雨上がりの午後

Chapter 8 「先約」に揺れ、「押し付け」に暴発する

written by Moonstone


 8時を過ぎると客が増え始めて来て、俺は潤子さんと共に店内を駆け回る。
今はマスターがサックスを演奏して、井上はキッチンに居る。3人から4人になると結構余裕が出来るものだと今更思う。
 客はやはり塾帰りの中高生が多い。この年代で一人で来ることはまずないと言って良い。集団行動がある意味当然だからだ。
喫茶店もそうだが、飲食店に躊躇せず一人で入れるようになったら大人といえるんじゃないか、と俺は思う。
かくいう俺も、バイトの張り紙を見て最初にこの店に来る時は、かなり勇気が必要だった。
 女の客は如何にも上品な女性が好みそうな雰囲気に憧れて来るらしい。
雰囲気に憧れるのは結構だが、甲高い声を上げて話し、笑う様は正直な話、彼女らが嫌う「おばさん」と何ら変わりはない。
しかし彼女らはそれに全く気付いていない。
 一方男の客は完全にくつろぎを求めてやって来るらしい。俺もそうだったが、男の受験に対する周囲からのプレッシャーは相当なものだ。
男は良い高校、良い大学、良い会社に行けるかどうかで価値が決まるという固定概念は未だ健在などころか、ますますエスカレートしているように思う。
マスターにそのことを話したら大笑いした後で「じゃあ、エジソンやアインシュタインは無価値か?」と言ったことがある。
 まあ、男の客はそんな労いの言葉よりもっと安らげるものがあるから、心配は要らないだろう。
それは・・・ドアの前にどやどやとやって来た常連組の行動を見れば分かる。

「「こんばんは〜。」」
「いらっしゃいませ。あら、今日は随分大勢ね。」
「いやぁ、この店の良さを味わってもらおうと思ってぇ〜。な?俺が言った通りだろ?
「は、はじめまして。ほ、本当だ。スッゴイ奇麗〜。

 ・・・要するに潤子さん目当てだったりする。「大人の女性」に対する熱烈な憧れがあるようだ。
まあ、気持ちは分からないでもないが、俺のことは全く眼中に無いらしく、挨拶してもそっぽを向かれることもあるのにはちょっと腹が立つ。
客とは言え、挨拶くらい分け隔てしないでもらいたい。
あの風貌が威圧感を誘うのか、マスターの前では妙に小さくなるのは結構笑える。

「今日は何人かしら?」
「ええっと・・・5人です、5人。」
「じゃあ晶子ちゃん。私がキッチンに回るから、14番テーブルへ案内してあげて。」
「はい。」

 聞き慣れない名前に彼らは戸惑うが、キッチンから出て来た井上を見て声にならない歓声を上げているのがよく分かる。

「そ、その女性(ひと)は・・・?」
「紹介するわね。今日から新しく入った井上さんよ。」
「はじめまして、井上です。宜しくお願いします。」

 一気に彼らは色めき立つ。年代が自分達により近いと感じると−高校生だとせいぜい2つか3つくらいしか差はない筈だ−、余計に親近感が沸くのだろう。
あわよくば親密になりたいと思っているかもしれない。
 井上に先導されて俺が居る客席の方に来た団体は、井上の後ろで何か頻りに囁きあっている。
恐らく年齢や男が居るかどうかを推測しているんだろう。普段同じような行動をとる智一を見ているから容易に分かる。
しかし、周囲から変なものを見るような目で見られていることに気付かないのは、ちょっと滑稽だ。
 当の井上は至って変わった様子を見せない。
彼らの声の大きさからして断片的に聞こえても良さそうなものだが、聞こえても耳から耳へ素通りしてしまっているんだろうか?
意外に神経が太いというか・・・。
まあ、そうでなけりゃ、あれほど俺に冷たくあしらわれても諦めないで、さらに同じバイトを始める気構えなんて出来やしないだろう。

「こちらへどうぞ。」

 井上に案内されて彼らは席に着く。井上はトレイに乗せていた水の入ったコップとお絞りを彼らの前に置く。
奥の方に置く時にかなり距離が近づくのが興奮を誘うのか、目と鼻が無意識に大きく見開かれている。
何だか発情期の動物みたいだ・・・。はっきり言って相当みっともない。

