雨上がりの午後

Chapter 18 愛しさ触れ合う時間

written by Moonstone


 時間は何時になくゆっくりと流れていく。
レースのカーテンだけ閉じられた窓から秋の名残を思わせる柔らかい光が時々まどろみを誘う。
熱冷ましが効いてきたのか、全身を包んでいた倦怠感もかなり和らいで来たように思う。呼吸や脈拍もかなり落着いてきたのが自分でも分かる。
 井上はあれからずっと自分の家に帰らずに俺の傍に居てくれている。
外へ出たのは、米が無いのに気付いて−何せこのところ御飯を炊いた記憶が無い−慌てて他の食材と併せて2kgの米を買いに出た時くらいだ。
代金は勿論俺が出した。看病してもらって金まで払わせるわけにはいかない。
 そこそこ食欲が出てきた昼過ぎに、井上がそのお粥を作ってくれることになった。
湯を沸かす時くらいにしか使わないガスコンロに髪を纏めた井上が立って調理をする様子を、俺はベッドからぼんやりと眺める。
調理をしているところはバイトでも見るし、月曜の練習が終わった後でも見る。だが、今日は何だか特別な印象を感じる。

「もうちょっとで出来ますからね。」

 井上が俺の方を向く。俺が黙って頷くと、井上は再び土鍋の方へ向かう。
その動きに合わせて束ねた髪が左右に振れる。バイトでは大抵束ねているからその動きも見慣れている筈なんだが・・・何だか妙に引き付けられるものがある。

自分の家だから、だろうか・・・?

 あの女、優子がこの家に来たのは数えるほどしかない。
外で会っていたのもあるし、優子があまり料理が得意じゃなかったこともあって−それでも俺よりは遥かにましなのは言うまでもない−、
来た時も食事は外へ出ていた。
住人の俺ですら滅多に立たないキッチンに誰かが立って何かを作っている、というのは、それだけで魅力に映るんだろうか?
 もしかすると、料理が出来るっていうことは男であれ女であれ魅力になるのかもしれない。
男女同権だの家事の分担だのと妙な理屈を捏ね回す奴は多いが、大抵そういう奴は自分が相手の為に何かをするのが嫌で、相手が自分にして欲しいだけだ。
・・・そう、俺みたいに。

「はい、出来ましたよ。」

 井上が土鍋を盆に乗せて俺の方へ来る。
土鍋にしろ盆にしろ、一人暮らしを始めるにあたって親に一通り揃えてもらったんだが、今まで一度も使われずにお蔵入りになっていた。
井上が居なかったら今度引っ越すまでそのままだっただろう。
 俺はゆっくりと上体を起こす。まだ普段どおりとはいかないが、自力で起きれるようになっただけましというものだ。

「熱いから気を付けて下さいね。」
「ああ、分かった。」

 井上は上体を起こした俺のの太股の辺りに盆を乗せる。
蓋を開けると封じられていた白い湯気がぼわっと立ち込める。中にはその中央に紅いもの−梅肉だ−が浮かぶ一様に白い表面のお粥があった。
添えられたレンゲ−これも使ったことがなかった−を手に取って一口掬って口へ運ぶ。
ほんのり塩味があってその中に梅干しの酸味が微かに混じっている。

「・・・美味いな、これ。」

 思わず感想が口を突いて出る。井上が少し照れたような、でも嬉しそうな微笑みを浮かべる。
それを見て・・・俺も微笑む。微笑みも感染(うつ)るんだろうか・・・?
 雑炊ならまだしも、お粥なんて食べた覚えが無い。
お粥ってものは米を炊く時に水の分量が多すぎて、原形を留めないほどにぐちゃぐちゃになった、味も素っ気もないものだと思っていた。
だが、このお粥は不思議と美味い。控えめな塩味と梅肉から染み出した仄かな酸味くらいが加わるだけで、こんなに美味いと感じるものなんだろうか・・・?
 1日ぶりにものを食べるせいもあるかもしれない。
だけど、空になった胃袋から染み渡るのはお粥の旨味や熱だけじゃないように思う。

