契約家族

written by Moonstone

〜この作品はフィクションです〜
〜登場人物、団体などは実在のものとは無関係です〜

第5章

 本物の−戸籍上の−妻や子ども達と事実上絶縁する代わりに更新した「安らぎプラン」を手にした海原は、その後順調な人生を過ごした。
8畳一間での「家族」揃っての朝食に始まり、仕事をこなし、疲れて帰宅した後はやはり8畳一間での「家族」揃っての夕食が待っていた。
休日ともなれば、新たに趣味となった読書に興じたり、「妻」や「子ども達」と日帰りの旅行に出かけたりした。
家庭生活が充実したお陰で憂鬱だった仕事も積極的にこなすようになり、リストラという名の退職強要の対象から外れ、遅まきながらも取締役に昇進し、
その際は「家族」揃って外食に出かけた。
海原が家族と外食に出かけるのは実に10数年ぶりのことで、「家族」の顔触れは前日と一部異なっていたが、海原は楽しく、幸せだった。
 「子ども達」の進学も−これは「子ども達」が受験した結果であり、海原が別途金を出したわけではない−海原は喜び、プレゼントを買ってやったりした。
勿論、本物の子ども達もそれぞれ受験し、進学したのであるが、海原は受験費用や進学費用を機械的に出費するだけで、「おめでとう」の一言も
かけなかった。
今まで散々自分を無視し、定期的に金を持ってくるだけの存在としてしか見なかったガキ共のことなど知ったことか、と海原は思った。
それより、自分を「お父さん」と呼んで慕い、テストや受験の結果を時に嬉しそうに、時に申し訳なさそうに見せる「子ども達」の方が、海原にとっては
ずっと「子ども達」として愛情を注げる存在だった。
 海原は「子ども達」のテストの結果を見て時に誉め、時に嗜め、勉学に励むように諭すと同時に自分も仕事で発奮してその背中を見せた。
「子ども達」は自発的に海原の肩を叩いたり足の裏を踏んだりして、海原はあまりの充実感と幸せに時に涙したりした。
それだけ海原は家族の愛情や信頼関係に飢えていたのである。

 「子ども達」も無事就職して独立した−という設定である−海原は、仕事の帰りに久々に有限会社メンタルケア・プランニングを訪れた。
面談役の男は代替わりしていた。海原はここで年月の流れを実感する。
代替わりしたといっても「安らぎプラン」を提案し、提供する人物であることには変わりはない。男は温かい笑顔で海原を出迎える。

「海原様ですね。お久しぶり・・・否、はじめまして、と言うべきですかね。」
「お久しぶり、で構いませんよ。今まで私に充実した『安らぎプラン』を提供してくれた会社の方なんですから。」
「ありがたいお言葉、丁重に受け取ります。さ、おかけ下さい。」

 男に言われて、海原はソファに腰掛ける。男は海原の向かい側に腰掛ける。

「早速で恐縮ですが、本日はどういったご相談で?」
「実は私も定年間近でしてね・・・。」
「そうですか。長い間お疲れ様でした。」
「いえいえ。で、『安らぎプラン』に少し変更というか、追加をお願いしたいんですよ。」
「と言いますと?」
「端的に言えば、家族に定年祝をして欲しいということです。」
「そういうことでしたらお安い御用です。ご予算に応じて最適のプランをご提案いたします。」

 男の言葉に何の疑いも持たない−これまでの実績が疑う余地を与えない−海原は、自分の希望する定年祝の内容を男に話す。
海原の希望する定年祝とは、家族揃って今まで行ったことがない高級懐石料理の店で会食をしたい、というものだった。
男は海原の要望に真剣に耳を傾け−このあたり、代替わりしたといっても会社の本質が変わっていないことを示している−、何度も頷く。
海原の話が終わると、男は笑顔で言う。

「それでしたら、一時追加プランという形でご提供させていただくことが可能です。現在のプランに変更を加える必要はありません。」
「そ、そうですか。」
「では、ご提案するプランを作成いたしますので、暫くお待ちください。」

 男はそう言って、真剣な表情でノートパソコンに向かい、マウスを操作し、キーボードを叩く。
この会社を信頼しきっている海原は、今か今かとプランが出来上がるのを待つ。
代替わりしたということで今までの方針と若干違う可能性は否定出来ないが、それでも海原はこの会社の、この男の提案に大きな期待を寄せる。
 暫くして男がマウスをクリックすると、背後にあるデスクの上にあるプリンタが動き出し、紙を吐き出す。
男は紙を手に取ると、一旦ノートパソコンと見比べて−内容に相違がないか確認しているのだろう−、その後テーブルに広げて海原に見せる。