「ご注文が決まりましたら、そちらのベルでお知らせください。」
「あ、もう注文取って下さい。」
「はい。・・・えっと・・・。ではどうぞ。」

 直ぐに注文を取ることになるとは思わなかったらしく、井上はちょっと慌てた様子を見せる。自分の最初の頃を思い出す。
最初マスターと潤子さんから習ったとおりにことが運ばないと、簡単に慌てふためいたものだ。
それを思えば、初日にしては井上の対応は上出来だ。案外、こういうところでのバイト経験があるのかもしれない。

「俺、コーヒー下さい。」
「俺も同じ。」
「俺も。」
「俺も同じで良いや。」

 一人が切り出すと全員それに同調する。この手のグループでは珍しくないどころかごく普通の行動だ。
しかし、グループで行動や嗜好まで全て統一する必要などあるはずがない。だが、そうしないと集団から浮いてしまいかねないのもまた事実だ。
この主体性の無さと見えない無意味な束縛に、集団行動を兎に角是とすることの限界を感じる。
 もう一人残っているが、多分同じだろう。今キッチンに居る潤子さんにしてみれば手間が省けるかもしれないが。
そう思っていると、一人がまだ注文していない連れ合いに話を振る。

「お前は?」
「俺か?俺は・・・これを頼む。」

 そう言って最後の学生が指差したのは・・・何と井上だった。
演奏途中だったマスターが思わず音量を乱してしまう。吹出してしまったのだろう。どうにか取り繕ったが驚きは隠せない様子だ。
近くのテーブルに居た客はとんでもない注文を耳にして唖然としている。
俺は呆れて声も出ない。まさかそんな恐れを知らない台詞を本当に言ってのけるとは・・・。余程の大物か、そうでなければ単なる馬鹿だ。

「お、お前何言ってんだ?!」
「良いじゃねえかよ。君が欲しいっていうのも立派な注文だろ?」
「くそっ!俺も言いたかったのにぃ!」
「まさかここで本当に言うとは・・・やられたぜ!」
「残念でした。先に言った者の勝ち。」

 ・・・単なる馬鹿だった。
それに他の連中も口にする勇気−と言えるかどうか甚だ疑問だが−がなかっただけで、大なり小なり同じことを考えていたらしい。
類は友を呼ぶ、とはこのことか。
 井上はその場に突っ立ったままだ。そりゃ、あんな馬鹿な事をバイト初日にいきなり言われたら硬直するのも無理はない。
仕方ない、ここはフォローしてやるか、と思った時、井上は悪戯っぽい笑みを浮かべて「反撃」に出る。

「生憎ですが、私は限定数量1の上に既に予約を頂いてますので、注文はお受けできません。」

 今度は連中が唖然とする番だ。
周囲のテーブルからどっと笑いが起こり、続いて拍手が沸く。見事な切り返しで勝負あった、と言うところか。
連中はまさかの痛烈な反撃に顔を引き攣らせて笑うしかない。
それにしても井上は神経が強靭というか・・・随分機転が利くものだ。俺も少しは見習った方が良いかもしれない。

・・・そう言えば、何か引っかかる。

 限定数量1と言うのは分かる。逆に複数だったら耳を疑わないといけない。
しかし予約って・・・どういうことだ?
既に先約が居るのに俺に近づいたのなら、井上は二股という、俺が絶対許せないことをしていることになる。
何故なら俺は、それによく似た事をされた経験をつい最近味わわされたばかりなんだから。

女はまた、男を傷つけようとしている・・・?

 再び胸の奥で何かが蠢く。空気の動きに過敏になっている傷の腫れが疼き、この女と関わるな、と警告をして来る。
また恋愛をするかどうかで井上を見ようというのか?俺は。
・・・否、違う。俺と同じ様な思いをさせられる男が増えるのが我慢できないだけだ。それだけの筈だ・・・。

