雨上がりの午後

Chapter 9 芳香の中で心近付く

written by Moonstone


 ・・・翌日。バイトへ行く時間が近付いてきたが身体が重い。具合が悪いわけじゃなくて・・・そう、昨日の帰り道のことだ。
あの時、井上が「気持ちの押し売り」と言ったことが、あの記憶は自分に非があると言われているように思えた俺は、
一気に怒りを爆発させて井上を怒鳴り付けて走り去った。
どうして「被害者」の俺が追い討ちを掛けられなきゃならないんだ、会って一月も経ってない奴に何が分かる、という気持ちだけでまくし立てた。
 だが・・・今日目覚めてから改めて考えてみると、激しい後悔と自責の念が心にずっしりと積み重なる。
井上が言った「気持ちの押し売り」とは・・・井上自身が自戒の為に言ったことなんだ。
それまでの流れを思い返してみれば容易に分かるし、怒鳴り散らすようなことじゃない。なのに・・・。

やっぱりもう恋愛なんて御免だ。こんなにも人を狂わせるんだから・・・。

 兎も角直前になって休むなんて言うわけにはいかない。
俺は身支度を整えると重い足取りで外に出る。今日は昨日にもまして寒い。
何だか井上に責められるようで余計に辛く感じる俺は、首に巻き付けたマフラーに首を埋めて足早に店へ向かう。
 店へ近付くにつれて自ずと足取りが重くなる。
井上は来ているんだろうか?昨夜の俺の態度で嫌になっても仕方が無い。
俺は・・・マスターや潤子さんに、そして何より井上に何て謝れば良いんだろう?
付き合うとかそういう問題じゃない。いきなり感情に任せて怒鳴り付けるなんて、どう考えてもまともじゃない。・・・俺は本当にどうかしてる。
 ドアの前に立った俺は開けるのをどうしても躊躇う。いきなり叱責の言葉が跳んで来るかもしれない。
・・・だが、俺が蒔いた種なんだから・・・仕方が無い。覚悟を決めて俺はドアを開けて中に入る。

「・・・こんにちは。」
「あ、祐司君。待ってたのよ。」

 何と出迎えたのはマスターじゃなくて潤子さんだった。
潤子さんはキッチンに立てる人間を期待していただけに、井上が居なくなったら一番困るだろうし、その原因を作った俺に怒っても無理はない。
潤子さんの怒ったところなんて見たことないが、普段怒らない人が怒った時はそれはもう凄いことになるという。
ここはもうひたすら謝るしかない。

「す、すみませんでした。」
「・・・な、何で謝るの?」
「え?」
「晶子ちゃんが話したいことがあるからって・・・、私はそれを伝えようとしただけなんだけど。・・・何かあったの?」

 話したいこと?じゃあ、井上はちゃんと来てるのか・・・。
緊張の糸が切れた俺は溜め息と共に胸を撫で下ろす。潤子さんは怪訝そうに首を傾げる。

「で・・・、井上・・・さんは何処に?」
「奥で待ってるわ。かなり前から来てるから、早く行ってあげて。」
「は、はい。」

 俺はカウンターの出入り口を通って奥へ向かう。
いつも着替える時に通る廊下を走ると直ぐに・・・更衣室のドアの壁に凭れている井上の姿が見えた。
井上は俺の騒々しい足音に気付いたのか、こっちを見て何だか安心したような表情を見せる。

・・・安心するのは俺の方なのに・・・。

 俺は井上の直ぐ近くまで来ると言葉を失う。
頭の中では昨日のことを謝ろうと考えていたんだが、本人を目の前にするとどうしても気まずい。
意識し過ぎかもしれないが、昨日が昨日だけにどう出て良いのか分からない。
 兎に角平身低頭で謝罪するか・・・本来そうすべきなのだろうが、まだ何か心に引っ掛かりがあるというか、まだ癒えない傷に触れられたことに蟠りがある。
じゃあ昨日はゴメン、という感じであっさり済ませるか・・・昨日の言動をそんな簡単に済ませられるとは思えない。

「昨日は・・・すみませんでした。」

 どうやって切り出そうかとあれこれ考えていると、井上が先手を取って・・・何故か謝る。
さっきの潤子さんじゃないけど・・・何で謝るんだ?

