噂の人

written by Moonstone

〜この作品はフィクションです〜
〜登場人物、団体などは実在のものとは無関係です〜

第1章

 サイレンの音が聞こえる。音は遠いが、俺には徐々にこっちへ向かってきているような気がしてならない。
俺は逃げる、否、走る。サイレンの音が聞こえないところへ向かって。しかし、今の俺にそんな場所があるんだろうか?
昨晩からずっと逃げ、否、走り続けて今に至る。喉は公園の水飲み場の水でどうにか潤したが、腹は水で誤魔化しきれるものじゃない。
その喉も、水を求め始めている。しかし、今迂闊に通りに出たら、直ぐに誰かに見つかって通報されちまうだろう。
 今、俺の周りは敵だらけだ。警察はおろか、見ず知らずの奴まで俺の敵だ。
敵という言い方は本来使いたくない。だが、今の俺はそれを使わざるを得ない状況に追い込まれている。何しろ警察は勿論、見ず知らずの奴までもが俺を
探し回ってるんだから。俺を逮捕するために。
 畜生。何で俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ?俺は何も悪いことをしていないっていうのに。逮捕されるどころか追い回される理由すら何もありゃ
しないっていうのに。
どうして俺が凶悪殺人犯なんだ?どうして俺が警察や人々の目を恐れて身を潜めなきゃならないんだ?
畜生。何で俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ?畜生。畜生・・・。
 今を遡ること一月ほど前。
大岸明人(おおぎし あきひと)は会社から帰宅途中だった。彼は会社で問題を起こしたことなどなく、かと言って目立った成果を挙げたわけでもない、
平々凡々を絵に描いたような社会人だ。
この日も彼は何時もどおり仕事をこなし、残業をして帰宅の途に着いていた。彼の自宅−一人暮らしだ−と会社はさほど離れていない。自転車なら15分
あれば十分間に合う。ところがこの日は生憎の雨。車を持っていない彼には徒歩しか移動手段がない。傘を差しての自転車運転は危険だし、彼にはそんな
自信はない。彼は途中のコンビニで夕食となる弁当を買い、さらさらと降りつづける雨の中を歩いていた。
彼は車の多い大通りの歩道から何時ものとおり裏通りに入る。車が少ないので彼はこの道を通勤コースにしている。
 街灯が点々と灯る通りを歩いていると、何やら物音が聞こえてきた。彼が歩を進めていくと、その物音は口論へと正体を明らかにして来た。
何だろう、と思った彼は、口論が聞こえて来る方向へ向かって歩を速める。彼が歩を進めるに連れて、口論は輪郭をはっきりさせてくる。

「借りた金は返すのが当然だろうが!」
「あ、あと一月待ってくれ。」
「その言葉はもう聞き飽きた!この場で今すぐ耳を揃えて返してもらおうか!」
「10万あるならとっくに返してる。」

 どうやら口論は借金を巡るもののようだ。彼、大岸はこういうものに下手に関わらない方が良い、と思い、横目で見ると視界に入るその場を通り過ぎようと
する。

「もう半年待ったんだ!これ以上引き伸ばすつもりなら、出るとこ出ても良いんだぞ!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。何も返さないとは言ってないだろう!」
「半年も引き伸ばしておいて返す意思があると言うのか?!」
「こっちの事情も少しは考えてくれても良いだろうが!」
「何だお前、逆ギレする気か?!」
「五月蝿い!」

 口論が只事ではない雰囲気を帯びてきたことが気になった大岸は、それまで見ようとしなかった口論の現場を見る。何と、人影が懐から鈍く光る何かを
取り出して、もう一つの人影にそれを突き立てたではないか!
音も声もしないが、鈍く光るものを持った人影は、もう一つの人影にそれを何度も何度も突き立てる。もう一つの人影はゆっくりとその場に跪き、前のめりに
倒れ伏した。鈍く光るものを持った人影は、肩で息をしているのが微かに見える。
 ・・・ひ、人殺しだ。
とんでもない現場を目撃してしまった大岸は、ガタガタと震えながら壊れかけた玩具のようにギギギ・・・と進行方向に向き直り、その場から立ち去ろうとする。
見つかったら自分も殺される。そんな実感溢れる危機を感じながら、大岸は立ち去ろうとするが、走って良いのか歩くべきなのか分からない。
走って逃げれば足音に気付かれて追いかけられるかもしれない。歩けば足音は聞こえないだろうが、この場を立ち去る前に相手に気付かれてしまう
可能性は否定出来ない。突然の事態に遭遇した大岸は、すっかり頭が混乱してしまい、人を呼ぶ、という選択肢が頭からすっかり抜け落ちてしまっていた。