「昨日は私が来るまで何も食べてなかったんですか?」
「ああ、何も食べてない。」
「あれだけ熱があったんじゃ無理もないですね。」
「食べるってこと自体、思い付きもしなかった・・・。」

 熱で朦朧とする中、頭にあったのは井上が智一とデートに出掛けたことだけだった・・・なんてとても言えない。
昨日見舞い(?)に来たマスターは、俺がショックで寝込んだようなことを言ったが、実際そんなようなものだ。
 出来立てならではの盛んな湯気を立ち上らせるお粥を一匙ずつ救って、数回息を吹きかけて口に入れる。
俺は脂っこいものが好きな方だから、普段ならこういうものは味が薄いと思う筈だ。
だが、今日は不思議と程良く感じる。病気になって味覚が変わったんだろうか?それとも・・・。

 最初は食べきれるか不安だったが、何時の間にか一人分の土鍋は空になった。レンゲを鍋の中に入れて蓋を閉める。
物足りなくも多すぎでもない、丁度良いくらいの分量だった。井上はこういう事が分かるんだろうか?

「・・・ご馳走様。美味かった。」
「良かった。もう大丈夫みたいですね。」

 俺の中に小さな暗雲が生まれる。
俺が持ち直したから、もう帰るんだろうか・・・?
1日泊り込んでくれたんだし、帰ると言っても俺に止める権利はない。だけど・・・。

「もう一度熱冷まし飲んでもらって、後はゆっくり休めば良くなりますよ。」
「ああ・・・。」
「何か?」

 井上が俺の顔を下から覗き込む。無意識に俯いていたらしい。

「水用意しますから、身体冷やさないように横になってて下さいね。」
「・・・そうする。」

 俺は素直に横になって布団を被る。
井上は布団の裾を肩口まで引っ張りあげると、空になった土鍋の乗った盆を持ってキッチンへ向かう。
・・・まだ居て欲しい。その一言が素直に言えない自分がもどかしい・・・。

 井上が持ってきた水で熱冷ましの錠剤を飲む。
さっきまで熱いものを食べていたせいか、水の冷たさが腹の内側からじんわりと染み渡っていく感覚をより鮮明に感じる。
井上にコップを手渡すと俺は横になって布団を被る。
 井上は今度も布団の裾を肩口まで引っ張り上げる。
さっきもそうだったが、井上から見て奥側の布団に手を掛けると互いの顔の距離がかなり近付く。
俺は体が軽く強張るのを感じながら、上から覗き込むような体勢になっている井上を見る。否、見詰めるといった方が言いだろうか?
 ふと井上が俺の方を向く。かなり近い距離で−朝方の額合わせ程ではないが−目が合って、身体の強張りが強まる。
胸の鼓動が早くなり、喉に何かが痞えているような違和感を感じる。音を立てないように注意深く息を飲む。

・・・これじゃキスされるのを待ってるみたいだ・・・。

そう思うと一層胸の鼓動が早くなって、飲み込んだ筈の喉の痞えが前よりも大きくなって復活する。こういうのを悪循環というんだろうか・・・?

「あ、また熱出てきました?」
「い、いや、これは・・・。」

 顔色は実に正直らしい。俺は曖昧な言い方で誤魔化す。
まさか距離が近いから緊張してるなんて言える筈が無い。それこそ何かを期待してると仄めかすようなものだ。
 視線を逸らした俺の額にひんやりした感触が伝わる。
井上の手が触れている。そう思うだけで身体の強張りがゆっくりと解けていく。距離の近さは変わらないのに何故だろう・・・?