「忘れてたんです。安藤さんが辛い思いをしてまだ気持ちの整理が出来てないってこと・・・。それなのによく考えもせずにあんなこと言っちゃって・・・。」
「・・・。」
「あれは私が押し付けがましくならないようにするって自戒のつもりで言ったんで、本当に安藤さんが悪いなんて言うつもりはなかったんです。
・・・言い訳かもしれませんけど。でも、結果的に怒らせてしまったことは謝りたいんです。すみませんでした・・・。」

 井上はもう一度頭を下げる。先に頭を下げるのは俺の方だ。
幾ら触れられるとまだ痛む腫れ物に触れられたからって、あんな極端な態度に出て良いなんて理屈はないんだから。

「・・・いや、良いよ。昨日は・・・俺が悪かったと思う。言い過ぎたし・・・怒鳴ることなんてなかった。」
「・・・。」
「俺・・・ちょっと神経質になり過ぎてるよな・・・。確かにまだ気持ちの整理がついてないし、思い出したくないことには間違いない。
けど・・・あの時の文脈の前後を考えれば俺を責めてるわけじゃないって簡単に分かることなのに・・・勢いに任せて怒鳴り付けてしまって・・・。」

 俺は注意深く言葉を選びながら、思うことを少しずつ紡ぎ出す。
今度はもう暴走は許されない。自分の内側を見詰めながら、ゆっくりと、ゆっくりと・・・。

「今日・・・あれで此処に来るのが嫌に思ったらどうしようかって不安だった。けど・・・来てて安心した。・・・昨日は・・・悪かった。」

 井上は俺を責め立てると思ったら、柔らかい笑みを浮かべながら首を横に振る。
どうして・・・俺を責めないんだろう?
あんな酷い言い方をされたら、多少なりとも不快に感じてもおかしくないのに。
・・・俺に嫌われまい、と無理をしてるんだろうか?

「私も安心しました。もう怒ってなかったから。それに私のことまで気にしてくれて・・・嬉しいです。」
「あんな事言われて・・・本当に嫌にならなかったのか?」
「なりませんよ。だって私・・・此処のバイトもマスターも潤子さんも好きだし・・・それに安藤さんも・・・好きだから・・・。

 ・・・最後の方は消え入るような声だったけど・・・俺にははっきり聞こえた。

 今日のバイトは瞬く間に時間が流れて行くという表現がぴったりだ。
新しく加わった「顔」を見に来たらしい男性客、特に塾帰りの中高生でごった返し、俺やマスターはキッチンで出来た料理が置かれるカウンターと客席を
何度往復したか判らない。
 勿論、料理を担当する潤子さんや井上はてんてこまいだ。
井上は客寄せと注文の上積みを狙ったマスターの策略で、注文取りにも回る。
男性客は面白いように注文を上乗せする。多く注文したからと言って気を引けるとは思えないが、そうしてしまうのは悲しい性というところか。
 あっという間に恒例のリクエストの時間がやって来た。
男性客はライブ会場のような興奮すら見せている。勿論狙いは日曜限定の潤子さんのピアノだ。
マスターが事前の説明で井上が楽器が出来ないことを説明したから多少興奮は収まったが、
これで井上が楽器が出来るようになればどうなるか、想像すると少し怖い。
 全てのテーブル席が埋まる賑わいもあってリクエスト権は5つ。
そのうち先頭を引き当てた高校生らしい男子グループは一斉に立ち上がってバンザイする始末だ。
まあ、潤子さんのピアノを聞いたことがある奴ならその異常とも思える喜びようは分からないでもない。
全てのリクエスト権が決まり、早速先頭のリクエスト権を獲得したグループがマスターの司会で緊張と興奮の様子で立ち上がり、声を合わせてリクエストする。

「「「潤子さんの、『Energy flow』をお願いしますっ!!」」」

 他の客からも拍手と歓声が上がる。初めての井上は何事が起ったのかと客席を頻りに見回している。
無理もない。俺も最初にこの光景に遭遇した時は何が始まるのかと動揺したものだ。

「ど、どうしてこんなに盛り上がるんですか?」
「潤子さんのピアノは日曜限定だからな。腕のほどは聞いてみりゃ分かる。」
「それにしても凄い人気ですね・・・。」
「潤子さんのピアノ聞きたさに来る客も多いからな。」