「お勧めのプランはこちらになります。順を追って説明いたします。」

 男は海原に一時追加のプランの説明をする。
海原が要望した、家族揃っての高級懐石料理店での会食という条件は完璧に満たされている。
海原もその名を耳にしたことがある、繁華街にある「梓(あずさ)」という高級懐石料理店の4人前フルコースという内容だ。
家と店の間は酒を飲むことを考慮してタクシーでの送迎となっている。
更に子ども達から退職祝のプレゼントが手渡されるという。まさに至れり尽せりのプランだ。
 そして問題の金額は30万円。取締役に昇進して以前よりずっと高給取りになった海原にとっては、さして懐が痛む金額ではない。
海原は男からの説明を十分聞いた後、男の、どうしますか、との問いに二つ返事で承諾し、書類にサインした。
 それから更に月日は流れ、海原は取締役専務の役職で無事定年退職の日を迎えた。
取締役専務の定年退職ということで、会社でも盛大な送別会が催され、海原はこの日のために毎日自宅で推敲を重ねたスピーチを行った。
「妻」の助言も得て練り上げたスピーチは、短いながらも時に笑いを、時に感涙を誘うもので、終わった時には万雷の拍手が送られた。
そして社員代表から大きな花束を受け取り、社長からは記念品と退職金の目録を受け取った。
懇談会は立食パーティー形式の和やかなもので、海原は同期の面々や部下、そして自分と同じ取締役などから盛んに労いの言葉を受け、ビールを
数え切れないほどコップに注がれた。
 懇談会が大団円で終了したところで、海原は全員の拍手に見送られて長年通った会社を後にした。
十分過ぎるほど酔いが回った海原にはタクシーが用意され−料金は会社持ちだ−、海原は充実感と達成感にも酔って自宅まで送迎された。
タクシーを降りた海原は、ややおぼつかない足取りで玄関へ向かい、これまでどおり鍵を開けて−この日でも鍵がかけられていることに、海原は怒りで
多少酔いが冷めてしまった−家に入る。

「ただいま〜。」
「お帰りなさい。」

 出迎えたのは勿論本物の妻ではなく、セイウチ妻とは似ても似つかぬ熟年の清楚な雰囲気が漂う細身の「妻」である。
ちなみに本物の妻は、セイウチそのものの巨体を横たえて、ダイニングで大音量でTVを見ている。
海原はもはや本物の妻に構うことなく、良い気分のまま「妻」に支えられる。

「相当飲んできたようですね。」
「ああ。盛んにお酌されてね。何杯飲んだか数え切れないよ。」
「気分は悪くないですか?」
「否、全然。」
「そうですか。今日はお疲れでしょうしかなり酔ってるようですから、お風呂は止めて寝ましょうか?」
「ああ、そうする。一日風呂に入らなくたって死にゃしない。」

 海原は「妻」に支えられながら家に上がり、階段を上っていき、この家における海原の唯一の居場所である8畳一間に辿り着く。
帰りが遅くなることは事前に「妻」に知らせておいたため、既に床(とこ)が敷かれている。海原はここでも「安らぎプラン」の充実ぶりに満足する。
長年の会社勤めを終えて自分の居場所に帰って来たことで安心したのか、海原は糸が切れた操り人形のように姿勢を大きく崩す。
突然の事態に「妻」は支えきれず、海原はその場に突っ伏して眠ってしまう。

「もう・・・しょうがない人ね。」

 「妻」は優しい口ぶりで海原を抱き起こし、床まで連れて行って横にする。
そして海原の会社勤めの象徴であるスーツの上着を脱がし、ネクタイを緩め、掛け布団をそっとかける。

「長い間お疲れ様。今日はゆっくり休んでくださいな。」

 赤い顔で気持ち良さそうに眠る海原に、「妻」は優しい労いの言葉をかけて電灯を消し、静かに部屋を出て行く。
海原の会社勤めの日々は、「妻」による出迎えと労いを受けて幕を下ろした・・・。
 退職の日から数日後。
海原が依頼した一時追加プランが実行に移される日がやってきた。
その日−ちなみに日曜日−海原はやや遅い朝食を摂り、プラン実行の時まで昼食を挟んで読書に勤しんだ。
海原の読書歴もかなりのものになり、読んだ本は新古書店に売って、その金を元手に新しい本を買って読む、というサイクルを繰り返していた。
そのため、部屋は随分前に用意したテーブルと洋服箪笥、そしてきちんと畳まれた寝床と読んでいる最中の本だけという、随分質素なものだ。
それでも海原は、退職後の時間を趣味の読書や「妻」との外出に充てることで、充実した日々を過ごしていた。
 その日の夕方、読書をしていた海原の元に正装した「妻」と「子ども達」がやって来た。
「子ども達」は既に就職して独立した、ということになっているので、今日の「子ども達」は父の退職祝のために帰省した、という設定だ。