「まだちょっと熱いですね・・・。」
「・・・さっき薬飲んだばかりだから・・・。」
「顔色ほどじゃないから多分大丈夫だと思いますけど、もう少し様子を見た方が良いですね。」

 相当顔が紅くなっていたらしい。だが、病気の熱は外に出ても、こういう熱は意外に出ないみたいだ。
ほっとしながら視線を天井の方に戻すと、少し不安げな井上の顔が視界の大半を占める。
胸の鼓動は相変わらず早いが、不思議と心地良く感じる。鼓動にも破裂するような勢いはなく、軽くリズムを刻むような感覚だ。

「何かあったら遠慮なく言って下さいね。」
「・・・まだ居て・・・くれるのか?」
「治ってないのに放り出して帰るなんて、出来ると思います?」

 俺は黙って首を横に振る。額にあった井上の手が指先を肌に触れさせながら頬へと移動する。
その痺れるような感覚を誘う愛撫に、俺はされるがままに井上を見詰める。
部屋に差し込む西日の飛沫を受ける井上の顔は心なしか・・・妖艶に誘っているように見える。

「今、安藤さんの傍に居られるのは潤子さんでも、優子って女性(ひと)でもなくて・・・」
「・・・。」
「私だけなんですからね・・・。」

 掠れるような井上の声が、遠く車の走行音が聞こえるだけの室内に滲む。
胸の鼓動が刻むリズムが早まる。頬に触れている井上の指が微かに揺れているのに気付く。
もしかして・・・緊張しているのか・・・?でも、何を・・・?
 それより、どうして井上は潤子さんの名前を出してきたんだろう?
あの女、優子が出てきたのは判らないでもない。
井上にしてみれば、優子の存在はある意味で乗り越えなければならない障害のようなものだろう−思い上がった言い方かもしれないが−。
でも、どうして潤子さんが出てくるんだ?かなり唐突な感がある。

「・・・井上・・・。」
「・・・え?」
「何で・・・潤子さんが・・・?」

 俺が問い掛けると、今度は井上が視線を俺から逸らせる。
井上にしては珍しいことだ。何か言い辛いことでもあるんだろうか?

「・・・だって・・・安藤さんは・・・。」
「?」
「安藤さんは・・・潤子さんが気になってるみたいだし・・・。」

 芯の無くなった声で最後の方は急速に音量が減っていったからはっきり聞こえなかった。
怒っているような泣き出しそうな、はっきりしていることが特徴の井上にしてはやはり珍しい表情だ。
井上と潤子さんは普段バイトでキッチンを手分けして切り盛りしているし、その時もよく喋ってるし、俺が知っている限り仲が悪いとは思えない。
なのにどうして潤子さんを引き合いに出すのか判らない。
 ・・・そう言えば、今まで俺が潤子さんのことに触れると、井上は何故かあまり良い顔をしなかったような・・・。最初の練習の日もそうだったし・・・っ!

「・・・もしかして・・・焼きもち妬いてるのか?」
「!!べ、別に、そんなんじゃ・・・。」

 そうは言うが、視線は彼方此方に振り回してるし、動揺ぶりは一目瞭然だ。
井上は感情が表に出易いタイプだから、こういう時も例外じゃない。
それをどうにか誤魔化そうとするところが何か・・・こう・・・可愛いというか・・・。

「潤子さんは・・・確かに奇麗で魅力的だけど・・・憧れてるだけ・・・。」
「憧れって・・・、それは・・・。」
「何て言うか・・・ほら、アイドルとか女優とかで、こんな相手と付き合いたいなぁ、とか言うだろ?あれと同じだから・・・。」
「・・・。」
「・・・疑ってるって感じの眼だな。」
「・・・だって・・・。」

 俺は頬に触れたままの井上の手に自分の手を被せる。
少し拗ねたように視線を逸らした井上が驚いたように再び視線を俺の方に向ける。

「もし潤子さんを恋愛対象で見てるなら・・・一緒に居て欲しいって昨日見舞いに来た時に言ってると思う・・・。」
「・・・。」
「今まで疑いまくって何だけど・・・それだけは信じて欲しい・・・。」