 カウンターの方で水を飲んで一息つきながら、俺と井上は物凄い盛り上がりを見せる客席を眺めている。
こうして並んで居るのも、今日は気にならない。バイトが始まってからは忙しくて、話をするどころか一息入れることもおぼつかなかった。
一時は顔を見るのもうんざりしていたのが不思議にすら思える。
 リクエストされた潤子さんが、はにかんだ笑みを浮かべながらステージに上がる。
外したエプロンをマスターに持ってもらうあたりは、さり気なくて嫌みがない。
1週間に1度だけ封印を説かれるピアノの前に座り、髪を後ろに靡かせると、潤子さんは鍵盤に添えた指を動かし始める・・・。

 メロディがアルペジオに乗って先程までとは打って変わって静まった客席に流れ始める。
この店にある視線の全てが、優しい音の源泉であるピアノに注がれる。
音の波がゆったりと、時に強く耳に寄せては返す。手付かずの浜辺に佇み、潮騒に戯れる・・・そんな表現がぴったりだ。
 「癒しの曲」としてインストルメンタルでは驚異的な人気を博したこの曲の魅力は、幅広い音域と音量の和音を奏でることが出来る
ピアノならではの能力を最大限に生かしているところにあると思う。
逆に言えば、この曲で人を満足させるには、ピアノを弾きこなせるだけの力量が要求されるということだ。
 常連の割合が多いし、日曜日の度に誰かが必ずリクエストするにもかかわらず、この曲が聞き飽きられる様子が無いのは、
それだけ浮世の暮らしに明確か漠然かを問わず疲れを感じている人間が多いのもあるかもしれない。
しかし、それよりもやはり、良い音楽を聴きたいという思いが強いのだろう。
 音は魂の振動を表現したものだという。
色々な場面で精神を高揚させたり逆に沈静化させる為に音楽が使われるのは、魂の振動にダイレクトに共鳴させることが可能だから・・・というのは
穿った見方だろうか?
呼吸の早さが静まり、瞼の重みが増して来る。
眠いわけではない。潤子さんのこの演奏を聞く度に感じる・・・眠りに落ちる前に優しく身体を揺すられるような心地良さだ。
魂の振動と音が共鳴しているのをまさに魂で感じる。

「・・・凄い・・・。」

 井上がぽつりと呟く。割と饒舌な方だと思う井上も言葉が見付からないのだろうか?
良いものを言葉で表現するのは意外に難しい。詩的な表現を探すより、凄いとか奇麗とか、そんな単純な一言で十分だと思う。
思うままの一言や拍手こそ、演奏する者に対する何よりの称賛になるものだ。

 最後の音が空気に溶けて行く。
潤子さんが鍵盤から指を離して顔を上げると同時に拍手の嵐が起る。
事情を知らない人間が居合わせたら驚くのは間違いない拍手だが、潤子さんのこの曲の演奏の度にこんな光景が繰り返されるのはさらに驚異的なことだ。
当の潤子さんは惜しみない拍手を贈る客席にぺこりと頭を下げる。
演奏に自信を持つだけにおどおどしたところはなく、それでいて高慢な様子はない。
 いつもながら非の付けようがない演奏に拍手を贈る俺はふと隣の井上を見る。すると・・・泣いていた。
その場に立ち尽くし、ステージを真っ直ぐに見詰めて・・・。

「涙が・・・止まらない・・・。」
「・・・。」
「何故か分からないけど・・・どうして良いか・・・分からない・・・。」

 涙を拭わず、ステージに視線を打ち付けたまま井上は途切れ途切れに呟く。
恐らく初めて感じる魂の共鳴に実感が掴めないまま翻弄されているんだろう。
だが、良いもので感動できるなら、その方がずっと良い。
感動できるのは魂が死に絶えていない証拠だから。

 結局その日は5回とも全て潤子さんが指名された。
出来の良い新作があるのに出番がなかったのはちょっと複雑な心境だったが、潤子さんのピアノをゆっくり聞けたのは悪くない。
井上は「Energy flow」以降はさすがに泣くことはなかったが、ピアノの音色にすっかり魅了されてしまったようで、ステージから目を離そうとはしなかった。
 あっという間に営業時間が終了して、後片付けと掃除をする。
3人から4人に増えると掃除もかなり早く終わる。
もっとも人が増えれば即時間短縮とはいかない。井上がよく動くのが大きいことは勿論だ。

「潤子さん、ピアノの演奏凄かったです。私感激しました。」

 片付けが終わり俺の着替えが済んでからの「仕事の後の一杯」で、井上は興奮気味に語る。
 5曲リクエストを受けて演奏する緊張感は相当のものだと思うが、マスターの後ろ側から見える潤子さんの表情には心地良い疲労感に柔らかい微笑みが乗っている。
自分の演奏で素直に感動してもらって悪い気がする演奏者は居ないだろう。

