雨上がりの午後

Chapter 19 待ち焦がれた時は流れ行く

written by Moonstone


 蛍光燈が相変わらず雑然とした室内を照らしている。ベッドから見詰める風景は何時もと変わらない。
変わらない筈なのに、昨日までとは全く別の世界に居るような気さえする。
今までこの部屋では一人が当たり前だった。今もその「一人」のはずなのに、この違いは何だろう?
 部屋に俺以外の人の気配はない。
井上はあれから暫く後に俺が言ったとおりにバイトに出掛けた。
気が変わったから行くな、とも言えず、時が止まる筈もなく、律義な井上は名残惜しそうに俺から離れた。
「行って来ますね」と言って俺に背を向けて出て行くところを見て、俺は思わず本当に引き止めそうになった。
 ドアが閉まって足音が遠ざかって聞こえなくなるまで、俺はずっとドアの方を見詰めていた。
暫くぼんやりと天井を眺めたり寝返りを打ったりしてみたが、どうにも寝付けない。
一人で退屈していれば寝付けるだろうと思っていたが、そうでもないらしい。
 音が無いから駄目なんだ、と思ってCDをかけてみたが、音が耳を空しく素通りしていく。
考えてみれば普段寝る時にCDをかけたりしない。今鳴っているCDは時折通り過ぎる車の走行音と大して変わらない。
 俺の家はベッドやテレビ、ステレオといったものが詰め込まれた8畳くらいのリビングと隣接するダイニング、
そしてここからは見えないが奥にある風呂場とトイレという構成だ。
楽器とか箪笥とかが詰め込まれたこの部屋は今まではむしろ狭いと思っていた。
だけど今は・・・

「こんなに・・・広かったっけ・・・?」

 呟きが俺の口から漏れる。
物が多くて雑然としているのは変わり無い。模様替えをしてすっきりさせたわけでもない。
なのに、どうして同じ部屋がこんなにだだっ広くて静かに感じるんだ?
昨日熱が高かった時は病気になると人恋しくなるっていう気持ちが実感できた。
だが、熱がそれなりに下がった今感じるこの気持ちは・・・人恋しさだけでもなくて・・・病気だからというわけじゃない・・・。
 ベッドの横に置かれた椅子。そこにはついさっきまで井上が座っていた。
不安そうに俺を見詰めたり、俺に薬を飲ませてくれたり、お粥を食べる様子を嬉しそうに見たり、俺に覆い被さるように密着したり・・・。
その椅子に他の誰かが座ったら、今の気持ちは薄らぐんだろうか?

潤子さん・・・優子・・・マスター−ちょっと想像し辛いが−そして親・・・。

 色々想像してみるが、一番理想に近い潤子さんでも何か違和感を感じる。
ジグソーパズルでよく似てるんだけど違うパーツで嵌まらない・・・そんな感じだ。

「井上・・・。」

 思わず井上の名を口にする。
昼間も買い物に出てこの椅子が空いたが、あの時はこんな気持ちは感じなかった。
それはきっと・・・目的がはっきりしていて直ぐに帰って来るという確信があったから・・・。
今度だってバイトに行くっていう外出の目的ははっきりしている。だが・・・帰って来るかどうかは判らない。
バイトが終わったら、そのまま自分の家に戻るかもしれない。
そう思うと、目の前にある普段と何の変わりも無いこの部屋が、余計に広くて寂しく感じる。
 帰って来る・・・。潤子さんが電話で井上にそう言うと言っていた。
あの時は井上と俺が一緒に暮らしてるような言われ方だったし、そんなイメージが一瞬頭を過ぎったからかなり動揺した。
だけど今は帰って来て欲しいとしか思えない。
 俺は布団を頭まで被って壁の方を向く。
ダイニングの方を見ていると、ますますこの部屋が広すぎて、自分が孤独としか思えない。
もうこの気持ちは単なる人恋しさじゃない。・・・井上でしか、この気持ちは消えないんだろう・・・。
 こんな気持ちになるって判っていたら・・・責任感なんて仰々しいものを出してまで、井上をバイトに行かせなかっただろう。
井上が玄関へ向かう時、引き止めていただろう。でも・・・もう遅い。

帰って来て欲しい・・・。






「−どうしてるでしょう・・・。」
「寂しがって泣き疲れて寝てるぞ、きっと。」
「まさか・・・。」

 何処からか聞き覚えのある声がする。・・・誰だ?複数の足音が不規則に絡み合って聞こえる。

「あ、電気は点いてますね。起きてるのかな?」

 ・・・井上?!

