない。」
「ありがとう。・・・嬉しいです。」

 井上は目を細めて微笑む。
心底嬉しいと言っているようなその顔を見て、俺の胸がズキッと疼く。この笑顔は・・・反則だ。

 自転車を取り出した俺と井上は、俺の家、井上の家と順に立ち寄って荷物を持ち出して、そのまま自転車で店に向かう。
十分歩ける距離だから普段は専ら歩きなんだが、たまにはこういうのも良い。
高校時代のバンドの「合宿」も、こんな風に自転車に楽器やら着替えやら詰め込んで、妙に浮かれ気分で学校へ向かったものだ。

そう言えば・・・
・・・優子には冷やかしの声を受けながら公衆電話をかけていたな・・・。

 芋蔓のように記憶が引き出されてくる。まだ・・・消えてはいないらしい。
だか、井上は消えるはずが無いから消そうと思わない方が良いと言った。
今は思い出すのもさほど苦にはならない。このまま心のアルバムの片隅に収まるまで、そのままにしておけば・・・良いのかも知れない。

 店の裏に自転車を置いてから、俺と井上は荷物を持って今日は裏口から入る。
昨日マスターに言われたんだが、大きなバッグを抱えて正面から入ると客から何事かと思われかねないから、当然ともいえる。
 裏口は台所に通じていて、そこから廊下をまっすぐ進むと俺が使う更衣室を通り過ぎて、店のキッチンに辿り着く。
荷物は一先ず更衣室のドアの前に置いておくことにする。

「「こんばんは。」」
「あら、随分早いわね。」

 今日の出迎えは潤子さんだ。
俺が到着するときは大抵、正面でマスターがコーヒーを沸かしているから、潤子さんが出迎えることはあまり無い。
客席の方からソプラノサックスの音が聞こえてくる。マスターはステージで演奏中か・・・。

「荷物はどうしたの?」
「更衣室のドアの前に置いておきました。」
「じゃあ、マスターが戻って来たら部屋に案内するから、ちょっと待っててね。」
「俺は先に着替えてきます。」
「私は店に出ます。」

 井上はエプロンをキッチンの隅にかけてあるから、そのまま店に下りれば良い。
俺は踵を返して更衣室へ向かう。二人分の荷物がドアの前に鎮座しているが、それをちょっと脇に退けて中に入る。
この辺は何時もと大して変わりない。何時もと変わるのは店が終わってからだろう・・・。

 着替えを終えて更衣室から出て店に下りると、演奏を終えたマスターが俺に背を向ける形でコーヒーを沸かしていた。
潤子さんは食器を洗っている。井上の姿は見えないが、客席の方へ行っているんだろう。

「マスター。」
「おお、待たせたな。井上さんが戻って来たら潤子に部屋に案内してもらおう。」
「注文を持って行ったところだから、直ぐ戻ってくると思うわ。」

 そう言っているうちに井上がトレイを抱えて戻って来た。

「4番テーブルに運び終わりました。」
「お疲れ様。それじゃ私が部屋へ案内するから、あなた、店の方お願いね。」
「ああ、分かった。」
「私について来てね。」

 俺と井上は潤子さんに続いて店の奥に入る。
更衣室のドアの脇にどけておいた荷物をそれぞれ拾い、廊下を進んで台所に入り、そのまま奥に進んでいく。
此処からもう俺にとって未知の世界だ。

「部屋は2階なのよ。足元に注意してね。」

 ちょっと傾斜が強い階段を潤子さんに続いて昇って行く。
何だか・・・旅館で部屋に案内されるみたいだ。着替えや洗面用具を持ってるし・・・。
 一度方向転換して階段を昇り続けると、6畳間位のスペースに出る。
そこに面してドアが2つ、さらに左手に向かって廊下が伸びている。思いの他広いようだ。
でも、マスターと潤子さんの二人暮らしで、こんなに部屋が必要なんだろうかとも思う。
余計なお世話と言えばそれまでだが、やっぱりちょっと考えてしまう。

「晶子ちゃんはこの正面の部屋で・・・、祐司君は廊下を真っ直ぐ行った突き当りの部屋を使ってね。」

 俺と井上の部屋は廊下の長さくらいは離れているようだ。
てっきりマスターが−もしかしたら潤子さんも−部屋を隣にするのかと思ったが・・・。べ、別に期待していたわけじゃない。本当だ。

「鍵は無いから安心してね。それからお布団も敷いてあるし。」
「?」
「私は先にお店に戻るから、荷物を置いたら降りて来てね。夕飯用意しておくから。」

 階段を下りていく潤子さんが悪戯っぽい笑みを浮かべているように見えたような・・・。
でも、どうして俺と井上をくっつけようとするんだろう?
そりゃ前みたいに俺が一方的に井上に悪感情を持ってて、ステージやバイトそのものに支障が出るかもしれないというなら分かるが・・・。

「安藤さん、どうしたんですか?」
「・・・あ、いや、何でもない。」

 井上が俺の顔を不安げに覗いている。しまった、また思考に没頭していたらしい。

「具合悪くなったら無理しないで良いんですよ。」
「大丈夫。そんなことないから・・・。荷物置いて来る。」

 俺はどうにか取り繕って潤子さんに教えられた部屋へ向かう。
まだ「合宿」は始まったばかりなのに・・・こんなことやってて大丈夫なんだろうか?
俺は・・・どうしたいんだ?井上に・・・どうして欲しいんだ?

まだ・・・俺には判らない。
否・・・まだ決めていない、と言うべきか・・・。


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