「ありがと。そんなに誉められるとちょっと恥ずかしいわね。」
「最初の『Energy flow』で思わず泣いちゃって・・・。あんなこと初めてで私自身びっくりしました。」
「あの曲はね・・・初めて生で聞いた人は結構泣くのよ。理由はその人それぞれだと思うけど・・・その人が思うところとあの曲の演奏が共鳴するのかもしれないわね。」
「共鳴・・・ですか・・・。」
「感動するっていうのは人間らしさの一つよ。何にも感動できなくなったらその人はもう機械と変わらないわ。
感動して泣いちゃったことは貴方の自然な反応だから驚くことはないからね。」

 俺も・・・愛を突然失った翌日、マスターのサックスで泣いたばかりだ。
楽しかった思い出や前日のやり場のない気持ちが次々に蘇って、涙が溢れて来た。まさに心と演奏が共鳴したわけだ。

「私、今まで楽器が出来ないことを気にしなかったんですけど・・・あんな風に人を感動させることが出来るなら・・・、
私も楽器を弾けるようになりたいな、って思いました。」
「大丈夫よ。晶子ちゃんにやる気があるなら、何時でも始められるわよ。」
「・・・やって・・・みようかな。」
「何事も挑戦だよ。店が終わってから練習しても良いし、持ち運びが出来るものなら貸し出しても良いよ。」

 マスターも乗り気のようだ。楽器が出来ること、をバイトの条件としてきただけに、井上だけ例外のままというのはやはり気が引けるのだろうか。
マスターと潤子さんが注目する中−俺も多少は気に掛かる−井上は顔を上げて宣言する。

「私も・・・やってみます。やらせて下さい。」
「勿論だよ。じゃあ何をするかねぇ。楽器はピアノにサックスのソプラノにテナー、ギターにシンセサイザてところだが。」
「初めてやるんだから・・・やりたいものをやってみれば良いんじゃないですか?」
「おっ、祐司君、良いこと言うなぁ。やりたいものを選んで良いよ。」
「うーん。どれにしようかな・・・。」

 井上が迷っていると、潤子さんが提案を持ち掛ける。

「ねえ。楽器は勿論だけど、ヴォーカルもやってみない?」
「ヴォーカル?!」
「ヴォーカル・・・ですか?」
「ええ。何かおかしな事言ったかしら?」

 マスターは驚いて聞き返し、俺も意外な提案に驚きを隠せないが、カウンターの上で組んだ両手の上に顎を乗せてこっちを見る潤子さんは、
至って真面目に考えているらしい。しかし、楽器の他にヴォーカルとは・・・いきなりどうしたんだろう?

「前々から思ってたのよ。ヴォーカルの人が居るともっと表現が広がるんじゃないかって。」
「・・・確かにそうだな・・・。けど、ここでやるような曲のヴォーカルは結構難しいんじゃないか?」
「まあ、英語とかも多いしね・・・。でも、これを晶子ちゃんがやったら大人気間違いなしよ。」
「・・・行けるな。」
「そうでしょ?『Fly me to the moon』は特にウケるわよ、きっと。」

 マスターと潤子さんは乗り気のようだ。
マスターは井上が華麗に歌う姿を想像しているのか、ちょっと口元がにやけている。
だが、当の本人の意思確認と適性を忘れてやしないか?音痴で歌われる『Fly me to the moon』は雰囲気ぶち壊しだ。

「・・・井上は・・・どうなんだ?ヴォーカル。」
「歌・・・ですよね?あんまり自信ないんですよ・・・。カラオケも滅多に行かないですし・・・。」
「だそうですよ。まず、歌えるかどうかを試した方が良いと思うんですけど。」
「あ、祐司君の言うとおりね。うーん・・・。晶子ちゃん、どんな曲歌える?」
「何も無しで歌える曲って・・・直ぐには思いつかないです。」
「そうか。じゃあ・・・、祐司君に教えて貰いなさい。」

 !マスター!いきなり何を言い出すんだ?!
それじゃ俺に接近するお膳立てをするようなものじゃないか!