「誰だ!そこに居るのは!」

 殺人現場から大岸に向かって声が飛んでくる。続いて足音が速いテンポで近付いてくる。殺される、と直感した大岸は思わず大声を上げて走り出す。
足音は大岸の後を追って来る。傘が空気抵抗を受けて邪魔になる、と混乱する頭で判断した大岸は傘を畳んで懸命に走る。雨に濡れながら大岸は懸命に
走る。追って来る足音が耳に入ってくるのかどうか分からない。第一そんなことに構っている心理的余裕などある筈がない。
途中、傘を差して道を歩いている小太りの女性と出くわすが、大岸は逃げることに懸命で、その女性に事情を話すことなく女性の脇を走り抜ける。
 どれくらい走ったか分からない。見たこともない路地に迷い込んだ大岸は、恐る恐る背後を振り返る。背後には鈍く光るものを持った人影も見えなければ、
自分を追って来る足音も聞こえない。大岸は全身を上下に動かして呼吸を整えながら、どうにか逃げ切れたという安堵感が心に広がるのを感じる。
雨の中を傘を差さずに走ったお陰で全身びしょ濡れだが、殺されることを考えれば安い代償だ。
 大岸は再び傘を差し、何時も通る通勤コースに戻るべく道を彷徨う。がむしゃらに走ったせいで見たこともないところに飛び込んでしまったので、大岸は
散々歩き回らなければならない羽目になってしまった。その途中、2、3人の通行人とすれ違ったが、まさか彼らに自分の通勤コースは何処ですか、などと
聞くわけにもいかず、大岸はきょろきょろ首を捻りながらひたすら歩き回る。
 20分ほど歩いたところで、大岸はようやく見慣れた風景が広がる通りに出る。とんだアクシデントに見舞われたが、何とか逃げ切れたという深い安堵感が
恐怖に凝り固まった大岸の心を徐々に解していく。大岸は、運動不足なのに走り歩いたお陰でガクガクになった足を前後に動かして、自宅へ向かう。
街灯の明かりがやけに眩しく感じる。暗い路地を走って来たせいだろうか。
兎も角家に帰ってシャワーを浴びて、夕食にしよう。大岸はそう思いながら帰路を急ぐ・・・。
 翌朝、大岸は何時ものとおりけたたましく鳴り響く目覚ましの音で目を覚ます。
もそもそと布団から出ると、眠気の残る目を擦りながら冷蔵庫から食パンと紙パックの牛乳を取り出し、食パンをトースターに放り込んでタイマーをセットする。
食パンが焼けるまでの間に皿とバターを取り出し、小さなテーブルの上に置く。そしてTVの電源を入れる。何時も見る朝のニュース番組を見るためだ。
ニュースはどうでも良いとしても、天気予報は見ておく必要がある。自転車で行けるか徒歩で行かなければならないかの分かれ目が決まるからだ。
 パンが焼けたことを知らせるチン、という音が聞こえると、大岸は一旦立ち上がってトースターから取り出し、皿に乗せて再び座る。TVではキャスターが
ニュースを読み上げていた。

「では、次のニュースです。今朝5時頃、俵市で男性の刺殺死体が発見され、警察は殺人事件として捜査本部を設置し、捜査を開始しました。」

 バターを塗った食パンを齧っていた大岸の動きが止まる。そして脳裏に昨日目撃した殺人現場の一部始終が鮮明に蘇ってくる。
暗くて顔や服装は見えなかったものの、凶器で人が人を殺す現場。大岸は思わず噛み千切った食パンの欠片を飲み込んでしまい、慌てて牛乳で流し込む。

「今朝5時頃、俵市南町で新聞配達の男性が細い路地に血塗れで倒れている男性を発見し、近くの民家に駆け込んで110番しました。男性は直ちに病院に
運ばれましたが、出血多量で既に死亡していました。警察は男性の身元確認を急ぐと共に、情報提供を呼びかけています。昨夜午後9時頃、口論する
男性の声を聞いたという近隣住民の証言があることから、警察は今朝から周辺住民に聞き込みを行っています。」