 都合が良すぎると自分でも思う。何かにつけて井上の行動には裏があると思い込んで疑って来たのは何を隠そう俺なんだし・・・。
だけど今、井上には帰って欲しくない。このまま居て欲しい・・・。
 井上の表情がゆっくりと嬉しさのそれに代わっていく。
小さく頷いた頃には、俺が昨日の晩に初めて自分の気持ちを素直に言えた時の表情になった。
それを見てると、俺も自然と顔が綻ぶ。

「・・・また勝手に思い込んで勝手に拗ねちゃいましたね、私・・・。」
「いや、井上が悪いんじゃない・・・。これからは潤子さんとかを引き合いに出さないように気を付ける・・・。」
「・・・うん。」

 井上は少しだけ首を振るように、でも心底嬉しそうに頷く。良かった・・・。誤解は解けたみたいだ・・・。

 安心したところで改めて俺は井上との距離が近いことに気付く。
井上の手が肘を曲げた状態で俺の頬に届くくらいだから、30cmもないだろう。布団から手を出せば、それこそ抱き寄せるのは簡単だ。
・・・それくらい近いところに、井上の顔がある・・・。
 井上は俺の顔をじっと見詰めている。まるで何かを期待しているような・・・。
推測というより確信めいたものを感じる。
今までにも何度かこういうことはあったが、今日は何処か違う。今までよりぐっと近付いたこの距離のせいだろうか・・・?

「安藤さん・・・。」

 井上が沈黙を破る。
視界の大半を占める井上の顔。頬を微かに撫でる指の感触。少し潤んでいるように思う瞳。
それらが俺の心臓が刻むリズムをより早める。

「・・・ん?」
「・・・これだけ近付いても・・・抱き締めて・・・くれないんですか?」
「?!」

 消え入りそうな、それで居てはっきり耳に届いた井上の言葉に俺は驚きを隠せない。
その表情は、さっきストレートな潤子さんと優子のことを口にした時のそれと似て・・・否、これは思い込みかもしれないが・・・俺を求めているようだ・・・。
 突然、昨日マスターが言った言葉が鮮明な声で脳裏に浮上してきた。
そのことが俺の意識をより井上の方へ釘付けにする。
口の渇きが早まり、呼吸が再び荒れ始める兆候を感じて俺は慌てて肺と横隔膜の動きを押さえようとする。
よく見ると井上も僅かだけど肩が上下しているのが分かる。考えていることは俺と同じ・・・なのか?
 身体に掛かる重みが少し増す。井上の顔がより一層近付く。
その潤んだ瞳でじっと見据えられた俺は、魔法にでもかけられたように視界が固定され、内側から熱を発する身体が自らその動きを止める。
井上との距離はもう10cmあるかないかというところだ。これだけ近いということは、恐らく井上はベッドにかなり身を乗り出しているに違いない。
 俺の左腕が無意識にぴくっと動く。
このまま左腕を布団の外に出せば、井上の身体に手を回せる・・・。そしてそのまま距離をゼロにすることだって可能だろう・・・。
その衝動にも似た気持ちが左腕を動かそうとする前に、あの疑問符が浮かぶ。

それで良いのか?

 俺は井上にまだ告白の返事をしていない。今の気持ちが本当に「好き」という気持ちなのかも−確実な結果があるからじゃなくて−判らない。
井上に好きだと言えるのか自信がない。
そんなある意味でいい加減な状況でこのまま井上を抱き寄せるのは、単に井上の好意−もう「想い」と言うべきか−に便乗するようなものじゃないか?
それは・・・俺を一時の踏み台にして「身近な存在」とやらに乗り換えたあの女、優子がやったことと同じじゃないか?
 だが、車の走行音が遠くなっていく。
視覚は元より、聴覚も、嗅覚も、触覚も、居全て井上に集中されていくのが分かる。
井上の顔、吐息の音、肌と髪の匂い、頬に触れる指が俺の頭から考えることをじわじわと蝕み、広がる白の「無」の中に溶け込ませていく・・・。