「あら、それ良い考えね。祐司君は『Fly me to the moon』の演奏も出来るし、デュオでやれば大ウケよ。」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ!」
「ん?何か不満か?」
「不満も何も・・・何で俺が・・・。」
「あの曲のバックはやっぱりギターだろう。サックスだと歌の邪魔になる。ピアノは日曜限定だし、ここはギターの君が適任だろ?」

 ・・そう言われりゃそうだが・・・。だからって俺が教えなきゃならないことにはならない。
俺だってカラオケなんか行かないから歌に自信と保障はない。

「そ、それに・・・、俺だって弾く方は出来ても歌は自信ないです。」
「メロディは取れるだろ?それに合わせて歌う練習をしてもらえば良い。井上さんはそれで良いかい?」
「はい。」
「本人もOKしてるし、問題無いだろ?」

 ・・・他に何か断る適当な理由はないか?俺はあれこれ考える。
教えるのが嫌だ、と言うのはあまりにも直接的すぎるし、それこそその後どうなるか分かったもんじゃない。
俺が次の反論を思いつくより先に、マスターが俺の肩をぽんぽんと叩いて言う。

「決まりだな。ま、ここは一つ宜しく。」

 即座に反論しなかったので異論はない=了承したと受け取られてしまった。これで俺と井上の関わりの糸はまた太くなった・・・。
最初の頃にあった嫌悪や憎悪の念は相当薄らいだ。昨日のことはもう気にしてはいない。だけど・・・恋愛になりそうなことは・・・したくない。
恋愛は、こういう関わりから生じ易いことくらい知っている。その恋愛が如何に壊れ易くて不安定なものか、俺はよく分かっている。
そしてそれで傷付くことがどんなに辛くて悲しくて空しいかも、嫌というほど分かっている。
 それに、潤子さんが言ったように恋愛じゃなくて友情を考えてみることも、正直俺には無理だと思う。
幾ら俺が恋愛をしたくないとは言え、井上が女という歴然とした事実に変わりはない。俺が男である上、意識しないなんて無理な話だ。
俺は聖人君子には程遠い只の人間なんだから。

「そう難しい顔するなって。君の音楽性からすりゃ、教えることだって十分可能だ。それに人に教えることは自分の技量と知識の整理と向上にも繋がる。」
「はあ・・・。」
「特に期限は設けないから、焦らずにやってくれ。くれぐれも彼女が初心者だってことを忘れないでくれれば良い。」

 ・・・こうなった以上後には引けない。「教える」ことに集中しよう。
あくまで俺と井上は音楽を教える側と学ぶ側。その立場の違いだけだと自分に言い聞かせるしかない。
意識することが止められなくなったら、俺はまた甘美な罠に嵌まってしまうだろう。
これは、聖人君子の修行をするようなものかもしれない。・・・他人は大袈裟と思うだろうが。

 なし崩し的に井上に音楽の個人授業をすることになった俺は、その井上と共に帰路に就く。
街灯が転々と灯る夜道にはやはり会話はない。昨日は単に話をしたくなかった俺だが、今日は何をどう話して良いか分からないから黙っている。
昨日の出来事があるだけに、俺としても話し辛いものはある。
 対して井上の方は真っ直ぐ前を見て歩いている。その表情からは内に秘めたものを窺い知ることは出来ない。
俺が相変わらず不機嫌そうなのが不満なのか、それとも音楽を教わる相手が俺になって緊張しているのか・・・。
こういうシチュエーションはどうも苦手だ。俺が悪いことをしているような気になってしまう。
 どう切り出そうか思案していると、不意に井上が俺の方を向く。
丁度向かい合うような体勢になった俺はびくっと身体が内側から震動するのを感じる。

「・・・早速明日からお願いしますね。」

 井上は俺を見詰めながら言う。やる気満々といった表情だ。俺は一先ず頷く。
だが、明日からって・・・。どうすりゃ良いんだ?
店は定休日で閉まってるから、何処か別の場所でやるしかない。
スタジオを借りるのは大袈裟だし、借りたことがないから勝手が分からない。・・・と言うことは・・・。

「何処で教えてくれるんですか?」
「・・・今考えてる。」

 一言答えて俺は考える。というか、答えを先延ばしする。
答えは既に2つに絞られている。俺の家か井上の家かのどちらかだ。しかし、俺としてはどちらも生きた心地がしない。
俺の家にはあの女すら2、3回しか入れたことがないし、女の部屋に入ったことも殆ど無い−大体外で会っていたから−。
そうでなくても家に異性が出入りするってのは重大なことだと、俺は認識している。
 それも井上とは会って半月も経ってない。ましてまともに会話を交わすようになったはつい昨日今日のことだ。
そんな相手の家に行ったり、逆に家に入れたりするのは俺には想像もできない。究極の選択とはこの事だ。