 それ以降、井上の注目度は抜群だった。
さすがにあの連中のように口説こうとする客は居なかったが、いつもより男性客の回転が鈍かったのは確実だ。
一方、マスターが井上に入れ知恵をして追加注文を聞いて回らせ、相当の稼ぎを得たのもまた事実。
何かのショーのコンパニオンか客寄せパンダそのものだった。
 店の片付けも終わり、服装が違う俺は着替えてから再び店に戻る。
カウンターにはマスターと潤子さんがいつもの席に並んで座り、マスターの右隣を一人分空けて井上が座っている。
・・・どうやらこの席で決まりのようだ。
 俺は小さい溜め息一つ吐いて、谷間の席に座る。
周囲が何を言おうとどうしようと、俺が意識しないようにすれば良いことだ。冷静に、あくまでも慎重に・・・。

「緊張してるのか?」

 マスターが声を掛ける。
・・・身体は正直というか・・・。なかなか思ったようにはいかないものだ。周囲は勿論、自分自身も。

「井上さんと話してたんだけど、このバイトは気に入ったそうだ。」
「・・・そうですか。」
「ええ。お客さんも気の良い人ばかりだし、店の雰囲気も凄く良いし・・・。」
「そういう訳で引き続き晶子ちゃんにはバイトを続けてもらうことになったから、祐司君は先輩として色々教えてあげてね。」
「は、はい・・・。」

 教えると言っても今日の様子を見ていた限りでは、俺の出る幕はないと思う。
初日にしてすっかりこの店の新しい「顔」になったといっても過言じゃない。おっかなびっくりだった俺とはえらい違いだ。

「それにしても丁度良かったわ。調理と接客が出来る人が一人欲しかったところなのよ。」
「・・・週何日なんですか?」
「え?祐司君と同じ。」
「同じって・・・。」
「この店のお休み以外、毎日来てくれるのよ。」
「そういう訳なんで、これからも宜しくお願いしますね。」

 ・・・俺はもう、井上から完全に逃げられない状況に置かれたことが決まった。
これから毎日、意識しないことを意識する−妙な言い方だが−日々が続くのかと思うと気が重くなる。
智一が知ったら泣いて悔しがるかもしれないが・・・。

 コーヒーを飲み終えた俺は何時ものように帰途に着く。だが、これまでと違うのは、隣に井上が居ることだ。
昨日は逃げ出したが、今日はそういう訳にもいかない。
一人でさっさと帰ろうとした俺に、マスターが「彼女を送って行ってやれよ」と押し付けたからだ。
同じバイトの人間−「仲間」とは言わないでおく−という立場になった以上、無下にするわけにもいかない。
 俺の頭の中でまだ「既に予約されている」という、井上が口説いて来た学生連中に切り返した時の台詞の断片が引っ掛かっている。
意識しないようにしようと思えば思うほど、断片がより形を大きくして離れようとしない。
井上が誰と付き合おうが寝ていようが、俺には関係のないことのなずなのに・・・。
 他の男に「予約」されているのに近付いて来たのが嫌なのか?それは勿論だ。
でも・・・その中に含まれた意味は単に二股が許せないという義憤だけだろうか?

予約無しで近付いて来て欲しいと思ってやしないか?

 何を馬鹿なことを・・・。本当に俺は馬鹿なんじゃないだろうか?
井上が誰とどうだろうが俺の範疇じゃないし、それよりも前に、恋愛や女を意識しないようにするんじゃなかったのか?
・・・全く・・・懲りないというか、覚えが悪いというか・・・。

「良いお店ですよね。『Dandelion Hill』って。」
「・・・あ、ああ・・・。」

 突然井上が話し掛けて来たので、反射的に相槌を打つ。
当然だが俺の葛藤など知る由も無い井上は、余程バイトが気に入ったのか、それとも俺を四六時中捕捉できる状況が構築できて満足なのか、
見るからに嬉しそうだ。
 井上はベージュのハーフコートを羽織り、紺色のマフラーを巻いている。何処にでも売っているようなものだ。
さっき店で言っていたがブランドとかには興味が無いらしい。そういう話題についていけなくてクラスの中でちょっと浮いてしまってる、と笑っていた。
女は男以上に集団意識と排他意識が強いというが、それでも存在が浮いたことを笑えるとは・・・。神経の強靭さは本物だと思う。
・・・単に鈍いだけかも知れないが。

「私、今までバイトはしたことないんですよ。」
「・・・そうには思えんかったが・・・。」
「探したんですけどこれ、って思うのが無くて・・・。やっぱりバイトするなら長く続けられる方が良いですし、あんまり妥協したくなかったんで・・・。」
「一人暮らし・・・だったよな?仕送りとかでやって行けるんだったら別にしなくても良いんじゃないか?」
「親もそう言ったんですけど・・・何でも親に頼ってばかりじゃいけないと思って。」