・・・。




プルルルルル・・・

 電話のコール音で急速に現実の世界に引き戻される。
井上がびくっと反応して急激に上体を起こす。俺は荒い呼吸を押え込んでいた反動で溜りに溜まった吐息を一気に吐き出す。
井上は右手で胸の中央を押さえて肩で息をしている。・・・俺と同じ状態だったようだ・・・。
 電話のコール音は俺と井上のことなど当然お構い無しに同じ周期で繰り返される。
誰からだろう?もしかすると・・・智一か?そんな予感が頭を掠める。

「私が出ますね・・・。」

 井上が胸を押さえながら電話が置いてある戸棚の方へ向かう。
もし智一だとしたら、何かあったのかと妙な想像をされるかもしれないし、場合が場合だけにそれが感情を縺れさせる可能性だってある。
実家の人間でも同棲しているなどと思われかねないから厄介には違いないが・・・。
やっぱり俺が出るべきか、と俺がベッドから出るべく身体を起こした頃には、井上は受話器を取って左の耳に当てていた。

「はい、・・・安藤です。」

 そう言って電話に出た井上の表情が、一瞬の間を置いて驚きに変わる。
もしかして、俺の予想が当たっちまったのか?!

「・・・マスター。」

 呟くような井上の応対から、電話の相手はマスターだと判った。
ほっとしたのもつかの間、昨日のことがあるだけに電話の内容が気に掛かる。

「・・・はい。ええ、かなり熱は下がりましたけど、まだ・・・。はい、食欲も出て来ましたから今日明日あれば大丈夫だと思います。」

 どうやら俺の病状を確認する内容らしい。今度こそ大丈夫だろうと安心した矢先、井上の表情が強張り、消えかけていた頬の紅みが再び強まる。
電話に出る前より紅みが強い。どうやら相当ストレートな突っ込みをされたらしい。
やっぱりマスターは何かあったと踏んでいるらしい。確かにさっきは何かありそうな雰囲気だったが・・・。

「い、いえ、あの・・・安藤さんは熱が高かったですし・・・。い、いえ、そういう意味じゃなくて・・・その・・・。」

 防戦一方でそれすらも危なっかしい。このままだと根掘り葉掘り聞き出されかねない。
別に疚しいことはない・・・筈だが、下手に口を滑らせると後々どうなるか、それこそ分かったもんじゃない。
俺が上体を起こしてベッドから出ようとした時、井上が安堵の溜め息を吐く。電話の向こう側で昨日と同じように爆弾が炸裂したんだろう。

「もしもし。・・・いえ。・・・はい、さっきお粥を。・・・はい、昨日戴いた熱冷ましが効いたみたいです。有り難うございました。」
「・・・。」
「・・・私ですか?・・・まだ熱がありますし、もう1日お休みさせてもらおうかと・・・。」

 今日バイトに来るかどうかを電話の相手に−今は潤子さんだろう−尋ねられているようだ。
井上の気持ちは勿論嬉しいが、昨日今日と俺と井上が二人して休むと店の方が心配だ。
特に日曜は潤子さんがリクエストの対象になるから、キッチンと演奏を一人で切り盛りするのは相当大変な筈だ。
 俺はベッドから出て、そのまま井上の方へ行く。
本当なら何かを羽織るべき何だが何もないから仕方ない。
井上も俺が自分で起き出すことは想定していなかっただろうし、昨日の状態を考えればある意味当然だろう。

「井上・・・。」
「!あ、起きちゃ駄目ですよ!」
「昨日ほど酷くないから大丈夫・・・。それより、今日は店が忙しい日だから、バイトに行った方が良い・・・。」
「でも・・・。」
「俺は大人しく寝てるから・・・。」