「やっぱりスタジオなんかでやるんですか?」
「・・・いや、二人で歌の練習には大袈裟だ。第一、俺だって借りたことない。」
「じゃあ、私の家に来てくれませんか?」

 ・・・井上から先に切り出してきた。そう言えばこいつ・・・一人暮らしだったよな・・・?警戒心とかは持たないのか?
それとも男を連れ込むことに慣れてるのか・・・?後者と考えれば間違いなさそうだ。
そうで無ければ自分から言い出すなんて出来ないだろう。少なくとも俺はそう思う。

「・・・別に良いけど。」
「じゃあ、今日私の家の場所を覚えて行って下さいね。」
「・・・ああ。」

 まあ、俺と井上は教える側と教わる側でしかない。俺が妙に意識しないようにすれば良いだろう。
・・・しかし、智一には絶対言えないな。あれほど井上を避けていた俺が、井上の家に出入りするようになるなんて・・・。
 井上の家に着くまで10分程度歩いただろうか。
十分徒歩圏内だが俺の家がある方向からは若干ずれている。
闇にぼんやりと白く浮かんでいるその建物はマンションタイプのもので、見たところ築5年は経ってない。

「私の家、此処なんです。」
「俺の家より奇麗だな。新しそうだし。」
「女性専用なんですよ。」

 女性専用・・・ねえ。このところ何かと物騒だし、娘を一人暮らしさせる親の気心配もあるんだろう。
しかし、男を連れ込んでいては意味が無いように思う。親も目の届かないところで娘がどうしているか、そうそう知らないだろう。
 井上は玄関のドアの前に立つと、ポケットから財布を取り出し、さらにカードを取り出して脇の壁のスロットに差し込み、
さらに手袋を片方外してスクリーンのようなものに手を押し当てる。
すると、ピッという音がして鍵が外れる音がする。セキュリティか。随分大層なものを用意している。これじゃ男も来るのが大変だろう。
 井上がカードを取り出すとドアがひとりでに開く。
それを見届けて家まで送り届ける役目を果たした俺が帰ろうとすると、井上が呼び止める。

「あ、待って。中へ入って下さい。」
「何で?」
「良いから、さ、早く。」

 俺が怪訝そうにしていると、井上は俺の腕を掴んでぐいと引っ張る。
突然のことに俺は抗う間もなく中に引き込まれる。その直後にドアが閉まって鍵が掛かる音がする。

「このドア、決まった時間しか開かないんですよ。」
「それは良いけど・・・何で俺を?」
「渡しておきたいものがあるからですよ。そのついでにお茶でも飲んで行って下さい。寒いですから。」

 渡したいもの・・・?何のことだか判らないが、どうせ井上のことだ。
明日で良いと言っても聞きやしないだろうし、井上が何かをしないとドアが開かないというのは察しが付く。ここは素直に従っておくことにする。
 しかし、相変わらずというか強引な奴だ。
まだ知り合って日の浅い俺を自ら引っ張り込むとは・・・。俺の感覚からいえば信じられないことをする。
俺の考えが古いのか、それとも井上が進んでいるのか・・・俺には判らない。
 井上の部屋は3階のやや東寄りの場所にあった。時間や場所のせいか廊下やエレベーターに人影はない。
井上はカードをスロットに差し込むと今度は暗証番号を打込む。随分面倒な作りだ。鍵が外れる音がすると、井上はドアを開ける。

「さ、どうぞ。」
「・・・お邪魔します。」

 一応挨拶くらいする礼儀は弁えているつもりだ。俺は未知の世界−実際そうだ−に足を踏み入れる。
赤外線に反応するのかひとりでに電灯が灯る。入ってすぐにダイニングがあって、その奥にドアが見える。間取りは1DK若しくは1LDKというところか。
 俺の家と同じくらいだが大きく異なるのは整理の度合いだ。
きっちり整理整頓されているし、掃除を怠らないのか床なども奇麗だ。俺の家がゴミ集積場に思える。
 俺は靴を脱いで上がるとダイニングを見る。
小さ目の木のテーブルに調味料を乗せる台に箸立て。箸は・・・一組。椅子は2つ。他に人が使った形跡はない。
井上も入ってきて鍵を閉めると、壁のスイッチを入れる。暖房を入れたのだろう。