 それはもっともだ。だが、俺ほど切実な事情が無いからバイト選びに高い理想を持つ様は贅沢に思える。
俺自身今のバイトは本当に幸運だったと思っている。多分今後、宝籤には当たらないだろう。
 それよりも井上は、土日も来るということはそうそう遠出は出来ないことになると分かっているんだろうか?
俺は趣味の研鑚結果を披露できて、その上、金になるから気にならないが、普通の奴には結構堪える筈だ。
「先約」があるなら最低でも土日のどちらか一方は空けておくのは必須だ。経験者が言うんだからこれは間違いない。

「でも良いのか?安請け合いして。」
「何がですか?」
「今日はもう終わったけど、これから土日もずっと来るってことだよ。空けとかなくて良いのか?」
「ええ。何も問題ないですけど。」
「何で・・・?」

 遠回しに言ったのが悪かったか、井上は意味が分かってないらしい。
もっと直接的に言おうと思ったが既のところで思い止まる。まるで、井上に男が居るかどうかを詮索しているみたいだからだ。
そんな事を知っても俺には何の関係も無い筈だ。否、関係ないに決まってる。

「・・・あんたも俺と同じで、土日は暇ってことか。」
「そういうことになるんですね?」

 遠距離恋愛か?・・・って、どうしてまだ気にする?
俺には関係ないと思ってはみても、やっぱり「先約」のことが気になるんだろうか?
どうして・・・?

「でも、バイトは夜だけだから、昼間は時間が空きますよね?」
「・・・そう、だけど?」
「今の私はそれで十分なんです。そんなに出かける方じゃないですし。」

 それは妙な話だ。
遠距離恋愛もそうだし、そうでなくても時間の都合がつき易い土日は空けておくのが常識なのに、さらに出かけることも少ないという。
付き合っていれば、休みの日には何処かへ出かけたいと思ってせがむものじゃないか?
それとも普段、大学とかで顔を合わせられるから十分だということか?
 ・・・また邪推を始めてしまった。やはり「先約」の存在か・・・。
俺の感覚としては「先約」が居れば他の異性との交流は避けるのが当然だと思っているのだが、あの女と同様、
幅広く手を伸ばして一番良いものを選ぼうというわけか。
・・・結構な御身分だ。やっぱり恋愛は男より女、見てくれが良い方が断然有利に事を運べるというわけか。
外見より中身、なんてのは奇麗事でしかない。少なくとも恋愛においては。

・・・だから、俺には関係ないんだって!

 俺は意識を恋愛とその遠因である井上から逸らそうと、星空を見上げる。
此処は割と新しい住宅街で、夜ともなれば待ちを縦断する幹線道路を除いて交通量は大きく減る。
星空を見上げる時は静かな方が良い。もしかすると無意識に遥か彼方から届く異世界の音を聞こうとしているせいかもしれない。

「星空をこうしてゆっくり見上げるなんて、久しぶりです・・・。」

 井上が少し感傷に浸ったような口調で言う。
バイトをしていなくてもコンパへ言ったり夜遊びしたりすれば、星空を見るのは簡単な筈なのに−夜明けを見ることだって不可能じゃないだろう−。
カマトトぶってもお見通しだということに気付いていないのか?それとも・・・本当なんだろうか?

「私、大学から帰ったら殆ど家に居たんです。バイトもしてないですし、クラスの娘とそんなに親しいわけじゃないんで、遊びに行くこともなかったんで。」
「・・・。」
「安藤さんと初めて会った日は、たまたま買いそびれた雑誌を思い出して、その途中でお茶菓子も買おうと思って・・・。
今まではそれが普通だったし、それ以外にすることが思いつかなかったんですけど、マスターと潤子さんに無理にお願いしてバイトをさせてもらうようになって、
こんな楽しい世界もあるんだな、って分かったんです。」