「祐司君、玄関で待ってたりして。」
「あ、あり得るな。『お帰り、待ってたんだよ』って。」
「もう・・・、からかわないで下さいよ。」

 間違いない。井上だ。マスターと潤子さんも居るみたいだが帰って来てくれたんだ・・・。
何時の間にか寝ていたらしいが、即座に目が覚めて俺は玄関の方を向く。
ガチャッと鍵が開く音に続いてドアが開く。現れたのは・・・やっぱり井上だ。
 そして今頃になって思い出す。井上が出掛ける前に鍵は何処かと俺に尋ねたことを。
そうだ、井上はバイトが終わったら此処に帰って来るつもりだったんだ。
そんなこともすっかり忘れる程、俺は「一人」に苦しんでいたわけか・・・。何とも情けない話だ。だが、それだけ「一人」に怯えていたんだな、俺は・・・。

「ただいまぁ。・・・あ、起こしちゃいましたか?」
「・・・いや、良いよ。」
「御免なさい、遅くなっちゃって。思ったより時間が掛かっちゃって。」

 井上はコートを脱いで空いていた「指定席」に座る。その瞬間、心に空いたスペースにパーツがぴったり嵌まる。
欠けた心のパーツはやっぱり井上だった。何かを横に置いたようだが、今はそんなことはどうでも良い。

「おっと、早速二人だけの世界に突入か?やってくれるねぇ。」
「茶化しちゃ駄目よ。こういうときは黙って見てないと。」

 マスターと潤子さんの声で俺と井上ははっと我に帰ると、にやにやしているマスターと何故か嬉しそうな潤子さんが井上の背後に居るのに気付く。
反射的に振り返った井上は頬を少し紅く染めて俯く。

「マスター、潤子さん。どうして此処に?」
「断っておくが、別に見物に来たわけじゃないぞ。井上さんを送り届けたんだ 。一人じゃ何かと物騒だしな。」
「その前に晶子ちゃんの家に寄ってきたのよ。荷物を纏めるためにね。」
「?荷物って・・・?」
「着替えとか色々よ。」

 俺は思わず体を起こして井上の横を見る。出掛ける時には確かになかったボストンバッグが置いてある。

「どうして・・・。」
「どうしても何も、君の看病以外に何があるんだ?」
「昨日は駆け込んでそのままだったって言うから、泊り込むなら着替えとか持って行ったらって勧めたのは私だけどね。」

 ・・・潤子さんまで嗾(けしか)ける側に回るとは思わなかった。だが、不思議と嫌じゃない。俺は照れ隠しに頭を掻く。
潤子さんが井上の横に来て、少し屈み気味に俺の顔を見る。
潤子さんをこんなに間近で見るのは初めてだ。ちょっと緊張してしまう。

「どう?祐司君。具合の方は。」
「まだちょっと熱っぽいですけど、昨日よりはずっと良くなりました。」
「そう。どれどれ・・・。」

 潤子さんは俺の額に手を当てる。ひんやりした感触に俺の緊張は俄かに強まる。

「確かに熱いわね・・・。これじゃ確かにバイトなんて無理だわ。」
「・・・もしかして仮病だと思ってたとか。」
「そんなことはないけど、電話で聞いただけだからどんなものかって思ってね。」
「安藤さん。寝てないとまたぶり返しますよ。」

 井上が俺と潤子さんの間に割り込むように入ってきて、俺の両肩を少し強めに押す。
俺が横になると、井上は直ぐに布団を被せて、何時ものように裾を肩口まで引っ張り上げる。
その動きがちょっと荒っぽいというか、怒っているような感じだ。
 そして潤子さんの方を向く。
擬音を付けるなら「くるっ」ではなくて「きっ」の方がぴったりのような気がする。少し眉が傾いているし・・・。