「その椅子に座って下さい。お茶入れますから。」

 井上はそう言ってドアの向こうへ消える。俺は玄関に近い方の椅子に座る。
まだ暖房が効いてないのでコートは着たままだ。
そこへコートを脱いだ井上が戻ってきて何かを始める。
小さな容器からスプーンで掬ったのは・・・葉っぱか?どうやら紅茶を入れるつもりらしい。

「紅茶、大丈夫です?」
「ああ、飲める。」

 俺は滅多に紅茶を飲まない。
別に嫌いじゃないが、インスタントで簡単に飲めるコーヒーと違って、紅茶はちょっと面倒な印象がある。
俺自身家で紅茶を沸かしたことはない。湯を沸かすのはインスタントラーメンを作る時くらいだ。
 井上は手慣れたもので、ポットで湯を沸かしながら紅茶の葉を準備する。
俺に背中を向けた格好だが、なかなか様になっている。

・・・何を見とれてるんだ、俺は。

 頬に触れる部屋の空気に温もりを感じることになると、ポットの湯が沸く。
井上が2つのお揃いのカップに紅茶を注いでテーブルに置く。
湯気に含まれた何処かで嗅いだことのある匂い・・・これってミントか?ミントが紅茶になるなんて初めて知った。

「砂糖とか入れますか?」
「いや、いい。それよりこれって・・・ミントか?」
「そうですよ。私これが好きでよく買ってるんです。」

 俺はカップを静かに持ち上げて口元に近付ける。
・・・鼻から喉へ独特の清涼感が通り抜けて行く。一口喉を通してみても爽やかな香りが口の中を満たす。
渋くて苦いだけと思っていた紅茶もなかなか良いもんだ。

「ところで・・・、俺に渡したいものって?」
「あ、ちょっと待ってて下さい。」

 椅子に座ったばかりの井上が再び立ち上がって奥のドアへ消える。少し急ぎ足だったから忘れていたのかもしれない。
やはり一つ何かをすると他のことに気が回らなくなるタイプのようだ。
井上はすぐに戻ってきて、俺に1枚のメモ用紙を差し出す。そこに書いてあるものは・・・10桁の番号。

「これ、私の電話番号です。」

 ・・・智一が知ったら目の色を変えて欲しがるのは間違いない代物だ。俺は一先ずメモ用紙を受け取って見る。番号からして携帯電話じゃない。
携帯電話を持っているとばかり思っていたから正直言って意外だ。今時携帯電話を持っていない人間は俺くらいのものかと思っていたが、そうでもないのか。

「留守電はありますから、居なくても大丈夫ですよ。」
「それは良いけど、何でこれを?」
「ここに来てもらう時は前もって連絡して下さい。玄関のドアを開けますから。」

 ああ成る程。セキュリティのせいで外部の人間が出入りするのは、内部の人間が居ないと出来ないってことか。
恐らくあのセキュリティは内部の人間しか登録できないんだろう。そうでなきゃセキュリティの意味がなくなるか。しかし・・・

「会って間もない俺に、よく電話番号を教えられるよな。」
「・・・だって必要でしょ?」
「そりゃそうだが・・・。」

 本当に人を疑うことを知らない奴だ。傷付くことを恐れないのか、それとも恐れるほどに傷付いたことが無いのか?

「それに、安藤さんが悪い人には見えないから、教えても良いって思うんです。」
「・・・そう見えるか?」
「ええ。私だって電話番号を教える人を選ぶことくらいはしますよ。」

 あっけらかんと、しかもきついことを言う。裏を返せば信用できない相手には電話番号を教えないということだ。
智一は前に電話番号を聞きだそうと懸命になっていたことを思い出す。あの時井上は巧みに逸らかしていたが・・・。
さっきの言葉を智一が聞いたら、どんな顔をするだろうか?やっぱり女は怖い、とつくづく思う。

「そうだ。折角ですから安藤さんの電話番号も教えて下さいよ。」

 井上の突然の申し出に俺は紅茶を拭き零しそうになる。
カップから目だけ上げて井上を見ると、妙に目が輝いているように見える。まさか、自分の電話番号を教えたのは最初からこれが目的だったんじゃ?
 ・・・そんな気がする。俺は井上のペースに知らず知らずのうちにまんまと乗せられてしまっていることを改めて実感する。
この女、やっぱり油断ならない。
俺の居場所を追い続けた執念といい、バイトに食い込んだことといい、今日自分の家に引っ張り込んだことといい、
探偵か借金取りになったら最強の名を欲しい侭にするタイプだと思う。俺はなんて女に狙われてしまったんだろう・・・。本当に俺には運がない。