「あなた。そろそろ出かけましょう。タクシーも来ましたし。」
「ん?もうそんな時間か。悪い悪い。少し待ってくれ。」

 海原は読んでいた本にしおりを挟んですっと立ち上がり、久しぶりにスーツに身体を通す。
身支度を整えた海原は、「妻」と「子ども達」に向き直って言う。

「待たせたな。それじゃ、行こうか。」
「ええ。」
「「うん。」」

 海原は相変わらずセイウチそのものの巨体を横たえて、ダイニングでTVを大音量で見ている妻を一瞥もせず、「妻」と「子ども達」と共に家を出る。
家の前ではタクシーがドアを開けて待機していた。
助手席に男の「子ども」が、後部座席に運転席の後ろ側から海原、「妻」、女の「子ども」が乗り込むと、タクシーのドアが閉まり、ゆっくりと動き始める。
 タクシーは快調に進み、30分程で目的地である高級懐石料理店「梓」の前に到着する。
一行はタクシーから降り、「子ども達」が先導する形で中に入る。
今日の会食は、「子ども達」が海原の退職祝として準備したという設定になっているから、海原はお客様扱いなのだ。

「いらっしゃいませ。」

 店に踏み込んだ海原達「親子」を店員が丁重に出迎える。

「予約しておいた海原です。」
「海原様ですね?ではご案内いたします。」

 店員は海原達「親子」を先導して、座敷へ案内する。
海原達「親子」が案内された座敷は優に10畳ほどの広さがあり、座席も座布団だけではなく座椅子が設けられている。机も漆塗りの豪華なものだ。
部屋全体も純和風の、ガラス越しに上品にライトアップされた立派な日本庭園が見えるなど、いかにも高級懐石料理店という雰囲気である。
海原が予想をはるかに上回る高級且つ上品な雰囲気を前にして座敷に上がるのに二の足を踏む中、「子ども達」が笑顔で海原に言う。

「さあ、お父さん。座敷に上がってよ。今日はお父さんが主役なんだから。」
「何も遠慮する必要なんてないのよ。」
「あ、ああ。それじゃ・・・。」

 海原は緊張した足取りで座敷に上がる。それに「妻」と「子ども達」が続く。
案内した店員は座敷に上がらず、その場から海原達「親子」に言う。

「お料理の予約は承っておりますので、順にお持ちします。ごゆっくりお寛ぎください。」

 店員は出入り口の障子を静かに閉める。
海原は緊張感と違和感を感じずにはいられない。
何せ会社勤めをしていた頃は、たまにこういう高級料理店に出入りしたことはあっても、その時は仕事の話が中心で料理や雰囲気を味わう状況では
なかったからだ。
それにこれまでの外食といえば、昼食時の食堂−プランに昼食の弁当作りは入っていない−くらいのものだから、雰囲気にどうも馴染めないものを感じる。
だが、「妻」と「子ども達」の温かい微笑みを見ているうちに、海原の緊張感は徐々に和らぎ、違和感も気にならなくなってくる。
「子ども達」が自分のためにここまでしてくれたんだ。
自分がそういう内容のプランを要望して契約したにもかかわらず、海原は心の底からそう思うようになっていた。
 それから少しして障子がすっと開き、失礼します、と言って女性店員が料理の乗った皿を持って入って来る。
見た目にも高級品だと分かる皿に盛られた料理は品良く盛り付けられていて、形を崩すのが惜しいくらいだ。
前菜を皮切りに4人分の料理が机に乗り切らないほど運ばれて来て、最後に一抱えある舟盛の鯛の活き作り他トロやヒラメなどの刺身盛り合わせが
運ばれて来る。
驚きと感激のあまり言葉が出ない海原に、向かい側に座る「子ども達」が言う。

「お父さん、本当にお疲れ様。今日は何も気にしないでゆっくり食べて寛いでね。」
「俺達が出来るのはこの程度だけど、少しでも喜んで貰えれば嬉しいよ。」

 「子ども達」の温かい労いの言葉に、海原は目頭が熱くなってくるのを感じ、眼鏡を−老眼鏡だ−外して目をぐいと拭う。

「ありがとう。私のために・・・ここまでしてくれて・・・。」
「今まで色々迷惑かけたけど、俺達をここまで育ててくれたんだ。定年退職っていう人生の折り返し地点でせめてお祝いくらいさせてくれよ。」
「そうですよ、あなた。今まで本当にお疲れ様。さ、皆で乾杯しましょう。」
「「さんせーい!」」