 まだ視界が多少ふらつくが、壁伝いでなくても一応立って歩けるから昨日よりは随分ましになっている。
もう四六時中付き添ってもらわなくても大丈夫だと思う。
 井上は不安そうに俺を見て押し黙ってしまう。
井上のことだ。やっぱり心配だから、と言いそうな気がする。俺は受話器を井上の手から取って電話を替わる。

「・・・もしもし。安藤です。」
「あ、祐司君。起きて大丈夫なの?」
「ええ、何とか・・・。それより店の方はどうです?」
「今はまださほどでもないけど、夜の部は何時ものとおりだと結構忙しくなると思うわ。今日は私もリクエストに出る日だしね。」
「井上には俺の方からバイトに行ってもらうように頼みます。」
「・・・。」
「私としては晶子ちゃんに来てもらえると有難いんだけど、祐司君は良いの?」
「昨日薬とか貰いましたし・・・大人しく寝てますから。」
「そうじゃなくて、寂しくないの?」

 潤子さんの問いに今度は俺が沈黙してしまう。
井上がバイトに行けば俺はこの部屋で一人になる・・・。そう思うと妙に心がざわめく。
それに昨日熱で一人苦しんでいたことを思うと、正直言って不安だ。でも・・・だからと言って何時までも井上に甘えているわけにはいかない。

「・・・大丈夫です。」

 ともすれば心の底辺に垂れ込めている不安に吸い込まれそうになる自分に言い聞かせるように、俺は答える。

「じゃあ、晶子ちゃんにはこっちに来てもらえるように伝えてもらえる?私から言うより祐司君から言った方が良いみたいだから。」
「分かりました。」
「その代わり、バイトが終わったらちゃんと祐司君のところに帰るように言うわね。」
「!な、か、帰るって・・・?!」
「?」
「ふふっ、それじゃお大事にね。」
「は、はい。有り難うございます。それじゃ・・・。」

 俺は挨拶もそこそこに受話器を置く。帰るって・・・ここが井上の家みたいじゃないか・・・。
そう思った瞬間、俺の脳裏に一瞬ある光景が浮かぶ。そこでは俺と井上の明るく弾む声がする・・・。

ただいまぁ。   お帰りぃ。

 次の瞬間、俺の意識が現実の世界に戻る。
急激な光景の変化に軽い目眩を覚えた俺は額を押さえて首を横に振る。俺は一体何を想像してるんだ・・・?

「まだ治ってないんですから、無理しちゃ駄目ですよ。」

 井上が俺を支えるように寄り添う。
少し強めの口調だが、それが俺を気遣ってくれてのことだと思うと有り難いとさえ思う。

「久しぶりに立って歩いたから少し目眩がしただけだよ・・・。」
「さ、早く横になって下さい。」
「分かった・・・。」

 井上は俺の身体を両手で支えながらベッドへ誘導する。
俺がベッドに腰を下ろして横になると、井上が起きた時のまま捲れ上がった布団を被せて、やはり裾を肩口まで引っ張りあげる。
 俺と井上の距離が再びぐっと近付く。少し怒ったような井上の顔を見ると、余計な心配を掛けて済まないという気持ちが沸き上がってくる。
井上に安心してバイトに出掛けてもらうように頼むつもりだが、こんなことじゃ逆効果だ。

「やっぱり・・・私、バイト休みます。」
「・・・あんまり説得力ないけど、大丈夫だから・・・。」
「そんなにお店のことが大切なんですか?自分の身体がどうなっても?!」
「落着いて聞いてくれ、頼むから・・・。」

 俺が立ち歩いたことが余程心配なのか、或いは俺にバイトに行かせると言われたことがショックなのか、井上は相当興奮している。
こんな井上は初めて見る。どうにか井上は言葉を抑えたが、憤懣やるかたないといった表情だ。