 新鮮な体験だったというわけか?その割にそんな様子が見えなかったから直ぐに、はいそうですか、とは信じられない。
だが、星空の下で宇宙の音を聞きながら身の上話をするのも・・・悪くはない。
 寒くなって来ると空は賑やかになって来る。
多少の知識があれば多くの人間が認識できる数少ない星座の一つであろうオリオン座も、丁度バイトから帰宅する時間くらいに見上げることが出来るようになる。
 こうしていると自発的な頭の火照りも自然と収まって来る。
俺は改めて、否、初めて井上とまともに話すことが出来ると思う。そうすると、やはりまず聞いておきたいことがある。

「・・・何でそこまで俺にこだわるんだ?」
「え?」
「別にあんたの兄貴に似てることに拘らなければ、もっと良い男はいっぱい居るんじゃないか?」

 何度冷たくあしらわれても諦めずに食い下がり、とうとうバイト先まで突き止めて、あろうことか同じ所でバイトを始めてしまった。
幾らブラコンでもそこまではしないだろう。何かもっと別の理由があると考えた方が自然だ。
 井上は俺の顔を見て少し驚いた様子を見せる。
・・・そうか。俺の方から問い掛けたのはもしかすると初めてかもしれない。
いつも井上の方から一方的に話し掛けて、俺がそれに事務的に答えるか突っ撥ねるか、どちらかだったように思う。

「見た目だけで言えばそれなりに居ますよ。」
「・・・。」
「あ、ご、御免なさい。そんなつもりじゃなかったんです。」
「良い。自分で分かってるから。それよりその先は?」

 平静を装うが、まだ気を許したわけではない相手に、見た目では劣ることを暗に言われて、少々腹が立つ。
まあ、今回は目を瞑ろう。もっと良い男が居るだろうと行程を誘うようなことを言った俺にも多少原因があるし、まだ肝心の答えを聞いていない。

「大学に入ってから時々誘われて、話をしたことはあるんですけど・・・何て言うか・・・そういう人達って大抵、
流行の音楽とかファッションとかの話をするんですよね。私、そういうのに興味が無いからただ聞いてるだけなんです。
そうしてると相手の人はつまらないらしくて、それっきりで終わるんです。」
「もっと自分の分かる話をされれば付き合っても良いって思った訳か?」
「思わないですよ。どうして私に声を掛けたんですかって聞いたら決まって、見た目で声を掛けたくなったって言われて・・・。
じゃあ、見た目が今の私じゃなかった声を掛けなかったんですか、って聞いたら困ったような顔をするんですよ。」

 そりゃ困るだろう。ナンパは見た目から入るのが当然だ。
相手の思考や性格を把握してから声を掛けるナンパなんて、聞いたこともない。
 大体、下心のないナンパなんてないだろう。
井上は本当に世間知らずなところがあるようだ。カマトトぶりも案外本当なのかもしれない。
そんなことを思っていると、井上は俺を見ながらしんみりとした口調で話す。

「・・・安藤さんに興味を持ったのは、兄に似ているからっていうのも理由の一つではあります。でも、それだけじゃなくて・・・。
今までの男の人と違って、私に特別に優しくしたりしないから安心できるって言うか・・・。それが大きな理由なんです。」

 ・・・予想外だ。俺は冷たくすれば脈が無いと思って諦めると思っていたんだが、それが逆に井上にとっては、
下心がないと−話の内容からして多分感じとっていたんだろう−安心させる材料になっていたなんて・・・。
井上は井上で予想どおりというか、その外見に釣られてふらふらと寄って来る男が多くて辟易していたわけだ。
そこに今までと違って、言い寄るどころか避けようとする俺は、逆に新鮮に映ったというわけか・・・。
 こんなことを予想できなかったとは言え、本当に俺には運が無い。
永遠の絆を信じた相手には呆気なく御破算にされ、それを教訓に自分に近付けまいとした相手には逆に引き付けるように仕向けてしまうなんて・・・。

「その興味がだんだんとエスカレートして・・・。私、一旦これと思ったら他のことが見えなくなるタイプなんで、
伊東さんって人に住所を教えてもらおうとしたり、同じ電車に乗るからこの近辺に住んでるかなって思って町中歩き回ったり、
偶然見つけた安藤さんのバイト先に無理にお願いして、バイトさせてもらうことにしたり・・・。
私と同じ音楽を聞いたりするみたいで、ちょっと嬉しいなっていうのもあるんですけど。」
「・・・『AZURE』とか聞くのか?」
「ええ。ソロ用にアレンジされてましたけど、メロディを聞いたら分かりましたよ。」

 同じ音楽を聴く・・・。音楽に限らず、同じ思考を持つ相手には多少なりとも好印象や親近感を持つものだ。
俺は全くそうではないと言えば・・・嘘になる。
今、懸命に否定しようとするが、それも上手くいかない。
どんなに否定のペンキで懸命に塗り潰そうとしても、心に現れた親近感の微かな浮き彫りはペンキを弾く。
俺は・・・このまま井上に引き寄せられて行くのか・・・?