 大岸は嫌な汗が全身から噴出してくるのを感じる。
自分は殺人現場の一部始終を目撃した。口論も聞いた。警察にこのことを話すべきか。否、現場から歩いて10分ほど離れているところに住んでいる自分が
警察に駆け込んで事情を話したら、その時間帯にどうしてそこに居たのか、などと逆に問い質されかねない。
仕事の帰りに偶然通りかかった、と言えば済むとは思えない。犯人探しに躍起になっているであろう警察は、怪しいと睨んだ人物を徹底的に尋問するだろう。
下手をすれば、自分が殺人犯にされてしまいかねない。
 こういう時は黙っているのが一番だ。第一警察に駆け込んだら会社への言い訳が難しくなる。そう判断した大岸は、額に滲んだ汗を拭って朝食を進める。
だが、どうも何時もどおりに食が進まない。やはり事件のことが頭から離れないせいだろう。
 黙っていれば大丈夫だ。警察の聞き込みもまさかこんなところまで来るまい。第一、俺は殺人犯じゃない。ただ偶々口論を耳にして現場を目撃しただけだ。
犯人の人相も服装も見てないのに警察に駆け込んで、あれこれ尋問されるのは御免だ。ましてや殺人犯に仕立て上げられたら最悪だ。TVの刑事ドラマ
じゃ、刑事が容疑者にそれこそ脅迫するように尋問しているじゃないか。変なことにこれ以上関わりたくない。
 大岸はそう思い直すと、朝食を進める。
何時もより味のしない、味気なさに拍車をかけた朝食を済ませた大岸は、天気予報を見て今日の降水確率が0%だと知ると、食器や牛乳を片付けて歯を磨き、
出勤の身支度をする。電気カミソリで髭を剃り、ワイシャツにスーツにネクタイというありふれた出勤スタイルを身に纏い、TVの電源を切ってから鞄と鍵を
持って家を出る。
大岸は玄関に鍵をかけると自転車置き場に向かい、昨日使わなかった自転車を引き出してそれに跨り、ペダルを漕ぎ始める。大岸は何時もどおりの
スタイルで会社へ向かう・・・。
 会社に到着した大岸は、タイムカードを押して自分の部署、経理課のある1階角へ向かう。始業時刻までにはまだ10分ほどある。この間にインターネットで
新聞を見るのが大岸の習慣だ。
大岸がドアを開けて中に入ると、先に職場に居た同僚達の視線が一斉に自分の方を向く。誰が入ってきたのか、という人間のごく自然な反応だが、それは
昨日尋常でない体験をした大岸には自分が注目されているという強迫観念を感じさせる。

「よお、大岸。何時もどおりの出勤だな。」

 同僚の一人が声をかけてくる。自分の方を向いていた他の同僚は自分のデスクにあるPCに向き直る。自分への視線の集中が単なる確認の反応だった、と
思い直した大岸だが、全身から再び嫌な汗が噴出すのを感じずにはいられない。

「どうした?顔色悪いぞ。」
「い、いや。何でもない。」
「具合悪いなら休めば良いのに。有給あるんだろ?」
「ちょっと朝から嫌なニュースを見たから気分が悪いだけだ。」
「嫌なニュース?ああ、南町で起こった殺人事件のことか。」

 同僚の口から具体的な事例が出たことで、大岸は心臓を握り潰されたような感覚を覚える。

「ひでえ事件だよなぁ。全身10箇所メッタ刺し。何があったのか知らないが、最近ああいう事件が多いよなぁ。世の中荒んでるってホントだな。」
「あ、ああ。まったくだ。」
「そう言えば・・・お前ん家って南旭町だっけ。通勤にあの事件のあった南町を通るんだろ?実はお前が犯人だったりして・・・。」
「ろくでもないこと言うな!俺は何もしちゃいない!」

 大岸の突然の怒声に、その同僚は勿論、他の同僚も何事かと大岸の方を向く。

「ス、スマン。でも、何もそんなにマジになることないだろ。」
「人を勝手に殺人犯扱いするな!冗談にも程がある!」

 大岸は怒りで顔を真っ赤にして同僚の脇を通り抜け、自分のデスクに向かう。そしてPCを起動してメールチェックをした後、いそいそとブラウザを起動して
新聞をチェックする。するとどの新聞でもトップに表示されるのは、大岸が目撃した殺人事件だ。
TVでも電源を入れてまず最初に飛び出してきたのは例の殺人事件だった。大岸は腹に詰め込んだ朝食が胃を逆流してくるような感覚を覚え、ブラウザを
閉じて始業時刻より少し早く仕事に取り掛かる・・・。
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