「・・・何で俺の電話番号を・・・?」
「何でって、私から安藤さんに連絡したいことだってあるかもしれないからですよ。」
「・・・。」
「あ、もしかして疑ってません?」

 井上はテーブルから身を乗り出して顔を近付ける。子どもの悪戯を事前に見つけた母親のような表情だ。
『疑うに決まってるだろ。会って間もないのにいきなり電話番号の交換なんて』と切り返そうとした俺だが、この表情を間近で見ると言葉に詰まってしまう。
さしずめ俺は、悪戯を事前に母親に見つけられて詰め寄られる子どもか・・・?

「言っとくけど・・・俺も携帯持ってないから、何時でも直ぐにってわけにはいかないからな。」
「ええ。構いませんよ。早めに連絡とかすれば大抵間に合いますから。」
「・・・紙と書くもの、貸してくれ。」

 駄目だ。井上のこの表情で見詰められると、何だか俺が悪いことをしているような気になって来る。
井上のペースと判っちゃいるが、此処は素直に教えることにしよう。
 井上はメモとボールペンを持ってきた。俺はそれを借りて自分の電話番号を書く。
俺の電話番号を知っているのは、名簿がある大学の奴を除けばせいぜい実家と高校の時の連れ数人くらいだ。
訳の分からない勧誘電話を避ける為と、元々付き合いが少ないからだが・・・ストーカー同然の執念を持つこの女に教えるのは自殺行為かも知れない。
しかし、女に電話番号を教えるのは・・・何年ぶりだろう。
ああ、大体3年ぶりか。あの女と付き合い始めた時、交換し合ったっけ・・・。

「・・・はい。」
「ありがとうございます。」

 井上はメモを受け取ると如何にも嬉しそうに微笑む。
間近で見ると・・・確かに奇麗だ。昨日だったか、井上を「注文」した客が居たっけ。その気持ちが分からなくもない。
そう思うと胸がズキッと痛む。軽く締め付けられるようなこの感覚、もしかしてこれは・・・。
 駄目だ!どれだけペースに乗せられても、この気持ちだけは絶対駄目だ!
この気持ちが俺の心を支配したら、また俺は騙されて、良いように弄ばれて、そして・・・

ある日呆気なく捨てられるんだから!

「どうしたんですか?」

 井上の声で我に帰ると、俺の視線は横に逸れていた。
胸の痛みを呼び起こす井上の微笑む顔を見ないように、視線を無意識に逸らしたんだろう。

「な、何でもない。」
「なら良いんですけど・・・。」

 そうは言っても、井上はまだ至近距離で俺の顔を心配そうに見詰めている。あの甘酸っぱい匂いが微かに鼻腔に染み込んで来る。
整った顔立ちとこの匂い、そして(俺にすれば強引な)積極的な意思表示・・・男を惑わせるには十分すぎるくらいの材料だ。
危うく俺も誑かされるところだった。今の女性不信と言える俺の精神状況を作ってくれたあの女に、今回だけは感謝するべきだろう。
 俺はカップの紅茶を再び飲む。ミントの香りで気を逸らす為とも言える。
・・・俺は気付き始めている。
井上をあの苦い記憶を作った「女」という生き物として警戒し、拒否しようとする気持ちと、・・・認めたくないが・・・井上に新しい恋を見出そうとしている気持ちが、
井上を前にすると先を争って頭を擡げることに・・・。

 やっぱり・・・俺は寂しいんだろうか?
何時までも続くと思っていた、当たり前のように感じていたものが突然無くなったから・・・、
突然独り放り出されたような状況にどうして良いか判らないから・・・、
心にぽっかり空いた虚無の空洞から吹き荒ぶ乾いた風を早く止めたいから・・・。
 だけど、寂しさを新しいもので紛らわせるのは・・・。あの記憶が何時再現されるかもしれない。
それに・・・終止符こそ残酷だったが、あの3年間を埋め立ててしまうことの罪悪感というか後ろ髪を引かれるような思いがある。
これが・・・未練というやつか・・・。

俺は・・・どうしたら良いんだろう?
俺と井上は・・・これからどうなって行くんだろう?

何れ自分の気持ちをはっきりさせなければならない時が来たら・・・その時俺はどうするんだろう?


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