また、あの苦い記憶を作る羽目になってもか?!

「・・・同じ音楽を聞くからって・・・気持ちが同じになるとは限らないぞ。」

 あの記憶の味を思い出した俺の心は、鮮明になって来る親近感の浮き彫りに抗う言葉を紡ぎださせる。
・・・嫌な言い方だ。だが、こうでもしないと浮き彫りの進行を止められない。
だが、井上は表情を曇らせることはない。

「・・・ゆっくりで・・・良いんです。」

 ゆっくりで良い・・・。こんな言葉、随分久しぶりに聞くような気がする。
何かと早く早く、急げ急げと言われ、それが普通と思い込まされていたように思う。
そんな時にゆっくり、なんて言葉を聞くとやけに新鮮に感じる。

「気持ちが向き合わなきゃ恋愛にはならないってことくらい、分かってますよ。結果がどうであれ、その過程で時間が必要だってことも分かってますから。」
「・・・。」
「相手の気持ちが自分の方を向いてないのに自分の気持ちを受け入れろって言っても、それは気持ちの押し売りですからね。そういうことはしたくないんです。」

 気持ちの押し売り・・・。
その言葉を聞いて俺は、ほんの1週間ほど前に心に刻まれたあの記憶とその「予兆」とも言える時のことを思い出す。
「予兆」の段階であの女の気持ちはもう、俺の方を向いていなかったのなら・・・。
俺がどれだけ必死になって繋ぎ止めようとしたところで、それはあの女にとって気持ちの「押し売り」でしかなかったということか・・・?
もしそうだとしたら・・・それからあの日までの俺は一体何をしてたんだろう?
まさにピエロそのものじゃないか・・・。

そんなの・・・勝手過ぎる!

 俺は真剣だったんだ。ガキの戯言だと言われようが、俺は本気であの女と結婚したいと思っていた。
なのにあの女は、身近な相手に勝手に乗り換えて俺との関係を一方的に破棄したんだ。
あの3年ほどの間に費やしたエネルギーは一体何だったんだ?
別れたくないとひたむきになったことを、相手が迷惑がってたのに押し付けがましかったって反省しろというのか?
 俺の中でふつふつと感情が泡を立てて沸騰し始める。
以前心の中を荒れ狂った黒い業火と同じものが、僅かに再生しつつあった心を焼き、憎しみの烙印を刻み込む。
否定のペンキで塗り潰そうとしても出来なかった親近感の浮き彫りすらも、簡単に飲み込んでしまう。

「・・・押し売りで悪かったな。」
「え?」
「捨てられた俺が、何で反省しなきゃならないんだ?!捨てられた方が悪いって言うのか?!」

 思わず俺は井上にまくし立てる。街灯が僅かに存在感を醸し出す闇に怒声が走る。
井上がびくっと身を震わせる。まさか俺が怒るとは思わなかったんだろう。
だが・・・、俺は許せない。

「あの女が勝手に俺を裏切ったんだ。一旦よりを戻した振りまでしてな。なのに結局は俺が悪いのか?女一人繋ぎ止められなかった俺が悪いって言うのか?!」
「ち、違う。私、そんなつもりじゃ・・・。」

 井上は俺の突然の怒り様に狼狽した様子だ。首を細かく横に振りながら否定する。
だが、前以上に感情が暴走する俺はもう止められない。
こんな恨み言、井上にぶつけたところでどうにもならないっていうのに・・・。

「どいつもこいつも俺の気持ちも知らないで悪者扱いしやがって!外見で終始優位に色恋沙汰を展開できる人間に何が分かる!」

何でそこまで言うんだ、俺は。
「ちょっとは無残に捨てられた人間の気持ちも考えろ!」
誰か・・・止めてくれ!

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