「私がちゃんと看病しますから。」
「ふふっ、そうね。その方が祐司君も嬉しいだろうし。」
「・・・。」

 視線を落とす井上を潤子さんは微笑んで見詰める。からかってた・・・否、井上の出方を試したような感じだ。
マスターはその後ろでしてやったりという表情をしている。

「じゃあ祐司君。私達はこれで失礼するわね。」
「あ、どうも。」
「明日は店も休みだし、ま、ごゆっくりな。」

 ごゆっくり・・・って?!マスター!言葉の使い方間違ってるぞ!
俺は思わず身体を起こしてマスターに尋ねる。

「お、お大事にじゃないんですか?」
「ん?こういう場合はごゆっくり、の方がぴったりだろ?なあ、潤子。」
「ええ、確かにそうね。」

 潤子さんまで・・・。昨日のマスターの爆弾発言じゃないが、俺と井上を唆してやしないか?
昨日のはストレートすぎたせいか、潤子さんがマスターに爆弾を炸裂させたが、今日はアシストする側に回ってしまった。
そう言えばさっき、井上に着替えを持っていくように勧めたって言ってたか・・・。
俺と井上が親密になる事を期待してるのは、やっぱりマスターも潤子さんも同じってことか・・・。

 マスターと潤子さんが出て行くのを井上が見送りに行く。俺はベッドに横になったまま様子を見る。
ドアを開けたところで何やら潤子さんが井上に耳打ちする。ばっと潤子さんの方を向いた井上は戸惑っているように見える。また何か唆されたんだろうか?
 ドアがゆっくり閉まって足音が聞こえなくなってから、鍵とドアチェーンを施して井上が戻ってきた。
椅子に座ってじっと俺を見詰める。俺も井上をじっと見詰める。
さっきの問題発言の余韻が在るだけに、何となく気まずいというか、切り出し辛い。

「・・・さっき、何て言われた?」
「まあ・・・昨日とよく似たことですよ。」

 少しはにかむような笑みを浮かべながら井上は答える。昨日のこともあるから何を言われたかは大凡察しはつく。
以前の俺なら「都合の良い女」くらいにしか思わなかっただろうし、唆されてもまったくの他人事として片付けられただろう。だが、今は・・・。
 再び沈黙が部屋に立ち込める。見詰め合ったまま時間だけがじりじりと流れていく。
退屈じゃないし、気まずくもない。ただ、昨日とは何処となく雰囲気が違う・・・。
昨日は来てくれるなんて想像もしなかったし、考えるどころじゃなかったが、今日は井上が泊るという明確な事実がある・・・。
 この部屋に女が泊るのはあの女、優子以来だ。
その優子も数回入った中で泊っていったのは半分もないし、その度に結構緊張したものだ。
何故なら泊っていくというのは寝たい−勿論二通りの意味がある−という暗黙の意思表示でもあったからだ。
 それを考えると、泊らなくなってから少しして俺との仲がぎくしゃくし始めたのは、或る意味気持ちが離れ始めているというサインだったのかもしれない。
・・・否、あの女のことはどうでも良いが、そういう経験が重なったせいか、井上が止まるということで妙な気分を感じる。
逆上(のぼ)せるのは熱のせいだけにしておきたいんだが・・・。

「何か・・・食べます?」

 井上が先に切り出す。
そう言えば井上がバイトに行ってから何時の間にか寝てたし、本来なら店で夕食を食べている時間にも何も食べていない。
急に空腹を感じ始める。空腹を感じることなんて久しぶりのように思える。

「ん・・・そうする。」
「どうします?お粥より昨日貰った食べ物の方が良いですか?」
「・・・お粥も食べたい。」

 空腹の度合いから考えると多分昼過ぎよりもっと食べられると思う。
熱はあってももう食欲には影響ない程度に下がっているし、昨日貰った食べ物も店の余りものなら潤子さんのお手製だろうから味の方は心配ない。
ただ・・・昼過ぎに食べたあのお粥が無性に食べたい。お粥がないならあまり食べたいとは思わない。