「俺はどうしようもないとして・・・井上はバイトに行けるだろ?」
「行けます。けど、行けないです・・・。」
「昨日までならまだしも・・・今日は立って歩けて、多少は食べれるくらい良くなったから、付きっ切りでなくても大丈夫だ。」
「でも・・・!」
「いいから聞いてくれ・・・。バイトだからって本来そうそう休むべきじゃないって俺は思うんだ。俺みたいに病気なら兎も角・・・井上は健康なんだから・・・。」
「・・・。」
「それも二人同時に二日もなんて・・・マスターと潤子さんに、迷惑だと思うんだ・・・。」

 井上は少し視線を逸らしたまま何も言わない。内側で相当な葛藤があるんだろう。
どうすれば井上を安心させられるんだろう?
・・・そう言えば、井上に頬を撫でられて落着いたよな・・・。俺がやったらどうだろう・・・?
 俺は布団の中から右手を出して井上の頬に添える。
葛藤の真っ只中にあったような井上は突然の感触にびくっと反応するが、やがてゆっくりと眼を閉じて掌に頬擦りを始める。

「俺は本当に大丈夫だからさ・・・。」
「大人しく寝てなきゃ駄目ですよ・・・。」
「子ども扱いするなよ・・・。」
「自分のことガキっぽいって言ったじゃないですか・・・。」
「・・・よく覚えてるな・・・。」
「当たり前ですよ・・・。」

 掠れる声でそう言うと、井上の頬が俺の手からゆっくりとずれて・・・その動きに併せて後ろで束ねた長い髪が少し舞い上がって・・・

!!!

 井上はベッドから身を乗り出して覆い被さるように俺に密着している。
頬と頬が触れ合い、微かな、少し早い呼吸音がすぐ傍で聞こえる。広がった髪の一部が俺のもう一方の頬に掛かっている。
 俺は不意のことで極度の緊張に対応できる筈もなく、完全に硬直した状態で天井を見上げるしかない。
心臓は井上に聞かれるんじゃないかと思うくらい激しく脈打っている。手は井上の頬に添えていた状態のまま、上を向いて固まっている。

 西日の残像が消えて闇の度合いが深まる部屋は、まさに二人だけの世界には打ってつけの演出だ。
上を向いたままの右手を倒すだけで井上を捕まえることが出来る。
布団の下に隠れた左手も使えば、井上をベッドに引っ張り込むことも出来るだろう。
井上だってそれを期待して俺を誘っているような感がある。電話が鳴る前もそうだったし、今だって・・・。
 考えてみれば、一人暮らしの男の家で二人きりになって、その男に覆い被さるようにくっ付いて来るなんて、無防備そのものだ。
そう思うと俺の中で欲望が膨らんで来る。電話が鳴る前はまだ距離があったからブレーキがかかったが、これだけ密着してはもう手後れだ。
俺はゆっくりと固まっていた右手を倒していく。

「早く・・・良くなって下さいね・・・。」

 井上の囁きが俺に耳元で聞こえる。半分ほど倒れた右手がぴくっと弾けるように動いてそこで止まる。

・・・俺を気遣ってくれている・・・。

膨らんでいた欲望が囁きから感じた井上の気持ちに触れて、別の感情に姿を変えていく。

「・・・ああ・・・。」

 俺は小さく頷くと眼を閉じて、右手を静かに井上の頭に乗せる。
不思議と早まっていた呼吸と鼓動が静まっていく。こうしているだけで心地良くて、さっきより井上が愛しく思う。
感謝の気持ち・・・。井上と密着していても落着いていられるのは、この気持ちのせいだろう。
 井上が頬をゆっくり動かす。密着している頬と頬が擦り合う。
店の状況を考えて井上にはバイトに行くように言ったし、潤子さんにもそう約束した。
でも・・・このまま井上と頬を寄せ合って居られるなら、バイトに行って欲しくない。
いっそこのまま時が止まってくれても良い。
今願うのはただ・・・それだけだ。

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