 「妻」と「子ども達」はそれぞれビールをコップに注ぐ。
海原には「妻」が酌をする。海原は主役でありながら恐縮した様子で受ける。その様子を見て「子ども達」がくすくすと笑う。
全員のコップに黄金色の液体が注がれたのを確認して、男の「子ども」がコップを掲げて言う。

「それじゃ、お父さんの定年退職を労って・・・乾杯!」
「「「乾杯!」」」

 全員が唱和の後、一斉にコップのビールを飲み干す。そして空になったコップを置いて「妻」と「子ども達」が拍手する。
海原は照れくさそうに頭を掻いてはにかんだ笑みを浮かべる。

「さ、まずはお父さんからどうぞ。」

 男の「子ども」が料理を勧める。

「い、良いのか?」
「当たり前じゃない。今日はお父さんが主役の日なんだもの。」

 今度は女の「子ども」が言う。

「さ、あなた。」

 続いて「妻」にも勧められた海原は、恐る恐る舟盛のタイの活き作りに手を伸ばし、一切れ摘み取る。
そして刺身醤油に軽く浸して口に入れると、とろけるような食感と鯛独特の甘味が口いっぱいに広がる。

「うん、美味い。これは上物だ。」
「お父さんの定年退職祝だもの。良いもの用意してるわよ。ほら、どんどん食べて。」

 女の「子ども」に急かされて、海原はその他の料理にも手をつける。
綺麗に盛り付けられた料理の形を崩すのは惜しい気もするが、そうしないことには食べられないから、ここは割り切るしかない。
海原は盛り付けだけでなく、味まで見事な料理の数々を一人堪能する。

「美味い、美味い。さ、皆も食べなさい。」
「それじゃ、いただきます。」
「「いただきます。」

 海原に言われて「妻」と「子ども達」はようやく食べ始める。
これを自分が主役になっているのだと改めて感じた海原は、酔いのせいもあってすっかり上機嫌になる。
これらは全て自分が要望したプランであり、必要な金も自分が出費しているということを、海原はすっかり忘れてしまっている。
否、これは今回に限ったことではない。
「安らぎプラン」に慣れるに従い、自分が契約して金を払って実行されているサービスだということが、海原の頭の中から消えてしまったのだ。
 それに海原の頭の中には、もはや本物の−戸籍上の−家族のことは欠片も存在しない。
同じ屋根の下に住んでいたにもかかわらず、たまに顔を合わせることがあったにもかかわらず、妻も子ども達も無視を決め込み、海原も無視を決め込んだ。
完全に家庭内別居、否、家庭内離婚である。
しかし、海原にとっては本物の−戸籍上の−妻や子ども達のことなど、必要な金さえ出しておけば良いという程度のものでしかなくなっていた。
度々人相や容姿が変われど、自分の妻と子ども達は今こうして自分の隣や目の前に居る人達だ−海原はそう確信している。

「あ、お父さん。ビール、ビール。」

 男の「子ども」がビールのビンを取って海原に差し出す。海原は笑顔で酌を受ける。
そのビールを一気に飲み干して、海原は言う。

「父さんはな、お前が大人になって一緒に酒を飲むのが夢だったんだぞ。」
「あー、お父さん。それじゃ私は?」
「勿論、立派に成長した娘とも酒を飲みたかったぞ。」
「じゃあ、次は私が注ぐわね。」

 女の「子ども」が男の「子ども」からビール瓶を受け取って海原に酌をする。海原はそのビールも一気に飲み干して、大きな溜め息を吐く。
成長した「子ども達」と酒を飲み、酌を受けることに、海原は格別の感慨を感じる。

「最後は私ね。さ、あなた。」

 「妻」は女の「子ども」からビール瓶を受け取って海原に酌をする。海原はそれもまた一気に飲み干す。

「お父さん、良い飲みっぷりだね。見ていて気持ちが良いよ。」
「でも一気飲みは控えた方が良いんじゃない?」
「なあに。これくらい大丈夫だ。何と言っても、自分の妻や子ども達にお酌された酒だ。これほど美味いものはない。」
「あなたったら・・・。」

 はにかむ「妻」に、今度は海原が酌をする。

「長い間、苦労をかけたな。ありがとう。」
「あなたこそ、長い間お疲れ様。」

 熟年夫婦は互いの労を労う。
海原の定年退職祝の宴は賑やかに、そして和やかに進んでいく・・・。
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