「お粥・・・って、昼に食べたあれですか?」
「・・・そう。」
「普通の御飯が食べられるなら、そっちでも良いんですけど・・・。」
「・・・お粥の方が食べたい。」

 自分でも驚くほど正直に言う。すると井上は小さく頷いて微笑む。

「じゃあ、お粥も作りますね。」
「ん・・・。」

 食べたいと思っている割にはちょっと素っ気無いと思う。だが、お粥が食べたい、と率直に言ったことが今になって照れくさく感じる。
井上に甘えるのは今に始まったことじゃないんだが、甘えることに慣れていないせいかもしれない。
俺にしてみれば甘え上手というのは変に思うが・・・。
 井上は席を立っていそいそと台所へ向かう。その足取りが妙に軽く見えるのは果たして気のせいか、俺の思い上がりか・・・。
何にしても井上のお粥がまた食べられるのは嬉しいし、早く治したいと思う。これ以上、井上に迷惑を掛けたくない・・・。

 暫くして解凍を済ませた魚の照焼きと茹で野菜に加えて、土鍋に入ったお粥が運ばれてきた。
膝に乗った盆がちょっと重いが今は全然苦にならない。
早速俺は土鍋の蓋を開ける。封じられていた白い湯気が塊となって飛び出し、中央に朱色の梅肉が際立つ白い柔らかい食べ物が見える。

「じゃあ・・・いただきます。」
「はい、どうぞ。熱いから気を付けて下さいね。」

 真っ先に手を伸ばしたのは言うまでもなく、お粥を掬う為のレンゲだ。
白い平面を崩すのはちょっと惜しい気もするが、レンゲを差し入れて一口分を掬い、立ち上る湯気に数回息を吹きかけて口に入れる。

「・・・美味いな、やっぱり。」
「そうですか?味は変えてないつもりですけど・・・。」
「・・・否、美味い。」

 薄い塩味に梅肉から染み出した微かな酸味。これは昼間のものと変わらない。
だが、いや、だからこそ美味いんだと思う。
自分が食べたいと思って作ってもらったものが、味わいたかった味を持っていたから・・・。
 熱がまだ残っている割には食は進む。
潤子さんお手製の照焼きも勿論美味いが、やっぱり既に半分以上なくなったお粥の力が大きい。量から考えても、お粥の方が減り具合が早い。

「・・・ねえ、安藤さん。」
「ん?」
「食べさせてあげましょうか?」

 俺は思わず噴き出しそうになって寸前で口を押さえる。
井上の目は冗談を言っている様子じゃない。何を期待しているのか輝いているようにすら思える。
あ、実際期待してるのか・・・。

「じ、自分で食べられるから良い・・・。」
「これも看病のうちですよ。普段だと恥ずかしくてやろうと思ってもなかなか出来ないですけどね。」

 じゃあ、前々からやりたいと思ってたのか?
戸惑っていると井上は俺の手からレンゲを半ば奪い取る。この場合、看病は名目にすぎないようだ。
 井上はレンゲでお粥を掬うと、ご丁寧にも立ち上る湯気を数回吹いてから差し出す。
こういうシーンは漫画か小説くらいのものかと思っていたが、まさか自分がその立場になるとは・・・。

「はい、どうぞ。」
「・・・。」
「早く食べないと冷めちゃいますよ。」

 輝く井上の瞳から無言の圧力を感じる−威圧的ではないが−。
全身が再び熱くなるのを感じながら、俺は口を開けてレンゲに顔を近付ける。
するとレンゲの先がそっと口に差し込まれる。
俺が反射的に口を閉じるとゆっくりと傾けられて、温かいお粥が口の中に注ぎ込まれて来る。
 一口分のお粥が口に含まれたところで、レンゲが口からそっと引き抜かれる。
俺は息と一緒にお粥を飲み込む。とても味わうどころじゃない。

「こういうのって、看病らしいですよね。」
「・・・そうだな。」
「あ、怒ってます?」
「否・・・照れくさいだけ。」

 今までこうしたことがないのもあるだろうが−あの女ともしていない−、正直言ってこういうのは照れくさい。井上はどうなんだろう?

「井上は・・・照れくさくないのか?」
「まあ、ちょっと照れくさいですけど・・・やってみたい、って気持ちの方が強いですね。」
「そ、そう・・・。」

 やっぱりこの辺り、井上と俺は違う。
俺もあの女、優子と付き合っていた時一度やってみたいと思ったことはあるが、どうしても切り出せなかった。
理由は言うまでもない。照れくさかったからだ。
 一度すれば満足するかと思いきや、井上はさらにお粥を掬ってきっちり数回湯気を軽く吹き飛ばしてから俺の口に近付ける。
どうやら一回したら満足というわけではないらしい。

「・・・まだ?」
「一回だけじゃ看病にならないでしょ?」

 観念した俺はおかずを適当に割り込ませながら、井上にお粥を食べさせてもらう。
お粥が乗ったレンゲが差し出されるのも次から次へじゃなくて、適度に間隔を空けられるから食べるのを慌てる必要はない。
単に自分の欲求を満たしたいがためにやっているんじゃないんだと思うと、やっぱり嬉しい。
そして、そんな心遣いを素直に受け止められていることも嬉しく思う。
 災い転じて福と為る・・・。悪い時には悪いことばかり続くものだと思っていたが、意外にそうでもないようだ。
もっとも俺の場合、あの女にいきなり別れを告げられたことはまだしも、それに続いた井上との出会いは自分で勝手に災難と思い込んでいただけなんだが・・・。

 食事が終わって再び横になった俺は、井上と一緒にCDを聞く。
一人で居た時は車の走行音と同レベルの右から左へ筒抜けていく「音」の羅列にしか感じられなかったが、今は違う。ちゃんと「曲」として聞こえる。
 今聞いているCDは、今度レパートリーに加える「THE GATES OF LOVE」のある『LIME PIE』で、俺の持っているものだ。
井上も着替えとか洗面用具は持ってきたが、CDまで持っていこうとは思わなかったらしい。
まあ、看病しに行くのに自分の「暇潰し」の道具を持って行く人間もそうそう居ないだろうが。

 4曲目の「COME AND GO WITH ME」が流れ始める。
井上は手に持った歌詞カードを追いながら口ずさみ、ハネたリズムに合わせて控えめに身体を揺らす。
レパートリーの候補曲じゃないが、井上は結構気に入っているようだ。
深夜に近いこともあってか控えめな音量で編まれる歌声が、子守り歌のように聞こえる。
 ふと井上が俺の方を向く。歌いながら柔らかい微笑みを浮かべ、そのまま俺の方と歌詞に視線を交互に移しながら歌い続ける。
・・・井上も子守り歌代りに思っているみたいだ。
得意のあの微笑みといい、熱に魘された俺をあやした−実際そんな感じだった−ことといい、俺がガキで井上が母親というイメージがぴったり当て嵌まる。
情けない気もするが、今は病気だからまあ良いか・・・と思ったりもする。投遣りな気分というより、浸っているという感じだ。

 曲は「CATALINA RAIN」を経てレパートリー候補曲の「THE GATES OF LOVE」に移る。
井上は片方の手を胸に当てて、時々微かに首を振りながら歌声を紡ぐ。本物の歌手みたいな情感たっぷりの歌い方だ。
だが、少しも嫌みとかわざとらしいとかは思わない。歌い方を変えたのは、勿論意味があってのことだと思うが・・・。
 CDを一緒に探した日にCDに合わせて歌うのを聴いた時より、かなり上手くなっているように思う。
CDと歌声とのずれは殆ど感じられないくらいだ。あれから俺とすれ違いがあった間も練習してたんだろうか?

 そして曲は最後の「PRECIOUS MEMORY」に移る。男女混成のコーラスがあるこの曲もまた意味深というか・・・。タイトルからしてそうだ。
今の俺にはまだあの記憶をそう思えるほど気持ちの整理は完了していない。
だが、井上はその歌詞に乗せて「それ以上のものが必要なのよ」と仄めかして、否、語り掛けているように感じる。
 熱が残るこの頭には洗脳のような効果がありそうだ。まあ、それならそれでも良い。あんな記憶に振り回されるのは俺だってもう御免だ。
剥がれ落ちた幸せのペンキの欠片を見てあの色は良かった、と嘆いたところで、再び同じ色で塗り直せることは期待出来るないし、期待する気もない。
もっと奇麗な色で上塗りできるならその方が良いだろう。

 ・・・こんなことを思うこと自体、井上の歌に洗脳されかかっている証拠かもしれない。
視界がぼやけてきた・・・。井上の歌声が頭に溶け込んで来る。
腹が膨れたのもあるんだろうが、昨日熱で気を失った時とは違って、ずっと気分が良い・・・。
視界も意識も歌声が漂う白の中に溶け込んで行く・・・。

Fade out...


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